ところが『グレート・ギャツビー』の翻訳は、とうてい一筋縄ではいかない。
「空気の微妙な流れにあわせて色合いや模様やリズムを刻々と変化させていく、その自由自在、融通無碍な美しい文体についていくのは、正直言ってかなりの読み手でないとむずかしいだろう。ただある程度英語ができればわかる、というランクのものではない。」
ここでは村上春樹は、実に率直に語っている。そういう言い方はしていないが、これまでの翻訳は全部だめだと言っている。
「開き直るわけではないが、僕の翻訳だってかなり不完全な代物である。というか、そうしようと思えば、欠点はいくらでも探し出せると思う。僕は進んでそれを認める。これほど美しく英語的に完結した作品を、どうやってほかの言語に欠点もなく移し替えることができるだろう?」
これは謙譲に見えて、自信の表れである。現状の段階で、もうやり尽くした、という半分は自信の表れだろう。
ここでは僕は、村上春樹の言うように、フィッツジェラルドの翻訳は本当に難しい、という例を挙げておこうと思う。
ギャツビーの邸宅で、大規模なパーティーが開かれている、そのときのこと。
「フィンガーボウルより大ぶりなグラスで、シャンパンが振る舞われた。月は高く上がり、海峡〔サウンド〕のあちこちには銀色の三角の鱗が漂い、それらはバンジョーの音の硬く甲高い滴が芝生に降るのに合わせてちらちら揺れた。」
これは日本語では、なかなかイメージするのが難しい。
いそいで付け加えれば、これは訳者の揚げ足取りではない。それほどフィッツジェラルドの文章は難しいということだ。
最後に、僕が村上春樹と、意見が異なる点を書いておく。
村上春樹はこの物語を、古典としては翻訳したくなかったという。
「僕にとって『グレート・ギャツビー』は、何があろうと現代に生きている話でなくてはならないのだ。それが今回の翻訳にあたっての僕の最優先事項だった。〔中略〕ニックやギャツビーやデイジーやジョーダンやトムは、文字通り僕らの隣で生きて、同じ空気を呼吸している同時代人でなくてはならなかった。彼らは我々の肉親であり、友だちであり、知り合いであり、隣人でなくてはならなかった。」
それは無理というものです。
確かに読みやすいし、しかし隙なく、緻密で、いい意味でずっと緊張感は保たれるし、これがアメリカを代表する作品の一つである、と言えば、すぐに納得されるだろう。
でもそれは、古典という意味でだ。現代の男女は、こんな付き合い方はしないし、一人の人のために毎週、盛大なパーティーは開かない(開かないだろう、たぶん)。
もちろん村上春樹が、そういう見方に抗して、現代の物語として蘇らせたいのは、実によくわかる。
中学生の僕が、『月と六ペンス』のチャールズ・ストリックランドや、『赤と黒』のジュリアン・ソレルを、現代に呼吸する人物だと思っていたのと、同じことだ。
でも、これこそが古典ということで、いいではないか。
ただ純粋な古典として訳すと、読者との間に隙間ができてしまう。だからギャツビーもデイジーも、「僕らの隣で生きて、同じ空気を呼吸している同時代人」として訳出した。それでいいではないか。
男と女の付き合い方は、ほぼ1世紀前だから、読者としては戸惑うことも、あるかもしれない。そこはどうぞ、ゆっくりと文体を味わって読んでください。
僕ならそう書きたい。
(『グレート・ギャツビー―村上春樹 翻訳ライブラリー―』スコット・フィッツジェラ
ルド、村上春樹・訳、中央公論新社、2006年11月10日初刷)
読み方はそれぞれ――『グレート・ギャツビー―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹・訳)(2)
もう一つ、村上春樹は特に触れてはいないけど、『グレート・ギャツビー』には、この当時のアメリカにおける人間の階層、階級の問題が絡んでくる。
「ギャツビーは安心感のようなものを計算ずくで彼女に与えたのだ。自分は彼女と同じ階層からやってきた人間であり、後顧の憂いなく身を任せられる相手なのだと、デイジーに思い込ませたのである。もちろん実際にはそんなことはできっこない。後ろ盾になってくれる立派な家柄など彼にはない。」
ギャツビーの悲劇の根本原因は、階層の違いなのである。
アメリカといえば人種差別、しかしこの時代には、階層性による別の差別があったのだ。
それを、ギャツビーやデイジーの出身地である、西部という格差が、構造的に補強している。もちろん東部の方が、階層は上である。
悲劇が終わった後で、ニック・キャラウェイは言う。
「結局のところ、僕がここで語ってきたのは西部の物語であったのだと、今では考えている。トムもギャツビーもデイジーも、〔中略〕僕も、全員が西部の出身者である。たぶん我々はそれぞれに、どこかしら東部の生活にうまく溶け込めない部分を抱え込んでいたのだろう。」
ここは分かりにくい。アメリカ人でないとわかりにくいのか、あるいは1920年代のアメリカを知っていないとわかりにくいのか。
村上春樹が巻末に、「翻訳者として、小説家として――訳者あとがき」を書いている。そしてこれが、本文に勝るとも劣らぬくらい感動的である。
「六十歳になったら『グレート・ギャツビー』の翻訳を始めると広言してきた。そしてそう心を決め、僕自身もそういう日程に沿って、そこから逆算するような格好でいろんなものごとを進行させてきた。比喩的に述べさせていただくなら、その本をしっかり神棚に載っけて、ときどきそちらにちらちらと視線を送りつつ人生を過ごしてきたわけだ。」
これは大変なことだ。しかし神棚に祭ったがゆえに、村上春樹の読み方と、僕の読み方は違っている。
だがそこに行く前に、もう少し訳者の言うことを聞いてみよう。
「これまでに刊行された『グレート・ギャツビー』のいくつかの翻訳書をひととおり読んでみて思ったのは、その翻訳の質とはべつに、『これは僕の考える『グレート・ギャツビー』とはちょっと(あるいはかなり)違う話みたいに思える』ということだった。」
ここでは珍しく、村上春樹が他の訳者を、これでは満足のいく訳になってないぞ、と言っている。
そして言いすぎだと思ったのか、そのすぐ後に保留をさし挟む。
「もちろんこれは、僕がこの小説について抱いてきた個人的なイメージをもとにして述べているのであって、客観的な――あるいは学術的な――批判あるいは評価という風にとってもらいたくない。僕にはそんな偉そうなことを言う資格はない。」
ずいぶん謙虚なもの言いだが、たぶんこれまでの訳を全部読んだ結果、これではダメだと思ったのだろう。
「いずれにせよ僕はそれくらいこの『グレート・ギャツビー』という作品に夢中になってきた。そこから多くのものごとを学んだし、多くの励ましを受けてきた。〔中略〕小説家としての僕にとってのひとつの目標となり、定点となり、小説世界における座標のひとつの軸となった。」
この小説を、神棚に祭っていただけではない。村上春樹はここではもう、あらん限りの声で叫んでいる。
「ギャツビーは安心感のようなものを計算ずくで彼女に与えたのだ。自分は彼女と同じ階層からやってきた人間であり、後顧の憂いなく身を任せられる相手なのだと、デイジーに思い込ませたのである。もちろん実際にはそんなことはできっこない。後ろ盾になってくれる立派な家柄など彼にはない。」
ギャツビーの悲劇の根本原因は、階層の違いなのである。
アメリカといえば人種差別、しかしこの時代には、階層性による別の差別があったのだ。
それを、ギャツビーやデイジーの出身地である、西部という格差が、構造的に補強している。もちろん東部の方が、階層は上である。
悲劇が終わった後で、ニック・キャラウェイは言う。
「結局のところ、僕がここで語ってきたのは西部の物語であったのだと、今では考えている。トムもギャツビーもデイジーも、〔中略〕僕も、全員が西部の出身者である。たぶん我々はそれぞれに、どこかしら東部の生活にうまく溶け込めない部分を抱え込んでいたのだろう。」
ここは分かりにくい。アメリカ人でないとわかりにくいのか、あるいは1920年代のアメリカを知っていないとわかりにくいのか。
村上春樹が巻末に、「翻訳者として、小説家として――訳者あとがき」を書いている。そしてこれが、本文に勝るとも劣らぬくらい感動的である。
「六十歳になったら『グレート・ギャツビー』の翻訳を始めると広言してきた。そしてそう心を決め、僕自身もそういう日程に沿って、そこから逆算するような格好でいろんなものごとを進行させてきた。比喩的に述べさせていただくなら、その本をしっかり神棚に載っけて、ときどきそちらにちらちらと視線を送りつつ人生を過ごしてきたわけだ。」
これは大変なことだ。しかし神棚に祭ったがゆえに、村上春樹の読み方と、僕の読み方は違っている。
だがそこに行く前に、もう少し訳者の言うことを聞いてみよう。
「これまでに刊行された『グレート・ギャツビー』のいくつかの翻訳書をひととおり読んでみて思ったのは、その翻訳の質とはべつに、『これは僕の考える『グレート・ギャツビー』とはちょっと(あるいはかなり)違う話みたいに思える』ということだった。」
ここでは珍しく、村上春樹が他の訳者を、これでは満足のいく訳になってないぞ、と言っている。
そして言いすぎだと思ったのか、そのすぐ後に保留をさし挟む。
「もちろんこれは、僕がこの小説について抱いてきた個人的なイメージをもとにして述べているのであって、客観的な――あるいは学術的な――批判あるいは評価という風にとってもらいたくない。僕にはそんな偉そうなことを言う資格はない。」
ずいぶん謙虚なもの言いだが、たぶんこれまでの訳を全部読んだ結果、これではダメだと思ったのだろう。
「いずれにせよ僕はそれくらいこの『グレート・ギャツビー』という作品に夢中になってきた。そこから多くのものごとを学んだし、多くの励ましを受けてきた。〔中略〕小説家としての僕にとってのひとつの目標となり、定点となり、小説世界における座標のひとつの軸となった。」
この小説を、神棚に祭っていただけではない。村上春樹はここではもう、あらん限りの声で叫んでいる。
読み方はそれぞれ――『グレート・ギャツビー―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹・訳)(1)
そこで次は『グレート・ギャツビー』。これは名作、まごうかたなき名作である。
ただし僕は、村上春樹とは違う読み方をする。
そこを言う前に、村上春樹が『グレート・ギャツビー』をどう読んだかを、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』で確認しておこう。
「高校時代から何度もくりかえし読んでいた作品だから、どのように訳すかというイメージは自分の中にだいたいできていた」。
前にも一度書いたことがあるが、恐ろしい高校生だ。こんなことを胸に秘めている高校生がいるのだ。
「僕に必要だったのは、それを可能にする翻訳技術と英語の知識。それまでにたくさんの翻訳をやって技術と知識をそれなりに積み重ねてきて、ああ、これだったらなんとかなるかなという手応えを得た。」
そこで60歳になる3年ほど手前で、取りかかることにした。
「いったん取りかかってみると、フィッツジェラルドの書く精緻な文章は、本当に難物だった。文章が渦を巻くというか、あちこちでくるくると美しく複雑な図形を描き、最後に華麗な尾を引く。その尾の引き方を訳すのはすごく難しいんです。でもそのくねり感覚とリズム感覚さえいったんつかんでしまうと、コツみたいのが見えてくる。」
翻訳の苦労話を、作品の前に読むことは、けっしていいことではない。しかし今回は、読んでおいてよかったと思う。ゆっくり丹念に読まないと、『グレート・ギャツビー』は分かりにくいのだ。
僕は20歳前に読んだのだが、その内容は完全に忘れている、と前回のブログに書いた。
今回、村上春樹の『グレート・ギャツビー』読んで、どういう状況か思い出した。僕は第二章の末尾、ギャツビーが登場するところまでを読んで、こんなかったるい小説はだめだ、と本を閉じたのだ。
そのときは第二章まででやめたということも、完全に忘れていた。たしか角川文庫で、『華麗なるギャツビー』というタイトルだった。
話の筋は、ジェイ・ギャツビーがデイジー・ブキャナンを愛し、デイジーもそれにこたえて深く接近するが、すでにデイジーは人妻であり、夫のトム・ブキャナンによってそれは阻止される。
その過程で、車でトム・ブキャナンの愛人、マートルを轢き殺すという悲劇が起こり、当事者ではないギャツビーが、マートルの夫に撃たれて死ぬ。
それを、デイジーとトムの友人であり、ギャツビーとも親しくなったニック・キャラウェイが、話者として物語っていく。
この作品は1924年に発表され、舞台設定は1922年である。僕はアメリカ文学を知らないので、この時代に他にどういう作品が出ているかは知らない。しかし『グレート・ギャツビー』は、言ってみればシェイクスピアの悲劇を、この時代のアメリカに蘇らせたものであり、他に類似の作品がなければ、スコット・フィッツジェラルドだけが、文学史の中に屹立していたのだ。
とはいっても、よほど注意して読んでいかないと、あらゆる事柄に微妙なニュアンスがついて回り、風景は常に陰翳が差していて、アメリカ、とくに20世紀前半のアメリカを知らない者には、すべてを理解することは難しい。
あるいはこういうところ。
「その一ヶ月のあいだに、我々は五、六度話をしたと思うが、彼は話題というものをろくすっぽ持たず、それで僕としては正直なところがっかりしてしまった。この男は正体こそよくわからないが、何かしら重要性をもった人物に違いないという、僕の抱いた第一印象は次第に薄らぎ、今では隣地で豪勢な宴会を催すただの人でしかなくなっていた。」
ギャツビーにはこういう一面があった。とすれば、『グレート・ギャツビー』というタイトルも、とても額面通りには受け止められなくなってくる。
ただし僕は、村上春樹とは違う読み方をする。
そこを言う前に、村上春樹が『グレート・ギャツビー』をどう読んだかを、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』で確認しておこう。
「高校時代から何度もくりかえし読んでいた作品だから、どのように訳すかというイメージは自分の中にだいたいできていた」。
前にも一度書いたことがあるが、恐ろしい高校生だ。こんなことを胸に秘めている高校生がいるのだ。
「僕に必要だったのは、それを可能にする翻訳技術と英語の知識。それまでにたくさんの翻訳をやって技術と知識をそれなりに積み重ねてきて、ああ、これだったらなんとかなるかなという手応えを得た。」
そこで60歳になる3年ほど手前で、取りかかることにした。
「いったん取りかかってみると、フィッツジェラルドの書く精緻な文章は、本当に難物だった。文章が渦を巻くというか、あちこちでくるくると美しく複雑な図形を描き、最後に華麗な尾を引く。その尾の引き方を訳すのはすごく難しいんです。でもそのくねり感覚とリズム感覚さえいったんつかんでしまうと、コツみたいのが見えてくる。」
翻訳の苦労話を、作品の前に読むことは、けっしていいことではない。しかし今回は、読んでおいてよかったと思う。ゆっくり丹念に読まないと、『グレート・ギャツビー』は分かりにくいのだ。
僕は20歳前に読んだのだが、その内容は完全に忘れている、と前回のブログに書いた。
今回、村上春樹の『グレート・ギャツビー』読んで、どういう状況か思い出した。僕は第二章の末尾、ギャツビーが登場するところまでを読んで、こんなかったるい小説はだめだ、と本を閉じたのだ。
そのときは第二章まででやめたということも、完全に忘れていた。たしか角川文庫で、『華麗なるギャツビー』というタイトルだった。
話の筋は、ジェイ・ギャツビーがデイジー・ブキャナンを愛し、デイジーもそれにこたえて深く接近するが、すでにデイジーは人妻であり、夫のトム・ブキャナンによってそれは阻止される。
その過程で、車でトム・ブキャナンの愛人、マートルを轢き殺すという悲劇が起こり、当事者ではないギャツビーが、マートルの夫に撃たれて死ぬ。
それを、デイジーとトムの友人であり、ギャツビーとも親しくなったニック・キャラウェイが、話者として物語っていく。
この作品は1924年に発表され、舞台設定は1922年である。僕はアメリカ文学を知らないので、この時代に他にどういう作品が出ているかは知らない。しかし『グレート・ギャツビー』は、言ってみればシェイクスピアの悲劇を、この時代のアメリカに蘇らせたものであり、他に類似の作品がなければ、スコット・フィッツジェラルドだけが、文学史の中に屹立していたのだ。
とはいっても、よほど注意して読んでいかないと、あらゆる事柄に微妙なニュアンスがついて回り、風景は常に陰翳が差していて、アメリカ、とくに20世紀前半のアメリカを知らない者には、すべてを理解することは難しい。
あるいはこういうところ。
「その一ヶ月のあいだに、我々は五、六度話をしたと思うが、彼は話題というものをろくすっぽ持たず、それで僕としては正直なところがっかりしてしまった。この男は正体こそよくわからないが、何かしら重要性をもった人物に違いないという、僕の抱いた第一印象は次第に薄らぎ、今では隣地で豪勢な宴会を催すただの人でしかなくなっていた。」
ギャツビーにはこういう一面があった。とすれば、『グレート・ギャツビー』というタイトルも、とても額面通りには受け止められなくなってくる。
真っさらで読んでみる――『偉大なるデスリフ』(C.D.B.ブライアン、村上春樹・訳)(2)
『偉大なるデスリフ』の構成は、「アルフレッドの書」が第一章から十章まで、第十一章から十六章までが「ジョージ・デスリフの書」である。
村上春樹は「訳者あとがき」で、「読者は比較的簡単に『偉大なるデスリフ』という作品の小説的欠点を指摘できるだろう」と書いている。
僕は「小説的欠点」ではなく、第二部「ジョージ・デスリフの書」の、中身を問題にしたい。
デスリフはアリスとの結婚生活を、果てしなき「消耗戦」と言っている。この結婚は、アルフレッドが正確に予言したごとく、失敗に終わろうとしている。
デスリフはアルフレッドに向かって言う。
「アリスと僕がお互いに対して何をやっているのか、僕にはさっぱりわからん。欠けているものならわかる。二人のあいだに欠けているのは喜びであり、愛であり、連帯だ。そして、そう、僕だってアリスに対して同じことやってるんだ。同じ目にあわせてるんだ。」
もう答は出ている。デスリフは同じことを、自らがやっていると言う。
「これは悲しいことだよ。ひどいことだ。そして僕らは互いの心をとても孤独なものにしている。僕はね――また三文芝居の科白みたいだけれど勘弁してくれ――他人と暮らすことがこれほど孤独なものだとは知らなかった。」
こういうふうに、自己の立場を、第三者的視点に立って論評するようになれば、離婚という結論はすぐに出る。と思うのだが、そこへ行くまでに、膨大な時間を費やす。驚くべきことに、「ジョージ・デスリフの書」全体を費やす。
ところでデスリフとアリスの結婚は、なぜ、どこが、いけなかったのだろう。
ふたたびデスリフが、アルフレッドに向かって訴える。
「よく女たちが言う不平のたわごとさ。夫は自分を正当に扱ってくれません。夫は男としてふるまってはくれません。なんで女房というのは自分をそんな立派な女だと思うんだ? 女というのは子供を産んで、育てて、あやして、面倒みることに喜びを見出すもんだろ? 女というのは夫の世話をし、家事をきりもりし、女であることの誇りを感じたいと思うものなんじゃないのかい?」
これではどうしようもない。夫が、妻はこういうものだと断定し、女をそこに閉じ込めておくならば、少なくとも「いい女」は、絶対に妻にはなってくれない。
これじゃ、デスリフ、どうしようもないぜ。
デスリフとアルフレッドはまた、人生いかに生きるべきかを、アメリカ合衆国の歴史を含んで議論する。
そこでは、アルフレッドが理想主義、デスリフが現実主義の論陣を張る。ここは読ませる。そして読ませるのは、ここだけである。
では、この小説を最後まで読んで、つまらないと思うかというと、そうでもない。やはり村上春樹の言う、ブライアンの「正直さ」が滲み出ているからだろう。
でも「読者の中には『おい、結構面白いじゃないか』と思われる方もいらっしゃるかもしれない。そう、そういう方は僕の文学的友人です」となると、僕は村上春樹の「文学的友人」ではない、と申し上げるほかない。
最後に、この小説の総括的評価が書かれている。
「この小説が書かれたのは一九七〇年だが、状況の質としては昨今の日本のノリに近いのではないかという気がしないでもない。とくにデスリフの遭遇する都市幻想の崩壊、郊外生活者の悪夢には思いあたるところのある方も多いのではないかと思う。」
この日本語訳の初版が1987年、今となっては、古びたとしか言いようがない。
なお最後に、『偉大なるデスリフ』というタイトルには疑義がある。原題は、『グレート・ギャツビー』に合わせて『グレート・デスリフ』となっている。これを日本語にするのは、実は無理ではないかと思う。それなら原題に合わせて、『グレート・デスリフ』で行くしかないが、それでは商売にならない。これは本当に、悩んだ果てのタイトルだと思う。
(『偉大なるデスリフ』C.D.B.ブライアン、村上春樹・訳、
新潮社、1987年11月5日初刷、1988年1月25日第3刷)
村上春樹は「訳者あとがき」で、「読者は比較的簡単に『偉大なるデスリフ』という作品の小説的欠点を指摘できるだろう」と書いている。
僕は「小説的欠点」ではなく、第二部「ジョージ・デスリフの書」の、中身を問題にしたい。
デスリフはアリスとの結婚生活を、果てしなき「消耗戦」と言っている。この結婚は、アルフレッドが正確に予言したごとく、失敗に終わろうとしている。
デスリフはアルフレッドに向かって言う。
「アリスと僕がお互いに対して何をやっているのか、僕にはさっぱりわからん。欠けているものならわかる。二人のあいだに欠けているのは喜びであり、愛であり、連帯だ。そして、そう、僕だってアリスに対して同じことやってるんだ。同じ目にあわせてるんだ。」
もう答は出ている。デスリフは同じことを、自らがやっていると言う。
「これは悲しいことだよ。ひどいことだ。そして僕らは互いの心をとても孤独なものにしている。僕はね――また三文芝居の科白みたいだけれど勘弁してくれ――他人と暮らすことがこれほど孤独なものだとは知らなかった。」
こういうふうに、自己の立場を、第三者的視点に立って論評するようになれば、離婚という結論はすぐに出る。と思うのだが、そこへ行くまでに、膨大な時間を費やす。驚くべきことに、「ジョージ・デスリフの書」全体を費やす。
ところでデスリフとアリスの結婚は、なぜ、どこが、いけなかったのだろう。
ふたたびデスリフが、アルフレッドに向かって訴える。
「よく女たちが言う不平のたわごとさ。夫は自分を正当に扱ってくれません。夫は男としてふるまってはくれません。なんで女房というのは自分をそんな立派な女だと思うんだ? 女というのは子供を産んで、育てて、あやして、面倒みることに喜びを見出すもんだろ? 女というのは夫の世話をし、家事をきりもりし、女であることの誇りを感じたいと思うものなんじゃないのかい?」
これではどうしようもない。夫が、妻はこういうものだと断定し、女をそこに閉じ込めておくならば、少なくとも「いい女」は、絶対に妻にはなってくれない。
これじゃ、デスリフ、どうしようもないぜ。
デスリフとアルフレッドはまた、人生いかに生きるべきかを、アメリカ合衆国の歴史を含んで議論する。
そこでは、アルフレッドが理想主義、デスリフが現実主義の論陣を張る。ここは読ませる。そして読ませるのは、ここだけである。
では、この小説を最後まで読んで、つまらないと思うかというと、そうでもない。やはり村上春樹の言う、ブライアンの「正直さ」が滲み出ているからだろう。
でも「読者の中には『おい、結構面白いじゃないか』と思われる方もいらっしゃるかもしれない。そう、そういう方は僕の文学的友人です」となると、僕は村上春樹の「文学的友人」ではない、と申し上げるほかない。
最後に、この小説の総括的評価が書かれている。
「この小説が書かれたのは一九七〇年だが、状況の質としては昨今の日本のノリに近いのではないかという気がしないでもない。とくにデスリフの遭遇する都市幻想の崩壊、郊外生活者の悪夢には思いあたるところのある方も多いのではないかと思う。」
この日本語訳の初版が1987年、今となっては、古びたとしか言いようがない。
なお最後に、『偉大なるデスリフ』というタイトルには疑義がある。原題は、『グレート・ギャツビー』に合わせて『グレート・デスリフ』となっている。これを日本語にするのは、実は無理ではないかと思う。それなら原題に合わせて、『グレート・デスリフ』で行くしかないが、それでは商売にならない。これは本当に、悩んだ果てのタイトルだと思う。
(『偉大なるデスリフ』C.D.B.ブライアン、村上春樹・訳、
新潮社、1987年11月5日初刷、1988年1月25日第3刷)
真っさらで読んでみる――『偉大なるデスリフ』(C.D.B.ブライアン、村上春樹・訳)(1)
さてここからは、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』に従って、読書計画を立てよう、というほどカッチリしたものではないが、ともかく先の本を水先案内人として、読んでいこう(もちろん間に、わけの分からない「宇宙の話」も入ってくるし、先の本には直接関係のない、僕の興味を惹く本も入ってくる)。
まずは『偉大なるデスリフ』。これは村上春樹によれば、C.D.B.ブライアンによる『グレート・ギャツビー』へのオマージュだという。だからぜひとも訳したかったという。
僕はこのとき、『偉大なるデスリフ』と『グレート・ギャツビー』を前にして、どちらを先に読むべきか、考え込んでしまった。
『グレート・ギャツビー』は、17,8歳のころ読んだ覚えがあるが、まったく忘れている。本当に珍しいことだが、1冊全体を、きれいさっぱり忘れている。
もしここで『グレート・ギャツビー』から先に読めば、村上春樹のしゃべることに乗せられて、自分独自の読み方はできなくなるだろう。なにしろ村上さんは、正直にどんどん押してくる人だから。
そのくらい、村上春樹の読み方は深い。その上どちらも、ご本人が訳している。これはもう、ははっと手をついて、降ってくる言葉を押し戴くほかはない。
それならやっぱり、『グレート・ギャツビー』を忘れているのをいいことに、『偉大なるデスリフ』から先に読むしかない。
この小説は2部だてで、1部が「アルフレッドの書」、2部が「ジョージ・デスリフの書」である。それぞれ主人公が変わり、1人称の視点が入れ変わっている。
アルフレッド・モールトンとジョージ・デスリフは、幼い時からの友だちである。そこにアリス・タウンゼンドという女性が入ってきて、アルフレッドが反対しているにもかかわらず、デスリフと結婚し、最後はデスリフが、彼女のもとを去っていく。
第1部の「アルフレッドの書」は面白い。裕福な、あるいは裕福そうに見える若者たちの群像が、それこそ活写されている。
『グレート・ギャツビー』に対するオマージュだということも、はっきり書いてある。
「話によればF・スコット・フィッツジェラルドの葬儀に参列した人はごくわずかで、その一九四〇年十二月の寒々とした日はジェイ・ギャツビーの埋葬の日と同じように雨だった。一人の参列者(どこかのインタヴューの中でドロシー・パ―カーはそれは自分だと言っていた)はこう口にした。『可哀そうなどうしようもない奴』と。」
もちろんこれだけでは、オマージュにはならない。続く文章がある。
「それが実話であれ作りごとであれ、どちらでもかまわない。僕にとってのフィッツジェラルドの価値はその神話性の中にあるのだ。そして神話を扱うことに一度慣れてしまえば、何が真実かなんてたいした問題ではなくなってしまう。」
そのあと何ページかにわたって、スコット・フィッツジェラルドのことを熱く語っている。
しかしもちろん『偉大なるデスリフ』は、『グレート・ギャツビー』ではない。だが「デスリフ」は、そこを勘違いする。
「美しくエキサイティングな一人の女性が、僕の友だちに向ってあなたってF・スコット・フィッツジェラルドの登場人物の一人に似ているわねと言ったのだ。アリス・タウンゼンドはジョージ・デスリフに彼もまた若くてエキサイティングでハンサムな青年だと思いこませたのである。」
ここから結婚までは、一足飛びである。アルフレッドはデスリフに、「そんなの間違いだよ」と言い出すことが、できなくなってしまった。
まずは『偉大なるデスリフ』。これは村上春樹によれば、C.D.B.ブライアンによる『グレート・ギャツビー』へのオマージュだという。だからぜひとも訳したかったという。
僕はこのとき、『偉大なるデスリフ』と『グレート・ギャツビー』を前にして、どちらを先に読むべきか、考え込んでしまった。
『グレート・ギャツビー』は、17,8歳のころ読んだ覚えがあるが、まったく忘れている。本当に珍しいことだが、1冊全体を、きれいさっぱり忘れている。
もしここで『グレート・ギャツビー』から先に読めば、村上春樹のしゃべることに乗せられて、自分独自の読み方はできなくなるだろう。なにしろ村上さんは、正直にどんどん押してくる人だから。
そのくらい、村上春樹の読み方は深い。その上どちらも、ご本人が訳している。これはもう、ははっと手をついて、降ってくる言葉を押し戴くほかはない。
それならやっぱり、『グレート・ギャツビー』を忘れているのをいいことに、『偉大なるデスリフ』から先に読むしかない。
この小説は2部だてで、1部が「アルフレッドの書」、2部が「ジョージ・デスリフの書」である。それぞれ主人公が変わり、1人称の視点が入れ変わっている。
アルフレッド・モールトンとジョージ・デスリフは、幼い時からの友だちである。そこにアリス・タウンゼンドという女性が入ってきて、アルフレッドが反対しているにもかかわらず、デスリフと結婚し、最後はデスリフが、彼女のもとを去っていく。
第1部の「アルフレッドの書」は面白い。裕福な、あるいは裕福そうに見える若者たちの群像が、それこそ活写されている。
『グレート・ギャツビー』に対するオマージュだということも、はっきり書いてある。
「話によればF・スコット・フィッツジェラルドの葬儀に参列した人はごくわずかで、その一九四〇年十二月の寒々とした日はジェイ・ギャツビーの埋葬の日と同じように雨だった。一人の参列者(どこかのインタヴューの中でドロシー・パ―カーはそれは自分だと言っていた)はこう口にした。『可哀そうなどうしようもない奴』と。」
もちろんこれだけでは、オマージュにはならない。続く文章がある。
「それが実話であれ作りごとであれ、どちらでもかまわない。僕にとってのフィッツジェラルドの価値はその神話性の中にあるのだ。そして神話を扱うことに一度慣れてしまえば、何が真実かなんてたいした問題ではなくなってしまう。」
そのあと何ページかにわたって、スコット・フィッツジェラルドのことを熱く語っている。
しかしもちろん『偉大なるデスリフ』は、『グレート・ギャツビー』ではない。だが「デスリフ」は、そこを勘違いする。
「美しくエキサイティングな一人の女性が、僕の友だちに向ってあなたってF・スコット・フィッツジェラルドの登場人物の一人に似ているわねと言ったのだ。アリス・タウンゼンドはジョージ・デスリフに彼もまた若くてエキサイティングでハンサムな青年だと思いこませたのである。」
ここから結婚までは、一足飛びである。アルフレッドはデスリフに、「そんなの間違いだよ」と言い出すことが、できなくなってしまった。
これが私の素なのか――『宇宙になぜ我々が存在するのか―最新素粒子論入門―』(村山斉)(4)
ここからは力の話だ。
私たちの周りには、さまざまな力がある。摩擦力、遠心力、表面張力……など無数にあるが、整理していくと、この宇宙には、電磁気力、強い力、弱い力、重力の4種類しかない。
どうして4種類しかないといえるのか。物理学者は4種類の力しかないことを、どうやって証明したのか、という私の疑問は抱いたままで、とにかく先を読んでみよう。
まず電磁気力は、光(光子)によって伝えられる。たとえば磁石と釘がくっつく場合には、「ミクロのレベルで見ていけば、磁石とくぎの間で光子をキャッチボールするようにやりとりすることで、電磁気力が発生する。」
ふーん、そういうことなんだ。しかし「ミクロのレベルで見ていけば」は、比喩だろうなあ。
もともと「光は波と粒の両方の顔をあわせもって」いて、我々の目に触れるときは波のようにふるまい、ミクロの世界では粒としてふるまう。
というふうに、光は波か粒子かという古くからある疑問は、そろそろやめにしてはどうか。波と粒子という、二律背反の定義を持つ言葉が、混乱させる元である。一単語で言い切ってしまえばいいではないか。
葛飾北斎の、大きな波の合間に富士が見える版画は、見事にそれを示している。本当は少し違うけど、そこを曲げて「ホクサイ」というのではどうか。「光は(波と粒を合わせもった)ホクサイである」。
ま、夢想はこのくらいにしておく。
強い力と弱い力は、正確には強い核力と弱い核力といい、これらの力は原子核の中だけで働く。つまり私たちがそれを感じることはないわけである。
それにもやっぱり別の素粒子が働いているが、話がややこしくなるので、これは省略する。
4つめの重力は、それを伝える重力子(グラビトン)という素粒子が、名づけられているのだが、これは実はまだ発見されていない。
重力はみんなが感じているものだし、簡単に見つかりそうだが、これがまったく見つからない。
たとえば私と地球は、重力によって引きあっているのだから、その間を「ミクロのレベルで見ていけば」、必ず見つかるはずではないか。それが見つからない。
「これは重力が他の三つの力に比べて格段に力が小さいことと関係があると考えられています。」
へえー、重力は、他の三つに比べて力が小さいんだ。てっきり私は、重力は格段に大きいと思っていた。
でもそれなら強い核力と弱い核力は、原子核の中だけで起こるがゆえに、私には何の影響も与えないのだろうか。そんなことが、あっていいのか。
素粒子の話は、私の話であるにもかかわらず、それがあまりに小さいために、まったくの他人事である。
この後も、驚くような話が延々と続く。例えばこんな話。
「物質は速く動くと時間が遅れるので、とことん速く動くと、つまり、光速で動くと、時間は完全に止まってしまいます。光はいつも光速で飛ぶので、光は絶対に時間を感じません。完全に時間が止まっているのです。」
こういう文章を、どういうふうに理解すればよいのか。
「光は絶対に時間を感じません」、そりゃそうだ。光が何かを感じることが、あるんだろうか。光と話してみなければ、何ともならない、とは思わないのだろうか。
こういう話が続いて最後に、私たちはどこから来たか、という話になる。
私たちの身体を作っている化学元素は、一体どこから来たのか。
それは何十億年も昔に爆発した、星の屑である。
「星が人生(?)の最期に『超新星』という大爆発を起こしてこうした元素を宇宙空間にばらまき、それをまた集めてつくったのが太陽、地球、そして私たちの体だ、ということがわかっています。ですから、私たちの存在は直接宇宙の始まりに関わっていることになります。」
壮大で悠久な思いにとらわれるだろう。世界の個別の「神話」どころではない。どんな争いもいざこざも、即座にやめたくなるはずだ。
(『宇宙になぜ我々が存在するのか―最新素粒子論入門―』村山斉、
講談社ブルーバックス、2013年1月20日初刷)
私たちの周りには、さまざまな力がある。摩擦力、遠心力、表面張力……など無数にあるが、整理していくと、この宇宙には、電磁気力、強い力、弱い力、重力の4種類しかない。
どうして4種類しかないといえるのか。物理学者は4種類の力しかないことを、どうやって証明したのか、という私の疑問は抱いたままで、とにかく先を読んでみよう。
まず電磁気力は、光(光子)によって伝えられる。たとえば磁石と釘がくっつく場合には、「ミクロのレベルで見ていけば、磁石とくぎの間で光子をキャッチボールするようにやりとりすることで、電磁気力が発生する。」
ふーん、そういうことなんだ。しかし「ミクロのレベルで見ていけば」は、比喩だろうなあ。
もともと「光は波と粒の両方の顔をあわせもって」いて、我々の目に触れるときは波のようにふるまい、ミクロの世界では粒としてふるまう。
というふうに、光は波か粒子かという古くからある疑問は、そろそろやめにしてはどうか。波と粒子という、二律背反の定義を持つ言葉が、混乱させる元である。一単語で言い切ってしまえばいいではないか。
葛飾北斎の、大きな波の合間に富士が見える版画は、見事にそれを示している。本当は少し違うけど、そこを曲げて「ホクサイ」というのではどうか。「光は(波と粒を合わせもった)ホクサイである」。
ま、夢想はこのくらいにしておく。
強い力と弱い力は、正確には強い核力と弱い核力といい、これらの力は原子核の中だけで働く。つまり私たちがそれを感じることはないわけである。
それにもやっぱり別の素粒子が働いているが、話がややこしくなるので、これは省略する。
4つめの重力は、それを伝える重力子(グラビトン)という素粒子が、名づけられているのだが、これは実はまだ発見されていない。
重力はみんなが感じているものだし、簡単に見つかりそうだが、これがまったく見つからない。
たとえば私と地球は、重力によって引きあっているのだから、その間を「ミクロのレベルで見ていけば」、必ず見つかるはずではないか。それが見つからない。
「これは重力が他の三つの力に比べて格段に力が小さいことと関係があると考えられています。」
へえー、重力は、他の三つに比べて力が小さいんだ。てっきり私は、重力は格段に大きいと思っていた。
でもそれなら強い核力と弱い核力は、原子核の中だけで起こるがゆえに、私には何の影響も与えないのだろうか。そんなことが、あっていいのか。
素粒子の話は、私の話であるにもかかわらず、それがあまりに小さいために、まったくの他人事である。
この後も、驚くような話が延々と続く。例えばこんな話。
「物質は速く動くと時間が遅れるので、とことん速く動くと、つまり、光速で動くと、時間は完全に止まってしまいます。光はいつも光速で飛ぶので、光は絶対に時間を感じません。完全に時間が止まっているのです。」
こういう文章を、どういうふうに理解すればよいのか。
「光は絶対に時間を感じません」、そりゃそうだ。光が何かを感じることが、あるんだろうか。光と話してみなければ、何ともならない、とは思わないのだろうか。
こういう話が続いて最後に、私たちはどこから来たか、という話になる。
私たちの身体を作っている化学元素は、一体どこから来たのか。
それは何十億年も昔に爆発した、星の屑である。
「星が人生(?)の最期に『超新星』という大爆発を起こしてこうした元素を宇宙空間にばらまき、それをまた集めてつくったのが太陽、地球、そして私たちの体だ、ということがわかっています。ですから、私たちの存在は直接宇宙の始まりに関わっていることになります。」
壮大で悠久な思いにとらわれるだろう。世界の個別の「神話」どころではない。どんな争いもいざこざも、即座にやめたくなるはずだ。
(『宇宙になぜ我々が存在するのか―最新素粒子論入門―』村山斉、
講談社ブルーバックス、2013年1月20日初刷)
これが私の素なのか――『宇宙になぜ我々が存在するのか―最新素粒子論入門―』(村山斉)(3)
ここからは、素粒子の大きさの話である。
物質や宇宙を「細かく見ていくと」、素粒子でできていることが分かる。私はこの言い方にたいへん引っかかる。
村山斉に言わせると、原子は1000万分の1ミリメートルで、さらに原子核の大きさは、原子の10万分の1であるという。
「原子が地球の大きさだとすると、原子核は野球場くらいの大きさしかないのです。そして、そのまわりを野球のボールより小さい電子が回っています。原子核も電子も原子のサイズから見ればとても小さいものなのに、組み合わさると原子の大きさになるのは、原子核のまわりを電子が回っているからです。ですから、原子はものがたくさん詰まっているように見えますが、中身はスカスカなのです。」
お分かりだろうか。原子も、原子核も、電子もあまりに小さくて、著者の言う「細かく見ていくと」ではすまないのだ。村山斉は「細かく見ていくと」で、目をどういう状態にすることを指しているのだろうか。
町工場の職人は、指先を極限まで鍛えて鋭敏にしているとはいっても、原子は1000万分の1ミリメートルの大きさである。これでは見えまい。とはいえ1000万分の1ミリメートルが、どれくらいの大きさなのか、見当もつかない。中島敦『名人伝』の主人公でも見るのは無理だろう。
それともう一つ、「原子核のまわりを電子が回っている」ということは、「中身はスカスカ」だということだ。これもそういうものだと思って聞いていた。
しかし考えてみれば、そんなことがあり得るだろうか、という見方も成り立つ。指先をじっと見ている私には、これが極限まで分解すると、中身はスカスカというのは、まったく解せない。
偉そうに見える学者がそう言うので、むりやり納得させてはいるが、私の指の先がスカスカだとは、どうしても思えない。本当は原子核と電子の間に、何かが敷き詰められているんじゃないか。
あるいは原子が重なり合うことはないのだろうか。つまり原子核とそのまわりを回る電子の、スカスカのところに別の原子が入り込み、その結果、スキマがなくなってしまう、ということはないのだろうか。
疑問は限りなく膨らむが、それを持ったまま、さらに微細な素粒子に移ろう。
電子はそれ以上分割できないけれど、原子核の方は陽子と中性子に分かれ、さらにそれらはクォークでできている、というところまでは話した。
陽子は2個のアップクォークと1個のダウンクォークでできており、中性子は1個のアップクォークと2個のダウンクォークでできている。
アップクォークの電荷は+2/3eで、ダウンクォークの電荷は-1/3eだから、陽子の電荷は+1eで、中性子の電荷は0である。そしてこれは電子の-1eと釣り合っている(私の説明が充分であるかどうかは、まったく自信がない。このあたり、本ではよくわかるように書いてあります)。
私たちやまわりの物質を、究極までバラバラにしていくと、電子、アップクォーク、ダウンクォークの、3種類の素粒子でできていることが分かる。私たちが、たった3種類の素粒子から成り立っていることは、なにか粛然とする話ではないだろうか。
物質や宇宙を「細かく見ていくと」、素粒子でできていることが分かる。私はこの言い方にたいへん引っかかる。
村山斉に言わせると、原子は1000万分の1ミリメートルで、さらに原子核の大きさは、原子の10万分の1であるという。
「原子が地球の大きさだとすると、原子核は野球場くらいの大きさしかないのです。そして、そのまわりを野球のボールより小さい電子が回っています。原子核も電子も原子のサイズから見ればとても小さいものなのに、組み合わさると原子の大きさになるのは、原子核のまわりを電子が回っているからです。ですから、原子はものがたくさん詰まっているように見えますが、中身はスカスカなのです。」
お分かりだろうか。原子も、原子核も、電子もあまりに小さくて、著者の言う「細かく見ていくと」ではすまないのだ。村山斉は「細かく見ていくと」で、目をどういう状態にすることを指しているのだろうか。
町工場の職人は、指先を極限まで鍛えて鋭敏にしているとはいっても、原子は1000万分の1ミリメートルの大きさである。これでは見えまい。とはいえ1000万分の1ミリメートルが、どれくらいの大きさなのか、見当もつかない。中島敦『名人伝』の主人公でも見るのは無理だろう。
それともう一つ、「原子核のまわりを電子が回っている」ということは、「中身はスカスカ」だということだ。これもそういうものだと思って聞いていた。
しかし考えてみれば、そんなことがあり得るだろうか、という見方も成り立つ。指先をじっと見ている私には、これが極限まで分解すると、中身はスカスカというのは、まったく解せない。
偉そうに見える学者がそう言うので、むりやり納得させてはいるが、私の指の先がスカスカだとは、どうしても思えない。本当は原子核と電子の間に、何かが敷き詰められているんじゃないか。
あるいは原子が重なり合うことはないのだろうか。つまり原子核とそのまわりを回る電子の、スカスカのところに別の原子が入り込み、その結果、スキマがなくなってしまう、ということはないのだろうか。
疑問は限りなく膨らむが、それを持ったまま、さらに微細な素粒子に移ろう。
電子はそれ以上分割できないけれど、原子核の方は陽子と中性子に分かれ、さらにそれらはクォークでできている、というところまでは話した。
陽子は2個のアップクォークと1個のダウンクォークでできており、中性子は1個のアップクォークと2個のダウンクォークでできている。
アップクォークの電荷は+2/3eで、ダウンクォークの電荷は-1/3eだから、陽子の電荷は+1eで、中性子の電荷は0である。そしてこれは電子の-1eと釣り合っている(私の説明が充分であるかどうかは、まったく自信がない。このあたり、本ではよくわかるように書いてあります)。
私たちやまわりの物質を、究極までバラバラにしていくと、電子、アップクォーク、ダウンクォークの、3種類の素粒子でできていることが分かる。私たちが、たった3種類の素粒子から成り立っていることは、なにか粛然とする話ではないだろうか。
これが私の素なのか――『宇宙になぜ我々が存在するのか―最新素粒子論入門―』(村山斉)(2)
原子は、プラスの電気を持った原子核と、マイナスの電気を持った電子でできており、原子核はプラスの陽子と、電荷的に0の中性子からできている。そして原子核のまわりを電子が飛び回っていて、電荷的に両者は釣り合っている。
ここまでは中学生のとき知ったことだ。そしてここからが、私にとっては未知のことだ。
原子核の陽子と中性子は、それぞれ3つのクォークで構成されている。このクォークが、今のところ最小の素粒子である。この他にも宇宙にいる素粒子が、いくつも見つかっている。
と同時に、どんな物質にも、それに対応する「反物質」がある。プラスの電荷をもった陽電子や、マイナスを帯びた陽子がある。そして物質と反物質が出会えば、その2つはたちどころにエネルギーとなって、物質としては消滅してしまう。
宇宙が誕生した直後は、物質と反物質は だいたい同じくらいあった。それが出会って消滅して(これを「対消滅」という)、宇宙初期の物質と反物質は、ほとんどなくなってしまった。
それなら宇宙には、何も存在しないはずではないか。そういうふうに考えたくなるが、それは違う。
「よくよく調べてみると、物質は反物質よりも数が多かったのです。計算してみると、一〇億分の二ぐらい物質の方が反物質よりも多くあったので、反物質が全部なくなっても、物質が残ることができたと考えられています。」
おかげで宇宙には、星が瞬き、私たちも存在しているというわけだ。それにしても10億分の2、ふつうは誤差の範囲ということで処理するもんだけどね。
しかしそんなに都合よく、誰かが途中で反物質を物質の方に、移し替えたりするのだろうか。実はこれにも理屈があるが、ちょっとややこしいので後述する。
その他、「ヒッグズ粒子やインフレーション、そして暗黒物質なども、私たちが生まれてくるために必要であったことがわかっています。今から、その謎を解いていき、どうして、私たちがこの宇宙に生まれたのかを考えていきましょう。」
これが「はじめに」の結びである。
お分かりだろうか。私たちが生まれてくるためには、「ヒッグズ粒子やインフレーション、そして暗黒物質など」が必要とされている。つまり我々の存在があって、そうなるためには、上記のことが必要になる。
でもね、考えてみてください。こういうことが一切なくても、つまり物理学者の言う、理論に基づく「神話」(とあえて言う)が存在しなくとも、私たちは現に存在している。そうすると、素粒子学者は、人間が存在するためには、かならずしも必要とされていないのではないか。
というような茶々はあっちに置いといて、本文を読んでいこう(しかしこの視点は、大事な点ではないか)。
2003年に、NASAの観測衛星WMAP(ダブルマップ)によって、宇宙のエネルギーの内訳が測定できるようになった。
それによると、星と銀河は宇宙全体の0.5パーセントほど、後述するニュートリノは0.1~1.5パーセント、私たちが目にする、原子でできている物質は4.4パーセントほどで、全部を足しても5パーセントほどにしかならない。
では残りは何なのかといえば、暗黒物質が23パーセント、暗黒エネルギーが73パーセントを占めている。
これで一応、100%になったわけだが、暗黒物質と暗黒エネルギーでは、何が何だかわからない。20世紀も末になって、この世の大半が、分からない物質とエネルギーに占められていることは、ただただ驚愕すべきというほかない。
ここまでは中学生のとき知ったことだ。そしてここからが、私にとっては未知のことだ。
原子核の陽子と中性子は、それぞれ3つのクォークで構成されている。このクォークが、今のところ最小の素粒子である。この他にも宇宙にいる素粒子が、いくつも見つかっている。
と同時に、どんな物質にも、それに対応する「反物質」がある。プラスの電荷をもった陽電子や、マイナスを帯びた陽子がある。そして物質と反物質が出会えば、その2つはたちどころにエネルギーとなって、物質としては消滅してしまう。
宇宙が誕生した直後は、物質と反物質は だいたい同じくらいあった。それが出会って消滅して(これを「対消滅」という)、宇宙初期の物質と反物質は、ほとんどなくなってしまった。
それなら宇宙には、何も存在しないはずではないか。そういうふうに考えたくなるが、それは違う。
「よくよく調べてみると、物質は反物質よりも数が多かったのです。計算してみると、一〇億分の二ぐらい物質の方が反物質よりも多くあったので、反物質が全部なくなっても、物質が残ることができたと考えられています。」
おかげで宇宙には、星が瞬き、私たちも存在しているというわけだ。それにしても10億分の2、ふつうは誤差の範囲ということで処理するもんだけどね。
しかしそんなに都合よく、誰かが途中で反物質を物質の方に、移し替えたりするのだろうか。実はこれにも理屈があるが、ちょっとややこしいので後述する。
その他、「ヒッグズ粒子やインフレーション、そして暗黒物質なども、私たちが生まれてくるために必要であったことがわかっています。今から、その謎を解いていき、どうして、私たちがこの宇宙に生まれたのかを考えていきましょう。」
これが「はじめに」の結びである。
お分かりだろうか。私たちが生まれてくるためには、「ヒッグズ粒子やインフレーション、そして暗黒物質など」が必要とされている。つまり我々の存在があって、そうなるためには、上記のことが必要になる。
でもね、考えてみてください。こういうことが一切なくても、つまり物理学者の言う、理論に基づく「神話」(とあえて言う)が存在しなくとも、私たちは現に存在している。そうすると、素粒子学者は、人間が存在するためには、かならずしも必要とされていないのではないか。
というような茶々はあっちに置いといて、本文を読んでいこう(しかしこの視点は、大事な点ではないか)。
2003年に、NASAの観測衛星WMAP(ダブルマップ)によって、宇宙のエネルギーの内訳が測定できるようになった。
それによると、星と銀河は宇宙全体の0.5パーセントほど、後述するニュートリノは0.1~1.5パーセント、私たちが目にする、原子でできている物質は4.4パーセントほどで、全部を足しても5パーセントほどにしかならない。
では残りは何なのかといえば、暗黒物質が23パーセント、暗黒エネルギーが73パーセントを占めている。
これで一応、100%になったわけだが、暗黒物質と暗黒エネルギーでは、何が何だかわからない。20世紀も末になって、この世の大半が、分からない物質とエネルギーに占められていることは、ただただ驚愕すべきというほかない。
これが私の素なのか――『宇宙になぜ我々が存在するのか―最新素粒子論入門―』(村山斉)(1)
イアン・サンプルの『ヒッグズ粒子の発見―理論的予測と探求の全記録―』を読んだとき、面白いんだけども、あまりの分からなさに愕然とした。
素粒子の話は、中学生のときに講談社現代新書で読んだきりだが、面白かったなあ。『素粒子のはなし』とか言ったけども、うろ覚え、もうおおかた60年前のことだ。
今では陽子や中性子は、さらに細分化されていて、そのうえ超ひも理論などが出現して、素人が面白がるどころではない。
しかし『ヒッグズ粒子の発見』は、まったく分からないわりには、非常に面白かった。
ヒッグズ粒子は宇宙に敷き詰められていて、他の素粒子が、それに引っかかるものだから、その引っかかり具合が質量となる。つまり質量が誕生するについては、ヒッグズ粒子がカギを握っている。素粒子物理学者はそう考えるらしい。
しかしそもそも、素粒子に質量を与えたものは何か、という疑問の出し方が、おかしいのではないか。質量は最初から固有のものではないのか。
しかし素粒子学者はそうは考えない。「質量は最初から固有のもの」の「最初から」が、いつのことか、それが問題である。
そして考え方としては、素粒子の質量は、そもそもの「最初」はゼロであるとする。そうすると、宇宙ができていく過程で、素粒子に質量を与えたものがいる。それが謎の素粒子、ヒッグズ粒子である。だから物理学者はヒッグズ粒子を探せ!
これは部外者、素人から見れば、ほとんど現代の神話である。
そういうことも含めて、素粒子の話の全般を手軽に知りたいとなれば、これはもうブルーバックスしかない。
というわけでこれから、次の4冊を読んでいく。
『宇宙になぜ我々が存在するのか最新素粒子論入門―』村山斉
『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』野村泰紀
『宇宙になぜ、生命があるのか―宇宙論で読み解く「生命」の起源と存在―』戸谷友則
『宇宙と物質の起源―「見えない世界」を理解する―』
高エネルギー加速器研究機構 素粒子原子核研究所/編
読むのは刊行日の古い順から。科学の本は新しいものほどよいので、これはもう仕方がない。
なぜこれらを選んだかというと、ほぼ同じテーマで、少しずつズレているので,私の頭が錆びていても、何度も繰り返し読めば、少しは理解できるかと思ったのだ。
私は根本的な疑問を持っている。それは、素粒子でできている人間が、なぜ素粒子を客観的に研究できるのか、ということだ。
もちろん素粒子の私が、素粒子の本を読んでいるわけではない。素粒子が集まって原子や分子を作り、それが集まって細胞を作り、その細胞が臓器などの身体を作っている。それは分かっている。
しかしそれでも私の素は、村山斉の言うところでは、素粒子であることに間違いはない。
これはまあ、どこの段階で生命が誕生し、どこで人間が誕生するのか、という大問題になるのだが、しかし大もとをたどれば、つまり究極のものに分解すれば、それは素粒子であろう。
71歳の私は、順当に行けば、あと10年か15年、さらにうまくいけば20年で死ぬ。もちろん明日死ぬということもある。去年も2人の友だちが、70代で死んだ。だからこればかりは分からない。
でもそのとき、現在までに分かっている素粒子の話は、大雑把なところだけでも知っておきたい。
もちろんこの段階までのことが、とんでもなく見当外れ、ということもあり得る。いや、むしろそういう可能性が高い。
宇宙には、ということは我々のこの世界は、暗黒物質(ダークマター)と暗黒エネルギー(ダークエネルギー)が96パーセントを占めている。
考えられますか。宇宙の96パーセントは、ここに来て、まったく分からない謎なのだ。
その段階で、私は死んだら、「九相詩絵巻」の先、身体の細胞が分子になり、原子になり、さらには素粒子になるところまで、仮説でもいいから、知っておきたいのだ。
素粒子の話は、中学生のときに講談社現代新書で読んだきりだが、面白かったなあ。『素粒子のはなし』とか言ったけども、うろ覚え、もうおおかた60年前のことだ。
今では陽子や中性子は、さらに細分化されていて、そのうえ超ひも理論などが出現して、素人が面白がるどころではない。
しかし『ヒッグズ粒子の発見』は、まったく分からないわりには、非常に面白かった。
ヒッグズ粒子は宇宙に敷き詰められていて、他の素粒子が、それに引っかかるものだから、その引っかかり具合が質量となる。つまり質量が誕生するについては、ヒッグズ粒子がカギを握っている。素粒子物理学者はそう考えるらしい。
しかしそもそも、素粒子に質量を与えたものは何か、という疑問の出し方が、おかしいのではないか。質量は最初から固有のものではないのか。
しかし素粒子学者はそうは考えない。「質量は最初から固有のもの」の「最初から」が、いつのことか、それが問題である。
そして考え方としては、素粒子の質量は、そもそもの「最初」はゼロであるとする。そうすると、宇宙ができていく過程で、素粒子に質量を与えたものがいる。それが謎の素粒子、ヒッグズ粒子である。だから物理学者はヒッグズ粒子を探せ!
これは部外者、素人から見れば、ほとんど現代の神話である。
そういうことも含めて、素粒子の話の全般を手軽に知りたいとなれば、これはもうブルーバックスしかない。
というわけでこれから、次の4冊を読んでいく。
『宇宙になぜ我々が存在するのか最新素粒子論入門―』村山斉
『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』野村泰紀
『宇宙になぜ、生命があるのか―宇宙論で読み解く「生命」の起源と存在―』戸谷友則
『宇宙と物質の起源―「見えない世界」を理解する―』
高エネルギー加速器研究機構 素粒子原子核研究所/編
読むのは刊行日の古い順から。科学の本は新しいものほどよいので、これはもう仕方がない。
なぜこれらを選んだかというと、ほぼ同じテーマで、少しずつズレているので,私の頭が錆びていても、何度も繰り返し読めば、少しは理解できるかと思ったのだ。
私は根本的な疑問を持っている。それは、素粒子でできている人間が、なぜ素粒子を客観的に研究できるのか、ということだ。
もちろん素粒子の私が、素粒子の本を読んでいるわけではない。素粒子が集まって原子や分子を作り、それが集まって細胞を作り、その細胞が臓器などの身体を作っている。それは分かっている。
しかしそれでも私の素は、村山斉の言うところでは、素粒子であることに間違いはない。
これはまあ、どこの段階で生命が誕生し、どこで人間が誕生するのか、という大問題になるのだが、しかし大もとをたどれば、つまり究極のものに分解すれば、それは素粒子であろう。
71歳の私は、順当に行けば、あと10年か15年、さらにうまくいけば20年で死ぬ。もちろん明日死ぬということもある。去年も2人の友だちが、70代で死んだ。だからこればかりは分からない。
でもそのとき、現在までに分かっている素粒子の話は、大雑把なところだけでも知っておきたい。
もちろんこの段階までのことが、とんでもなく見当外れ、ということもあり得る。いや、むしろそういう可能性が高い。
宇宙には、ということは我々のこの世界は、暗黒物質(ダークマター)と暗黒エネルギー(ダークエネルギー)が96パーセントを占めている。
考えられますか。宇宙の96パーセントは、ここに来て、まったく分からない謎なのだ。
その段階で、私は死んだら、「九相詩絵巻」の先、身体の細胞が分子になり、原子になり、さらには素粒子になるところまで、仮説でもいいから、知っておきたいのだ。
最良の読書案内――『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』(村上春樹)(7)
村上春樹はそのあと『グレート・ギャツビー』『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『ロング・グッドバイ』の古典ともいうべき3作を、訳し直したことを語っているが、これは、ま、そういうものだなあと思う。この3作はいずれにしても、村上訳を読んでおかねばならない。
それよりも柴田元幸が苦笑交じりに、村上春樹の文章に朱を入れるのは怪しからん、という読者からの抗議があるが、と言うと、村上春樹がそれに反論して、答えているのが面白い。
「村上 朱を入れられることで、文章は更に良くなっていると思うんですけどね。文章というのは基本的に、直せば直すほどよくなってくるものなんです。悪くなることはほとんどありません。」
文章に対しては、基本的な考えは変わらない。この辺りは井伏鱒二や川端康成のころから、作家はまったく変わらない。井伏鱒二は『山椒魚』を、川端康成は『雪国』を、晩年に至るまで直し続けた。
村上は、翻訳についても同じことだという。
「村上 昔やったものを改訳したいなとよく思います。間違いをより少なくして、文章をより読みやすくしたいと思います。カーヴァーやフィッツジェラルドの翻訳には、版を変えるときにちょくちょく手を入れさせてもらいましたが、これからも機会があれば改訳したいですね。」
だから古本は、現役の著述家の場合、危険なのだ。カーヴァーなんて、何度版を改めていることか。
そしてここで村上春樹は、珍しく自分の老化を嘆いている。
「村上 歳をとってくると、つまらないものを読んでいる時間が惜しいんです。それで、むしろ古典を新しい感覚で訳すというほうに、興味の重心が移っていくような気がします。〔中略〕おおむねのところ、新しいものはもう若い人にまかせておけばいいかなという気持ちになります。もうそんなにいっぱい入力はできない。時間も足りないし、視力が衰えて、あまりたくさん本も読めなくなる。」
村上春樹は僕よりも4つ年上だから、そろそろいろんなことで、本当に厳しくなるんじゃないかと思う。
ということで「翻訳について語るときに僕たちの語ること」〈前編〉が終わり、〈後編〉に入る。
まず、作家が翻訳仕事をすることの意味を、踏み込んで明確に述べる。
「村上 僕の色が翻訳に入りすぎていると主張する人もいますが、僕自身はそうは思わない。僕はどちらかといえば、他人の文体に自分の身体を突っ込んでみる、という体験のほうに興味があるんです。〔中略〕その世界の内側をじっくり眺めているととても楽しいし、役に立ちます。だからカポーティの小説を訳せば、カポーティの文体のなかから、カポーティの目で世界を見るし、カーヴァーだったら、カーヴァーの文体のなかから、カーヴァーの目で世界を見る。」
これには異論が出そうだ。村上春樹の翻訳は、村上春樹の文体が、かなり露骨に出ていそうだ。これは水かけ論に終わると思うが(やれやれ)。
しかし村上春樹が、異論を弾き飛ばして、翻訳をやる意義を説くことは、見ようによっては感動的である。
村上さんは、小説家にとって翻訳は知の宝庫なのに、なぜ他の作家はやらないんだろう、と疑問を持つ。これはまあ、端的にいって語学力の問題である。
最後に村上春樹が、衝撃的な告白をしている。
「村上 かなり昔のことですが、雑誌に書評を頼まれたとき、存在しない本の書評を書いたことがあります。まず本を読まなくちゃいけないじゃないですか。書評って、時間がなくてあまり本が読めないときとか、てきとうな本が見つからないときとか、しょうがないから自分で勝手に本をつくってしまって、その書評を書いたりしました。出鱈目なあらすじを書いて。」
柴田元幸は、ただ一言、「衝撃的」。いやあ、村上春樹、やるもんだね。
ほかにも面白いところは、いっぱいあるけれども、くたびれてきたので、もうやめる。
この後は、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』に従って、『グレート・ギャツビー』『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『ロング・グッドバイ』、それに『ティファニーで朝食を』を読み、村上春樹いうところの、アメリカ文学最良の成果を味わってみたい。
そして村上さんが、個人的にどうしようもなく好きなもの、惹かれるものも、読んでみたい。それは例えば、『偉大なるデスリフ』や『ニュークリア・エイジ』や『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』といった作品だ。
(『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』村上春樹、
中央公論新社、2017年3月25日初刷)
それよりも柴田元幸が苦笑交じりに、村上春樹の文章に朱を入れるのは怪しからん、という読者からの抗議があるが、と言うと、村上春樹がそれに反論して、答えているのが面白い。
「村上 朱を入れられることで、文章は更に良くなっていると思うんですけどね。文章というのは基本的に、直せば直すほどよくなってくるものなんです。悪くなることはほとんどありません。」
文章に対しては、基本的な考えは変わらない。この辺りは井伏鱒二や川端康成のころから、作家はまったく変わらない。井伏鱒二は『山椒魚』を、川端康成は『雪国』を、晩年に至るまで直し続けた。
村上は、翻訳についても同じことだという。
「村上 昔やったものを改訳したいなとよく思います。間違いをより少なくして、文章をより読みやすくしたいと思います。カーヴァーやフィッツジェラルドの翻訳には、版を変えるときにちょくちょく手を入れさせてもらいましたが、これからも機会があれば改訳したいですね。」
だから古本は、現役の著述家の場合、危険なのだ。カーヴァーなんて、何度版を改めていることか。
そしてここで村上春樹は、珍しく自分の老化を嘆いている。
「村上 歳をとってくると、つまらないものを読んでいる時間が惜しいんです。それで、むしろ古典を新しい感覚で訳すというほうに、興味の重心が移っていくような気がします。〔中略〕おおむねのところ、新しいものはもう若い人にまかせておけばいいかなという気持ちになります。もうそんなにいっぱい入力はできない。時間も足りないし、視力が衰えて、あまりたくさん本も読めなくなる。」
村上春樹は僕よりも4つ年上だから、そろそろいろんなことで、本当に厳しくなるんじゃないかと思う。
ということで「翻訳について語るときに僕たちの語ること」〈前編〉が終わり、〈後編〉に入る。
まず、作家が翻訳仕事をすることの意味を、踏み込んで明確に述べる。
「村上 僕の色が翻訳に入りすぎていると主張する人もいますが、僕自身はそうは思わない。僕はどちらかといえば、他人の文体に自分の身体を突っ込んでみる、という体験のほうに興味があるんです。〔中略〕その世界の内側をじっくり眺めているととても楽しいし、役に立ちます。だからカポーティの小説を訳せば、カポーティの文体のなかから、カポーティの目で世界を見るし、カーヴァーだったら、カーヴァーの文体のなかから、カーヴァーの目で世界を見る。」
これには異論が出そうだ。村上春樹の翻訳は、村上春樹の文体が、かなり露骨に出ていそうだ。これは水かけ論に終わると思うが(やれやれ)。
しかし村上春樹が、異論を弾き飛ばして、翻訳をやる意義を説くことは、見ようによっては感動的である。
村上さんは、小説家にとって翻訳は知の宝庫なのに、なぜ他の作家はやらないんだろう、と疑問を持つ。これはまあ、端的にいって語学力の問題である。
最後に村上春樹が、衝撃的な告白をしている。
「村上 かなり昔のことですが、雑誌に書評を頼まれたとき、存在しない本の書評を書いたことがあります。まず本を読まなくちゃいけないじゃないですか。書評って、時間がなくてあまり本が読めないときとか、てきとうな本が見つからないときとか、しょうがないから自分で勝手に本をつくってしまって、その書評を書いたりしました。出鱈目なあらすじを書いて。」
柴田元幸は、ただ一言、「衝撃的」。いやあ、村上春樹、やるもんだね。
ほかにも面白いところは、いっぱいあるけれども、くたびれてきたので、もうやめる。
この後は、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』に従って、『グレート・ギャツビー』『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『ロング・グッドバイ』、それに『ティファニーで朝食を』を読み、村上春樹いうところの、アメリカ文学最良の成果を味わってみたい。
そして村上さんが、個人的にどうしようもなく好きなもの、惹かれるものも、読んでみたい。それは例えば、『偉大なるデスリフ』や『ニュークリア・エイジ』や『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』といった作品だ。
(『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』村上春樹、
中央公論新社、2017年3月25日初刷)