奈落の底は見えない――『出版の崩壊とアマゾン―出版再販制度〈四〇年〉の攻防―』(5)

それなら新聞はどうか。新聞も、ある年代から下は、ほとんど取ってないだろう。
 
たとえば年に2回、芥川賞という文学賞、というかショーがある。かつては該当作ナシという、厳しい結果に終わることもあったが、近年は「純文学」が売れないから、何でもいいから与える。
 
これはまず、テレビニュースで取り上げる。そして翌日の新聞で、大々的に報道する。最後に、翌月の『文藝春秋』で、選評も含め該当作を載せる。
 
つまりテレビ、新聞、雑誌が連動しているのだが、近年はそのどれにも、興味は持たれていない。

まあこれは、「純文学」という名の、ちょっとした「伝統芸能」という感じですね。だからたまに、芸人が受賞したりすると、ニューウェイブということで、盛り上がったりする。

でも大勢に影響はない。これはつまり、「マスコミ」が機能していない、崩壊しているということだ。
 
そんなこと、だれでも知っている。それはそうだが、でも必ずしも、みんながそれを自覚的にわかっている、ということではないんじゃないか。
 
ここから、さらに話は飛躍する。
 
今年は、日本に住む外国人への規制が変わったので、国内に入ってくる外国人は、空前の規模になりそうだ。そのくらい劇的なことをやらなくては、国内の労働人口は確保できない、ということらしい。
 
しかしこれは、実際の局面は、もう変わっているのではないか、という気もしないではない。
 
このブログの『日本の無戸籍者』のところで、「今年から日本は、外国人をさらに受け入れやすくする。いよいよ本格的な、というよりも異次元の『雑種文化』の時代を迎える」と書いたが、実はもうその前に、こんなことが起こっている。
 
直近の新宿の公立小学校では、クラスの2分の1が外国人だった。これはけっこう劇的なことだと思うが、どうか。
 
今年から、より外国人を受け入れやすくするなら、この新宿の小学校では、日本人はひょっとすると、少数派になるんじゃないか。
 
もちろん、困ったことになると言っているのではない。というか、むしろワクワク、ドキドキしてくる。日本の公立小学校で、日本人が過半数を占めないなんて。
 
そういう「新・雑種文化の時代」には、想像もつかないところから、新しい文化が生まれてくるに違いない。そのときまで、本当にもう少しだ、という気がする。
 
とまあこの辺は、推測というよりも、空想&妄想だけどね。

(『出版の崩壊とアマゾン――出版再販制度〈四〇年〉の攻防』
 高須次郎、論創社、2018年11月20日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 11:59Comment(0)日記

奈落の底は見えない――『出版の崩壊とアマゾン―出版再販制度〈四〇年〉の攻防―』(4)

一方、古書の世界も激震が走っている。これも一つはアマゾンのせいだ。アマゾンでは、新刊と古書が、まったく同時に並ぶのだ。
 
これでは、古書店によって値の付け方はさまざま、ということができなくなる。常にアマゾンの値段を意識して、付けざるを得ない。
 
ところがアマゾンの中では、古書価格が一円というのが、相当数出ている。郵送料で儲ければよい、という考えだ。こんなことをされては、たまったものではない。
 
しかし、古書の激震は、アマゾンにかかわるものだけではない。というか、もっと大きなことがある。
 
先日、Tさんからメールが来た。Tさんは長く、古書の雑誌の編集長をしている。そのメールを略術すれば、以下のようなものだ。

「……『日本国語大辞典』は、今は古書市場に出すまえに、潰します。『広辞苑』も、どこでも一冊百円で売られています。『国史大系』のような、かつて相当のお金になったものも、ほとんど入札されません。平凡社の県別の地名大事典も同じくだめです。要するに、デジタル化されることで、検索機能が付いたものがなければ、だめなのです。印刷本では需要が無くなったということです。」
 
これは、雑誌が急速に読者を失っているのとは、別のことだ。それはそうなのだが、一方で、「デジタル化」されないとダメだという点では、共通点がある。
 
これは結局、紙は全般的に、デジタル化にとって変わられているという、当たり前といえば当たり前のことなのだ。
 
けれども人間は、そんなに身軽に、あちらからこちらへ、という具合には飛び移れないから、右往左往しているのだ。
 
しかし、すーっと引いてみると、大きな流れは、そこにとどまらない、ということが分かる。これも先日、妻が、テレビの関係者の新年会に出たときに、聞いた話。

「テレビ局は、もう全然だめだ。若い人が、興味を持って入ってこない。民放はこの先、チャンネルは3つくらいになるんじゃないか。」
 
話を聞いていて私は、テレビには何の共感も湧かないから、さもありなんと思った。かろうじてニュースとドラマを見る程度で、ゴールデンタイムの番組の、9割9分はゴミである。ついでに言えば、そのニュースは、まずネットでやったものを新聞で取り上げ、それをテレビで焼き直している。
 
すでにもう、テレビニュースは用済みである。
posted by 中嶋 廣 at 08:55Comment(0)日記

奈落の底は見えない――『出版の崩壊とアマゾン―出版再販制度〈四〇年〉の攻防―』(3)

ここからは、私の推測である。
 
つい先ごろ、日本編集者学会から、第13回セミナーのお知らせが来た。
2月2日土曜日に、専修大学七号館(731号教室)で、「読者はどこへいった――雑誌出版の危機と現在の読者」というテーマで鼎談をやるという。

鼎談のメンバーは、山田健太、河野道和、阿部重夫の各氏である。なかなか面白い組み合わせだが、それよりも、その文面に注目した。

「若い層の読者は、ほとんどいなくなってしまった。普通の雑誌を買う人でも、趣味人扱いされ始めている。書店販売の中心であり、出版界の稼ぎ頭、また出版物流の要でもある雑誌の、実売数低下がもたらす影響は多岐にわたる。……これまで各雑誌が読者と考えていた大きな層の興味、好奇心が変化した現状と、雑誌が担っていた役割を振り返り、なお雑誌が出版の核となりうるのか、その可能性を探る。」
 
注目すべきは、若い層がいなくなったということと、「普通の雑誌を買う人でも、趣味人扱いされ始めている」という点である。
 
私は半身が不自由なので、書店といっても、八幡山の啓文堂にしか行けない。そこで見る限りは、確かに雑誌の棚は閑散としているが、それでも単行本と比べれば、まだ読者はいる、と思ってきた。
 
けれども、都心の大書店に行ってみれば、たぶんそうではないのだろう。
 
それにしても「普通の雑誌を買う人でも、趣味人扱いされ始めている」とは、どういうことか。純粋に好奇心から、そういう状態を見てみたい。
 
この20年で、雑誌・書籍の売り上げは、半分になった。それをもう少し正確に言うなら、書籍の売り上げは3分の2になり、雑誌の売り上げは3分の1になっている。

しかも雑誌は、近年になればなるほど、売り上げの下降幅が激しい。よほど特殊なものを除いては、雑誌というジャンルは、消滅するのではないか。誰もがそう考えて、不思議はない。

紙の雑誌を見る代わりに、タブレットやスマホで見るようになる、というか、もうなっている。

では書籍はどうか。

「書籍の分野でもガイドブック、料理・ファッションなど生活書、実用書はインターネットにすでに移行しつつあるので、この分野もあまり展望はない。残るは、その他の一般書籍・専門書籍である。文庫・新書はさらに後退するかもしれない。絵本などの児童書は底堅い。その他の一般書籍・専門書籍は売上後退を続けながらも最後までしぶとく生き残りそうである。」
 
そうなることを私も祈っている。でも、どうなるか。

「初版五〇〇部からせいぜい三〇〇〇部位の本で、市場規模でいえば五〇〇〇億円に満たない市場であろう。……
 そこに必要な取次店は今の半分以下にダウンサイジングした書籍を中心とする取次店である。」
 
緑風出版の高須次郎が、そう言いたい気持ちはわかるが、しかしなかなか、そうはいかないのではないか。
posted by 中嶋 廣 at 12:32Comment(0)日記

奈落の底は見えない――『出版の崩壊とアマゾン―出版再販制度〈四〇年〉の攻防―』(2)

ポイントカードについては、書店の組合である日本書店商業組合連合会(以下、日書連と略す)が反対してきた。

当たり前である。書店では、本は一律、定価で売られている。そこに、ポイントカードで割り引く店が出てくれば、書店は太刀打ちできない。

日本の代表的な出版社が入っている書協は、ポイントカードに反対しながらも、具体的な行動は躊躇していた。

講談社は副社長名義の声明で、「『誠に遺憾であり、再販契約が順守されることを願っております』というものであった。『願っております』というだけで、当事者としての自覚と主体性に欠け、再販契約を遵守させる意思の乏しいものであった。」

これは小学館も同じで、やはり反対を表明したのだが、再販契約をお願いいたします、と腰が引けていた。

そしてこれ以降、筑摩書房、東洋経済新報社、集英社などが、ポイントカードは再販契約に違反した、値引きであることを表明した。

「しかしいずれもポイントカードの中止を求めるものではなく、ルールに則った営業活動を『お願い申し上げます』という域をでなかった。再販契約の実施者としての自覚に欠けるお粗末なものであった。」
 
この辺は、論評は避ける。私が社長をしてきたトランスビューは、極小出版社ではあるけれど、とにかくその当時、同じ空気を吸って生きてきたのである。横目で大手の出版社を見ながら、これではどうしようもないなと思いながら、でも私の作る本だけは違う、だから、流通が少々おかしなことになっても大丈夫だと、実に能天気に思っていた。
 
本当に考えてみれば、実にどうも、能天気としか言いようがない。でもね、出版社を立ち上げるというのは、基本的に、楽天的でなければいけないのですよ。
 
しかしそうこうしている間に、アマゾンの時代がやってくる。

「米国の要求によってはじまった規制緩和によって、大規模小売店舗法の廃止と再販制度の弾力運用、ポイントカードなどの導入も重要な原因として、中小書店の廃業ラッシュが続き、勝ち残ったナショナルチェーンもアマゾンに抜かれ、一部は印刷資本の傘下に入った。そして今、電子書籍が非再販商品とされることで、アマゾンやグーグルが日本を席巻し、出版界は書店、取次店を見殺しにしながら、崩壊への道を転がり落ちていくのだろうか?」
 
この20年で書籍・雑誌の販売金額は、2兆6000億から1兆3000億に半減し、出版社の数は4400社から3300社になった。
 
書店もどんどん潰れ、取次もトーハン、日販以外は見る影もない。そしてトーハンと日販も、特に日版は実質、赤字経営で、明日はどうなるかわからない。
 
つまりこれは、出版界における、敗戦前夜のような状態といっても過言ではない。

そう高須次郎は言うけれど、しかし私は、その先があると思う。
posted by 中嶋 廣 at 09:12Comment(0)日記

奈落の底は見えない――『出版の崩壊とアマゾン―出版再販制度〈四〇年〉の攻防―』(1)

これは、私が4年ほど前まで生きてきた、出版という世界を、再販制度を中心に論じたものだ。

この本の叙述は、事実を丹念に連ねてあり、業界の中にいた人間でなければ、面白いものではない。しかしとにかく、マイナスの事実を連ねてあることをもって、貴重な記録といえる。
 
著者の高須次郎は緑風出版の創業者で、2004年から16年まで、日本出版者協議会(旧・出版流通対策協議会)の会長を務めた。
  
日本の出版界には日本書籍出版協会(以下、書協と略す)という業界団体があり、主要な出版社はここに入っている。ちなみに18年3月現在で、会員社数は415社である。日本に4000社弱あるうちの400社だから、少ないといえばその通りだが、しかし講談社、小学館、新潮社、文藝春秋をはじめ、一通りの出版社はみな入っている。
 
高須さんが会長を務めた日本出版者協議会は、中小の出版社が集まっている。「定価」を死守したい日本出版者協議会は、「定価」をやめたい公正取引委員会と、徹底的に戦った。
 
そもそも小売価格を、メーカーが指示することができるのは、著作物に限られている。具体的にいうなら、書籍、雑誌、新聞、レコード盤、音楽用テープ、音楽用コンパクトディスク(CD)の6品目に限定されている。
 
公正取引委員会は、アメリカの圧力もあって、この「定価」を外そうとした。そこで出版社側と対立したのである。
 
出版社側の言い分は、非常に明晰なものであった。

「再販制度の廃止で、出版社が価格決定権を失うと、採算計画が立てられなくなるおそれがあり、採算が立てにくい学術的・文化的な本の出版がしにくくなり、結果、書籍の多様性が失われる……。」
 
これは出版社のみならず、著者や読者をも巻き込んで、再販制度は圧倒的な支持を受けた。

これが一応、出版社側の勝利に終わり、再販制を堅持するというふうになると、次に公取委との間で、ポイントカードをめぐるやり取りがあった。

出版社としては、ポイントカードを認めれば、再販制は維持できなくなる。これは当たり前だ。
 
しかし公取委は、消費者にとって「お楽しみ程度」の、というのは1パーセント程度のポイントカードは、認められるべきだというのだ。
 
公取委のいう、「お楽しみ程度」の楽しみを得たい「消費者」は、一般の、また専門の本の、「読者」ではない。公取委と出版社側とは、ここのところで、いつもボタンの掛け違いを起こしている。

「消費者」は文字通り、日々商品を消費して、それをエネルギーに変えて生きていく。「読者」は、日々商品を消費していくとみせて、実はもっと長い付き合いを、本としていく。

場合によっては、読者が死んでしまっても、本は生き延びる。それはごく普通のことだ。
posted by 中嶋 廣 at 18:03Comment(0)日記

誰に向かって書いてる?――『願わくは、鳩のごとくに』(2)

タイトルの『願わくは、鳩のごとくに』は、以下のような理由で付けられた。

「鶴は連れ合いが死ぬと、一生孤高を保つという。中学生のころ飼っていた鳩は、再婚はするが、つがいの間は決して離れない。
 願わくは、鳩程度にはなんとかしたい、と思う。」
 
さすがに、60歳に近い男は必死である。そしてまた、いじらしくもある。しかしとにかく、出たとこ勝負で行くしかない。

「あと数年で、定年である。ということは、年金生活者になるということである。年金生活者が三十違いの妻を抱えて、いったいどうやって生活しようというのだ。おまけに九十近い前妻の養母と、二十も半ばを超えた定職を持たない学生の、二人の扶養家族がくっついているんだ。これはもう、想像するもなにも、絵が浮かばないんじゃないのか。」
 
しかし結局、再婚相手とは、三人の子をもうける。そしてとにかく育てる。その七転八倒振りは、もう実に面白い、としか言いようがない。
 
それはそうなんですが、でも本としては、何かがほんのわずかに狂っている。ピントが、こちら、つまり読者のほうへ、正確には向いていない、と感じられるのだ。どうしてだろうか。
 
たとえば一章をかけて、従兄妹(いとこ)の「山川泰子」が、死んだ話が出てくる。十円玉、四枚を握って、変死したのだ。

「ベッドは、人がやっと横になる程度の隙間しかなく、ほとんど洞窟と見えた。風呂場は、風呂桶に山ほど物が積まれ、溢れ、片側に少しタイルが見えるだけだった。
『どうも、シャワーですごしていたようですなァー』
 シャワーといっても、これでは無理だ。ここに、裸に近い格好で倒れていた。どうして……? 僕は、写真を凝視していた。」
 
そして、従兄妹の変死に迫っていく。都会の片隅で、親戚からも疎まれ、孤独に死んだ女性。よくあるといえばあるけれど、でもこれはこれで、迫力のある、真に迫った物語だ。
 
しかし、ここに挿入している意味が分からない。
 
そう思って終わりまで読んでいくと、最後の最後に「(追記)」として、こんなことが書かれている。

「『お父さんはこんな人だったのよーーって、私から伝えることできないからーーそんなつもりで、書き遺してーー』と、あなたから言われ、なにやら遺言めいて書き進めたものです。」
 
なあんだ、そうだったのか。年のいった父は、子供が成人するまでは、ひょっとすると持つまいと思って、遺言の代わりにこれを書いたのだ。それで文章の方向が、微妙に読者のほうを向いていなかったのだ。
 
山田太一は堪能して読んだらしいけど、『北の国から』を見たことがなく、なま身の著者を知らない僕としては、子供に書き遺すのを読まされるのは、ちょっとどうもという気がするのである。

(『願わくは、鳩のごとくに』杉田成道、扶桑社、2010年12月1日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:14Comment(0)日記

誰に向かって書いてる?――『願わくは、鳩のごとくに』(1)

これは山田太一が、『夕暮れの時間に』で取り上げていた。「さすが大人の物語」という題で、文庫解説を収録してある。
 
それにいわく。

「軽く見せて複雑で、いわないことはちゃんとあり、ユーモアを忘れず、人生の深淵も時にはギラリと布石され、艶だって少しだけれどあり、重い歴史も哀愁もあり、私は読みながら何度も『うまい』『まいった』と内心だが声をあげて楽しんだ。」
 
これだけ称賛されれば、読まずにはいられない。
 
著者の杉田成道は、テレビドラマ「北の国から」を、22年間に渡って演出してきた人である。その人が57歳のとき、27歳の女性と結婚した。そして3人の子を得た。これはその成り行きを描いた、「私の物語」なのである。
 
山田太一の終わりは、こうなっている。

「……ちょっとやそっとでは底が知れない人のめったにない『私小説』なのであった。面白かった。深かった。」
 
山田太一にしては珍しい、手放しの絶賛である。そこで読んでみる。
 
最初は、57歳男と27七歳女の結婚披露宴である。男は、最初の結婚で女房と死に別れ、再婚、女は初婚である。

「なにせ、五十七歳なのである。定年間際なのである。……新郎側の出席者はほとんどが六十歳を優に超えていた。
 対して新婦側は、新婦が銀行員から一念発起して、浪人、そして女子医科大へと入り直したことで、二十七歳ながら目下、大学二年生、友人たちは二十歳そこそこということになる。新郎側の出席者のほとんどがなにやらいわくありげな、複雑な笑い顔を交わしていたのに対し、芸能人に初めて会って屈託なく笑う新婦の友人たちは、さながら老人ホームに慰問に来た女子大生グループと言えた。」
 
文章は自在、これで最後まで行く。
 
演出の場面はさすがに面白い。この人はしつこくしつこく、何度もやるようだ。

「……やる、やる、やる。何度もやる。
……俳優には、全体状況を把握してもらわなければならない。把握した上で、セリフを咀嚼し、何度も何度もやることで身体に言葉と意識をすりこむ。そして、本番の日にはすべて忘れてもらう。……
それでも、意識の下に残るものがある。それが、少しずつ滲み出て、余白が生まれる。この余白が演技だ。そう信じている。」

『北の国から』を長年にわたって演出した人は、核心を持っている。そうでなければ倉本聰と、長年のコンビを組めるわけがない。

でも僕は、『北の国から』を一度も、通して見たことはない。
posted by 中嶋 廣 at 17:51Comment(0)日記

シーラカンスとしての「純文学」――『流砂』

著者は黒井千次。

父親は九十歳を越え、息子は七十歳を越えた。その息子の視点で、戦時中、「思想検事」を務めていた、父親との関係を描く。
 
そもそも「思想検事」とは何か。それはどうやら、思想的犯罪者の「転向」に関係があるらしい。
 
とはいっても、たいしたことは起こらない。父親が急病で搬送され、病院に入っている間に、息子が秘密の、というほどでもないのだが、昔、父親の書いたものを読む。
 
しかし、その読んだものは、もうひとつはっきりしない。こういうふうに書かれたものと、はっきり示されていないからだ。
 
この本を三分の一まで読んだとき、なんというか、シーラカンスに出会ったような、非常に懐かしい感じがした。いかにも「純文学」で、懐かしいなあという感じがした。
 
こういう文体は、著者と読者に、あるつながりを暗黙のうちに要求する。それがつまり、「ジュンブンガク」の気圏というか、アトモスフィアである。
 
たとえば冒頭、父親が書いたものを息子に手渡すところ。

「息子はしかし、それを勝手に引き出すのではなく、父親の手から直接渡してもらいたかった。儀式ばるつもりはなかったが、父親が渡したぞと認め、息子が受け取ったと感じた上でそれは息子の手に納まるべきものだった。心理的手続きとしての過程はしっかり踏んでおきたい、と息子はのぞんだ。」
 
いやー、「純文学」ですな。もちろんバカにしているのではない。それどころか、こういう文章に出会うと、懐かしさと同時に、非常にゆったりした時間が流れていくのを感じる。
 
それはいいのだが、しかし、肝心の話が転がっていかない。

「何も知らなければ、ただ隣同士に住む老いたる親子として日を送っているだけでよかったのに、分厚い報告書を読んだばかりに、気持ちの上でなにやら面倒なことに捲き込まれねばよいが、と息子は細い息をついた。」
 
これが最初のほうにあればまだしも、終わり三分の一を切ったあたりで、こんな文章に出会うと、いささかうんざりする。
 
謎の女、というほどでもないのだが、大学図書館の発禁本の展示会場で出会った、「もう若くはない女性」をめぐって、あれこれ想像するところがある。

「……私は検事の娘です、と告げた女性の姿が、時にふれてふっと頭を過るのを意識した。もしかしたら、父親達は同じような仕事をする役人同士としてお互いに知っていたのではないか、という彼女の憶測は、それを聞かされて以降は息子の中にも住みついて見え隠れするようになっていた。」
 
こういう文章は、過度にブンガク的である必要はない。「息子の中にも住みついて見え隠れするようになっていた」と書く代わりに、「息子はときどきそう思っていた」で、充分ではないか。
 
かつては確かに、こういう「ジュンブンガク」があった。でも今は、内容のないのを、文体でごまかしてはいけない、そう言われてしまう。

(『流砂』黒井千次、講談社、2018年10月22日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 12:23Comment(0)日記

官能の文体――『買えない味』(4)

あるいは「ろうそく」を使う日々の暮らし。これ、本当の話ですよ。

「うちへ戻って最初に片づける用事は、一年中あいもかわらず同じである。まだ薄暮のうちでも、とっぷり夜が更けていても、私の足はまず居間へ向かう。マッチを擦って、ろうそくに灯を灯すのだ。……
 テーブルの上に、ふたつ。水屋箪笥の上に、ひとつ。気が向けば小さいのをもうひとつ。暗闇のなかにぽっ、ぽっ、ぽっ、灯りが静かに浮かび上がる。」
 
これは、ちょっと異様だ。都市の、いや、田舎でも、こんな暮らしをしている人は、もういない。そのこころを聞いてみよう。

「暗闇を取り戻したい。暗闇のなかに封じ込められてしまったひそかな息づかいを、暮らしのなかに蘇らせたい――ろうそくの灯りにこだわるのは、つまりそういうことなのかもしれない。そして私は、親しい暗闇の記憶をたぐり寄せる。」
 
このあと、夜空に打ちあがる花火、かそけき光を放つ線香花火、蛍の光、天の川、祭りの提灯、灯籠……、電気を消せば、なりを潜めていた暗闇の物語が、たちまち目の前に姿を現すのだ。
 
脳出血以前の〈前世〉には、こんな言葉は知らなかったという点では、「手土産」に出てくる、こんな言葉もそうだ。

「とにもかくにも手土産は消えものに限る。」
この「消えもの」という言葉は、知らなかった。たぶん〈前世〉では、知らなかった。

それではあまりに、語彙が乏しい。〈前世〉では一応、編集者だったんだから、ちょっと、どうかなあ、とも思うがしょうがない。

それはともかく、次はいよいよ『そばですよー立ちそばの世界ー』だ。今日1月13日の東京新聞の読書面に、平松洋子の写真と一緒に、この本のことが出ていた。たかが立ち食いそばの話が、これだけ記事になるのは不思議だ。

だぶんまた、平松洋子の魔法の文体が、変な言い方だが、猛威を奮っているんじゃないかな。

(『買えない味』平松洋子、ちくま文庫、2010年12月10日所刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:03Comment(0)日記

官能の文体――『買えない味』(3)

そういう語彙の中では、「注ぎ口」に出てくる、醤油注(つ)ぎの「尻洩れ」という言葉も、知らなかった。
 
これは半身不随になる前も、ということは、いわば〈前世〉においても、知らなかった言葉だと思う。

「尻洩れ」または「尻洩れする」、というふうに使う。醤油の注ぎ口に関する、キレの良し悪しの話である。

初めてのとき、「尿洩れ」または「尿洩れする」と呼んでしまい、慌てた。でも「尻洩れ」は、うまい言葉だ。あの、ツツー、と漏れてくる感じを、よく捉えている。

さて話は変わって、「蒸籠(せいろ)」である。平松洋子は、蒸籠を数年間、打ち捨てておいた。ところが、これで蒸すと、じわーっと味わいが深くなるので、また復活させた。

そこのところを、著者は結びの一文で、こういうふうにまとめる。

「若気の至りで出奔して、再びおずおず舞い戻ってみたら『よしよし』と懐に抱きとめてもらえれば、そりゃあ涙にもくれる。」
 
うーん、うまい。「蒸籠」など、どっかに行ってしまうくらい、本当にうまい。
 
そうかと思えば、一転、「春の海」を象徴的に語ったような、これも極意としか言いようのない文章がある。「木の弁当箱」の項である。

「もう蕾はほころびただろうか――と、目の前がゆるやかにとろけた。
   春の海ひねもすのたりのたりかな
 若草色、朱鷺(とき)色、珊瑚色に桃色……優しげに混ざり溶け合って、ほわんとおだやか。いつもの和菓子屋の軒先に、春の海が柔らかくたゆとうていた。
 萌葱(もえぎ)色のきんとんと桜色のういろう。
 春の情景を胸に抱いて家路を急げば、四季の始まりをいち早くひとり占めして心が弾む。」
 
郵便局へ切手を買いに行った帰り、ふと回り道がしたくて、そんな道を歩くと、そこに忽然と、象徴的な春の海が現れるというわけだ。
 
それにしてもこの度は、一転うって変わって、限りなくゆったりとしたリズムで、本当に自由自在だ。
posted by 中嶋 廣 at 14:57Comment(0)日記