細井和喜蔵については、まだ書いておくことがある。そうでないと、僕が是非読んでみたいといった理由が明らかではない。
『奴隷』の最後で、絶望した「三好江治」は自殺を図るが、かろうじて生き延びる。
続編の『工場』では、彼は20歳になっている。そして2年後に「林菊枝」に会うのである。
「菊枝は切々と訴える。〈わたしの心は腐っていたのでしょう。どうかしていたのだと思います〉/〈江ちゃん! うちをもう一遍愛してください〉」
その後もすったもんだはあるが、2人はやり直そうとする。
「『奴隷』『工場』が、他の青春小説と一線を画しているのは、第一に江治と菊枝互いに体当たりでぶつかっていること、第二に経済の問題が彼らの恋愛や生き死にに深くかかわっていることである。特に菊枝の存在感はこの種の青春小説の中では際だっており、妄想の中で美化されたヒロインとの著しい対比を見せる。」
ここでの斎藤美奈子は、からかう様子はまったくない。ただ、読むに値するものとして、この2編を押している。
けれども作品がこれからというときに、「菊枝」は肺病で命を落とす。ここでもやはり、「死に急ぐ女たち」の物語なのである。
実際の細井和喜蔵は23歳で上京、東京モスリン紡織亀戸工場に勤め、同じ工場の女工、堀としをと、事実婚で所帯を持っている。
堀としをは後に『わたしの「女工哀史」』で、こんなふうに回想している。
「〈二人は友情結婚したのですが、なによりありがたく感じたのは、男女は世界中に半分半分生れている。そして男女は同権であるといって、それを実行してくれたことでした〉」
細井和喜蔵は堀としをと会ってすぐに、ドイツの社会主義者、ベーベルの『婦人論』を読むよう薦めている。細井は、当時としては珍しいフェミニストであり、だから工場のことを、克明に書き記したのだ。
「過重労働、疾病、事故、過労死……。ありとあらゆる労働問題が凝縮された繊維工場だけれども、この小説を読むと、上司から女工へのセクハラ、レイプ、性暴力の類いがいかに多かったかに気づかされる。和喜蔵はそれにも我慢できなかったのだ。」
ここで僕は、この本の隠れたメッセージに気がつく。取り上げられている作品を見たとき、細井和喜蔵『奴隷』以外は、どれも有名なものばかりだ。逆に言うと細井和喜蔵『奴隷』は、明治文学のよほどの愛好家以外は、誰も知らないものだ。
それを何とか知らしめたい。細井和喜蔵は若くして死んだけれど、もし生きていれば、フェミニストの目を持った先駆けの作家として、文学史にその名を残したに違いない。
いやもちろん『女工哀史』の著者として名を残したのだが、長く生きていれば、もっと大きな足跡を残したかもしれない。
細井和喜蔵とはそういう人だったのではないか、と斎藤美奈子は言いたいに違いない。
文学は進歩している、か?――『出世と恋愛―近代文学で読む男と女―』(斎藤美奈子)(2)
斎藤美奈子の本の基本となるのは、対象の作家や作品を「からかうこと」である。そのからかいが、対象と微妙な距離を保って、馴れ合う寸前まで行くが馴れ合わず、しかし温かみのある筆で、からかうことを含めて、読者の胸をくすぐり、温かくする。
だから『三四郎』の主人公にしても、『青年』の小泉純一にしても、あるいは『田舎教師』の林清三、『友情』の野島にしても、おおむねつまらない奴だが、どこか滑稽で可愛げがある。
次の島崎藤村『桜の実の熟する時』は、これは本当につまらない。自然主義の代表みたいに言われる島崎藤村だけど、この作品に限っては、主人公の肝心なことが書いてない。
斎藤美奈子に言わせると、藤村は「暗い、まどろっこしい、サービスが悪い」と、三拍子そろっているので、今では読む人がいない。
この小説では、「岸本捨吉」は教師をしているが、教え子の「勝子」を好きになってしまい、そして結果、なんと「勝子」には一言の挨拶もせずに、学校を去る。しかしその理由は書いてない。
「〈若くて貧しい捨吉は何一つ自分の思慕のしるしとして勝子に残して行くような物を有たなかった。僅かに、その年齢まで護りつづけて来た幼い「童貞」を除いては〉」
この数行、まったく意味不明である。だいたい教師が逃げてどうするんだ。
「何もかも曖昧模糊。肝心なことを書かないため、『桜の実』はわけもわからず捨吉が大げさに苦悩する、奇怪なテキストになってしまっている。」
だからこれは、『出世と恋愛』には相応しくないのだが、あまりの奇怪さ、馬鹿々々しさに、つい取り上げたというところか。
細井和喜蔵『奴隷』はプロレタリア文学である。プロレタリア文学といえば、それだけでもう敬遠するだろうが、読んでみるとそうでもない。斎藤美奈子はここでは、小林多喜二『蟹工船』を挙げている。
「『蟹工船』(一九二九=昭和四年)はオホーツク海で操業する工場を兼ねた大型漁船が舞台で、意外にもポップな文体で読ませるモダニズム色の濃い作品である。」
ここには挙げていないが、僕はもう一つ、徳永直『太陽のない街』を推奨したい。工場労働者と官憲の、追いつ追われつのところは、ポップというかドタバタというか、文句なしに面白い。
考えてみれば、プロレタリア文学の全盛期であるということは、たぶんプロレタリアではなく(彼らには時間的、金銭的余裕はなかっただろう)、どちらかといえばブルジョアが読んだに違いない。
『奴隷』は、工場労働者を主人公にした小説。「三好江治〔こうじ〕」は、小学校を終えるのを待たず、11歳でちりめん織屋、つまり繊維工場に奉公に出る。
そしてそこで同世代の女工、「林菊枝」に出会って恋をする。彼は「菊枝」に、世界的な織機の発明をするから、そうしたら必ず結婚しようという。
「〈貴女に恋しています。貴女を真心から愛しています〉〈僕はうんと勉強していつぞや貴女が言った工務係よりもっともっと成功してみせるから、貴女は僕を愛しておくれることはできませんか?〉」
こういうふうにストレートに出れば、どんな女性でもグラっとくるのは、昔も今も同じ。
ここでは、「三四郎」以下の、ブルジョア知識階級の恋の悩みとは違って、プロレタリア労働者は、直球で押して押して押しまくる。
しかし「江治」と「菊枝」は言い交わした仲なのに、結局振られる。「菊枝」は、飽くことなく夢を語った「江治」を、じっと待つことができずに、工場長の愛人になってしまうのだ。
細井和喜蔵は、『女工哀史』の著者である。紡績工場の非人間的な労働現場を綴ったルポルタージュは、反響を呼んでベストセラーになった。
ところが出版のわずか1カ月後に、細井は28歳という若さで病死してしまう。
『女工哀史』で大ヒットを飛ばした改造社は、細井和喜蔵の残した原稿を、『奴隷』と続編の『工場』として、死後に出版する。
それにしても斎藤美奈子も言うとおり、『奴隷』と『工場』の2作品のタイトル、何とかならなかったのか。せめてその前に「女工」とつけるような。いやそれでは、いささか内容が違ってくるか。いずれにしてもこの2編は、岩波文庫に収録されているというから、ぜひ読んでみよう。
だから『三四郎』の主人公にしても、『青年』の小泉純一にしても、あるいは『田舎教師』の林清三、『友情』の野島にしても、おおむねつまらない奴だが、どこか滑稽で可愛げがある。
次の島崎藤村『桜の実の熟する時』は、これは本当につまらない。自然主義の代表みたいに言われる島崎藤村だけど、この作品に限っては、主人公の肝心なことが書いてない。
斎藤美奈子に言わせると、藤村は「暗い、まどろっこしい、サービスが悪い」と、三拍子そろっているので、今では読む人がいない。
この小説では、「岸本捨吉」は教師をしているが、教え子の「勝子」を好きになってしまい、そして結果、なんと「勝子」には一言の挨拶もせずに、学校を去る。しかしその理由は書いてない。
「〈若くて貧しい捨吉は何一つ自分の思慕のしるしとして勝子に残して行くような物を有たなかった。僅かに、その年齢まで護りつづけて来た幼い「童貞」を除いては〉」
この数行、まったく意味不明である。だいたい教師が逃げてどうするんだ。
「何もかも曖昧模糊。肝心なことを書かないため、『桜の実』はわけもわからず捨吉が大げさに苦悩する、奇怪なテキストになってしまっている。」
だからこれは、『出世と恋愛』には相応しくないのだが、あまりの奇怪さ、馬鹿々々しさに、つい取り上げたというところか。
細井和喜蔵『奴隷』はプロレタリア文学である。プロレタリア文学といえば、それだけでもう敬遠するだろうが、読んでみるとそうでもない。斎藤美奈子はここでは、小林多喜二『蟹工船』を挙げている。
「『蟹工船』(一九二九=昭和四年)はオホーツク海で操業する工場を兼ねた大型漁船が舞台で、意外にもポップな文体で読ませるモダニズム色の濃い作品である。」
ここには挙げていないが、僕はもう一つ、徳永直『太陽のない街』を推奨したい。工場労働者と官憲の、追いつ追われつのところは、ポップというかドタバタというか、文句なしに面白い。
考えてみれば、プロレタリア文学の全盛期であるということは、たぶんプロレタリアではなく(彼らには時間的、金銭的余裕はなかっただろう)、どちらかといえばブルジョアが読んだに違いない。
『奴隷』は、工場労働者を主人公にした小説。「三好江治〔こうじ〕」は、小学校を終えるのを待たず、11歳でちりめん織屋、つまり繊維工場に奉公に出る。
そしてそこで同世代の女工、「林菊枝」に出会って恋をする。彼は「菊枝」に、世界的な織機の発明をするから、そうしたら必ず結婚しようという。
「〈貴女に恋しています。貴女を真心から愛しています〉〈僕はうんと勉強していつぞや貴女が言った工務係よりもっともっと成功してみせるから、貴女は僕を愛しておくれることはできませんか?〉」
こういうふうにストレートに出れば、どんな女性でもグラっとくるのは、昔も今も同じ。
ここでは、「三四郎」以下の、ブルジョア知識階級の恋の悩みとは違って、プロレタリア労働者は、直球で押して押して押しまくる。
しかし「江治」と「菊枝」は言い交わした仲なのに、結局振られる。「菊枝」は、飽くことなく夢を語った「江治」を、じっと待つことができずに、工場長の愛人になってしまうのだ。
細井和喜蔵は、『女工哀史』の著者である。紡績工場の非人間的な労働現場を綴ったルポルタージュは、反響を呼んでベストセラーになった。
ところが出版のわずか1カ月後に、細井は28歳という若さで病死してしまう。
『女工哀史』で大ヒットを飛ばした改造社は、細井和喜蔵の残した原稿を、『奴隷』と続編の『工場』として、死後に出版する。
それにしても斎藤美奈子も言うとおり、『奴隷』と『工場』の2作品のタイトル、何とかならなかったのか。せめてその前に「女工」とつけるような。いやそれでは、いささか内容が違ってくるか。いずれにしてもこの2編は、岩波文庫に収録されているというから、ぜひ読んでみよう。
文学は進歩している、か?――『出世と恋愛―近代文学で読む男と女―』(斎藤美奈子)(1)
オビ裏の惹句はこうだ。
「現在恋愛中の方も/これから恋愛を始めたい方も/本書で「男と女」の本音を読み解き/胸をときめかせましょう。」
もちろんこんなことは書いてない。斎藤美奈子が、現代フェミニストの眼をもって、戦前の恋愛小説をぶった切る、というものである。
そのまな板の上の小説は、
夏目漱石『三四郎』
森鷗外『青年』
田山花袋『田舎教師』
武者小路実篤『友情』
島崎藤村『桜の実の熟する時』
細井和喜蔵『奴隷』
徳富蘆花『不如帰』
尾崎紅葉『金色夜叉』
伊藤左千夫『野菊の墓』
有島武郎『或る女』
菊池寛『真珠夫人』
宮本百合子『伸子』
細井和喜蔵の『奴隷』以外は、みんなよく知られたものだ。
最初は『三四郎』から。しかしこの章は面白くない。斎藤美奈子は、そうは書いていないが、この小説はつまらない、と僕は思う。
帝国大学が大枠の舞台としてあるが、そこに棲息する人物が、何とも中途半端で、それを観察する「三四郎」にも、「猫」のような鋭い批判力はない。
「明治の立身出世主義は、日露戦争後のこの時代、じつは崩壊しはじめていた。三四郎は古典的な立身出世を漠然と思い描いて上京したが、彼が東京で見たのは、広田先生ら知識人が出世コースから切り離された姿だった。」
漱石は1907年、大学を辞して朝日新聞に入り、翌年『三四郎』を書く。このころに書かれたものは、『虞美人草』といい『三四郎』といい、まだ作家として腰が定まっていないものだ、と僕は思う。
かくて「三四郎と美禰子の関係は『恋愛未満』終わるのである。」
なお戦前の「青春小説」はみな同じである、と斎藤美奈子は言う。いずれも「黄金パターン」があり、それは次のとおり。
「① 主人公は地方から上京してきた青年である。
➁彼は都会的な女性に魅了される。
③しかし彼は何もできずに、結局ふられる。」
これが王道だが、いつも何もできないのでは、あまりに詰まらない。
片思いから、まれに成就する恋愛もある。ところがこっちはこっちで、物語の「黄金パターン」が存在する。
「① 主人公には相思相愛の人がいる。
➁しかし二人の仲は何らかの理由でこじれる。
③そして、彼女は若くして死ぬ。」
斎藤美奈子はここでは、「死に急ぐ女たち」の物語と呼んでいる。
こういうふうに分類してしまえば、あとは該当の小説を読まずとも、この本を読むだけでいいのだ(というのは言いすぎか?)。
「現在恋愛中の方も/これから恋愛を始めたい方も/本書で「男と女」の本音を読み解き/胸をときめかせましょう。」
もちろんこんなことは書いてない。斎藤美奈子が、現代フェミニストの眼をもって、戦前の恋愛小説をぶった切る、というものである。
そのまな板の上の小説は、
夏目漱石『三四郎』
森鷗外『青年』
田山花袋『田舎教師』
武者小路実篤『友情』
島崎藤村『桜の実の熟する時』
細井和喜蔵『奴隷』
徳富蘆花『不如帰』
尾崎紅葉『金色夜叉』
伊藤左千夫『野菊の墓』
有島武郎『或る女』
菊池寛『真珠夫人』
宮本百合子『伸子』
細井和喜蔵の『奴隷』以外は、みんなよく知られたものだ。
最初は『三四郎』から。しかしこの章は面白くない。斎藤美奈子は、そうは書いていないが、この小説はつまらない、と僕は思う。
帝国大学が大枠の舞台としてあるが、そこに棲息する人物が、何とも中途半端で、それを観察する「三四郎」にも、「猫」のような鋭い批判力はない。
「明治の立身出世主義は、日露戦争後のこの時代、じつは崩壊しはじめていた。三四郎は古典的な立身出世を漠然と思い描いて上京したが、彼が東京で見たのは、広田先生ら知識人が出世コースから切り離された姿だった。」
漱石は1907年、大学を辞して朝日新聞に入り、翌年『三四郎』を書く。このころに書かれたものは、『虞美人草』といい『三四郎』といい、まだ作家として腰が定まっていないものだ、と僕は思う。
かくて「三四郎と美禰子の関係は『恋愛未満』終わるのである。」
なお戦前の「青春小説」はみな同じである、と斎藤美奈子は言う。いずれも「黄金パターン」があり、それは次のとおり。
「① 主人公は地方から上京してきた青年である。
➁彼は都会的な女性に魅了される。
③しかし彼は何もできずに、結局ふられる。」
これが王道だが、いつも何もできないのでは、あまりに詰まらない。
片思いから、まれに成就する恋愛もある。ところがこっちはこっちで、物語の「黄金パターン」が存在する。
「① 主人公には相思相愛の人がいる。
➁しかし二人の仲は何らかの理由でこじれる。
③そして、彼女は若くして死ぬ。」
斎藤美奈子はここでは、「死に急ぐ女たち」の物語と呼んでいる。
こういうふうに分類してしまえば、あとは該当の小説を読まずとも、この本を読むだけでいいのだ(というのは言いすぎか?)。
どういうふうに考えればよいか――『別れを告げない』(ハン・ガン、斎藤真理子・訳)(3)
そういうわけで、韓国の歴史に無知で、韓国文学の実情にも疎いのだが、そういうことを抜きにして、というか前提にして、この本には言っておきたいことがある。
例えば次の箇所をどう読むか。インソンの家で、埋葬してきた鳥と出会う場面である。
「ろうそくの火と影の間、鳥の肉体があるべき空中に向かって手を伸ばした。
チガウ。
無声音が重なって、一つの言葉のように聞こえた。
……チガウ、チガウ。
幻聴だろうか、と疑わしく思ったその刹那、言葉が砕け散った。布が擦れ合う音が残響を曳いて消えた。」
最後から2番目の文章、「言葉が砕け散った」は、朗読するときは格好よく見える。しかし意味を問うたとき、それに当てはまるものがあるだろうか。
ここは難しい構文ではないから、たぶん原文通りだろう。そうすると訳者ではなく、ハン・ガンに聞いてみたいところだ。
もっとも、この「砕け散る」の意味が分からない人には、私の文学はわからない、とハン・ガンは言うかもしれない。
あるいは次のところ。
「目を開けて、私はインソンの顔に向き合う。
〔ここで3行アキ、次に書体を変えて〕
落ちていく。
水面で屈折した光が届かないところへと。
重力が水の浮力に打ち勝つ臨界のその下へ。」
最後の文章の意味は不明である。「重力が水の浮力に打ち勝つ臨界」というのも分かりにくいが、さらに「臨界のその下へ」というのは、何のこと? これは日本語に訳すときの問題だろう。
もう一つ、標準的な韓国語と比較して、済州島の言葉は、韓国人にも分からないという。それでハン・ガンは、「済州語をそのまま用いたら本土の読者に理解できないと考え、済州島出身者の知人と相談し、可読性を損なわず『中間地点に収まるように』配慮した」という。
その思いを受けて、翻訳者の斎藤真理子は、今度は日本語をどうするかを考える。
「語尾が短く独特のリズムを持ち、朝鮮語の古層が残っているともいわれる済州語の響きを生かして訳すにはどうすればよいか。〔中略〕標準語との距離を提示しつつ、叡智ある響きを表現したい。そのために力を借りるとしたら、済州島との共通点も多く、自分もかつて四年暮らした沖縄の言葉以外には思いつかなかった。」
それで編集者を恃んで、済州島の母の台詞を、すべて沖縄語に変えてもらった。例えば次のように。
「お前の父さん〔あぱん〕が男〔そない〕らしかったらば、私はたぶん、好かざったね。初めて会ったとき、男〔そない〕の顔が何でこれほどきれいかと。十五年も日光に当たらぬせいだったかよ。肌がキノコんごと白かったざ。そんな人を、皆が避けていたのもおかしなことよな。死人が帰ってきたごとして。一度目が合っても、幽霊を連れてくる人んごとして。」
ゆっくり読めば、前後の文脈もあって、意味するところは分かる。しかしインソンの母親の台詞が、すべて方言、すなわち一読して意味が取り辛いというのは、いかにも興が削がれる。
ここは沖縄の言葉ではなくて、どことは言えない、いわゆる方言、お国訛りでよかったのではないか。あるいはいっそ、標準語にしてもよかったのでは、と思う。
とまあいろいろ注文は付けたが、訳者も編集者も、それこそぎりぎりの努力をしている。カバー裏の粗筋など、ここは編集者が書いたと思われるが、通常の倍くらい書き込んであって、原著者の癖を、日本の読者が嫌うことがないように、涙ぐましい工夫をしている。
ハン・ガンはそういうわけで、もう少し読んでみよう。
(『別れを告げない』ハン・ガン、斎藤真理子・訳、
白水社、2024年4月10日初刷、11月5日第7刷)
例えば次の箇所をどう読むか。インソンの家で、埋葬してきた鳥と出会う場面である。
「ろうそくの火と影の間、鳥の肉体があるべき空中に向かって手を伸ばした。
チガウ。
無声音が重なって、一つの言葉のように聞こえた。
……チガウ、チガウ。
幻聴だろうか、と疑わしく思ったその刹那、言葉が砕け散った。布が擦れ合う音が残響を曳いて消えた。」
最後から2番目の文章、「言葉が砕け散った」は、朗読するときは格好よく見える。しかし意味を問うたとき、それに当てはまるものがあるだろうか。
ここは難しい構文ではないから、たぶん原文通りだろう。そうすると訳者ではなく、ハン・ガンに聞いてみたいところだ。
もっとも、この「砕け散る」の意味が分からない人には、私の文学はわからない、とハン・ガンは言うかもしれない。
あるいは次のところ。
「目を開けて、私はインソンの顔に向き合う。
〔ここで3行アキ、次に書体を変えて〕
落ちていく。
水面で屈折した光が届かないところへと。
重力が水の浮力に打ち勝つ臨界のその下へ。」
最後の文章の意味は不明である。「重力が水の浮力に打ち勝つ臨界」というのも分かりにくいが、さらに「臨界のその下へ」というのは、何のこと? これは日本語に訳すときの問題だろう。
もう一つ、標準的な韓国語と比較して、済州島の言葉は、韓国人にも分からないという。それでハン・ガンは、「済州語をそのまま用いたら本土の読者に理解できないと考え、済州島出身者の知人と相談し、可読性を損なわず『中間地点に収まるように』配慮した」という。
その思いを受けて、翻訳者の斎藤真理子は、今度は日本語をどうするかを考える。
「語尾が短く独特のリズムを持ち、朝鮮語の古層が残っているともいわれる済州語の響きを生かして訳すにはどうすればよいか。〔中略〕標準語との距離を提示しつつ、叡智ある響きを表現したい。そのために力を借りるとしたら、済州島との共通点も多く、自分もかつて四年暮らした沖縄の言葉以外には思いつかなかった。」
それで編集者を恃んで、済州島の母の台詞を、すべて沖縄語に変えてもらった。例えば次のように。
「お前の父さん〔あぱん〕が男〔そない〕らしかったらば、私はたぶん、好かざったね。初めて会ったとき、男〔そない〕の顔が何でこれほどきれいかと。十五年も日光に当たらぬせいだったかよ。肌がキノコんごと白かったざ。そんな人を、皆が避けていたのもおかしなことよな。死人が帰ってきたごとして。一度目が合っても、幽霊を連れてくる人んごとして。」
ゆっくり読めば、前後の文脈もあって、意味するところは分かる。しかしインソンの母親の台詞が、すべて方言、すなわち一読して意味が取り辛いというのは、いかにも興が削がれる。
ここは沖縄の言葉ではなくて、どことは言えない、いわゆる方言、お国訛りでよかったのではないか。あるいはいっそ、標準語にしてもよかったのでは、と思う。
とまあいろいろ注文は付けたが、訳者も編集者も、それこそぎりぎりの努力をしている。カバー裏の粗筋など、ここは編集者が書いたと思われるが、通常の倍くらい書き込んであって、原著者の癖を、日本の読者が嫌うことがないように、涙ぐましい工夫をしている。
ハン・ガンはそういうわけで、もう少し読んでみよう。
(『別れを告げない』ハン・ガン、斎藤真理子・訳、
白水社、2024年4月10日初刷、11月5日第7刷)
どういうふうに考えればよいか――『別れを告げない』(ハン・ガン、斎藤真理子・訳)(2)
次に記すのは、あらすじのようなものである。
キョンハは2014年に、虐殺に関する本を出したのち、悪夢を見るようになり、脳裏に浮かぶ黒い木々の光景が、気がかりになっている。これはたぶん黒焦げになった死体、またはその墓碑のイメージである。
キョンハはどこか良い場所に、墓碑に似た丸木を植えることを思い立ち、それを友人でドキュメンタリー作家のインソンに、短篇映画にすることを依頼する。
インソンはその前から、認知症の母を看取るために、済州島に帰り、母の葬儀の後も、済州島に住み続けている。
あるときインソンから、指を切り落とす事故に遭ったので、病院にいるが、至急合いたいと連絡がある。キョンハは折悪しく吹雪の日に、済州島のインソンの家に行き、エサも水もない捨ておかれてるインコを救ってほしい、と依頼される。
雪が降り続く中、何とかインソンの家に着いたものの、小鳥はすでに死んでおり、キョンハはそれを埋葬する。
しかしそれから、幻とも現実ともつかない中で小鳥は蘇り、さらに事故に遭うまえのインソンが現われて、母親の追い求めた真実を語ろうとする。
というふうにあらすじを記しても、この本を読んだことには、まるでならない。
叙述の段落は、続けて書いてあるところもあれば、1行アキになっているところもある。それだけではなく、アステリスクを入れて、3行アキになっているところもある。
また本文書体が2種類で組まれていて、その区別がよくわからない。独白の文章が、書体を変えてあるかと思うのだが、必ずしもきちんとした区分はしていない。ああ、まったく厄介だ。
そうはいっても、ここで翻訳文体の見本をまったく見せないで、済ますことはできないだろう。
まずインソンが事故で指を切断したというので、キョンハが病院に駆けつけるところ。
「看病人が二本目の針をインソンの中指に刺している間、私はインソンの枕の横に置かれた携帯電話の方へ視線をそらした。包帯を巻いて縛った右手を動かさずに私にメールを送ろうとしてインソンが恐る恐る試した腰、肩、左手の動作を想像した。すぐ来てくれる? 力を振り絞って子音と母音をつなげ、単語と単語の間にスペースを空けて、そうやって二回も尋ねたのだ。でも、よりによってなぜ私だったのだろう?」
韓国の歴史を知らなくとも、この作家について何も知らなくても、吸い込まれるような文体だ。
次はこの作品の要である。滝のそばにインソンと母親がいて、その愛情が厳しいかたちをとる。
「母さんがしゃがんだから私も隣に座ったの。私がいることに気づいて母さんは振り向き、黙って笑いながら私の頬を手のひらで撫でたんだ。続けて、後ろ頭も、肩も、背中も撫でてくれた。重たい、切ない愛が肌を伝って染み込んできたのを覚えてる。背骨に染み、心臓が縮むような……そのときわかったの。愛がどれほど恐ろしい苦痛かということが。」
愛は甘いものではない。ここは言葉がない。
最後は、1948年の「四・三事件」虐殺の資料が集まり、その輪郭がはっきりしてくるところ。
「心臓の奥で何かがもう毀損されていて、げっそりとえぐり取られたそこから滲んで出てくる血はもう赤くもないし、ほとばしることもなくて、ぼろぼろになったその切断面で、ただ諦念によってだけ止められる痛みが点滅する……」
こういうものだ。「済州島四・三事件」も、ナチスのユダヤ人殲滅も、ガザのイスラエルによるパレスチナ人虐殺も。どんな人間も、時と場合により、僕を含めて同じことをやるのだ。
キョンハは2014年に、虐殺に関する本を出したのち、悪夢を見るようになり、脳裏に浮かぶ黒い木々の光景が、気がかりになっている。これはたぶん黒焦げになった死体、またはその墓碑のイメージである。
キョンハはどこか良い場所に、墓碑に似た丸木を植えることを思い立ち、それを友人でドキュメンタリー作家のインソンに、短篇映画にすることを依頼する。
インソンはその前から、認知症の母を看取るために、済州島に帰り、母の葬儀の後も、済州島に住み続けている。
あるときインソンから、指を切り落とす事故に遭ったので、病院にいるが、至急合いたいと連絡がある。キョンハは折悪しく吹雪の日に、済州島のインソンの家に行き、エサも水もない捨ておかれてるインコを救ってほしい、と依頼される。
雪が降り続く中、何とかインソンの家に着いたものの、小鳥はすでに死んでおり、キョンハはそれを埋葬する。
しかしそれから、幻とも現実ともつかない中で小鳥は蘇り、さらに事故に遭うまえのインソンが現われて、母親の追い求めた真実を語ろうとする。
というふうにあらすじを記しても、この本を読んだことには、まるでならない。
叙述の段落は、続けて書いてあるところもあれば、1行アキになっているところもある。それだけではなく、アステリスクを入れて、3行アキになっているところもある。
また本文書体が2種類で組まれていて、その区別がよくわからない。独白の文章が、書体を変えてあるかと思うのだが、必ずしもきちんとした区分はしていない。ああ、まったく厄介だ。
そうはいっても、ここで翻訳文体の見本をまったく見せないで、済ますことはできないだろう。
まずインソンが事故で指を切断したというので、キョンハが病院に駆けつけるところ。
「看病人が二本目の針をインソンの中指に刺している間、私はインソンの枕の横に置かれた携帯電話の方へ視線をそらした。包帯を巻いて縛った右手を動かさずに私にメールを送ろうとしてインソンが恐る恐る試した腰、肩、左手の動作を想像した。すぐ来てくれる? 力を振り絞って子音と母音をつなげ、単語と単語の間にスペースを空けて、そうやって二回も尋ねたのだ。でも、よりによってなぜ私だったのだろう?」
韓国の歴史を知らなくとも、この作家について何も知らなくても、吸い込まれるような文体だ。
次はこの作品の要である。滝のそばにインソンと母親がいて、その愛情が厳しいかたちをとる。
「母さんがしゃがんだから私も隣に座ったの。私がいることに気づいて母さんは振り向き、黙って笑いながら私の頬を手のひらで撫でたんだ。続けて、後ろ頭も、肩も、背中も撫でてくれた。重たい、切ない愛が肌を伝って染み込んできたのを覚えてる。背骨に染み、心臓が縮むような……そのときわかったの。愛がどれほど恐ろしい苦痛かということが。」
愛は甘いものではない。ここは言葉がない。
最後は、1948年の「四・三事件」虐殺の資料が集まり、その輪郭がはっきりしてくるところ。
「心臓の奥で何かがもう毀損されていて、げっそりとえぐり取られたそこから滲んで出てくる血はもう赤くもないし、ほとばしることもなくて、ぼろぼろになったその切断面で、ただ諦念によってだけ止められる痛みが点滅する……」
こういうものだ。「済州島四・三事件」も、ナチスのユダヤ人殲滅も、ガザのイスラエルによるパレスチナ人虐殺も。どんな人間も、時と場合により、僕を含めて同じことをやるのだ。
どういうふうに考えればよいか――『別れを告げない』(ハン・ガン、斎藤真理子・訳)(1)
この本について書くのはしんどい。韓国の歴史をほんのわずかでも知っておかないと、これを読むことは難しい。
オビに「2024年 ノーベル文学賞受賞」とあるので、思わず手に取ったが、読み始めても暗中模索、五里霧中なので、「訳者あとがき」から読むことにする。
「〔ハン・ガンは〕『少年が来る』で光州民主化運動(韓国での正式名称。いわゆる「光州事件」)を描いたのに続き、本書は一九四八年に起きた、朝鮮半島の現代史上最大のトラウマというべき済州島四・三事件〔チェジュドよんさんじけん〕(以下、「四・三事件」。なお、韓国では「済州四・三事件」と呼ぶ)をモチーフとしている。」
「光州事件」はもちろん知っている。しかしここを読むまでは、1948年に起きたその事件は知らなかった。韓国の歴史にも韓国文学にも、まったく暗いので、とにかく「訳者あとがき」に沿って進むことにする。
1948年当時、朝鮮半島の南北分断は避けられないものとなり、南だけの単独選挙が、同年5月10日と定められる。
「これに対抗してあくまで南北分断を拒否し、『統一独立と完全な民族解放』をスローガンに掲げ、南労党の若手党員らを中心とする武装隊が四八年四月三日の早朝、武装蜂起を決行した。」
しかし蜂起は済州島だけにとどまり、第1代大統領として李承晩が当選し、8月15日に大韓民国が成立した。
そして「レッド・アイランド」への凄惨な報復がなされる。
「一九四八年十一月には法的根拠もないままに戒厳令が宣布され、『焦土化作戦』が本格化した。放火によって家屋二万戸、約四万棟が焼失、中山間村の九五パーセント以上が灰燼に帰し、住民が大量に虐殺され、約九万人が被災者となった。済州島は文字通り死の島と化した。西青は性暴力を含む凄まじい残虐行為を行い、住民どうしに殺害や密告を強要し、地域のコミュニティをずたずたにした。」
日本も戦争の末期には、「特攻隊」と称して同朋の人間を、ただ無意味に死地に追いやった。しかし「四・三事件」のように、同朋を直接、虐殺することはしていない。
しかも、それだけでは済まなかった。
「一九五〇年に朝鮮戦争が始まると、李承晩大統領は、北朝鮮が侵攻してきた際に呼応する可能性のある人々を『予備検束』し、各地で裁判にもかけずに処刑してしまった。処刑された人々のほとんどは社会主義・共産主義思想などとは縁のない人々だった。」
韓国は、第2次世界大戦が終結してからの方が、大変だったのだ。同一の民族が、半島を挟んで敵対するのだから、当たり前といえは当たり前か。
「済州島の人々は、『アカだと思われるのではないか』『罠にかけられてアカにされるのではないか』という恐怖に囚われて委縮し、保守化し、済州島は長い間、与党の票田といわれつづけた。
一度の例外が、一九六〇年の四・一九革命直後の時期だった。このとき一時的に吹いた民主化の嵐の中で、済州島でも真相究明の動きが見られた。」
そこでようやく、真相が究明されるかと思われたが、そうはならなかった。
「遺族たちの怒りは激越であり、法に背いて多くの人を殺害した者を処断するための特別法制定を求めたが、六一年に朴正熙による軍事クーデターが起こると全国の遺族会の幹部らが拘束され、〔中略〕死刑宣告を受けた人もあった(後に減刑)。」
どんなに明るみに出そうとしても、どこまでも歴史を隠蔽する力がはたらく。こういうのは、どうすればいいんだろう。
「朝鮮民主主義人民共和国もこの事件を南労党の路線の誤りとして退けたため、南北双方の民族団体でこの事件に触れることはきわめて制限されてきた。また体験者たちも真相を口にすることはなかった。」
こうして「四・三事件」は、朝鮮人にとって心の闇、トラウマになった。
本書の2人の女性の、わずか数日間の物語は、ここまで述べてきたことを、背景にしているのである。
オビに「2024年 ノーベル文学賞受賞」とあるので、思わず手に取ったが、読み始めても暗中模索、五里霧中なので、「訳者あとがき」から読むことにする。
「〔ハン・ガンは〕『少年が来る』で光州民主化運動(韓国での正式名称。いわゆる「光州事件」)を描いたのに続き、本書は一九四八年に起きた、朝鮮半島の現代史上最大のトラウマというべき済州島四・三事件〔チェジュドよんさんじけん〕(以下、「四・三事件」。なお、韓国では「済州四・三事件」と呼ぶ)をモチーフとしている。」
「光州事件」はもちろん知っている。しかしここを読むまでは、1948年に起きたその事件は知らなかった。韓国の歴史にも韓国文学にも、まったく暗いので、とにかく「訳者あとがき」に沿って進むことにする。
1948年当時、朝鮮半島の南北分断は避けられないものとなり、南だけの単独選挙が、同年5月10日と定められる。
「これに対抗してあくまで南北分断を拒否し、『統一独立と完全な民族解放』をスローガンに掲げ、南労党の若手党員らを中心とする武装隊が四八年四月三日の早朝、武装蜂起を決行した。」
しかし蜂起は済州島だけにとどまり、第1代大統領として李承晩が当選し、8月15日に大韓民国が成立した。
そして「レッド・アイランド」への凄惨な報復がなされる。
「一九四八年十一月には法的根拠もないままに戒厳令が宣布され、『焦土化作戦』が本格化した。放火によって家屋二万戸、約四万棟が焼失、中山間村の九五パーセント以上が灰燼に帰し、住民が大量に虐殺され、約九万人が被災者となった。済州島は文字通り死の島と化した。西青は性暴力を含む凄まじい残虐行為を行い、住民どうしに殺害や密告を強要し、地域のコミュニティをずたずたにした。」
日本も戦争の末期には、「特攻隊」と称して同朋の人間を、ただ無意味に死地に追いやった。しかし「四・三事件」のように、同朋を直接、虐殺することはしていない。
しかも、それだけでは済まなかった。
「一九五〇年に朝鮮戦争が始まると、李承晩大統領は、北朝鮮が侵攻してきた際に呼応する可能性のある人々を『予備検束』し、各地で裁判にもかけずに処刑してしまった。処刑された人々のほとんどは社会主義・共産主義思想などとは縁のない人々だった。」
韓国は、第2次世界大戦が終結してからの方が、大変だったのだ。同一の民族が、半島を挟んで敵対するのだから、当たり前といえは当たり前か。
「済州島の人々は、『アカだと思われるのではないか』『罠にかけられてアカにされるのではないか』という恐怖に囚われて委縮し、保守化し、済州島は長い間、与党の票田といわれつづけた。
一度の例外が、一九六〇年の四・一九革命直後の時期だった。このとき一時的に吹いた民主化の嵐の中で、済州島でも真相究明の動きが見られた。」
そこでようやく、真相が究明されるかと思われたが、そうはならなかった。
「遺族たちの怒りは激越であり、法に背いて多くの人を殺害した者を処断するための特別法制定を求めたが、六一年に朴正熙による軍事クーデターが起こると全国の遺族会の幹部らが拘束され、〔中略〕死刑宣告を受けた人もあった(後に減刑)。」
どんなに明るみに出そうとしても、どこまでも歴史を隠蔽する力がはたらく。こういうのは、どうすればいいんだろう。
「朝鮮民主主義人民共和国もこの事件を南労党の路線の誤りとして退けたため、南北双方の民族団体でこの事件に触れることはきわめて制限されてきた。また体験者たちも真相を口にすることはなかった。」
こうして「四・三事件」は、朝鮮人にとって心の闇、トラウマになった。
本書の2人の女性の、わずか数日間の物語は、ここまで述べてきたことを、背景にしているのである。
奇跡の小説――『ストーナー』(ジョン・ウィリアムズ、東江一紀・訳、布施由紀子・翻訳補助)(3)
2人の結婚については、次の数行が全体を尽くしている。
「一カ月も経たないうちに、ストーナーは自分の結婚生活が失敗だったことを覚った。一年後には、改善への希望を持つこともやめていた。沈黙を学び、愛を事挙げすることもなくなった。やわな心情に駆られて、話しかけたり手を触れたりすると、イーディスはそっぽを向いて自分の殻にこもり、寡黙で我慢強くなって、その後数日間、消耗の新たな限界まで自分を駆りたてた。」
こういう結婚ならやめればいいと思うのだが、ストーナーは別れようとはしない。
イーディスは結婚する前に、私は良い妻になるために努力します、とストーナーに何度か約束している。
『ストーナー』の唯一の欠陥は、イーディスの一貫しない、不可解な振る舞いである。結婚前と後の行動が、1人の人間として筋が通っていない。
そんな結婚生活を送るストーナーが、42歳のとき恋に落ちる。そして恋を知った男が、昨日までの自分を省みる。
「自分が今まで、他者の体についてまったく無知だったことに思い至った。そしてまた、その無知ゆえに、いつも他者の自我を、自我の器である肉体から切り離して考えてしまっていたことにも……。さらには、他者を知るという営みの中に、いかなる親密さも、いかなる信頼も、いかなる人間的な温かみも介在させてこなかったという決定的な事実にまで……。」
ストーナーは、とにかくよく反省する。それが人間の成長を描く、この小説の魅力である。
しかし結婚に関しては、ストーナーの反省よりも、イーディスの不可解な行動の方を、剔抉すべきなのだ。
そしてここに至って、これはストーナーの燃えるような恋を、正当化するためにしつらえた設定、それもやや無理のある設定ではないか、と思い至る。
まあ、すべてが無理のないようにすれば、人は小説の中で生きることはできない。あるいはそういう小説は、実に退屈なものだろう。
ストーナーと聴講生のキャサリンの最後の一日、肉体が結ばれた日の翌朝のこと。
「ストーナーが去ったあと、夜のあいだに起き出したキャサリンは、荷物をまとめ、本を箱に詰めて、アパートの管理人にその送り先を言い残した。自分の口座の成績表、その週と学期の残り半分の休校届、退職願を封筒に入れ、英文学科に郵送した。そして、午後二時には、コロンビアを離れる列車に乗っていた。」
キャサリンもまた、すべてを飲み込んで去っていく。キャサリンとストーナーは貫目が合っている(©車谷長吉)。
そして、別れがこのようなものであればあるほど、肉の交わりは燃え尽くすのだ。しかしその文章を引くことはしない。
去っていくキャサリンに、別れの手紙のなかったことが、ストーナーには有り難かった。
この後も、子供のことで苦悩したり、研究と講義の内容で悩んだり、60過ぎで死ぬまで、ストーナーは誠実に生きようとする。
こんな小説もあるのだ。2014年に初版が出て、2024年には32刷が出ている。10年間、だいたい毎年3回、重版をしている。まったく知らなかった。
何度も言うとおり、日本人は、とくに日本の年寄りは、本を読まない。そんな国で『ストーナー』という、味も素っ気もないタイトルの本が、毎年3度、重版している。ほとんど奇蹟としか思えない。
(『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ、東江一紀・訳、布施由紀子・翻訳補助、
作品社、2014年9月30日初刷、2024年11月30日第32刷)
「一カ月も経たないうちに、ストーナーは自分の結婚生活が失敗だったことを覚った。一年後には、改善への希望を持つこともやめていた。沈黙を学び、愛を事挙げすることもなくなった。やわな心情に駆られて、話しかけたり手を触れたりすると、イーディスはそっぽを向いて自分の殻にこもり、寡黙で我慢強くなって、その後数日間、消耗の新たな限界まで自分を駆りたてた。」
こういう結婚ならやめればいいと思うのだが、ストーナーは別れようとはしない。
イーディスは結婚する前に、私は良い妻になるために努力します、とストーナーに何度か約束している。
『ストーナー』の唯一の欠陥は、イーディスの一貫しない、不可解な振る舞いである。結婚前と後の行動が、1人の人間として筋が通っていない。
そんな結婚生活を送るストーナーが、42歳のとき恋に落ちる。そして恋を知った男が、昨日までの自分を省みる。
「自分が今まで、他者の体についてまったく無知だったことに思い至った。そしてまた、その無知ゆえに、いつも他者の自我を、自我の器である肉体から切り離して考えてしまっていたことにも……。さらには、他者を知るという営みの中に、いかなる親密さも、いかなる信頼も、いかなる人間的な温かみも介在させてこなかったという決定的な事実にまで……。」
ストーナーは、とにかくよく反省する。それが人間の成長を描く、この小説の魅力である。
しかし結婚に関しては、ストーナーの反省よりも、イーディスの不可解な行動の方を、剔抉すべきなのだ。
そしてここに至って、これはストーナーの燃えるような恋を、正当化するためにしつらえた設定、それもやや無理のある設定ではないか、と思い至る。
まあ、すべてが無理のないようにすれば、人は小説の中で生きることはできない。あるいはそういう小説は、実に退屈なものだろう。
ストーナーと聴講生のキャサリンの最後の一日、肉体が結ばれた日の翌朝のこと。
「ストーナーが去ったあと、夜のあいだに起き出したキャサリンは、荷物をまとめ、本を箱に詰めて、アパートの管理人にその送り先を言い残した。自分の口座の成績表、その週と学期の残り半分の休校届、退職願を封筒に入れ、英文学科に郵送した。そして、午後二時には、コロンビアを離れる列車に乗っていた。」
キャサリンもまた、すべてを飲み込んで去っていく。キャサリンとストーナーは貫目が合っている(©車谷長吉)。
そして、別れがこのようなものであればあるほど、肉の交わりは燃え尽くすのだ。しかしその文章を引くことはしない。
去っていくキャサリンに、別れの手紙のなかったことが、ストーナーには有り難かった。
この後も、子供のことで苦悩したり、研究と講義の内容で悩んだり、60過ぎで死ぬまで、ストーナーは誠実に生きようとする。
こんな小説もあるのだ。2014年に初版が出て、2024年には32刷が出ている。10年間、だいたい毎年3回、重版をしている。まったく知らなかった。
何度も言うとおり、日本人は、とくに日本の年寄りは、本を読まない。そんな国で『ストーナー』という、味も素っ気もないタイトルの本が、毎年3度、重版している。ほとんど奇蹟としか思えない。
(『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ、東江一紀・訳、布施由紀子・翻訳補助、
作品社、2014年9月30日初刷、2024年11月30日第32刷)
奇跡の小説――『ストーナー』(ジョン・ウィリアムズ、東江一紀・訳、布施由紀子・翻訳補助)(2)
粗筋を記す。
ウィリアム・ストーナーは1910年、貧しい農家に生まれ、ミズーリ大学農学部に入るが、そこで英文学と出会って専攻を変え、卒業後は母校の大学教師に迎えられる。しかし学内人事では器用に立ち回ることができず、冷遇されたままで終わる。
私生活では一目惚れした女性を妻とするが、うまくいかず、ずっと年下の聴講生と、燃えるような恋をする。しかし妻と別れることはできず、大学を定年退官したのち、すぐに癌で死去する。
これはどう考えても、アメリカでベストセラーになる要素はない。
本書の書き出しはこうだ。
「ウィリアム・ストーナーは、一九一〇年、十九歳でミズーリ大学に入学した。その八年後、第一次世界大戦の末期に博士号を授かり、母校の専任講師の職に就いて、一九五六年に死ぬまで教壇に立ち続けた。終生、助教授より上の地位に昇ることはなく、授業を受けた学生たちの中にも、彼を鮮明に覚えている者はほとんどいなかった。」
報道の文章のようで質実剛健、骨太で色気がない。やっぱりベストセラーにはなりにくい。
ストーナーが、大学での専攻を変えるところ。
「その年度の第二学期、ウィリアム・ストーナーは基礎科学課程を離脱し、農学部生としての履修を中断して、哲学と古代史の入門課程と二講座の英文学を受講することにした。夏にはまた両親の農場に帰り、父の畑仕事を手伝ったが、学業については口にしなかった。」
文体は一貫して抑えられており、小説というよりは、ノンフイクションに近い。
そこにこんな文章が入る。根を詰めた勉強の合間に、ふと両親のことを思い出して。
「ストーナーは歯がゆい憐れみと遠い慕わしさを覚えた。」
思わず鋭い痛みを覚えるが、ここが文章として浮き上がることはない。むしろ全体の中で、よく調和している。トーンが一貫しているのだ。
1917年、第1次世界大戦が起こる。アメリカはドイツと戦うために、兵を募集する。ストーナーの周りでも、大学生で参戦する者が出てくる。
「内省に心を貸す習慣のまったくないストーナーにとって、自分の行動理由を吟味する作業は手ごわく、やや不快でもあった。自分自身に対して差し出せるものがほとんどなく、自分自身の中に見出せるものもほとんどないことを実感させられた。」
正直で好感が持てる。しかしそれ以上に、文体に特徴がある。このときストーナーは、ドイツとの戦いには参加しなかった。
次はイーディスに一目ぼれするところ。
「ストーナーをとらえ、釘付けにしたのは、その瞳だった。とても大きく、思い浮かぶかぎりで最も淡い色合いの青。それを見ていると、魂が自分の体を離れて、解けない謎の深みへ吸い込まれていきそうだった。」
一目ぼれするときは、必ずそういうふうになる。誰でもそうなる。彼女はやがて、ストーナーの妻になる。
僕がわずかに疑問を持つのは、この女性に関してだが、それは後に回そう。
イーディスについては、内面にまで踏み込んだ分析がある。
「学校と家庭の両方で受けた道徳教育は、姿勢としては消極的、意図としては禁欲的で、ほぼ全面に性意識の縛りが認められた。ただし、その性意識は遠回しの非自覚的なものとして、教育のそれ以外の部分に浸透し、言葉にされない退行的な倫理観がしつけのエネルギーになっていた。」
わずか数行で、若い女性の芯に何があったかを、見事に解き明かしている。
そしてイーディスはこの先、どういう役目を負うかを考える。
「イーディスは、自分が将来、夫と家族に対する義務を負うことと、その義務を果たさなくてはならないことを学んだ。」
ここは物語全体を通して、唯一、ジョン・ウィリアムズが真実を書かなかったところだ。イーディスは妻としては、どうにもしようのない女だった。
女のことはまったく分からずに、一目惚れすると、こういうことになりやすい。
ウィリアム・ストーナーは1910年、貧しい農家に生まれ、ミズーリ大学農学部に入るが、そこで英文学と出会って専攻を変え、卒業後は母校の大学教師に迎えられる。しかし学内人事では器用に立ち回ることができず、冷遇されたままで終わる。
私生活では一目惚れした女性を妻とするが、うまくいかず、ずっと年下の聴講生と、燃えるような恋をする。しかし妻と別れることはできず、大学を定年退官したのち、すぐに癌で死去する。
これはどう考えても、アメリカでベストセラーになる要素はない。
本書の書き出しはこうだ。
「ウィリアム・ストーナーは、一九一〇年、十九歳でミズーリ大学に入学した。その八年後、第一次世界大戦の末期に博士号を授かり、母校の専任講師の職に就いて、一九五六年に死ぬまで教壇に立ち続けた。終生、助教授より上の地位に昇ることはなく、授業を受けた学生たちの中にも、彼を鮮明に覚えている者はほとんどいなかった。」
報道の文章のようで質実剛健、骨太で色気がない。やっぱりベストセラーにはなりにくい。
ストーナーが、大学での専攻を変えるところ。
「その年度の第二学期、ウィリアム・ストーナーは基礎科学課程を離脱し、農学部生としての履修を中断して、哲学と古代史の入門課程と二講座の英文学を受講することにした。夏にはまた両親の農場に帰り、父の畑仕事を手伝ったが、学業については口にしなかった。」
文体は一貫して抑えられており、小説というよりは、ノンフイクションに近い。
そこにこんな文章が入る。根を詰めた勉強の合間に、ふと両親のことを思い出して。
「ストーナーは歯がゆい憐れみと遠い慕わしさを覚えた。」
思わず鋭い痛みを覚えるが、ここが文章として浮き上がることはない。むしろ全体の中で、よく調和している。トーンが一貫しているのだ。
1917年、第1次世界大戦が起こる。アメリカはドイツと戦うために、兵を募集する。ストーナーの周りでも、大学生で参戦する者が出てくる。
「内省に心を貸す習慣のまったくないストーナーにとって、自分の行動理由を吟味する作業は手ごわく、やや不快でもあった。自分自身に対して差し出せるものがほとんどなく、自分自身の中に見出せるものもほとんどないことを実感させられた。」
正直で好感が持てる。しかしそれ以上に、文体に特徴がある。このときストーナーは、ドイツとの戦いには参加しなかった。
次はイーディスに一目ぼれするところ。
「ストーナーをとらえ、釘付けにしたのは、その瞳だった。とても大きく、思い浮かぶかぎりで最も淡い色合いの青。それを見ていると、魂が自分の体を離れて、解けない謎の深みへ吸い込まれていきそうだった。」
一目ぼれするときは、必ずそういうふうになる。誰でもそうなる。彼女はやがて、ストーナーの妻になる。
僕がわずかに疑問を持つのは、この女性に関してだが、それは後に回そう。
イーディスについては、内面にまで踏み込んだ分析がある。
「学校と家庭の両方で受けた道徳教育は、姿勢としては消極的、意図としては禁欲的で、ほぼ全面に性意識の縛りが認められた。ただし、その性意識は遠回しの非自覚的なものとして、教育のそれ以外の部分に浸透し、言葉にされない退行的な倫理観がしつけのエネルギーになっていた。」
わずか数行で、若い女性の芯に何があったかを、見事に解き明かしている。
そしてイーディスはこの先、どういう役目を負うかを考える。
「イーディスは、自分が将来、夫と家族に対する義務を負うことと、その義務を果たさなくてはならないことを学んだ。」
ここは物語全体を通して、唯一、ジョン・ウィリアムズが真実を書かなかったところだ。イーディスは妻としては、どうにもしようのない女だった。
女のことはまったく分からずに、一目惚れすると、こういうことになりやすい。
奇跡の小説――『ストーナー』(ジョン・ウィリアムズ、東江一紀・訳、布施由紀子・翻訳補助)(1)
1965年、デンヴァー大学の教授、ジョン・ウィリアムズが、小説『ストーナー』を著わす。今から約50年前のことだ。
この小説は、その後『ニューヨーカー』で書評された後、細々と読まれていたが、作者の死とともに忘れられてしまう。
2006年に、ニューヨーク・レヴュー・オヴ・ブックス社が復刊し、そこそこの評価は得たものの、アメリカ本国では、多くの読者は獲得できなかった。
以下は布施由紀子の「訳者あとがきに代えて」から引く。
「だが数年後、フランスの人気作家アンナ・ガヴァルダがこの小説を読んで感動し、どうしても翻訳したいと出版社に持ちかけた。二〇一一年に彼女による訳書が刊行されると、『ストーナー』はたちまちフランスでベストセラーとなった。〔中略〕翌年には近隣各国で翻訳出版が相次いで、オランダ、イタリア、イスラエル、スペイン、ドイツでも訳書がベストセラーリスト入りを果たした。」
こういうこともあるのだ。『ストーナー』の快進撃はさらに続く。
「二〇一三年七月には、イギリスの作家イアン・マキューアンがBBCのラジオ番組『トゥデイ』に出演して『ストーナー』を絶賛したことから、イギリス、さらには本国アメリカでも人気に火がつき、数日後にはアマゾンで、わずか四時間のあいだに一千部以上を売り上げるという驚異的な記録をたたき出した。」
ちょっとしたシンデレラストーリーである。
しかもこの小説には、日本語版独自の物語もある。もう一度、見出しをよく見てほしい。「東江一紀・訳、布施由紀子・翻訳補助」。
布施由紀子は奥付では「編集協力」となっているが、僕が「翻訳補助」の方が分かりやすいと思い、そういうふうに変えた。
東江一紀と布施由紀子は、翻訳仕事上の子弟である。東江は癌で、7年間の闘病の末、2014年6月に亡くなった。これは最後の仕事だったのだ。
またも「訳者あとがきに代えて」から引こう。
「亡くなられる一カ月ほど前には、本書の翻訳は残り五十五ページのところまで来ていた。緩和ケアに入られてからも、先生はご家族の献身的な看護を受けながら翻訳に取り組まれた。万一のときはあとを頼むと託され、私が毎日、先生からメールで送られてくる原稿をお預かりした。〔中略〕先生は少しずつ、わずか数行しか進まない日があっても、休むことなく一語一語をいとおしむように訳してゆかれた。最後は意識の混濁と闘いつつ、ご家族に口述筆記を頼んで訳了をめざされたが、とうとう一ページを残して力尽き、翌日に息を引き取られた。壮絶な戦いぶりだった。」
東江一紀は、62歳で他界した。
翻訳をめぐるこういうドラマは、テキストに、何とも言えない不思議な力を与える(ことがある)。
布施由紀子は、東江一紀が、この小説のどういうところに魅力を感じていたかを、端的に述べている。
「精緻な文体で綴られるがゆえに、ストーリーを語る声に温かさがにじむ。東江先生は本書を生涯最後の仕事として選び、その文体に挑まれたのである。」
そう、その文体が日本語に直しても、言いようもないくらい白眉なのである。
しかし、一足飛びに結論を急いではいけない。まずはそのストーリーから。
この小説は、その後『ニューヨーカー』で書評された後、細々と読まれていたが、作者の死とともに忘れられてしまう。
2006年に、ニューヨーク・レヴュー・オヴ・ブックス社が復刊し、そこそこの評価は得たものの、アメリカ本国では、多くの読者は獲得できなかった。
以下は布施由紀子の「訳者あとがきに代えて」から引く。
「だが数年後、フランスの人気作家アンナ・ガヴァルダがこの小説を読んで感動し、どうしても翻訳したいと出版社に持ちかけた。二〇一一年に彼女による訳書が刊行されると、『ストーナー』はたちまちフランスでベストセラーとなった。〔中略〕翌年には近隣各国で翻訳出版が相次いで、オランダ、イタリア、イスラエル、スペイン、ドイツでも訳書がベストセラーリスト入りを果たした。」
こういうこともあるのだ。『ストーナー』の快進撃はさらに続く。
「二〇一三年七月には、イギリスの作家イアン・マキューアンがBBCのラジオ番組『トゥデイ』に出演して『ストーナー』を絶賛したことから、イギリス、さらには本国アメリカでも人気に火がつき、数日後にはアマゾンで、わずか四時間のあいだに一千部以上を売り上げるという驚異的な記録をたたき出した。」
ちょっとしたシンデレラストーリーである。
しかもこの小説には、日本語版独自の物語もある。もう一度、見出しをよく見てほしい。「東江一紀・訳、布施由紀子・翻訳補助」。
布施由紀子は奥付では「編集協力」となっているが、僕が「翻訳補助」の方が分かりやすいと思い、そういうふうに変えた。
東江一紀と布施由紀子は、翻訳仕事上の子弟である。東江は癌で、7年間の闘病の末、2014年6月に亡くなった。これは最後の仕事だったのだ。
またも「訳者あとがきに代えて」から引こう。
「亡くなられる一カ月ほど前には、本書の翻訳は残り五十五ページのところまで来ていた。緩和ケアに入られてからも、先生はご家族の献身的な看護を受けながら翻訳に取り組まれた。万一のときはあとを頼むと託され、私が毎日、先生からメールで送られてくる原稿をお預かりした。〔中略〕先生は少しずつ、わずか数行しか進まない日があっても、休むことなく一語一語をいとおしむように訳してゆかれた。最後は意識の混濁と闘いつつ、ご家族に口述筆記を頼んで訳了をめざされたが、とうとう一ページを残して力尽き、翌日に息を引き取られた。壮絶な戦いぶりだった。」
東江一紀は、62歳で他界した。
翻訳をめぐるこういうドラマは、テキストに、何とも言えない不思議な力を与える(ことがある)。
布施由紀子は、東江一紀が、この小説のどういうところに魅力を感じていたかを、端的に述べている。
「精緻な文体で綴られるがゆえに、ストーリーを語る声に温かさがにじむ。東江先生は本書を生涯最後の仕事として選び、その文体に挑まれたのである。」
そう、その文体が日本語に直しても、言いようもないくらい白眉なのである。
しかし、一足飛びに結論を急いではいけない。まずはそのストーリーから。
オーラル・ヒストリーの力作――『外岡秀俊という新聞記者がいた』(及川智洋)(7)
ここからはメディアの未来の予測である。新聞・雑誌、テレビが凋落していった原因は、どこにあるのか。
それはまずグーグルである。
「グーグルの衝撃がなぜ大きかったかというと、広告をクリックして購買活動までつながったかどうか、それが分かる仕組みを作った。今までは広告を投入してどれくらい売れたかという因果関係を証明する数値がまったくなかったから。」
これまでは広告代理店が、新聞は権威があり部数も大きいから、広告効果は絶大である、と言いくるめてきた。
「それが全部データで出るようになった。しかも年齢層とか性別とか、属性も分かる。それが一番大きかった。太刀打ちできない。既存メディアの凋落という意味ではね。」
旧メディアの凋落は、ここが最大のポイントである。
しかし外岡は、それにもかかわらず、新聞は残っていくだろうと予測する。それはなぜか?
「日本の場合は特に、文化形成にかかわっているから。明治時代に富国強兵と殖産興業で文化教育に回すお金はなかった、日本は。そのときに一番力を発揮したのが、尋常小学校のシステムと新聞ですよ。新聞で当時はみんなルビを振っていたので、ひらがなさえ知っていれば漢字を覚えられた。」
なるほど、教育手段としての新聞だったわけだ。それが戦後どうなるか。
「義務教育のレベルは中学までになった。そうすると中学までの用字制限で新聞は書いている。依然として新しいこととか、外国のこととか住んでいない地域のことを、新聞を通じて知るということが日本では一般的でした。あるクラス、階層、階級しか読まないのが欧米の新聞ですから、国民新聞として誰もが読むという習慣から日本では切り離すことはできない。」
だから新聞はなくならないだろう、と外岡は言う。
これはたぶん間違っている。三大紙やそれに準ずるクラスでは、すでに一県まるまるその新聞が無くなったところや、東京でも23区以外は、夕刊が届かなくなったところがある。そしてこれは、徐々に拡大しているはずだ。
これは恐ろしいことだ。この前の東京都知事選挙で2位に入った石丸伸二、あるいは兵庫県知事をリコールされて、それでも舞い戻った斎藤元彦などは、SNSを主戦場にしていた。それはトランプ大統領も同じことであろう。
この人たちに投票した人は、たぶん新聞を読まない。これをもう一度、新聞を読むようにしようといっても、無理である。
ここから先は、「新聞の将来」ではなく、「メディアの将来」という広い視点でないと、それこそ将来を誤る。しかもそれは緊急の課題である。
新聞もテレビも見たことがない若者が、この時代には大勢いるのだ。その若者としゃべってみると、本当に絶句するのみだ。それは、「なんてバカなんだ」では済まない問題なのだ。
しかしそこは、この本の範疇を超えている。
外岡秀俊という新聞記者には、会ってみたかったと思う。何よりも、その正直さがいい。みすずのOさんや、新潮社のSさんが、原稿を書いてほしいと願った気持が、分かる気がする。
(『外岡秀俊という新聞記者がいた』及川智洋、田畑書店、2024年5月11日初刷)
それはまずグーグルである。
「グーグルの衝撃がなぜ大きかったかというと、広告をクリックして購買活動までつながったかどうか、それが分かる仕組みを作った。今までは広告を投入してどれくらい売れたかという因果関係を証明する数値がまったくなかったから。」
これまでは広告代理店が、新聞は権威があり部数も大きいから、広告効果は絶大である、と言いくるめてきた。
「それが全部データで出るようになった。しかも年齢層とか性別とか、属性も分かる。それが一番大きかった。太刀打ちできない。既存メディアの凋落という意味ではね。」
旧メディアの凋落は、ここが最大のポイントである。
しかし外岡は、それにもかかわらず、新聞は残っていくだろうと予測する。それはなぜか?
「日本の場合は特に、文化形成にかかわっているから。明治時代に富国強兵と殖産興業で文化教育に回すお金はなかった、日本は。そのときに一番力を発揮したのが、尋常小学校のシステムと新聞ですよ。新聞で当時はみんなルビを振っていたので、ひらがなさえ知っていれば漢字を覚えられた。」
なるほど、教育手段としての新聞だったわけだ。それが戦後どうなるか。
「義務教育のレベルは中学までになった。そうすると中学までの用字制限で新聞は書いている。依然として新しいこととか、外国のこととか住んでいない地域のことを、新聞を通じて知るということが日本では一般的でした。あるクラス、階層、階級しか読まないのが欧米の新聞ですから、国民新聞として誰もが読むという習慣から日本では切り離すことはできない。」
だから新聞はなくならないだろう、と外岡は言う。
これはたぶん間違っている。三大紙やそれに準ずるクラスでは、すでに一県まるまるその新聞が無くなったところや、東京でも23区以外は、夕刊が届かなくなったところがある。そしてこれは、徐々に拡大しているはずだ。
これは恐ろしいことだ。この前の東京都知事選挙で2位に入った石丸伸二、あるいは兵庫県知事をリコールされて、それでも舞い戻った斎藤元彦などは、SNSを主戦場にしていた。それはトランプ大統領も同じことであろう。
この人たちに投票した人は、たぶん新聞を読まない。これをもう一度、新聞を読むようにしようといっても、無理である。
ここから先は、「新聞の将来」ではなく、「メディアの将来」という広い視点でないと、それこそ将来を誤る。しかもそれは緊急の課題である。
新聞もテレビも見たことがない若者が、この時代には大勢いるのだ。その若者としゃべってみると、本当に絶句するのみだ。それは、「なんてバカなんだ」では済まない問題なのだ。
しかしそこは、この本の範疇を超えている。
外岡秀俊という新聞記者には、会ってみたかったと思う。何よりも、その正直さがいい。みすずのOさんや、新潮社のSさんが、原稿を書いてほしいと願った気持が、分かる気がする。
(『外岡秀俊という新聞記者がいた』及川智洋、田畑書店、2024年5月11日初刷)