これもまた戦後――『阿佐田哲也はこう読め?』(1)

北上次郎が阿佐田哲也論を書くのだから、面白いに決まっている。それはそうなのだが——。
 
まあともかく読んでいこう。

「阿佐田哲也の出世作にして麻雀小説という分野に金字塔を建てた『麻雀放浪記』は、昭和四十四年一月、『週刊大衆』で連載が始まった。」
 
はじめに「青春篇」、続いて「風雲篇」、「激闘篇」、「番外編」と出て、4年間で完結した。
 
その冒頭は昭和20年、焼け野原となった上野でチンチロリンの場面から始まる。

「あっという間に負けて最後の金を出す上州虎の『これがとられたら、俺ァ飢え死だ。面白えね! 博打はこれだから面白え』という威勢のいい台詞から幕を開ける。負けることが面白いという論理は、この長編の底を一本の芯として貫いている鍵だ。」
 
主人公である「坊や哲」や、兄貴分である「ドサ健」は、ときどき勝ったりするけど、描き込まれているのは、圧倒的に負けの場面だ。
 
ここが素晴らしいので、小博打で負けている庶民は熱狂したのだ。博打で負けるのは味のあることなのだ、と。
 
阿佐田哲也のもう一つの特徴は、博打を題材にした心理小説という点にある。凡百のピカレスク・ロマンと違うのは、その一点にある。
 
とはいえ『麻雀放浪記』は、もう二度とは描かれない小説である。これは全力を振り絞って、自分より強い人間と闘った男たちの物語である。と同時に、「そういう闘いが存在した時代への挽歌である」のだ。
 
この小説も、常盤新平さんの『片隅の人たち』と同じく、戦後すぐを扱ったものであり、その時代以外には存在できない人間たちのことを描いた。

そこでは人間が、食うか食われるかの死闘を演じ、食われた方は間もなく、死んでいったのだ。
 
だから大雑把に言うと、同じ博打でも、いまも盛んな競馬や競輪など胴元と争うものと、麻雀やサイコロなど人間同士が直接争うもののうち、後者は社会が整っていくうちに、徐々に寂れていったのだ。
 
すると阿佐田哲也は、だんだん書くことが無くなるではないか。そこで考えたんだね。

「すなわち『ドサ健ばくち地獄』のあと阿佐田哲也が向かったのは、『先天性極楽伝』『ヤバ市ヤバ町雀鬼伝』と続く新たなピカレスクの世界だった。それは日本には珍しいユーモアピカレスクで、阿佐田哲也にして初めて書き得た世界でもある。」

『先天性極楽伝』も『ヤバ市ヤバ町雀鬼伝』も、どちらも読んでいる。読んでいるときはどちらも、とてつもなく面白かった。しかし今は、きれいさっぱり忘れている。本当に忘れ果てているのだ。
posted by 中嶋 廣 at 16:09Comment(0)日記

渋谷百軒棚、古本屋界隈――『片隅の人たち』(2)

戦後すぐの時代は、もう忘れられていくばかりだ。常盤さんの小説には、それが色濃く漂っている。
 
渋谷百軒棚の古本屋には、そういう日々が凝縮されていた。

「その日も僕は雑誌とペイパーバックを何冊が買った。昨日見なかった本や雑誌を手にとってみた。
 そこにアメリカがあるように感じていた。渋谷百軒棚のうらぶれた路地の片すみに、薄汚れたアメリカがひっそりとある。僕はそういう印象を持ったのだけれど、それは僕の感傷だったろう。」(「夜明けの道」)
 
常盤さんでも振り返ってみるときは、感傷に彩られている、と言っている。この小説を描いた30年前でも、すでにそう言っている。
 
そのころ物価はいくらだったろう。

「推理小説誌の翻訳の原稿料は高くて二百五十円、下は百円というのが相場である。『宝石』は一律百五十円と聞いている。七十枚でも一万五百円にしかならない。僕の給料は、一万五千円たらず。若葉町のアパートの家賃は月五千円である。」(「新しい友人」)
 
今となっては物価が違いすぎて、どのくらいつましい暮らしをしていたのかは、わからない。
 
この若葉町の一間のアパートで、常盤さんは女優の卵と、新婚の所帯を構える。それは困窮しているということはないけれど、ぎりぎりのつましい暮らしである。
 
このアパートに決めるについては、「僕」は上司の「加藤さん」と、こんな話をしている。はじめは別の場所にある、二間のアパートに決めていた。

「そのことを四月から僕の就職先の上司となる加藤さんに話すと、たちまち反対された。
『どうやって食ってゆくのか』
 加藤さんは、生意気だと言わんばかりの口調だった。
『もっと安いところを探せよ。二間なんて贅沢だと僕は思う。結婚生活はすべからく一間から出発すべきだよ』」(「引越し」)
 
たしかにそういう時代だったのだ。
 
私の両親は、昭和20年代に大阪で所帯を持った。それは一間きりで、夕飯は毎日、コロッケだと言っていた。だからもうコロッケは食べたくないの、と後に母親が言っていた。私が生まれてからも、しばらくそこにいたらしい。
 
貧しくとも、それはみんなそうだったから、幸せだったのだと思いたい。
 
両親はどちらも、90歳を越えるまで生きた。最晩年はお互いにひどく不幸だったが、最晩年のみで、二人の一生を測りたくはない。少なくとも、六畳一間の新婚は、幸せであったと思いたい。
 
常盤新平さんの本を読んでいると、自然にそんな空想を抱いてしまう。

(『片隅の人たち』常盤新平、中公文庫、2021年1月25日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:59Comment(0)日記

渋谷百軒棚、古本屋界隈――『片隅の人たち』(1)

常盤新平さんは自伝的な小説、『遠いアメリカ』で直木賞をもらった。1987年のことだ。
 
これは常盤さんが大学を出るか出ないかのころ、戦後すぐの昭和20年代、翻訳者になろうとして、なかなかなれなかったころを描いた。
 
この時代を、もっと書いてみないかと、『海燕』の編集者に言われて書いたものが、この連作短編集だ。

『遠いアメリカ』は、主人公の僕と恋人の女優の卵のことが、中心を占めていたが、『片隅の人たち』では、そこから広げて、ひと癖もふた癖もありそうな、さまざまな人が登場する。
 
そこには、実在の人物も多く現われる。
 
最初の「翻訳の名人」の冒頭近く。

「暑い日だったにちがいない。カウンターだけの細長いその喫茶店のドアが開いていて、奥にちょび髭をはやした、全体に丸い感じの植草甚一さん、真中に三つ揃いの吉田さん、手前に『EQMM』の編集長、都築道夫さんがすわっていた。」
 
植草甚一や都築道夫は、もちろん実在の人物、「吉田さん」だけが小説中の人物である。

「僕」は『遠いアメリカ』と同じく、翻訳家の卵である。少なくとも「僕」の自覚的な意識はそういうものだ。そこに不安が押し寄せてくる。

「いつまでも下訳をつづけて、結局プロになれなかったらどうするのか、と僕はいつも考えていた。それに、翻訳なんてまともな職業じゃないと思ってもいた。まともな人間のやる仕事ではない。大学院で真面目に勉強をつづけたほうがはるかにいいとなんど思ったことだろう。父からの仕送りで生活には困らなかったが、僕は世の中からはずれていた。どん底にいるような気がしていた。」(「初夏のババロワ」)
 
そういう頃のことだ。
 
これは仮に、いまでも20代の人であれば、同じ不安を抱えているかもしれない。
 
しかし時代が違う。渋谷の百軒棚で、「僕」が行きつけの古本屋をやっている、碇(いかり)さんともう一人のおじさんがいた。

「〔この二人の〕まだ引揚者のような、よれよれの服装は薄暗い陰気なバラックの古本屋にふさわしく、いかにも時代遅れだった。あるいは二人とも意識しないでといおうか、心ならずもというか、時代に背を向けていたのかもしれない。」(「黒眼鏡の先生」)
 
こういう人たちが、昭和20年代には、普通にいたに違いない。あるいは、前を見ている人の数は少なく、こちらの「時代に背を向けていた」人の方が、多かったのかもしれない。文学作品はとうぜん後者の方を描く。そこに典型を見出しやすかったのだ。
posted by 中嶋 廣 at 11:28Comment(0)日記

これはちょっとズルい——『沈黙の町で』

奥田英朗の3部作、『家日和』『我が家の問題』『我が家のヒミツ』が面白かったので、続けて長編も読んでみる。
 
これは朝日新聞に連載中から、評判の高かったものだ。
 
いじめを受けていた中学生が、テニス部の部室の屋上から転落死する。初めは事故と見えたものが、あるいは自殺か、または殺人か、というふうに、見方がどんどん変わっていく。
 
小説の視点は重層的である。まず学校の教師たち、これも校長、教頭、主任、平教師では立場が微妙に違う。
 
そして転落死した男の子と、直前まで屋上にいたテニス部員4人、さらにその家庭のようすは千差万別で、そこを抉っていく奥田英朗の筆致は鋭い。
 
また警察の捜査を丹念に追い、そこへ魅力的な女の新聞記者が絡む。
 
どのシーンもそれぞれに迫力があり、いったんページを繰り出すと、単行本500頁があっという間だ。本当にうまいものだと感嘆する。
 
しかしこの小説には、明白な欠陥がある。
 
ここからはネタバレと言われるかもしれないが、そこを回避しては、この本の批評ができない。
 
謎の中心には男の子の転落死があるが、それは最後から2ページ目で、事故であることがわかる。
 
それを知っているのは2人、とくに市川健太という男子は、重層するこの小説で、主人公と言ってもいいくらいだ。
 
大人たちの思惑が複雑に絡まり合って、その中でなお市川健太は、その絡まり合った利害関係を理解し、苦悩する。
 
しかし本当に苦悩したなら、見たままを告白すればいいのだ。もう1人の秘密を知る子は、ついに病を得て入院するではないか。それを放っておいては、主役の名が廃るというものだ。
 
全部を読み終わってみれば、これはアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』の、変形であることがわかる。

『アクロイド殺し』では、話者が犯人だった。だから推理の興味は、この話者の、叙述の矛盾を突くことに集中する。これはこれで、めっぽう面白い。
 
では『沈黙の町で』はどうだろうか。これは作者が、わざと真相を糊塗しているので、後ろめたい感じが残る。もっと言ってしまえば、インチキくさい。
 
それぞれの場面が迫真的であり、さすがに全部を読んで、金返せ!、とは言わないものの、ガッカリしてしまうのはしょうがないことだ。

(『沈黙の町で』奥田英朗、朝日新聞出版、2013年2月28日)
posted by 中嶋 廣 at 00:20Comment(0)日記

健在、ショージ君!――『マスクは踊る』

東海林さだおの「男の分別学」のエッセイと、「タンマ君」の漫画を、交互に抱き合わせにして目次とする。「男の分別学」は『オール讀物』、「タンマ君」は『週刊文春』の連載である。
 
東海林さだおの文章を読むのは、本当に久しぶりだ。もう80歳にならんとし、癌も患ったことだから、文章も衰えているだろうな。東海林さだおの本を読むのも、多分これが最後だと思って購入した。
 
で、たとえば、「日々是忙日・安倍晋三日記」を読んでみる。これにはサブタイトルに「首相の毎日は分刻み」とある。
 
安部首相の日記は、新聞各社が書いている。朝日「首相動静」、読売「安倍首相の一日」、毎日「首相日々」、産経「安倍日誌」とあって、首相の一日を分刻みで、朝から夜まで逐一報告している。

「【午前】7時1分、公邸発。2分、官邸着。10分から8時20分、西村康稔官房副長官。24分から32分、閣議。33分から45分、西村氏。49分、官邸発。50分、国会着。52分、衆院第1委員室入る。53分から56分、麻生太郎副総理兼財務相、茂木敏充経済再生担当相。9時、衆院予算委員会開会。」(2月5日、産経「安倍日誌」)
 
面白くないから、書き写すだけでも一苦労だ。もちろん首相関係者以外は、読むことはない。

「ここまでが『午前の部』で行数にして9行、このあと『午後の部』が33行。
 部屋を出たり入ったりまた出たり。
 人に会うこと午前中だけで20人以上。
 何とまあ目まぐるしい1日であることか。
 そして何とまあ面白さに欠ける1日であることか。」
 
ショージ君も、同じ感想を述べている。問題は、これが来る日も来る日も、続くということだ。

「この日以外の各紙の『首相の一日』蘭を読んでも内容はほとんど似たりよったり。
 毎日毎日、部屋を出たり入ったり、車に乗ったり降りたり、人に会ったり挨拶したり。
 ここで政治家の実務とは何かということを考えざるをえなくなる。」
 
ショージ君、全然衰えてないです。この人のこういう文体は、こしらえたものではなく、天性身についたものだったのだ。

「各紙の『首相の一日』を読んでいると、政治家の実務とは動きまわって『人に会うこと』であり、『部屋を出たり入ったりすること』であるような気がしてくる。
 それ以外のことはしてないのだ。」
 
東海林さだおは衰えるどころか、昔と違って、真っ向唐竹割ですね(いや、これがむしろ衰えたということか)。
 
僕もこの点については、かねがね首相には政治家の実務がないなあ、と思っていたのだ。
 
今の菅首相については、テレビの画面を左から右に、一族郎党(?)を引き連れて歩く以外は、何もしていないんじゃないかな。
 
ときどき演説、スピーチみたいなこともするけど、これも役人の作文を読んでいるだけだし。とにかく実務という実務は、見事に何も無しだ。

『マスクは踊る』は、こういうエッセイが12本と対談が2本、それに「タンマ君傑作選」が13本入っている。
 
きっと衰えているだろうな、などと大変失礼なことを申し上げました。東海林さだお先生、すみません。

(『マスクは踊る』東海林さだお、文藝春秋、2021年1月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:41Comment(0)日記

故人が思わず甦る—―『Editorship 6 追悼・長谷川郁夫』(4)

長谷川郁夫さんのインタビューの後に、「小沢書店刊行目録」が、34ページにわたって掲げられている。

1ページの上段に、実物の装丁(ジャケット)を4点から3点入れ、下段に縦組みで目録を並べてある。下の目録の中から、上段の実物見本が選ばれている。
 
1972年の神品芳夫『リルケ研究』から、2000年の小田三月編『三笠山の月 小田獄夫作品集』までを眺めていると、飽きるということがない。

装丁見本と目録を交互に眺めていると、長谷川さんの手作りの意匠が、深いところでじわりと分かってくるような気がする。目録をこんなふうに見せたものは例がない。
 
最後に一つだけ、余計なことを書いておく。それは、長谷川さんはなぜ、癌の治療を積極的に行わなかったのだろう、ということだ。
 
それは、中沢けいさんの追悼文、「熱海に長谷川郁夫さんを見舞う」の中に、はっきりと書かれている。

「目元におできができたと電話をもらったのは二〇一五年の春だった。NHKの番組の収録予定があるので、おできをなんとかできないかなと言うので、医者へ行けば簡単に切ってくれることもあると返事をした。目元のできものは病院ですぐに切除してもらった。で、また電話である。『切除したものを検査に回したら悪性だったというんだ』と電話口で、他人事のように言う。」
 
長谷川さんは、なぜ自分の癌を、他人事のように言ったのだろう。

「それでも電話をかけてきたのだから、気になっているのだろうと、受診を勧めたのだが、今度はがんとして拒否する。『医者の言うことなんかあてにならない』と主張する。」
 
私は2014年の脳出血の後、2015年か6年に一度だけ、長谷川さんと電話で話をしている。

そのとき何をしゃべったかは、忘れてしまった。すくなくとも癌の話はしなかった。しかしその頃には、自覚症状はあったと思う。
 
私は、長谷川さんは自覚的に治療を拒んだ、と思っている。でも、どうして治療を拒否したのか。
 
長谷川郁夫さんは、人生を二度生きた。一度目は小沢書店社主として、二度目は優れた評伝の執筆者として。それは一度目も二度目も、比類なき人生だ。
 
あるいは小沢書店を潰したことを、なお心の呵責と感じていたのか。

かりに私がトランスビューを潰したなら、その重みは、たぶん生きてる間じゅう、心の中に重石となって沈んでいくだろう。

長谷川さんは、これでもう桎梏から逃れられる、と思ったのかもしれない。それはわからない。
 
結局のところ、どう考えたらいいのか、よくわからない。でも、あのはにかむような、そしてときどき遠いところを見るような、長谷川さんの眼を、気がつくと思い浮かべている。

(『editorship 6 追悼・長谷川郁夫』
 日本編集者学会、田畑書店、2021年5月31日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:22Comment(0)日記

故人が思わず甦る—―『Editorship 6 追悼・長谷川郁夫』(3)

長谷川郁夫さんは、「小沢書店とは何だったのか」というインタビューの中で、じつに様々な、ときには思い出したくないことまでも思い出して、しゃべっている。
 
その中心は、著者たちのことであり、企画のことである。吉田健一のことなどは、神保町のランチョンで毎週一回、編集者たちに囲まれている、というところから幕が開く。長谷川さん本人の口から、それが明かされるのだからたまらない。
 
そういう本筋のこととは別に、装丁にこだわった話も出てくる。

「ただ装丁のことも思い出したくないの。なんで函入りにこだわったのかなとかね。こだわりすぎたという気持ちが強い。軽快なカヴァーで、もっと革新的なことができたんじゃないかと思うことが多くて。何冊かは自分でも上手くいったという達成感みたいなものがあるにはある。でも難しいところですね。何に抵抗していたのかな、と思うくらい。いまはあまり感心しないという気持ちです。」
 
ここは微妙だ。現場で仕事をしているとき、長谷川さんには、自分の手で最高のものを作るというこころざしがあったと思う。
 
今では函入りの本は金がかかる。売れ行きにはほとんど関係がない。いや、むしろ函入り本はお高くとまっていて、かえって売りにくい。
 
たとえば新潮社の「書下し特別作品」などという函入りの本が、昔は頻繁にベストセラーになっていた。
 
しかし30年ほど前からは、そういうことは無くなった。その時期に、小沢書店は函入りに拘ったのだ。それは遅れてきた分、かえって典雅に見えた。
 
しかし長谷川さんは、それはもうよかったんじゃないか、と言っているのだ。私は考え込まざるを得ない。
 
また、その時代の編集者の生態に関して、面白い観察もある。

「例えば編集者たちと一緒に、ある著者と飲むとするでしょう。あの時代の編集者というのはみんな明け方まで飲みますからね。先に帰るわけにはいかないでしょう。先に帰ったらよそに決められてしまうかもしれないから。だから最後まで残っているとかね。そういうことの連続でした。ますます思い出したくない状況に(会場 笑)。」

「先に帰るわけにはいかない」、まったくその通りだった。とにかく著者と直接会わなければ、ものごとを前に進めることはできなかった。そしてみんなが帰り、自分が最後になるまで残り続けること。そのときの極意はそれだった。

あーあ、本当に何をしてたんだろうねえ。でもそれはそれで、実に面白かったのだ。
 
今は初対面の著者と会うことはあっても、それ以後のやり取りは、たぶんパソコンやケータイで済ませるのではないかな。

万年筆で手紙を書くなんていうのも、ひょっとしたら、古代の遺物かもしれない。今はとにかくメールだろう。

しかしこの古代の遺物は、逆に原稿催促の方法としては、強烈な武器になるかもしれない。
posted by 中嶋 廣 at 09:26Comment(0)日記

故人が思わず甦る—―『Editorship 6 追悼・長谷川郁夫』(2)

『Editorship6』は、大槻慎二さんが〈編集後記にかえて〉で書いているように、心血を注いだ仕上がりになっている。
 
追悼集といえば、近しかった人が、しばしば当たり障りのない文章で、お茶を濁すものだが、これは全く違う。私の文章など、枯れ木も山の賑わいにすぎない。
 
何よりも長谷川郁夫さんの「単行本未収録原稿」がたっぷりあり、その中には内田魯庵を巡って、山口昌男と対談までしている。その司会は、なんと坪内祐三である。

今では3人とも、もういない。突然その3人が消え去ると、世の中がつまらなくなり、薄っぺらなものになる、そう思いませんか。
 
それはそれとして、この未収録原稿は、「内田魯庵論」「辻野久憲」「水の女——「大菩薩峠」のお雪」の三本。
 
しかしこの本の中心は、実はそこにはない。
 
2011年に行われた「小沢書店をめぐって——長谷川郁夫インタビュー」が、この本の中心である。
 
インタビュアーは、秋葉直哉さんという若い人である。この人は長谷川さんにインタビューしたときには書店員で、今は「図書新聞」で働いている。
 
書店で働いているときに、「小沢書店の影を求めて——1972~2000」という、今はもうない小沢書店の目録を作り、それを配って小沢書店のフェアをやった(とはいえ流通していない本で、どうやってフェアをやるんだ?)。長谷川さんや私に会う前のことである。
 
長谷川さんは小沢書店を舞台に、書物の極北の価値を実現していた。並ぶものがなかった。

そういう会社を倒産させたのだから、長谷川さんは、できれば人前で、とくに聴衆のいるところで、小沢書店の話はしたくなかった。

しかし秋葉直哉さんは実に柔らかに、小沢の本の秘密を、長谷川さんから聞き出している。

「長谷川 ある雑誌から小沢書店について対談をしていただきたいという依頼がありました。でもすぐにお断りしたんです。倒産して負債をかかえたわけですから、のうのうと小沢書店のことをお話しするということはできないと。それでまたこういうふうに誘われたわけですが、秋葉さんが聞き役になってくれるということで、好青年を傷つけてはいけないなという気持ちになりまして(笑)。」
 
長谷川さんは、やはり臆するところがあったのだ。しかしそれでも、とにかく聴衆の前に出てきてしまった。

「これから秋葉さんに聞き役になってもらって、思い出せる範囲でお話ができたらと思っております。」
 
秋葉直哉氏という聞き手を得なければ、長谷川さんは、小沢書店については、たぶん黙って、墓場まで持っていったことだろう。
posted by 中嶋 廣 at 09:24Comment(0)日記

故人が思わず甦る—―『Editorship 6 追悼・長谷川郁夫』(1)

これは私も書いている。まずその一文から。

「   〈長谷川さんは、骨の髄まで編集者だった〉

二十代の終わり、新宿の酒場「英(ひで)」の音頭で宝川温泉に行ったとき、行きのバスの中で、はじめて長谷川郁夫さんに会った。四十年くらい前のことだ。

貸し切りバスでカラオケの一発目に、小林旭の「恋の山手線」を歌ったのを聞いて、ブッ飛んだ。学生のとき以来、それまで小沢書店といえば、端正な本づくりで知られていたから。

そのころ私の本棚にあった本といえば、宮川淳『紙片と眼差とのあいだに』、豊崎光一『余白とその余白または幹のない接木』、那珂太郎『萩原朔太郎その他』、吉田健一『詩と近代』などである。

「恋の山手線」に一発でイカレた私は、それから頻繁に長谷川さんと飲んだ。仕事で迷いが生じるたびに、長谷川さんに相談した。なかでも三十代初めに筑摩書房を辞めるときには、もう出版の世界には戻らないつもりで、長谷川さんと最後の意味を込めて飲んだ。
 
そのころ私は、自前の企画であるユングの『変容の象徴』や、ミルチャ・エリアーデの『世界宗教史』(全四巻)を、原稿ができた段階で取り上げられていた。

長谷川さんは、英、アンダンテを回りながら、出版を棄てるな、文学を棄てるな、と言い続けた。私は意を翻し、法蔵館・東京事務所に職を得、その後トランスビューを作った。そのいきさつは浮いたり沈んだりの繰返しであり、長谷川さんは長谷川さんで、小沢書店社主から大阪芸大の教授に転身した。そこにもまた苦闘の痕があり、話せば長い物語になる。

長谷川さんと私の付かず離れずの関係は、語りだせば切りはないが、ここでは最後の著作、『編集者 漱石』に至る道をたどっておこう。

その少し前に長谷川さんは「日本編集者学会」を発足させ、自ら初代会長に就いた。私は彼に言われて副会長を引き受けた。しかし編集者学会が何を意味するかは、この時の私にはまるでわかっていなかった。

その少し前に私は、元岩波書店の秋山豊さんの『漱石という生き方』を出していた。秋山さんはそのとき最新版の『漱石全集』の責任者だった人であり、その著書は現れてすぐに、全国紙で柄谷行人、養老孟司、出久根達郎といった人びとに、驚きをもって迎えられた。

長谷川さんは『漱石という生き方』を読んだ上で、こんど編集者としての漱石を描こうと思う、それには夏目鏡子の『漱石の思い出』も重要な役割を占めることになる、と語った。それは秋山さんが、悪妻鏡子には文学者漱石の片鱗さえ分からないものとして、一顧だにしなかったものだ。私は秋山さんの立場から、強い危惧を述べた。

それから何年かたって『編集者 漱石』が出て、ランチョンで出版記念会が行われた。私は会が終わるとすぐに、帰って読み始めた。それから何日かで読み終え、しばらくはただ呆然としていた。

長谷川さんだけが、編集者という立場から、透徹した眼で漱石を見ることができたということだ。文豪という地位に収まりかえった漱石に、編集者という光を当てれば、まったく違った光景が見えてくる。「すぐれた文学者は、誰れもが自らのうちに編集という機能を備えている」という冒頭の言が、骨の髄まで分かっているのは、実に長谷川郁夫さんしかいなかったのである。        (なかじま・ひろし 元トランスビュー代表)」

『Editorship〈エディターシップ〉』は、その「日本編集者学会」の機関紙であり、長谷川さんが創刊し、私が初代編集長を務めた。
posted by 中嶋 廣 at 18:39Comment(0)日記

3部作の掉尾を飾る——『我が家のヒミツ』

奥田英朗の3部作、『家日和』『我が家の問題』ときて、掉尾を飾るのが『我が家のヒミツ』。
 
3部作とはいえ、3作とも微妙に力点が違う。『家日和』『我が家の問題』は、それぞれの力の入り具合をブログに書いた。
 
3作目が、いちばん読み応えがある。全部で6篇が収録されている。

「虫歯とピアニスト」は、歯科医院に勤めている31歳の女が、姑からの子どもを作れというプレッシャーに、どう対処していくか、そのころ診察に来たプロのピアニストに、どういうアドバイスをもらったか。

「プランAしかない人生は苦しいと思う。一流のスポーツ選手、演奏家、俳優たちは、常にプランB、プランCを用意し、不測の事態に備えている。つまり理想の展開なんてものを端から信じていない。理想を言い訳にして甘えてもいない。逆に言えばそれが一流の条件だ。だから人生にもそれを応用すればいい。あなたも……」
 
このピアニストはあるとき姿を消して、10年に渡る謎の空白があった。
 
一方、この女の夫も、啖呵を切って、実の母から女房を守ろうとする。
 
という具合に、短篇ではあるけれど、登場人物の彫りが深くて、自ずとコクがある。

「正雄の秋」は、53歳のビジネスマンが、出世競争の果てに、あと一歩のところで敗れ去る。第一線で活躍してきた男には、これから先は空白である。それがライバルの父親の葬式をきっかけに、相手の地元を訪れ、ひょんなことから晴れやかな気持ちになっていく。

「アンナの十二月」は、16歳のアンナが、母と離婚した実の父に会いに行く話。母は再婚して、アンナは新しい父とも仲良くやっている。

しかし実の父は劇団を主宰し、いくつもの賞を獲っている、その世界では有名な人だった。アンナはすぐに彼に夢中になるが、やがて冷静さを取り戻し、大人としての距離を取るようになる。

「妊婦と隣人」は、産休中の32歳の女が、隣りのマンションの怪しい外国人の男女に、妄想を逞しくする。やがて妄想と見えたものは、現実の世界に侵入してきて、女は間一髪で助かる。しかしメディアは、それを取り上げることはしない。
 
最後の「妻と選挙」は、小説家・大塚康夫一家の物語である。これまで、『家日和』では「妻と玄米御飯」、『我が家の問題』では「妻とマラソン」として、取り上げてきたものだが、こんどは妻が、市会議員に立候補すると言い出す。
 
人気作家の夫に対し、自分の居場所を模索してきた妻は、玄米御飯やロハス、またマラソンに夢中になってきたが、こんどはいよいよ広く社会に目覚めたのだった。
 
この3部作はどれも面白いが、しいて言えば、3作目がいちばん面白かった。奥田英朗は、掛け値なく面白い。

(『我が家のヒミツ』奥田英朗、集英社文庫、2018年6月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:19Comment(0)日記