奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(15)

79年は他に『復活の日』(80)が入っている。深作欣二監督とは始めてで、小松左京のSF小説を映画化したものだ。これは7カ月間、世界各地でロケをやり、長期ロケでスタッフの人間関係、とくに深作監督と木村大作キャメラマンの仲が、決定的に悪くなった。
 
しかし数年後、木村大作から、深作監督に誘われて京都へ行ってくる、と言われびっくりしたという。映画は『家宅の人』(86)だった。
 
紅谷さんにとって、深作監督はこういう人だった。

「紅谷 精力的な監督だなあという印象でした。食欲も旺盛で、刺身とカツフライがあったら、カツフライを食べるような人です。とにかくエネルギッシュで、自分で動きながら大声でスタッフや俳優に注文を出していく。(中略)ただ音に関しては何も言ってこなかったですね。映像に関しては結構悩んでいました。木村大作キャメラマンがいろいろ言われるのが嫌いなタイプだから、この辺も難しい問題だったんですね。」
 
刺身とカツフライがあればカツフライ、いかにも『仁義なき戦い』を撮るのにふさわしい、というかあれは深作監督の内面のドラマを、リズムを付けて描いたもの、という気がする。
 
この仕事で紅谷さんは、毎日映画コンクール録音賞、日本アカデミー賞最優秀録音賞、日本映画・テレビ技術協会の技術賞など、多数の賞を受賞した。
 
しかし僕は、このSF映画を見ていない。
 
紅谷さんは『復活の日』を最後に、日活を辞める。

「紅谷 正直言って不安でしたが、角川映画の『スローなブギにしてくれ』(81)がすでに決まっていて、ほかにも〔中略〕次々に依頼がありました。3月には森谷司郎監督の『海峡』(82)の話があって、5月に今村昌平監督の『楢山節節考』(83)、7月には蔵原惟繕監督から『南極物語』を頼まれました。」
 
まさに前途洋々たるものがある。
 
僕は大学を出て、1978年、筑摩書房で働き始めた。3月から働き始めて、7月に倒産し、会社更生法を申請した。初任給は14万円のところが、4万円になった。映画を見るどころではない。比喩ではなく、飯も食えない。だからここからは、僕の見てない映画がほとんどである。
 
紅谷さんは、ロケも含めて10ヶ月、休みなく働き通して、映画は完成する。

「紅谷 仕事というのはどんな状況でもやるんですけれど、この映画の場合は精神的に耐えることが大きなテーマになっていった気がします。何か座禅を組んで修行しているような日々でしたね。」
 
これは『神々の深き欲望』を思い起こさせる。
 
日活を辞める前から、角川映画の『スローなブギにしてくれ』(81)が来ていた。これは藤田敏八監督で、浅野温子が4本目の映画で出ていた。

紅谷さんはここで、浅野温子に語るかたちで、セリフの重要な要素を説いている。

「紅谷 例えば三行のセリフがあるとするでしょう。それを全部明瞭にしゃべろうとすると、どこかで雰囲気を失ってしまう。だから、その中で大事なセリフを選んで、ほかの部分は雰囲気をこわさないように言って、大事なセリフだけ明瞭にしゃべっていくと、うまくつながっていくんだと。僕が言っていることは演技の邪魔にはならないと思うんですよ。果たして浅野温子は僕が言ったことを分かってくれたのかどうか。それ以降は、だいぶセリフが分かるようになりましたけれど。」
 
しかしこれも見た人によっては、浅野温子のセリフは聞き取りにくかったという。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(14)

79年に映画製作会社、キティ・フィルムが作られて、紅谷さんは、その第1作『限りなく透明に近いブルー』を担当する。

「紅谷 何せ監督が原作者の作家・村上龍さんで素人ですからね。村上さんは、言うことは奇抜で面白いんですが映画の音にならないんです。予想もしない変なところで大砲の音を入れてくれという注文があったんですが、こっちはなぜそこに大砲の音なのか訳が分からない。『ここに、何かほかの音は入りませんか』と聞いてくれれば、僕としてもいろいろ発想するんですが、最初から大砲の音といわれるとね。これはもう、思考がまったく違うと思いました。」
 
そういうわけで、村上龍とはこれ1本だけである。
 
キティ・フィルムの仕事が続いて、その中に長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』(79)があった。
 
これは最初の脚本では「笑う原爆」という題で、中学校の理科の教師が、プルトニウムを盗んで原爆を作り、日本政府を相手にさまざまな要求をする。プロ野球のナイターは途中で打ち切らず、試合終了までやれ、という要求もあったな。

主演は沢田研二で、相手役の刑事は菅原文太だった。刑事の役は、高倉健に断られて文太にまわったという。沢田研二は、監督の言う厳しいこと、危ないことを、素直によく聞く好青年で、文太も一生懸命やっていた、と紅谷さんは言う。しかしこの映画には、いくつか困難があった。
 
まず、許可の下りそうもないロケ地が多かった。

「紅谷 確かにロケ地は、許可が下りない場所が多い。そこはゲリラ撮影でした。皇居前とか、端から撮影許可が下りないと分かっている場所に関しては、下手に撮影交渉をすると目を付けられますから、盗み撮りで行くと決めていました。(中略)そんなとき僕のような音の担当者は、ロケバスの中で待機していました。」
 
スリルはあるが、なかなか大変そうである。

「紅谷 渋谷の東急百貨店本店の屋上から一万円札をばらまくシーンは、警察に捕まって拘置所に入る要員として助監督の相米慎二が待機していました(笑)。彼はいつも歯ブラシと洗面用具を持っていて、もし警官が来たら『はい、どうぞ』と捕まる準備をしていたんです。」
 
そこは何とかなったが、もう一つの問題は、当初の予定よりも撮影が大幅に伸びたことである。

「紅谷 すべての原因は監督です。原爆製造、バスジャック、カーチェイスなど、いろいろな要素を盛り込んだ脚本を、整理しきれないままクランクインしたので、現場に入っても脚本が縮まらないんです。〔プロデューサーに〕文句を言われてもゴジは唸っているばかりで、ペースは上がらない。かといってどこかのシーンをカットするなんて器用なことができる監督ではないので、とにかく全部撮ったんです。」
 
そして編集段階で、1時間分はカットしたという。
 
僕の学生時代、冬樹社という出版社から、『カイエ』という雑誌が出ていた。青土社の『ユリイカ』とよく似た雑誌で、それが「映画の現在」というような特集をした。
 
そこに長谷川和彦が、正確なタイトルは忘れたが、「明後日のヒーローを求めて」という文章を書いていた。それは中上健次の「蛇淫」を映画にする、ということを書いたもので、これが『青春の殺人者』になる。
 
僕は感心した。文章が思いっきり弾けていて、何度も何度も読んだ。それから数年たたずに、『太陽を盗んだ男』の登場である。映画界は強烈なヒーローを生み出した、と思った。

だが、それきりだった。何年も、僕らはただ待っている。

「紅谷 ロサンゼルスで〔『復活の日』を〕撮影しているときにゴジから手紙が来て、作品の評判はいいんだがお客の入りが悪いと書いてありました。実際に観たら、発想は面白いし、作品もなかなかいい。でも興行的には当たらなくて、予算もかなりオーバーしている。この後、ゴジは監督していませんが、現場の状況や興行の結果を見ると次はなかなか難しい。またゴジ自身もこの映画を超えようと構えてしまって、足がすくんで次にとりかかれない感じだと思いますね。」
 
長谷川和彦さんとは、10年以上前に新宿の酒場であった。酒場では武闘派、という噂も聞いたが、実際に会ってみると、繊細で、相手をそらさぬ気遣いがあった。ただ一度の邂逅だけれど、忘れられない。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(13)

角川映画は、横溝正史原作の『犬神家の一族』(76)で日本の映画界に参入してきた。原作本と映画をメディア・ミックスした宣伝は、大きな効果を上げた。

『人間の証明』は、ジョー山中が歌う主題歌を使ったTVスポットが、絶大な効果を上げ、「母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね」は、聞いたことのない人はいなかった。映画の配給収入は22億5000万円で、日本映画で歴代2位の大ヒットを記録した。
 
このころにはもう、撮影所システムが壊れつつあって、「インディペンデントの作品は一本ごとにスタッフを集めていて、各撮影所の枠内で映画を作るということではなくなっていました。」

そこで『人間の証明』では、こんな人が集められていた。

「紅谷 佐藤純彌監督とプロデューサーの吉田達さん、美術の中村州志さんが東映、撮影の姫田真佐久さん、照明の熊谷秀夫さん、録音の僕が日活という混成部隊になっていたんです。」
 
ここでは註から、2人の人物を挙げておく。

「中村州志(修一郎) 1927~2017。美術監督。48年に東映入社。55年に美術監督になり、『ジャコ萬と鉄』(64)、『非行少女ヨーコ』(66)、『新幹線大爆破』(75)、『人間の証明』(77)、『動乱』(80)、『麻雀放浪記』(84)、『マルサの女』(87)などを担当した。」
 
僕はこの人を知らなかったが、ここに挙げられた映画はほとんど見ている。

「熊谷秀夫 1928~2013。照明技師。48年、大映京都撮影所に入り、56年に日活へ移籍。58年から照明技師になり、『非行少女』(63)、『けんかえれじい』(66)、『無頼』シリーズ、『人間の証明』(77)、『太陽を盗んだ男』(79)、『セーラー服と機関銃』(81)、『学校』(93)、『さくらん』(07)などを担当した。」
 
こういう人の業績を読むと、映画を違った側面から見ることができるような気がする。
 
ただし僕は『人間の証明』を見ていない。これは映画館だけではなく、テレビでやっているのも含めて見ていない。どうしても見る気がしないのだ。
 
紅谷さんも、自分が参加した映画ではあるが、こんなふうに注文を付けている。

「紅谷 お客は入っているけれど、脚本だって決して完成されていたとはいえない状態だったし、反省しなければいけない部分もあったと思いますよ。でも自分を取り巻く状況としては、大きく変わってきたという実感がありました。そこにほのかな希望が見えてきたような気がしていたんです。」
 
たとえ大当たりを取ったとしても、反省すべきはする、というのが紅谷さんの姿勢である。このへんは、勝った将棋も必ず反省から入る、藤井聡太と似ている。ちなみにこのときの脚本は松山善三で、この人は松竹の映画監督としても有名である。
 
また音の仕上げを、当時としては最先端のマグネット4チャンネル・ステレオ方式でやっているが、このやり方は普及しなかった。そのうちに2チャンネルを、疑似4チャンネルに再生できる技術を、ドルビー社が発明して、ドルビー・システムが一般的になっていった、と紅谷さんは懇切に説明するのだが、僕にはまったく分かりません。

『人間の証明』公開初日に、プロデューサーの角川春樹から、次回作『野生の証明』(78)の録音技師を依頼された。
 
この映画ではオーディションで、後の角川映画を代表するスター、薬師丸ひろ子が選ばれている。
 
紅谷さんにとって大きかったのは、この映画で高倉健と会ったことである。このあと何本も仕事をすることになるが、最初に会ったときの印象は鮮烈だった。

「紅谷 いきなりロケ現場で会いましたが、健さんは本当に礼儀正しい。それと、思わずこちらもピンと背筋を伸ばして直立不動になってしまうようなオーラがある。(中略)撮影が始まって最初のカットのテストで健さんに『セリフが分かりにくいです』と注文したら、にらまれました。」
 
いやあ紅谷さん、相変わらずやってますな。

「紅谷 僕はその次のセリフも分かりにくかったので、二回目の注文を出したんです。そしたら健さんに三白眼でにらまれて、怖かったですよ(笑)。東映では録音技師にセリフの注意なんかされたことがなかったんでしょうね。」
 
高倉健はこのとき、信頼するに足る録音技師に出会ったと思った、と思うのだ。人は己れの力量に応じて、仕事をする人を選んでいる。車谷長吉の言う、貫目の問題である。
 
僕はこの映画も見ていないし、今に至るも、あまり見る気はしない。もちろん、映画を巡る話は面白いと思うけども。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(12)

74年に藤田敏八監督の一般映画が、立て続けに入ってくる。『赤ちょうちん』(74)、『妹』(74)、『バージンブルース』(74)、秋吉久美子主演の三部作である。
 
僕は『赤ちょうちん』と『妹』を見ている。『赤ちょうちん』の脚本は、中島丈博と、当時は新人の桃井章である。桃井さんは妻の田中晶子の親友で、僕らが結婚するとき、さんざんお世話になった。本当にこれは、感謝してもしきれない。

『赤ちょうちん』は名作だった。

「紅谷 秋吉の役は、鶏肉が食べられないという設定なんですけれど、心を病んでから揚げの鳥をむさぼるように食べるシーンがある。その食べる音は鳥の骨を断つようなポリポリとした音にして、強調してあるんです。パキさん〔藤田敏八監督〕はそういう僕の考えに乗ってくれたし、監督からもアイデアが出てくると、こちらも採用する。そうやって監督と技術者との信頼が出来上がっていくんです。」
 
紅谷さんは、この映画のサウンドデザインで、藤田敏八監督と「感覚がピッタリ合った感じがして」、ここからはほとんどの藤田監督の一般映画を担当することになる。
 
とはいっても、日活の主力はロマンポルノである。

「紅谷 この頃は落ち込みましたね。またロマンポルノはタイトルがどれもどぎついでしょう。『今、何の作品をやっているんですか』と人に聞かれても、言えないような題名ばかりなんです(苦笑)。会社の雰囲気も、そんな題名の付け方に文句を言う感じすらなくて、全体的に慢性的になってきて、このままでは会社がつぶれかねないという状況になっていましたから。」
 
僕は紅谷さんがやった中では、『東京エマニエル夫人』(75)を見ている。主演の田口久美に興味はなかったし、なんでこの映画を見たのかは分からない。学生で暇を持て余していたんだなあ。
 
紅谷さんも、これは潮時かなと考えたりしたのだが、会社が辞めさせてくれなかった。
 
75年には、今村昌平が学院長を務める、横浜放送映画専門学院が開校する。これがのちの日本映画学校になり、今は日本映画大学になっている。

「紅谷 今村さんから開校式では挨拶をしてくれと頼まれたので、これは行かないといけなかった。その後も実習のときに、こちらの手が空いていると呼ばれて手伝いに行きました。だから学院の実習授業に何度か行ったんですけれど、これが全部ノーギャラなんです(笑)。86年に学院が新百合ヶ丘に引っ越して日本映画学校になってからは、少しギャラをくれるようになりましたけれど。まあ今村さんとの付き合いがありますからね。しょうがないと思っていました。」

後の日本映画大学で、田中晶子は数年前まで、非常勤講師として脚本を教えていた。けっこう真剣にやっていて、横で見ていても大変だなと思った。
 
紅谷さんは、ロマンポルノでいよいよ気分的に落ち込んでいるときに、角川映画の第2弾、『人間の証明』(77)の話が来た。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(11)

しかし60年代後半には、映画界の斜陽化は一気に進む。71年8月末に日活は、一般映画の制作・配給を休止し、11月からは成人映画、ロマンポルノへと一大転換をした。
 
ここは註を引こう。

「日活ロマンポルノ 71年11月から88年5月にかけて製作・配給された、日活の成人映画レーベルのこと。経営難に陥った日活が打ち出した新路線で、『一〇分に一回性行為シーンがあること』、『上映時間は七〇分程度』、『モザイク、ボカシが入らないように対処する』という制約を守れば、かなり自由に映画作りができたため、神代辰巳や田中登など個性的な監督が生まれていった。また白川和子、田中真理、宮下順子といったポルノ専門の女優たちも、注目を浴びた。」
 
大学時代、三鷹寮にいるとき、同室の鹿児島から出てきた男が、「俺は成人映画というものを見たことがない、誰が一緒に行かないか」というので、三鷹駅前でロマンポルノを見た。

『OL日記 濡れた札束』、これははっきり覚えている。滋賀銀行のOLが横領事件を引き起こしたもので、中島葵(あおい)の主演だった。

これはよかった。女が、いけないと思いつつも、深みにはまっていく。その哀しみがそくそくと伝わってきた。鹿児島の男は、「これが成人映画か、ロマンポルノってなんか深いね」と言った。ま、そういうものもある。
 
僕が忘れられないのは、神代辰巳監督の『恋人たちは濡れた』と『赤い髪の女』だ。これは指折りの名作である。

『恋人たちは濡れた』を見て何日かたってから、友だちと渋谷の駅前を歩いていると、雑踏の中で主演の中川梨絵さんとすれ違った。友だちが目ざとく見つけて、「中川梨絵さんでしょ、サインしてください」とお願いした。梨絵さんは、ごく気軽にサインしてくれた。
 
日活はしかし、ロマンポルノばかりを制作していたのではない。山本薩夫監督の『戦争と人間』三部作(70~73)を作り、これはヒットした。

僕は第一部だけを見ている。しかし何といっても大作なので、興行的にはリスクが大きかった。
 
そのころ紅谷さんは、林功監督の『続・色暦大奥秘話 淫の舞』(72)という、「人に言えないような題名」のロマンポルノを担当していた。

「紅谷 セックスシーンを売りにしていて、その声を後からアフレコで録るわけですから、『正直、エライものをやらされることになったなあ』と思いましたね。ただ主演の小川節子という女優がきれいな人で、気立てのいいのが救いでした。」
 
紅谷さんは続いて、藤田敏八の『八月はエロスの匂い』(72)に参加している。ロマンポルノだからセックスシーンはあるけど、藤田敏八の作品は内容が凝っていて面白く、現場にも活気があった。
 
僕にはこの映画はつまらなかった。そういう印象意外に何もない。
 
紅谷さんはこれ以後、『赤ちょうちん』(74)をはじめ、藤田監督の一般映画にはほとんど参加している。いつも紅谷さんが指名されるので、ロマンポルノだけやっているスタッフにはひがまれたという。
 
続いて蔵原惟繕監督の、海外ロケのロードムービー『陽は沈み陽は昇る』(73)を担当した。

「紅谷 『陽は沈み陽は昇る』が当たったらまた大作を作って、一般作品でも盛り返していきたいと思っていたんです。そういう意味では重い責任を背負った作品でした。でも主演が無名ですし、題名にも具体性がなかったので、興行的には大コケでした。この失敗で日活は当面、ロマンポルノ一本で行かざるを得なくなったんです。」
 
蔵原惟繕はこれにより、映画を撮らせてもらえなくなり、最後は不遇だった。
 
僕のような門外漢からすれば、興行的に当たったり外れたりするのは世の常だから、それを計算に入れて企画を立てればいい、と思うのだが。
 
もっとも僕が、それを本業の本や雑誌でやれるかと問われたら、やっぱりできんわね。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(10)

『神々の深き欲望』を撮っているときに、石原プロの『栄光への5000キロ』(69)の話が来た。
 
紅谷さんは、沖縄・石垣島で大変な仕事を終えたら、次は外国を飛び回ってカーレースの映画かと、ちょっとぞっとする思いだった。

この映画は註から引いておく。

「監督:蔵原惟繕、出演:石原裕次郎、浅丘ルリ子。アフリカのサファリ・ラリーに挑む日本人ドライバーを描いた、石原プロ制作の超大作。主人公の恋人役で、浅丘ルリ子が出演した。」
 
これは予想していたとおり、外国のロケが大変だった。

「紅谷 撮影スケジュールとしては69年の2月中旬から3月上旬までがモンテカルロから入って、ニース、モナコ、スイス、パリと続くヨーロッパ・ロケ、3月9日からアフリカへ渡って、ケニアのナイロビを中心に裕次郎が車に乗ったシーンの撮影をし、4月3日からサファリ・ラリーが五日間行われて、それを終えるとレース部分で足りないところを追加で現地で再現して撮影し、4月21日に帰国して日本グランプリなどの日本部分を撮っていくという流れでした。」
 
こう書くと、いかにもスムーズに進行しているようだが、外国の、しかもレースの場で録音機材をセットするところなど、工夫と辛苦の賜である。
 
蔵原惟繕監督とは旧知の間柄であり、効果音などの話はまったくしなかった。紅谷さんに全部お任せだったのだ。

「紅谷 〔蔵原監督は〕外の音をアクセントに使って、芝居はあくまで静寂の中でさせるわけです。そうやって音で演出する感覚が、わりと蔵原さんと僕は合っていたんですよ。ただこの映画では、車の爆音と俳優の小さなセリフの音との音量的なバランスをとるのが、仕上げのときに難しかったですがね。」
 
工夫の余地は、どこにでもあるものだ。

「紅谷 その頃のアフリカでは、ナイロビのホテルはイギリス方式で食べるものはいいんですが、サバンナで安全に食べられるのは乾パンとコカコーラくらいしかなくてね。だから食糧事情は悪かったけれども、夜に満天の星空の中でテントを張り、キャンプファイヤーを囲んで裕次郎と飲んだ酒の味は忘れられません。」
 
大人になってこういうことがあるのは、ただただ羨ましい。長い人生の中で、それこそ星が瞬くようなものだ。
 
紅谷さんは、この映画のダビングをしているときに、プロデューサーから、「日活を辞めて、石原プロの専属にならないか」と言われる。提示されたギャラはかなり高額で、日活の比ではない。

「紅谷 条件的にはいい話でしたが、即答を避けました。僕は今村昌平さんやいろいろな監督との縁がつながって、録音技師として一本立ちできた。その人たちとの今後のことも含めて一週間、女房にも言わずにじっくり考えたんです。」
 
そうして出した結論は、お金がすべてではない、今村昌平や蔵原惟繕といった監督と、細々とでもいいからやっていきたい、というものだった。

「紅谷 それで石原プロの話を断腸の思いで断りました。後からわかったんですが、僕が断って裕次郎はがっくりきたそうです。」
 
また一方では、『神々の深き欲望』、『黒部の太陽』、『栄光への5000キロ』と、大作3本を続けて担当したことによって、何とか自分もやっていけるのではないか、という自信がかすかに芽生えていた。

『栄光への5000キロ』は、この年の興行収入第2位を記録。第1位は三船プロの『風林火山』、第4位は勝新太郎の勝プロが制作した『人斬り』で、この年はスター・プロが作った映画が話題になった。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(9)

『私が棄てた女』は、浦山桐郎監督と綿密に打ち合わせをした。作品作りの方向性が、紅谷さんと似ていると感じて、やりがいがあったという。
 
ところが撮影が延びて、河原崎長一郎は『神々の深き欲望』にも関わっているので(もちろん紅谷さんも)、『私が棄てた女』は撮影を中断することになった。

浦山監督とは気も合い、助手時代から一緒に仕事をしようと言ってきたのに、なかなかそうすることができなかった。
 
そして7月6日、『神々の深き欲望』の撮影隊は、船で那覇に向かう(予算がなくて飛行機代は出なかった)。
 
キャストは、歳のせいで無理のきかない早川雪洲から、嵐寛寿郎に変わったが、嵐寛は婉曲的なユーモアをもって、「女が欲しいから、離れ小島では辛抱できない」と言って、プロデューサーに那覇まで何度か往復させていた。

紅谷さんは、「あのお年ですごいなと驚きました」。この聞き書きが優れているのは、そういうところも淡々と書いていることだ。
 
この映画に対して、今村昌平はどんな態度で臨んでいたか。

「紅谷 これは今村さんが生涯をかけて撮りたかった作品です。あるとき僕に、『この映画はダラッとして長い作品ではあるが、後輩たちのためにも、後々の日本映画界のためにも撮っておきたい作品なんだ』と監督が言ったことは忘れられません。」
 
紅谷さんにとっては、「映画を撮るというよりも、精神修養のようにただ耐える現場でした(笑)」。
 
この映画は苦労の甲斐あって、毎日映画コンクールの日本映画大賞、脚本賞、助演男優賞を受賞し、またキネマ旬報ベストテンの第1位に選ばれた。
 
嵐寛寿郎は、竹中労が聞き手の『鞍馬天狗のおじさんは』(徳間文庫)で、こんなふうに語っている(ちなみにこの本は本当に面白い)。

「三国連太郎、破傷風にかかって、足一本なくすところでおましたんやで。それでも、まだこりずに、ゼニもらわんと、自費でやってきよりますのや。変なのばっかり。沖山秀子、監督と毎日オメコしとる、かくし立てしまへん」。

とあけすけに語って、映画の評価については、

「これほど印象深い作品はおまへんな。ブルーリボンの助演男優賞とった。本番十八回のおかげや。ゆうたらまあ芸術映画ダ、キネマ旬報のベストワン。娯楽作品としても立派な出来やった。」
 
本番18回はお前のせいだ、と言いたくなるが、アラカンにとっても忘れられない映画となった。
 
またこのとき長谷川和彦が、今村プロに入社してすぐにロケに参加している。のちに『青春の殺人者』『太陽を盗んだ男』の監督で有名になるが、このときはそうではない。

「紅谷 長谷川和彦は今村プロの一番下っ端で助監督兼総務部、さらに人が足りないときには俳優までやらされた。要は何でも屋だったんです。船の撮影があると彼やほかの助監督が海に潜って、本番のときに波のうねりで船の上に立つ被写体が動かないように、船自体を押さえているんですよ。それだってちょっと大波でも来ようものなら、彼らの人命にかかわりますからね。(中略)ときには命をかけることになるんです。」
 
そういうことである。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(8)

『神々の深き欲望』は、3ヵ月近くもロケをしたにもかかわらず、撮影は全体の15%しか終わっていなかった。主たる理由は天候である。9月は台風シーズンで、台風が来ると1週間は撮影ができない。しかもこの年は天候不順で、太陽が顔を出さない日が多かった。

『神々の深き欲望』の第1次ロケを中断して東京に帰ると、『黒部の太陽』(68)の仕上げが待っていた。

『黒部の太陽』は、石原裕次郎、三船敏郎、二大スター・プロの共同制作で、熊井啓が監督をした大作である。7年の歳月をかけ黒部ダムを造った人々を描く、群像劇である。

「紅谷 撮影現場で録った音はキャメラノイズも入っていて、マイクポジションも無理があり、決してベストではなかったんです。でも小を捨てて大を取る、大胆なミックスをしようと腹を括りました。少々音が汚れていても、逆にそれを利用して工事現場のシーンはドキュメント・スタイルで行こうと。きれいごとではすまされない、難局を乗り越えていく話ですから、セリフのところは繊細に作りましたけれど、ほかは大胆に割り切って作業をしていきました。」
 
ここはよくわかるような気がする。この映画は7億9616万円の配給収入を上げた。その時点でいえば、65年の『東京オリンピック』に次ぐ、戦後日本映画のヒット記録を作った。
 
しかし僕は、この映画を見ていない。小学校に入る前、母から「裕次郎なんか見たら不良になるで」と言われたのが、縛りになっていたのか。

もちろんそんなことはない。ただ裕次郎も三船も、好きでもなければ嫌いでもない、特に食指が動かなかったのだ。
 
こんどそういう機会があれば、音に注目して必ず見てみよう。「最後のダビングで効果音もかなり作り込みましたから、音楽と効果音、セリフのバランスはかなり気を使ってミックスしました」ということだから。
 
紅谷さんはこの映画で、68年度の毎日映画コンクール録音賞を受賞し、業界にその名を知らしめた。
 
この年は浦山桐郎『私が棄てた女』(69)が続けて入った。『神々の深き欲望』第2次ロケは、7月15日開始だったから、それまでには終わる予定だった。

遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』は、大学のときに読んだ。考えさせるものだったが、この映画を見に行く気には、なれなかった。
 
これは専務の姪(浅丘ルリ子)との結婚を控えたサラリーマン(河原崎長一郎)が、かつて自分がもてあそんで棄てた女性(小林トシエ)と再会し、女は男の子供を中絶して、今は苦しい生活をしている、そのことを知って、男は自分の生活を見直し、苦悩するという話。

「――主役が河原崎長一郎さんで、脇を固めるのが江守徹さんや加藤武さんですから、ほとんど日活の俳優がでていないですね。
紅谷 浅丘ルリ子以外は日活の映画らしくないキャストです。だから会社としては歓迎していない作品なんだけれど、プロデューサーの大塚和さんが周りを説得してクランクインさせたんです。
――大塚さんは『キューポラのある街』や『非行少女』といった浦山監督の映画や、『にっぽん昆虫記』などの今村昌平作品も作っていて、日活の中では社会派のプロデューサーですね。浦山監督は大塚さんのような方がいたので、『非行少女』からしばらく監督作がなくてもやってこられたんでしょうね。」
 
ここでまた、大塚和という名前が出てくる。調べてみると、驚くべき人であることが分かった。プロデュースした作品は、今村昌平『豚と軍艦』『にっぽん昆虫記』、浦山桐郎『キューポラのある街』『私が棄てた女』、熊井啓『日本列島』、鈴木清順『けんかえれじい』、藤田敏八『八月の濡れた砂』、山本薩夫『戦争と人間〈三部作〉』、黒木和雄『祭りの準備』など。この人は1990年に亡くなっている。

僕はプロデューサーの仕事の内実を知らないが、この映画のタイトルを見ているだけで、ただものではないとはっきり分かる。というか、だれでもそう思う。
 
大塚和の本は『映画と人生』〈私家版〉で、現在6000円から15000円の古書値が付いている。僕が現役の編集者なら、たとえば是枝裕和の解説を付して、すぐに出す。自分が読みたいからである。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(7)

次はいよいよ『神々の深き欲望』(68)である。これは沖縄の波照間島、黒島、南大東島の3つの島を使ってロケをした。
 
沖縄は、このときはまだアメリカの統治下で、渡航手続きだけでも大変だった。1ドル=360円の時代で、とにかく予算が厳しかった。渡航する前に種痘、コレラ、破傷風の予防接種の必要があり、また沖縄のハブに対する予防注射の必要もあった。

『神々の深き欲望』については、註を引いておく。

「監督:今村昌平、出演:三國連太郎、沖山秀子。神話が息づく南の島を舞台に、近親相姦によって島民から蔑まれている一家と、観光開発業者によって島の風俗が壊されていく姿を描いた、今村監督入魂の一作。」
 
これは学生時代にリヴァイバルで見たが、細かい筋は忘れてしまっている。しかし、ただもう圧倒された記憶がある。一緒に見にいった友だちが、「圧倒されまくりやったなあ、疲れたわ。おもろいとか、おもろないとか言うのとは、別の次元の話やなあ」、と印象的なことを言ったのは、今でも忘れない。
 
ロケ先の島は、ホテルや旅館はないから、今村監督や紅谷さんはパートごとに、土地の人たちの農家に分宿した。

「紅谷 水が貴重でしてね。天水桶に溜める水道なので雨が降らないと断水になってしまうし、煮沸しないと生水は飲めないんです。さらにトイレは外にある掘っ立て小屋で一応屋根は付いていますが、雨漏りがする。中は狭くて、トイレの肥溜めは豚小屋からの尿とも直結していますから、臭いがきつくてハエがものすごい。そのハエを追ってヤモリが走り回りますから、落ち着いて用を足していられません。一番怖いのはハブで、噛まれる恐怖が常にありました。」
 
いやどうも大変な所だ。こういうところで合宿していれば、団結するときもすごいだろうけど、いったん不協和音が表に出れば、大変なことである。全体を統括する映画監督が、なまじの才能ではないことが、おぼろげにわかる。
 
録音機材のことはよくわからないのだが、ここで紅谷さんが一生懸命話していることは、貴重だと思うので挙げておく。

「紅谷 とにかく確保しなければならないのは、キャメラの電源です。照明部のゼネレーターは那覇で調達することにしましたが、ミッチェルのキャメラの電源は、当時ポータブル発電機として売り出されたばかりのホンダ製『E1000』型をテストしてみました。エンジン音が大きいのは難点でしたけれど、比較的電圧と周波数が安定していたので発電機をできるだけ現場から離すことにして、これに決めました。発電機を現場で使ってみると、ガソリンを満タンにすると五時間は保つことが分かって、結構重宝しましたね。録音機は出たばかりのナグラ三型を初めて使うことにしました。」
 
例によってまったく分からないが、録音という仕事に賭ける情熱だけは、伝わってくる。
 
この映画は、土地の人が好意をもって受け入れられるものではなかったが、今村監督は、「弁舌さわやかに押しまくって、無理やり納得して協力してもらっ」たのだった。近親相姦の一家がいる村という前提を、納得させて、地元の人たちを映画撮影に参加させる。今村監督、本当にただものではない。
 
また今村監督は、新人の沖山秀子をしごいた。今村監督の部屋へ通って、指導されることが多くなる。

「紅谷 今村さんは魚屋の二階を借りて住んでいたんですけれど、そこへ沖山が一人でしょっちゅう通って、かなり早い段階で二人は男女の関係になってしまいました。それは近所でも有名になっていましたね。」
 
今なら#MeToo(ミーツー)運動で、告発されそうだ。

しかし一方、離れ小島で、獅子奮迅の今村監督の姿を見ていれば、男女がそうなることも、自然なことか、とも思う。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(6)

『赤い殺意』は、日本映画記者会最優秀賞をはじめ、数々の賞を得た。64年は、紅谷さんはほかにも、「中平康監督の『月曜日のユカ』で、ダビング時にミックスを任されるなど、気鋭の監督から信頼を得ていった。」

僕は、『月曜日のユカ』はつまらない映画だと思う。学生時代に池袋・文芸座で見たときも、なんだかなあ、という感じだったが、つい最近テレビで再見して、薄っぺらでつまらぬ映画であることを再認識した。
 
加賀まりこがいろんな男と付き合い、奔放でコケテイッシュな魅力を振りまく、というのだが、それだけである。着ているものを一枚ずつ脱いでいくが、そういうところで、なんだかなあと、どんどんテンションが下がる。
 
紅谷さんは65年に、小林旭・宍戸錠主演の『三匹の野良犬』で、正式に「録音技師」としてデビューする。
 
66年には野坂昭如原作の『「エロ事師たち」より 人類学入門』に参加する。これは註を引いておく。

「監督:今村昌平、出演:小沢昭一、坂本スミ子。八ミリのエロ映画などを製作・販売しているエロ事師が、やがてインポになってダッチワイフ作りにのめり込んでいく様を描く。小沢昭一の好演が光る。」
 
これも学生時代にリヴァイバルで見た。原作の野坂昭如が、僕らの学生時代には圧倒的な人気で、それで見たのだと思う。

映画も素晴らしかった。というか映画の方が、大阪の土俗がよく描けていて、唸ったという記憶がある。大阪の土俗的な土着とは、あくまでも地べたにくっついて、そこで動き回り、絶対に浮上しないというようなことである。
 
これは65年に設立された今村プロダクションの、第1回作品だった。

「――プロデューサーも兼ねるようになった今村さんは、今までと違いましたか。
紅谷 お金にものすごくうるさい(笑)。でもフィルムだけはどんどん回すんですよ。あの頃のフィルムは現像代が高いんですが、フィルムはケチらない。でもそれ以外には一銭たりとも、無駄な金をかけないんです。それでも撮ることに妥協しないですから、どうしても制作費は赤字になっていきました。」
 
たいしたものだ。お金にものすごくうるさいけども、フィルム代だけはケチらない、監督の鏡である。
 
68年に紅谷さんは、今村昌平『人間蒸発』の仕上げだけを頼まれる。僕はこの映画は見ていない。

『人間蒸発』はドキュメンタリーで、今村プロとATG、日本映画新社が共同制作し、日活は配給だけを請け負った。
 
ここで初めてATGが出てくる。僕らの学生時代には、ATGは欠くことのできないものだった。ここでも註を引いておく。

「ATG アート・シアター・ギルドの略。62年、芸術的な映画を専門に上映するために設立され、やがて映画の自主制作を始める。特徴的なのが〝1000万円映画〟で、製作費1000万円を製作者とATGが半額ずつ出資して作った映画である。その中から今村昌平の『人間蒸発』(67)、大島渚監督の『絞死刑』(68)、岡本喜八監督の『肉弾』(68)、篠田正浩監督の『心中天網島』(69)といった意欲作が生まれた。」
 
僕はこの中で『人間蒸発』以外は、みんな見ている。

ほかにも大島渚『新宿泥棒日記』や、羽仁進の『初恋・地獄篇』など、忘れられない映画がある。みなリヴァイバルで見たんだけれど、ATGはあの時代を、鋭角的に切り取っていたと思う。