これは驚異の本である。ハナバチは「心」をもっている、ということを、実験を通して明らかにした本。
読み進むうちに、心拍数がどんどん激しくなってきて、しかしそれとともに、疑問も大きくなる。
ハナバチは、どんな花が、どこに咲いていて、いつごろ蜜を採取すればいいのか、を学習して身に着ける。
その過程で数を数え、道具を使い、あるいは課題解決の方法を、ほかの昆虫から盗むことさえする。
しかもなんと、1匹1匹のハチがパーソナリティを持ち、自分と他人(他バチ)を区別し、自己のうちに「内的表象」を形成する。著者はそう主張する。
最初から驚くべきことが書いてある。マルハナバチの場合、初めての「採餌飛行」に出たうちの、10パーセントが戻ってこない。
巣の場所を正確に記憶してなくて、戻れない場合や、鳥や昆虫に、食べられてしまう場合もある。なんとなくテレビの、「初めてのお使い」を思い出してしまう。
「はじめに」の章では、前提としてこんなことが書いてある。
まずハチの身になって経験するとは、どういうことか。
「別の動物になったら実際どんな感じなのかは知り得ないのではないか、という一部の哲学者を悩ませている問題は、あまり意味がないように私には思われる。結局のところ、別の感覚世界に生きることは、ひとたびそれに慣れてしまえばどうということはない。新たな感覚能力を得たとしても、わくわく興奮するのはその能力を初めて獲得したときだけで、たちまちその新奇さは薄れ、やがてそれが当たり前のようになってしまう。」
これはどういうものだろう。かりに「ハエ男」になって、空を飛べたとして、たちまちそれは当たり前のことになるだろうか、疑問だ。
しかし著者はその先で、さらに大事なことを言う。
「ハチのような動物は、人間とはまったく異なる感覚器官を通して世界を知覚していること、異なる環境側面がその安寧と生存にとって重要な意味をもつことを理解すれば、擬人化のリスクを冒すことなく――つまり、動物の行動に、誤って人間と同じような心理を読み取ってしまうことなく――想像力を解き放つことができる。」
これは何を言っているのか、私にはわかりにくい。
しかしハナバチが、社会的な生を営むからと言って、それを安易に擬人化するのは、とにかくやめたい、と著者は言っている。
「はじめに」の最後のところで、著者は最後の2章で大胆極まることを言う。
「第11章では、ここまでのすべての章で得られた証拠をもとに、最も難しいと思われる問いに挑む。ハチに意識はあるのか? その答えはおそらく『イエス』だという前提のもと、最後の第12章では、ハチの保全とも関連する倫理的配慮の必要性について述べる。それは、ハチは主観的経験をしており、少なくとも基本的な情動を伴う生活を送っているらしいという、私たちの研究から浮かび上がることなのだ。」
まったくゾクゾクする話だ。このまま研究が進めば、ついにハチは、人間と話し合った後でなければ、刺したりはしなくなるのか。
いろんな読み方ができるが――『BUTTER』(柚木麻子)(2)
山本一力の「解説」は、こんなふうに始まる。
「本作を著した柚木麻子さん。彼女の紡ぎ出す小説には、太い背骨が通っている。
女性同士の友情と信頼。」
これが芯をなす。山本一力は批評家ではないから、面倒なことは書かない。
「本作着想の根底には、世に知られた事件があったのは確かだ。しかし物語が進むにつれて、事件からも犯罪者からも遠ざかる。独立したオリジナリティーに富んだ物語が展開される。進路を定めた羅針盤こそ、冒頭に記した『女性同士の友情と信頼』である。」
やはりこれが一番オーソドックスで、読んだ人を納得させるだろう。
しかし私は、これでは納得できない。
これは女3人の物語である。梶井真奈子を、表面的には男に尽くすタイプとすれば(もちろん本当は殺人者かもしれない)、ほかの2人は違う。町田里佳も親友の伶子も、男に尽くすタイプではないし、その前にまず毅然として自分を持っている。
梶井真奈子は、男に尽くすと見せて、その男を次々に殺していきそうでもある。里佳も伶子も、梶井を反射鏡にすれば、その個性は反対の位置に立っている。
2人の生い立ちは、決して幸福なものではない。里佳の両親は離婚している。父親が、世間体はよいが、どうしようもなく甘ったれだったのだ。そしてこの父は、早くに亡くなった。孤独死だった。
伶子の両親は、お互い公認で愛人を持っていた。伶子はそれが我慢できなかった。自分は夫を愛し、互いの愛情をもって子供を育てたい、というのが信念だった。
しかし伶子に子供はできず、不妊治療もままならない。夫は、伶子の路線を敷いた家庭に反発し、セックスができなくなっている。
里佳は、勤めている出版社に恋人はいるが、どちらかと言えば惰性でセックスをし、結局は別れてしまう。
つまり2人とも、毅然として人生を歩んでいるが、幸福ではない。この時代、女性が人生を切り開いていこうとすれば、必然的に不幸に傾いてしまう。
こういう小説は最近、読んだことがある。これはブログにも書いたカン・ファギルの、『別の人』と同じではないか。
あの小説でも、男と女は決して分かりあえず、セックスといえば強姦ばかりだった。そして一人一人は孤立して、交わるところがない。
日韓の第一線の女性作家が、同じところに行き着くというのは、必然と言えば必然という気もする。
しかしそうすると、最後の大団円が、『バター』の場合は実に甘い。関係者全員を集めて、七面鳥を焼くというのは、それがどんなに凝った料理であろうと、テレビドラマの2時間サスペンスの終わりと、大同小異だ。
逆に言えば、だから瞬間的に、世界中で100万部も売れたのだ。でも、読んだ後、読者を寒々とした、孤独な場所へ置き去りにするという、すぐれた文学作品のみが持っている、恐ろしさはない。
しかし読み直せば、また違った感想が浮かぶかもしれない。全体の約半分を占める、梶井真奈子が町田里佳に作らせる料理のレシピは、どんな意味があるのか。
これはもう一度読むに値する。なぜなら、柚木麻子は何度でも読ませる、たぐいまれな文章家だから。
(『BUTTER』柚木麻子、新潮文庫、2020年2月1日初刷、2025年8月5日第24刷)
「本作を著した柚木麻子さん。彼女の紡ぎ出す小説には、太い背骨が通っている。
女性同士の友情と信頼。」
これが芯をなす。山本一力は批評家ではないから、面倒なことは書かない。
「本作着想の根底には、世に知られた事件があったのは確かだ。しかし物語が進むにつれて、事件からも犯罪者からも遠ざかる。独立したオリジナリティーに富んだ物語が展開される。進路を定めた羅針盤こそ、冒頭に記した『女性同士の友情と信頼』である。」
やはりこれが一番オーソドックスで、読んだ人を納得させるだろう。
しかし私は、これでは納得できない。
これは女3人の物語である。梶井真奈子を、表面的には男に尽くすタイプとすれば(もちろん本当は殺人者かもしれない)、ほかの2人は違う。町田里佳も親友の伶子も、男に尽くすタイプではないし、その前にまず毅然として自分を持っている。
梶井真奈子は、男に尽くすと見せて、その男を次々に殺していきそうでもある。里佳も伶子も、梶井を反射鏡にすれば、その個性は反対の位置に立っている。
2人の生い立ちは、決して幸福なものではない。里佳の両親は離婚している。父親が、世間体はよいが、どうしようもなく甘ったれだったのだ。そしてこの父は、早くに亡くなった。孤独死だった。
伶子の両親は、お互い公認で愛人を持っていた。伶子はそれが我慢できなかった。自分は夫を愛し、互いの愛情をもって子供を育てたい、というのが信念だった。
しかし伶子に子供はできず、不妊治療もままならない。夫は、伶子の路線を敷いた家庭に反発し、セックスができなくなっている。
里佳は、勤めている出版社に恋人はいるが、どちらかと言えば惰性でセックスをし、結局は別れてしまう。
つまり2人とも、毅然として人生を歩んでいるが、幸福ではない。この時代、女性が人生を切り開いていこうとすれば、必然的に不幸に傾いてしまう。
こういう小説は最近、読んだことがある。これはブログにも書いたカン・ファギルの、『別の人』と同じではないか。
あの小説でも、男と女は決して分かりあえず、セックスといえば強姦ばかりだった。そして一人一人は孤立して、交わるところがない。
日韓の第一線の女性作家が、同じところに行き着くというのは、必然と言えば必然という気もする。
しかしそうすると、最後の大団円が、『バター』の場合は実に甘い。関係者全員を集めて、七面鳥を焼くというのは、それがどんなに凝った料理であろうと、テレビドラマの2時間サスペンスの終わりと、大同小異だ。
逆に言えば、だから瞬間的に、世界中で100万部も売れたのだ。でも、読んだ後、読者を寒々とした、孤独な場所へ置き去りにするという、すぐれた文学作品のみが持っている、恐ろしさはない。
しかし読み直せば、また違った感想が浮かぶかもしれない。全体の約半分を占める、梶井真奈子が町田里佳に作らせる料理のレシピは、どんな意味があるのか。
これはもう一度読むに値する。なぜなら、柚木麻子は何度でも読ませる、たぐいまれな文章家だから。
(『BUTTER』柚木麻子、新潮文庫、2020年2月1日初刷、2025年8月5日第24刷)
いろんな読み方ができるが――『BUTTER』(柚木麻子)(1)
何人もの男を殺害した疑いで逮捕された、木嶋佳苗がモデルの小説。
新潮文庫のカバーが洒落ていて、表は日本語版、裏は英語版になっている。その英語版のイラストは1頭のホルスタインで、それに血痕が4箇所あしらってある。
ちなみに日本語版のイラストは女とケーキで、これは木嶋佳苗(作品中では梶井真奈子)だと思う。
それにしてもタイトルを『バター』ではなくて、『BUTTER』としたとは、まるで世界市場を相手にすることが、分かってたみたいではないか。これは著者か編集者か、どっちの発案だろう。
そして帯には「全世界 累計100万部突破」とある。
今回のブログでは、作品の評価ということに絞って論じたい。とにかくこれが、人によってバラバラなのである。
とはいうものの、筋をまったく紹介しないわけにはいかないので、そこはカバー裏の惹句を引いておく。
「男たちの財産を奪い、殺害した容疑で逮捕された梶井真奈子。若くも美しくもない彼女がなぜ――。週刊誌記者の町田里佳は親友の伶子の助言をもとに梶井の面会を取り付ける。フェミニストとマーガリンを嫌悪する梶井は、里佳にあることを命じる。その日以来、欲望に忠実な梶井の言動に触れるたび、里佳の内面も外見も変貌し、伶子や恋人の誠らの運命をも変えてゆく。各紙誌絶賛の社会派長編。」
最後の「社会派長編」というのは、たぶん間違い。それと全体で584ページのうち、梶井真奈子が町田里佳に作らせる料理のレシピが、半ばを占めるということは、言っておいた方がいい。
そこで書評だが、帯裏に3本、抜粋が載っている。
「読みながら、震えが止まらなかった。規格外の傑作だった。――読売新聞」
寒いときに、外で読んでいたに違いない。どちらかと言えば、おいしい料理によだれを垂らしながら読んでいた、というのが正確だろう。空疎な書評だ。
「深い洞察に胸えぐられつつ、悪魔的な〝こく〟に脳髄がしびれた。――瀧井朝世」
なんかものすごいことが書いてあるが、文章全体としては意味不明。瀧井朝世は書評家だそうだが、この人の推すものは、絶対に読まないと決めると、役に立つ書評家だ。空疎な書評の決定版。
「殺人事件を扱ったノンフィクション・ノベルの名著として歴史に名を残すことは間違いない。――佐藤優」
この本は「殺人事件を扱ったノンフィクション・ノベル」ではない。梶井真奈子は殺人に関しては、ほとんど喋っていない。そして町田里佳も、殺人についてはまったく追求していない。梶井の得意な料理の、レシピを再現するばかりで、「ノンフィクション・ノベルの名著」として名を残すことはあり得ない。佐藤優は本当に、この本を読んだのだろうか。
この本にはもう1本、書評が載っている。「解説」の山本一力の書評である。これは、全面的に同意はできないけれど、傾聴に値する。
新潮文庫のカバーが洒落ていて、表は日本語版、裏は英語版になっている。その英語版のイラストは1頭のホルスタインで、それに血痕が4箇所あしらってある。
ちなみに日本語版のイラストは女とケーキで、これは木嶋佳苗(作品中では梶井真奈子)だと思う。
それにしてもタイトルを『バター』ではなくて、『BUTTER』としたとは、まるで世界市場を相手にすることが、分かってたみたいではないか。これは著者か編集者か、どっちの発案だろう。
そして帯には「全世界 累計100万部突破」とある。
今回のブログでは、作品の評価ということに絞って論じたい。とにかくこれが、人によってバラバラなのである。
とはいうものの、筋をまったく紹介しないわけにはいかないので、そこはカバー裏の惹句を引いておく。
「男たちの財産を奪い、殺害した容疑で逮捕された梶井真奈子。若くも美しくもない彼女がなぜ――。週刊誌記者の町田里佳は親友の伶子の助言をもとに梶井の面会を取り付ける。フェミニストとマーガリンを嫌悪する梶井は、里佳にあることを命じる。その日以来、欲望に忠実な梶井の言動に触れるたび、里佳の内面も外見も変貌し、伶子や恋人の誠らの運命をも変えてゆく。各紙誌絶賛の社会派長編。」
最後の「社会派長編」というのは、たぶん間違い。それと全体で584ページのうち、梶井真奈子が町田里佳に作らせる料理のレシピが、半ばを占めるということは、言っておいた方がいい。
そこで書評だが、帯裏に3本、抜粋が載っている。
「読みながら、震えが止まらなかった。規格外の傑作だった。――読売新聞」
寒いときに、外で読んでいたに違いない。どちらかと言えば、おいしい料理によだれを垂らしながら読んでいた、というのが正確だろう。空疎な書評だ。
「深い洞察に胸えぐられつつ、悪魔的な〝こく〟に脳髄がしびれた。――瀧井朝世」
なんかものすごいことが書いてあるが、文章全体としては意味不明。瀧井朝世は書評家だそうだが、この人の推すものは、絶対に読まないと決めると、役に立つ書評家だ。空疎な書評の決定版。
「殺人事件を扱ったノンフィクション・ノベルの名著として歴史に名を残すことは間違いない。――佐藤優」
この本は「殺人事件を扱ったノンフィクション・ノベル」ではない。梶井真奈子は殺人に関しては、ほとんど喋っていない。そして町田里佳も、殺人についてはまったく追求していない。梶井の得意な料理の、レシピを再現するばかりで、「ノンフィクション・ノベルの名著」として名を残すことはあり得ない。佐藤優は本当に、この本を読んだのだろうか。
この本にはもう1本、書評が載っている。「解説」の山本一力の書評である。これは、全面的に同意はできないけれど、傾聴に値する。
肝心のところが――『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで―』(鶴見太郎)(7)
ホロコーストについては、ナチによるものとしてあるのが多い。しかしドイツで犠牲になったユダヤ人は、16万人であり、アウシュヴィッツ収容所があったポーランドや、中東欧の死者数は、さらに突出している。
そのころドイツは、第1次世界大戦に敗れ、多額の賠償金を要求され、経済的に苦しんでいた。
「ユダヤ人はいわばその八つ当たりをされたのだ。『背後からの一突き』論と呼ばれる議論がそれであり、戦場で圧倒していたドイツが負けたのは、国内で革命分子、すなわちユダヤ人が秩序を乱したからだ、というのである。〔中略〕ロシアにおいて共産主義者が革命を起こしたこと、そこでユダヤ人が活躍していたらしいことなど、東方で起こった諸々が混同されてもいた。」
学者や政治家もユダヤ人については、
「ゲルマン精神をローマ・カトリック精神とユダヤ精神から守ることを説き、人種混交の阻止を訴えた。」
「××精神」や「〇〇魂」は、論者が真面目な顔で訴えれば訴えるほど、眉に唾したほうがよい。日本でも夏目漱石が、泥棒も持っている大和魂として、糞として扱ったものだ。
近年は、これの亜流で「△△ファースト」などというのも流行っている。耳にするだけで、腐臭が漂ってくる。
そして決定版として、ヒトラーが登場する。
「『我が闘争』(一九二五年)は、どこにいても害悪を与える病原菌としてユダヤ人を捉え、その根絶をしなければ、社会をその病原菌から守ることはできないと訴えている。〔中略〕ヒトラーは『ユダヤ人=ボリシェヴィキ』という偏見を持ち、ソ連も毛嫌いし、ドイツ人のための征服先と見なすようになった。」
組織づくりの天才は、社会を極端に歪めて見る人だったのだ。
ホロコーストにおけるユダヤ人の死者数は600万人で、そのうちガス室で命を落とした者は約半数、それ以外は戦場で銃殺されるか、収容所などで餓死した。
国別のホロコーストも見ておきたい。ポーランドは収容所が多く作られ、300万人近くが殺された。ソ連に併合されたリトアニアでは13万人が死んだ。ウクライナとベラルーシでは、100万人以上が殺害された。
ドイツとソ連の戦争が、膠着状態に入った1941年、ついに絶滅収容所が設立された。そこでの大量殺戮が、ホロコーストの頂点である。
しかし驚くべきことに、ホロコーストは、1945年5月にドイツが降伏して終わったのではなかった。
解放されたユダヤ人の中には、ポーランドの自宅に帰る者があった。しかし、すでにそこに住み着いていたポーランド人に、殺害される例が後を絶たなかった。
「有名な例が一九四六年七月に中部の都市キェルツェで起こったポグロムだ。四二名のユダヤ人が殺された。」
人種差別とホロコーストの全責任を、ヒトラーとドイツに負わせるのは、無理なようである。
このあと第5章は「現代」で、全体の頁数の3分の1弱を占める。しかしここは、私には要約は難しい。私の能力の問題なのだが、著者の方も腰が定まっていない気がする。
ユダヤ人がイスラエルを建国し、それとともにソ連(ロシア)からアメリカへと、組む相手を変えていくのは分かった。しかし現状、なぜイスラエルがアメリカ以外の、世界の嫌われ者になりつつ、度重なる停戦協定を踏みにじって、一般市民を虐殺するのかが分からない。
「あとがき」の最後の一段。
「このあとがき執筆中も止まらないガザや西岸、さらにはレバノンなどにまで及ぶ惨劇を見るにつけ、ユダヤ史の重みを感じないわけにはいかない。そのことを知る国際社会の一員として、歴史と現在の解明をはじめ、できることを続けたい。」
これは一体どういうことか。現状が分からないなら、分からないと言うべきではないか。せっかくの労作が、最後の腰砕けで、後味の悪いものになつた。
(『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで―』
鶴見太郎、中公新書、2025年1月25日初刷、3月30日第4刷)
そのころドイツは、第1次世界大戦に敗れ、多額の賠償金を要求され、経済的に苦しんでいた。
「ユダヤ人はいわばその八つ当たりをされたのだ。『背後からの一突き』論と呼ばれる議論がそれであり、戦場で圧倒していたドイツが負けたのは、国内で革命分子、すなわちユダヤ人が秩序を乱したからだ、というのである。〔中略〕ロシアにおいて共産主義者が革命を起こしたこと、そこでユダヤ人が活躍していたらしいことなど、東方で起こった諸々が混同されてもいた。」
学者や政治家もユダヤ人については、
「ゲルマン精神をローマ・カトリック精神とユダヤ精神から守ることを説き、人種混交の阻止を訴えた。」
「××精神」や「〇〇魂」は、論者が真面目な顔で訴えれば訴えるほど、眉に唾したほうがよい。日本でも夏目漱石が、泥棒も持っている大和魂として、糞として扱ったものだ。
近年は、これの亜流で「△△ファースト」などというのも流行っている。耳にするだけで、腐臭が漂ってくる。
そして決定版として、ヒトラーが登場する。
「『我が闘争』(一九二五年)は、どこにいても害悪を与える病原菌としてユダヤ人を捉え、その根絶をしなければ、社会をその病原菌から守ることはできないと訴えている。〔中略〕ヒトラーは『ユダヤ人=ボリシェヴィキ』という偏見を持ち、ソ連も毛嫌いし、ドイツ人のための征服先と見なすようになった。」
組織づくりの天才は、社会を極端に歪めて見る人だったのだ。
ホロコーストにおけるユダヤ人の死者数は600万人で、そのうちガス室で命を落とした者は約半数、それ以外は戦場で銃殺されるか、収容所などで餓死した。
国別のホロコーストも見ておきたい。ポーランドは収容所が多く作られ、300万人近くが殺された。ソ連に併合されたリトアニアでは13万人が死んだ。ウクライナとベラルーシでは、100万人以上が殺害された。
ドイツとソ連の戦争が、膠着状態に入った1941年、ついに絶滅収容所が設立された。そこでの大量殺戮が、ホロコーストの頂点である。
しかし驚くべきことに、ホロコーストは、1945年5月にドイツが降伏して終わったのではなかった。
解放されたユダヤ人の中には、ポーランドの自宅に帰る者があった。しかし、すでにそこに住み着いていたポーランド人に、殺害される例が後を絶たなかった。
「有名な例が一九四六年七月に中部の都市キェルツェで起こったポグロムだ。四二名のユダヤ人が殺された。」
人種差別とホロコーストの全責任を、ヒトラーとドイツに負わせるのは、無理なようである。
このあと第5章は「現代」で、全体の頁数の3分の1弱を占める。しかしここは、私には要約は難しい。私の能力の問題なのだが、著者の方も腰が定まっていない気がする。
ユダヤ人がイスラエルを建国し、それとともにソ連(ロシア)からアメリカへと、組む相手を変えていくのは分かった。しかし現状、なぜイスラエルがアメリカ以外の、世界の嫌われ者になりつつ、度重なる停戦協定を踏みにじって、一般市民を虐殺するのかが分からない。
「あとがき」の最後の一段。
「このあとがき執筆中も止まらないガザや西岸、さらにはレバノンなどにまで及ぶ惨劇を見るにつけ、ユダヤ史の重みを感じないわけにはいかない。そのことを知る国際社会の一員として、歴史と現在の解明をはじめ、できることを続けたい。」
これは一体どういうことか。現状が分からないなら、分からないと言うべきではないか。せっかくの労作が、最後の腰砕けで、後味の悪いものになつた。
(『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで―』
鶴見太郎、中公新書、2025年1月25日初刷、3月30日第4刷)
肝心のところが――『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで―』(鶴見太郎)(6)
近世に入ると、スペインではユダヤ人が弾圧され、彼らはオランダ、ポルトガル、オスマン帝国へと住む範囲を広げた。
そしてさらには、ポーランドへと進出した。ポーランド貴族とユダヤ人は、組み合わせがよかったのか、貴族は土地の管理や、農民からの徴税を、ユダヤ人に任せたのだ。
しかしこれは、農民から見れば、ユダヤ人は貴族の手先であり、三者関係は強化され、危険なものになっていく。
その結果、著者はこう書く。
「ユダヤ人迫害の背景としてその後も東欧地域に特徴的であるのは、キリスト教的な背景よりも社会経済的な背景が強かったことだ。」
フランス革命と、イギリスの産業革命が起きて以降の、近代においては、ユダヤ人にとって、「『国の法』に従いながら自らの居場所を確保するという悠長なことが許されない状況が拡大していった。」
ユダヤ人の、「国の法」に従いながら、ユダヤ教の伝統も守るという二面性が、成り立たなくなっていたらしい。
そして、反ユダヤ主義も変わっていく。
「この時代に反ユダヤ主義も変質していき、ポグロム(反ユダヤ暴動・虐殺)、そしてホロコーストという世界史上最悪の悲劇が生まれることになった。」
これを、もう少し具体的に言うと、
「近世までは、キリスト教的伝統を背景とした金持ちないし特権階級への妬みといった意味合いがもっぱらだったのに対し、近代、とくに二〇世紀に入ると、西欧では貧しい移民に対する嫌悪、東欧では民族対立を意識した憎悪が顕在化していく。」
その結果、ユダヤ人は民族大移動を起こし、アメリカや「パレスチナ/イスラエル」への移民は、史上最大の規模になった。
このとき、ユダヤ人移民の過半数の出身地は、なんとロシア帝国だった。この「なんと」は、私が付けたもので、全然知らなかった。
そしてロシア帝国の中でも、さらにはヨーロッパの中でも、ユダヤ人は大胆に住むところを変えていった。
「まず〔ロシア〕国内でリトアニア・ベラルーシからウクライナに向けての移民が増えた。それは人口の急増や都市化によるものでもあり、北米やパレスチナへの移民は、実はその延長でもあった。ロシア以外のヨーロッパ各国でもユダヤ人の都市への移住は増え、それがユダヤ人に関する新たな摩擦の背景となっていた。」
そこで登場するのがドイツである。
ドイツ政府は、それまでユダヤ人を「宗派」と考えていたが、1880年代に、それを「人種」として捉えるようになり、血統でドイツ国民との線引きをし、国籍を与えないことにした。ヒトラー政権の淵源がここにある。
その結果、どうなったかと言うと、
「ドイツ人一般のなかでも、伝統社会が資本主義化のなかで失われていくことをよく思っていなかったものは、ユダヤ人の顕在化をその象徴としてもその原因としても、あるいは両者の区分けなく捉え、ユダヤ人を叩くようになった。」
将来のホロコーストについては、ドイツが震源地になるような基盤が、できていたのだ。
そしてさらには、ポーランドへと進出した。ポーランド貴族とユダヤ人は、組み合わせがよかったのか、貴族は土地の管理や、農民からの徴税を、ユダヤ人に任せたのだ。
しかしこれは、農民から見れば、ユダヤ人は貴族の手先であり、三者関係は強化され、危険なものになっていく。
その結果、著者はこう書く。
「ユダヤ人迫害の背景としてその後も東欧地域に特徴的であるのは、キリスト教的な背景よりも社会経済的な背景が強かったことだ。」
フランス革命と、イギリスの産業革命が起きて以降の、近代においては、ユダヤ人にとって、「『国の法』に従いながら自らの居場所を確保するという悠長なことが許されない状況が拡大していった。」
ユダヤ人の、「国の法」に従いながら、ユダヤ教の伝統も守るという二面性が、成り立たなくなっていたらしい。
そして、反ユダヤ主義も変わっていく。
「この時代に反ユダヤ主義も変質していき、ポグロム(反ユダヤ暴動・虐殺)、そしてホロコーストという世界史上最悪の悲劇が生まれることになった。」
これを、もう少し具体的に言うと、
「近世までは、キリスト教的伝統を背景とした金持ちないし特権階級への妬みといった意味合いがもっぱらだったのに対し、近代、とくに二〇世紀に入ると、西欧では貧しい移民に対する嫌悪、東欧では民族対立を意識した憎悪が顕在化していく。」
その結果、ユダヤ人は民族大移動を起こし、アメリカや「パレスチナ/イスラエル」への移民は、史上最大の規模になった。
このとき、ユダヤ人移民の過半数の出身地は、なんとロシア帝国だった。この「なんと」は、私が付けたもので、全然知らなかった。
そしてロシア帝国の中でも、さらにはヨーロッパの中でも、ユダヤ人は大胆に住むところを変えていった。
「まず〔ロシア〕国内でリトアニア・ベラルーシからウクライナに向けての移民が増えた。それは人口の急増や都市化によるものでもあり、北米やパレスチナへの移民は、実はその延長でもあった。ロシア以外のヨーロッパ各国でもユダヤ人の都市への移住は増え、それがユダヤ人に関する新たな摩擦の背景となっていた。」
そこで登場するのがドイツである。
ドイツ政府は、それまでユダヤ人を「宗派」と考えていたが、1880年代に、それを「人種」として捉えるようになり、血統でドイツ国民との線引きをし、国籍を与えないことにした。ヒトラー政権の淵源がここにある。
その結果、どうなったかと言うと、
「ドイツ人一般のなかでも、伝統社会が資本主義化のなかで失われていくことをよく思っていなかったものは、ユダヤ人の顕在化をその象徴としてもその原因としても、あるいは両者の区分けなく捉え、ユダヤ人を叩くようになった。」
将来のホロコーストについては、ドイツが震源地になるような基盤が、できていたのだ。
肝心のところが――『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで―』(鶴見太郎)(5)
中世は、ユダヤ人などの中間集団が、個別に国家と結びついた時代だった。これはイスラーム世界でも同じである。一体どういうことなんたろうか。
「権力者とユダヤ共同体の『癒着』は、つまるところ、ユダヤ人が庶民のあいだで得た儲けを権力者が税金として吸い上げるという上納システムによって成り立っていた。ゆえに、権力者にとってユダヤ共同体は守るべき財産だったのだ。」
なるほど、ユダヤ人の特異な位置がよく分かる。
しかしこれはユダヤ人にとって、もろ刃の刃だったろう。そこに、反ユダヤ主義が芽生えるきっかけがある。
「ユダヤ人を金づるとして利用する権力者と、それを腐敗と捉える庶民のあいだにユダヤ人が挟まれるという三者関係こそが、一定期間秩序を維持しながらも庶民の反ユダヤ感情を蓄積していく。政変や不況などでこの権力者のタガが外れたとき、民衆の怨念は一気にユダヤ人に向かうことになった。」
反ユダヤ主義というのは、このくらい古い歴史を持った、根深いものだったのだ。
それが一気に噴き出したのが、十字軍のときだった。
1096年の第1回十字軍は、エルサレムに到達するまでに、ユダヤ人を迫害し続けた。
このころから民衆の間で、ユダヤ人が儀式のために、キリスト教徒の子供を殺し、その血を食用に使う、というデマが広がった。「ヴェニスの商人」の、シャイロックに付随するイメージも、ここに由来する。
なぜ、こんなデマが広がったのか。
「食用の家畜を屠るときに必ず血抜きをするのがユダヤ教の規定であるから、血を食用にすることは本来ありえない。この血抜きの習慣を断片的に見たキリスト教徒が想像を膨らませたのかもしれない。」
差別が問題になるときは、必ずこういうところから入る。これは昔も今も、そして古今東西、まったく同じである。
こういう言説は必ず、「民族」または「人種」を主語にしている。そして述部に入る動詞、形容詞は、ウソでも何でもいい。
人はすべて個人が原則である。悪い奴もいれば、良い奴もいる。それは、どんな民族または人種でも、まったく同じである。そこがよく分かってない人がいる。唯一、差別するのが正しい場合があるとすれば、こういう人間を差別する場合であろう。
14世紀になるとペストが猛威を振るい、ユダヤ人が井戸に毒を入れた、というデマが飛び交った。
こういうところを読むと、人間って本当に変わらないものだと思う。人間の限界なのかな。日本では関東大震災のとき、朝鮮人が井戸に毒を入れた、というデマが飛び交い、そのために朝鮮人の虐殺が起こった。
今度、大災害が起きたときは、地震と原発がらみだろうから、どうにもならずに切羽詰まって逆上した日本人が、またデマを飛ばすだろう。今度は井戸がないから、どこに毒を盛るのか。そして標的になるのは、……。
それは必ずそうなる。学校では、もはや関東大震災における、朝鮮人虐殺は教えないし、小池東京都知事も、このことは特に取り上げない考えと見える(それは9月1日の震災記念日に、韓国人の団体に、追悼文を送らなかったことで分かる)。
もちろん朝鮮人虐殺の本はいくつもあるが、中学・高校生の過半数は本を読まない。10代で本を読む習慣がなければ、その人は一生、本は読まない。
だから大災害における毒入りのデマは、これからも必ず起こる、と思ったほうがいい。
「権力者とユダヤ共同体の『癒着』は、つまるところ、ユダヤ人が庶民のあいだで得た儲けを権力者が税金として吸い上げるという上納システムによって成り立っていた。ゆえに、権力者にとってユダヤ共同体は守るべき財産だったのだ。」
なるほど、ユダヤ人の特異な位置がよく分かる。
しかしこれはユダヤ人にとって、もろ刃の刃だったろう。そこに、反ユダヤ主義が芽生えるきっかけがある。
「ユダヤ人を金づるとして利用する権力者と、それを腐敗と捉える庶民のあいだにユダヤ人が挟まれるという三者関係こそが、一定期間秩序を維持しながらも庶民の反ユダヤ感情を蓄積していく。政変や不況などでこの権力者のタガが外れたとき、民衆の怨念は一気にユダヤ人に向かうことになった。」
反ユダヤ主義というのは、このくらい古い歴史を持った、根深いものだったのだ。
それが一気に噴き出したのが、十字軍のときだった。
1096年の第1回十字軍は、エルサレムに到達するまでに、ユダヤ人を迫害し続けた。
このころから民衆の間で、ユダヤ人が儀式のために、キリスト教徒の子供を殺し、その血を食用に使う、というデマが広がった。「ヴェニスの商人」の、シャイロックに付随するイメージも、ここに由来する。
なぜ、こんなデマが広がったのか。
「食用の家畜を屠るときに必ず血抜きをするのがユダヤ教の規定であるから、血を食用にすることは本来ありえない。この血抜きの習慣を断片的に見たキリスト教徒が想像を膨らませたのかもしれない。」
差別が問題になるときは、必ずこういうところから入る。これは昔も今も、そして古今東西、まったく同じである。
こういう言説は必ず、「民族」または「人種」を主語にしている。そして述部に入る動詞、形容詞は、ウソでも何でもいい。
人はすべて個人が原則である。悪い奴もいれば、良い奴もいる。それは、どんな民族または人種でも、まったく同じである。そこがよく分かってない人がいる。唯一、差別するのが正しい場合があるとすれば、こういう人間を差別する場合であろう。
14世紀になるとペストが猛威を振るい、ユダヤ人が井戸に毒を入れた、というデマが飛び交った。
こういうところを読むと、人間って本当に変わらないものだと思う。人間の限界なのかな。日本では関東大震災のとき、朝鮮人が井戸に毒を入れた、というデマが飛び交い、そのために朝鮮人の虐殺が起こった。
今度、大災害が起きたときは、地震と原発がらみだろうから、どうにもならずに切羽詰まって逆上した日本人が、またデマを飛ばすだろう。今度は井戸がないから、どこに毒を盛るのか。そして標的になるのは、……。
それは必ずそうなる。学校では、もはや関東大震災における、朝鮮人虐殺は教えないし、小池東京都知事も、このことは特に取り上げない考えと見える(それは9月1日の震災記念日に、韓国人の団体に、追悼文を送らなかったことで分かる)。
もちろん朝鮮人虐殺の本はいくつもあるが、中学・高校生の過半数は本を読まない。10代で本を読む習慣がなければ、その人は一生、本は読まない。
だから大災害における毒入りのデマは、これからも必ず起こる、と思ったほうがいい。
肝心のところが――『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで―』(鶴見太郎)(4)
ユダヤ教では、ラビの間で論争が奨励された。それで決着しない場合は、論争に参加したラビの多数決によった。
神の意図はどこにあるか、の解釈の相違をめぐって、多数決で決めるのである。いかに選ばれたラビたちとは言え、こんなことを多数決で決めていいのか。
私は疑問だ。全能の神の内面に踏み込むようなことが、人に可能なのだろうか。
だからユダヤ教は世界宗教にならずに、民族宗教にとどまっているのだ、と文句の一つも言いたくなる。
しかしともかく、ラビ・ユダヤ教は特異なかたちをとる。
「物言わぬ神の意図を引き出すにあたって、呪術やくじ、預言や奇蹟といった非理性的なものは退けられた。律法が地上に与えられた以上、法の決定は地上の賢者に委ねられているとして、ラビ同士が徹底して議論をして決定すべきだというのが、初期から続くラビ・ユダヤ教の文化である。」
そういうわけでラビ・ユダヤ教は、人が議論できる範囲に、限定する傾向にあるという。
ユダヤ教は、創造論と終末論をもとにした救済史観を持つが、これはラビ・ユダヤ教には当てはまらない、と著者は言う。
おいおい、そうするとユダヤ教には、2つあることになるではないか。ここからもう少し、議論を進めてほしかったなあ。
ラビ・ユダヤ教が確立するのは、紀元750年から900年の間、そのあいだにメソポタミアとペルシアの、ほとんどのユダヤ人が農業を離れ、アッバース朝の都市で暮らすようになった。
このあたり、世界史の遠い記憶が呼び覚まされて、懐かしい。
ところで、圧倒的多数が農民だったユダヤ人が、どうして街に住んで、金融や商業に携わるようになったのか。
ユダヤ経済の研究者は、ユダヤ教では律法の学習が中心になり、識字率が高くなったことがカギだった、と言う。
「金融や商業で成功するにはさまざまなことを記録し、計算し、整理しなければならない。この点でユダヤ人は有利だったのだ。当時のキリスト教やイスラームでは読み書きは宗教の中心にはなく、社会をおもに構成していた農民は教育を重視しなかった。」
なるほど、これはもっともらしい。
しかし教育には金と時間がかかる。当時の農民にとっては、何の足しにもならない識字率の向上は、労働力としての子供が割かれる分だけ、コストがかかり大変である。
「これに対し、ユダヤ教では、シナゴーグで律法を信徒の前で朗読する機会がある。息子がそれをうまくこなすのを見る(同胞に見せつける)ためならば、教育コストは惜しくないのだ。」
思わずなるほどと言いたくなるが、それは今の子弟の教育を、そのまま投影することになる。もちろん、昔も今も変わらないかもしれない、あるいは変わるかもしれない。これは傍証が出てこないと、正確なことは言えないと思う。
なお最初に言ったが、7世紀から13世紀まで、ユダヤ人の9割が、イスラーム圏で生活していた。
現在の国際政治を考えると、ユダヤ教とイスラームは、ときに殺し合いをするほど犬猿の仲だが、実際には共通点も多い。この本には「ユダヤ教とイスラームの近似性」として、細かいことが書いてあるが、私の関心を少し外れるので省略する。
神の意図はどこにあるか、の解釈の相違をめぐって、多数決で決めるのである。いかに選ばれたラビたちとは言え、こんなことを多数決で決めていいのか。
私は疑問だ。全能の神の内面に踏み込むようなことが、人に可能なのだろうか。
だからユダヤ教は世界宗教にならずに、民族宗教にとどまっているのだ、と文句の一つも言いたくなる。
しかしともかく、ラビ・ユダヤ教は特異なかたちをとる。
「物言わぬ神の意図を引き出すにあたって、呪術やくじ、預言や奇蹟といった非理性的なものは退けられた。律法が地上に与えられた以上、法の決定は地上の賢者に委ねられているとして、ラビ同士が徹底して議論をして決定すべきだというのが、初期から続くラビ・ユダヤ教の文化である。」
そういうわけでラビ・ユダヤ教は、人が議論できる範囲に、限定する傾向にあるという。
ユダヤ教は、創造論と終末論をもとにした救済史観を持つが、これはラビ・ユダヤ教には当てはまらない、と著者は言う。
おいおい、そうするとユダヤ教には、2つあることになるではないか。ここからもう少し、議論を進めてほしかったなあ。
ラビ・ユダヤ教が確立するのは、紀元750年から900年の間、そのあいだにメソポタミアとペルシアの、ほとんどのユダヤ人が農業を離れ、アッバース朝の都市で暮らすようになった。
このあたり、世界史の遠い記憶が呼び覚まされて、懐かしい。
ところで、圧倒的多数が農民だったユダヤ人が、どうして街に住んで、金融や商業に携わるようになったのか。
ユダヤ経済の研究者は、ユダヤ教では律法の学習が中心になり、識字率が高くなったことがカギだった、と言う。
「金融や商業で成功するにはさまざまなことを記録し、計算し、整理しなければならない。この点でユダヤ人は有利だったのだ。当時のキリスト教やイスラームでは読み書きは宗教の中心にはなく、社会をおもに構成していた農民は教育を重視しなかった。」
なるほど、これはもっともらしい。
しかし教育には金と時間がかかる。当時の農民にとっては、何の足しにもならない識字率の向上は、労働力としての子供が割かれる分だけ、コストがかかり大変である。
「これに対し、ユダヤ教では、シナゴーグで律法を信徒の前で朗読する機会がある。息子がそれをうまくこなすのを見る(同胞に見せつける)ためならば、教育コストは惜しくないのだ。」
思わずなるほどと言いたくなるが、それは今の子弟の教育を、そのまま投影することになる。もちろん、昔も今も変わらないかもしれない、あるいは変わるかもしれない。これは傍証が出てこないと、正確なことは言えないと思う。
なお最初に言ったが、7世紀から13世紀まで、ユダヤ人の9割が、イスラーム圏で生活していた。
現在の国際政治を考えると、ユダヤ教とイスラームは、ときに殺し合いをするほど犬猿の仲だが、実際には共通点も多い。この本には「ユダヤ教とイスラームの近似性」として、細かいことが書いてあるが、私の関心を少し外れるので省略する。
肝心のところが――『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで―』(鶴見太郎)(3)
紀元73年、ユダヤ王国はローマ帝国に戦いを挑み、最後は死海西岸にある要塞に追い込まれ、集団自決することで戦争は終わった。
これ以降、1948年にイスラエルが建国されるまで、ユダヤ人は国を持たないまま、世界の各地で暮らすことになる。
しかしここで、著者は次の注記を付す。
「もっとも、〔中略〕ユダヤ人はこのはるか前からオリエント世界各地に拠点を築くなど広範に拡散していたのであり、ユダヤ世界全体のなかで見れば、この国家の消滅は死活的な問題とはならなかった。」
国が亡ぶというのは、その民族にとって致命的と思えるが、著者はそういう見方をしていない。これはユダヤ人の特徴と言えるだろうが、そういう民族は、ほかにもいそうである。
では彼らは具体的に、どういう生活をしていたのだろう。
「ローマに国家を破壊され、ユダヤ人自身が国家的な政治を行うことがなくなるにしたがい、ユダヤ教では、律法の知識を共有するための教育を行い、律法に則った生活を実践するためにシナゴーグを中心にして集住するといった、日常生活の自治に政治が限定されることになった。シナゴーグも、各共同体の学校併設の公民館のような位置づけであり、キリスト教会のようなヒエラルキー構造は持たない。」
シナゴーグは神の神殿に代替しうるもので、このあたりから、いわゆるユダヤ人のイメージが出来上がってくる。
ここでユダヤ教とキリスト教の違いを、中世以降の、ある程度できあがったかたちで見ておこう。
「ユダヤ教は律法中心主義であり、それを日常生活で実践することが何出来上より重視される。安息日や食物規定(カシュルート)、割礼、他の神の信仰につながりかねない偶像崇拝の禁止などの遵守だ。実践の有無は外形的に判断できる。それは、例えば交易を行ない各地を訪れるユダヤ人同士が、お互いにユダヤ人であることを確認する印にもなった。」
これに対しキリスト教は、形ではなく内面を重視し、何よりも神への信仰が重要だとする。食物規定は廃止され、安息日についても厳格ではなくなった(電灯はいつでも消せることになった)。偶像崇拝についても、イエスやマリアの像が布教活動で使われた。
次の中世においては驚くべきことに、7世紀から13世紀まで、世界のユダヤ人の9割が、イスラーム諸国で生活することになった。これは、イスラーム世界を外敵と見なした中世ヨーロッパとは、大きな違いである。
ユダヤ王国の神殿がなくなると、ユダヤ共同体では、すがるべきは律法のみとなる。すると日常実際の場面で、律法をどう適応するかが問題になる。そのときの専門家がラビである。
ラビは、キリスト教の司祭や牧師のような聖職者ではなく、律法学者という方が近い。ユダヤ共同体において、ラビはしだいに中心的役割を果たすようになった。
「それゆえ、次第に、円滑に商取引を行うことができるラビこそが、大商人として活躍するようになる。共同体から給与をもらって生計を立てるラビが出現するようになるのは一四世紀に入ってからだ。」
なおラビの養成を標準化し、広範化するのはタルムードであるが、これは百科事典サイズで20巻ほどにもなる。
これ以降、1948年にイスラエルが建国されるまで、ユダヤ人は国を持たないまま、世界の各地で暮らすことになる。
しかしここで、著者は次の注記を付す。
「もっとも、〔中略〕ユダヤ人はこのはるか前からオリエント世界各地に拠点を築くなど広範に拡散していたのであり、ユダヤ世界全体のなかで見れば、この国家の消滅は死活的な問題とはならなかった。」
国が亡ぶというのは、その民族にとって致命的と思えるが、著者はそういう見方をしていない。これはユダヤ人の特徴と言えるだろうが、そういう民族は、ほかにもいそうである。
では彼らは具体的に、どういう生活をしていたのだろう。
「ローマに国家を破壊され、ユダヤ人自身が国家的な政治を行うことがなくなるにしたがい、ユダヤ教では、律法の知識を共有するための教育を行い、律法に則った生活を実践するためにシナゴーグを中心にして集住するといった、日常生活の自治に政治が限定されることになった。シナゴーグも、各共同体の学校併設の公民館のような位置づけであり、キリスト教会のようなヒエラルキー構造は持たない。」
シナゴーグは神の神殿に代替しうるもので、このあたりから、いわゆるユダヤ人のイメージが出来上がってくる。
ここでユダヤ教とキリスト教の違いを、中世以降の、ある程度できあがったかたちで見ておこう。
「ユダヤ教は律法中心主義であり、それを日常生活で実践することが何出来上より重視される。安息日や食物規定(カシュルート)、割礼、他の神の信仰につながりかねない偶像崇拝の禁止などの遵守だ。実践の有無は外形的に判断できる。それは、例えば交易を行ない各地を訪れるユダヤ人同士が、お互いにユダヤ人であることを確認する印にもなった。」
これに対しキリスト教は、形ではなく内面を重視し、何よりも神への信仰が重要だとする。食物規定は廃止され、安息日についても厳格ではなくなった(電灯はいつでも消せることになった)。偶像崇拝についても、イエスやマリアの像が布教活動で使われた。
次の中世においては驚くべきことに、7世紀から13世紀まで、世界のユダヤ人の9割が、イスラーム諸国で生活することになった。これは、イスラーム世界を外敵と見なした中世ヨーロッパとは、大きな違いである。
ユダヤ王国の神殿がなくなると、ユダヤ共同体では、すがるべきは律法のみとなる。すると日常実際の場面で、律法をどう適応するかが問題になる。そのときの専門家がラビである。
ラビは、キリスト教の司祭や牧師のような聖職者ではなく、律法学者という方が近い。ユダヤ共同体において、ラビはしだいに中心的役割を果たすようになった。
「それゆえ、次第に、円滑に商取引を行うことができるラビこそが、大商人として活躍するようになる。共同体から給与をもらって生計を立てるラビが出現するようになるのは一四世紀に入ってからだ。」
なおラビの養成を標準化し、広範化するのはタルムードであるが、これは百科事典サイズで20巻ほどにもなる。
肝心のところが――『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで―』(鶴見太郎)(2)
この本は『ユダヤ人の歴史』なので、当然『旧約聖書』から入る。
そこからは細かく見ていくと、私には面白いが、歴史教科書の要約みたいで、読んでいる方はあまり面白くないだろう。面白そうなところを、ピックアップしていく。
まずユダヤ人の定義について。
「ユダヤ人は、ユダヤ人の母から生まれるか、もしくはユダヤ教に改宗した者と定義される。この定義も二つの側面に対応している。ユダヤ人の母から生まれれば、極端な話、他の宗教に改宗してもユダヤ人と定義しうる。〔中略〕他方、非ユダヤ人も改宗可能ということは、血縁はなくても立法をまじめに遵守し、改宗が認められればユダヤ人と定義されうるのだ。」
どちらも知らなかった。特にユダヤ人の血縁は、母系制であるところ。
このユダヤ人の定義には、「その後の展開を占う重要な組み合わせを見出すことができる。ユダヤ人は血縁集団として同定される一方で、人類に普遍的な立法の担い手ともされる。集団としてのまとまりを保ちながらも、他の民族に対して開かれた状態もまた維持され続けるという緊張関係が内部につねにはらまれているのである。」
これは、建て前としてはそう言えるかもしれないが、ユダヤ教が開かれた宗教であり、いつでも他宗教に向かって開けっ広げに対話をする、というわけにはいかないのではないか。
しかし『旧約聖書』には、「『ユダヤ人』というアイデンティティが確立していく過程で、非イスラエル人が混じっていたことが明記されており、母系でたどっても『純血』が保たれてきたわけではない」ということだ。
そのように定義しながら、男と女の関係は実に古くさい。
「夫による妻の支配が明記されているうえ、出産の苦しみは自業自得だと突き放しているのだ。男性が畑仕事で苦労するのが当然であるように、女性が子を産むのに苦労するのも当然だとして、支配関係を伴う役割分担と苦痛に対する諦念を同時に提示している。」
昔のことだから(なにしろ紀元前だ)、「夫による妻の支配が明記され」るというのは、仕方がない。
とはいえ、宗教の話でうんざりするのは、仏教も含めて男女差が、見事に固定化されていることだ。
ユダヤ人は無痛分娩などは、宗教上の規定により認めないのかね。これは調べる価値がある。
さまざまな律法学者が、安息日について議論をする。
安息日に入ってから、仕事の続きをすることはできない。それなら金曜の日中に、終えることのできない仕事を、初めていいのか。その点をめぐる解釈の相違が、紀元200年ころの成文・口伝律法書(これを「ミシュナー」という)に記されている。
大事なことは、ここでは議論はするけれども、結論は出していないということだ。ここにユダヤ教の大きな特徴が出ている。
「できるだけ議論を積み重ねながら協同で慎重に解釈し、決してドグマ化しないという姿勢である。このためにユダヤ教には歴史上さまざまな派が出現する。それぞれがあくまでも論争を行うにとどまり、暴力を行使したり、あるいは単一の権威が唯一の決定事項を一方的に宣言したりすることは、基本的にはなかった。」
ユダヤ人の、他と違う著しい特徴は、この点だろう。神の定めた安息日について、人間の側が議論するということは、通常は考えられない。
そこからは細かく見ていくと、私には面白いが、歴史教科書の要約みたいで、読んでいる方はあまり面白くないだろう。面白そうなところを、ピックアップしていく。
まずユダヤ人の定義について。
「ユダヤ人は、ユダヤ人の母から生まれるか、もしくはユダヤ教に改宗した者と定義される。この定義も二つの側面に対応している。ユダヤ人の母から生まれれば、極端な話、他の宗教に改宗してもユダヤ人と定義しうる。〔中略〕他方、非ユダヤ人も改宗可能ということは、血縁はなくても立法をまじめに遵守し、改宗が認められればユダヤ人と定義されうるのだ。」
どちらも知らなかった。特にユダヤ人の血縁は、母系制であるところ。
このユダヤ人の定義には、「その後の展開を占う重要な組み合わせを見出すことができる。ユダヤ人は血縁集団として同定される一方で、人類に普遍的な立法の担い手ともされる。集団としてのまとまりを保ちながらも、他の民族に対して開かれた状態もまた維持され続けるという緊張関係が内部につねにはらまれているのである。」
これは、建て前としてはそう言えるかもしれないが、ユダヤ教が開かれた宗教であり、いつでも他宗教に向かって開けっ広げに対話をする、というわけにはいかないのではないか。
しかし『旧約聖書』には、「『ユダヤ人』というアイデンティティが確立していく過程で、非イスラエル人が混じっていたことが明記されており、母系でたどっても『純血』が保たれてきたわけではない」ということだ。
そのように定義しながら、男と女の関係は実に古くさい。
「夫による妻の支配が明記されているうえ、出産の苦しみは自業自得だと突き放しているのだ。男性が畑仕事で苦労するのが当然であるように、女性が子を産むのに苦労するのも当然だとして、支配関係を伴う役割分担と苦痛に対する諦念を同時に提示している。」
昔のことだから(なにしろ紀元前だ)、「夫による妻の支配が明記され」るというのは、仕方がない。
とはいえ、宗教の話でうんざりするのは、仏教も含めて男女差が、見事に固定化されていることだ。
ユダヤ人は無痛分娩などは、宗教上の規定により認めないのかね。これは調べる価値がある。
さまざまな律法学者が、安息日について議論をする。
安息日に入ってから、仕事の続きをすることはできない。それなら金曜の日中に、終えることのできない仕事を、初めていいのか。その点をめぐる解釈の相違が、紀元200年ころの成文・口伝律法書(これを「ミシュナー」という)に記されている。
大事なことは、ここでは議論はするけれども、結論は出していないということだ。ここにユダヤ教の大きな特徴が出ている。
「できるだけ議論を積み重ねながら協同で慎重に解釈し、決してドグマ化しないという姿勢である。このためにユダヤ教には歴史上さまざまな派が出現する。それぞれがあくまでも論争を行うにとどまり、暴力を行使したり、あるいは単一の権威が唯一の決定事項を一方的に宣言したりすることは、基本的にはなかった。」
ユダヤ人の、他と違う著しい特徴は、この点だろう。神の定めた安息日について、人間の側が議論するということは、通常は考えられない。
肝心のところが――『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで―』(鶴見太郎)(1)
ユダヤ人について知りたいと思っていた。それで養老孟司先生が推薦する、内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』を読んだ。
しかしもう一つよく分からなかった。
私が知りたいのは、おおざっぱに言えば、次のことである。
一、紀元後一世紀も経たずに滅んだユダヤ王国が、なぜ二十世紀に、突如としてイスラエルという国を作ったのか。
二、そのユダヤ人とは、ほかの民族と比べて、どんなところが際立って違っているのか。
三、ユダヤ人は、なぜホロコーストの犠牲者となったのか。
四、第二次大戦では、ホロコーストの犠牲者であったユダヤ人が、現在のガザではどうして、軍事力で絶滅する側に回るのか。
これはおそらく、誰でも考えつく疑問だろう。
それにしてもこの時期、『ユダヤ人の歴史』とは、誰でも思いつきそうで、しかし言った者勝ちの、盲点になりやすい企画である。
オビ表の惹句を見よう。
まず大きな字で「流転の果てに/手にしたものとは」とあって、次に小さな活字で「学問・芸術に長けた知力、富のネットワーク、/文化資本としての教育、迫害と加害の裏面史――/3000年におよぶ叡智をみる」とある。
ユダヤ人に対するイメージをうまく捉えている。
表紙袖の表は、もう少し具体的に書く。
「ユダヤ教を信仰する民族・ユダヤ人。学問・芸術に長けた知力、富のネットワーク、ホロコーストに至る迫害、アラブ人への弾圧――。五大陸を流浪した集団は、なぜ世界に影響を与え続けているのか。古代王国建設から民族離散〔ディアスポラ〕、ペルシア・ローマ・スペイン、オスマン帝国下の繁栄、東欧での迫害、ナチによる絶滅計画、ソ連・アメリカへの適応、イスラエル建国、中東戦争まで。三〇〇〇年のユダヤ史を雄大なスケールで描く。」
私の疑問を含んで、それ以外にも面白そうなところがてんこ盛り、これは読まずにはいられない。そういう読者を集めて、本書は2か月で4刷である。
まず「まえがき――ある巡り合わせ」のエピソード、これが鮮烈である。
著者の鶴見太郎は、ニューヨークはブルックリンで、金曜日の深夜、ユダヤ人の少年に呼び止められる。聞けば、家の電灯が何かおかしいというのだが、よく分からない。たぶんユダヤ教の規定のために、困っているのだろう、と見当をつけた。
「家のなかに案内されると、家長と思しき人が迎えてくれた。煌々と明かりが灯ったままの二階の寝室の電灯を消してほしいとのことだった。安息日に入る前に消しておくのを忘れ、このままでは安息日にもかかわらず熟睡できないということなのだろう。」
本当にそんなことを頼んだのか。にわかには信じられない話である。
安息日とはユダヤ教では、金曜の日没から土曜の日没までで、この期間は「休んでもよい日」ではなく、「休まなくてはならない日」であり、すべての労働は禁止される。
だから例えば、火をおこすことは禁じられ、ひいては電気のスイッチを操作することも禁止される。
さらに安息日に、異教徒を労働させることも、禁じられている。つまり電灯を消すのは、著者が気を利かせるかたちでなければいけない。最初に少年の言うことが、要領を得なかったのは、そういう事情があったのだ。
私は呆然とする。著者が、ユダヤに精通してたからよかったものの、たとえば極端な話、悪い人だったらどうするのか。なにしろニューヨークのブルックリンである。
しかし著者は、ここにこそユダヤ人の本質があるという。
「現代社会の最先端を横目に淡々と伝統を墨守するこのギャップにこそ、ユダヤ人の生き方の真骨頂がある。居住国と折り合いをつけながら、自らの原則は貫く。〔中略〕重要なのは、状況に自分を合わせるということでは必ずしもないことだ。むしろ自らの特性とうまく組み合わさるところに入っていき、多少は周囲との関係で自らを『カスタマイズ』しつつも、自らの特性を維持することが周りのメリットにもなり、そのことで自らの居場所がさらに安定化するという好循環を目指すのだ。」
どうやらこれがユダヤ人の、社会的に見たときの本質であるらしい。金融業の成功も、こうした視点から読み解くことができる、と鶴見太郎は言う。
しかしもう一つよく分からなかった。
私が知りたいのは、おおざっぱに言えば、次のことである。
一、紀元後一世紀も経たずに滅んだユダヤ王国が、なぜ二十世紀に、突如としてイスラエルという国を作ったのか。
二、そのユダヤ人とは、ほかの民族と比べて、どんなところが際立って違っているのか。
三、ユダヤ人は、なぜホロコーストの犠牲者となったのか。
四、第二次大戦では、ホロコーストの犠牲者であったユダヤ人が、現在のガザではどうして、軍事力で絶滅する側に回るのか。
これはおそらく、誰でも考えつく疑問だろう。
それにしてもこの時期、『ユダヤ人の歴史』とは、誰でも思いつきそうで、しかし言った者勝ちの、盲点になりやすい企画である。
オビ表の惹句を見よう。
まず大きな字で「流転の果てに/手にしたものとは」とあって、次に小さな活字で「学問・芸術に長けた知力、富のネットワーク、/文化資本としての教育、迫害と加害の裏面史――/3000年におよぶ叡智をみる」とある。
ユダヤ人に対するイメージをうまく捉えている。
表紙袖の表は、もう少し具体的に書く。
「ユダヤ教を信仰する民族・ユダヤ人。学問・芸術に長けた知力、富のネットワーク、ホロコーストに至る迫害、アラブ人への弾圧――。五大陸を流浪した集団は、なぜ世界に影響を与え続けているのか。古代王国建設から民族離散〔ディアスポラ〕、ペルシア・ローマ・スペイン、オスマン帝国下の繁栄、東欧での迫害、ナチによる絶滅計画、ソ連・アメリカへの適応、イスラエル建国、中東戦争まで。三〇〇〇年のユダヤ史を雄大なスケールで描く。」
私の疑問を含んで、それ以外にも面白そうなところがてんこ盛り、これは読まずにはいられない。そういう読者を集めて、本書は2か月で4刷である。
まず「まえがき――ある巡り合わせ」のエピソード、これが鮮烈である。
著者の鶴見太郎は、ニューヨークはブルックリンで、金曜日の深夜、ユダヤ人の少年に呼び止められる。聞けば、家の電灯が何かおかしいというのだが、よく分からない。たぶんユダヤ教の規定のために、困っているのだろう、と見当をつけた。
「家のなかに案内されると、家長と思しき人が迎えてくれた。煌々と明かりが灯ったままの二階の寝室の電灯を消してほしいとのことだった。安息日に入る前に消しておくのを忘れ、このままでは安息日にもかかわらず熟睡できないということなのだろう。」
本当にそんなことを頼んだのか。にわかには信じられない話である。
安息日とはユダヤ教では、金曜の日没から土曜の日没までで、この期間は「休んでもよい日」ではなく、「休まなくてはならない日」であり、すべての労働は禁止される。
だから例えば、火をおこすことは禁じられ、ひいては電気のスイッチを操作することも禁止される。
さらに安息日に、異教徒を労働させることも、禁じられている。つまり電灯を消すのは、著者が気を利かせるかたちでなければいけない。最初に少年の言うことが、要領を得なかったのは、そういう事情があったのだ。
私は呆然とする。著者が、ユダヤに精通してたからよかったものの、たとえば極端な話、悪い人だったらどうするのか。なにしろニューヨークのブルックリンである。
しかし著者は、ここにこそユダヤ人の本質があるという。
「現代社会の最先端を横目に淡々と伝統を墨守するこのギャップにこそ、ユダヤ人の生き方の真骨頂がある。居住国と折り合いをつけながら、自らの原則は貫く。〔中略〕重要なのは、状況に自分を合わせるということでは必ずしもないことだ。むしろ自らの特性とうまく組み合わさるところに入っていき、多少は周囲との関係で自らを『カスタマイズ』しつつも、自らの特性を維持することが周りのメリットにもなり、そのことで自らの居場所がさらに安定化するという好循環を目指すのだ。」
どうやらこれがユダヤ人の、社会的に見たときの本質であるらしい。金融業の成功も、こうした視点から読み解くことができる、と鶴見太郎は言う。