悪い奴らだが――『サカナとヤクザ―暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う―』

これは面白い。著者の鈴木智彦は、ヤクザ専門誌『実話時代』編集部を経て、『実話時代BULL』の編集長を務めたのち、フリーとして週刊誌などに、暴力団関連記事を書いている。
 
海産物のうち、アワビ、ナマコ、カニ、ウナギは高価だから、暴力団が密漁している。これがなかなか取り締まれない。
 
この本はかなり巧みに作ってあって、6章のうち半分は、直接取材している。あとの半分は、書物をツギハギしている。そのツギハギの部分が、少し弱い。
 
しかし全体としては、かなりよくできている。三陸アワビの密漁団、築地市場で密漁の行方を追う、黒いダイヤ・ナマコ、暴力団が牛耳っていた銚子、東西冷戦に翻弄されたカニの戦後史、ウナギの九州・台湾・香港シンジケートを追って、といった具合だ。
 
密漁に関しては、まず税金の類いを払わない、禁漁期間に禁漁区域で採る、採ってはいけない稚魚を採る、採れた地域をいつわる、といったところだが、もちろんそこには、ヤクザが群がる。

「密漁を求めて全国を、時に海外を回り、結果、平成25年から丸5年取材することになってしまった。関係者にとって周知の事実でも、これまでその詳細が報道されたことはほとんどなく、取材はまるでアドベンチャー・ツアーだった。」
 
確かにそういうことなのだが、読み終わって、これは困ったことだという気には、もうひとつなれない。
 
WEBRONZAの書評頁「神保町の匠」で、幻冬舎新書編集長の小木田順子さんが、「『悪いヤツらの話はなんでこんなに面白いんだろう!』というのが、一番の本音の感想だった」と記している。
 
そうなのだ、結局、悪い奴らも直接、市民に手を出すわけではない。悪いことは悪いが、でも彼らの悪足掻きは、見ていてちょっと面白いところもある。
 
それに、広く世界を見れば、漁業権だのなんだのは、いってみれば、むりやり設定したものじゃないか。
 
タラバガニが、ロシア産だの日本産だの、カニには関係ないじゃないか。禁漁区域も、禁漁期間も、人間が勝手に決めたものだろう。

もちろんそんなことを言っていれば、たちまち漁獲資源は枯渇する。たがら、ヤクザには一片の利もない、ということを前提に、それでも、「悪いヤツらの話はなんでこんなに面白いんだろう!」ということだ。

(『サカナとヤクザ―暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う―』
 鈴木智彦、小学館、2018年10月16日初刷、11月18日第3刷)
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日本語見本帳――『切腹考』(4)

この本のもう一つの柱は、死にゆく夫の看取りである。この本を書く二年前の春、著者は夫と一緒に、ロンドンに行った。

「夫は長旅に疲れ果て、タクシーによろぼい乗って行き先を運転手に告げたまま息も絶え絶えになっていた……」。
 
面白い、「よろぼい乗って」とは、じつにいい言葉だ。

「夫はそのまま、断末魔の形相のまま、ソファにひっくり返って動かなくなった。客死と書いてカクシと読むとわたしは考えた。二葉亭四迷もカクシ。芭蕉もカクシ。夫も、もしかしたらこのままカクシと心で何度も考えた。」
 
しかし夫は、まだ死なない。

「夫は老いの段差をウッカリと踏みはずし、がっくんと転げ落ち、その後、数か月のうちに、さらにいくつもの段々を転げ落ちていった。あれよあれよと歩けなくなり、手がふるえて、箸が持てなくなり、おしっこが洩れるようになり、うんこが拭けなくなった。……」
 
この後もこの調子が、さらにハイになって、延々続く。お分かりだろうか、これもまた詩なのだ。
 
これに、もちろんそうではない、通常の叙述も入る。

「去年の秋には、呼吸ができなくなった。医者に連絡を取ったら、ERに行けと指示されて、そのまま入院したら、心不全。腎臓の値がよくないのも見つかって、腎臓の専門医に送られて、腎不全。リュウマチ性の関節炎に脊椎管狭窄症、身動きするたびに疼痛に責め苛まれる。」
 
それでも夫は、まだ死なない。
 
そうして昨日のこととなる。夫はトイレで叫んでいた。トイレで転んで、うつ伏せになって、おしっこの中を泳いでいた。パンツやズボンや、むくみを取るためのストッキングを、全部脱がせて体を拭き、新しいのに着替えさせた。
 
ところが少したつと、もうだめである。

「しばらくして、あああ、と叫ぶので走っていくと、溲瓶の口からペニスがはずれて下半身がおしっこにまみれていた。パンツもズボンもストッキングも、ぜんぶ脱がせて体を拭き上げて、新しいのに替えた。三回目は、溲瓶を取ってくれと叫ぶから走っていくと、間に合わずにおしっこにまみれていた。
 本人は絶望していた。おれはどうなるんだろうと言うのである。」
 
さあ、どうなるんでしょうねえ、と言いながら、着ているものを全部脱がせると、べっとりうんこがついている。
 
ところがなんと、夫は拭かなくてもいいと、しらっとした表情で言うのである。

「そこでわたしは一計を案じ、あなたは気持ちがいいと思う、そうした方が、と言ってみた。すると、それなら拭いてもいい、おまえが拭きたいのなら、と夫があまりに厳かな調子で言うものだから、ありがとうございます、と思わずお礼を言いそうになった。」
 
素晴らしいオチである。詩というよりは、落語に近いけれども。
 
そして夫は、「死骸になり果てた」のである。

(『切腹考』伊藤比呂美、文藝春秋、2017年2月25日初刷)
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日本語見本帳――『切腹考』(3)

鷗外は、実は高校生になったぐらいのときに、熱心に読んだ。本当に熱心に読んで、日本の作家で一番好きなのは、鷗外だと思った。そのくらい、入れ込んで読んだ。

「山椒大夫」「高瀬舟」に始まり、「阿部一族」も「興津弥五右衛門の遺書」も「大塩平八郎」も「最後の一句」も「寒山拾得」も「堺事件」も「ぢいさんばあさん」も「渋江抽斎」も、とにかく文章の隅々までが、直接染みてくるようで、こんな作家は、他にはいるまいと思った。
 
そうして大学に入って、もう一度読んでみた。すると、もう全く感じない。全く、というと語弊があるが、そのくらい、感じないという点において、猛烈な落差があった。こんなことは、森鷗外だけに起こったことだ。

「鷗外が好き。
 そう書きつけてみたのはいいが、何からこの好きという感情を説明していったらいいのかわからない。」
 
伊藤比呂美がそういうのだから、鷗外については、ただ字面を舐めるだけにしておこう。

著者の鷗外の見方は、角度がついていて、それはそれで面白くはあるけれど、でも正直なところ、鷗外の本当の面白さは、伊藤比呂美が力説するわりには、僕には分からない。

それよりも、日本語見本帳としては、熊本は浄国寺の、谷汲(たにぐみ)観音の話が面白い。

「県外から客が来れば、谷汲観音を見に連れて行く。これがすごい観音菩薩像で、一見商売女にしか見えない。お歯黒をした口を半開きにし、細い眉毛が描かれ、なんとも言えない、なまなましい表情をして、少し後ろの何かを見つめている。」
 
これはぜひ見てみたい。仏像に、そういう劣情をもよおしたことは、まだ一度もない。

「……神々しさにむせ返るような思いをする。着物をめくると、胴体はまるで竹籠のように、骨格がむき出しで、女が半殺しになって虫の息でうっちゃらかされたようなその風情が、またいやにエロい。」

「女が半殺しになって虫の息でうっちゃらかされたようなその風情」とは、どんな風情なのかわからないが、それであれば、よけいに見てみたい。
 
それからズンバ。これは『たそがれてゆく子さん』では、読者はみな、伊藤比呂美ならズンバ、そんなことは言うまでもない、と言わんばかりに、説明は省略されていた。
 
しかし一つ手前の『切腹考』には、ちゃんと説明がある。

「ズンバとは、腰を回しながら踴りくるうエクササイズで、中年の女によって熱狂的に支持されているのだとか……」。
 
ズンバの先生は三十代後半、背は低く、筋肉こそついているが、ちょっと太めの女である。

「それがいったん踊り出すや、身体の常識をくつがえして、海中のタコカかイカのようにくねるのである。身体のあらゆるところを、ぷるぷると震わせることができるのである。」
 
そうして、クライマックスにさしかかっていく先生が言うのだ。

「まず腰をずんと落として、骨盤に神経を集中させるんです、それから尻の筋肉を左右に動かす、それから肛門を内側に突っ込み、膣を掬い上げるつもりで、肛門から膣へかけての筋肉を前後に激しく動かす、この一連の動きを素早くやれば、腹全体が動いているように見える……」。
 
本当にこれは、詩である。「肛門を内側に突っ込み、膣を掬い上げるつもりで」なんて、詩以外のどんな言葉で、言い表わすことができよう。脳の内側をむんずとつかみ、ただひたすら、頭蓋骨を揺さぶられている気がする。
posted by 中嶋 廣 at 18:37Comment(0)日記

日本語見本帳――『切腹考』(2)

このО氏の、表情の変化が面白い。もちろん、伊藤比呂美の目に映った限りでは、ということだ。
 
この辺も日本語の見本帳になる。

「玄関で出迎えられたとき、О氏はわたしを見て落胆した。切腹が好きなばかりか、セックスのことをあけすけに書いている若い女の詩人が来るから、どんな女か、誘えば一しょに腹が切れるか、そのあと血まみれになりながら我がペニスを挿入できるか、その挿入はこれまでのどんな挿入よりもすばらしく、つづく射精はどんな爆発かと浮き浮きして出てみたら、こんなに泥臭い、化粧っ気もない、若いだけでたいしたことのない女だったと、落胆したのが見てとれた。」
 
これは、どの部分がすごいかといえば、「そのあと血まみれになりながら我がペニスを挿入できるか、その挿入はこれまでのどんな挿入よりもすばらしく、つづく射精はどんな爆発か」というところ。
 
ペニスのない伊藤比呂美が、まるでペニスがあるかの如く、じつにリアルに、神経の襞をなぞっている。

切腹といえば、近松門左衛門や滝沢馬琴や鶴屋南北の、血まみれの死は、「とてもエロい」。その血まみれの切腹に、いちばん近いのはお産だ、と著者は見当をつける。
 
はっはっと息が荒くなって、「がっくり落ち入る」というラマーズ法は、どれほど快感が大きかろうと、期待していたのだか、痛いだけであった。
 
で、その次が面白い。

「そう言えば台所でしょっちゅう包丁で我が指を切り刻み、家人に血まみれのキャベツの千切りなどを食べさせていたが、あれも不快なだけだった。」
 
まざまざと浮かんでくるなあ、「血まみれのキャベツの千切り」。
 
切腹小説は、著者の見るところ、オノマトペに見るところがある。そうしてそれは、古いものほど見るべきところがある。

「昔に書かれたものほど、オノマトペが少なく、あえて使うときにも、生活の他の場面にも使えるような一般的なオノマトペをひっそりと使う傾向がある。ぞりぞり、ぐぐっ、ふーむ、(これはオノマトペではないが)笑み割れた臍(へそ)の上になどというのが、私の好きな表現だ。」

「笑み割れた臍の上に」のどこが気に入ったのか、皆目見当がつかない。
 
そういえば、この本の柱の一つである、森鷗外の「阿部一族」や「興津弥五右衛門の遺書」の読ませどころも、僕にはわからない。
posted by 中嶋 廣 at 18:28Comment(0)日記

日本語見本帳――『切腹考』(1)

編集者のО君に、伊藤比呂美の『たそがれてゆく子さん』を読んでるけど、面白いというと、ぜひ『切腹考』を読みなさいと言われた。
 
日本語を革新する旗手が三人いるが、そのうちの一人が、伊藤比呂美だと言われた。あとの二人は、聞いたけども忘れた。
 
読んでみると、なるほどすさまじく面白い。今現在の日本語が、何と言ったらいいか、伊藤比呂美においては、びっくりするぐらいどこまでも伸びてゆく。
 
自由気ままなエッセイだけど、本としては骨格がある。まず切腹について、そして切腹関連で、森鴎外の「阿部一族」とその関連、最後に伊藤比呂美の、死にかけている年の離れた夫。そういう構成になっている。
 
それぞれが、それ用の文体になっており、読んでいくと、もうまるで日本語の見本帳だ。冒頭の「切腹考」は、そういうものだということを、あっけらかんと披露している。
 
まず著者は、切腹するのを、実際に見にいく。

「うむと突き刺したとたんに、彼の顔が、さーっと青ざめた。青ざめて、生きている人の顔色とは思われないものになった。驚いた。人のからだの自然の反応だ。死ぬことについての。斬られ、えぐられ、断たれて、滅ぼされることについての。人のからだが、挿入した刃物をみとめ、受け止め、理解して、その場で反応したのである。」
 
最初から、一瞬にして上り詰め、絶好調だ。こういうところに連れてこられると、もう目が吸い付いて、離れなくなる。

「わたしは息を止めて見守った。右脇まで引き回し終えたО氏が、くり返すが本来ならば右まで引き回し、いったん刀を抜いて、返す刀で、みぞおちに突き刺し、そこから一気に下に切り下げて十文字腹にかっさばき、その後、やりたい人は臓腑をつかんで引きずり出し、まあそこまでやらなくても、十文字にかっさばいた後は、抜いた刀でとどめを、自分で首筋を左から右へ刺し貫くとか、心臓を突き刺すとかするのであるが、その前に意識がなくなるかもしれず、出血で目が眩み、ないしは吐き気に襲われて動くに動けなくなっているかもしれず、刀を握りしめた拳は、開こうという意志があっても、どうにも開かなくなっているかもしれず、ここは何としてでも、拳を開いて持ち直さないと心臓に突き立てられない、死にそびれたらこんな恥なことはあるまい、そう焦るが、てのひらは血に滑り、膝も腰も尻のくぼみまでも血に濡れるのが分かる、酸鼻を極めるとはこういうことかと我れながら思いつつ意識が遠のいていくのである。」
 
ふーっ、長い引用だ。でも、文章はたった二つ。何度読んでも、手に力が入って汗をかく。
 
しかし、切腹するОさんは、実際に絶命するところまではいかない。いったら大変だ。Оさんは、いわゆる切腹マニア、そういうのがあることを、私は初めて知った。
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お墓を見てぶつぶつ――『身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編―』(2)

この本の後書きである「その場に身をおくということ」に、面白い話が出てくる。

「30年前に、ウィーンで変なものを見たのである。
 ふと立ち寄った教会で、日曜日のミサの案内が貼ってあり、その中にハートに矢が射すようなマークがあったのだ。これはなんだ? その案内は、失敬して、後生大事に持っている。」
 
これは図版をそのまま、僕が編集した、養老さんの『日本人の身体観の歴史』に使わせていただいた。ウィーンの教会でミサがあり、そこには案内板として、ハートに矢を射た絵があったのだ。

養老さんは、その奇妙な図版を、ずっと気にかけてきたのだが、それは実は、そのまま心臓信仰を表わしていた。だから例えば、聖心女子大学の「聖心」とは、もともと聖母マリアの御心(みこころ)、すなわち心臓そのものなのだ。

この辺りは、養老さんの推理が、冴えに冴えわたる。

だから「第1章 ハプスブルグ家の心臓埋葬」は、『日本人の身体観の歴史』を、そのまま発展させたものなのだ。

「ハプスブルク家の一員が亡くなると、心臓を特別に取り出して、銀の心臓容れに納め、ウィーンのアウグスティーン教会のロレット礼拝堂に納める。肺、肝臓、胃腸など心臓以外の臓器は銅の容器に容れ、シュテファン大聖堂の地下に置く。残りの遺体は青銅や錫の棺に容れ、フランシスコ派の一つ、カプチン教会の地下にある皇帝廟に置く。つまり遺体は三箇所に埋葬される。」
 
心臓信仰の淵源は、結局わからないが、しかし文化的背景は実に興味深いものだ。
 
と同時に、キリスト教信仰も、ヨーロッパに長く暮らしてみれば、決して明澄なものではないことがわかる。心臓信仰といい、マリア信仰といい、一見わけの分からぬ「土俗」は、西洋にもある。
 
そういうこととは別に、本筋とは関係なく、養老さんの話には鋭い警句、本質を突く話が出てくる。

「石油が現代を作り、おそらく石油の消滅とともにその現代が消えるはずである。……私が育った時代は経済のいわゆる高度成長期で、これを物質的にいい換えるならば、石油を代表とするエネルギー消費の成長にほかならなかった。」
 
湯水のように石油を使い、そのことを一般には、誰も考えていない。しかしもちろん、遠からぬうちに、石油は枯渇する。
 
トヨタと日産・ルノーが、車の出庫台数を競うなど、本当に愚かしい。じっと家で本を読む方が、よほど未来を先取りしていることに、もうすぐ気がつくころだ。

(『身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編―』
 養老孟司、新潮社、2014年5月30日初刷)
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お墓を見てぶつぶつ――『身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編―』(1)

養老孟司さんの『骸骨考―イタリア・ポルトガル・フランスを歩く―』が面白かったので、その前編、『身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編―』も読んでみる。
 
これは出たとき書店で見て、買うのをやめた記憶がある。どうしてやめたんだろう、とつらつら頁を繰りながら見ていくと、だんだん思い出してきた。
 
編集が『骸骨考』と違って、図版が三カ所に分かれて入っていて、しかも本文中に、本文とは別に、図版込みで、細かい字で、一ページの挟み込み解説がある。
 
それは、たとえばこんなふうだ。「ハプスブルグ家の歴史」「ハプスブルグ家の埋葬方法」「葬儀博物館」「ヴィッテルスバッハ家の埋葬」「日本の骸骨」。
 
どれも面白そうだ。けれどもこれらは、養老さんの語りの邪魔をする。編集者はよかれと思ってやっているが、それが裏目に出たかたちだ。この辺はなかなか難しい。
 
続編の『骸骨考』では賢明にも、一ページの挟み込み解説は無しにしている。
 
とにかく本文の他に、註に当たるものが、本文註と巻末の図版解説の、二カ所もあるのは煩わしくて、養老さんを読む邪魔になる。
 
と文句を言っておいて、とにかく読んでみよう。

「フレデリック・ルノワール『人類の宗教の歴史』(トランスビュー)を読んでいたら、『十万年前のホモ・サピエンスの信仰については、墓以外になにも知るすべがない』と書いてある。」
 
フレデリック・ルノワールは、フランスの売れっ子宗教学者。これは、僕が編集を担当して、養老さんに送ったものだ。養老先生なら必ず目を通されるはずだ、と思っていた。
 
ここでは巻頭、お墓や埋葬儀礼はよくわからん、だからヨーロッパの墓をめぐるのだ、と宣言している。
 
で、最初にデカルトが出てくる。デカルトは、目は二つあるのに、モノは一つにしか見えない、これはどういうことか、という疑問を唱えた人である。そうしてついに、結論を導き出す。

「……モノを認識している心の座は、両半球の間に単独で存在している松果体にあるに違いない。」
 
これは、今となっては間違いだが、当時の知的水準からすれば、はなはだ論理的であろう、と養老さんは言う。

「意識の座は大脳半球にある。それが二つあるなら、モノはどうして一つに見えるのか。現代人でも、それにきちんと答えられる人は少ないであろう。もし意識が完全に『唯物論的』であるなら、物理・化学的に意識が定義できるはずである。しかもその定義は『意識が行う』はずである。では意識が先か、モノが先か。」
 
ここでは、設問が二段重ねになっている。最初の疑問に答えられる人は、そもそも少ないだろうとして、次に意識を定義するのに、仮に物理・化学的に定義したとして、その定義は意識が行うとすれば、さて「では意識が先か、モノが先か」、というのである。
 
高次脳機能障害の僕は、より一層、頭がくらくらしてくる。
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健在! 養老節――『骸骨考―イタリア・ポルトガル・フランスを歩く―』(4)

世界はまったくの無原理主義だと、どうしようもなくなる。しかしガチガチの原理主義だと、これもあるところから、狂気に近づいていく。養老さんはそう言う。

「世界にそんなにちゃんと筋が通っている保証なんかない。筋が通るのは頭の中だけで、若い頃から私は『筋が通れば、道理が引っ込む』と思っていた。筋が通るのは一種の快感だから、それはそれでいい。でも頭の中だけではなく、それで世界を左右しようとすると、とんでもなく問題が生じてしまうことがある。私は原理主義をそんな風に規定している。イスラム国もそうだが、原理主義者に網の目をどう理解させるか、まだ私は解答を発見していない。」
 
これは昔、仏文の渡辺一夫先生が、口を酸っぱくして仰っていたことだ。寛容は、非寛容に対して寛容であるべきか。

終戦直後の仏文研究室で、加藤周一さんたちが、新しい日本をどう建設するか、という議論に熱くなっているときに、渡辺一夫先生は、たまにはこういうのも聞いた方がいいんじゃないのと言い、大きな音で軍艦マーチをかけたという。
 
養老さんは、原理主義者に網の目をどう理解させたらよいか、自分はまだ解答を見出していないというが、これはひょっとすると、人間の限界ではないかとも思う。
 
もちろんそうは言わず、昨日までの僕は、人間の限界などと言わずに、それでも本を作っていたわけだが。
 
そもそも骸骨と対峙しているとき、養老さんは、いったいどんな気持ちでいるのか。

「骸骨が与える衝撃の強さなどというものは、自分の気の持ちようだけだから、訓練次第でどうにでも抑えられる。白骨を見ながら、要するに私は自分を訓練する。……でも仕掛けてこない相手としては、整然と並んだ千五百個近い骸骨の衝撃は、なかなかのものである。これはこれで格闘技だな。骸骨に直面しつつ、私はそう感じる。」
 
僕は養老さんを読んでいると、脳出血より前の脳が、復活するように感じる。一度死んだ脳の部分は、蘇らないと言われるが、それにしては、まざまざと復活を感じる。

(『骸骨考―イタリア・ポルトガル・フランスを歩く―』
 養老孟司、新潮社、2016年12月20日初刷)
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健在! 養老節――『骸骨考―イタリア・ポルトガル・フランスを歩く―』(3)

ところで、「意識」が扱うことができるのは、時間的に変化しないもの、つまり「情報」だけである、というのが養老さんの大前提である。
 
よく考えると、この前提はかならずしも、絶対的なものではないような気がするが、養老孟司の文章を読んでいるときには、ついつい快調なペースに乗せられて、ふむふむと納得してしまう。

情報は変わらない、ところが実際の世界は、常に目まぐるしく動く。「諸行無常」である、という決めゼリフが出てきては、もうだめである。

「だから情報化社会はむやみに忙しい。概念や観念によって世界をなんとか固定つまり情報化するのだが、そのそばから世界自体は動いてしまう。それで古いとか新しいとか、レッテルを貼ってみるが、どのみち情報は固定し、世界は動く。固定された情報はいつまでも残存して消えないから、情報過多だという話になる。」
 
なるほど、それで情報は過多だという話になるのか。でもそれなら、最新の情報が出たところで、それより一つ手前の情報は、破棄してしまえばいいではないか。ちょうど、上書きの上に、上書きを繰り返すようなものだ。
 
でも、そんなふうには、誰も思わない。それが養老さんの、文体の魔術である。
 
それにしても、ヨーロッパの墓巡りとは、優雅なものですなあ。そういう人は、養老さんを全く理解していない。
 
イタリアのサン・ベルナルディーノの納骨堂を見学した後、外に出て教会の外観を眺めてみる。外の柱には、すり減った骸骨が二つ、頬を寄せあって描かれている。そのすぐ下に、聖書の言葉、「与えよ、さらば与えられん」が掲げられている。これは、ちゃんと図版まで載せてある。その図版を見て言う。

「なぜ骸骨がそれをいうのか、意味がわからない。こういうものをいちいち調べていると、いくら時間があっても足りない。世界は詳細に満ちていて、ゾウムシを調べているだけで十分すぎる。それだけで生涯がつぶれてしまう。」
 
ここでは骸骨が、聖書の文句を述べている理由の考察は、ゾウムシの生態を解き明かすことには、及ばない。養老孟司は、もう十分に忙しいのである。
 
そうかと思えば、脳死から話が飛躍して、横浜市では単身世帯が四割を占めていて、共同体が実質的に、異質の社会になりかけてはいないか、という話になる。

「人生とはなんのためなのか。独居老人にとっての生死の意味はなにか。独身の一人暮らしの若者の生の意味とはなにか。状況依存の社会で単身世帯四割という状況が出現すれば、生死は『自分のもの』という暗黙の了解が生じて当然であろう。具体的にはそうとしか、考えようがないからである。ところが『自分のもの』という人生は、年老いてみればわかるが、貧しいものである。」
 
これも考えようによっては、常識的な結論に帰着している。
 
しかしこれは、その前段の、独り者は身近な共同体を持たないがゆえに、直ちに国家と結びついてもおかしくない、というところに肝がある。ここでは養老さんは、過度の原理主義を警戒しているのだ。
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健在! 養老節――『骸骨考―イタリア・ポルトガル・フランスを歩く―』(2)

養老さんのお墓の調査には、何の目的があるのだろうか。

「……お墓の場合には、どういうアナロジーが、どういうこととの間で成立するのか、それが自分でもわかっていない。だからお墓をひたすら回る。それしか方法がない。いずれなにか出てくるかもしれないし、結局出てこないうちに死ぬかもしれない。人生はそういうもので、つまりそれはそれで仕方がないのである。」
 
墓めぐりをしている間に、人生とはどんなものか、悟りを得てしまう。これが養老孟司。まったく、たまんないなー、である。
 
個人の歴史の上で、意識が発生する始まりを考えると、結局いつの間にかもの心がついて、意識が発生している。

「だからいつの間にか意識が消えて死ぬはずである。つまり意識を左右している主体は、意識ではない。それではなにかというなら、身体に決まっている。だから私はそれを『脳』と呼ぶ。脳は身体の一部だからで、意識は脳機能の一つにすぎない。」
 
これ、わかりますか。非常に明晰なのだが、一般の前提は、意識がすべてだから、「意識は脳機能の一つにすぎない」というのを、なかなかすんなりとは納得できない。
 
それどころか、身体も、あくまでも意識の中に取り込もうとする。

「それが健康志向の根本にあって、だからサプリメントであり、ジョギングであり、禁煙であり、ダイエットなのであろう。」
 
なるほど、これはよく分かる。「健康志向」は、意識のためにそうするのであって、身体のためには、特に役に立っていない。……えっ、本当にそうなの?

本当にそうだろうか、そういう疑問を差し挟む余地のないほどに、養老さんの頭の回転は、いよいよ鋭さを増していく。

「意識的に可能であって、論理的かつ合理的なら、それが正しいことである。意識はそう主張するであろう。では身体はどうか。身体はなにを主張するのか。黙って生まれ、黙って育ち、黙って死ぬ。その身体が意識を根本的に左右している。現代人はそこをどう思っているのか。というより、歴史的にも、昔から、それをヒトはどう思ってきたのだろうか。」
 
というような問題意識があって、それで墓参りをしている。これ、分かりますかね。
 
養老さんには、普通の人間は持っていない、もう一つの脳がある、と僕は思う。意識と身体に分かれている人間を、統一的に見るための、もう一つの脳。

それは言ってみれば、世界に向かうところの、第三の目であり、松果体の上についている《もう一つの脳》である。
 
養老さんは子どものとき、よく頭の大きいのをからかわれたという。「頭はでかし、ようろうたけし」、と囃されたと、養老さんのお母様で医師の静江先生が、自伝の中で書いておられる。当たり前であろう、なにしろ脳が二つ入っているのだから。
 
というようなヨタを、つい飛ばしたくなるほど、養老先生の思索は深い。底なしに、角度を変えて、深い。
posted by 中嶋 廣 at 08:59Comment(0)日記