ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(4)

橋本忍は、ふだんは厳しい伊丹万作が、黒澤明のシナリオを手放しで誉めていたことが記憶にあり、人を介してシナリオを黒澤に送った。
 
それから一年と経たないころ、『雌雄』つまり『藪の中』を黒澤明が映画化する、という話が持ち上がったのである。
 
ただ『雌雄』は、ペラ(シナリオ用の200字詰め原稿用紙)100枚を切り、45分にしかならない。
 
知恵を絞った橋本と黒澤は、『羅生門』と『藪の中』を組み合わせることを考える。
 
ところが、この組み合わせをどちらが主導したかが、今となっては分からない。
 
春日太一は、執拗に真相を見究めようとするが、黒澤明は鬼籍に入り、橋本の証言も最終的には怪しい。
 
映画は集団芸術で、ひどいときには最初から、誰が言いだした企画やら分からない、ということがある。

このブログでも取りあげた『仁義なき戦い 菅原文太伝』で、『仁義なき戦い』の企画には、役者、プロデューサーなど4人ほどが、後になって名乗りを上げている。これは行けるとなれば、各人が入れ込むから、結果としてこうなる。
 
映画の『羅生門』は、作る過程で手ごたえがあったろうから、自分が責任をもってシナリオを書いた、と言いたくなる気持ちはわかる。そこで真相は「藪の中」となる。
 
そんなことよりも、療養所で初めて、映画のシナリオを見たところから、黒澤明の『羅生門』完成まで、橋本忍の自伝物語としては、あまりにも出来過ぎてはいないだろうか。はっきり言って、ほとんど奇跡の連続ではないか。
 
しかし春日太一を信用する限りは、橋本忍の人生に、そういうことはあったようなのだ。
 
黒澤明監督の『羅生門』は、1951年にヴェネチア国際映画祭で、グランプリを獲得する。

「世界のクロサワ」がヴェールを脱ぎ、登場人物の証言に食い違いのある物語構成は、「羅生門スタイル」と呼ばれ、新しい脚本技法として世界的に広まっていった。
 
では橋本忍はどうしたか。デビュー作が、いきなり世界的な賞を得たのだ。脚本家として鮮烈なスタートを切った、――ということになるはずだが、そうはならなかった。

『羅生門』を書きあげた段階では、橋本はまだサラリーマンであり、しかも脚本家になるつもりもなかった。
 
ところが期せずして、会社の業績が左前になり、人員整理で辞めた連中が、橋本忍をトップにして会社を作ろうとする。
 
橋本も、そちらへ片足を突っ込みかける。

「だけど、よく考えてみると、そういう事業体は戦争みたいな大きなことがあって初めて景気が良くなるんだよ。あれだけでかい戦争があったんだから、もう二十年や三十年は戦争はないと思ったの。それよりは、僕はシナリオが書けるんだったらシナリオライターがいいのかなっていう気がしたりして。結局は迷った末にシナリオのほうへ傾いていったんだよ。」
 
この本では、橋本忍の証言は、すべてゴチックにしてある。そして、この部分はもっとも橋本忍らしいところだ。
 
第2次大戦が終わったばかりで、日本中が、もう永久に戦争はしませんというときに、橋本忍は、「もう二十年や三十年は戦争はないと思った」と語っている。
 
これはどういうことなのだろう。
 
新会社のチームから抜けて、シナリオ専属になって2,3か月たったころ、朝鮮戦争が起こった。

「これは大失敗したと思ったね。あれだけ大きい戦争があったら、大儲けできるからね。僕を支えてくれる連中と一緒に会社を興してたら、うまいこといっただろう。それで、それが難しくなりかけた頃にベトナム戦争でしょう。だから、あの頃は事業家にとっては大変よかったんだよね。」
 
どこまでも現実的で、これからの日本を創ろう、という理想はない。朝鮮戦争、ベトナム戦争は、会社を隆盛にしていく機会に過ぎない。
 
戦後最大の脚本家の思想は、一体どういうものだったのだろう。
 
これだけ読むと、橋本忍はつまらぬ奴だ、となりそうだが、そういうことなのか。

では、『生きる』『七人の侍』『私は貝になりたい』『切腹』『白い巨塔』『日本のいちばん長い日』『人斬り』などは、どういう観点、人生観から、書き進められたのか。
 
個別のシナリオについては、また述べる機会があるだろう。
 
私は、橋本忍は「彼岸の眼」「末期〔まつご〕の眼」を持っていたと思う。戦争に行って死ぬか、結核で療養所で死ぬか、いずれにしても、近い将来、死は避けられない。自己の死を、はっきり見定めた数年間があったと思う。

そういう経験のある人のみが持つ、あらゆることにおける「諦念」に似た気持ちをもって、事にあたろうとする態度、――橋本忍のシナリオは、そこをくぐり抜けた人のみが持つ凄み、奥深さ、複雑さが、あったのではないか。

ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(3)

橋本忍は初めての脚本、『山の兵隊』を伊丹万作のところに送り、はからずも返事をもらう。
 
とはいうものの伊丹の返事は、構成上直した方がよいところを指摘した上で、最後にこんなことが書いてあった。

「あなたにはものを書く素養が欠け、才能や感受性のほうが先行し過ぎているのではないかと思われる。」
 
これはかなり厳しい批評だが、橋本は、伊丹から返事が来たことの方を、喜んでいた。
 
別のときに、橋本に『山の兵隊』を読んでもらったことがある、と春日太一は言う。

「倉庫の中から伊丹さんに送った最初の『山の兵隊』が出てきたの。で、読んだの。
 つまらない。粗雑というか稚拙でね。いいかげんなホンなんだ。でも、びっくりしたのは、僕が読んでも『この人は見込みがある』と思えたんだ。何か非常に大きな興味を持たせるものがあるの。稚拙な出来損ないでもね、きらっと光るものがあるんだよ」。
 
実はここに、橋本忍のもっとも強い個性が出ている。
 
春日太一はこう書いている。

「これから後で出てくる証言においてもそうなのだが、橋本の言葉には自身の才や作品への自信が強固に表れている。謙遜は一切ない。」
 
ふつうはそれを奥底に隠して、人に読んでもらうときにはやや下手から、となるはずだが、橋本忍に関しては、そういうところは一切ない。
 
その稚拙な『山の兵隊』は、療養所に入院した「廃兵」の群像劇である。

「『廃兵』として扱われる彼らを覆う絶望感が伝わってくる。その後の橋本脚本には、共通する特徴がある。それは、理不尽な状況に追いやられた人間を表現する際に筆致が強くなり、特に卓越した描写力を発揮するというものだ。初の脚本で既に、その萌芽が見られるのである。」
 
その後、どういうやり取りがあったのかは、よくわからないが、橋本は伊丹万作の、ただ1人の弟子になるのである。
 
日本が戦争で負けそうなとき、橋本はふだんは軍需工場で仕事をし、通勤の行き帰りと休みの日には、シナリオを書き、それができたならば、伊丹万作のところへ持って行き、見てもらう。
 
伊丹も「熱心に」指導したらしい。習作シナリオの表紙に、伊丹によるものと思われる、次のような指摘が記されている。

「〇全体としての登場人物に生活がない。所謂、類型的登場人物ばかり出ている。
 〇周囲の登場人物が克明に描かれていないから主人公の営みがういている。
 〇社会性が欠如している故か、何故こうなり、こうひどくあらねばならぬか、それがな
  いからそれに耐えて生きてゆこうとする結末が空々しく浮いてみえる。
 〇肉づけ自体にするにしては話が急すぎるし、余分のものがからまりすぎている。
 〇唯暗いだけである。」

「熱心に」、と春日太一が書いているから、そのままを踏襲したが、批評を見ると、ボロクソとしか言いようがない。とくに最後の、「唯暗いだけである」というのは、まるで現代詩のようだねえ。
 
ひとつ分からないことがある。
 
一切謙遜しない橋本忍は、どうやって伊丹万作の、批評というか、全否定に近い罵倒に、耐えていたのだろう。ふつう謙遜しない性格なら、たちまち席を蹴って二度と会わない、となるはずではないか。違うかな。

しかしそうはなっていなくて、戦況がいよいよ不穏になっても、休みの日になれば、伊丹のところへ通ってくる。まったく不思議だ。
 
1945年8月15日、日本の無条件降伏により、戦争が終わる。
 
橋本忍にとっては、この時期、戦争が終わるのは、願ってもないことだった。アメリカから、結核に効くストレプトマイシンが、入ってきたのである。もって2年といわれていたのが、ここから70年以上、寿命は続くことになる。
 
しかし橋本とは逆に、療養していた伊丹万作は、1946年9月に亡くなる。
 
師を失ったまま、橋本は「心の穴を埋めるため」、シナリオ執筆を続ける。この段階では、「商業デビューすることも、専業ライターになることも、全く考えていない」と、春日太一は言う。
 
この時期に橋本忍は、芥川龍之介の『藪の中』を、シナリオ化することを考えつく。

「夏目漱石は何度も映画化されているが、芥川龍之介はまだ映画化されていない。それなら自分の手で書こうじゃないか」。
 
しかしこのときも、あくまで暇つぶしであり、映画化など夢にも思っていない。そのシナリオは、『藪の中』というタイトルでは地味だと考え、新たに『雌雄』と付けていた。
 
それがいろんな経緯を経て、黒澤明の手に渡り、映画化されることになる。しかし、そのシナリオの直しの経緯も、関係者の発言は「藪の中」なのである。

ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(2)

橋本忍は、徴兵にとられ出征する直前、結核に罹っていることが分かり、岡山療養所に入る。そこで隣の男から、映画雑誌のシナリオを見せられる。
 
橋本には、初めて見るシナリオが、えらく簡単に書けそうに思えた。

だからそう言うと、隣の男、成田伊介は苦笑して、実際にやってみると、簡単なものではないという。
 
橋本は、自分ならできると言い、「これを書く人で、日本で一番偉い人はなんという人ですか?」と聞いた。
 
する成田伊介は、伊丹万作という人だと答えた。
 
この辺りのことは、おそらく橋本忍も、もう覚えていないだろう。あとで辻褄合わせになっている可能性が強い。50年以上昔の事であれば、自分のことを考えても、そういうことになりがちだ。
 
成田伊介は、結核で間もなく死ぬ。しかしこのとき、療養中で暇をもて余していた橋本忍に、映画のシナリオを見せていなければ、映画界最大のシナリオ作家は生まれていない。そうすると、あのいくつもの名作は、生まれていないのだ。日本映画の歴史は、まったく違うものになったろう。そう考えると、本当に不思議な気になる。
 
1941年12月8日、真珠湾を攻撃し、日本は太平洋戦争に突入する。
 
以下は橋本忍が、春日太一の取材に答えた言葉である。

「支那戦線で戦っていた奴はみんな、必ずしも中国に勝ったんではないということを知っていた。日本は面ではなく点と線を確保しただけに過ぎない。だから、いつまでたっても解決がつかなかった。
 中国だけでそんなになっているのに、その上アメリカと戦争してどう勝つの――というのがあの時の兵隊の意識だよ。だから、あの軍艦マーチを聞いた途端に、僕も含めてあそこにいたみんなが『負けた』という感じだった。」
 
後になってのこういう発言を、どんなふうに受け取ればいいだろうか。ひとまずそういうものとして、肯定的に保留するしかない、と私は思う。
 
橋本忍は、とにかく数年後には戦争に負けて日本はなくなる、どうせみんな死ぬんだから、療養所を出て、外の世界で目いっぱい生きようと思った、と述べている。
 
1942年に療養所を出た橋本忍は、43年に結婚し、44年には長男を得る。療養所では、結核で2年は持たないといわれていたが、そんなことはなかった。
 
橋本は当時、軍需徴用により、姫路にある中尾工業で経理を担当していた。これは後にプロダクション経営に役立つことになる、と春日太一は言う。
 
そして橋本忍は、このころから本腰を入れて、シナリオを描き始める。

「大きく揺れる汽車の車両でも執筆を進められるよう、橋本は大きなカバンからベニヤ板の紙ばさみを取り出し、そこに用紙を挟んで書き進めたという。往路は始発からすぐなので座って描くことができたが、帰りは帰宅ラッシュ。〔中略〕車内ではメモとして思いついたことを思うままに書くに留め、日曜日に自宅で推敲し、削除や修正を重ねながら仕上げていった。」
 
こんなことが、どうしてできたのだろう。片道50分の汽車通勤で、「ぼんやり外を見ていてもつまらない」から、というのが、橋本の執筆動機だという。
 
日本が戦争で負けそうになっているとき、勤めを持った人が、通勤の電車の中でシナリオを描いている。これは異様な光景ではないか。
 
私は、妻の田中晶子に聞いてみた。そもそもなぜ、高校生のとき、「人形嫌い」というシナリオを、書いてみようと思ったのか。

「そのころは早坂暁、向田邦子、山田太一などがいて、脚本家も輝いていたから。それに小説よりも簡単そうでしょ。」
 
なるほど筋は通っている。でも、そういう高校生は他にいなかったし、それ以後もいない。やはりよくわからないところは残る。
 
橋本忍が、何に突き動かされていたかは、結局わからない。ひょっとすると、本人にもわからなかったのではないか。

ともかく橋本は、ついにシナリオを描き上げ、そのとき結核で寝ていた伊丹万作に、送ったのである。

ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(1)

橋本忍は1918年(大正7年)、兵庫県に生まれ、2018年(平成30年)に死んだ。ちょうど100歳だった。
 
脚本家として、『羅生門』『生きる』『七人の侍』『張込み』『私は貝になりたい』『ゼロの焦点』『切腹』『白い巨塔』『日本のいちばん長い日』『人斬り』『日本沈没』『砂の器』『八甲田山』などのシナリオを描いた。
 
ざっと目につくものを挙げただけでも、戦後映画の本流を歩んだ、最大の脚本家である。
 
この本は春日太一が、橋本忍を取材し、12年かけて書いた。
 
私はこの本と前後して、島﨑今日子『ジュリーがいた―沢田研二、56年の光芒―』を読んでいた。
 
これは、あまりにも対照的な本だった。『ジュリーがいた』の方は、ついに沢田研二は一度も、取材を受けることはなかった。
 
それに対して、『鬼の筆』の橋本忍は、徹底的に取材を受けた。ただ、その橋本忍像が、世間一般に出回っている脚本家像とは、かなり違っている。

つまり橋本忍像は、取材をした春日太一の筆によるものなのかどうか、が分からない。
 
春日太一についても、奥付の著者紹介を引いておく。

「1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了(芸術学博士)。著書に『天才 勝新太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『忠臣蔵入門 映像で読み解く物語の魅力』(角川新書)など多数。」
 
ただし私は、春日太一の本を手に取ったことはあるが、読んだことはない。
 
さて橋本忍は幼少のころ、祖母から農民一揆の話を、何度も聞かされた。

「明治初期に播磨・但馬地方で政府に対して農民たちが蜂起、『播但一揆』という大規模な一揆に発展した。〔中略〕『お婆ちゃん』もその一揆に参加しており、その顚末を幼い孫に聞かせていたのだ。」
 
つまり単なる昔話ではない。祖母が実際に体験した話なのだ。

「『あっちの村でもこっちの村でも、ゴーンゴーンと早鐘が鳴ってのう――』
『お婆ちゃん』の昔話は、いつも同じ出だしで始まった。穏やかな顔から語られたとは想像できないような、陰惨で血なまぐさい暴動の顚末には、橋本はいつもワクワクさせられた。
 橋本によると、この時の『お婆ちゃんの話』が、後に脚本家として陰惨で理不尽な話ばかり書くことになる原点となったという。」
 
祖母が語った昔話の内容も、ここに挙げてあるが、百姓一揆の顚末は、陰惨を極めたものだ。橋本忍は、祖母にねだって、それを何度も何度も聞いたという。
 
もう一つ決定的なことは、父親の徳治が、橋本の小さいころから、芝居の興行を打っていたことだ。

「芝居小屋といっても、大袈裟な作りの建物ではない。畑をならして筵を敷き、その上にテントを張っただけの、わずか二日で出来る簡素なものだ。橋本が後に脚本家になり東京に出てからも、徳治はこの地で芝居小屋を続けて」いた。
 
徳治は興行の才覚があり、芝居はいつも盛況だった。毎年、芝居の時期になると、さまざまな座長やプロデューサーたちが、徳治のところへ売り込みにやってくる。

「企画の魅力を必死に語る座長たちと、博打打ち特有の直感でその成否を分析し、断を下す徳治。橋本は、その様子をいつも間近で見ていたという。芝居の関係者たちと丁々発止の交渉を繰り広げ、自身に優位な契約へと持っていく父の姿に、橋本は憧れた。」
 
理不尽に死んでいく農民の怨念と、芝居興業へのたぎるような熱い思い、――橋本忍の、人としての成り立ちを語って、見事なものである。
 
しかしそれだけに、書かれていることには概ね納得するが、最後の最後に、ほんとかなあ、という疑いの気持ちが紛れ込むのを、何ともしがたいのである。

ただ、懐かしく――『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』(坪内祐三)(3)

「戦後論壇の巨人たち」には魅力的な名前が、まだいくらでもある。もちろん全部、読むに値するのだが、その中でも大宅壮一・三島由紀夫・葦津珍彦・清水幾太郎・羽仁五郎・丸山眞男は、個人的に興味を引く。
 
羽仁五郎や丸山眞男など、思想的に坪内さんと対立する人は、どんなふうに書き記したのか。

あるいは清水幾太郎のように、左から右に大きくカーブを切った人の場合、あるいは葦津珍彦のように正真正銘、右翼の大立者の場合、いわゆる「戦後論壇の巨人たち」に入れるのは、かなり覚悟を要する。
 
もちろんどの人も、思想別にローラーをかけて分類したりせず、その人の書いたものを丹念に読めば、おのずとその姿が立ち上がってくるのだが。
 
そういう「巨人たち」は、本文を読んでいただくこととして、ここでは京都の碩学、宮崎市定を取り上げる。サブタイトルは「現実を眺める歴史家の眼差し」である。
 
宮崎市定は中国を中心とするアジア史の専門家で、『科挙』『水滸伝』『中国史』などは、専門家はもとより、幅広い読者の支持を受けた。
 
坪内さんはここでは、雑文集『東風西雅』と随筆集『木米と永翁』から引用している。
 
まずはわが国の、大方の言論人が礼賛した、文化大革命について。

「少し早まった言い方かも知れないが、中国の文化大革命は、共産主義運動がもつ一つの限界を示すものではあるまいか。先ず破壊せよ、そのあとに良いものが出来る、と教えるが、その良いものはなかなか出てこない。これは理由のあることで、各国はそれぞれ数千年の過去を背負っているから、一朝一夕にして従来の伝統から抜けきれないのは当然すぎるほど当然なのだ。」
 
マスメディアが揃って前を向くとき、ひとり左右両横も見た方がよい、さらに後ろも見た方がよい、と言い続けるのは勇気のいることだ。
 
しかし学者が、たとえ一人になろうとも、信じるところを述べないのであれば、学者の看板を下ろした方がよいと、この人を見ていると思う。

「私は当時流行した、歴史哲学で歴史を考え、唯物史観で歴史を見る行きかたには、ついていく気がしなかった。それでは歴史学そのものの独自な存在を否定するように感じたからである。他人の理論で造った眼鏡に度をあわせて見ていれば、やがて自分自身の視力が破壊されるに違いない。しまいには他人の眼鏡を借りなければ物が見えなくなってしまいはしないか。」
 
いかにもまっとうなことが書かれているようだが、こういうことを言うためには、よほど自分の目を鍛えてなければいけない。そういう人はほとんどいない。

私はすぐに『東風西雅抄』を注文した。
 
第2章から第5章までは、ひとまとめに括ってしまえば、『文藝春秋』と『中央公論』を中心とした、ジャーナリズム論である。

今読めば、そして坪内さんの書きぶりも、いかにも昨日のこと、つまりオンリー・イエスタデイの気分が強いが、後に読んでみれば、第一級の資料となるだろう。
 
さてここで、最初の問題に返ろう。
 
なぜこの国には、知識人といえる人が、ほとんど残っていないのか。そしてそれが、補填されないのはなぜなのか。
 
それは、専門が細分化されて、大きなところでまとめて何か言うのが、個人には難しくなったから。その類いの月並みなことは、すぐに言える。
 
坪内祐三は、その方向からではない、実地に即したことで、実感を込めて、このごろのことを話している。
 
それは、インターネットの社会的影響ということだ。

たとえばツイッターを「眺め」てみれば、そこには「文脈」がない。その文脈のない言葉が、次々に拡散(リツイート)されてゆく。

「本や雑誌に載せる文章には文脈が必要です。いや、文脈こそが命だと言っても過言ではないでしょう。そういう媒体(雑誌)が次々と消えて行く。これは言葉の危機です。
 しかし、消えゆく雑誌に対する、ざまあみろ、というつぶやきも、幾つも目にしました(つぶやきたがる人の特徴の一つはルサンチマンがとても強いことです)。」
 
文脈をもった文章が、かりに活字になって、もし人前に表われることがあっても、それはルサンチマンをバネにした、文脈のない言葉の洪水にかき消されてしまう、というのだ。
 
これは今のところ、どうしようもないことだが、しかし必ず、心に留めておくべきことである。

(『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』
 坪内祐三、幻戯書房、2018年1月15日初刷)

ただ、懐かしく――『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』(坪内祐三)(2)

「第1章 戦後論壇の巨人たち」の中に、小林秀雄の章がある。ここに坪内さんの秘密、というか本質が、はっきりと出ている。
 
この章は正確には、「小林秀雄――ものそのものと出会う」である。そして冒頭から、いきなり核心を衝く。

「大げさな言い方をすれば、小林秀雄は、生涯を通じて、一つのことしか語ろうとしなかった。その一つのことに対する考察を、彼は、長い生涯をかけて、深めていった。
 その一つのこととは、つまり、さかしらを捨てて、ものそのものと出会え、ということである。」
 
小林は27歳のとき、「様々なる意匠」で、こんなことを述べている。

「古来如何なる芸術家が普遍性などという怪物を狙ったか? 彼等は例外なく個体を狙ったのである。」
 
そして40歳のとき、短いエッセイ「当麻」(たえま)で、あまりにも有名な言葉を書き記す。

「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」
 
61歳で生涯を閉じた坪内さんは、全体を振り返って見れば、小林秀雄とよく似た道筋を通ってきた、と言えるだろう。
 
もちろん小林秀雄を師と仰いで、その道を歩んだわけではない。単にそういう気質だったからだ。

「戦後論壇の巨人たち」で、並ぶはずのない人物名が、呉越同舟で並んでいるのは、そういうわけである。

つまり個別徹底的に、人物を観察した結果、右翼・左翼の枠を超えた人たちが、「巨人」として残ったのだ。
 
それにしても小林秀雄の、「さかしらを捨てて、ものそのものと出会え」とは、何と魅力的な言葉だろう。
 
ちなみに私は、小林秀雄の言うことはすべて言う通り、と思ってきた、40代までは。
 
50になって、「ものそのものと出会え」は、それはそうだが、それで済ませるのでは足りないんじゃないか、もっと言えば間違いじゃないか、と思うようになった。
 
いってみれば、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものも、次元を違えてある」、といったところか。
 
しかしこの理由を述べると、坪内さんの著書とは離れる。

「戦後論壇の巨人たち」は、「中野好夫――頑固なお調子者」の章も面白い。この人は、東大英文科教授を、定年を待たずに辞任し、以後はジャーナリズムで活躍した。
 
専門はシェイクスピアを中心とするエリザベス朝演劇だが、伝記作家として『アラビアのロレンス』『蘆花徳富健次郎』などがあり、また『ガリヴァ旅行記』『月と六ペンス』ほかの名訳者として知られる。
 
私は個人的には『月と六ペンス』が思い出深い。中学へ入ってすぐに、始めて文庫を買って読んだ。『赤と黒』(小林正・訳)も同時に求めて、これも読んだ。驚愕した。新潮文庫は、こんなに面白いものが入っているんだ。
 
それはともかく、中野好夫である。
 
坪内さんは、中野の『アラビアのロレンス』や『スウィフト考』などを愛読したが、論壇時評や、時事的なコラムには反発した。

「私が彼の時事的な発言に反発をおぼえたのは、彼がすぐに、右傾化が始まっただとか、またいやな時代がやって来そうだとか口にしたがるからだった。
 進歩的文化人の典型。」
 
しかし坪内さんは、中野好夫の文章は、記事をスクラップするくらい好きだった。そこはわざわざ、「その辺に私の矛盾があるのだが」と断っている。
 
ただ最後に、中野好夫はこんなことを述べている。

「〔宮武〕外骨翁の反俗、叛骨ぶりの基底には、思想やイデオロギーではなく、それ以前のいわば天性の気質があったものと信じます。私はあまり思想なるものを信じません。より信用できるのは気質です」。
 
坪内さんが信頼を寄せるのは、ここである。

「つまり私はこう書く中野好夫の気質が嫌いではないのである。」
 
私も同じように、中野好夫は好きでよく読んだ。しかし、「またいやな時代がやって来そうだ」というのは、きっとその通りだと思っていたのだ。
 
私が坪内さんと、ある距離を置いていたのは、そこらへんに原因がある。

ただ、懐かしく――『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』(坪内祐三)(1)

坪内さんの本は、ただ懐かしく、坪内さん自身が、酔っぱらっていても、たとえぐでんぐでんであっても、折り目正しい酔っ払いだったし、書くことも、その文体、形式に至るまで、何か懐かしい感じがしてしまう。

今度の本は、雑誌に連載していたのを集めたものだ。章ごとの目次を示そう。

  第1章 戦後論壇の巨人たち

  第2章 文藝春秋をつくった人びと

  第3章 瀧田樗陰のいた時代

  第4章 ラディカル・マイノリティの系譜

  第5章 「戦後」の終わり

第1章の「戦後論壇の巨人たち」が、この本の中心である。総勢24人を、1人わずか6ページで紹介しているが、これが切れ味鋭く、しかも軽やかである。
 
そして必ずしも坪内さんが、人物の全体を買っていない人であっても、こういうところが魅力的で気にかかる、という指摘が鋭い。
 
その「巨人たち」は、以下の通り。
 
福田恆存・田中美知太郎・小林秀雄・林達夫・大宅壮一・三島由紀夫・小泉信三・花田清輝・唐木順三・竹山道雄・中野好夫・橋川文三・河上徹太郎・中野重治・鮎川信夫・竹内好・桑原武夫・宮崎市定・葦津珍彦・清水幾太郎・羽仁五郎・臼井吉見・山本七平・丸山眞男
 
福田恆存を最初に挙げてあるが、これには理由がある。坪内さんは、誰よりも福田恆存に私淑しているのだ。
 
私も、文藝春秋から「人と思想」のシリーズで、『日本を思ふ』が出たときは、一生懸命読んだものだ。中学3年生のときで、大人の本が読めるのが、嬉しくて仕方がなかった。
 
しかしそれに続いて、小田実を読んでたちまちイカれ、それで「保守反動」の福田恆存は見向きもしなくなったか、というと、そんなこともなくて、『平和論に対する疑問』や『私の國語教室』などは、そういう見方もできるなあと思い、半分納得して読んだ。
 
各章の初めに書き下ろしで、「この章について」という注釈があり、これが面白い。

第1章はこんなふうに始まる。

「戦後五十年を迎えたのは一九九五年(平成七)年だが、それは一つのエポックとなる年だった。
 つまりこの時、『戦後』というタイムスパンの耐用期限が過ぎ、その時代が終わろうとしていた。ちょうどそれは阪神淡路大震災とオウム真理教事件が立て続けに起きた年だった。」
 
だから戦後を総括するという意味で、この連載を『諸君!』で続けたのだ(私は『諸君!』を読まないので、連載中はまったく知らなかった)。

そして問題は、この知識人たちの後が続かないことだ。

「この国には知識人がもう殆ど残っていない。
 しかも、まったく補填されていない。
 その情況を考えると私は恐ろしくなってしまう。
 かつての左翼と右翼という対立に変わって今、サヨとウヨという言葉がある。サヨであれウヨであれ、そんなことはもはやどうでもよい。
 事態はもっと深刻なことになっているのだ。」
 
では一体、どんなふうに深刻になっているのか、そして、それはなぜなのか。

ムダに血がのぼる――『言いたいことは山ほどある―元読売新聞記者の遺言―』(山口正紀)(2)

2021年3月6日、33歳のスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんが亡くなった。名古屋の出入国管理局に無期限に収容され、ストレスで食事ができなくなり、飢餓状態に陥るも治療は受けられず、見殺しにされた。
 
遺族の代理人、指宿昭一弁護士は、名古屋入管の責任者らを、「未必の故意」による殺人容疑で、名古屋地検に告発した。
 
でもこれは、検察も入管も一蓮托生なのだから、どうしようもない。
 
そのころウィシュマさんの遺族が来日し、テレビや新聞で、入管の非人道的な対応を訴え、監視カメラのビデオの全面開示を迫った。

「だれがウィシュマさんを殺したのか」の章は、正直、あまり読みたくない。なんども報道されたので、ほとんどのことは知っている。
 
この内容を読むたびに、少し前までは、血が頭に上って沸騰したようになった。特にビデオ映像が開示され、それをテレビで見たときは愕然、憤然となった。政府の関係者、役人以外は、みんなそうなったろう。
 
それはこんなふうだった。

「ベッドから落ち、何度助けを求めても無視される様子。鼻から飲み物をこぼしたウィシュマさんを見て、『鼻から牛乳』などと笑いものにする職員たち。死の前日『あー。あー』と繰り返す泣き声は、『まさに死んでいく人の声でした』と指宿さん。姉の悲惨な映像にショックを受けた妹二人は途中で見ていられなくなり、一時間一〇分ほどで出てきた。」
 
これは入管庁が、ビデオ映像の残る13日分を、2時間に編集したもので、部分開示に過ぎない。つまり、本当に不都合と考えるところは、隠してる。

入管は、このくらい開示されても、どうということはない、と考えている。外国人が入管と関われば、なぶり殺しにあっても、それが公開されても、どうしようもないとなるわけだ。
 
しかし部分開示にしても、こういうものを残して、入管の誰も罪に問われないとはどういうことか。日本国は人の命を、いとも簡単に奪い去る。それはロシアと変わるところがない。
 
移民の話は、このブログで何度も取り上げた。だからここでは繰り返さない。ただ入管の方針、姿勢は、今の日本が取るべき態度とは、真逆である。そういうことに鈍感な国は、いずれ滅びるほかはない。
 
他の章も、同じような方向性で書かれている。著者が癌で死んだのは、メディアに対して悶死したのではないか。ついそういうふうに考えてしまう。
 
最後に、これだけは言っておきたい。

「菅〈臭いものにフタ〉政権誕生を助けたメディア」の章で、菅義偉が首相になる前、官房長官だったときのことだ。
 
官房長官といえば、内閣のスポークスマンである。一日一回は記者を集めて会見をする。この会見が噴飯もの、というか開いた口がふさがらないものだった。

「菅氏の独裁的性格を物語るのが、官邸記者会見で常用した言葉だ。記者の質問を、『ご指摘には当たらない。ハイ次』『まったく問題ない。ハイ次』と問答無用で切り捨てていく。質問で指摘されたことについて、なぜ『指摘に当たらない』のか、『問題がない』のか、その理由を何も示さず、説明を一切省いて答弁したことにしてしまう。恐るべき傲慢さであり、異論・反論を許さない独裁者の振る舞いである。」
 
2013年から16年まで、この人が内閣官房長官として毎日、記者会見を開いていたのである。

その期間、毎日ムカムカしていた。子どもがこんな大人の真似をしたら、と考えると、正気ではいられなかった。
 
小学生の国語の教科書は、「読み・書き・話す」という教材が均等に入っていて、「話す」は、人に話すとき、あるいは人の話を聞くときは、一生懸命気持ちを込めて、よくわかるように、と指導しているはずだ。
 
管の態度は、それとは正反対だった。管よ、もう一度、小学一年生からやり直せ。少なくとも人前で、テレビで喋るのは、絶対にやめてくれ。全国の小中学生に、正反対の手本として害悪を垂れ流しているだけだ。
 
ということを思い出すから、こういう本は、できれば読みたくないのだ。
 
私は9年前に脳出血で倒れ、半身不随になった。いわゆる公けの場所へは、もう行くことができない。私が社会参加するのは、選挙のときのみ。だからこういう本は、できれば読みたくないのだ。しかし無理だろうなあ。

(『言いたいことは山ほどある―元読売新聞記者の遺言―』
 山口正紀、旬報社、2023年3月10日初刷)

ムダに血がのぼる――『言いたいことは山ほどある―元読売新聞記者の遺言―』(山口正紀)(1)

元編集者のSさんは年賀状に、前年面白かった本を、2,3冊挙げてくる。その挙げ方は、簡単な評も含めて絶妙で、読んでない本の場合には、必ず読む気にさせる。
 
ジャンルは思想・歴史系が多いが、昨年の年賀状では珍しく、山口正紀『言いたいことは山ほどある』を挙げていた。
 
サブタイトルを見ればわかるように、今はフリーのジャーナリストが、がんの末期に言っておくべきこと言ったもの。著者は2022年12月に亡くなった。
 
内容は、2020年から22年にかけての社会問題を扱ったもので、目次ではなく、テーマを簡単に抜粋しておく。

 少年の立ち直りを妨げる「実名報道解禁」案

「アベ政治の七年八か月」検証報道は放棄された

「袴田事件」の冤罪に加担したメディアの責任

 体制翼賛の東京五輪、疑問・批判はタブーに

 新型コロナの感染大爆発は「患者見殺し政策」という人災

「飯塚事件」は検察によって死刑執行された冤罪

 いよいよ〈壊憲〉に動き出した岸田首相

 だれがウィシュマさんを殺したのか

 ヘイトクライムを助長した石原慎太郎の暴言録

 「安倍はウソつき」と言っただけで逮捕・勾留される危険性

本の内容は、およそこれの倍あるが、ここに挙げただけでも、その方向性はわかるだろう。

このなかでは「飯塚事件」に注釈が必要だろう。

これは1992年、福岡県飯塚市で起きた2人の女児殺害事件で、久間三千年さんが逮捕され、一貫して無実を訴えていたが、2008年に死刑が執行された。
 
問題になったのはDNA鑑定だ。これと同じ時期のDNA鑑定が、「足利事件」で誤りであることが分かり、こちらの方は再審無罪となったのだ。

「この足利事件で『DNA型再鑑定へ』と報道されたのが〇八年一〇月上旬。その一〇日余り後、突然再審準備中の久間さんの死刑が執行された。それを知った時、私は恐ろしい疑惑に駆られた。この死刑執行は、足利事件に続いて『DNA冤罪=DNA型鑑定を悪用した冤罪』が発覚するのを恐れた検察による口封じ殺人ではなかったか……。」

「足利事件」の再審無罪は、テレビや新聞で大きな話題になった。

被告が死刑判決を受けた「飯塚事件」は、同じ型のDNA鑑定を用いているから、裁判はやり直しになると思っていたら、突然死刑が執行された。

「飯塚事件」は、上・中・下と3章をついやし、委曲を尽くして冤罪を証明しようとしている。誤ったDNA鑑定以外にも、誰が見てもおかしな証拠がいくつもあるのだ。
 
僕はこの事件を、「現代を聞く会」という勉強会で知った。そのときの講師は、青木理さんだった。

「飯塚事件」は、著者がこれを書いている時点で、第2次再審請求がだされている。
 
そこでは、「警察が握りつぶしてきた真犯人につながる新たな目撃証言が加わる。この強力な新証拠を前に、裁判所は、司法が犯した『冤罪死刑』という取り返しのつかない過ちに目を逸らし続けることができるだろうか。」
 
僕はできると思う。というか、冤罪で死刑になったことが明白であればあるほど、裁判所は再審請求を認めないだろう。

「袴田事件」や「足利事件」は、冤罪とされた人が生きていた。「飯塚事件」は、検察が被告人を殺した。というのはつまり、国が冤罪の疑いのある人を殺したのだ。これは後戻りできない決定的な事実である。検察庁と裁判所は、裁判のやり直しを認めるわけがない。

究極の読書――『霧中の読書』(荒川洋治)(4)

「離れた素顔」は、「飛び地」の話である。飛び地とは、「同じ行政区画なのに離れたところにある地域のこと」。
 
吉田一郎『世界の飛び地大全』(角川ソフィア文庫)という本があって、世界中に散在する飛び地の、位置と沿革を記したものだ。
 
ふーん、本の企画としては、成り立たないわけじゃないんだろうが、しかし読者を想定するとき、どんなふうに言うんだろう。この本の刊行を決定したときの、企画会議を見てみたい。
 
それはともかく、本はすでに出て、荒川洋治は興味を惹かれ、購入した。
 
そこで問題。世界最大の飛び地はどこにあるか。

答えはアメリカのアラスカだ。しかしこれを飛び地というのは、あまりにもデカすぎる。
 
面白いのは、飛び地の中に、飛び地のある例。

「アラブ首長国連邦に囲まれたオマーン領の飛び地マダのなかに、アラブ首長国連邦の飛び地ナワがある。飛び地のなかの、飛び地なのだ。ああ、これは、どう考えたらいいのだろうか。」
 
飛び地が入れ子になっている。こんな例は他にないらしい。
 
とはいえ、あまり悩まずに、そのまま受け取るほか、ないんじゃないか。
 
荒川洋治の、全体を読んだ感想。

「飛び地には、いくらか謎めいた印象があり、その地形にも惹きつけられる。」
 
僕は飛び地には、それほど惹きつけられない。それよりも、飛び地に惹きつけられる荒川洋治に、不思議な興味を感じる。

「幻の月、幻の紙」は、荒川洋治がやっている詩の出版社、紫陽社の話だ。
 
1972年に村上一郎の『草莽論』が出た。明治維新前後の革命の話だ。本の表紙は漆黒で、本文は字体がきれいで読みやすい。
 
1973年、大学を出た翌年、荒川洋治は先輩と出版社を始めた。印刷のことは何も知らないので、『草莽論』の奥付にある印刷所に原稿を持っていき、ひとつひとつ『草莽論』と同じになるように伝えた。
 
こうして郷原宏の第一詩論集、『反コロンブスの卵』が出来上がったが、これは紫陽社ではない。紫陽社はまだ存在していない。
 
その後、荒川洋治は会社勤めをしつつ、1974年に単独で紫陽社を始め、「四五年間に、新人の第一詩集を中心に二七〇点の本を制作、出版した。清水哲男、則武三雄、井坂洋子、伊藤比呂美、近年では蜂飼耳、日和聡子、中村和恵などの詩集だ。」
 
僕は、井坂洋子の『朝礼』と、伊藤比呂美の『姫』という詩集で、紫陽社を知った。そのころ、どちらも評判になった。本は鮮烈な印象を与えた。
 
紫陽社のすべての本のおおもとに、『草莽論』があるのだ。

「それらはすべて前記の同じ印刷所でつくられた。『草莽論』は、ぼくの小さな出発を支えてくれた大切な本だ。」

「平成期の五冊」は、吉行淳之介『目玉』以下、いくつか並んでいるが、その中で、小山田浩子『庭』というのを知らなかった。著者の名前は聞いたことがあるが、読んだことはない。

「小山田浩子『庭』(新潮社・平成三〇年)は「庭声」「名犬」「蟹」「緑菓子」などを収めた近作集。世代、時代、個人の間の距離と時間が消えうせる、不思議な世界を映し出す。文章の傾斜と、速度が印象的。」
 
どういう作品を提出すると、こういう批評が成立するのか。これは読んでみたい。

(『霧中の読書』荒川洋治、みすず書房、2019年10月1日初刷)