これは田中晶子から借りて読んだ。
妻は杉並区主催の手話教室に、今年の初めまで通っていたので、新聞広告を見たときは興味津々だった。
僕も、面白ければ読みたいと言ったら、面白いよ、最後は微妙だけど、と手渡してくれた。そういう評価は、かえって読みたい気にさせる。
半五段のその広告には、装幀も出ていて、手話の一場面がクローズアップされている。広告には、カバーの装幀も内容に深い関わりがあります、と注記されていた。
著者のデビット・ゾペティは、『いちげんさん』が芥川賞の候補になった(僕は読んでいない)。もとはスイス生まれだが、20代で来日し、そのまま日本に住み続けている。
著者紹介の最後に、「現在、執筆のかたわら、東京都内の地域手話通訳者を目指して、刻苦勉励中」とある。妻はここにも、共感したに違いない。
あらすじは、紛うかたなき王道の恋愛小説である。オビ裏から引く。
「還暦を迎えた主人公の『僕』は40年近く日本で暮らし、大学で国文学を教えるベルギー人。
あるきっかけで手話に興味を持ち、自らも手話サークルなどで学んでいるが、オンライン講座で知り合った岐阜に住む40代のER看護師・梓[あずさ]に、画面越しに惹かれてしまう。
観光を兼ねて訪れた岐阜で初めて対面した二人は、聴者ながら手話だけでコミュニケーションを取ろうという梓の提案で、ちょっと風変わりな旅をする。やがて二人は恋に落ちるが、『僕』が東京に戻った後、梓から衝撃的な真実を打ち明けられる……
そして2025年秋、様々な葛藤を乗り越えて上京し、デフリンピックを見にきた梓と、再会に胸をときめかす『僕』。
華やかな祭典を舞台に、迎える二人の恋の予期せぬクライマックスとは?」
至れり尽くせりの紹介だが、これだけでは、この作品の良さはまったくわからない。
ということで細かく見ていくが、その前に「ER看護師」とは、救急救命医療の看護師である。病院などで働く通常の看護師とは違って、たとえば日本を出て、紛争地域で働く看護師を言う。そしてこれは、もちろん内容に深く関わっている。
ここからは内容に即して見てゆく。
「僕」は、区民会館と都内の講習会に足しげく通い、6年目の春に手話通訳者の登録試験に、奇跡的に合格した。
「益々手話の世界にのめり込んでいって、少しずつ通訳の仕事をするようにもなった。振り返れば、短いようで本当に長い六年だった。落胆と興奮の間を往来しながら何度も挫折しそうになった。試験に受かった時でさえ、スタートラインにようやく立ったに過ぎない、としか思えなかった。
しかし手話を愛する心は、もう変わるまい、という自負だけは強かった。」
なんということのない叙述だが、文体は簡潔、言いたいことははっきりしていて、しかも躍動感がある。
その少し先に、こういう叙述もある。
「分かりやすさを第一義に考える手話では、音声日本語とは違って、婉曲表現はあまりしない。ろう者の指が作り出す言葉はどこにも寄り道せず、真っ直ぐに心に届く。手話サークルで耳の聴こえない人たちと接して初めて知ったその特徴が、僕はとても好きだった。どことなく西洋的にすら感じた。かつて婉曲表現の聖地とも言える京都で散々な思いをした僕にとって、手話を使う人の単刀直入の触れ合いは新鮮で心地よかった。」
「言葉はどこにも寄り道せず」というのは、手話と同時に、この著者の日本語の特徴でもある。読んでいて、とにかく気持ちがいい。
これも人間だ、とカポーティは言う――『冷血』(トルーマン・カポーティ、佐々田雅子・訳)
村上春樹・訳『ティファニーで朝食を』は面白かった。カポーティとの縁を、これだけに留め置くのは、勿体ないという気がしてきた。これはやっぱり、『冷血』を読まねばなるまい。
じつは僕は大学生のころに、『冷血』を読んでいる。そしてこのときは、あまり面白くないと思った。
冷血動物のようなペリーとディックが、克明に書き込まれ、そこに共感が持てずイライラした。
50年ぶりに『冷血』を読んでみると、かなり違った印象を持った。
これがどんな作品であり、どういう点で話題になったのかを、カバー裏の惹句から引いておく。
「カンザス州の片田舎ホルカム村で起きた一家4人惨殺事件。被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。このあまりにも惨い犯行に、著者は5年余りの歳月を費やして綿密な取材を遂行。そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けた。捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモラル。様々な物議をかもした、衝撃のノンフィクション・ノヴェル。」
いろいろな点で話題になったようだが、僕が問題としたいのは、「犯罪者の心理」だけである。そこだけが、異様に克明に書き込まれているからだ。
ムショ帰りのペリーとディックが、裕福な農場主、クラッター家に深夜押し入り、ほとんど何も盗るものがなくて、一家4人を惨殺して逃げた、というのがストーリーである。
これで犯罪者側の心理は、描く必要があるだろうか、あるいは、そもそも描くに値するものだろうか。
と、最初はなかなか踏み込めないのだが、半ばを過ぎるころになると、これはひょっとすると、カポーティはミステリを書いたのではなく、悪または悪人を描いたのではないか、と思われてくる。
その悪人とは、2人のうちのペリーである。捕まって最初は、ペリーが2人、ディックが2人を殺した、そうペリーは言うが、時間が進むにしたがって、4人とも自分が殺したと自白する。
カポーティは、鑑定した医師の口を借りて、ペリーをこんなふうに描いている。
「彼の個性の中では、二つの特徴が、特に病的なものとして際立っています。第一は、世間に対する〝偏執病的な〟態度です。他人に対する猜疑心不信感が強く、他人が自分を差別すると感じる傾向を有し、他人は自分に対して不公平で、自分を理解していないと思っています。〔中略〕他人の意図や感情を測るにあたって、自分の心理に投影された像から現実を分離する能力がきわめて乏しいのです。」
その結果、ときに危険なことになる。
「すべての人間が偽善的で、敵意に満ちており、したがって、どんな仕打ちをしてもかまわないと、十把一からげにして考えることも珍しくありません。」
これが行きつく果てなのだ。
しかしどうしたら、そこに行きつくことになるのか。
「第一の特徴と近縁の第二の特徴、つまり、〔中略〕ほとんど抑えきれない憤怒は――他人にだまされたり、蔑まれたり、劣っているといわれたと感じると、容易に引き金を引かれます。」
この心理分析はまだまだ続く。これはペリーという悪人の、冷血ぶりを描くと見せて、カポーティ自身の内面を、露悪的に描いたものではないか。
僕はそう読んだ。というか、それ以外に読みようがなかった。
(『冷血』トルーマン・カポーティ、佐々田雅子・訳、
新潮文庫、2006年7月1日初刷、2020年1月25日第18刷)
じつは僕は大学生のころに、『冷血』を読んでいる。そしてこのときは、あまり面白くないと思った。
冷血動物のようなペリーとディックが、克明に書き込まれ、そこに共感が持てずイライラした。
50年ぶりに『冷血』を読んでみると、かなり違った印象を持った。
これがどんな作品であり、どういう点で話題になったのかを、カバー裏の惹句から引いておく。
「カンザス州の片田舎ホルカム村で起きた一家4人惨殺事件。被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。このあまりにも惨い犯行に、著者は5年余りの歳月を費やして綿密な取材を遂行。そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けた。捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモラル。様々な物議をかもした、衝撃のノンフィクション・ノヴェル。」
いろいろな点で話題になったようだが、僕が問題としたいのは、「犯罪者の心理」だけである。そこだけが、異様に克明に書き込まれているからだ。
ムショ帰りのペリーとディックが、裕福な農場主、クラッター家に深夜押し入り、ほとんど何も盗るものがなくて、一家4人を惨殺して逃げた、というのがストーリーである。
これで犯罪者側の心理は、描く必要があるだろうか、あるいは、そもそも描くに値するものだろうか。
と、最初はなかなか踏み込めないのだが、半ばを過ぎるころになると、これはひょっとすると、カポーティはミステリを書いたのではなく、悪または悪人を描いたのではないか、と思われてくる。
その悪人とは、2人のうちのペリーである。捕まって最初は、ペリーが2人、ディックが2人を殺した、そうペリーは言うが、時間が進むにしたがって、4人とも自分が殺したと自白する。
カポーティは、鑑定した医師の口を借りて、ペリーをこんなふうに描いている。
「彼の個性の中では、二つの特徴が、特に病的なものとして際立っています。第一は、世間に対する〝偏執病的な〟態度です。他人に対する猜疑心不信感が強く、他人が自分を差別すると感じる傾向を有し、他人は自分に対して不公平で、自分を理解していないと思っています。〔中略〕他人の意図や感情を測るにあたって、自分の心理に投影された像から現実を分離する能力がきわめて乏しいのです。」
その結果、ときに危険なことになる。
「すべての人間が偽善的で、敵意に満ちており、したがって、どんな仕打ちをしてもかまわないと、十把一からげにして考えることも珍しくありません。」
これが行きつく果てなのだ。
しかしどうしたら、そこに行きつくことになるのか。
「第一の特徴と近縁の第二の特徴、つまり、〔中略〕ほとんど抑えきれない憤怒は――他人にだまされたり、蔑まれたり、劣っているといわれたと感じると、容易に引き金を引かれます。」
この心理分析はまだまだ続く。これはペリーという悪人の、冷血ぶりを描くと見せて、カポーティ自身の内面を、露悪的に描いたものではないか。
僕はそう読んだ。というか、それ以外に読みようがなかった。
(『冷血』トルーマン・カポーティ、佐々田雅子・訳、
新潮文庫、2006年7月1日初刷、2020年1月25日第18刷)
懐かしくもあるが――『江藤淳と加藤典洋―戦後史を歩きなおす―』(與那覇潤)(5)
『江藤淳と加藤典洋』をテキストにしながら、加藤典洋については、まったく触れずに来た。
私的なブログだから、触れなくてもいいのだが、やはりひとこと言っておきたい。
中心になるのは『敗戦後論』である。
「加藤の『敗戦後論』の眼目は、江藤〔淳〕らが繰りかえし指摘した『押しつけ』の事実の確認ではなく、『この憲法の精神を尊重するがゆえに、この憲法をもう一度「選び直す」べきだという、この憲法の「ねじれ」に立脚した主張』――国家、なかんずくみずからの忠誠の対象となるその原理(憲法)とは、自覚的に選びとられたものであるべきだとする価値観の提示にあった。」(「歴史がこれ以上続くのではないとしたら――加藤典洋の『震災後論』」)
つまりGHQから与えられた、「他者」に過ぎなかった日本国憲法を、自らの意志で選び直すために、「国民投票」を行おうというのが、『敗戦後論』の提案だった。
なるほど、それはいい提案だ、それでこそ日本国憲法も、真に国民のものになるだろう――というふうになると思うか?
学級会で決まったので、喧嘩はやめましょう、という類いの、「囲いの中の真理追求」を、世の中一般に広げることくらい、見当はずれなことはない、と僕は思っている。
研究室と書斎を往復していれば、そして生身の他者といえば、教室で出会う学生というのでは、どうしようもない。
それに教室では、教師は常に一段高いところから、学生に接する。これは物書きにとっては、よほど注意しないといけないことだろう。
とはいうものの『敗戦後論』は、面白いところ、興味深いところもあった。書物として読んでいるうちは、それでいいのだが、読み終えて、さて、と考えると、限りない疑問が湧いてくる。
この本全体を読み終えて一言、本書の組み立ては独創的ともいえるが、逆から見れば恣意的に過ぎるところもある。
「ヒュッテでの一夜 「満州国」のあとで――大佛次郎から村上春樹へ」などは、その最たるもので、ここで村上春樹を題材にするのは、取って付けたようなものである。
一方、江藤淳でいうなら、そのすべては処女作の『夏目漱石』にある。江藤の本は、大半忘れさられるだろう。しかし『夏目漱石』だけは、読まれ続けるに違いない。
この本の目次を、改めて並べることはしないけど、全体を見回すと、近代史を扱ったというよりは、歴史をダシにした、與那覇潤の私小説、という気がしないでもない。
(『江藤淳と加藤典洋―戦後史を歩きなおす―』與那覇潤、文藝春秋、2025年5月14日初刷)
私的なブログだから、触れなくてもいいのだが、やはりひとこと言っておきたい。
中心になるのは『敗戦後論』である。
「加藤の『敗戦後論』の眼目は、江藤〔淳〕らが繰りかえし指摘した『押しつけ』の事実の確認ではなく、『この憲法の精神を尊重するがゆえに、この憲法をもう一度「選び直す」べきだという、この憲法の「ねじれ」に立脚した主張』――国家、なかんずくみずからの忠誠の対象となるその原理(憲法)とは、自覚的に選びとられたものであるべきだとする価値観の提示にあった。」(「歴史がこれ以上続くのではないとしたら――加藤典洋の『震災後論』」)
つまりGHQから与えられた、「他者」に過ぎなかった日本国憲法を、自らの意志で選び直すために、「国民投票」を行おうというのが、『敗戦後論』の提案だった。
なるほど、それはいい提案だ、それでこそ日本国憲法も、真に国民のものになるだろう――というふうになると思うか?
学級会で決まったので、喧嘩はやめましょう、という類いの、「囲いの中の真理追求」を、世の中一般に広げることくらい、見当はずれなことはない、と僕は思っている。
研究室と書斎を往復していれば、そして生身の他者といえば、教室で出会う学生というのでは、どうしようもない。
それに教室では、教師は常に一段高いところから、学生に接する。これは物書きにとっては、よほど注意しないといけないことだろう。
とはいうものの『敗戦後論』は、面白いところ、興味深いところもあった。書物として読んでいるうちは、それでいいのだが、読み終えて、さて、と考えると、限りない疑問が湧いてくる。
この本全体を読み終えて一言、本書の組み立ては独創的ともいえるが、逆から見れば恣意的に過ぎるところもある。
「ヒュッテでの一夜 「満州国」のあとで――大佛次郎から村上春樹へ」などは、その最たるもので、ここで村上春樹を題材にするのは、取って付けたようなものである。
一方、江藤淳でいうなら、そのすべては処女作の『夏目漱石』にある。江藤の本は、大半忘れさられるだろう。しかし『夏目漱石』だけは、読まれ続けるに違いない。
この本の目次を、改めて並べることはしないけど、全体を見回すと、近代史を扱ったというよりは、歴史をダシにした、與那覇潤の私小説、という気がしないでもない。
(『江藤淳と加藤典洋―戦後史を歩きなおす―』與那覇潤、文藝春秋、2025年5月14日初刷)
懐かしくもあるが――『江藤淳と加藤典洋―戦後史を歩きなおす―』(與那覇潤)(4)
與那覇潤の根底には、ついに1970年以降、日本人は歴史を紡ぐのをやめた、というのがある。これはどういうことか。
今度の本で、それを徹底的に論じたのが、「『歴史』の秩序が終ったとき――三島事件後の歴史家たち」である。
ここではまず70年の三島事件が論じられ、そのあと「『歴史』の秩序が終ったとき」が論じられる。
この書評では、前半の「三島事件をどうとらえるか」は略して、後半のみを論じたい。なぜなら三島事件には、僕はまったく興味が持てないからである。
どういうことか。
「いずれにせよ70年11月に閃光は炸裂し、たった一人で周囲とは異なる歴史を戦後生きてきた作家の肉体に、人びとは驚愕することになる。」
驚愕して、そしてその先は分かれることになる。驚愕した結果、その理由を深く知ろうとする者もいれば、その瞬間、興味をなくす者もいる。
後者は僕だ。三島が残した文学作品が、一瞬にして色褪せたのである。そのことは、あまりに徒労で不毛なことだから、ここに書くことはしない。
「本稿の登場人物のうち、狭義の『歴史学者』は網野善彦のみである。丸山眞男は一般には政治学者と呼ばれるし、三島由紀夫と司馬遼太郎の本業は小説で、江藤淳や村松剛は文芸批評家、山本七平は〔中略〕評論家だ。しかしそのいずれもが、みずからの生きる社会に輪郭を与えるものとしての歴史を考え、当然の任務としてその維持と改定[メンテナンス]に取りくんでいた。そうした人こそがほんらい『歴史家』の名に値するのではないかと、私は考える。」
これは突つき甲斐のある文章であるが、今は著者の言うことを、ひとまずそのまま吞み込んでおこう。
問題は、こういう人々と反対の極にいる人たちだ。
「そのほか大勢の『歴史家ならざる歴史学者』とは、何をする人なのか。歴史が宿ると称する古文書や旧蹟に人びとを連れまわし、文字通り物理的に『歴史に触れさせる』のが仕事なのだろうか。〔中略〕
喪われた歴史の回復にいどむ気概も、哀悼に徹する真摯さも持たぬものが、歴史に『触った気にさせる』体験を餌に学生を釣りあげる景色はかつての職場でよく目にした」。
著者の絶望は深い。
しかしここからだけでは、本当の絶望がどこにあるのかが、分かりにくい。古文書も旧蹟も、そこに触れるのは大事なことだ。
網野善彦などは、全国から集めた古文書を、返すためだけの旅に、新書一冊をまるまる費やした。
しかし著者の言うことも、分かりそうな気がする。
「三島風に言いなおすなら、私はこれからの歴史に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『歴史』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。歴史はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、お金を生むときだけ注目を集める、抜目がない、或る大学行政上の区分が専攻の一角に残るのであろう。」
これはもう、はっきり具体的な大学を射程に入れた、批判の表明だろう。
しかしこれは、方向が逆である。「歴史」をめぐって、憤怒の対象が明確に定まっているのはいい。しかしそこから逆に、近代史を血の通ったものとして、あるいはすでに、もう血の通わなくなったものとして、普遍化しなければ、読者には伝わらない。
田中晶子が、本書を途中でやめたのが、分かる気がする。
今度の本で、それを徹底的に論じたのが、「『歴史』の秩序が終ったとき――三島事件後の歴史家たち」である。
ここではまず70年の三島事件が論じられ、そのあと「『歴史』の秩序が終ったとき」が論じられる。
この書評では、前半の「三島事件をどうとらえるか」は略して、後半のみを論じたい。なぜなら三島事件には、僕はまったく興味が持てないからである。
どういうことか。
「いずれにせよ70年11月に閃光は炸裂し、たった一人で周囲とは異なる歴史を戦後生きてきた作家の肉体に、人びとは驚愕することになる。」
驚愕して、そしてその先は分かれることになる。驚愕した結果、その理由を深く知ろうとする者もいれば、その瞬間、興味をなくす者もいる。
後者は僕だ。三島が残した文学作品が、一瞬にして色褪せたのである。そのことは、あまりに徒労で不毛なことだから、ここに書くことはしない。
「本稿の登場人物のうち、狭義の『歴史学者』は網野善彦のみである。丸山眞男は一般には政治学者と呼ばれるし、三島由紀夫と司馬遼太郎の本業は小説で、江藤淳や村松剛は文芸批評家、山本七平は〔中略〕評論家だ。しかしそのいずれもが、みずからの生きる社会に輪郭を与えるものとしての歴史を考え、当然の任務としてその維持と改定[メンテナンス]に取りくんでいた。そうした人こそがほんらい『歴史家』の名に値するのではないかと、私は考える。」
これは突つき甲斐のある文章であるが、今は著者の言うことを、ひとまずそのまま吞み込んでおこう。
問題は、こういう人々と反対の極にいる人たちだ。
「そのほか大勢の『歴史家ならざる歴史学者』とは、何をする人なのか。歴史が宿ると称する古文書や旧蹟に人びとを連れまわし、文字通り物理的に『歴史に触れさせる』のが仕事なのだろうか。〔中略〕
喪われた歴史の回復にいどむ気概も、哀悼に徹する真摯さも持たぬものが、歴史に『触った気にさせる』体験を餌に学生を釣りあげる景色はかつての職場でよく目にした」。
著者の絶望は深い。
しかしここからだけでは、本当の絶望がどこにあるのかが、分かりにくい。古文書も旧蹟も、そこに触れるのは大事なことだ。
網野善彦などは、全国から集めた古文書を、返すためだけの旅に、新書一冊をまるまる費やした。
しかし著者の言うことも、分かりそうな気がする。
「三島風に言いなおすなら、私はこれからの歴史に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『歴史』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。歴史はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、お金を生むときだけ注目を集める、抜目がない、或る大学行政上の区分が専攻の一角に残るのであろう。」
これはもう、はっきり具体的な大学を射程に入れた、批判の表明だろう。
しかしこれは、方向が逆である。「歴史」をめぐって、憤怒の対象が明確に定まっているのはいい。しかしそこから逆に、近代史を血の通ったものとして、あるいはすでに、もう血の通わなくなったものとして、普遍化しなければ、読者には伝わらない。
田中晶子が、本書を途中でやめたのが、分かる気がする。
懐かしくもあるが――『江藤淳と加藤典洋―戦後史を歩きなおす―』(與那覇潤)(3)
「沖縄返還」の章は、「村上龍『限りなく透明に近いブルー』」論である。
この小説は学生のとき、単行本で読んだ。でも、あまり感心しなかった。僕が村上龍にイカレたというか、感心したのは、『コインロッカー・ベイビ―ズ』を読んでからである。
しかし今は『限りなく透明に近いブルー』についてだ。
まず江藤淳の、この小説についての村上龍批判を見ておく。
「江藤が特にこだわるのが、村上龍が『近いブルー』の主人公を『リュウ』と命名したことだ。『僅かに「リュウ」というこの一点によって小説のリアリティを証明しようとしているところは、きわめて甘ったれ』(『毎日新聞』)、『私小説の常套手段』であるばかりか『文学的な手口と言うより書生的な手口』(『サンデー毎日』)と断じるなど、もはや人格攻撃に近い。」
なるほどと納得しそうになるが、しかし作者と主人公の一致が、「私小説の常套手段」であるのなら、それでいいではないか、とも思える。
江藤淳にしてみたら、若者の風俗をどれほどどぎつく描こうとも、村上龍の筆力では現実感に欠ける。だから作者は、主人公を同名にして、「私のやったことだから本当ですよ」と居直ったのだ。
実はこれは、芥川賞の審査委員も、同じではないが、疑問を呈している。
たとえば丹羽文雄。
「一枚の膜をへだてて、この小説は出来ている。膜の向こう側には匂いがあり、熱気があり、音があるのだが、小説は熱をうつしていない。匂いをうつしていない。音をうつしていない。現実を描きながら現実ばなれがしている。」
これは、僕が読んだとき、まさに感じたことだ。
次に吉行淳之介の斬新な解釈。
「同じく村上に一票を入れた吉行淳之介も、本来なら『日本流のリアリズムの文学では、女体や性行為などを描く場合、体臭体温その他のにおいを要求する』が、『近いブルー』にはまるでない。しかし『時代もそれで間に合うようになってきている』ので、受賞させたとの旨を綴る。」
與那覇潤は、以上を総括して言う。
「現実感を欠くがゆえにこそ現実が描けており、もっぱら観念的なことによってリアリティを保つ。そうした地平を開いて『近いブルー』が圧倒的な読者を獲得した。」
これはつじつま合わせの、無理に理屈をつけた総括、という気がする。
このとき吉行は、いったい日本人の性と性行為を、どんなふうに変わっていくものとして、見ていたのだろうか。
これは大変興味がある。というのはこれより後、性を描いて『限りなく透明に近いブルー』の系譜を引くものが、出てきていないからだ。
しかし本当は、この小説が1976年に出たことの意味を、つまり何よりも沖縄の意味を問わねばならない。
著者は端的にこう言う。
「この小説が描く世界のすべてが、『一枚の膜をへだてて』現実から切り離され、『体臭体温その他のにおい』もさせぬまま性的なイメージが乱舞する、薬物ゆえに生じた語り手の幻覚でないと誰に言いきれるだろうか?」
これはその通りだと言える。
しかしそれなら結論は、次のようにならざるを得ないであろう。
「『近いブルー』は、〔中略〕結局は日本の内側に閉ざされた独り相撲にならざるを得ない、どこにも出口のない戦後日本の終着点こそを、1976年の読者に突きつけたのではなかったろうか。」
『限りなく透明に近いブルー』が現われた意味が、おおかた50年たって明らかになったのだ。
この小説は学生のとき、単行本で読んだ。でも、あまり感心しなかった。僕が村上龍にイカレたというか、感心したのは、『コインロッカー・ベイビ―ズ』を読んでからである。
しかし今は『限りなく透明に近いブルー』についてだ。
まず江藤淳の、この小説についての村上龍批判を見ておく。
「江藤が特にこだわるのが、村上龍が『近いブルー』の主人公を『リュウ』と命名したことだ。『僅かに「リュウ」というこの一点によって小説のリアリティを証明しようとしているところは、きわめて甘ったれ』(『毎日新聞』)、『私小説の常套手段』であるばかりか『文学的な手口と言うより書生的な手口』(『サンデー毎日』)と断じるなど、もはや人格攻撃に近い。」
なるほどと納得しそうになるが、しかし作者と主人公の一致が、「私小説の常套手段」であるのなら、それでいいではないか、とも思える。
江藤淳にしてみたら、若者の風俗をどれほどどぎつく描こうとも、村上龍の筆力では現実感に欠ける。だから作者は、主人公を同名にして、「私のやったことだから本当ですよ」と居直ったのだ。
実はこれは、芥川賞の審査委員も、同じではないが、疑問を呈している。
たとえば丹羽文雄。
「一枚の膜をへだてて、この小説は出来ている。膜の向こう側には匂いがあり、熱気があり、音があるのだが、小説は熱をうつしていない。匂いをうつしていない。音をうつしていない。現実を描きながら現実ばなれがしている。」
これは、僕が読んだとき、まさに感じたことだ。
次に吉行淳之介の斬新な解釈。
「同じく村上に一票を入れた吉行淳之介も、本来なら『日本流のリアリズムの文学では、女体や性行為などを描く場合、体臭体温その他のにおいを要求する』が、『近いブルー』にはまるでない。しかし『時代もそれで間に合うようになってきている』ので、受賞させたとの旨を綴る。」
與那覇潤は、以上を総括して言う。
「現実感を欠くがゆえにこそ現実が描けており、もっぱら観念的なことによってリアリティを保つ。そうした地平を開いて『近いブルー』が圧倒的な読者を獲得した。」
これはつじつま合わせの、無理に理屈をつけた総括、という気がする。
このとき吉行は、いったい日本人の性と性行為を、どんなふうに変わっていくものとして、見ていたのだろうか。
これは大変興味がある。というのはこれより後、性を描いて『限りなく透明に近いブルー』の系譜を引くものが、出てきていないからだ。
しかし本当は、この小説が1976年に出たことの意味を、つまり何よりも沖縄の意味を問わねばならない。
著者は端的にこう言う。
「この小説が描く世界のすべてが、『一枚の膜をへだてて』現実から切り離され、『体臭体温その他のにおい』もさせぬまま性的なイメージが乱舞する、薬物ゆえに生じた語り手の幻覚でないと誰に言いきれるだろうか?」
これはその通りだと言える。
しかしそれなら結論は、次のようにならざるを得ないであろう。
「『近いブルー』は、〔中略〕結局は日本の内側に閉ざされた独り相撲にならざるを得ない、どこにも出口のない戦後日本の終着点こそを、1976年の読者に突きつけたのではなかったろうか。」
『限りなく透明に近いブルー』が現われた意味が、おおかた50年たって明らかになったのだ。
懐かしくもあるが――『江藤淳と加藤典洋―戦後史を歩きなおす―』(與那覇潤)(2)
この本は最初に目次を挙げ、それを細かく辿ってゆくかたちじゃないと、與那覇潤の意図は伝わらない。
しかしそれは、あまりに煩わしい。ここからは引っ掛かってくる文章だけを、ピックアップして、それに関する僕の意見を添えることにする。それだけでも、どういう本か分かるはずだ。
最初は太宰治と江藤淳の、共通するものについて。
「太宰は無名の作家として苦吟にあえいだ戦前、4度の自殺未遂を繰り返したが、江藤もまた不遇だった慶応大学英文科時代(1954年)に薬物で自殺を試みたことが、担当した編集者の調査で突きとめられている。」(「人間宣言――太宰治『斜陽』」)
江藤淳は、学生時代に結核を患っているが、自殺も試みたことがあった。若くして『夏目漱石』をものした人は、意識的に死の淵を臨んだのだ。
問題は、その次である。
「魂の共鳴を起こしても不思議ではないはずの、繊細なふたりの文学者は、遠く隔たったまま、ともに自死によってその一生を終えた。このすれ違いが示すように、私たちの国ではある時代の切実な体験が、世代を超えては伝わらない。」(同)
これはどうだろう。言い切ったかたちは、こちらの胸に迫ってくる。しかしどの国でも、どういう世代を超えても、伝わらない時は、伝わらないんじゃないだろうか。
それよりも、2人の自死の「切実な体験」の意味は、著者が書き記すことによって、初めて浮かび上がるのではないだろうか。
1947年5月3日、日本国憲法が施行された。これはGHQの草案に依拠したということでは、占領下で生まれた「婚外子」とも言えるが、しかしそれは、あくまでも「帝国憲法の改正」として、正統な規範を引き継ぐものとされた。
「『斜陽』から美しく読み出せる『母としての昭和天皇』のように、この国の敗戦後の秩序は、みずからを脅かす挑戦が起きるとき、必ずしもそれをひねり潰さない。かといってただ破壊されるのでもなく、淋しげな笑いとともに受け入れることで、逆に無力化する。」(同)
実にうまい文章だ、と僕は思う。日本の天皇制という、うまく捉えられないものをめぐって、本質を突いた言葉だ。
しかしその後に来る、次の文章はどうだろう。
「そうした戦後の構造を直観し、抗おうとした文学者は、誰もがやがて敗れ命を絶っていった。1948年の太宰治、70年の三島由紀夫、99年の江藤淳と。」(同)
これも美しい文章だが、どちらかと言えば歴史を改竄する側にある、と言えないだろうか。
意地の悪い読み方をすれば、真相は、太宰治は迫りくる税金に怯え、三島由紀夫は文学的想像力の枯渇と、現実の肉体的な衰えに脅え、江藤淳は妻と愛人の、時を違わぬ逝去に絶望して命を絶った、とも取れるのだ。
もちろん、それを大きな目で見れば、ということは歴史を考えれば、その3人がそれぞれ高い稜線にあったともいえるが、それを連ねて、そこに「戦後の構造を直観し、抗おうとした文学者」というような意味を付すのは、危ないと僕は思う。
しかしそれは、あまりに煩わしい。ここからは引っ掛かってくる文章だけを、ピックアップして、それに関する僕の意見を添えることにする。それだけでも、どういう本か分かるはずだ。
最初は太宰治と江藤淳の、共通するものについて。
「太宰は無名の作家として苦吟にあえいだ戦前、4度の自殺未遂を繰り返したが、江藤もまた不遇だった慶応大学英文科時代(1954年)に薬物で自殺を試みたことが、担当した編集者の調査で突きとめられている。」(「人間宣言――太宰治『斜陽』」)
江藤淳は、学生時代に結核を患っているが、自殺も試みたことがあった。若くして『夏目漱石』をものした人は、意識的に死の淵を臨んだのだ。
問題は、その次である。
「魂の共鳴を起こしても不思議ではないはずの、繊細なふたりの文学者は、遠く隔たったまま、ともに自死によってその一生を終えた。このすれ違いが示すように、私たちの国ではある時代の切実な体験が、世代を超えては伝わらない。」(同)
これはどうだろう。言い切ったかたちは、こちらの胸に迫ってくる。しかしどの国でも、どういう世代を超えても、伝わらない時は、伝わらないんじゃないだろうか。
それよりも、2人の自死の「切実な体験」の意味は、著者が書き記すことによって、初めて浮かび上がるのではないだろうか。
1947年5月3日、日本国憲法が施行された。これはGHQの草案に依拠したということでは、占領下で生まれた「婚外子」とも言えるが、しかしそれは、あくまでも「帝国憲法の改正」として、正統な規範を引き継ぐものとされた。
「『斜陽』から美しく読み出せる『母としての昭和天皇』のように、この国の敗戦後の秩序は、みずからを脅かす挑戦が起きるとき、必ずしもそれをひねり潰さない。かといってただ破壊されるのでもなく、淋しげな笑いとともに受け入れることで、逆に無力化する。」(同)
実にうまい文章だ、と僕は思う。日本の天皇制という、うまく捉えられないものをめぐって、本質を突いた言葉だ。
しかしその後に来る、次の文章はどうだろう。
「そうした戦後の構造を直観し、抗おうとした文学者は、誰もがやがて敗れ命を絶っていった。1948年の太宰治、70年の三島由紀夫、99年の江藤淳と。」(同)
これも美しい文章だが、どちらかと言えば歴史を改竄する側にある、と言えないだろうか。
意地の悪い読み方をすれば、真相は、太宰治は迫りくる税金に怯え、三島由紀夫は文学的想像力の枯渇と、現実の肉体的な衰えに脅え、江藤淳は妻と愛人の、時を違わぬ逝去に絶望して命を絶った、とも取れるのだ。
もちろん、それを大きな目で見れば、ということは歴史を考えれば、その3人がそれぞれ高い稜線にあったともいえるが、それを連ねて、そこに「戦後の構造を直観し、抗おうとした文学者」というような意味を付すのは、危ないと僕は思う。
懐かしくもあるが――『江藤淳と加藤典洋―戦後史を歩きなおす―』(與那覇潤)(1)
これは田中晶子が買ってきた。でも各頁に註が付いていたりして、煩わしくて途中で止めた。それで僕が読んだ。
僕は、2人の批評家の良い読者ではないから、分からないところも多々ある。しかしそれでも、懐かしく、面白かった。
サブタイトルに「戦後史を歩きなおす」とあるが、戦後すぐの太宰治『斜陽』と椎名麟三『永遠なる序章』を除けば、柴田翔、庄司薫、村上龍、村上春樹と、1960年代以降に力点が置かれている。
江藤淳が活躍するのも、1950年代後半以降のことだ。
加藤典洋にいたっては、『アメリカの影』でデビューするのは、1985年のことである。
だから「戦後史を歩きなおす」というのは、無理があるが、しかし僕にはぴったりくる。本を読みだしたのが、その頃からだからである。
そういう訳でこの本は、2人の批評家についてはよく知らないながら、いくつかの作品には思い出があり、僕には面白かった。
オビ表に、上野千鶴子の推薦文がある。
「戦後批評の正嫡を嗣ぐものが登場した。文藝評論が政治思想になる日本の最良の伝統が引き継がれた思いである。」
立派な推薦文である。あまりに正確な文章で推薦してあるから、僕はこの本を、買う気がしなかったのだ。「文藝評論が政治思想になる日本の最良の伝統」とはいうものの、文学の伝統は、村上龍・村上春樹という、あまりにも大きなホットコーナーで、コースを変えている。
これはもちろん、村上龍・村上春樹を貶めているのではない。逆に小説が、政治思想を取り込めなくなって、どうにもお先真っ暗な時代に、村上龍・村上春樹は小説の、もっと大きな可能性を拓いてくれたのだ。
批評も当然、それに併走しないといけなかったのだが、そういう批評家はいなかった(與那覇潤なら、加藤典洋を除いてと言うだろう)。
オビ裏に「本文より」として、抜粋が掲載されている。
「そもそも批評とは、なんだろう。それは世界の自明性が壊れてしまった後で、作品(=批評の対象)に感じる『意味』を媒介とすることで、他者との関係を作りなおそうとする試みだと思う。」
こういう、もって回った大げさな言い方は、うんざりである。訳の分からないこの世界で、自分が価値ありとする作品を称揚すれば、賛成してくれる人もいよう、というだけの当たり前のことである。
本の外側のことで、もう一つ、付け加えておきたい。本文が始まる前に、全体のプロローグが付いている。
「戦争を知る者が引退するか世を去った時に
次の戦争が始まる例が少なくない。
――中井久夫『戦争と平和 ある観察』」
中井久夫の言葉なので、ありがたく押し頂きそうになるが、これはあるところまで生きてきた人には、あまりに当然で、わざわざプロローグとしてページを立てたりすると、唖然となる。
しかし歴史を考えたことのない人には、びっくりするようなことなのかもしれない(しかし歴史を考えたことのない人が、本書を読むことはないと思うが)。
別の言い方では、戦争に行った人を含めて3世代経つと、また戦争を始めやすい世の中になる、というのもある。
1世代(ワン・ジェネレーション)は30年、だからつまり、今くらいからだ。政治家を見ていると、誠にその通りと思えてくる。
僕は、2人の批評家の良い読者ではないから、分からないところも多々ある。しかしそれでも、懐かしく、面白かった。
サブタイトルに「戦後史を歩きなおす」とあるが、戦後すぐの太宰治『斜陽』と椎名麟三『永遠なる序章』を除けば、柴田翔、庄司薫、村上龍、村上春樹と、1960年代以降に力点が置かれている。
江藤淳が活躍するのも、1950年代後半以降のことだ。
加藤典洋にいたっては、『アメリカの影』でデビューするのは、1985年のことである。
だから「戦後史を歩きなおす」というのは、無理があるが、しかし僕にはぴったりくる。本を読みだしたのが、その頃からだからである。
そういう訳でこの本は、2人の批評家についてはよく知らないながら、いくつかの作品には思い出があり、僕には面白かった。
オビ表に、上野千鶴子の推薦文がある。
「戦後批評の正嫡を嗣ぐものが登場した。文藝評論が政治思想になる日本の最良の伝統が引き継がれた思いである。」
立派な推薦文である。あまりに正確な文章で推薦してあるから、僕はこの本を、買う気がしなかったのだ。「文藝評論が政治思想になる日本の最良の伝統」とはいうものの、文学の伝統は、村上龍・村上春樹という、あまりにも大きなホットコーナーで、コースを変えている。
これはもちろん、村上龍・村上春樹を貶めているのではない。逆に小説が、政治思想を取り込めなくなって、どうにもお先真っ暗な時代に、村上龍・村上春樹は小説の、もっと大きな可能性を拓いてくれたのだ。
批評も当然、それに併走しないといけなかったのだが、そういう批評家はいなかった(與那覇潤なら、加藤典洋を除いてと言うだろう)。
オビ裏に「本文より」として、抜粋が掲載されている。
「そもそも批評とは、なんだろう。それは世界の自明性が壊れてしまった後で、作品(=批評の対象)に感じる『意味』を媒介とすることで、他者との関係を作りなおそうとする試みだと思う。」
こういう、もって回った大げさな言い方は、うんざりである。訳の分からないこの世界で、自分が価値ありとする作品を称揚すれば、賛成してくれる人もいよう、というだけの当たり前のことである。
本の外側のことで、もう一つ、付け加えておきたい。本文が始まる前に、全体のプロローグが付いている。
「戦争を知る者が引退するか世を去った時に
次の戦争が始まる例が少なくない。
――中井久夫『戦争と平和 ある観察』」
中井久夫の言葉なので、ありがたく押し頂きそうになるが、これはあるところまで生きてきた人には、あまりに当然で、わざわざプロローグとしてページを立てたりすると、唖然となる。
しかし歴史を考えたことのない人には、びっくりするようなことなのかもしれない(しかし歴史を考えたことのない人が、本書を読むことはないと思うが)。
別の言い方では、戦争に行った人を含めて3世代経つと、また戦争を始めやすい世の中になる、というのもある。
1世代(ワン・ジェネレーション)は30年、だからつまり、今くらいからだ。政治家を見ていると、誠にその通りと思えてくる。
人生の鮮やかで複雑な断面――『ふくろう女の美容室』(テス・ギャラガ―、橋本博美・訳)
10の短編と2編のエッセイを収録、短篇はどれも、こちらの胸に食い込んでくる。
「訳者あとがき」から読んでいこう。
「彼女は1988年に亡くなった作家レイモンド・カーヴァ―の晩年十年間を、人生のパートナーとして、また文学的盟友として互いに支え合った女性としても知られる。そのカーヴァ―の影響で、テス・ギャラガ―は小説を書き始めた。」
そういうことである。僕はこの人を、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』を読んで知った。
続いて「訳者あとがき」に言う。
「ここ二十年間、テスは本来の詩人としての活動と同時に、カーヴァ―未亡人として彼の文学的遺産にまつわる難しい訴訟やスキャンダルの矢面に立たされることも多かった。加えて、二〇〇二年の自身の発病。高齢の母の自宅での看護、そして死。次から次へと湧いてくる難題に、彼女は逞しく耐え、乗り越えてきた。」
そういう作家の短編である。グイと胸をわしづかみにされて当然と思う。
とはいっても、テス・ギャラガ―は、レイモンド・カーヴァ―とは違う。
冒頭に収められた「ふくろう女の美容室」に、恰好の例がある。全体の中で、男の客はこの人ひとり、その描き方はこんなふうだ。
「横顔ぐらいは拝んでおこう。横目で見る限り、ベルイマンの映画に出てきそうな憂いのあるハンサムだ。実は性格に少々難ありだが、ずば抜けた決断力が幸いしてこの致命傷を知られずにすんできたというタイプ。」
テスはカーヴァ―に比べれば、(カーヴァ―が重いというわけではないが)、軽やかである。
この本には、レイモンド・カーヴァ―が死んだ後、テス・ギャラガ―の追慕の思いが溢れていて、「未亡人もの」が何本かある。
なかでも「マイ・ガン」は、ミステリー風の異色作だ。
「銃社会アメリカらしい暴力と恐怖心の問題を、捻った切り口で描いている。女性や子供が犠牲になる事件が増えている日本でも切実なテーマだ。」
「ウッドリフさんのネクタイ」は、カーヴァ―最後の数カ月を描いたものだ。ネクタイがうまく結べないエピソードをはじめ、多くがカーヴァ―の実話に基づいているという。
「キャンプファイヤーに降る雨」は、カーヴァ―の「大聖堂」と、まったく同じ題材を扱ったものだ。
その冒頭。
「ミスターG〔=レイモンド・カーヴァ―〕が、継ぎはぎだらけにしてしまった物語を、私は今からきちんと元通りにしてお話ししたいと思う。彼の小説は、目の見えない男が私の家に到着するところから始まるが、実際は、私がノーマン・ロスという盲人のもとで毎日十時間ほど働いていた頃に溯る。」
まったく同じ題材を得ても、かなり違う。訳者は「是非ともこの小説同士のセッションを楽しんでいただきたい」と言う。実際、ニヤリとするところが何カ所もある。
ここでは触れなかった作品も、人生の鮮やかで複雑な断面を、みごとに切り取っている。
「訳者あとがき」の最後に、世話になった編集者をはじめ、テス・ギャラガ―以下何人かの名前があるが、その書きぶりの丁寧さが、この本をどれだけ大事に思っているかが推し量られて、ちょっと感動した。
(『ふくろう女の美容室』テス・ギャラガ―、橋本博美・訳、
新潮クレスト・ブックス、2008年7月30日初刷)
「訳者あとがき」から読んでいこう。
「彼女は1988年に亡くなった作家レイモンド・カーヴァ―の晩年十年間を、人生のパートナーとして、また文学的盟友として互いに支え合った女性としても知られる。そのカーヴァ―の影響で、テス・ギャラガ―は小説を書き始めた。」
そういうことである。僕はこの人を、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』を読んで知った。
続いて「訳者あとがき」に言う。
「ここ二十年間、テスは本来の詩人としての活動と同時に、カーヴァ―未亡人として彼の文学的遺産にまつわる難しい訴訟やスキャンダルの矢面に立たされることも多かった。加えて、二〇〇二年の自身の発病。高齢の母の自宅での看護、そして死。次から次へと湧いてくる難題に、彼女は逞しく耐え、乗り越えてきた。」
そういう作家の短編である。グイと胸をわしづかみにされて当然と思う。
とはいっても、テス・ギャラガ―は、レイモンド・カーヴァ―とは違う。
冒頭に収められた「ふくろう女の美容室」に、恰好の例がある。全体の中で、男の客はこの人ひとり、その描き方はこんなふうだ。
「横顔ぐらいは拝んでおこう。横目で見る限り、ベルイマンの映画に出てきそうな憂いのあるハンサムだ。実は性格に少々難ありだが、ずば抜けた決断力が幸いしてこの致命傷を知られずにすんできたというタイプ。」
テスはカーヴァ―に比べれば、(カーヴァ―が重いというわけではないが)、軽やかである。
この本には、レイモンド・カーヴァ―が死んだ後、テス・ギャラガ―の追慕の思いが溢れていて、「未亡人もの」が何本かある。
なかでも「マイ・ガン」は、ミステリー風の異色作だ。
「銃社会アメリカらしい暴力と恐怖心の問題を、捻った切り口で描いている。女性や子供が犠牲になる事件が増えている日本でも切実なテーマだ。」
「ウッドリフさんのネクタイ」は、カーヴァ―最後の数カ月を描いたものだ。ネクタイがうまく結べないエピソードをはじめ、多くがカーヴァ―の実話に基づいているという。
「キャンプファイヤーに降る雨」は、カーヴァ―の「大聖堂」と、まったく同じ題材を扱ったものだ。
その冒頭。
「ミスターG〔=レイモンド・カーヴァ―〕が、継ぎはぎだらけにしてしまった物語を、私は今からきちんと元通りにしてお話ししたいと思う。彼の小説は、目の見えない男が私の家に到着するところから始まるが、実際は、私がノーマン・ロスという盲人のもとで毎日十時間ほど働いていた頃に溯る。」
まったく同じ題材を得ても、かなり違う。訳者は「是非ともこの小説同士のセッションを楽しんでいただきたい」と言う。実際、ニヤリとするところが何カ所もある。
ここでは触れなかった作品も、人生の鮮やかで複雑な断面を、みごとに切り取っている。
「訳者あとがき」の最後に、世話になった編集者をはじめ、テス・ギャラガ―以下何人かの名前があるが、その書きぶりの丁寧さが、この本をどれだけ大事に思っているかが推し量られて、ちょっと感動した。
(『ふくろう女の美容室』テス・ギャラガ―、橋本博美・訳、
新潮クレスト・ブックス、2008年7月30日初刷)
mindか、heartか?――『ハチは心をもっている―1匹が秘める驚異の知性、そして意識―』(ラース・チットカ、今西康子・訳)(3)
さて最大の問題、第11章「ハチに意識はあるか?」である。
その前に言っておきたいのは、ハチに何がどう見えているかは、私たちには知り得ないということである。ハチにとっては、どんな主観的経験も、私たちには分からない。
これは哲学上の問題で、人間の智慧の実感は、徹底して人間の内部に限られている。これは人間同士でも同じことで、親子であっても、夫婦であっても、智慧の実感をもって、相手の中に侵入していくことはできない。相手の気持ちは、ついに分からないのである。
だからハチの意識といっても、人と同じような意識の話をしているのではない。
「ハチが生まれてから死ぬまでの一生に思いを巡らすとか、自分の情緒状態に『今日はやや落ち込んでいて採餌に出かける気にならない』といった分析を加えるとか、相手のハチが思っていることを推察するとか、そんなことを言っているわけではない。」
なるほど、それは納得できる。
しかしそれでも、意識の面で知りたいことはある。
「ひょっとするとハチは、自分の周囲の物体や生物に気づいているかもしれないし、少なくとも直近の未来を思い描ける(それに合わせて準備できる)かもしれないし、何らかの情動を経験していて、『自己』と『他者』を基本的に区別しているかもしれない。」
ハチにとって、今日は調子が悪いなあ、というところまでは無理だとしても、近未来を描いて、自己と他者を区別するところまでは行ってほしい。
人間の場合、「意識」とは次のようなものである。
「目を閉じれば幼少時代の家を思い浮かべることができるし、将来の計画を立てたり、状況を予測したり、(ある幅の小川を飛び越えようとする場合などに)リスクを判断したりすることができるのだ。」
そして実は、こういう能力が、多くの動物に存在する証拠が、得られている。
ハチは遠く離れた場所、たとえば自分の巣の場所を、空間記憶として引き出せるし、夜間に餌場の記憶を、よみがえらせる能力がある。また餌場の位置を、仲間に伝える能力もある。
著者はここから、実験によって、ハチが形をイメージする能力や、果ては「メタ認知能力」、つまり自分が認知していることを認知する能力、言い換えれば意識していることを意識する能力、までも備えているようだという。
まったく驚くべきこと、という以外に言いようがない。
しかし一方、ここまで来ると、ハチの「心」について、もやもやが充満してくる。
この本の最初に、「日本語版編集部」の注が付されていて、こんなことが書いてある。
「日本語で言う『心』に対応する語として、英語にはmindとheartという、ニュアンスの異なる二語があり、そのうちmindは、心の諸機能の中でも特に思考/記憶/認識といった、人間であれば主に頭脳に結び付けられるような精神活動をひとくくりに想起させる言葉であり、heartは(心の)温かさ/包容力/情や感受性などの側面に結び付いて使われることが多い。本書に出てくる『心』はすべてmindの訳語である。」
なるほど。
しかしそれならタイトルは、『ハチの思考・記憶・認識について』、あるいは『ハチの思考と認識について』とすべきではなかったか。
なんとなく、編集会議のすったもんだが髣髴とされておかしい。もちろん『ハチは心をもっている』でなければ、いけなかったのである。かりに私が、責任者の立場であったとしても、このタイトルで押しまくったはずである。
(『ハチは心をもっている―1匹が秘める驚異の知性、そして意識―』
ラース・チットカ、今西康子・訳、みすず書房、2025年2月17日初刷)
その前に言っておきたいのは、ハチに何がどう見えているかは、私たちには知り得ないということである。ハチにとっては、どんな主観的経験も、私たちには分からない。
これは哲学上の問題で、人間の智慧の実感は、徹底して人間の内部に限られている。これは人間同士でも同じことで、親子であっても、夫婦であっても、智慧の実感をもって、相手の中に侵入していくことはできない。相手の気持ちは、ついに分からないのである。
だからハチの意識といっても、人と同じような意識の話をしているのではない。
「ハチが生まれてから死ぬまでの一生に思いを巡らすとか、自分の情緒状態に『今日はやや落ち込んでいて採餌に出かける気にならない』といった分析を加えるとか、相手のハチが思っていることを推察するとか、そんなことを言っているわけではない。」
なるほど、それは納得できる。
しかしそれでも、意識の面で知りたいことはある。
「ひょっとするとハチは、自分の周囲の物体や生物に気づいているかもしれないし、少なくとも直近の未来を思い描ける(それに合わせて準備できる)かもしれないし、何らかの情動を経験していて、『自己』と『他者』を基本的に区別しているかもしれない。」
ハチにとって、今日は調子が悪いなあ、というところまでは無理だとしても、近未来を描いて、自己と他者を区別するところまでは行ってほしい。
人間の場合、「意識」とは次のようなものである。
「目を閉じれば幼少時代の家を思い浮かべることができるし、将来の計画を立てたり、状況を予測したり、(ある幅の小川を飛び越えようとする場合などに)リスクを判断したりすることができるのだ。」
そして実は、こういう能力が、多くの動物に存在する証拠が、得られている。
ハチは遠く離れた場所、たとえば自分の巣の場所を、空間記憶として引き出せるし、夜間に餌場の記憶を、よみがえらせる能力がある。また餌場の位置を、仲間に伝える能力もある。
著者はここから、実験によって、ハチが形をイメージする能力や、果ては「メタ認知能力」、つまり自分が認知していることを認知する能力、言い換えれば意識していることを意識する能力、までも備えているようだという。
まったく驚くべきこと、という以外に言いようがない。
しかし一方、ここまで来ると、ハチの「心」について、もやもやが充満してくる。
この本の最初に、「日本語版編集部」の注が付されていて、こんなことが書いてある。
「日本語で言う『心』に対応する語として、英語にはmindとheartという、ニュアンスの異なる二語があり、そのうちmindは、心の諸機能の中でも特に思考/記憶/認識といった、人間であれば主に頭脳に結び付けられるような精神活動をひとくくりに想起させる言葉であり、heartは(心の)温かさ/包容力/情や感受性などの側面に結び付いて使われることが多い。本書に出てくる『心』はすべてmindの訳語である。」
なるほど。
しかしそれならタイトルは、『ハチの思考・記憶・認識について』、あるいは『ハチの思考と認識について』とすべきではなかったか。
なんとなく、編集会議のすったもんだが髣髴とされておかしい。もちろん『ハチは心をもっている』でなければ、いけなかったのである。かりに私が、責任者の立場であったとしても、このタイトルで押しまくったはずである。
(『ハチは心をもっている―1匹が秘める驚異の知性、そして意識―』
ラース・チットカ、今西康子・訳、みすず書房、2025年2月17日初刷)
mindか、heartか?――『ハチは心をもっている―1匹が秘める驚異の知性、そして意識―』(ラース・チットカ、今西康子・訳)(2)
ハチの驚くべきコミュニケーション能力、ダンス言語の進化、空間の学習などについては、数々の巧みな実験で解き明かしてある。それはカラー図版で、細かく指示されている(しかしかなり専門的で、私にはよくわからないものも多い)。
ハチと花については1章を設けて、有史以来のところから、精妙な関わり合いを論じている。
ハチの脳については、その特異性と、特にミツバチ独自の分蜂群の「民主的意思決定」を、詳述してある。これは新しい女王が生まれると、元の女王が、働きバチの半数を連れて飛び出し、新たに巣を作る際のことだ。
ここで、女王バチと働きバチの違いについて書いてあることが、私には面白かった。
女王バチと働きバチは、遺伝的には何の違いもない。それなのに成長していく過程で、まったく違ったミツバチになる。そもそも大きさが、倍ぐらい違う。
これは、女王バチの幼虫は特別な「栄養調整食」、つまりローヤルゼリーを長期間、大量に与えられるからなのだ。
女性が栄養剤で飲んだり、化粧品に使うものだな。しかしローヤルゼリーの化学組成は、部分的にしか解明されていないのだという。
「ローヤルゼリーは、育児係である若いワーカー〔働きバチ〕の口器の分泌腺でつくられる。孵化後しばらくは、すべての幼虫にローヤルゼリーが与えられるが、ワーカーになる幼虫は、その後すぐに花粉と花蜜だけの一般食に切り替わるのに対し、女王になる幼虫は、幼虫期を通してローヤルゼリーを大量に与えられ、成虫になってからも生涯ローヤルゼリーを食べ続ける。」
その結果、驚くほどの「形態的、行動的、心理的違いが生まれるのである。」
ミツバチの女王は数年間生き、その間に毎日(毎日ですよ!)、約2000個ほどの卵を産む。そしてそれ以外には、何もしない。ちなみに働きバチの寿命は、数週間である。
ミツバチの新女王は、羽化するとすぐに、他の新女王たちと殺し合いをする。そして生き残った1匹が、数回の交尾飛行のために、巣の外に出て行く。
「巣から数キロメートル離れていることもあるこの交尾専用の場所では、何百匹もの雄バチが女王バチを待ち受けている。女王はこの飛行中に、平均12匹の雄バチと交尾を重ねるのだ。」
乱交どころではない。むかし日活の映画で、『女王蜂』というシリーズがあったが、企画した人は、ミツバチの女王の生態を、よく知っていたに違いない。
なお、寄ってたかって新女王と交尾した、雄バチのその後は哀れだ。
「雄バチのほうは、交尾した直後に死を迎える。生殖器本体から反転して出てきて勃起した内袋が、瞬間的な射精によってちぎれてしまうからである。」
生殖器がちぎれるほどの射精! 命を懸けた交尾と言うしかない。
でもひょっとすると、交尾した後、命をなくす雄は他の昆虫でもいて、それほど珍しくはないのかもしれない。
ちなみに働きバチが、セックスすることは決してない。これはこれで、悲しいことである(昆虫のプロは、そんなことは考えないだろうが)。
ハチと花については1章を設けて、有史以来のところから、精妙な関わり合いを論じている。
ハチの脳については、その特異性と、特にミツバチ独自の分蜂群の「民主的意思決定」を、詳述してある。これは新しい女王が生まれると、元の女王が、働きバチの半数を連れて飛び出し、新たに巣を作る際のことだ。
ここで、女王バチと働きバチの違いについて書いてあることが、私には面白かった。
女王バチと働きバチは、遺伝的には何の違いもない。それなのに成長していく過程で、まったく違ったミツバチになる。そもそも大きさが、倍ぐらい違う。
これは、女王バチの幼虫は特別な「栄養調整食」、つまりローヤルゼリーを長期間、大量に与えられるからなのだ。
女性が栄養剤で飲んだり、化粧品に使うものだな。しかしローヤルゼリーの化学組成は、部分的にしか解明されていないのだという。
「ローヤルゼリーは、育児係である若いワーカー〔働きバチ〕の口器の分泌腺でつくられる。孵化後しばらくは、すべての幼虫にローヤルゼリーが与えられるが、ワーカーになる幼虫は、その後すぐに花粉と花蜜だけの一般食に切り替わるのに対し、女王になる幼虫は、幼虫期を通してローヤルゼリーを大量に与えられ、成虫になってからも生涯ローヤルゼリーを食べ続ける。」
その結果、驚くほどの「形態的、行動的、心理的違いが生まれるのである。」
ミツバチの女王は数年間生き、その間に毎日(毎日ですよ!)、約2000個ほどの卵を産む。そしてそれ以外には、何もしない。ちなみに働きバチの寿命は、数週間である。
ミツバチの新女王は、羽化するとすぐに、他の新女王たちと殺し合いをする。そして生き残った1匹が、数回の交尾飛行のために、巣の外に出て行く。
「巣から数キロメートル離れていることもあるこの交尾専用の場所では、何百匹もの雄バチが女王バチを待ち受けている。女王はこの飛行中に、平均12匹の雄バチと交尾を重ねるのだ。」
乱交どころではない。むかし日活の映画で、『女王蜂』というシリーズがあったが、企画した人は、ミツバチの女王の生態を、よく知っていたに違いない。
なお、寄ってたかって新女王と交尾した、雄バチのその後は哀れだ。
「雄バチのほうは、交尾した直後に死を迎える。生殖器本体から反転して出てきて勃起した内袋が、瞬間的な射精によってちぎれてしまうからである。」
生殖器がちぎれるほどの射精! 命を懸けた交尾と言うしかない。
でもひょっとすると、交尾した後、命をなくす雄は他の昆虫でもいて、それほど珍しくはないのかもしれない。
ちなみに働きバチが、セックスすることは決してない。これはこれで、悲しいことである(昆虫のプロは、そんなことは考えないだろうが)。