奇跡の国――『謎の独立国家ソマリランド―そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア―』(1)

冒険家・探検家、高野秀行の旧ソマリア紀行。これは飛び切り面白いし、考えさせる。

旧ソマリアはアフリカの東端、「アフリカの角」と呼ばれる所にあって、紅海を隔てて、イエメンやサウジアラビアと向かい合っている、と言えば見当がつくだろうか。

「ソマリ人」はおもに5つの大きな「氏族」に分かれ、旧ソマリアのほかケニア、エチオピア、ジブチにまたがって暮らしている。
 
旧ソマリアは「氏族」ごとに、団結と分裂を繰り返し、高野秀行が滞在した2010年前後は、数多の武装勢力や自称国家、自称政府が群雄割拠していた。
 
旧ソマリアは大まかに北の方から、「ソマリランド」、「プントランド」、「南部ソマリア」に分割されていた。
 
ソマリアは報道によれば、内戦というよりは無政府状態が続き、「崩壊国家」という名称で呼ばれている。
 
ところが、そんな崩壊国家の一角に、10数年も平和を維持し、武器は携帯せず、政党政治により首相が交代する国があるという。それがソマリランドだ。高野秀行でなくとも、ほんとかね、と眉に唾をつけたくなる。
 
高野はこれを、「天空の城ラピュタ」に例える。そして「『謎』や『未知』が三度の飯より好きな私の食欲をそそらないわけがない」と、ソマリランドの首都ハルゲイサに入るのである。
 
ここまで、要約すればそういうことだが、冒険紀行ものだから、謎の国ソマリランドに行くだけでも、大変である。早い話が、例えばビザを取る必要があるのか、仮に必要だとして、それをどこで取るのか。一事が万事そういうことで四苦八苦するが、それは本を見てほしい。
 
ソマリランドの首都ハルゲイサに着いて驚くのは、そこにいる人たちは、あらゆることに「超速」であることだ。一般にアフリカの人たちは、時間にルーズでのんびりしているが、ソマリ人たちはまるで違う。
 
最初にホテルに着いたとき。

「清潔さ、接客、設備のどれをとっても、世界的に見て〝中の上〟もしくは〝上の下〟クラスレベルである。それだけでも驚くのに、従業員の対応が素早い。フロントに頼めば、瞬時に無線LANのネット回線をつないでくれたし、レストランのウェイターもてきぱきとしていて、呼ぶと『イエス!』と小走りで飛んでくる。日本以外で食堂内を走るウェイターなどめったにお目にかかれない。」
 
万事この調子で、サイードという名の大統領スポークスマンは、高野が電話で自己紹介を始めると、「最後まで訊こうともせず『わかった。今すぐ行く』と瞬間的に電話が切れ、その十分後には本人がホテルに姿を現した。政府の要人がアポもとらず、十分で会えるとは驚異の一言だ。」
 
同じ日の夕方、サイード翁が再び来襲し、有無を言わさず旅のスケジュールを決めていった。
 
高野はもちろん、自力で旅をするつもりだったが、「洪水のようなじいさんの勢いを遮ることができない」、結局これで行くしかない。
 
このとき通訳のワイヤップを紹介される。彼は52歳で、ソマリランド政府情報省に所属しているが、最近までフリーランスで活躍してきた熟練のジャーナリストで、ソマリア全体を通して屈指の情報通であった。
 
高野秀行は結局、この人を通じてソマリランドを知り、プントランド、南部ソマリアを知ることになる。

たまにはのんびり小説でも――『銀婚式』(2)

この小説の解説を、藤田香織という人が書いている。肩書は書評家である。この解説を読んだとき、思わずムッとした。

「正直に言うと、個人的には最初に単行本で読んだ際、高澤にまったく魅力を感じなかった。」その妻も、「思慮深く奥ゆかしいが引っ込み思案」と思わせているが、「引っ込み思案って、あなたの妻は幼稚園児ですか、と言いたくなる。」
 
こういう言い方は、ないんじゃないか。大手の証券会社が破綻したときの、責任ある当事者の苦しみはいかばかりか。

と言っても、もちろん僕は、そういう経験もなければ、知り合いにそんな人もいない。それでも、そういう想像力は、かすかにあると思いたい。
 
同時にそういうとき、夫婦の気遣いがおろそかになり、すきま風が吹いても、やむを得ぬことだなあ、と思いもする。
 
藤田香織は、今を生きる女の先頭集団を走っているのだろう。そういう人には、わからぬ世界だ。
 
しかし一方、この主人公は、少し古いという感じもする。男は外で仕事があり、女は内で家庭を守るというのは、もう家族のモデルにはなりえない。

2000年頃以後、賃金の上がらない日本では、大半の夫婦は共稼ぎせざるを得ない。「髙澤修平」は転職を重ねるたびに、年収は下がっていったはずだ。
 
藤田香織も書いている。

「再読するうちに、高澤や由貴子のような人は、特に珍しい存在ではないのだ、と思い至った。彼らの特性や長所は現代社会において気付かれにくいが、高澤のように苦境にあっても実現可能な物事を見極め、そのための努力は惜しまず仕事に邁進してきた男性も、由貴子のように、一歩引いて物事を見つめ、自分の親や子のため献身的に尽くしてきた女性も、周囲を見渡せばまだまだ多い。」
 
この小説は、そういうちょっと古い人たちの誠実な歩みを、辿ったものだ。『銀婚式』とは、「髙澤修平」と「由貴子」が、別れずに夫婦でいたならば、この年に迎えていたものだ。

『ゴサインタン』や『弥勒』、『仮想儀礼』の篠田節子にしては、珍しくオーソドックスな小説で、それゆえ印象に残る本だった。

(『銀婚式』篠田節子、新潮文庫、2017年1月1日初刷)

たまにはのんびり小説でも――『銀婚式』(1)

同じ本を読むのでも、たまにはのんびり小説でも、という気になるときがある。

傍から見れば必死で読んでいても、同じことなのだが、本人にとっては、「たまにはのんびり」というところが大事だ。そういうときには、例えば篠田節子がいい。

『銀婚式』は、2000年前後のサラリーマンの、日々を生きてゆくのに必死なようすが蘇ってきて、自分も法蔵館を辞めてトランスビューを作った、あの頃を思い出してしまった。不安な時期だった。
 
大手証券会社のニューヨーク本部で、忙しく働いていた「髙澤修平」は、日々生気が失われていく妻とうまくいかなくなり、やがて離婚する。

妻は後に、甲状腺ホルモンが不足する自己免疫疾患であることが分かるが、そのことは、子供と二人、日本に逃げ帰るまで、妻も知らないことだった。
 
同時に会社も、不景気の波が押し寄せ、破綻する。不況が始まる時期だったなあ。

「髙澤修平」は、その後始末をきちんとやり遂げてから、ニューヨークに別れを告げる。

転職した次のところは、中堅の損害保険会社である。そこでは、コンピューター化の波が業界を襲い、第一線の一人代理店の女性たちと、本社の間で板挟みになり、そこも去ることになる。
 
次の転職先は、友だちの伝手を頼った「東北国際情報大学」である。ここは仙台市内から、スクールバスで30分という触れ込みだった。これが全体400ページの4分の3を占める。ここからが、本格的に面白くなる。
 
同僚の老教授が、諭すように言う。

「相手を大学生と思ってはいけませんよ。昔の小学生と考えれば間違いない。この部屋の名称は研究室ですが、我々の仕事から研究が消えて久しい。しかし最近では学問だけでなく、教育もできない。生活指導ですよ、私たちの仕事は。あなたも企業にいらっしゃったのですから、新入社員の方の変化を目のあたりにしてこられたでしょう。」
 
篠田節子はこういう私立大学を、学生も含めて徹底的に調べて、よく書いている。見事なものだ。
 
しかし、さらによく書けているのは、勤め先の大学以上に、別れた妻の、女親の老人問題だ。著者はここで、主人公に老人問題まで背負わせる。
 
離婚したとはいっても、子どもを通して、元女房との付き合いは続いてゆく。実家まで行った「髙澤修平」は、義母が痴呆になっており、体の一部が腐り始めているのを知って、愕然とする。そして元妻を支えなければと思う。

「その日のうちに様々な書類のやりとりが待っていた。
 ケアマネージャー、ヘルパー、入浴サービス、介護用レンタル用品、すべてのサービスに関する契約も業者もばらばらだ。それぞれの会社から別の人間がやってきて、それぞれに契約を交わし、口頭で説明をする。整然としているつもりの高澤の頭でも混乱する。」
 
僕は当事者だから、本当によくわかる。妻が手際よく捌く書類と人を、ただもう混乱しながら見ている。

「なぜ〔元妻の〕由貴子がこうしたサービスを利用するのを拒んだのかわかるような気がする。日々の介護で精魂尽き果てているからこそ、この手続きだけでつまずいてしまう。
 ケア・ビジネスの独占を避けるための配慮かもしれないが、煩雑なことおびただしい。きっとこれまで介護に関わったことのない、自分のような男たちが机上で練ったプランに違いないと高澤は思った。」
 
まったくその通りで、これ以上申し上げることはない。
 
ただ、この小説の単行本の初出が2011年、それから10年ちょっと経つと、年寄りの爆発的な増加に伴って、今度はサービスをどういうふうに削るかに、力点は移っている。これは恐ろしいことだ。

ソーシャル・メディアを駆使して――『優等生は探偵に向かない』

デビュー作『自由研究には向かない殺人』が、英米でベストセラーになったホリー・ジャクソンの続編である。
 
相変わらずうまい文章で、読み始めると没入してしまう。ソーシャル・メディアの取り入れ方も上手で、解説の阿津川辰海によれば、「硬直化した、秘密に満ちた地域コミュニティも、ソーシャル・メディアの多様な目によってフラットに解体されていく。」
 
ここがホリー・ジャクソンの、もっとも現代的なものだ。
 
とは言うものの、この続編は、例えばアメリカの探偵ものとは、ずいぶん違っている。変な話だが、続編臭がきつすぎるのだ。
 
デビュー作の犯人は、もちろん捕まっている。しかしそれ以外の、たとえば最初の話でカクテルにクスリを入れて、女子高生を暴行していた男は、続編ではまだ裁判中であり、それは結局、裁判で無罪となる。

そこでこれは、さらに続編があって、3部作で完結になるんだなとわかる。
 
もう一つ厄介な点は、今回は事件が小さすぎることだ。主人公の高校生ピップは、男友だちの兄の失踪事件を、ポッドキャストで配信し、リスナーから手掛かりを集めていく。前回と同じく、関係者へのインタビューや、SNSなどを駆使して、真相を明らかにしていく。
 
しかし所詮、警察でも相手にしない成人男性の失踪だから、読者としてもだんだん飽きてくる。全部で500ページのうち、400ページ強が、事件だか何だか分からない、友だちの兄貴の失踪なのだ。
 
しかしそう思っていると、突然過去の連続殺人鬼の話になり、さらにその子供の話になる。若い女性ばかりを殺す殺人鬼の子供は、父親に言われるがままに、殺人に協力していたのだ。

父親は監獄に入っているうちに、同じ囚人に殺されてしまうが、未成年の子供は、何年か教育措置を受けた後、違う名前と別の経歴をもって、娑婆に出て普通に暮らしている。

この男はだれか。ここが事件の核心である。
 
これ以上はネタバレになるので言えないが、終わってみれば、読みごたえは十分にある。
 
初めに言ったが、アメリカの私立探偵とか弁護士のような、ゲームもどきのミステリーではなくて、英国の地方のコミュニティがしっかり描けている。うんざりするような地方都市の、息がつまりそうなところもあって、そこが面白い。
 
もう一つは、これもはじめに述べたが、ソーシャル・メディアを駆使することによって、事件は劇的な展開を見せる。
 
とは言っても僕には、本当はピンとこない。

「ハイ、みんな
町に貼られているポスターを見て知ってると思うけど、ジェイミー・レノルズ(コナーのお兄さん)が金曜日の晩、追悼式のあとで消息を絶ちました。〔中略〕そこで、パーティーで撮った写真や動画をこちらに送ってください。〔中略〕画像や動画を保存してあるなら、スナップチャット/インスタグラムのストーリーも大歓迎です。」
 
ここは本文とは独立して、横組みでゴチックで組んである。いよいよ面白くなるぞ、思うのだけれど、「スナップチャット/インスタグラムのストーリー」なんて、何のことだか分からない。でもとりあえず、便利な道具だというのが分かっていれば充分だ。
 
ピップが主人公の第3作目、『As Good As Dead』も英国では刊行されている。はやく翻訳が出ないか。

(『優等生は探偵に向かない』ホリー・ジャクソン、服部京子・訳、
 創元推理文庫、2022年7月22日初刷、9月2日第2刷)

息をのむ大パノラマ――『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』

『日本古書通信』10月号に、鷲見洋一著『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』について書いた。このブログで本書について記すのは、二度目である。もちろん一度目とは、力点の置き方が違う。

『古書通信』はすでに11月号が出ているので、10月号の記事をここに掲載するのは構わないだろう(ブログは読みやすくするために、改行のところを1行アキ、改行を増やし、横書きとする)。

〈すごい本だ。四六判九〇〇ページ。まるで弁当箱だが、胃袋ではなく、心が飛び跳ねるほど面白い。

全体は九章立てで、1、前史、2、刊行史、3、編集者ディドロの生涯、4、商業出版企画として、5、編集作業の現場、6、「結社」の仲間、7、協力者と編集長の思想、8、図版の世界、9、身体知のなかの図版、とくれば『百科全書』を巡るパノラマのような世界を一望できる。
 
一七五一年に第一巻が刊行され、五七年には第七巻が刊行される。ところが以後は刊行が禁止され、しばらく地下に潜って、一七六五年から六六年にかけて残りの一〇巻を配布する(しかし「地下に潜る」とはどういう意味だ)。ほかに図版篇があり、一七六二年から七二年にかけて一一巻で完結している。全二八巻、ちなみに図版篇の方は刊行禁止にはなっていない。

なぜこんなややこしいことになるのか。

実はこの時代は、言論の自由や出版の自由がなかったのだ。まず国王の権力がある。ディドロは一七四九年に、『盲人書簡』という危険思想を流布する本で逮捕され、宗教や風紀を乱すような執筆活動はしないと誓って許されている。

また王権と並んで宗教界からの圧力もある。プロテスタントや、ディドロのような無神論者は、カトリックに弾圧されて苦しい時代だった。

そこではディドロたち『百科全書』派のレトリックが生きる。「検閲は厳しかったので、批判記事はおのずと間接的で暗示的なものにならざるをえなかったのです。〔中略〕逆にその面従腹背の出版戦略は読者の人気を集める結果となりました。『百科全書』はそこに印刷されていた事柄もさることながら、印刷されていない事柄で人びとを魅惑したとも言えるでしょう。」これは著者側と読者が相通じ合う、非常に高級なやり方だ。
 
しかしディドロが闘わなければならなかった、もう一つの敵がいる。それは同じ陣営で闘っているつもりの「共同書籍商」たちである。この当時の書籍商はほとんど出版社と見ていい。

ディドロは一七六四年に、書籍商ル・ブルトンの「検閲」を発見する。「『百科全書』のような私企業が手がける刊行物にせよ、特定の個人が執筆した原稿を印刷刊行するにせよ、当時は書籍の制作・販売を専業とする書籍商が大きな力をもち、著者たちは書籍商にたいして自分たちの権利や利得を主張できる立場にはありませんでした。」

私はここを読んで思わずニンマリした。現役を退いた今でも、自分は出版社側にいるという染み付いたものはとれない。本誌の読者でも、どちらにあるかで感想は一八〇度違うのではないか。
 
書籍商ル・ブルトンの最初の企画は、英国の百科事典『サイクロピーディア』の仏訳版で、それが『百科全書』に発展していった。この段階でル・ブルトンは、自分だけでは経費をまかないきれないと判断し、ブリアソン、ダヴィッド、デュランを誘って「協同書籍商」を立ち上げる。出資比率はル・ブルトンが二分の一、他の三名が残りの三分の一ずつだ。

こう見てくると、『百科全書』の前段階から完結するまでを、金銭面を手当てしながら責任を持ったのはル・ブルトンだと分かる。だから彼は、大胆すぎると判断した原稿は、検閲を恐れて無難な内容に書き換えたのだ。それはこの時代の書籍商が、ごく普通にやっていたことである。
 
けれどもディドロは悲痛極まりない手紙を出す。「みなが『百科全書』に求めたもの、これからも求めるものは、あなたが雇った労働者何名かの堅固で大胆な哲学なのです。貴方はその哲学を無思慮にも、容赦なく、無粋にも、去勢し、切り刻んでバラバラにしてしまいました。」
 
しかしそんな手紙をもらっても、ル・ブルトンは応えない。ディドロは『百科全書』の評判を落とさないために、やむなく仲間内に箝口令を敷くしかなかった。

ル・ブルトンも国家や教会を相手になんども危ない橋を渡ったが、死ぬときは巨万の富を蓄えていた。誤解を恐れずに言えば、私はこの人こそ出版人の鏡であると思う。
 
私はこの本を二度読んだ。一度目は頁を繰る手ももどかしく、著者の文体に乗せられて。二度目はゆっくりと、各章が多様に共鳴するのを楽しみながら読んだ。十八世紀は今とは違いすぎて、疑問は限りなく出てくる。それがじつに楽しい。私は自分の生あるうちに、この本が出たことを感謝したい。〉

(『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』
 鷲見洋一、平凡社、2022年4月25日初刷)

意見が分かれた本――『タラント』(2)

「みのり」は、サークルで知り合った、国際ジャーナリストを目指す宮原玲や、カメラマンを志望する遠藤翔太といった、野心も才能もある連中と、肩を並べているつもりだった。
 
しかしあるときヨルダンの難民キャンプで、善意からとはいえ、キャンプを抜け出す少年たちに手を貸してしまう。「みのり」の善意は、日本国内でのみ通用する、自分勝手なものだった。
 
40歳間近になった「みのり」は、積極的に何かに関わることは、もうやめようと思う。今は結婚して、ケーキ屋の仕事を淡々とこなしている。自分には、宮原玲や遠藤翔太のような才能や取柄はなかったのだ、と。
 
そこに、高跳びでパラリンピックを目指している「涼花さん」や、義足の祖父が絡んで、「みのり」はもう一度、自分にできることがあるのではないか、と考えるようになる。

夫の「寿士」との会話。

「『この状況〔=コロナの蔓延〕が落ち着いて、遠出できるようになったり、気やすく人に会えるようになったら、やってみようかなと思うことがあって』
『え、何』寿士が顔を上げる。
『なんていうか、今さらなんだけど、義足について勉強したいと思うようになって。あのさ、不要になった義足を、足りてないところに届けたりできないのかなって思ってて。』」

「みのり」が、自分にも使命があるのではないか、と自問自答するところである。行く手にわずかな希望が見出せるところで、小説は閉じられる。

1999年から2019年までと言えば、アメリカの9.11同時多発テロや、東北大地震とそれに伴うボランティア、さらにはコロナ騒動も含み、それらは素材として上手に取り込まれている。

私はこの小説を大変面白く読んだ。

しかし妻は、面白いことは面白いけれど、ちょっと古い感じもすると言った。
 
ここを分析してみたい。考えてみれば、この小説を時間軸に沿ったかたちで叙述するとすれば、まことに平凡なものになるだろう。

夢を抱いて大学生活を送り、就職してからも、アジアの国々と関わって生きてきた女性が、自分には何の取柄もなかったのだと悟り、その結果、今日をなんとか生きているだけの存在になる。

それがまた、やるべき使命、義足をアジアの国に贈りたいという使命を、おぼろげに見出す。
 
これは小説の主人公としては、いかにも弱い。そこで小説家は、苦心して時間を錯綜させ、祖父の独白を、章を割って入らせ、目先をくるくると変えながら、終わりまで面白く読ませている。
 
そういう努力を、私は多とする。もっといえば、小説家の才能とは、そこに賭けられるものだと思う。

一方、文筆家たる妻は、そういう小手先のことをしても、全体を通してみれば、この主人公はいかにもひ弱だし、これでは作家として第一線を走っている角田光代にしては、物足りないのではないか、と考えたに違いない。
 
私はそういうふうには考えない。元編集者としては、あれもよしこれもよし、と捉える。
 
ただ一言、『タラント』という題について。これは聖書に出てくる話で、自分の持っている天分、才能に応じて、つまり「タラント」(という貨幣)に応じて、努力しなさいという教えである。貨幣はもとより比喩である。
 
私は中学・高校を、カトリックの学校で過ごした。中学入学式でも高校入学式でも、神父は「タラント」の話をした。
 
私はこの話がピンとこなかった。だいたいお金を比喩として、人間の才能をはかるというのが、ゲスな感じがしてたまらなく嫌だ。聖書が基本にある欧米では、人間の才能、天分も、秤できっちり量るんだろう。でも人間はそんなものじゃない。
 
この話で面白いのは、1タラントをもらった人は、それを使うことをせずに、土に埋めてしまう、それで神様に叱られるという話なのだが、自分の才能を発揮することなく、それを人に隠して生きるということが、なぜ神様に叱られるのだろうか。人間の奥ゆかしさが分からないのか。

能ある鷹は爪を隠す、もっと言えば、弓の名人が、ついには弓そのものを忘れてしまう中島敦『名人伝』の世界、これが分からない神様なんて、実にはすっぱだと思った。
 
そういうわけで、タイトルにはわずかに疑問符を付すが、作品そのものはとても面白かった。

(『タラント』角田光代、中央公論新社、2022年2月25日初刷)

意見が分かれた本――『タラント』(1)

角田光代の読売新聞連載の小説。「みのり」という女性が、1999年に大学に入るところから、2009年までの20年間を描く。
 
そこに章を割るかたちで、「みのり」のお祖父さんの独白が入る。これは最初、なぜ章を割って入るのかが分からなかった。「みのり」のお祖父さんであることも、途中までは分からない。だからネタバレに近いことだが、これは最初に分かったってかまわない。

「みのり」を描く時間の順序は行ったり来たりして、やや混乱のうちに読んでしまう。

おまけにお祖父さんの独白は、戦争で片足を失うというもので、最初は「みのり」の話にどう絡むのか、分からない(もちろん最後には一続きになる)。

だからもう一度、整理する意味で読んだ。こんどはすんなりとよく分かった。

「みのり」は香川県から東京の大学に合格し、東京郊外の、いろんな大学が合同でやっている女子寮に入る。彼女は故郷を出るとき、羽ばたくように東京に出てきたものの、最初はまったく馴染めない。
 
誰とも話をしなかった「みのり」は、別の大学の1年先輩と、寮の先輩の部屋で話をする。叙述はこんな調子である。

「『ごめんなさい、すっかり話しこんじゃって。なんだかだれとも話していなかったからうれしくなってしまって。野菜ありがとうございます』と頭を下げる。その瞬間、まったく予期せず、両目から涙がほとほとと絨毯に落ちて、みのりはあわてて袖口で目をこすり、『あっすみませんすみません』と、手近にあったボックスからティッシュを抜き取り、しゃがみこんで涙のしみを拭く。」
 
ここはなかなかうまい。「みのり」が、東京に慣れていないことを端的に表わし、また素直な人柄もそのまま納得される。
 
そしてその先。

「『あっごめんなさいティッシュ勝手に』
『やだもう、ぜんぜんごめんでもないしすまなくもないよ。いいよそんなの。それよか、あんただいじょうぶ?』
『だいじょうぶです、いや、びっくりした、ごめんなさい。泣くなんてへんですよね』と顔を上げられず、みのりは紙袋を両手で抱いてじりじりと玄関に後ずさる。『いや、泣くなんて思わなかったな、なんかたのしくて。あの、またきていいですか』」。
 
実にうまい、思わず吹き出す。こういうところがあるから、角田さんの小説は、期待をもって読み進められるのだ。
 
このとき、「新入生歓迎! 麦の会」のチラシをもらう。「麦の会」は大学を横断するサークルで、地域の子どもたちとふれあい、児童養護施設で子どもたちと交流し、海外に物資支援、教育支援を行なっている。主な海外支援国はカンボジア、ラオス、ネパールなどである。

「みのり」はこのサークルに入り、新入生だが大学は違う、宮原玲という女性と遠藤翔太の2人と知り合う。

「みのり」はサークルに入るとき、こんなことを考えていた。

「自分はつまらなくて退屈な、なんの興味も持っていないぼんくらだと、いやというほど自覚させられ、だからこそ、こういう世のなかの役にたつようなサークルに入って、自分を鍛えるべきだと思う。」

「みのり」の大学生活は「麦の会」を中心に回りだし、東南アジアへのスタディツアーにも参加する。それは小さな出版社に就職するときにも、決定的な意味を持つ。

そして挫折が来る。

「メディア形態」が古くなる――『臨床読書日記』

朗読で養老先生の番が来て、『臨床読書日記』の何回目かを読んでいる。車谷長吉や坪内祐三の朗読の場合は、対象となる本は決まっているのだが、養老先生の場合、何を取り上げるかは、その時の気分しだいである。

『臨床読書日記』を朗読していて、「クロサキのMS‐DOS」という章で考えさせられた。
 
これは書評集であり、ここで問題になっている本は、正確には『哲学者クロサキのMS‐DOSは思考の道具だ』(アスキー出版局)という。
 
そこに「クロサキ氏」の言葉として、こんなことが書かれている。

「これまで私たちの文化を形づくってきた、印刷文字というメディアに、電子文字っていうメディアがとって代わろうとしているとき、実は、私たちそのものが変化しようとしている。そしてこの変化は、おそらく、私たちが気づかないようなレベルで確実に進行するような、そんな出来事なのです。」
 
以前もここを読んだとき、いろんな意見があるものだ、しかし「私たちが気づかないようなレベルで」進行するのだから、考えてもどうしようもない、としか考えなかった。
 
今回はちょっと違った。その先がある。

「〈自分の何でもない文章が美しい活字になった喜び〉があり、次には〈活字に対するあこがれの消失〉が続き、そしてその次には、何が書いてあるかという内容にかかわりなく、〈活字というメディアそのものに対する倦怠感〉がやってくる。」
 
この変化は、著者がここ4,5年感じた、私的な体験である(ここ4,5年感じた、とは言うものの、『臨床読書日記』そのものが、20年以上前の本である)。ここが私には今回、リアルに迫ってきた(ちょっと、というかかなり遅いね)。
 
もちろん、読む本は次から次へと生まれていて、「活字というメディアそのものに対する倦怠感」など、私自身には皆無なのだが、一方、新聞や週刊誌の、くたびれ切った書評欄を見ていれば、もういいか、という気もしてくる。新聞や週刊誌の記者が、優れたものを受容する力が弱っているのだ。
 
黒崎政男の議論には、さらにその先がある。

「おおげさに言えば、グーテンベルク以来の活字文化、それは書物の文化であり、近世西洋の文化ですが、その文化に対する人々の倦怠感は、こんなところにも原因があるかもしれません。内容が古くなったり、無意味になったのではなく、そのメディア形態が古くなったのです。」
 
だから活字の時代は終わった、次は「電子文字」、というわけにはいかないことは分かっている。
 
しかし、幼稚園児が、一番なりたいものにユーチューバーを上げる時代は、〈言葉〉に関しては、どうやらこれまでとは違う側面に入ってきたことを示している。

(『臨床読書日記』養老孟司、文藝春秋、1997年3月10日初刷)

中身が合っていない――『シンプルな情熱』(2)

2年後、男はフランスを出て行き、女には連絡もしてこない。
 
ところがしばらくして、男はフランスに現われ、女に、これからタクシーに乗るところだという。女は喜びでパニックになりながら、化粧をし、身支度を整える。
 
しかしもう一度会った男は、女があのとき抱かれたいと思い、その後、ずっと抱き続けてきた男性ではなかった。恋は、「シンプルな情熱」は、去ってしまったのだ。

「ほかでもないその男性には、私は絶対に再会することがないだろう。が、それにもかかわらず、あの非現実的で、ほとんど無に等しかったあの夜のことこそが、自分の情熱〔パッション〕の意味をまるごと明示してくれる。いわゆる意味がないという意味、二年間にわたって、この上なく激しく、しかもこの上なく不可解な現実であったという意味を。」
 
うまい!
 
しかしこういう小説なのか? 「性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態」を目指したはずなのに、どうなっちゃったのさ。
 
巻頭の宣言がなければ、これはこれで、いかにも上品なフランスの小説なのだろうが、巻頭で勇ましく宣言したのは、いったい何だったのか。ガリマール書店の編集者は、どういうつもりでこの本を出したのか、聞いてみたい。

「シンブルな情熱」というのは、実は難しい。ただ性交したい、それに匹敵する価値あることは、何もない。いわゆる恋の絶頂期においては、そういうことであるはずだ。これを補助線なしに、ただ書くということは、実は難しい。
 
最近読んだ本でいえば、金原ひとみの『軽薄』が、情交を描いて、脳髄沸騰まであとわずか、だった。しかしそこでも近親相姦という、強力な補助線が引かれている。
 
なお『シンプルな情熱』の巻頭言で、ポルノ映画を見た著者が、こういうことを言うところがある。

「こんな光景もきっと、見慣れてしまえば何ということもないのだろう。が、初めて見ると動顚してしまう。何十世紀にもわたって、何百回も世代が交替してきたのに、今日に至って初めて、ようやく、女の性器と男の性器の結合するさまや、精液を目にすることができる。――昔はほとんど死ぬ気でなければ見られなかったものが、握手をする手と同じくらい易々とみられるようになった。」
 
それはその通りかもしれない。あるいは昔から、実は見られたのかもしれない。しかしそういうことと、当事者の立場で性交を描くこととは、まったく違う。
 
そのものを描くことは、『チャタレイ夫人の恋人』の時代からすれば、驚くほど自由になった。
 
しかし書くことで、絶頂を確かめることは、実はできない。永遠に漸近線のまま近付いていくけれども、その頂点には決して到達できない。言葉というのは、そういうものだ。
 
アニー・エルノーのこの小説には結局、取柄はないのだろうか。
 
そんなことはない。ちょっと古めかしい小説だと思っても、ページを繰る手はとまらない。

秘密は文体にある。彫刻刀で刻み付けたような、よけいな形容詞や修飾語を削ぎ落とした文章は、こちらの頭にずんずん入り込んでくる。
 
翻訳は堀茂樹。略歴を見れば、アゴタ・クリストフの『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』を訳している。道理でうまいわけである。

(『シンプルな情熱』アニー・エルノー、堀茂樹・訳、
 ハヤカワepi文庫、2002年7月31日初刷、2022年10月15日第4刷)

中身が合っていない――『シンプルな情熱』(1)

アニー・エルノーはフランスの女流作家、2022年のノーベル文学賞受賞者である。
 
八幡山の啓文堂で平積みになっていたので、つい買った。
 
初めに「前書き」に当たるものがあり、こういう意図をもってこの作品を書いていく、という決意あるいは心構えが書いてある。以下のような文章である。
 
この夏、著者は有料の民放テレビ局で、初めてポルノ映画を見た。

「男が女に近づいた。カメラがアップになり、女の性器が現れた。画面はチカチカしているが、そのものはまぎれもなく見える。次に、男の性器が、勃起した状態で現れ、女のものの中へ滑り込んだ。非常に長いあいだ、二つの性器の繰り返すピストン運動が、いくつものアングルで映し出された。ペニスがふたたび現れ、今度は男の手の中にある。そして精液が、女の腹の上に飛び散った。」
 
この光景は見慣れてしまえば、どうということもないだろうが、初めて見ると動転してしまうものだ。著者はそう思う。そして最後に結論を書く。

「ものを書く行為は、まさにこれ、性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へ向かうべきなのだろう。」
 
これは期待できそうだ、と思うじゃないですか。
 
ところが、女(=著者)が必死の思いで、妻子ある男と逢引きしても、話はそういう方向には進まない。
 
登場人物は2人、著者と等身大の女と、男は東欧出身の外交官。この2人が、くんずほぐれつする場面は、皆無である。
 
では何が書いてあるか。

男と性交したいだけという、「シンプルな情熱」に捕らえられた女が、そのシンプルさゆえにどんな行動をとるか、というフラスンの伝統文芸を、そのままなぞっているだけなのだ。
 
もちろんその点に限って言えば、別に文句をつけるところはない。

「私は確信していた。これまでの人生で、自分は子供も持ったし、いろいろな試験にも合格したし、遠方へも旅行したけれど、このこと――昼下がりにこの人とベッドにいること以上に重要なことは何ひとつ体験しなかった、と。」
 
あるいはこういうところ。

「もちろん、私自身、翌日まで洗浄はせず、彼の精液を保っていた。」
 
しかしそれをいうなら、精液がドックドックと膣から溢れんばかりに、脳髄を刺激するその瞬間を描いてほしい。

「シンプルな情熱」に捕らわれた女は、どんどん俗になっていく。

「この時期、私は一度としてクラシック音楽を聴かなかった。シャンソンのほうがよかったのだ。そのうちでもとりわけ感傷的ないくつかの曲、以前は一顧だにしなかった類の曲に、心を揺さぶられた。(中略)シルヴィ・ヴァルタンがその頃『どうしようもないの、動物だもの』と歌っているのを耳にして、私は、それを痛感しているのが自分一人ではないことを得心したのだった。」
 
わかるなあ。もう遥か昔のことだが、そういうふうになったものだ。
 
著者はどこでも、男を巡る夢想に入ることができた。

「その状態に没入すると、瞬時にして、頭の奥にしびれるような充足感が生じるのだった。それは、肉体的快感に身をゆだねるような感じだった。あたかも脳髄も、繰り返し押し寄せる同じイメージ、同じ記憶の波に反応して、性的な悦びに達することができるかのようであり、他と変わるところのない性器の一つであるかのようだった。」
 
なかなかうまいけれど、フランス恋愛小説のよくできた一節、という感じがする。