では、ざっと思いつく疑問を挙げてみよう。
「体験型授業」では、1人1人の学生が主人公を務めるのかどうか、それだと生徒の数だけ、さまざまな体験があることになるが。
主人公が男の場合、たとえば「新名翠(にいな・みどり)」のような女はどうなるのか、男の役をやるのかどうか。逆に主人公が女の場合、「湯浦葵(ゆうら・あおい)」は、女の役割をすることになるのか。
「湯浦葵」が主役を務めるとき、「入谷陸(いりや・りく)」や「新名翠」のような脇役は、常に脇役なのか。では「入谷陸」の「体験」では、「湯浦葵」はわき役に回るのか。
でもそんな疑問は、全部打っちゃってかまわない、そんなことはどうでもいいのである。奈倉有里は、そんなふうに考えている。
著者としては実に無責任だが、主役が満足すれば、そして著者がそれで満足すれば、後はどうでもいいではないか。
これは言ってみれば、仲間うちで文学作品について、雑談するときの構えに近い。学生のときも、老年になってからも、気の合う友達といれば、これは変わらずにあることだ。
ただそういう場合、お互いに軽口をたたき合って、ともすればいい加減なところに落ちていきやすいのだが、それを踏ん張るのが著者の力量である。
批評の体裁を取らず、小説や詩をそのまま再現するのは、ふつうは怖くてできない。
それをやすやすと再現してみせるのは、ただもうすごいと思う。ゴーゴリやプーシキン、ドストエフスキーあたりに、俺はそんなつもりで書いたのではない、と言われたら、どうするつもりなんだろう。
しかしそんなことはどうでもよい、私はこういうふうに受け取った、それが何よりも大事なことなのだから、という自信なのだろう。
その根底には、次のような確信がある。
「世界のいろいろなところでロシア文学を忌避したり、教育のカリキュラムから外す動きがあるという記事が目に入った。プーシキンの名前もある。奇妙なニュースだ。誰が、何の権利があって、文学に対して断罪する側の立場を取ろうとするのだろう。ナチスドイツが悪いからといって、ゲーテや、あろうことか平和運動をしていたヘッセまでもをドイツ語を理由に切り捨てるというような過ちを、また繰り返すのか。罪を問われるべきなのは、こんな未来を作りだしてしまった人類のほうなんじゃないのか。」
素晴らしい。誰もここまでは言えなかった。ほとんど神にも等しい立場だといえるが、しかし人が極点まで行けば、このような言葉も出てくるのだ。
第四講のゲルツェン『向こう岸から』では、「枚下先生」がこんなことを言う。
「そもそもゲルツェンは人がなにかしらの大義名分によって思想が硬直的になって生身の人間が見えなくなり、肝心の人間のほうが虐げられるような構造に対しては極めて批判的でした。なに主義であれ、それがある社会において規範として神のようにあがめられるようになれば、その立場を唯一絶対だと主張する者たちが、人の命すらたやすく殺めるようになる。」
これは文学が到達した、真理の1つである。
仏文の渡辺一夫先生を思い出す。血で血を洗うヨーロッパ宗教戦争の時代、それを研究することによって、日本軍の狂気を二重写しにしたのだった。これはいつでも、人間が陥りやすい陥穽なのだ。
なんと、面白かった!――『ロシア文学の教室』(奈倉有里)(1)
編集者のOさんと話していたら、奈倉有里は面白いということで、話が弾んだ。
そのとき、そういえば『ロシア文学の教室』も面白かったなあ、とOさんが言ったので印象に残った。
ロシア文学は、ほんとに僅かしか読んでいない。ドストエフスキーの小説を4,5本、トルストイのものを3本、あとはチェーホフの短篇をいくつか、という具合で、まだいくつかあるといったって、しれたものだ。
ここで新しい世界に踏み込んでいくのは、ちょっとつらい話だ。でも、Oさんの口ぶりは、いかにも面白そうだった。
『文學界』に連載されたものが、新書になるという点も、興味を惹いた。それでついふらふらと買ってしまった。
読み始めてみると、これは驚くべき結構を持っていた。カバー表袖の惹句から。
「読者を作品世界にいざなう不思議な『体験型』授業を通じて、この戦争の時代を考えるよすがを教えてくれる青春小説にして異色のロシア文学入門。」
想像できないと思うが、これがまったくその通りなのである。
「枚下(まいした)先生」のもと、「湯浦葵(ゆうら・あおい)」「新名翠(にいな・みどり)」「入谷陸(いりや・りく)」といった若者たちが、それぞれ作家の世界に、ふと気が付くと入り込んでしまう。
「枚下先生」はマイスター(巨匠)のもじり、生徒も、ロシアの人名のもじりである。
奈倉有里は『夕暮れに夜明けの歌を』で、アントーノフ先生の授業を体験した後、雷に撃たれたように動けなくなった。それはこんな授業だった。
「学生たちはいかにその直前までわいわいがやがやとしていても、先生が話をはじめるとすうっと教壇に気配を吸いとられるように透明になる。授業のはじまりはいつも、まるで劇場の幕があがる瞬間だった。魅了される観客と化した学生は、息を呑んで前を見つめる。」
『ロシア文学の教室』は、その授業を誇張して再現したものか。ついついそういうふうに思ってしまう。
章立て構成は、次の通り。
ゴーゴリ『ネフスキイ大通り』
プーシキン『盗賊の兄弟』と抒情詩
ドストエフスキー『白夜』
アレクサンドル・ゲルツェン『向こう岸から』
ミハイル・レールモントフ『悪魔』
ゴンチャロフ『オプローモフ』
ツルゲーネフ『父と子』
ニコライ・ネクラーソフ『ロシアは誰に住みよいか』
チェーホフ『初期短編集』
ゴーリキー『どん底』
ガルシン『アッタレア・プリンケブス』ほか
トルストイ『復活』
各章には「第一講 大通りの幻」、「第二講 仄暗い森のなか」、「第三講 孤独な心のひらきかた」……といった、気の利いた見出しが付けられている。
そして「体験型授業」は次の通り。
「ふっと意識が遠のき、音の世界に吸い込まれるのを感じる。まずい。今日は枚下先生が教室に入ってくるところを見届けようと思っていたのに……。
僕はイリヤよりも五つ歳下で、僕たちは二人きりの兄弟だった。親も頼れる人もいなくて誰からも邪魔者あつかいされるみじめな暮らし。子供らしい遊びも楽しみも知らず、ごく幼いころに初めて覚えた感覚は、極度のひもじさと、人の温もりや食べ物に困らない人たちへのじりじりとするようなうらやましさだった。」
「第二講 プーシキン『盗賊の兄弟』」を体験する授業の、舞台が転換する瞬間である。
ここだけでも、読者の疑問はワンサと出そうである。
そのとき、そういえば『ロシア文学の教室』も面白かったなあ、とOさんが言ったので印象に残った。
ロシア文学は、ほんとに僅かしか読んでいない。ドストエフスキーの小説を4,5本、トルストイのものを3本、あとはチェーホフの短篇をいくつか、という具合で、まだいくつかあるといったって、しれたものだ。
ここで新しい世界に踏み込んでいくのは、ちょっとつらい話だ。でも、Oさんの口ぶりは、いかにも面白そうだった。
『文學界』に連載されたものが、新書になるという点も、興味を惹いた。それでついふらふらと買ってしまった。
読み始めてみると、これは驚くべき結構を持っていた。カバー表袖の惹句から。
「読者を作品世界にいざなう不思議な『体験型』授業を通じて、この戦争の時代を考えるよすがを教えてくれる青春小説にして異色のロシア文学入門。」
想像できないと思うが、これがまったくその通りなのである。
「枚下(まいした)先生」のもと、「湯浦葵(ゆうら・あおい)」「新名翠(にいな・みどり)」「入谷陸(いりや・りく)」といった若者たちが、それぞれ作家の世界に、ふと気が付くと入り込んでしまう。
「枚下先生」はマイスター(巨匠)のもじり、生徒も、ロシアの人名のもじりである。
奈倉有里は『夕暮れに夜明けの歌を』で、アントーノフ先生の授業を体験した後、雷に撃たれたように動けなくなった。それはこんな授業だった。
「学生たちはいかにその直前までわいわいがやがやとしていても、先生が話をはじめるとすうっと教壇に気配を吸いとられるように透明になる。授業のはじまりはいつも、まるで劇場の幕があがる瞬間だった。魅了される観客と化した学生は、息を呑んで前を見つめる。」
『ロシア文学の教室』は、その授業を誇張して再現したものか。ついついそういうふうに思ってしまう。
章立て構成は、次の通り。
ゴーゴリ『ネフスキイ大通り』
プーシキン『盗賊の兄弟』と抒情詩
ドストエフスキー『白夜』
アレクサンドル・ゲルツェン『向こう岸から』
ミハイル・レールモントフ『悪魔』
ゴンチャロフ『オプローモフ』
ツルゲーネフ『父と子』
ニコライ・ネクラーソフ『ロシアは誰に住みよいか』
チェーホフ『初期短編集』
ゴーリキー『どん底』
ガルシン『アッタレア・プリンケブス』ほか
トルストイ『復活』
各章には「第一講 大通りの幻」、「第二講 仄暗い森のなか」、「第三講 孤独な心のひらきかた」……といった、気の利いた見出しが付けられている。
そして「体験型授業」は次の通り。
「ふっと意識が遠のき、音の世界に吸い込まれるのを感じる。まずい。今日は枚下先生が教室に入ってくるところを見届けようと思っていたのに……。
僕はイリヤよりも五つ歳下で、僕たちは二人きりの兄弟だった。親も頼れる人もいなくて誰からも邪魔者あつかいされるみじめな暮らし。子供らしい遊びも楽しみも知らず、ごく幼いころに初めて覚えた感覚は、極度のひもじさと、人の温もりや食べ物に困らない人たちへのじりじりとするようなうらやましさだった。」
「第二講 プーシキン『盗賊の兄弟』」を体験する授業の、舞台が転換する瞬間である。
ここだけでも、読者の疑問はワンサと出そうである。
僕には面白かった――『SISTER〝FOOT″ EMPATHY[シスター フット エンパシー]』(ブレイディみかこ)(3)
「歴史から女性を消させない」の章は、よくある話だが、そこをもう一歩、詰めて考えてみたい。
英国でも、たとえば義務教育終了時の全国統一試験では、その教材に、著しくジェンダーの偏りがあるという。
現代文と演劇作品のうち67%、19世紀小説の58%が、男性著者のものであり、現代文と演劇作品のうち69%、19世紀小説の71%が、男性を主人公にしている。
つまり男が、男を主人公にしたものを、男性も女性も読んでいるのだ。
では日本はどうかと思い、ブレイディみかこは手元にある、中学1,2年の国語の教科書を見てみた。
1年の教科書には、谷川俊太郎、工藤直子、西加奈子など、21人の名前があるが、そのうち女性は5人。2年のには、24人のうち6人が女性だった。
男女のバランスは、日本も英国も極端に悪い。ずっとそういう教育を受けてきたので、それが当たり前になっている。
そしてもう1つ、理由がある。
たとえば今、政治的な論集の著者を選ぶとすると、「特に日本では『わたしは世の中についてこう思う』『政治や社会はこうなったほうがいいと思う』と女性が言ったり書いたりすると、ネットでひどい誹謗中傷のターゲットになりがち」なのである。
うっとうしい世の中である。
しかしそういうこととは別に、歴史全体における男女比の歪みは、糺しておかなければいけない。これは単に、歴史において叙述される男女比を、50対50に近付ければよい、ということではない。
「女性たちの達成や功績、そして女性たちが自分の最大限の可能性を実現することからどのように阻まれていたかという過去を学ぶのは、ジェンダーを問わず必要なことだ。有名な小説家や思想家だけでなく、市井のシスターたちの過去の時代における姿も公教育の教材に登場しないとなれば、シスターたちはいない者として消されたのも同じだからだ。」
「歴史を動かす」というときの「動かす」は、何を指して言っているのだろうか。このとき、「動かす」のはたいてい男で、女はむしろ日々の暮らしを繰り返して、「歴史を動かさない」ほうに、力を入れたのではないだろうか。
もちろんそれでも、歴史はゆっくりと動いていく。そのゆっくりさの具合に、女の力があったのではないか。
小林エリカの『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋、2024年5月14日初刷)という本がある。
第2次大戦を描いて、軍人や政治家など男の側からではなく、日本劇場、日比谷映画劇場、有楽座、東京宝塚劇場などを舞台に、少女たちがわけの分からないままに、戦争の当事者として爆弾を作っていく話だ。
その文体はこんなものだ。
「少女たちは、少女たちが公演した街で、わたしたちの兵隊が、朝鮮人の、台湾人の、満州人の、わたしたちが占領する街から集めた女を、少女を、姦し続けていることを、まだしらない。」
「わたしたちの兵隊」「私たちが占領する」という具合に、ここでは軍人や政治家ではなく、主体は「わたしたち」(女性たち)である。
もう一つは、主役が複数であるということ。しかもそれは、単数形の「わたし」(女性)で描かれる。
「わたしは、ボウつきのブロードクロスのドレスを着ている。
わたしは、美光縮緬の着物を着ている。
わたしは、長い髪を真ん中分けにして後ろに束ねて大きなリボンをつけている。
わたしは、短い髪の前髪と耳元にアイロンをあててカールをつけている。
わたしは、瞬きをする。」
こういう具合だ。詩のようだが、この人はもともと詩から出発している。
非常に意欲的な作品であるが、残念なことに、あまり面白くない。
いや、面白いことは面白いのだが、面白さの質が、いわゆる面白さとは、だいぶ違うのである(ちなみにこの本は、毎日出版文化賞を得ている)。
僕はそういうことで、この本のことをブログに書けなかった(だからここに、少し記すことができてうれしい)。
もう一度、ブレイディみかこの本に戻ると、
「女性からの視点や女性の側からの声を反映することが政治的正しさとされる時代に、視点や声どころか、女性の姿さえ消されているのが教科書だとすれば、一番先に変わらなければいけないところが後回しにされているというのが実情ではなかろうか。」
これはしかし、人文世界の大きな変革を、要求するような気がする。
(『SISTER〝FOOT″EMPATHY[シスター フット エンパシー]』
ブレイディみかこ、集英社、2025年6月30日初刷)
英国でも、たとえば義務教育終了時の全国統一試験では、その教材に、著しくジェンダーの偏りがあるという。
現代文と演劇作品のうち67%、19世紀小説の58%が、男性著者のものであり、現代文と演劇作品のうち69%、19世紀小説の71%が、男性を主人公にしている。
つまり男が、男を主人公にしたものを、男性も女性も読んでいるのだ。
では日本はどうかと思い、ブレイディみかこは手元にある、中学1,2年の国語の教科書を見てみた。
1年の教科書には、谷川俊太郎、工藤直子、西加奈子など、21人の名前があるが、そのうち女性は5人。2年のには、24人のうち6人が女性だった。
男女のバランスは、日本も英国も極端に悪い。ずっとそういう教育を受けてきたので、それが当たり前になっている。
そしてもう1つ、理由がある。
たとえば今、政治的な論集の著者を選ぶとすると、「特に日本では『わたしは世の中についてこう思う』『政治や社会はこうなったほうがいいと思う』と女性が言ったり書いたりすると、ネットでひどい誹謗中傷のターゲットになりがち」なのである。
うっとうしい世の中である。
しかしそういうこととは別に、歴史全体における男女比の歪みは、糺しておかなければいけない。これは単に、歴史において叙述される男女比を、50対50に近付ければよい、ということではない。
「女性たちの達成や功績、そして女性たちが自分の最大限の可能性を実現することからどのように阻まれていたかという過去を学ぶのは、ジェンダーを問わず必要なことだ。有名な小説家や思想家だけでなく、市井のシスターたちの過去の時代における姿も公教育の教材に登場しないとなれば、シスターたちはいない者として消されたのも同じだからだ。」
「歴史を動かす」というときの「動かす」は、何を指して言っているのだろうか。このとき、「動かす」のはたいてい男で、女はむしろ日々の暮らしを繰り返して、「歴史を動かさない」ほうに、力を入れたのではないだろうか。
もちろんそれでも、歴史はゆっくりと動いていく。そのゆっくりさの具合に、女の力があったのではないか。
小林エリカの『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋、2024年5月14日初刷)という本がある。
第2次大戦を描いて、軍人や政治家など男の側からではなく、日本劇場、日比谷映画劇場、有楽座、東京宝塚劇場などを舞台に、少女たちがわけの分からないままに、戦争の当事者として爆弾を作っていく話だ。
その文体はこんなものだ。
「少女たちは、少女たちが公演した街で、わたしたちの兵隊が、朝鮮人の、台湾人の、満州人の、わたしたちが占領する街から集めた女を、少女を、姦し続けていることを、まだしらない。」
「わたしたちの兵隊」「私たちが占領する」という具合に、ここでは軍人や政治家ではなく、主体は「わたしたち」(女性たち)である。
もう一つは、主役が複数であるということ。しかもそれは、単数形の「わたし」(女性)で描かれる。
「わたしは、ボウつきのブロードクロスのドレスを着ている。
わたしは、美光縮緬の着物を着ている。
わたしは、長い髪を真ん中分けにして後ろに束ねて大きなリボンをつけている。
わたしは、短い髪の前髪と耳元にアイロンをあててカールをつけている。
わたしは、瞬きをする。」
こういう具合だ。詩のようだが、この人はもともと詩から出発している。
非常に意欲的な作品であるが、残念なことに、あまり面白くない。
いや、面白いことは面白いのだが、面白さの質が、いわゆる面白さとは、だいぶ違うのである(ちなみにこの本は、毎日出版文化賞を得ている)。
僕はそういうことで、この本のことをブログに書けなかった(だからここに、少し記すことができてうれしい)。
もう一度、ブレイディみかこの本に戻ると、
「女性からの視点や女性の側からの声を反映することが政治的正しさとされる時代に、視点や声どころか、女性の姿さえ消されているのが教科書だとすれば、一番先に変わらなければいけないところが後回しにされているというのが実情ではなかろうか。」
これはしかし、人文世界の大きな変革を、要求するような気がする。
(『SISTER〝FOOT″EMPATHY[シスター フット エンパシー]』
ブレイディみかこ、集英社、2025年6月30日初刷)
僕には面白かった――『SISTER〝FOOT″ EMPATHY[シスター フット エンパシー]』(ブレイディみかこ)(2)
前回の話に付け加えておくことがある。
ブレイディみかこは、2014年に起きた、シングルマザーたちによる「スクウォッティング」の経緯を小説にしている。いわばドキュメント・ノベルである。
『リスペクト―R・E・S・P・E・C・T―』というその小説は、なかなか面白くて、このブログに書評を書いた。
小説は2023年に発表されており、このエッセイが書かれたのは22年だから、ここには小説のことは出てこない。
さて次は「オンライン・ミソジニーをボイコットするときが来た」の章。
2023年に、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相が、突然辞意を表明した。
彼女は37歳の若さで首相になり、コロナ禍に迅速な手を打って、日本のニュースにもなったから、覚えている人も多いだろう。産休を、現職の首相として初めてとったことも、世界中に報道された。
彼女が辞任を表明したその理由は、「余力が底をついた」から。
「彼女はここ数年、頻繁に脅しを受けていて、彼女を射殺する権利が自分にはあると主張する男がYouTubeに動画を投稿したりしていたという。データによれば、彼女に対する脅迫は過去3年間で3倍に増え、前述のYouTube動画を含めて8件が司法に委ねられているそうだ。」
次は英国の大物政治家の例。スコットランド自治政府のニコラ・スタージョン首相が、突然の辞意を表明した。
「彼女はBBCのドキュメンタリーの中で、『政界の女性を取り巻く環境は、自分のこれまでのキャリアの中で、いまが最も厳しく、敵対的』『ソーシャル・メディアが最もひどい女性虐待やミソジニーやセクシズム、論争を起こす女性への暴力的な脅しの手段を与えている』と語った。」
世界で名を成す女性は、強烈なミソジニー(女性嫌悪)の対象にもなる、ということである。
ミソジニーについては、僕にはよくわからない。皆が考えるような、素人考えに近いものはあるが、ここに書くのもばかばかしい。
ただ、昨今のソーシャル・メディアを見ていると、ミソジニーが急激に悪化しているように見えるが、それらは意図的に仕掛けられているという。
「より深刻な問題になっているのは、ミソジニーそのものというより、それを武器に使っている陰の政治勢力や、ミソジニーで儲けているデジタル・プラットフォーム(ツイッター、フェイスブックなど)のビジネスのあり方だというのである。」
金になれば何でもやる、という人間がいる。ミソジニーで儲けているという人間も、そのたぐいである。
ソーシャル・メディアを駆使し、選挙は儲かるといい、あるいは人を死に追いやって平然としている者がいる。
表現の自由との関連で、難しい面はあるだろうが、悪質なデマやミソジニーの類いは、取り締まらなければいけないと思う。
それを野放しにしているのは、いまのところ権力を持っている側に、都合がよいからであろう。
しかしその権力は、気が付くと、金が儲かれば何でもやるという側に、いつの間にか移っている、こともある。
ブレイディみかこは、今回の、差別ではなく金を儲けたい人間の欲望の場合、たとえばこんな処方箋を提案する。
「『ネットの取り締まりをしてください』とか言っても相手はビクともしないだろうから、ならはもう、直接行動あるのみだ。女性たちがごっそりアカウントを消したら、ソーシャル・メディアのユーザー数は半減する。相手のビジネスは立ち行かなくなる。〔中略〕シスター『フット』でミソジニー・ビジネスを蹴散らす手段は、ないわけではない。」
半ば理想的であり、笑い話でもある。
が、これは、冗談で済ませられる話ではない。
ブレイディみかこは、2014年に起きた、シングルマザーたちによる「スクウォッティング」の経緯を小説にしている。いわばドキュメント・ノベルである。
『リスペクト―R・E・S・P・E・C・T―』というその小説は、なかなか面白くて、このブログに書評を書いた。
小説は2023年に発表されており、このエッセイが書かれたのは22年だから、ここには小説のことは出てこない。
さて次は「オンライン・ミソジニーをボイコットするときが来た」の章。
2023年に、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相が、突然辞意を表明した。
彼女は37歳の若さで首相になり、コロナ禍に迅速な手を打って、日本のニュースにもなったから、覚えている人も多いだろう。産休を、現職の首相として初めてとったことも、世界中に報道された。
彼女が辞任を表明したその理由は、「余力が底をついた」から。
「彼女はここ数年、頻繁に脅しを受けていて、彼女を射殺する権利が自分にはあると主張する男がYouTubeに動画を投稿したりしていたという。データによれば、彼女に対する脅迫は過去3年間で3倍に増え、前述のYouTube動画を含めて8件が司法に委ねられているそうだ。」
次は英国の大物政治家の例。スコットランド自治政府のニコラ・スタージョン首相が、突然の辞意を表明した。
「彼女はBBCのドキュメンタリーの中で、『政界の女性を取り巻く環境は、自分のこれまでのキャリアの中で、いまが最も厳しく、敵対的』『ソーシャル・メディアが最もひどい女性虐待やミソジニーやセクシズム、論争を起こす女性への暴力的な脅しの手段を与えている』と語った。」
世界で名を成す女性は、強烈なミソジニー(女性嫌悪)の対象にもなる、ということである。
ミソジニーについては、僕にはよくわからない。皆が考えるような、素人考えに近いものはあるが、ここに書くのもばかばかしい。
ただ、昨今のソーシャル・メディアを見ていると、ミソジニーが急激に悪化しているように見えるが、それらは意図的に仕掛けられているという。
「より深刻な問題になっているのは、ミソジニーそのものというより、それを武器に使っている陰の政治勢力や、ミソジニーで儲けているデジタル・プラットフォーム(ツイッター、フェイスブックなど)のビジネスのあり方だというのである。」
金になれば何でもやる、という人間がいる。ミソジニーで儲けているという人間も、そのたぐいである。
ソーシャル・メディアを駆使し、選挙は儲かるといい、あるいは人を死に追いやって平然としている者がいる。
表現の自由との関連で、難しい面はあるだろうが、悪質なデマやミソジニーの類いは、取り締まらなければいけないと思う。
それを野放しにしているのは、いまのところ権力を持っている側に、都合がよいからであろう。
しかしその権力は、気が付くと、金が儲かれば何でもやるという側に、いつの間にか移っている、こともある。
ブレイディみかこは、今回の、差別ではなく金を儲けたい人間の欲望の場合、たとえばこんな処方箋を提案する。
「『ネットの取り締まりをしてください』とか言っても相手はビクともしないだろうから、ならはもう、直接行動あるのみだ。女性たちがごっそりアカウントを消したら、ソーシャル・メディアのユーザー数は半減する。相手のビジネスは立ち行かなくなる。〔中略〕シスター『フット』でミソジニー・ビジネスを蹴散らす手段は、ないわけではない。」
半ば理想的であり、笑い話でもある。
が、これは、冗談で済ませられる話ではない。
僕には面白かった――『SISTER〝FOOT″ EMPATHY[シスター フット エンパシー]』(ブレイディみかこ)(1)
ブレイディみかこが2022年から25年まで、フアツション雑誌『SPUR』に連載したエッセイ集。発行元の集英社は、読者層を20代から40代の女性としている。
SISTER〝FOOT″ EMPATHYは SISTERHOOD EMPATHYをもじったもの。シスターフッドは「女性同士のつながり」や「姉妹のような関係」、さらに進んでは「同じ目的のために闘う女性たちの連帯」を意味する、ポリティカルな言葉だ。
エンパシーは「共感力」と訳される。ブレイディみかこは、「他人の靴を履いてみる」という、独特の解釈をしている。
相手の立場に立ってみる、というシンパシーとは違って、相手と自分はどこまでも違う、という立場を堅持して共感する。そういう知的な面もある。
もっともそれが、雑誌『SPUR』とどういう関係にあるかは、よく分からない。
この本は、田中晶子が読んでいたが、どれもだいたい落としどころが、最初から見えていて、つまらなくて途中で止めた。
そこで僕が読んだ。そして僕には面白かった。そこを抜き書きする。
「スクウォッティングという闘い方」は、ロンドンの再開発で家を無くした、25歳以下のシングルマザーたちが、空き家を占拠して住んでしまうという、冗談のような闘争を描く。
こういう「公有地や空き家などに無断で居住すること」を、「スクウォッティング」という。
「じつはこのスクウォッティングという行為、2012年に法が制定されるまで英国では犯罪にならなかった。だからたとえば、わたしが英国と日本を行ったり来たりしていた1980年代にも、社会運動家だけでなく、ミュージシャンや芸術家など、空き家をスクウォッティングしてグループで住んでいた人たちがけっこういた。」
本当に、冗談のような生活をしていた人たちがいたのだ。
「そんな古くて新しい運動の形への懐かしさもあったのか、若い母親たちが始めた小さな占拠運動は、近所に住む人々や地元の商店街などでも支持を集め、著名な支援者も現れる。そのためメディアが取り上げるようになり、全国規模へと支持を広げたのだった。」
この運動は急速に拡大し、世代を超えた女性たちが、家を無くした若い母親へのエンパシーで集まって、シスターフッドで運動を盛り上げた。
この運動には、都市の貧困問題に関心を持つ男性も、数多く参加した。
その結果、区長は謝罪し、家を無くした女性たちは住居を与えられ、『ガーディアン』紙は2014年の「今年のヒーロー」に、彼女たちを選んだ。
ここで著者は、日本のことを思い出す。そういえば少子高齢化で、空き家が増加していたな、と。
「『人のものには手は出せない』とまじめに考えて空き家を横目に見ながら通り過ぎるのではなく、勝手に修繕してきれいにして住んでいたら持ち主に感謝されるケースだってあるかもしれない(実際、こういう実例は欧州にはいくつもある)。」
日本の風土では考えられないことだ。
「オリンピック後のロンドンで力強く地べたから立ち上がった女性たちの直接行動を日本でも起こせないと誰が決めつけられるだろう。こんなことを書くと、また荒唐無稽な与太話と思われるだろうか?」
そう思いますよ。
でも、ロンドンで起きた話は面白い。
SISTER〝FOOT″ EMPATHYは SISTERHOOD EMPATHYをもじったもの。シスターフッドは「女性同士のつながり」や「姉妹のような関係」、さらに進んでは「同じ目的のために闘う女性たちの連帯」を意味する、ポリティカルな言葉だ。
エンパシーは「共感力」と訳される。ブレイディみかこは、「他人の靴を履いてみる」という、独特の解釈をしている。
相手の立場に立ってみる、というシンパシーとは違って、相手と自分はどこまでも違う、という立場を堅持して共感する。そういう知的な面もある。
もっともそれが、雑誌『SPUR』とどういう関係にあるかは、よく分からない。
この本は、田中晶子が読んでいたが、どれもだいたい落としどころが、最初から見えていて、つまらなくて途中で止めた。
そこで僕が読んだ。そして僕には面白かった。そこを抜き書きする。
「スクウォッティングという闘い方」は、ロンドンの再開発で家を無くした、25歳以下のシングルマザーたちが、空き家を占拠して住んでしまうという、冗談のような闘争を描く。
こういう「公有地や空き家などに無断で居住すること」を、「スクウォッティング」という。
「じつはこのスクウォッティングという行為、2012年に法が制定されるまで英国では犯罪にならなかった。だからたとえば、わたしが英国と日本を行ったり来たりしていた1980年代にも、社会運動家だけでなく、ミュージシャンや芸術家など、空き家をスクウォッティングしてグループで住んでいた人たちがけっこういた。」
本当に、冗談のような生活をしていた人たちがいたのだ。
「そんな古くて新しい運動の形への懐かしさもあったのか、若い母親たちが始めた小さな占拠運動は、近所に住む人々や地元の商店街などでも支持を集め、著名な支援者も現れる。そのためメディアが取り上げるようになり、全国規模へと支持を広げたのだった。」
この運動は急速に拡大し、世代を超えた女性たちが、家を無くした若い母親へのエンパシーで集まって、シスターフッドで運動を盛り上げた。
この運動には、都市の貧困問題に関心を持つ男性も、数多く参加した。
その結果、区長は謝罪し、家を無くした女性たちは住居を与えられ、『ガーディアン』紙は2014年の「今年のヒーロー」に、彼女たちを選んだ。
ここで著者は、日本のことを思い出す。そういえば少子高齢化で、空き家が増加していたな、と。
「『人のものには手は出せない』とまじめに考えて空き家を横目に見ながら通り過ぎるのではなく、勝手に修繕してきれいにして住んでいたら持ち主に感謝されるケースだってあるかもしれない(実際、こういう実例は欧州にはいくつもある)。」
日本の風土では考えられないことだ。
「オリンピック後のロンドンで力強く地べたから立ち上がった女性たちの直接行動を日本でも起こせないと誰が決めつけられるだろう。こんなことを書くと、また荒唐無稽な与太話と思われるだろうか?」
そう思いますよ。
でも、ロンドンで起きた話は面白い。
もっと昔だったら――『機龍警察〔完全版〕』(月村了衛)
こういう近未来を舞台にしたSF小説は、まず読まない。話があまりにご都合主義的に進んで行くからだ。
それなのに読んだのは、『文学キョーダイ‼』で、弟の逢坂冬馬がえらく褒めていたからである。逢坂は『機龍警察 自爆条項』で、ここまで書くのか、と感心していた。
しかしこれは、シリーズの2作目である。僕は迷ったが、シリーズだから最初を読まないとどうしようもない、と考えて、『自爆条項』の前に表題のものを読んだ。
これは警察小説の変種で、警官が戦闘用の機械と合体するところが、新しいと言えば言える。
冒頭のあらすじを、裏表紙の惹句から、部分的に引いておく。
「テロや民族紛争の激化に伴い発達した近接戦闘兵器・機甲兵装。新型機〈龍機兵[ドラグーン]〉を導入した警視庁特捜部は、その搭乗員として三人の傭兵と契約した。警察組織内で孤立しつつも、彼らは機甲兵装よる立て籠もり現場へ出動する。だが事件の背後には想像を絶する巨大な闇が広がっていた。」
というわけで面白いことは面白いのだが、何とかならないのかと思われるところが、2点ある。
1つは、警察署内のセクショナリズム、縄張り争いである。この作品では、正規の警官ではなく、外国の戦場を渡り歩いた傭兵を、雇い入れるのだから、その対立はいつも頂点に達している。
しかし警察や検察の縄張り争いは、またかというくらい描かれていて、僕は食傷している。近未来もこの状態が続くとすれば、とてもSFとは思えない。ここは作家が、一工夫あってしかるべきである。
もう1つは「近接戦闘兵器・機甲兵装」である。こういうものを、絵や音に頼らずに、文章で表わすのは、そうとう難物である。
次は「姿俊之」という龍機兵搭乗要員、つまり傭兵の1人が活躍する場面だ。
「姿はグリップを操作、フィアボルグが屋上から身を躍らせる。
マニピュレータ―、スレイブ・モード。屋上に固定されたワイヤーをつかみ、フィアボルグでファストロープ降下開始。倉庫三階窓のやや上方で停止する。ビルの壁を蹴って反動をつけ、窓へと飛び込む。脚部の底がガラスを突き破り、肩部装甲が窓枠とその周囲の壁を粉砕する。内部に降り立ったフィアボルグは、すかさず状況を確認。何もないロフト。敵影なし。間髪を容れずバーゲストが着地。両機は素早く部屋を出て左右に分かれる。」
こういう文章を、僕は難物と感じるが、逆にSF好き、メカニック好きなら、たまらないのだろう。
そういう難点がいくつかあるものの、読み進めていけば、その世界に没入してしまう。
かりに僕が20代であれば、「機龍警察」ものを、次々に読んだだろう。あのころ時間は、無限にあるような気がしていた。しかし今となっては、そうもいかない。
(『機龍警察〔完全版〕』月村了衛、ハヤカワ文庫、2017年5月15日初刷)
それなのに読んだのは、『文学キョーダイ‼』で、弟の逢坂冬馬がえらく褒めていたからである。逢坂は『機龍警察 自爆条項』で、ここまで書くのか、と感心していた。
しかしこれは、シリーズの2作目である。僕は迷ったが、シリーズだから最初を読まないとどうしようもない、と考えて、『自爆条項』の前に表題のものを読んだ。
これは警察小説の変種で、警官が戦闘用の機械と合体するところが、新しいと言えば言える。
冒頭のあらすじを、裏表紙の惹句から、部分的に引いておく。
「テロや民族紛争の激化に伴い発達した近接戦闘兵器・機甲兵装。新型機〈龍機兵[ドラグーン]〉を導入した警視庁特捜部は、その搭乗員として三人の傭兵と契約した。警察組織内で孤立しつつも、彼らは機甲兵装よる立て籠もり現場へ出動する。だが事件の背後には想像を絶する巨大な闇が広がっていた。」
というわけで面白いことは面白いのだが、何とかならないのかと思われるところが、2点ある。
1つは、警察署内のセクショナリズム、縄張り争いである。この作品では、正規の警官ではなく、外国の戦場を渡り歩いた傭兵を、雇い入れるのだから、その対立はいつも頂点に達している。
しかし警察や検察の縄張り争いは、またかというくらい描かれていて、僕は食傷している。近未来もこの状態が続くとすれば、とてもSFとは思えない。ここは作家が、一工夫あってしかるべきである。
もう1つは「近接戦闘兵器・機甲兵装」である。こういうものを、絵や音に頼らずに、文章で表わすのは、そうとう難物である。
次は「姿俊之」という龍機兵搭乗要員、つまり傭兵の1人が活躍する場面だ。
「姿はグリップを操作、フィアボルグが屋上から身を躍らせる。
マニピュレータ―、スレイブ・モード。屋上に固定されたワイヤーをつかみ、フィアボルグでファストロープ降下開始。倉庫三階窓のやや上方で停止する。ビルの壁を蹴って反動をつけ、窓へと飛び込む。脚部の底がガラスを突き破り、肩部装甲が窓枠とその周囲の壁を粉砕する。内部に降り立ったフィアボルグは、すかさず状況を確認。何もないロフト。敵影なし。間髪を容れずバーゲストが着地。両機は素早く部屋を出て左右に分かれる。」
こういう文章を、僕は難物と感じるが、逆にSF好き、メカニック好きなら、たまらないのだろう。
そういう難点がいくつかあるものの、読み進めていけば、その世界に没入してしまう。
かりに僕が20代であれば、「機龍警察」ものを、次々に読んだだろう。あのころ時間は、無限にあるような気がしていた。しかし今となっては、そうもいかない。
(『機龍警察〔完全版〕』月村了衛、ハヤカワ文庫、2017年5月15日初刷)
王道の恋愛小説――『君の手が語ること』(デビット・ゾペティ)(5)
梓には「小松聡」という、結婚を前提につきあっている男がいた。小松は生まれつき耳が聞こえないろう者だが、人一倍努力して弁護士になった。
梓は、「僕」が驚いたことに、小松をデフリンピックに誘い、「僕」と会わせる。
このへんの梓の気持ちは描かれていないので、推測するほかはない。
梓は、小松は素晴らしい男で、惹かれるところもあるが、恋をしてはいない、体の関係はないと言う。それに対して、「僕」は60歳を越えており、結婚にはいくつも難点があるが、梓が今、恋をしているのは「僕」の方だ。
しかし結婚となると、正直どちらがいいか分からない、ここで手の内を全部明かして、後は成り行き任せとするほかない。梓の気持ちは、そんなところではないか。
作者は、そういう梓の気持ちを、読者が納得できるように、小松の方も良いところを描いてみせる。
「彼は専属の手話通訳士を雇って、二人三脚で名古屋を拠点に仕事をしていると説明した。依頼者の訴えに耳を傾けて、打開策をあれこれ熟考し、しばしば法廷で弁論を駆使しながら戦っている日常を、情熱的に、それでいて終始謙遜な面持ちで語った。微力ながら、多くの場合、障がい者やLGBTQ+関係者の権利を守るために活動している、と付言した。」
「僕」は小松と会った瞬間、この男にはかなわないと思った。少壮有為の弁護士、しかも小松の手話は、素晴らしく的確で素早かった。
3人で寿司屋で呑んだとき、梓が手洗いに立った隙に、小松は決定的なことを言った。
「『この賑やかな[デフリンピックの]雰囲気に呑まれて彼女を手に負えない冒険に誘わないで欲しい。あなたは心優しい人かもしれないけど、彼女を本当に支えてあげられるのはこの私の方だ。だから二人の邪魔をしないでもらいたい。彼女のためにも』
〔中略〕
その切実な懇願とも、決然とした命令とも取れる注文で酔いが一気に醒めた。
返す言葉はなく、ただ啞然としただけだった。」
「僕」は日を違えて、梓と話し合った。
「僕は言葉を選びながら、小松と出会ってから抱いていた懸念を慎重に打ち明けた。まず出し抜けに、やはり梓と今後恋人として付き合っていくことは分不相応と告げた。」
梓は激しい不快感から、鬼の形相に豹変していく。
「そんなことを言う人だとは思わなかった。私は凄いショック。何をそんなに結論を急いでいるの? 一方的に決めつけないでよ。私は損得勘定で人生を決めたくない。いや、勝手に決められたくない。見合い話じゃないでしょう。岐阜で一緒に過ごした時間を忘れたの?〔中略〕この数日間はなんだったの?」
そして梓は行く先を告げず、「僕」のもとを去っていく。
「僕」は、デフリンピックのいくつかの会場を、狂気に取りつかれたように、梓を探して駆けずり回る。そうして何日間かが虚しく過ぎた後で、ついに梓と出会う。
そこで納得の行くまで話をし、2人は再び一緒になれた。そして最後に、梓の手話が来る。
「梓は最後に、手話をまるで壊れやすいクリスタルの器を扱うように丁重に駆使して、次の言葉を宙に舞わせた。
二人の周りだけで、時の流れは束の間、その歩みをゆるめた。」
その言葉は描いていない。
田中晶子は脚本家であり、こういう最後の終わり方はありえないという。
僕は小説としては、こういう終わり方もありうると思う。
そして最後の梓の手話は、カバーに印刷されている、「運命」だと推測する。そうしてみると、そのあとに続く人生の感懐が、よく納得される。
この小説はあまりにも端正で、もっと言えば教科書通りの成り行きだが、それが鼻につくことはない。主人公が一生懸命で、どうなるか分からない一篇の恋物語を、久しぶりに読んだ。そして読後感が、非常にさわやかだった。
(『君の手が語ること』デビット・ゾペティ、田畑書店、2025年10月20日初刷)
梓は、「僕」が驚いたことに、小松をデフリンピックに誘い、「僕」と会わせる。
このへんの梓の気持ちは描かれていないので、推測するほかはない。
梓は、小松は素晴らしい男で、惹かれるところもあるが、恋をしてはいない、体の関係はないと言う。それに対して、「僕」は60歳を越えており、結婚にはいくつも難点があるが、梓が今、恋をしているのは「僕」の方だ。
しかし結婚となると、正直どちらがいいか分からない、ここで手の内を全部明かして、後は成り行き任せとするほかない。梓の気持ちは、そんなところではないか。
作者は、そういう梓の気持ちを、読者が納得できるように、小松の方も良いところを描いてみせる。
「彼は専属の手話通訳士を雇って、二人三脚で名古屋を拠点に仕事をしていると説明した。依頼者の訴えに耳を傾けて、打開策をあれこれ熟考し、しばしば法廷で弁論を駆使しながら戦っている日常を、情熱的に、それでいて終始謙遜な面持ちで語った。微力ながら、多くの場合、障がい者やLGBTQ+関係者の権利を守るために活動している、と付言した。」
「僕」は小松と会った瞬間、この男にはかなわないと思った。少壮有為の弁護士、しかも小松の手話は、素晴らしく的確で素早かった。
3人で寿司屋で呑んだとき、梓が手洗いに立った隙に、小松は決定的なことを言った。
「『この賑やかな[デフリンピックの]雰囲気に呑まれて彼女を手に負えない冒険に誘わないで欲しい。あなたは心優しい人かもしれないけど、彼女を本当に支えてあげられるのはこの私の方だ。だから二人の邪魔をしないでもらいたい。彼女のためにも』
〔中略〕
その切実な懇願とも、決然とした命令とも取れる注文で酔いが一気に醒めた。
返す言葉はなく、ただ啞然としただけだった。」
「僕」は日を違えて、梓と話し合った。
「僕は言葉を選びながら、小松と出会ってから抱いていた懸念を慎重に打ち明けた。まず出し抜けに、やはり梓と今後恋人として付き合っていくことは分不相応と告げた。」
梓は激しい不快感から、鬼の形相に豹変していく。
「そんなことを言う人だとは思わなかった。私は凄いショック。何をそんなに結論を急いでいるの? 一方的に決めつけないでよ。私は損得勘定で人生を決めたくない。いや、勝手に決められたくない。見合い話じゃないでしょう。岐阜で一緒に過ごした時間を忘れたの?〔中略〕この数日間はなんだったの?」
そして梓は行く先を告げず、「僕」のもとを去っていく。
「僕」は、デフリンピックのいくつかの会場を、狂気に取りつかれたように、梓を探して駆けずり回る。そうして何日間かが虚しく過ぎた後で、ついに梓と出会う。
そこで納得の行くまで話をし、2人は再び一緒になれた。そして最後に、梓の手話が来る。
「梓は最後に、手話をまるで壊れやすいクリスタルの器を扱うように丁重に駆使して、次の言葉を宙に舞わせた。
二人の周りだけで、時の流れは束の間、その歩みをゆるめた。」
その言葉は描いていない。
田中晶子は脚本家であり、こういう最後の終わり方はありえないという。
僕は小説としては、こういう終わり方もありうると思う。
そして最後の梓の手話は、カバーに印刷されている、「運命」だと推測する。そうしてみると、そのあとに続く人生の感懐が、よく納得される。
この小説はあまりにも端正で、もっと言えば教科書通りの成り行きだが、それが鼻につくことはない。主人公が一生懸命で、どうなるか分からない一篇の恋物語を、久しぶりに読んだ。そして読後感が、非常にさわやかだった。
(『君の手が語ること』デビット・ゾペティ、田畑書店、2025年10月20日初刷)
王道の恋愛小説――『君の手が語ること』(デビット・ゾペティ)(4)
このあとは、作者としての力量が試されるところだ。2人の間の、恋と呼べるものがどう進展していくのか。
「共に幸せな三日間を過ごし、強く惹かれ合い、紆余曲折を経て、〔中略〕それでも尚、気持ちが変わっていないことまで確認した。しかし勿論、その程度の交際で結婚を考えるとか、お互いの生活を根本から変えるとか、そこまでの決意は当然生まれない。それはあまりにも現実味に欠けた発想であり、いい大人がそこへ突っ走るべきことではなかった。」
この一段がないと、大人の恋愛小説にはならない。
「僕」は考えて、2025年のデフリンピックに、梓と高校3年の娘を招待する。都内のホテルは満室なので、「僕」は、部屋数だけはたくさんある、自分の家に泊まればいいと言う。
ここで、デフリンピックそのものの話が数ページ入る。
田中晶子は、作者が調べて書いた、ここがつまらないという。
僕は逆に、非常に面白かった。
無音の世界で繰り広げられる戦いが、詳しく見ると、固有の面白さ、難しさを孕んでいる。そこが、作者の筆で過不足なく書かれている。そのあたり、少しだけ引用する。
「デフリンピックのルールは、基本的にオリンピックと同じだが、各競技は選手にとって無音の世界で繰り広げられるため、国際手話の使用の他、視覚による情報保障が特徴だ。例えば、水泳や陸上では、スタートのピストル音が聴こえないため、順に赤、黄色、緑に光るスタートランプが使われ、サッカーでは審判は笛を吹くと同時に旗も上げる。テコンドーや柔道や空手の場合、技が決まった瞬間などに周りのランプが点滅し、バスケットボ―ルも、パネルに取り付けられたランプが眩しく光って、選手への合図に留まらず、観客の興奮も搔き立てる。」
つまりデフリンピックは、オリンピックとはまったく違う競技なのだ。そこをまとめて、「僕」はこう言う。
「一流の聴者選手の場合、音を重要な情報源として活用し、厳しい訓練によって音に対する神経の反射速度を高めようとする。
ところがデフアスリートは、その肝心な情報源を奪われ、別のもっと鋭利な神経の使い方が求められている。眼に映るものすべて、空気の僅かな振動でさえ、総動員する。
想像を絶する神業だ。」
「僕」が梓をデフリンピックに誘ったのは、秘めた思いがあったからだ。
「デフスポーツは健常者スポーツに負けず劣らずのドラマと熱気に満ち溢れていた。そして梓と二人でデフスポーツの祭典に参加することが、単なる勝負への興奮の次元を超えて、二人の関係の行方を決定的に方向づける可能性も孕んでいるという予感をなぜか、僕は強く抱いた。」
娘は学校があるので数日で帰り、あとは梓と2人きり。自然の成り行きとして、お互いを求めあった。
けれともその夜は、結ばれることはなかった。還暦を過ぎた男が、40代前半の女と、何の躊躇もなく体を重ねるのは、恥じらいを覚えて難しい。
その夜は添い寝した。
しかし明け方、梓はもう迷ってはいなかった。
「梓は明らかに前夜とは別の気持ちで、なんの迷いもなく、とても積極的に僕を求めていた。たったの数秒で完全に覚醒し、何かを思い悩む隙間もなく、身体が自分でも驚くほど素直に反応し、僕は次第に目下の営みに傾注した。梓の身体の曲線や括れ、弾力、大胆で一途な動き、二人がこうも自然に触れ合い、弄り合っている事実が興奮と歓喜を際限なく膨らませ、気が遠くなりそうだった。」
非常に端正な文章である。また上品でもある。そして分析的な文章である。
「僕らは当然、無言で交わり合っていたが、なんの支障もなかった。耐えきれなくなった様子で僕の体に跨ってきた梓は静かに腰を動かし始めた。やがて、丁寧に時間をかけて、自分の耳には届かない呻きを零しつつ、静かに体を撓わせつつ、彼女は気持ちよさげに果てた。」
難しい語句を使い、裸の梓が実際に目に浮かぶようにということだが、ここもまた上品である(だから僕には、ややもの足りない)。
こうして「僕」は梓と結ばれるのだが、このあと最大の難問が襲ってきて、それがクライマックスとなる。
「共に幸せな三日間を過ごし、強く惹かれ合い、紆余曲折を経て、〔中略〕それでも尚、気持ちが変わっていないことまで確認した。しかし勿論、その程度の交際で結婚を考えるとか、お互いの生活を根本から変えるとか、そこまでの決意は当然生まれない。それはあまりにも現実味に欠けた発想であり、いい大人がそこへ突っ走るべきことではなかった。」
この一段がないと、大人の恋愛小説にはならない。
「僕」は考えて、2025年のデフリンピックに、梓と高校3年の娘を招待する。都内のホテルは満室なので、「僕」は、部屋数だけはたくさんある、自分の家に泊まればいいと言う。
ここで、デフリンピックそのものの話が数ページ入る。
田中晶子は、作者が調べて書いた、ここがつまらないという。
僕は逆に、非常に面白かった。
無音の世界で繰り広げられる戦いが、詳しく見ると、固有の面白さ、難しさを孕んでいる。そこが、作者の筆で過不足なく書かれている。そのあたり、少しだけ引用する。
「デフリンピックのルールは、基本的にオリンピックと同じだが、各競技は選手にとって無音の世界で繰り広げられるため、国際手話の使用の他、視覚による情報保障が特徴だ。例えば、水泳や陸上では、スタートのピストル音が聴こえないため、順に赤、黄色、緑に光るスタートランプが使われ、サッカーでは審判は笛を吹くと同時に旗も上げる。テコンドーや柔道や空手の場合、技が決まった瞬間などに周りのランプが点滅し、バスケットボ―ルも、パネルに取り付けられたランプが眩しく光って、選手への合図に留まらず、観客の興奮も搔き立てる。」
つまりデフリンピックは、オリンピックとはまったく違う競技なのだ。そこをまとめて、「僕」はこう言う。
「一流の聴者選手の場合、音を重要な情報源として活用し、厳しい訓練によって音に対する神経の反射速度を高めようとする。
ところがデフアスリートは、その肝心な情報源を奪われ、別のもっと鋭利な神経の使い方が求められている。眼に映るものすべて、空気の僅かな振動でさえ、総動員する。
想像を絶する神業だ。」
「僕」が梓をデフリンピックに誘ったのは、秘めた思いがあったからだ。
「デフスポーツは健常者スポーツに負けず劣らずのドラマと熱気に満ち溢れていた。そして梓と二人でデフスポーツの祭典に参加することが、単なる勝負への興奮の次元を超えて、二人の関係の行方を決定的に方向づける可能性も孕んでいるという予感をなぜか、僕は強く抱いた。」
娘は学校があるので数日で帰り、あとは梓と2人きり。自然の成り行きとして、お互いを求めあった。
けれともその夜は、結ばれることはなかった。還暦を過ぎた男が、40代前半の女と、何の躊躇もなく体を重ねるのは、恥じらいを覚えて難しい。
その夜は添い寝した。
しかし明け方、梓はもう迷ってはいなかった。
「梓は明らかに前夜とは別の気持ちで、なんの迷いもなく、とても積極的に僕を求めていた。たったの数秒で完全に覚醒し、何かを思い悩む隙間もなく、身体が自分でも驚くほど素直に反応し、僕は次第に目下の営みに傾注した。梓の身体の曲線や括れ、弾力、大胆で一途な動き、二人がこうも自然に触れ合い、弄り合っている事実が興奮と歓喜を際限なく膨らませ、気が遠くなりそうだった。」
非常に端正な文章である。また上品でもある。そして分析的な文章である。
「僕らは当然、無言で交わり合っていたが、なんの支障もなかった。耐えきれなくなった様子で僕の体に跨ってきた梓は静かに腰を動かし始めた。やがて、丁寧に時間をかけて、自分の耳には届かない呻きを零しつつ、静かに体を撓わせつつ、彼女は気持ちよさげに果てた。」
難しい語句を使い、裸の梓が実際に目に浮かぶようにということだが、ここもまた上品である(だから僕には、ややもの足りない)。
こうして「僕」は梓と結ばれるのだが、このあと最大の難問が襲ってきて、それがクライマックスとなる。
王道の恋愛小説――『君の手が語ること』(デビット・ゾペティ)(3)
「イエンセン梓」の夫は、ノルウェー人の医者だったが、7年前に海外の戦場で死んだという。梓も同じ場所で働いており、かろうじて命は取りとめたが、ひどい痛手を受けた。
「僕」が岐阜で初めて会ったとき、梓は「私たちが知り合ったのはオンラインの手話講座だから、あなたとは手話だけでコミュニケーションがしたい」と言った。
「僕」はその提案に、自分でも驚くほど魅力を感じた。
読んでいる僕も、これは面白い提案だと思った。オンラインの手話講座で知り合った2人が、実際に会ったときも手話で、お互いの思いを深めていく。なんかいいですね。
「鵜飼の大まかな流れを熱心に説明する梓の手話を見て、改めて流れるようなその無駄のなさに魅了された。純粋な日本手話ではないにせよ、彼女はやはり抜きん出て達者だった。彼女は相変わらず声ではなく、直線的、直覚的、湾曲的、律動的、幾何学的な指の流動線で沈黙を埋めて、次々と新たな概念に輪郭を与えた。」
ふーん、手話を褒めるときは、こういうふうに言うのか。これは一般的な誉め言葉なのかどうか、妻に聞いてみよう。たぶん、著者独特の言い回しだと思うのだが。
しかしこのとき、梓は秘密を抱えていた。
それについて、「僕」が少し不思議だと思ったことが、2つある。
1つは、梓が車を運転しているとき、音楽をかけて、それが終わりまで行っても、次のをかけようとしなかったとき。しかし運転していたので、当たり前と言えば当たり前だ。
もう1つは、梓の財布に千円札が何枚もあったのに、代金「千八百五十円」を、一万円札で釣銭を受け取ろうとしたときである。
妻はこの2つのヒントで、梓の秘密が分かったという。僕は皆目わからず、梓は金銭については雑駁な人だと思い、それにしてはヘンな描写だと思っただけ、情けない。
そして2人は突然、キスをする。手話のラヴシーンは珍しい。
「梓はすぐ目の前にいて、問いたげな視線で僕の出方を待っていた。
それ以上、耐えられなくなった。
胸の震えを抑えて、手を五拍子に動かした。
〈僕〉、〈君〉、〈キス〉、〈したい〉、〈いい?〉
梓はさほど驚く様子もなく、口角を上げつつ手を簡潔に二拍子に動かし返した。
〈今?〉、〈私?〉
次の瞬間、まるで僕以上に待ち焦がれていたかのように、彼女は僕の唇を求めた。僕らは長くて、濃厚な口づけをした。」
しかしかろうじて女の方から、「今日はここで、お休み」と意思表示をし、同衾はしなかった。
最後に別れるとき、車の中で梓は「僕」に、「あたかも今から、実際に声に出して何か途轍もなく重要なことを語り出そうとするように見えた。」
しかし緊迫した「僕」が待っても、梓は困惑を深めるだけだった。
「その物憂い表情を見て、やはり心の内側に嵐を抱えている人なのだ、と改めて痛感した。彼女が見せる戸惑いは、他人には窺い知れない葛藤に由来しているようだった。」
しかし「僕」は、東京に帰って、親しい友人と呑んでいるとき、梓の秘密を解くカギを手にする。
この梓の秘密は、ここで明かしてもいいのではないかと思うが、著者と書肆がともに隠そうとしているのだから、そこは尊重して、僕から種明かしはしない。ここまで読んだ人は、何だあ、と思うかもしれないが、勘弁してほしい。
それよりも、最後が謎のままで残っている。それは解いておきたい。
「僕」が岐阜で初めて会ったとき、梓は「私たちが知り合ったのはオンラインの手話講座だから、あなたとは手話だけでコミュニケーションがしたい」と言った。
「僕」はその提案に、自分でも驚くほど魅力を感じた。
読んでいる僕も、これは面白い提案だと思った。オンラインの手話講座で知り合った2人が、実際に会ったときも手話で、お互いの思いを深めていく。なんかいいですね。
「鵜飼の大まかな流れを熱心に説明する梓の手話を見て、改めて流れるようなその無駄のなさに魅了された。純粋な日本手話ではないにせよ、彼女はやはり抜きん出て達者だった。彼女は相変わらず声ではなく、直線的、直覚的、湾曲的、律動的、幾何学的な指の流動線で沈黙を埋めて、次々と新たな概念に輪郭を与えた。」
ふーん、手話を褒めるときは、こういうふうに言うのか。これは一般的な誉め言葉なのかどうか、妻に聞いてみよう。たぶん、著者独特の言い回しだと思うのだが。
しかしこのとき、梓は秘密を抱えていた。
それについて、「僕」が少し不思議だと思ったことが、2つある。
1つは、梓が車を運転しているとき、音楽をかけて、それが終わりまで行っても、次のをかけようとしなかったとき。しかし運転していたので、当たり前と言えば当たり前だ。
もう1つは、梓の財布に千円札が何枚もあったのに、代金「千八百五十円」を、一万円札で釣銭を受け取ろうとしたときである。
妻はこの2つのヒントで、梓の秘密が分かったという。僕は皆目わからず、梓は金銭については雑駁な人だと思い、それにしてはヘンな描写だと思っただけ、情けない。
そして2人は突然、キスをする。手話のラヴシーンは珍しい。
「梓はすぐ目の前にいて、問いたげな視線で僕の出方を待っていた。
それ以上、耐えられなくなった。
胸の震えを抑えて、手を五拍子に動かした。
〈僕〉、〈君〉、〈キス〉、〈したい〉、〈いい?〉
梓はさほど驚く様子もなく、口角を上げつつ手を簡潔に二拍子に動かし返した。
〈今?〉、〈私?〉
次の瞬間、まるで僕以上に待ち焦がれていたかのように、彼女は僕の唇を求めた。僕らは長くて、濃厚な口づけをした。」
しかしかろうじて女の方から、「今日はここで、お休み」と意思表示をし、同衾はしなかった。
最後に別れるとき、車の中で梓は「僕」に、「あたかも今から、実際に声に出して何か途轍もなく重要なことを語り出そうとするように見えた。」
しかし緊迫した「僕」が待っても、梓は困惑を深めるだけだった。
「その物憂い表情を見て、やはり心の内側に嵐を抱えている人なのだ、と改めて痛感した。彼女が見せる戸惑いは、他人には窺い知れない葛藤に由来しているようだった。」
しかし「僕」は、東京に帰って、親しい友人と呑んでいるとき、梓の秘密を解くカギを手にする。
この梓の秘密は、ここで明かしてもいいのではないかと思うが、著者と書肆がともに隠そうとしているのだから、そこは尊重して、僕から種明かしはしない。ここまで読んだ人は、何だあ、と思うかもしれないが、勘弁してほしい。
それよりも、最後が謎のままで残っている。それは解いておきたい。
王道の恋愛小説――『君の手が語ること』(デビット・ゾペティ)(2)
手話については、あらかじめ知っておくべきことがある。
主人公の「僕」は市民講座で講演したとき、同時通訳の手話がついて、それで興味を持った、という設定になっている。
そこで手話通訳の女性が述べる。
「より正確に言えば、日本で使われている手話は二種類あります。日本手話と日本語対応手話です。日本語対応手話は名の通り、音声日本語の文法と語順に合わせた手話表現ですけれども、日本手話という第一言語で育った多くの聴覚障がい者にとっては違和感が強く、やや疲れるコミュニケーション手段です」
僕は妻からこの話を聞いていたが、大半の読者にとっては初めて知ることだろう。
興味を持った「僕」は、地域の手話通訳者養成講習会に参加することにした。そしてその過程で、手話についていろんなことを知る。
「ろう学校で手話が禁じられ、口の形を読み取ることで日本語を獲得させるために口話教育を強いられ、聴者に迎合するろう者として育てられた時期があったことや、手話通訳者がまだいない時代に、多くの聴覚障がい者が意味も分からないまま、旧優生保護法の下で非道な不妊手術を強制されたことや、音声情報がまだ圧倒的に多い現代社会で日常的に障壁に直面していること、さらに手話通訳者の派遣制度の確立にあたって苦労が多かったなど、手話を勉強する者なら、そういう諸々の事実を誰でも知っている。
救急車が呼べなくて自宅で他界した人の例すらある。」
そういうことを前提にして、講習会とは別に、他府県をつなぐ6分割のオンライン講座にも参加する。「僕」はそこで、岐阜に住む「イエンセン梓」と知り合う。
何回目かのオンライン講座で、「僕」はまったく衝動的に、梓に問いかける。鵜飼を見に行くために、一度岐阜に行こうと思う、ついては観光案内を頼めないか、と。
梓は当然、大いに驚いた。
「続いて、彼女の表情は三段階を踏んで、相反する情動を転々とした。まずそこには純粋な嬉しさが込み上げた。是非お会いしたい、とでも取れる晴れやかな笑顔。ところが次の瞬間、何かひどく不都合な事案にでも気づいたような当惑した顔つきに変わった。しかしほど経て、最後には、それはなんとかなるだろう、と考え直したような、この上なく明るい面持ちに落ち着いた。」
このあたりの心理の微妙さが、正確に書かれていないと、恋愛小説は成り立たない。
対する「僕」の心の裡は、
「果たしてなぜ突如、あんな誘いをしたのだろう。バーチャルで、それも週に一回しか繋がっていないアズサに物理的に会ってみたいという気持ちは、いつ芽生えたのだろうか。〔中略〕自分は多少若く見えるらしいけれど、年齢的にも大きく離れている。彼女は好意的な態度を見せてくれているが、会って一体何になる?」
恋する者の気持ちは、いつもこんなふうにして始まる。
「考えれば考えるほど、自分の出し抜けの行動に呆れた。しかしアズサの振る舞いや、可憐さと気品の漂う容姿にはやはり、僕の琴線に触れるものがあった。」
還暦を迎えた60の男性も、10代の男の子も、この心の動きはまったく同じだ。相手の女性に対して、初めは常に「可憐さと気品の漂う容姿」を、心に思い描くのだ。
主人公の「僕」は市民講座で講演したとき、同時通訳の手話がついて、それで興味を持った、という設定になっている。
そこで手話通訳の女性が述べる。
「より正確に言えば、日本で使われている手話は二種類あります。日本手話と日本語対応手話です。日本語対応手話は名の通り、音声日本語の文法と語順に合わせた手話表現ですけれども、日本手話という第一言語で育った多くの聴覚障がい者にとっては違和感が強く、やや疲れるコミュニケーション手段です」
僕は妻からこの話を聞いていたが、大半の読者にとっては初めて知ることだろう。
興味を持った「僕」は、地域の手話通訳者養成講習会に参加することにした。そしてその過程で、手話についていろんなことを知る。
「ろう学校で手話が禁じられ、口の形を読み取ることで日本語を獲得させるために口話教育を強いられ、聴者に迎合するろう者として育てられた時期があったことや、手話通訳者がまだいない時代に、多くの聴覚障がい者が意味も分からないまま、旧優生保護法の下で非道な不妊手術を強制されたことや、音声情報がまだ圧倒的に多い現代社会で日常的に障壁に直面していること、さらに手話通訳者の派遣制度の確立にあたって苦労が多かったなど、手話を勉強する者なら、そういう諸々の事実を誰でも知っている。
救急車が呼べなくて自宅で他界した人の例すらある。」
そういうことを前提にして、講習会とは別に、他府県をつなぐ6分割のオンライン講座にも参加する。「僕」はそこで、岐阜に住む「イエンセン梓」と知り合う。
何回目かのオンライン講座で、「僕」はまったく衝動的に、梓に問いかける。鵜飼を見に行くために、一度岐阜に行こうと思う、ついては観光案内を頼めないか、と。
梓は当然、大いに驚いた。
「続いて、彼女の表情は三段階を踏んで、相反する情動を転々とした。まずそこには純粋な嬉しさが込み上げた。是非お会いしたい、とでも取れる晴れやかな笑顔。ところが次の瞬間、何かひどく不都合な事案にでも気づいたような当惑した顔つきに変わった。しかしほど経て、最後には、それはなんとかなるだろう、と考え直したような、この上なく明るい面持ちに落ち着いた。」
このあたりの心理の微妙さが、正確に書かれていないと、恋愛小説は成り立たない。
対する「僕」の心の裡は、
「果たしてなぜ突如、あんな誘いをしたのだろう。バーチャルで、それも週に一回しか繋がっていないアズサに物理的に会ってみたいという気持ちは、いつ芽生えたのだろうか。〔中略〕自分は多少若く見えるらしいけれど、年齢的にも大きく離れている。彼女は好意的な態度を見せてくれているが、会って一体何になる?」
恋する者の気持ちは、いつもこんなふうにして始まる。
「考えれば考えるほど、自分の出し抜けの行動に呆れた。しかしアズサの振る舞いや、可憐さと気品の漂う容姿にはやはり、僕の琴線に触れるものがあった。」
還暦を迎えた60の男性も、10代の男の子も、この心の動きはまったく同じだ。相手の女性に対して、初めは常に「可憐さと気品の漂う容姿」を、心に思い描くのだ。