ユニーク、大谷崎――『陰翳礼讃・文章読本』(3)

「厠のいろいろ」でいちばん目を引くのは、これを書いている谷崎の、楽しそうな光景である。
 
どこどこでトイレに入ったときは、とあちこちの厠を紹介するのだが、それが楽しくってしょうがない、という具合だ。

「やんごとない上藹(じょうろう)などと云うものは、自分のおいどから出るものがどんな形をしているか知らない方がよく、譃(うそ)でも知らない振りをしていて貰いたい。」
 
やんごとなき方であろうとなかろうと、そんなこと谷崎はん、あんたに関係おまへんやろ、と言いたくなる。それに誰でも、出たものはじっくり眺めて、吟味したいではないか。

大便だけではない。小便も、所によっては味わい深い。それでもやはり、ちょっと困ることもある。

「小便所は、朝顔へ杉の葉を詰めたのが最も雅味があるけれども、あれもどうかと思うのは、冬だと夥しい湯気が立つのである。……放尿中生暖かい湯気が盛んに顔の方へ昇って来るのは、自分の物から出るのだからまだ辛抱ができるとしても、前の人のすぐあとなどへ行き合わせると、湯気の止むのを気長に待っていなければならない。」
 
何か冬の朝、ほっこりと股間から臭ってくるような文章である。さすがは大谷崎。
 
これに、翌朝、二日酔いで厠へ入った先人の後の、なんとも鼻の曲がりそうな臭いをつけ加えれば、僕としては言うことはない。
 
また中国、杭州のホテルに泊まった谷崎は、急に下痢になったので、中国人のボーイについてトイレに入った。ところがそこは、あいにく小便所しかなかったのである。

「私はハタと当惑した。なぜなら『大便所』と云う英語を教わっていなかったからである。で、『もう一つの方だ』と云ってみたけれども、ボーイは悟ってくれないのである。外のことなら手真似でも説明できようか、此奴(こいつ)は真似をする勇気がない。」
 
このあとを、谷崎は書いていないので、詳細は不明だが、でも困ったろうなあ。
 
ちなみにこの段のオチは、「こう云う場合に使う英語を覚えておこうと思いながら、実は今以て知らないのである。」
 
僕も知らない。さあ、困ったぞ。

「文房具漫談」は、書き損じの話。谷崎は毛筆を使うので、それに関するあれやこれやの工夫がある。
 
しかしもちろん、コンピュータの今となっては、平安の昔のようだ。

「岡本にて」は、関東大震災を逃れて、関西に移り住んで、結局、そちらに住み着いた話。岡本は、神戸市東灘区岡本である。
 
ここでは岡本のことよりも、谷崎が行く先々で揮毫を頼まれて、往生する話がおかしい。
 
これは、まず人のものを挙げてからかう。

「大臣や代議士なぞが変な漢詩を臆面もなく発表するのもハタ迷惑だが、書く文句がなくって『児童心理学』と書いたと云う緑雨の話にあるようなのも困りものである。」
 
筆をもって揮毫するのに、苦し紛れに「児童心理学」というのは、困りものというより、シュールといった方がいい。
 
そして次に、谷崎の番が来る。
 
これが書こうにも、適当な文句が浮かばないし、だいいち非常な悪筆だから勘弁してくれ、と言っても、先方は許してはくれない。

「文句がなければ自作の小説の標題なりとも記せと云う。仕方がないので処女作から順々に自分の小説集の目録のようなものを楷書で書いたのが、又運悪く、えりにえって拙く出来て、どう見ても小学校の一年生の習字のようだった。」
 
悪筆は悪筆なんだろうが、ここでは自分を、ぐっと突き放して見ているのがおかしい。

(『陰翳礼讃・文章読本』谷崎潤一郎、新潮文庫、2016年8月1日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:54Comment(0)日記

ユニーク、大谷崎――『陰翳礼讃・文章読本』(2)

谷崎は、女性の肉体に対しても、独特の見方、はっきり言えば、一つの「偏見」を持っている。

「私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない。それで想い起すのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないのか。あの、紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸、その胸よりも一層小さくくびれている腹、何の凹凸もない、真っ直ぐな背筋と臀の線、そう云う胴の全体が顔や手足に比べると不釣合いに痩せ細っていて、厚みがなく、肉体と云うよりもずんどうの棒のような感じがするが、昔の女の胴体は押しなべてああ云う風ではなかったのであろうか。」
 
そんなことはなかったと思うよ。それにしても女の身体については、はっきり言って、もう無茶苦茶ですわ。棒のような女性のずんどうに、暗い光を当てて、何でもないところに、陰翳を生じさせる。これ、かなり変態でっせ。
 
谷崎自身の女人の好みは、どうだったんだろうか。大いに気にかかるところだ。

「陰翳礼讃」の最後は、こういう文章である。

「私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剝ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電灯を消してみることだ。」
 
こういう結びの一文があって、収まるところに収まっているが、途中は、あまり教科書にはふさわしくないものだ。つまり、変に面白おかしいところがあるのだ。

「文章読本」は、以下の二点をもって、名文とする。

「長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの
 何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るもの」
 
とはいっても谷崎も言うとおり、そういうお題目を並べても、「名文」を知らない者は、どうしようもない。
 
はっきり言って僕なども、「長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの、何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るもの」と言われても、それを具体的に、読者の目の前に、これでどうかとご覧に入れることはできない。
 
せいぜいが、養老孟司先生の書くものは、名文の一例だ、というくらいのものだ。
 
そこで谷崎は、あの手この手を駆使して、どんなものが名文であるかを、委細を尽くして詳述しようとする。そこはどうか実際に読んでいただきたい。
 
この「文章読本」は、作家が実地に言葉と格闘をして作り上げているので、独特の迫力がある。凡庸な文法、語法の教科書とは、天と地ほど違う。
 
そして「陰翳礼讃」と「文章読本」の間に、三本の随筆、「厠のいろいろ」「文房具漫談」「岡本にて」が挟んである。これは、うめぐさのようだが、そうではないのだ。
posted by 中嶋 廣 at 09:09Comment(0)日記

ユニーク、大谷崎――『陰翳礼讃・文章読本』(1)

筒井康隆の『不良老人の文学論』は、帯の推薦文や、文庫の解説、文学賞の推薦の言葉を集めたものだが、とにかく面白かった。
 
これを読んで、のちに読んでみようと思った本が、何冊かある。
 
谷崎潤一郎も、その一人だ。ここでは『陰翳礼讃・文章読本』と、それに続けて『卍』を読んでみる(『卍』は、項目を別に立てて論じる)。

『陰翳礼讃・文章読本』は、いずれも昭和九年ごろに書かれている。この新潮文庫には、他に「厠のいろいろ」「文房具漫談」「岡本にて」が収められている。

「陰翳礼讃」は、読む前から見当がついていて、そうして読んでみると、その通りである。

「私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内される毎に、つくづく日本建築の有難みを感じる。茶の間もいいにはいいけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。」
 
へえ、へえ、そうでっか、そうでっか。
 
こういう文章は、昭和初期の市民生活資料として読む以外に、どうしようもあるまい。これは高校の国語の教科書に載っていたような気がするが、いまは載っていまいな。あるいは、古典の教科書に移行しているかもしれない。
 
それでは谷崎は、資料として読む以外に、読みようはないのか。

とーんでもない! 谷崎は、凡庸ではないどころか、あっと驚くことを書いている。

ここまで、いろんな陰翳を礼賛しておいて、そこから一気に大風呂敷を広げる。

「もし東洋に西洋とは全然別箇の、独自の科学文明が発達していたならば、どんなにわれわれの社会の有様が今日とは違ったものになっていたであろうか、ということを常に考えさせられるのである。」
 
西洋とは別の、独自の科学文明といわれても、僕なんかには想像もつかない。そこを谷崎は、もう一押し、押してみるのである。

「恐らくは、物理学そのもの、化学そのものの原理さえも、西洋人の見方とは違った見方をし、光線とか、電気とか、原子とかの本質や性能についても、今われわれが教えられているようなものとは、異った姿を露呈していたかも知れないと思われる。」
 
ふーむ、としか、ほんと言いようがない。

また「陰翳礼讃」は、たんに住空間の、暗い見たままを言っているのではない。

「とにかくわれわれの喜ぶ『雅致』と云うものの中には幾分の不潔、かつ非衛生的分子があることは否まれない。西洋人は垢を根こそ発(あば)き立てて取り除こうとするのに反し、東洋人はそれを大切に保存して、そのまま美化する、と、まあ負け惜しみを云えば云うところだ……」
 
日本人がどうして、「非衛生的分子があること」を好むのか、そしてそれは、負け惜しみに近いところがあることを、よく分かってらっしゃる。
 
だから我々は、以下のようなところも嫌なのだ、と谷崎は言う。

「われわれが歯医者へ行くのを嫌うのは、一つにはがりがりと云う音響にも因るが、一つにはガラスや金属製のピカピカする物が多過ぎるので、それに怯えるせいもある。」
 
ふふっ。歯医者が嫌なのは、周りが金ピカのせいではない、と思うよ。
 
でも、谷崎が歯医者を嫌ったのは、よくわかる。
posted by 中嶋 廣 at 08:51Comment(0)日記

まるで下北沢・小劇場だな――『スタッキング可能』(2)

それでも女には、抽象的でない女には、生理がある。

「おかしいよね、私たち。毎月一週間も自分の下半身から血が流れているのをなんでもないみたいな顔して、いつもと変わりませんみたいな澄ました顔してオフィスで働いている。一回よく考えてみようよ。みてよ。ほら、おおごとだよ。一大事だよ。だってずっと血が出続けてるんだよ? コピーとったり、電話に出たり、大事な会議に出ながら、同時に血が流れてる。血を流している女がオフィスには点在している。血を流している女は週ごとに変わる。多分オフィスで誰からも血が流れていない日なんて一日だってないだろう。シュールすぎる。」
 
それは確かにシュールかもしれないが、しかし人間のうちの半分の、女が血を流す、という点では、それも「スタッキング可能」だ。
 
ただこの一篇を読むと、小説という感じは、なぜかしない。どこまでも、ときには怒りを込めて、「スタッキング可能」な例を挙げていっても、話は膨らまない。あるいは深み、というか陰翳といったものが、まったくない。
 
登場人物の一人が、コージーミステリを愛読している。コージーミステリとは、ハードボイルドなどとは違って、日常的な場面を舞台とし、事件にも人物にも、狭い範囲で親しみのあるミステリのことだ。
 
そのコージーミステリが、本文と同列に並べて、しかもゴチックで出てくる。

「確かにあなたがおっしゃる通りあなたの携帯電話も眼鏡のふちもその手ににぎりしめているタオルハンカチの色もすべてピンク色だ。とするとこのエコバッグは一体誰のものだというのか」
 
こういうのは、自分の家で読んでいるときには、勘弁してほしい。
 
こういう読書が、ピッタリ来るところがある。劇場、しかも、下北沢の小劇場あたりだ。

いったん芝居小屋に〝隔離〟され、快調なテンポで舞台を見ていれば、少々つじつまが合っていなくても、いやむしろ、つじつまが合っていない方が、高揚してみられる。〝隔離〟されている以上、とにかく目の前の出し物を、楽しむしかないじゃないか。

そういえば、この本の構成も、小劇場の舞台そのものだ。

「スタッキング可能    5
             93   ウォータープルーフ噓ばっかり!
 マーガレットは植える  105
             115  ウォータープルーフ噓ばっかり!
 もうすぐ結婚する女   133
             175  ウォータープルーフ噓ばっかりじゃない!」
 
細かいところまでは書かない。どれも読んでいると、ときどき面白いけれども、ときどき叙述に全く膨らみがなくて、いらいらする。
 
しかし「もうすぐ結婚する女」だけは、奇妙な奥行きと味わいがあって、面白かった。

「高校卒業後は別々の道に進み、社会生活の拠点をもうすぐ結婚する女も私も転々としたが、それでも半年に一、二回は必ず会っていた。そしてある時、もうすぐ結婚する女は、もうすぐ結婚する女になったと私に告げた。もうすぐ結婚する女が結婚するなんて、そして仕事帰りの居酒屋でそのことを報告されるなんて、私は自分がすごく大人になったような気がした。」

読んでいくうちにわかるが、「もうすぐ結婚する女」は複数、存在している。つまり複数形なのが、というか複数形なのも、面白い。
 
どちらにしても全体は、尖鋭な台本を読まされている感じがして、ときどきいらっとするけれど、でも面白いところもある。松田青子は、この人にしかこういう世界は書けない、という意味で面白い。

(『スタッキング可能』
 松田青子、河出書房新社、2013年1月30日初刷、2月20日第3刷)
posted by 中嶋 廣 at 15:09Comment(0)日記

まるで下北沢・小劇場だな――『スタッキング可能』(1)

松田青子は、『スタッキング可能』で教祖のように登場した、と斎藤美奈子の『日本の同時代小説』に書かれていた。

いや、教祖ではなかったかもしれないが、そういうインパクトのある言葉だった。

これは発売当初、書店で見ている。ぱらぱらとめくったが、いかにも著者が独りよがりで、とんがり過ぎていて、これはちょっとという感じだった。

しかし、斎藤美奈子の言葉には、考え直させる力がある。

まず最初に、スタッキングとは、揃いの食器や椅子などを積み重ねること。それが可能であるとは、オフィスの中では、どんな人間も、取り換え可能だということ。

そのために登場人物たちは、D田、A田、B田……と呼ばれ、固有名詞は剥奪されている。これが『スタッキング可能』の意味である。
 
そこではたとえば、こういう独白が生まれる。

「『わたし』は絶望した。終わってる、この世界、終わってる、と思った。
 笑顔がかわいい。えくぼがかわいい。天然でかわいい。家庭的でいい。やさしい。
 男たちが好きな女のナイスポイントをあげつらうたびに、『わたし』はそんな女になりたくないと思った。死んでもなりたくない。」
 
女も男も、「スタッキング可能」という意味では、同じことだ。しかし女は、男との関係で、固有の存在を、二重に剝奪されている。

「『わたし』は笑うのをやめた。無理して合わせようとするのをやめた。何があっても目の前に出てきたシーザーサラダを取り分けないと決めた。そうすると男たちにこわいと言われた。陰口を叩かれた。でもその方がずっとマシだった。……これは戦いだと『わたし』は思った。」
 
もちろん会社には、いろんな人がいる。たとえば、仕事さえやっていれば、基本的には放っておいてくれるのがいい、D山みたいな。

「……D山は自信を持って言えた。彼らより、誰より、私が一番ここにいないと。
 どうも自分はうまくやれない。この世界は居具合が悪い。理由なんて別にない。もう幼稚園からわかっていた。友達の、同級生の、周りにいる人たちの、話している内容が理解できない、意味がわからない、面白いと思えない。なぜどうでもいいことをいちいちずっとしゃべっているのか。それに合わせるとすごく疲れる。……
 D山を救ってくれたのは、噓みたいだけど、会社だった。」
 
とにかく、いろんな人がいる。
 
しかし、それを全部含めて、「スタッキング可能」であるのだ。
posted by 中嶋 廣 at 09:09Comment(0)日記

こんなところで小技とは――『むらさきのスカートの女』(2)

『むらさきのスカートの女』は、後半に入ると、ちょっと活劇調というか、ドラマが起きる。
 
むらさきのスカートの女と、所長が、仲良くなるのである。それはすでに、職場の女性たちの噂になっている。

ある日の日曜日、二人で出かけるのを、「わたし」が後をつける。
 
一日、デートをする、といっても、二人は「スピード」と「ダーティーハリー」の二本立てを見たり、居酒屋に入ったりするだけだ。その二本立ても、「スピード」を見たら出てしまう。中年の、行き場のない倦怠感が、よく出ている。
 
その夜、所長は、むらさきのスカートの女のところに泊まる。彼にしてみれば、ちょっとした浮気、というところ。
 
それから数日たって、むらさきのスカートの女と、所長は、いさかいを起こし、所長は二階の外階段から落ち、脳震盪を起こす。
 
ここで、「わたし」が現れる。

「『しー。静かに』
 と、わたしは言った。
 むらさきのスカートの女がこちらを向いた。その顔は真っ白で、涙と鼻水でびしょびしょになっていた。
『ちょっと見せてくれるかな』
 わたしは、所長とむらさきのスカートの女の間にしゃがみ込んだ。
 まず、所長の右の手首を持ち上げて、それから左手首を持ち上げた。所長のあごの下に指を二本当て、口元に耳を近づけた。むらさきのスカートの女は黙ってそのようすを見ていた。わたしは少しの沈黙ののち、顔を上げ、言った。
『これは、残念だけど、死んでるわ』」
 
これがヤマ場、と言ってもいい。
 
もちろん所長は死んでない。脳震盪を起こしただけだ。だからヤマ場といっても、微妙に外してある。
 
しかし「わたし」は、むらさきのスカートの女に、所長は死んだと話し、動転したむらさきのスカートの女は、「わたし」の指示で現場を離れる。
 
しかし、むらさきのスカートの女は、現場を離れただけで、どこへ行ったかはわからない。そうして今に至るも、雲隠れしたままだ。

「わたし」は、病院で所長と相対する。給料を上げてくれるように、所長に直訴する。ここがなかなか面白い。

「できるわけないでしょう! ……よっぽど普段の仕事ぶりが評価されてなければその審査にかけられない。仮に権藤さんが審査にかけられたとして、自分で通ると思ってるの? 遅刻、早退、無断欠勤、あなたね、今までクビになってないのが不思議なくらいだよ。仕事中もしょっちゅうふらっといなくなるって、他のスタッフからどれだけ苦情が来てるか知ってるの? 昇給は、無し。ありません」
 
しかし「わたし」は昇給する。所長がかつて、仕事場のホテルで、女優のパンツを盗んだことを、誰にも言わないことを取引材料にして。
 
ここではまた、「わたし」が、むらさきのスカートの女を微細に観察していたことが、いわば種明かしされている。
 
でもほんとうは、こんな種明かし、小技は不要なことだ。

「むらさきのスカートの女」を、じっと見ている「わたし」の、あり得ない不気味さが、終わりに来て、いくぶんか損なわれた。それが残念だ。
 
さらに蛇足を付け加えれば、『むらさきのスカートの女』は、『ピクニック』の発展したものだ。二つを読み比べてみると、深化の度合いが分かって面白い。

(『むらさきのスカートの女』
 今村夏子、朝日新聞出版、2019年6月30日初刷、8月30日第4刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:42Comment(0)日記

こんなところで小技とは――『むらさきのスカートの女』(1)

今村夏子の芥川賞受賞作である。
 
近くに住む、「むらさきのスカートの女」のことが、「わたし」は気になって方がない。なんとか友だちになりたくて、それとなく同じ職場に誘導するが、なかなか友だちにはなれない。
 
例によって今村夏子の筆法だから、「むらさきのスカートの女」はかなり変である。
 
しかし、読み進むにつれて、もう一人、小説の語り手である「わたし」も、そうとう変であることに気づかされる。
 
だいたい同じ職場であれば、ひと声かければ、すぐ友だちになれるではないか。
 
しかしそれでは、物語はあっという間に、というか始まる前に終わってしまう。
 
そこは、今村夏子の筆によって紆余曲折、というほどのこともないのだか、とにかくそういう事情が生まれる。例えば、通勤バスで起こったこんなこと。

「身動きの取れないこの状況で、わたしは先ほどからむらさきのスカートの女の右肩にご飯粒が付いているのが気になっていた。
 乾いて固くなったご飯粒だった。塚田チーフに朝は米を食べろと言われたから実践しているのかもしれない。もしかすると、もう何日も前から付いたままになっているのかも。取ってあげたいのだが、この状況だから手指を動かすのにも苦労する。」
 
なかなか滑稽である。しかしこれは、発端に過ぎない。

「わたし」が意を決して、ご飯粒を取ってあげようとしたとき、「バスが急カーブに差しかかり、車体が左右に大きく揺れた。その拍子に、わたしはご飯粒ではなくて、むらさきのスカートの女の鼻をつまんでしまった。
『んがっ』
 と、むらさきのスカートの女がまぬけな声を出した。わたしは慌てて手を引っ込めた。」
 
ここまででも、なかなか面白いが、これは起承転結で言えば、「起」と「承」にすぎない。
 
このあと、むらさきのスカートの女は、だれが鼻をつまんだのか、ということはさておき、お尻を触ったサラリーマン風の男を、交番に突き出し(「転」)、会社に遅刻してしまう(「結」)。
 
少しずれたところで、滑稽なことが起こる。今村夏子の小説は、そんなふうである。
 
ところが今回は、ちょっと違う。
posted by 中嶋 廣 at 09:31Comment(0)日記

変なのは主人公なのか著者なのか――『こちらあみ子』

今村夏子は、『あひる』というのを読んで、奇妙な面白さが印象に残った。

あひるが家からいなくなって、そうして帰ってくるたびに、もといたあひるとは、少し違っている、という話である。

こんなんが小説になるんかい、という話だが、それがなるんですね。というか、むしろ小説にしかならない。
 
そして今度は芥川賞である。書店へ行くと、芥川賞の『むらさきのスカートの女』と合わせて、最初の本の『こちらあみ子』も置かれている。
 
というわけで、最初から読むことにする。
 
結論から言ってしまうと、「こちらあみ子」は、もひとつ面白くはない。あと2篇、「ピクニック」と「チズさん」が入っていて、「ピクニック」の方は、ちょっと面白い。

「こちらあみ子」は、大人になったあみ子が、回想する形式の小説である。

両親と兄がいて、母親は後妻であり、あみ子と兄の、実の母親ではない。しかし親子の葛藤が描かれているわけではない。

そこは今村夏子独特の、ねじれと距離感で書かれている。

初めてこれを読んだ人は、特に編集者は、処女作でこれは脈あり、と思うだろう。
 
しかし、さきに「あひる」を読んでしまうと、こちらの奇妙さが際立っていて、「あみ子」はもう一つと思ってしまう。

「ピクニック」は、「ローラーシューズを履いた女の子たちがビキニ姿で接客しますという謳い文句を掲げた『ローラーガーデン』」、が舞台の物語である。
 
そこに七瀬さんという、ちょっと薹(とう)の立った女が現れて、この女がやっぱり奇妙だ。
 
これも、今村夏子の文体で書かれているので、この女が変なのか、これを記している著者、つまり今村夏子が変なのかは、わからない。

「よろしくね七瀬さん。ルミたちがステージの上から挨拶すると、七瀬さんは成熟した大人の女のひとらしく『よろしくお願いいたします』と言ったあと深々と頭を下げた。とても大きな胸だった。でも美しいとは言いがたい。左の脇腹には虫刺されの赤いあとがある。」
 
冒頭の一説だが、今村夏子の絶妙の、はぐらかしぶりが分かるだろう。これが意識的なものかどうかは、わからない。

(『こちらあみ子』
今村夏子、ちくま文庫、2014年6月10日初刷、2019年7月30日第7刷)
posted by 中嶋 廣 at 12:02Comment(0)日記

13人の「墓碑銘」――『オウム真理教 偽りの救済』

著者の瀬口晴義は、東京新聞の社会部記者。95年3月の地下鉄サリン事件以降、オウム事件の報道にかかわり、裁判の取材や、死刑囚らとの面会、手紙のやりとりを重ねてきた。
 
去年、2018年7月6日に、麻原彰晃・早川紀代秀・新実智光・井上嘉浩・中川智正・遠藤誠一・土谷正実が死刑になり、7月26日には、広瀬健一・豊田亨・林泰男・横山真人・岡崎一明・端本悟が死刑になった。
 
これで、オウム真理教の確定死刑囚13人が死刑になった。一区切りというわけで、オウムの全貌を見渡して、そういう本を書いたのである。
 
橋本治の『宗教なんかこわくない!』でも書いたように、私はこれまで、法蔵館にいるときに、「別冊・仏教」として『オウム真理教事件』を出し、そこから派生して、森岡正博さんの『宗教なき時代を生きるために』を出した。
 
そして続けて、島田裕巳さんのオウム論を、書き下ろしで出そうとしたが、それが通らなかったので、そういうこともあって、トランスビューを作り、島田さんの『オウムーなぜ宗教はテロリズムを生んだのかー』を最初に出版した。
 
しかし、今度この本を読んでみて、私は、オウムの内側に興味を持っていたわけではない、ということが、今さらながらよく分かった。
 
もちろん精神の世界には、強く惹かれる。というか、ほとんどそこにしか興味はない。しかし麻原彰晃の開示する世界には、一目見た時から、強烈な嫌悪感しか感じなかった。あの、高田馬場の書店で見た、麻原彰晃の空中浮揚写真が、カバーに印刷されている本だ。
 
もちろん強烈な嫌悪感というものは、容易に反転しがちだ。それは、肝に銘じておく必要がある。

しかしそれでも、オウムのいう「精神世界」は、人間精神の働きのごく一部、それも、かなり偏った動きの一部である。「空中浮揚写真」に、オウムの「精神世界」の一端が現れているなら、それは見世物小屋と大差がない。

「麻原を『師』に選ばなければ、死刑になった12人は実直に生きてそれぞれの立場で社会に貢献した人たちだ、と私は断言できる。彼らは罪を裁かれるべき加害者であると同時に、麻原に人生を奪われた被害者の面も併せ持つ。これがオウム事件の本質だ。」
 
たしかに、そういえるかもしれない。

しかし、まず最初に麻原に興味を惹かれて、そこに参加してみなければ、そういうことは起こらなかった。その最初の一歩は、重要な点だろう。
 
この本を読むと、オウム真理教団は、テレビに出てきたときには、坂本弁護士一家を惨殺しており、今さらながら、そういう嘘は、見抜けなかったのかと思う。
 
弁護士一家の惨殺が、もう一方からすれば、「ボアによる転生」とみる見方の、怖ろしいところである。殺人にかかわった人間は、それを頭から信じているから、テレビに出てきても、その瞳には少しの陰りもない。
 
それで地下鉄に、サリンを撒くところまで行くわけだ。
 
この本は、刑事裁判も丁寧に追ってあり、麻原の裁判が、なぜ一審だけで終了したのかということも、よくわかった。
 
これは、一般に弁護側の不手際と取られることが多いが、そしてそういう面もあるにはあるが、根本的には麻原が悪いのだ、ということがよく分かった。
 
麻原はもう、裁判は嫌になったのではないか。なんと無責任な、とあきれるしかないが、しかし、そういうことだと思う。罪の重さを考えれば、二審、三審で、自分のやったことを、何度も明るみに出されるのは、たまらなかったのだと思う。とにかく目を背けたいと思ったのだ、ということが、よくわかるような気がする。
 
この本の最後に、付録のように2段組で、死刑囚一人ずつの、著者とのかかわりが出てくる。題して「墓碑銘」。私は、ここを最初に読んで、買おうと決めたのだった。

(『オウム真理教 偽りの救済』瀬口晴義、
 発行・集英社クリエイティブ、発売・集英社、2019年6月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 14:22Comment(0)日記

詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(8)

冷蔵庫のビールは無くなったようだ。しかしNやんは、まだ腰を上げずに黙ったままだ。もう少し、『夏物語』の余韻を楽しむつもりなのか。
 
僕の方が口を開く。

「考えてみると、この小説には、まだ続編がありそうやな。夏子の子どもが生まれてくるんでもいいし、設定はがらっと変えてもいいけど、この物語には続編がある」

「なんでや、どんなんや」

「ここに来て、日本人の女が、子どもを産むことに、それほど積極的やない、と思わんか」

「それはもう、ずっとそうや」

「個別に考えたら、それこそいろんなタイプの女がいて、千差万別やろけど、全体としては、積極的に産もうという気はない」

「それは、年間の出生数を見たって、夫婦二人から生まれるのが、おおかた1.5人やから、このままでいくと、日本人は滅びざるをえんな。ほんまにもう、困ったことやで」

「と口では、そういうけども、お前がほんまに困ってるのんは、見たことがない。そもそもNやんは、悦ちゃんとの間に、子どもを持っとらんやないか」

「それは、俺ら夫婦は、結婚が遅かったからや。向こうも仕事持ってて、油が乗ってくるころやったしな」

「そうやな。仕事と子どもを秤にかけりゃ、仕事が重たい渡世の義理、ということが、しばしばあるな」

「女唐獅子牡丹やな。ほんでも必ずしも、仕事と子どもを秤にかけりゃ、ということもないで。やっぱり女の方が、男に比べて、はっきり実入りが悪いし、育児休暇も、男は取りよらん。女の方が圧倒的に、子育てのしわ寄せを受けとる」

「それでも、だから子どもは、よう産まんというのは、この時代特有のことや。だいたい子どもを、仕事やなんかと秤にかけるというのが、実際には新しい考えやと思うんや」

「それだけ女の方も、ひとりの人格として、自覚できるようになってきたちゅうことや」

「しかし、だからというて、将来産まんような女ばっかりになって、日本人は死に絶えました、というふうになってもええんかいな。まあ、しゃあないのかな」

「せやからもうちょっと、男が協力してもええやないか。そう思わんか?」

「まあ事実、ヨーロッパでは、出生率はそれほど落ちてないしな」

「しかし、今の日本では、その辺は望み薄やねえ」

「でもな、将来の日本人という点では、外国人を日本人として入れようとしてるから、何とかなるんとちゃうか」

「大相撲の原理やな。『日本の国技』という表看板はそのままに、内実はモンゴル人が牛耳っている。それで、ようやってるのは、将来の帰化を視野に入れてる。今年からこれを、大相撲から日本国に変えて、大々的にやろうっちゅうわけや。うまいこと行くかどうかは、わからんけどな。ところで未映ちゃんの続編の話は、どないなっとるんや」

「そないに大げさなことにはならんやろけど、というか話の方向が違うてしもたけど、しかしこの続きは、ありそうな気がする」

「ワシは未映ちゃんに、是非、『お笑い純文学』をかいてほしい。これまでの、文学にユーモアを、というのは、未映ちゃんを読んだ後では、どれも木端微塵や。最初から終わりまで、笑い死にしそうでどもならん、今わの際には、未映ちゃんを読んでから笑って死ね、というふうになってほしい」

「むちゃくちゃやな。俺はなあ……『ヘヴン』が好きなんや。緊密な文体が、最後へ来て、内容とともに垂直に真上に抜けていく。これは誰にも真似のできんこっちゃ。ああいうのを書いてほしい」

というところで、田中晶子が帰ってきた。Nやんは、そそくさと帰り支度をはじめ、あっという間にいなくなった。

(『夏物語』川上未映子、文藝春秋、2019年7月10日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 08:49Comment(0)日記