究極の読書――『霧中の読書』(荒川洋治)(3)

「流れは動く」は、西東三鬼の俳句について。
 
山本健吉『現代俳句』を、高校時代に松尾稔先生が薦めておられたので、読んでみた。とりわけ面白かったのは、山口誓子と西東三鬼。その西東三鬼である。

「西東三鬼は、岡山県津山市生まれ。シンガポールと東京で歯科医を開業。東京・神田の共立病院歯科部長のとき、患者を通して俳句を知る。そのとき三三歳だから出発はおそい。」
 
そんなこともすっかり忘れていたが、句は今も鮮烈に浮かんでくる。

  水枕ガバリと寒い海がある

  おそるべき君等の乳房夏来〔きた〕る

  中年や遠くみのれる夜の桃

  露人ワシコフ叫びて柘榴打ち落す

  広島や卵食ふ時口ひらく

ここに取り上げられている句は、僕でも口を突いて出てくる。

「際立つ句が、次々に見つかる。こうした名句の内側をたどる。あるいは周りの句の表情を見つめる。どちらも楽しい。さらに、それらがとけあって別の景色に変わることもある。人の視界を大きく開く。そんな作品を西東三鬼は書いた。」
 
最後の文章の、「人の視界を大きく開く」というのが、たまらない。

「底にある本」は国語辞典の話。ここで荒川洋治は、驚くべきことを言う。

「ことばや、ことばの使い方に、ぼくの場合は、まちがいが多い。あやしいと感じたときは、文字やことばを、辞典でたしかめなくてはならない。正しいと思っていたことが、くつがえる。それでわずかでも、ものを知ることになる。自分の力だけでは、文章は一歩も進まないのだ。」
 
そういうふうに言葉に磨きをかけ、彫琢を凝らしているから、深く人を感動させる文章が生み出せるのだ。
 
そのときに使う辞書は、『広辞苑』の他に、久松潜一監修『新装改訂 新潮国語辞典 現代語・古語』である。
 
いや、これは知らなかった。名前を聞くのも初めてである。

「現代語と古語をともに収録するので、とても便利。古語辞典にいちいち手を伸ばさなくても済む。毎日のように使うので、本がくたびれてきた。この辞典は現在発行されていないが、古書店でもまず見つからない。」
 
まいったな。現在、発行されてなくて、古書店でも見つからないとなれば、ほとんどお手上げである。
 
著者はそれでも、古本屋で見つけた。それだけでなく、その前の『改訂 新潮国語辞典』も見つけた。

「編者のことば」は旧版でも、同じである。

「従来の国語辞典が『現代語』と『古語』を区別して、別々に出ている(古語は『古語辞典』、現代語は『国語辞典』という名で)のは、『辞典の本来あるべき姿からいっても』十分ではないこと、『二つを切り離して扱うのは、学理的にも問題の多いこと』であり、『古語と現代語とを有機的に結び合わせて説くのでなければ』意味はない、と。」
 
この扱い方についての、荒川洋治の意見はこういうものだ。

「そこから、この辞典がつくられたとある。国語辞典の理想が実現していることになる。だからとても大切な、意味のある辞典なのだ。」
 
手放しの絶賛である。
 
しかし新潮社は『新装改訂 新潮国語辞典 現代語・古語』が、時代とともに売れなくなって、発行をやめてしまった。
 
これもコンピュータ―全盛の弊害だろう。

僕だって分からない言葉は、パソコンかケータイで引くだけで、言葉の意味をじっくり溯って味わうことは、なくなってしまった。
 
だいたい紙の辞書でなければ、その周辺も含めて読むということは、成り立ちようがない。

究極の読書――『霧中の読書』(荒川洋治)(2)

「現象のなかの作品」の章に、さらに見出しを立てて、その一つに「活字の別れ」という節がある。
 
活字離れというのではなく、印刷の方法が変わってきたことを、述べたものだ。
 
活字は鉛と錫とアンチモンの合金で、それを文選工が拾って、版を作っていく。明治から昭和まで、活版印刷は続いたが、写植文字が登場し、1970年前後から、オフセットへの転換が始まった。今では活版で刷るところは、ほとんどない。

「活版印刷では凹凸面が、じかに用紙と接する。オフセットは、インキをブラケットという樹脂・ゴム製の転写ローラーにいったん移して紙に転写するので、版と用紙がじかに触れない。紙に、文字がくいこむのが活版。立体感がある。刷られた文字に格調がある。オフセットではそれがないので紙面の印象は平板。」
 
だから70年代の初めは、オフセットは見劣りがしたが、今はそれほどでもない、と荒川洋治は言うが、僕は最初から大して気にならなかった。本を物神として扱う熱意が、著者に比べて、薄いのだろう。
 
それよりも、手書き原稿から、パソコンによる原稿作りに変わって、劇的な変化が起きた。

「活版は、一つ一つの活字を職人たちが拾って組み上げるので、書き手も、手間をかけさせてはいけないと思い、正しいことばでしっかり、まちがいなく書こうと、多少とも気を引き締めたものだ。いまはパソコンの画面のなかでつくり、訂正や差し替えも容易。他人の介在がないので気軽になり、文章もかるく書いてしまう面がある。書く量も増大した。」
 
これを、何ともしょうがないことだ、としてよいのだろうか。
 
その結果、作家を取り巻く環境が変わった。存在感が軽くなった分だけ、「作家さん」と呼ばれるようになった。「作家さん」は、勝手口から入る「御用聞き」と似ている。夏目漱石や森鷗外を、「作家さん」とは呼ばない。井伏鱒二や大岡昇平も、「作家さん」とは呼ぶまい。これは僕の意見である。

「活字の別れ」はまだ続く。

『そうかもしれない』の耕治人などは、最後まで活版であった。

以下は僕の補足。『そうかもしれない』は、認知症になった妻を、老人ホームに尋ねていくと、妻は対面しても何も言わない。介護職員が見かねて、旦那様ですよと言うと、少したってボソッと呟く、『そうかもしれない』、と。まったく唸るような見事さだ。
 
再び荒川洋治の言葉。

「〔耕治人たちの〕共通点は寡作であること、少数だが一定程度の読者をもったこと、その著作が美術品のようなものであることを読者も願ったこと。活版にふさわしい人たちだった。結城信一、島村利正、耕治人はそれぞれ特色のある文学を熟成させ、昭和後期に亡くなった。活版文化と共に生きた人たちだ。彼らのような作家はその同世代でも稀少だ。」
 
同じ世代でも「稀少」だったのだから、今はもういない。
 
そういうふうになると、究極、本はどうなるか。

「すべてがオフセットの時代になると、書物に対する気持ちがうすまる。本という『物』を見つめることで、内容のよさ、文章の美しさだけではなく、『物』が生まれるまでにかかわる人たちの工夫や努力、多くの人の存在の手触りを感じるなど、さまざまなことがわかって意識が広くなる。そうしたことがないと書物はただの情報の容物になってしまう。」
 
紙の本と、パソコン・データーで読むのとが違うのは、つまりそういうことだ。
 
しかしこれは作り手の話。キンドルでなければ読むことができない、という人がいるのも事実だ。本の内容、つまり情報が、さまざまなかたちで人に手渡されるのは、喜ぶべきことではないか。
 
僕はそう思うが、読み手の側に立ったときの、荒川洋治の意見は知らない。

究極の読書――『霧中の読書』(荒川洋治)(1)

荒川洋治の書評集というよりは、読書遍歴を、いくぶん詩のような文章で綴ったみすずの本である。
 
編集は尾方邦雄氏。オビは、僕なら苦労するところだが、尾方さんなら、さほど苦労はしないのだろうか。これは聞いてみたい気がする。
 
オビ表。

「『いい本にはいつも新しい世界がある。あとからわかる、不思議なこともある。だからいい本はこれからも、いい本である。』真剣に面白い、充実の近作46編。」
 
これは、どこか一節を抜こうと決めたら(こう決断することが難しいが〉、あとは比較的簡単と思う。
 
みすずの本は、カバー裏が踏み込んだ解説になっている。ここが、比較的高い定価を納得させるかどうかで、編集者の腕試しというところがある。

「これまで多くの読者と高い評価に支えられてきた散文集シリーズ.『忘れられる過去』(講談社エッセイ賞),『過去をもつ人』(毎日出版文化賞書評賞)につらなる本書もまた,ぶれない著者の発見と指摘に,読む者は胸を突かれ,思念の方位を示される.そのありがたみは変わらない.」(抜粋)
 
こういう書き方がしてあると、ファンにとってはたまらない。とくに「そのありがたみは変わらない」とあれば、いちど手に取った本を、棚に戻すことは難しい。これは本の呼び水というよりは、いくぶん宗教の勧誘に近い。
 
以下は気になったところや、感心したところ。

「美の要点」の章は、色川武大のエッセイ、『うらおもて人生録』を取り上げる。

「『大勢の他人のことを想う』ことは容易ではないが、それ以前に、『大勢の他人のことを想う』という視点そのものが、通常の人の人生では存在しない。でももしそれがあるとしたら、そこには普段見えることのない、いいものがあるのだ。自分を忘れるほどの新しくて楽しい世界が、そこから開かれていくのだと思う。あらためて色川武大の思考のすばらしさに思いを凝らしたい。」
 
こういうところが、荒川洋治の素晴らしさだ。「『大勢の他人のことを想う』という視点そのものが、通常の人の人生では存在しない」というところに、僕は気がつかなかった。

『うらおもて人生録』は文章の密度が高く、人間について、新しい発見をしながら読み進むので、大変時間がかかる、という。
 
こういうのは、日本の人生論にはなく、荒川洋治はアメリカの作家、シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ、オハイオ』を思い出したりする。

「〔『ワインズバーグ、オハイオ』は〕一つの町のなかで生きる人たちの孤独な、でもそれぞれに大切な人生を映し出したもので、二二編の短編は一つ一つがすばらしい重みをもつので、とてもひといきには読めない。だがそらおそろしいほどの感動をおぼえる名作だ。色川武大のエッセイは、アンダーソンの短編を思わせる。そんなはるか遠い例しか思いつかないほど、色川武大の文章は特別なものだ。」

「そらおそろしいほどの感動」を呼ぶ『ワインズバーグ、オハイオ』は、何種類か翻訳があって、手を出しそびれていた。荒川洋治のこういう文章を経験したら、読まずに済ますことは難しい。

最高の本――『唯脳論』(養老孟司)

山田太一の『月日の残像』を終わりまで朗読したので、この次の朗読は、養老孟司の本でなければ釣り合いが悪い。
 
で、『唯脳論』である。35年も前の本なのに、読んでいると、まるで昨日書かれたように新しい。
 
ここですでに、人工知能の話が出ている。養老さんは、「人工知能が人間を置き換えるというのは、単なる誤解に過ぎない」という。機械はヒトの脳ほど、いい加減なものではない、という。

「それなら、ヒトの脳を置換するものはないか。それはもちろんある。あると思う。それはなにか。ヒトの脳を包含する脳である。」
 
それがChatGPT を超えるAIで、テスラのイーロン・マスクCEOは、この2年のうちに、完成品をご覧にいれよう、と言っている。

『唯脳論』の予言が、それが現われてから、35年を超えたあたりで現実になる。見てみたい気もするが、イーロン・マスクが言うのでは、見たくない気もする。この人は本当にいけ好かない。しかしそんなことは関係なく、来年には見ることになるだろう。
 
次は「言語の周辺」の章から。

「注視ニューロン」という細胞が、サルの視覚系にあることが知られている。訓練したサルの脳には、対象を注視している間、放電しているニューロンが検出される。これを注視ニューロンといい、注視ニューロンが出ているのは、じっとしたサルがいいという。
 
ここで突然、時代劇作家の名が出てくる。

「中里介山の『大菩薩峠』に、サル回しのサルの正しい選び方が書いてある。それには、キョロキョロしないサルを選ぶことだ、という。こういうサルを始めから使えば、注視ニューロンが捕まるかもしれない。」
 
なるほど。しかし養老さんは、真面目なんだろうな?

「介山によれば、こういうサルは滅多にいないからサル回しが苦労する。そもそもサルというのは、勝手にキョロキョロするものであり、注視ニューロンが多いサルは、サルの秀才かもしれないが、なんとなくサルらしくない。つまり、脳にはそういうところがある。」
 
含み笑いしつつ、やっぱり最後は正論に返る。どういう状況に置かれた脳が、本当の脳なのか。この辺りが脳の実験の難しいところだ。
 
次は「形とリズム」。

「『形の神髄はリズムである』。そう言ったのは、私ではない。哲学者の中村雄二郎氏であり、亡くなられたが、解剖学者の三木成夫氏である。つまり、視覚対象の抽象化が行き着く果てまで、『形』を徹底的に考える。そこで、だしぬけに『リズムだ』と膝を叩く。悟りが開ける。ここのところがなんとも言えない。名人伝である。」
 
私にはこの文章の方が、養老孟司の「名人の技」に思える。

『唯脳論』は、自分が70年生きて来て出会った、もっともすぐれた本である。内容の独創性、構成、文体、組み方、装幀、すべてにおいて、これを凌駕するものはない。

(『唯脳論』養老孟司、青土社、1989年9月25日初刷、1992年5月1月5日第9刷)

今とは別の将棋界――『一葉の写真―若き勝負師の青春―』(先崎学)

この本が、最初に単行本で出たのは1992年2月。僕は筑摩書房を辞め、法蔵館で仕事をしだしてから、5年くらいたったころだ。
 
法蔵館は仏教書を中心とする出版社だから、僕もそれふうの本を出し、それをカモフラージュにして、養老さんや池田晶子さん、森岡正博さん、島田裕巳さんなどの本を出していた。
 
養老孟司さんの『神とヒトの解剖学』、池田晶子さんの『事象そのものへ!』、森岡正博さんの『宗教なき時代を生きるために』、島田裕巳さんの『戒名―なぜ死後に名前を変えるのか―』など、懐かしい本がいっぱいある。
 
そういうふうに仕事で一杯一杯のときだったから、書評で面白そうな本を見ても、仕事でかすりもしない本は、手が出なかった。
 
しかしこの本は、長く印象に残った。この前、古本屋で見たときまで、頭の古層に残っていたのだ。
 
この本は先崎学の処女作である。米長邦雄の内弟子として、三段から四段に上がるころを中心に、10代後半のハチャメチャな日々、つまり青春を描いている。
 
30年前の将棋界は、今とはかなり違っている。「序」を米長邦雄が書いている。その書きぶりが、すでに別の将棋界である。

「二人〔=先崎学と林葉直子〕が内弟子でいた三年間は、師匠の私はほとんど愛人の家に入りびたりで〝火宅の人〟であった。その嵐の中にあって、三冠王から四冠王へと歩んでいったのだが、女房も含めて、まさしくそれは人生の大半を、僅か数年に凝縮した感のある日々であった。」
 
こういうことを、後に将棋連盟会長になる人が、あっけらかんと書いている。しかもその怒濤の日々を経るうちに、三冠王から四冠王になっているのだ。
 
これは、藤井聡太が八冠王となって君臨し、その将棋界全体を、羽生善治が会長として睨みを利かせる、というのとはまったく別世界である。
 
例えばその頃の奨励会。

「……ヒロアキは立派だった。将棋は弱く、才はなかったが、彼は立派な戦士だった。夢を持ってこの世界に入り、挫折し、故郷に帰っていった。帰るときの顔は、病気のような顔だった。毎日のように麻雀を打ち、酒を飲み、その間に恋をして、そして敗れた。」
 
いやあ、昭和ですなあ。ドロドロとした剝き出しのところが、懐かしい。

「ヒロアキたちは決して器用な人間ではなかった。〔中略〕
 だが彼らは、本音で自分を語れる奴らだった。泥くさい奴らだが、ハートはあった。その奴らが、何もいわずに去っていった。彼らの亡霊に取りつかれて、今日も僕は将棋を頑張る。そして、やるからには、羽生に、森内に、佐藤康光に、郷田に、勝たなければいけない。」
 
結果はよく知る通り。しかし最後の一文は、何度読んでも、何とも言えない感慨がある。
 
将来の予測をしているところもある。

「十年たって二十一世紀になってもあまり大きな変化はおこらないに違いない。名人戦があり、竜王戦があり、NHK杯があり……棋士たちは矢倉を純文学と称して好み、振り飛車には居飛車穴熊や左美濃が多く、そして棋士の体質もそれほど変わらず、麻雀を打ち、仲間意識が強く、対局の昼食は千駄ヶ谷の『さと』で食べ、女にはそれほどモテないだろう。」
 
予測は大半、違っている。

その最大のものは、コンピューターが職場や家庭で身近になったこと。とくにプロ棋士の一手一手を、AIが予想するのは画期的だった。プロよりもコンピューターの方が、正確に予測できるのだ。
 
そしてもう一つは、藤井聡太の登場。この若い求道者はすべてを受け入れ、しかし自分は絶対に曲げない。この人は、女の人にモテるどころではない。もっとも知性的であるにもかかわらず、およそアイドルの中で、この人を凌駕する者はいない。
 
しかしそれでも僕は、たまに先崎学の文章が読みたくなる。百戦錬磨のA級やB級のドロドロした戦いを、もう一度、読んでみたくなるのである。

(『一葉の写真―若き勝負師の青春―』先崎学、講談社文庫、1996年5月15日初刷)

このミステリーは破綻している――『存在のすべてを』(塩田武士)

丹念に描きこまれたミステリーである。

『本の雑誌』が選ぶ2023年度ベスト10の第1位で、2024年本屋大賞で「全国書店員が選んだいちばん! 売りたい本」に挙げられている。
 
久しぶりに本屋に行って、そういう本があれば、何冊か買ううちの1冊に、紛れ込ませておきたくなる。
 
しかしこの小説は、破綻している。
 
よく書けているところもある。

冒頭、別々の子どもの同時誘拐は、緊迫した筆で息も継がせぬほど、展開が速くて素晴らしい。私は映画の『天国と地獄』を思い浮かべた。それよりもなお、緊張の度合いが強い。
 
冒頭からこれでは、どれほど質の高いミステリーを読むことになるのかと、いやが上にも期待が膨らむ。

画商の娘と、天才画家の片鱗を覗かせる男子高校生との恋も、どきどきさせる。これは女の方からの描写だけだが、2人の淡い恋が、やがて愛情に変わっていくところが、繊細極まる筆致で描かれる。
 
文章も素晴らしい。
 
新聞記者が刑事の車に同乗する場面。

「先回りして退路を断つというやり口が狭い車内を取調室に変え、その剝き出しの鋭さに私的な人間関係の線を切ってきた刑事の刃を見た。」
 
また、こういうところも。

「一切の取材を封じられる協定は、記者にとって一時的にペンを没収されるに等しい。それに各々が長年の仕事の中で、公務員の『聞かなければ答えない』『隠せるものは隠す』という習性を嫌というほど見てきている。」
 
そういう部分部分はよく書けているが、全体が荒唐無稽で、破綻している。
 
子供を誘拐するチンピラの弟は、絵の天才であり、そこでは仲睦まじい夫婦として、兄の誘拐してきた子を愛情豊かに育てる、――ということはありそうにない。
 
その子供も、やはり絵の天才で(何という偶然!)、3人で仲良く暮らすが、やがて別れがくる。だってもともとは、誘拐してきた子だから。
 
どうしてそんなことができたかといえば、もともと子供の祖父母は裕福だったが、一人娘である母親が家を出て、だらしない生活をしており、子育てを放棄していたからだ。
 
小説の構成全体は、時間と場所、それに登場人物が、複雑な入れ子細工になっており、読んでいるときは夢中だが、読み終わってみると、まったくあり得ない話で、実に空疎だ。
 
次回は、映画の脚本家にならって、人物とその背景を、できればその家系を頭に入れて、書き出すといい。登場人物は突然、都合に応じて出現するものではないのだから。
 
それに塩田武士は、確固たる文体を持っているのだから、もう無理に取ってつけたようなミステリーにしなくても、よいのではないか。

『本の雑誌』に拠る書評家や書店員も、目の前の本さえ売れればいい、ということでは、結局、自分で自分の首を絞めているだけではないか。

(『存在のすべてを』塩田武士
 朝日新聞出版、2023年9月30日初刷、2024年2月15日第5刷)

AIの描く世界――『ChatGPTの先に待っている世界』(川村秀憲)(5)

「第七章 代替される『知能』、代替されない『芸術』」は、文字通り「人工知能による芸術」がテーマだ。
 
川村先生は、芸術の創作意欲は人が持っている「特殊な能力」であり、芸術は人間だけが創作する、不思議な行動であるという。
 
だから人工知能に、なぜ芸術を創作させようとするのかは、明確な答えを得ることが難しく、哲学的なものにならざるを得ないという。
 
私はそんなことはないと思う。人工知能を作っている過程では、犯罪行為や反社会的な行為を除いては、どんなことでもやってみようとするのが、人間ではないか(あるいは犯罪行為や反社会的な行為といえども、やってみる価値はある、と思う人もいるかもしれない)。
 
コンピューターを用いた絵画などは、実は古くからある試みだ。川村先生は、ここでは最新のものとして、グーグルの技術者たちが開発した、「ディープドリ―ム」(DeepDream)を紹介している。

「〔ディープドリ―ムは〕人がこれまで描いてきたどの絵画ともまったく異なり、視覚を混乱させ、不安を抱かせるような新たな感覚を生み出します。当然コンピュータープログラムで実現されているので、単純なプロセスが幾重にも実行されているだけであり、そこには人間のような意思や意図は存在しません。にもかかわらず、その結果として生まれた作品からは、不安を掻き立てられたり、攪乱させられたりするような気持ちの悪さを感じつつも、一方でなぜか引きつけられる感覚も生まれます。」
 
そこでさっそくパソコンで、「ディープドリ―ム」をあたってみたが、なるほどいかにもAIが制作しそうな、その範囲内での不気味な、というか気持ちの悪い絵画で、どうということはなかった。

AI将棋で、勝つには勝つのだが、恐ろしく筋の悪い手ばかりを指す、というのと似ている。もちろんAI将棋には、筋のいい悪いは関係ないし、一手ずつの美しい手や醜悪な手は、関係ない。
 
なぜAIが進んだ先に、芸術が問題になるかといえば、それぐらいしか、人間にとって、時間の潰しようがなくなるからだ。

近未来において、そういうことが考えられるだろうか。
 
川村先生はだから、ベーシックインカムが実現したとするなら、「生活のために働く」必要は、なくなるのではないかという。
 
ここまで来ると私には、そういう社会状況は皆目わからない。ただ著者の言うのとは違って、働く必要がなくなったとき、人間はかなり悲惨なことになるのではないか、私はそう思う。
 
その前に、文明の根幹を揺るがすのは、人工知能と教育の問題である。
 
まず教育する側から見てみよう。人間の能力を育成するというのは、過激な言い方になるが、性能のよいロボットを、作り出すことではないか。

「社会が必要とするのは、一言でいえば『同じ能力を持った多くの人材』です。とすれば、ロボットに代えたほうが効率的ですが、これまでそうしてこなかったのは、それを実現するロボットが存在しなかったからです。」
 
そういうロボットが実現すると、これまでの人材育成教育は、変わらざるを得ない。しかしどう変わるか。

これまでは教師1人に複数の生徒、という劇場型の授業形態が、主流を占めてきたが、これからはそれが一変するだろう、と川村先生は言う。
 
この辺は、どう考えたらいいのか、私にはまったく分からない。

ただ教師1人に30人前後の生徒、という劇場型の授業は、授業を受ける側からすれば、必ずしも効率はよくない。だからいじめが起こったりする。

そういうことを考えると、変わるにしても、もっと実情に即して教育を考えなければ、だめなような気がする。みんながみんな、意欲をもって勉強に励むわけではない。
 
この本は、ふだん私が読まないジャンルのもので、大変に面白かった。しかし、著者の考えていることは、まだ人間の範疇だという気がする。人工知能はもっと先を、ひょっとすると遥かに先を、考えているかもしれない。私はそんなことを思う。

(『ChatGPTの先に待っている世界』川村秀憲、dZERO、2023年10月12日初刷)

AIの描く世界――『ChatGPTの先に待っている世界』(川村秀憲)(4)

「第五章 新たな価値の出現と富の再配分」では、シンギュラリティ(技術的特異点)に焦点を当て、それが実現すれば、人間にとってまったく新しい価値観が生まれるという。
 
シンギュラリティとは、AIのレベルが人間の知能と同じか、またはそれを超える地点を指す。
 
これは将棋におけるAIを考えれば、分かりやすい。人工知能自身が人工知能を開発し、しかもその思考速度は、人間をはるかに上回る。
 
今は藤井聡太八冠のみが、かろうじてAI将棋の相手ができそうだが、しかしそれも、一分一秒で強くなっている。今日は相手になれても明日はコテンパン、ということになりかねない。
 
人工知能の恐ろしい点は、開発のスピードが、人間がよくわからないくらい、アップしていることだ。その結果、何が実現できているのかが分からない。
 
川村先生は、そのことには口をつぐんで、しかし夢物語ではない、来たるべき世界を描いて見せる。

「シンギュラリティが実現すれば、多くの仕事は人工知能によって行われるようになると予想されます。その結果、人間が働く必要性がなくなった社会を想像すると、教育、仕事、規範、法律、思考、そして生きる意義について大きな価値観のシフトがおこることでしょう。」
 
それが個々別々、どんな状態に直面するかは、想像がつかない。そんな状態が、明日にも現実となって襲ってくる。

「この先、人工知能の進化がさらに進むと、人工知能に仕事を奪われる範囲はどんどん拡大していきます。しかし、『人工知能ではできないことをできる人』だけが働くことで、果たして社会は成り立つのでしょうか。人工知能に取って代わられた人々が社会からはじき出されることが起これば、社会が成り立たなくなる可能性があります。」
 
結局、そこに帰着することになる。
 
働かないことが善であるような世界――、経済合理性以外の、万人が納得できる、人間が存続できる原理があるだろうか。これは本当に難しい。

「いずれにしても、いまと同じ世界が続くことはありません。私たちは、新たな時代に合わせて新たな価値を見出し、策を講じていくことになります。」
 
本当に策を講じられるのか。たいへん危ういし、怪しいと言わざるを得ない。
 
問題は人工知能が、自分自身を再生産できたときのことだ。

「エネルギーの生産から構成資源の採掘、加工、さらにはそれらを行う工場の生産プロセスまですべてが人工知能によって管理され、自己の複製が可能になった状況〔中略〕、つまり、すべてのプロセスが人の手を離れ、人工知能が完全に人間から独立して再生産を行うことが可能になった状況です。」
 
そのときどんなことが起きるか。

「そのような状況下では、人工知能、ロボットは、生物と同等であるといえます。そして、人間と人工知能、お互いが存続するための資源やエネルギー、空間が競合してしまったときに、人工知能が人間を排除するという合理的な理由が生まれてしまうかもしれません。」
 
AIの研究は、常にこういう危険と、隣り合わせなのだ。川村先生はだから、「倫理を尊重し、人類の行動がもたらす結果を深く考えることが求められます」と、お題目を唱えるが、これはまったく絵に描いた餅である。

人工知能の研究は、特許を取るでも何でもいいが、つねに明るみに出しておく必要がある。そうでないと、極めて危ない。

「楽観的に見れば、シンギュラリティが起きて人間より頭のいい人工知能が生まれたとしたら、その存在としての成熟度は人間より上になるかもしれません。そういった知能レベルを持つ存在であれば、人間を短絡的に滅ぼすという選択肢をとることはないでしょう。」
 
まったく、バカ言ってんじゃないよ。
 
本当に賢い人工知能ならば、ほぼ確実に人間を滅ぼす。たとえば日本の中で政治家のやっていること、世界で見ればガザのひどい光景、ウクライナとロシアによる戦争、その他もろもろ、――人間は滅びてしかるべき、人工知能がそう結論しても、まったくおかしくないと私は思う。

AIの描く世界――『ChatGPTの先に待っている世界』(川村秀憲)(3)

川村先生たちの究極の目的は、人工知能がどんな難問にも答えを出すこと、ではない。
 
そうではなくて、人がまだ考えたことのない問題、そういう問題を考え、自律的な答えを出すことである。

「つまり、知能というものは、単純な模倣を超えて、自発的かつ創造的な思考を持つ存在を指すべきであり、それが人工知能研究の最終的な目標であると言えるでしょう。」
 
SFと見まごうような、見方によっては高邁な理想とも言えるだろう。
 
しかし、そのままずっと突き進めばどうなるか。

「人工知能が新たな種として人類に置き換わる可能性もゼロではありません。人類が滅亡しても、その代わりに人工知能が繁栄すれば、大きな歴史の視点から見ればまったく問題ないのかもしれません。」
 
おいおい、ちょっと待ってくれよ、問題は大ありだろう。
 
しかも、「大きな歴史の視点から」見る話は、ほとんど神の視座からの感想になっていく。

「そのとき、人工知能は人類の死についてどう理解し、どう考えるのか。また人類が滅亡したときになにか反応を示すのか、とても興味深いです。」
 
ここにおいて、川村先生たちに、好き勝手に人工知能の研究を任せておいていいわけはない、とならないだろうか。
 
しかしたぶん、これを止めることはできない。
 
そうこうするうちに人工知能は、人間が生きるリアルな世界に、足を踏み入れてくる。

「近い将来には、私たちのスマートフォンや家、さらにはビル全体が、人工知能によって制御されはじめるでしょう。それは単純な制御ではなく、人間の曖昧な指示さえも理解し、それに従ってロボットが軽作業に従事するという世界です。」
 
それはもう目前に迫っている、と川村先生は言う。そこでは先生は楽観的だ。暗い将来ではなく、明るい未来が空想される、と。
 
1997年に、IBMのコンピューター、「ディープブルー」が、チェスの世界チャンピオンを打ち負かした。
 
このとき川村先生は大学生で、人工知能の研究をしていたが、大変な衝撃を受けた。

しかし同時に、これで人間だけでは解決できない問題を、一挙に解決できるのではないか、と思った。

「私たち人類が直面している課題は多岐にわたります。気候変動、食糧問題、戦争、医療など、一人の天才がどれだけ頑張っても乗り越えることのできない問題が山積しています。だからこそ、ディープブルーの勝利は、人工知能と人間が手を組むことで、将来これらの困難を乗り越えられる可能性を示していると思えたのです。」
 
川村先生と同じく、そう考えた人も多かっただろう。

しかし、逆の考え方をした人も、同じ程度いたんじゃないか。しめしめ、これで自分とその周囲だけが、うまい汁を吸える、と。
 
それはともかく、そういうところから出発して、現在は一つの答えが課題ではなく、人それぞれの価値観に合わせた答え、という課題に、人工知能を役立てる段階だ、と川村先生は言う。

「例を挙げれば、個々人に合わせたファッションを提案する人工知能、人間の気持ちを読み取って雑談を一緒に楽しめる人工知能、あるいはゲームで遊び相手になる人工知能などが考えられます。」
 
つまり、私たち一人ひとりの個性に合った人工知能!

「人工知能を使う人それぞれの価値観に合った、心地よい正解が多様に存在するイメージです。一人一人の心を読んで臨機応変に対応していく人工知能が実現できれば、私たちの暮らしは一変することは間違いありません。」
 
雑談を一緒に愉しみ、心地よい正解が多様に存在する人工知能の世界――。うう、気持ち悪う、本当にそんなものが出てくれば、私ならリアルな世界を返せと、半分発狂して叫んでいるだろうな。
 
そこまでいかなくとも、そういう人工知能が目の前にいるとして、どう付き合っていけばいいのか、ただ戸惑うだろう。
 
なお先の文章に続けて、川村先生はこの段落を、次のような言葉で締め括っている。

「私は研究者として、非常に抽象的で明確な答えがない課題にこそ、人工知能を役立てたいと考えています。」
 
これは分かりにくい。たとえば「善と悪の問題」とか、「歴史の終焉はあるかないか」とか、「抽象的で明確な答えがない課題」はいろいろである。

ここのところは川村先生に、是非とも突っ込んだ話を聞きたかった。

AIの描く世界――『ChatGPTの先に待っている世界』(川村秀憲)(2)

ChatGPTなどの「大規模言語モデル」が登場した以上、仕事の風景は変わらざるを得ない。
 
たとえば大量の人を雇わないといけないコールセンターは、ChatGPTに取って替わられ、人は最少、または無人になるだろう。

「単純なコーディング(プログラミング言語でコードを記述する作業。コードはコンピューターへの命令)や決まった仕様どおりの作業などは、人工知能が担うことが可能となり、人間の役割は大きく変わることになるでしょう。」
 
ここら辺のことは、従来から言われていたことである。
 
今ちょっと考えただけでも、たとえばタクシーは、自動運転と、ChatGPTのロボット運転手で、まかなえそうだ。
 
宅配便も、タクシーのような訳にはいかないだろうが、人手はかなり省力化できる。
 
医療のうち風邪に類するものは、ChatGPTのロボット先生で間に合いそうだ。風邪の症状の裏に、重大な病が隠れているって? 大丈夫、ロボット先生は検査も、人間よりも入念で万全だ。
 
一般の小学校・中学校は、生徒が多様で難しいかもしれないが、目的の定まった学校、たとえば自動車学校から、司法試験に通るための法科大学院まで、目的とそこに至る階梯がはっきりしているのであれば、人が先生である必要はないのではないか。

というように空想の上では、人は限りなく追い立てられてゆく。
 
なおコンピューターの技術は、一挙に世界に広まるので、いわば世界的に下剋上が起きやすい、と著者は言う。
 
これはどういうことかというと、たとえば著者は最近、バングラディシュに行くことが多い。バングラディシュは貧しく、技術も発達していないというのが、日本人一般のイメージではないか。でも、実際には違う。

「バングラディシュでは英語が広く普及しており、多くの人が日本人よりも高レベルの英語能力を持っています。インターネットを通して彼らはアメリカの最新の論文を自由に読むことができ、人工知能の研究開発も、先進諸国と比べても遜色ないレベルです。」
 
恐ろしいことに、と川村先生は言う。日本のように歴史の古い、伝統的な産業が生き残っている国は、世界で一斉に開発競争をすると、ヘンなしがらみが残っていて、それに足を取られて先へ進めないことが、しばしば起きてくるということだ。
 
だから日本のみなさん、気を付けましょう、と言ってみたってしょうがない。自民党右派などという、こびりついたゴミがもっとも取りにくい。だからこういう栄枯盛衰が、世界的規模で起こりつつあるのだろう。
 
この本では半分、「技術的なこと」が書いてある。そうしないと、話が進まないからだ。たとえばこういうところ。

「文章を生成する人工知能の場合、目的関数は『生成される文章が人間が書いたように自然であること』などと設定することができます。そして、この目的に向かって、人工知能の『学び方』や『考え方』を調整していきます。先ほど説明した学習のプロセスは、言い換えると目的関数の最適化を行っていると言うことができます。」
 
文章はすらすら読める、なるほど。しかし言っていることが分かるかというと、わからない。手がかりがないから、ふわふわと雲の上を歩くようだ。
 
この本にはこういうことが、半分入っている。そこのところは飛ばして、社会的な結論だけを書くので、そのつもりでいてください。
 
なお先の文章には、数行おいてこうある。

「目的関数を最適化するという課題は、人工知能の得意分野です。〔中略〕このような作業はいずれ人工知能が人の能力を上回っていくと予想できます。実は、世の中の多くの課題はこのような形で表現・解決できるので、人工知能の対象領域は今後もどんどん広がっていくでしょう。」
 
だから人は、そういうところにとどまってはいけないのだ、となるような気がするが、人間は、著者が思っているほど高級なものではない。