物語のあらすじは、カバー裏の惹句を引こう。
「私立探偵のフィリッブ・マーロウは、億万長者の娘シルヴィアの夫テリー・レノックスと知り合う。あり余る富に囲まれていながら、男はどこか暗い蔭を宿していた。何度か会って杯を重ねるうち、互いに友情を覚えはじめた二人。しかし、やがてレノックスは妻殺しの容疑をかけられ自殺を遂げてしまう。が、その裏には悲しくも奥深い真相が隠されていた。」
それはテリー・レノックスが、第2次大戦で英国の義勇軍に入っていたころ、彼は結婚しており、妻のアイリーンとは燃えるように愛し合っていた。
しかし戦争がそれを引き裂く。
その後、アイリーンはアメリカにやって来て、ベストセラー作家と結婚した。
2人が住むことになる高級住宅街に、まったく偶然に、テリー・レノックスとシルヴィア夫妻も住んでいた。
しかもシルヴィアは、億万長者の淫乱娘にふさわしく、身近にいる男を次々に体で征服していく。
あれだけ愛し合ったテリー・レノックスも、ベストセラー作家の夫も、シルヴィアに屈服してしまった。
追い詰められたアイリーンは、シルヴィアと、自分の夫を撃ち殺す。
しかし、待てよ。ここまでネタバレをして、いいものだろうか。『ロング・グッドバイ』をこれから読もうとする人にとっては、あんまりなんじゃないか。
大丈夫です。ここまではよくできた、しかしよくあると言えばいえる話である。このあと、アッと驚く展開が待っている。読み終わった後も、僕はただ呆然としてしまう。
村上春樹の「訳者あとがき――準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」は、次の10章からなっている。
文章家としてのチャンドラー
チャンドラーの独自性
チャンドラーとフイッツジェラルド
二人の見事な語り手
チャンドラーという人
フィリッブ・マーロウとハリウッド
翻訳について
寄り道の達人、細部の名人
翻訳において問題になったいくつかの部分
ロス・アンジェルスの警察のシステムについて
これを見ると、とても「訳者あとがき」とは思えない。もうこれは、『ロング・グッドバイ』研究なのである。これを訳せるなんて、こんな幸運に恵まれるとは嬉しくて仕方がない、という村上さんの、高揚する気持ちが伝わってくる。
しかし、この後書きというか、書評というか、研究というものは、村上春樹にしては、あまりに力が入り過ぎていて、ちょっと空回りしている。文章も珍しく、批評家然としている。
たとえば次のところ。
「我々が少しでもフィリッブ・マーロウという人間の本質を理解できたかというと、おそらくそんなことはない。我々がそこで理解するのは、あくまでフィリッブ・マーロウという『視点』による世界の切り取られ方であり、そのメカニズムの的確な動き方でしかない。それらはきわめで具象的であり蝕知可能なものではあるが、我々をどこにも運んでいかない。彼が本当にどういう人間なのか、我々にはほとんど知りようがない。マーロウは実際には、たぶん我々から何光年も遠く離れたところにいるようにも見える。」
ここから村上春樹は、フィリッブ・マーロウという「仮説システム」について、独創的な論を述べるのだ。
読んでいると、なるほどと思うが、少し距離を置いてみると、そもそもフィリッブ・マーロウについて、チャンドラーが人物像をはっきりと書かないか、あるいは書けないことが、おおもとにあるのではないか、と思えてくる。
この「訳者あとがき」は本当に素晴らしいのだが、おかげで僕は『ロング・グッドバイ』の読み方のいくつかを学んだが、しかしここでは、問題だと思うところだけを挙げておく。
それはテリー・レノックスを取り上げたところである。僕にはここがよく分からない。
こういう作品だったのか――『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー、村上春樹・訳)(1)
村上春樹の案内により、彼が訳したレイモンド・チャンドラーのフィリッブ・マーロウもの『ロング・グッドバイ』を読む。
『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』にはこうある。
「チャンドラーの文体は僕の原点でもある。そういう小説を自分の手で翻訳できるというのは、実に小説家(翻訳家)冥利に尽きるというか。あまりに楽しいので訳者あとがきを百枚も書いたら、本が分厚くなって定価が高くなると文句を言われてしまった。」
しかしその100枚の「あとがき」のおかげで、この本の読みどころがよく分かった。
レイモンド・チャンドラーは、僕が高校のとき、清水俊二の訳で『さらば愛しき女よ』と『長いお別れ』を読んだ。ひょっとすると『湖中の女』も読んだかもしれないが、憶えていない。
そして、チャンドラーは僕には合わない、その原因は、たぶん翻訳にあるのではないか、と思った。
しかし村上春樹は「訳者あとがき」で、清水俊二の訳を、「とても読みやすい優れた翻訳である」と言っている。
村上は高校生の頃から、『ロング・グッドバイ』を繰返し、原文で読んだり、清水俊二の訳で読んだりしてきた、というのである。
しかし同時に、「清水氏の翻訳『長いお別れ』ではかなり多くの文章が、あるいはまた文章の細部が、おそらくは意図的に省かれているという事実がある。〔中略〕清水氏がどのような理由や事情で、細かい部分をこれほど大幅に削って訳されたのか、僕にはその理由は勿論わからない。」
そこで村上さんは、訳者の都合か出版社の都合、あるいは翻訳の出た1958年は、原書が出てから4年間しか経ってなくて、チャンドラーの文章家としての価値が認められていないので、おそらくは文章が短く刈り込まれたのではないか、と推測している。
ただ村上春樹の、清水俊二訳の評価は、全く揺らいでいない。
「清水訳が『たとえ細部を端折って訳してあったとしても、そんなこととは無関係に、何の不足もなく愉しく読める、生き生きした読み物になっている』ということは、万人の認めるところだし、氏の手になる『長いお別れ』が日本のミステリの歴史に与えた影響はまことに多大なものがある。その功績はたたえられて然るべきものだし、僕としても先輩の訳業に深く、率直に敬意を表したい。」
まあ、絶賛である。僕の「清水訳とは合わない説」は、どうやらそんなことではないらしい。
実際、村上春樹の訳を通しても、僕には今一つ難しくて、話の運びがやや難解である。
僕はそのころレイモンド・チャンドラーよりも、ロス・マクドナルドに夢中だった。リュウ・アーチャーものの頂点をなす『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』以下、『動く標的』から始まって、たぶん全部読んだ。
思い返せば、親の因果が子に報い、ばかりなのだが、こういうものは、日本人なら中毒しやすい。
ロス・マクも同じ因果話を書き続けたのだから、骨身から染み出るところがあったのだろう。ついでに言えば、養老孟司先生もロス・マクドナルドが好きだ。
しかしともかく、これとレイモンド・チャンドラーは、全く違う。
極端な言い方をすれば、ロス・マクドナルドの「浪花節」に対して、チャンドラーの「文学」、それも村上春樹の言い方を借りるならば、「準古典小説」の違い、ということになる。
『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』にはこうある。
「チャンドラーの文体は僕の原点でもある。そういう小説を自分の手で翻訳できるというのは、実に小説家(翻訳家)冥利に尽きるというか。あまりに楽しいので訳者あとがきを百枚も書いたら、本が分厚くなって定価が高くなると文句を言われてしまった。」
しかしその100枚の「あとがき」のおかげで、この本の読みどころがよく分かった。
レイモンド・チャンドラーは、僕が高校のとき、清水俊二の訳で『さらば愛しき女よ』と『長いお別れ』を読んだ。ひょっとすると『湖中の女』も読んだかもしれないが、憶えていない。
そして、チャンドラーは僕には合わない、その原因は、たぶん翻訳にあるのではないか、と思った。
しかし村上春樹は「訳者あとがき」で、清水俊二の訳を、「とても読みやすい優れた翻訳である」と言っている。
村上は高校生の頃から、『ロング・グッドバイ』を繰返し、原文で読んだり、清水俊二の訳で読んだりしてきた、というのである。
しかし同時に、「清水氏の翻訳『長いお別れ』ではかなり多くの文章が、あるいはまた文章の細部が、おそらくは意図的に省かれているという事実がある。〔中略〕清水氏がどのような理由や事情で、細かい部分をこれほど大幅に削って訳されたのか、僕にはその理由は勿論わからない。」
そこで村上さんは、訳者の都合か出版社の都合、あるいは翻訳の出た1958年は、原書が出てから4年間しか経ってなくて、チャンドラーの文章家としての価値が認められていないので、おそらくは文章が短く刈り込まれたのではないか、と推測している。
ただ村上春樹の、清水俊二訳の評価は、全く揺らいでいない。
「清水訳が『たとえ細部を端折って訳してあったとしても、そんなこととは無関係に、何の不足もなく愉しく読める、生き生きした読み物になっている』ということは、万人の認めるところだし、氏の手になる『長いお別れ』が日本のミステリの歴史に与えた影響はまことに多大なものがある。その功績はたたえられて然るべきものだし、僕としても先輩の訳業に深く、率直に敬意を表したい。」
まあ、絶賛である。僕の「清水訳とは合わない説」は、どうやらそんなことではないらしい。
実際、村上春樹の訳を通しても、僕には今一つ難しくて、話の運びがやや難解である。
僕はそのころレイモンド・チャンドラーよりも、ロス・マクドナルドに夢中だった。リュウ・アーチャーものの頂点をなす『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』以下、『動く標的』から始まって、たぶん全部読んだ。
思い返せば、親の因果が子に報い、ばかりなのだが、こういうものは、日本人なら中毒しやすい。
ロス・マクも同じ因果話を書き続けたのだから、骨身から染み出るところがあったのだろう。ついでに言えば、養老孟司先生もロス・マクドナルドが好きだ。
しかしともかく、これとレイモンド・チャンドラーは、全く違う。
極端な言い方をすれば、ロス・マクドナルドの「浪花節」に対して、チャンドラーの「文学」、それも村上春樹の言い方を借りるならば、「準古典小説」の違い、ということになる。
半分、神の領域か――『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』(野村泰紀)(5)
第4章は「インフレーション理論」で、神話はいよいよ神話らしくなる。
宇宙がずっと一定であれば、すべては対消滅で何も残らない。
そうではなくて、宇宙の初期に、密度10万分の1程度の揺らぎがあったらしい。この初期の揺らぎが、重力の働きにより増幅されたようだ。
インフレーション理論は1980年、アメリカ人により提唱された。わずか40年ほど前のことである。
インフレーションによる急激な膨張が起こった時期は、正確には分からないのだが、宇宙誕生後10-38〔乗〕から10-26〔乗〕くらいの間の、どこかだったと考えられる。このくらいになると、本当に「神話」らしくなり、トピックを記述するしかなくなる。
宇宙が高温高密になったのは、インフレーションが終わり、そのエネルギーが熱エネルギーに変換されたからであり、だから宇宙の始まりはビッグバンではない。
これは僕が思うに、ビッグバンが宇宙の始まりとすると、整合性のつかないところが出てくるので、その前に、仮にインフレーションを置いたのである。
だんだん分ってきたところでは、「宇宙神話」は物理学的手法を唯一の方法として、矛盾や整合性のつかないところが出てくれば、そこで何とかするということなのだ。
だからと言って、次のような一文は、どこをどう捻ってみても、意味不明である。
「マルチバース理論では、空間の加速膨張であるインフレーションは、私たちの宇宙の『外側』やその誕生『以前』でも頻繁に起こっていると考えられています。そのため、現象としての加速膨張と、その特定の現れである私たちの宇宙の超初期に起こった加速膨張を混同しないことは、〔中略〕極めて重要になってきます。」
ここでは「インフレーションは、私たちの宇宙の『外側』やその誕生『以前』でも頻繁に起こっている」というところで、絶句してしまう。
第5章「私たちの住むこの宇宙が、よくできすぎているのはなぜか」、第6章「無数の異なる宇宙たち――『マルチバース』」になると、要約することも難しい。
たとえば第5章に、こんな引用がある。
「重力を伝えると考えられる粒子を重力子と呼びますが、その固有質量もゼロです。そのため、重力波の伝搬の速さも自然界における最大の速さ、つまり光速と同じです。」
なるほどそうか。しかし「重力子」はまだ、見つかってさえいないのだ。
さらにこんなところも。
あらゆるシグナルの速さは、光速を越えない、という相対性理論の原理を破るわけではないが、と前置きしておいて、こんなことを言う。
「ここでは大雑把な理解として『空間自体の膨張の速さは(物理的なシグナルの伝搬と違って)光速に縛られることはない』としておいてもらえればよいのではないかと思います。」
そんないい加減な、でも、まあしょうがない。「宇宙神話」は、宇宙の「外側」まで取り込んで、建設中らしいから。
第6章「無数の異なる宇宙たち――『マルチバース』」になると、まさに「物理学神話」、花盛りである。
「自然界には無数の異なる宇宙が存在するという一見突拍子もない考えは、他のどの理論も説明し得なかった真空のエネルギー密度の小ささを説明しただけでなく、その真空エネルギー密度が(人間が宇宙を観測したとき、すなわち高等生命体が生じた時期の)物質のエネルギー密度とほぼ同程度の大きさであることきで予言し、それは実際に観測で確かめられたのです!」
うーん、ほんとかなあ。観測といっても、間接的な観測だったんじゃないか。「無数の異なる宇宙」の存在は、まだ一般の常識にはなっていないと思うが。
このあと超弦理論(超ひも理論)か出てきて、10次元宇宙の話になる。これはもう、一歩誤ればキ印の世界である、と言ったら失礼か。
「これら多くの宇宙では、私たちが基本的だと思っていた多くのこと――空間の次元、力の種類、素粒子の性質、真空のエネルギー等――が私たちの住む宇宙とは根本的に異なっていることになるのです。」
ここまで来れば、もう何でもあり。物理法則一本やりで行くと、ともかく飛んでもないところへ出てしまうようだ。
(『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』野村泰紀、
講談社ブルーバックス、2022年4月20日初刷、2024年6月11日第17刷)
宇宙がずっと一定であれば、すべては対消滅で何も残らない。
そうではなくて、宇宙の初期に、密度10万分の1程度の揺らぎがあったらしい。この初期の揺らぎが、重力の働きにより増幅されたようだ。
インフレーション理論は1980年、アメリカ人により提唱された。わずか40年ほど前のことである。
インフレーションによる急激な膨張が起こった時期は、正確には分からないのだが、宇宙誕生後10-38〔乗〕から10-26〔乗〕くらいの間の、どこかだったと考えられる。このくらいになると、本当に「神話」らしくなり、トピックを記述するしかなくなる。
宇宙が高温高密になったのは、インフレーションが終わり、そのエネルギーが熱エネルギーに変換されたからであり、だから宇宙の始まりはビッグバンではない。
これは僕が思うに、ビッグバンが宇宙の始まりとすると、整合性のつかないところが出てくるので、その前に、仮にインフレーションを置いたのである。
だんだん分ってきたところでは、「宇宙神話」は物理学的手法を唯一の方法として、矛盾や整合性のつかないところが出てくれば、そこで何とかするということなのだ。
だからと言って、次のような一文は、どこをどう捻ってみても、意味不明である。
「マルチバース理論では、空間の加速膨張であるインフレーションは、私たちの宇宙の『外側』やその誕生『以前』でも頻繁に起こっていると考えられています。そのため、現象としての加速膨張と、その特定の現れである私たちの宇宙の超初期に起こった加速膨張を混同しないことは、〔中略〕極めて重要になってきます。」
ここでは「インフレーションは、私たちの宇宙の『外側』やその誕生『以前』でも頻繁に起こっている」というところで、絶句してしまう。
第5章「私たちの住むこの宇宙が、よくできすぎているのはなぜか」、第6章「無数の異なる宇宙たち――『マルチバース』」になると、要約することも難しい。
たとえば第5章に、こんな引用がある。
「重力を伝えると考えられる粒子を重力子と呼びますが、その固有質量もゼロです。そのため、重力波の伝搬の速さも自然界における最大の速さ、つまり光速と同じです。」
なるほどそうか。しかし「重力子」はまだ、見つかってさえいないのだ。
さらにこんなところも。
あらゆるシグナルの速さは、光速を越えない、という相対性理論の原理を破るわけではないが、と前置きしておいて、こんなことを言う。
「ここでは大雑把な理解として『空間自体の膨張の速さは(物理的なシグナルの伝搬と違って)光速に縛られることはない』としておいてもらえればよいのではないかと思います。」
そんないい加減な、でも、まあしょうがない。「宇宙神話」は、宇宙の「外側」まで取り込んで、建設中らしいから。
第6章「無数の異なる宇宙たち――『マルチバース』」になると、まさに「物理学神話」、花盛りである。
「自然界には無数の異なる宇宙が存在するという一見突拍子もない考えは、他のどの理論も説明し得なかった真空のエネルギー密度の小ささを説明しただけでなく、その真空エネルギー密度が(人間が宇宙を観測したとき、すなわち高等生命体が生じた時期の)物質のエネルギー密度とほぼ同程度の大きさであることきで予言し、それは実際に観測で確かめられたのです!」
うーん、ほんとかなあ。観測といっても、間接的な観測だったんじゃないか。「無数の異なる宇宙」の存在は、まだ一般の常識にはなっていないと思うが。
このあと超弦理論(超ひも理論)か出てきて、10次元宇宙の話になる。これはもう、一歩誤ればキ印の世界である、と言ったら失礼か。
「これら多くの宇宙では、私たちが基本的だと思っていた多くのこと――空間の次元、力の種類、素粒子の性質、真空のエネルギー等――が私たちの住む宇宙とは根本的に異なっていることになるのです。」
ここまで来れば、もう何でもあり。物理法則一本やりで行くと、ともかく飛んでもないところへ出てしまうようだ。
(『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』野村泰紀、
講談社ブルーバックス、2022年4月20日初刷、2024年6月11日第17刷)
半分、神の領域か――『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』(野村泰紀)(4)
第3章は「ビッグバン宇宙 Ⅰ――宇宙開闢約0.1秒後『以前』」。この「約0.1秒」が比喩なのか、正確なものなのか、僕には分からない。
ともかく宇宙の年齢が、1マイクロ秒(10-4〔乗〕)以前には、温度が約1兆度以上あった。
そう言われてもなあ。1兆度と言われても、ただ熱い、すごく熱い、としか言いようがない。それとも僕自身が、見ただけで、溶けてしまうだろうか。これもたぶん、方程式を解くことで、得られた結果に違いない。
1兆度以上の温度では、陽子や中性子などは存在しない。後に陽子や中性子を塊として構成するクォークや、電子、光子が、この段階では素粒子として、自在に飛び交っていたのだ。
はじめは、クォークとレプトンの質量はゼロであった。これもきっと、当該の方程式を解くことで得られたのだろう。
それが、宇宙が膨張して冷える過程で、電子を含む素粒子は、初めて質量をもったのだ。
この驚くべき構造の変化は、宇宙空間にヒッグズ粒子が敷き詰められていて、初めて可能になった。ヒッグズ粒子が敷き詰められていれば、その間を通る素粒子は減速する。この減速する分が、素粒子の質量になる。
なるほど、質量ってそういうものなのか。
しかし著者は、ときどき読者が戸惑うようなことを言う。
「よく比喩的に『初期の宇宙は非常に小さかったので、素粒子物理学で調べることができる』と言われることがありますが、これは正確ではありません。〔中略〕宇宙の『大きさ』は初めから無限であり得ます。『初期の宇宙は非常に高エネルギー密度の状態にあったので、素粒子物理学の知識を用いないと調べることができない』がより正しいステートメントです。」
「宇宙神話」の叙述の仕方で、きっと様々な流派があるのだろう。
第3章以降、つまりビッグバン以前が、確実だと言えないのは、観測によるデータが得られないからである。
それでも大枠は分かる、と著者が言うのは、物理法則を使って、時間をさかのぼれるからである。
また第3章には、「反物質」の話も出てくる。
世の中に存在するすべての物質には、正反対の性質を持つ「反物質」が存在している。これも「場の量子論」の一般的な結論であることが、分かっているという。
たとえば、電荷がマイナス1の電子に対しては、プラス1の「反電子」、つまり「陽電子」が存在する。これは陽子、中性子の場合も同じことである。
「世の中に存在する(ダークマターも含む)すべての物質に、対応する反物質が存在しなければならない〔中略〕。なお、光の粒子である光子のように、電荷等の性質を持たない粒子に関しては、反粒子が元の粒子そのものである可能性があります。実際に光子の場合、反粒子は光子自身です。」
後半、何を言っているのかわからんぞ。要するに電荷のない場合には、粒子・反粒子といっても、区別の仕様がないのだから、意味はないということか。
この素粒子と反素粒子、物質と反物質は、宇宙で出会えば、「対消滅〔ついしょうめつ〕」という現象を起こして、大量のエネルギーに変換され、必ず消滅する。
つまりこの宇宙では、物質と反物質は必ずペアで生み出され(これを「対生成」という)、それが出会うと「対消滅」を起こす。
よって宇宙には何も存在しない、太陽や地球も、私やあなたも存在しない、となると困るので、物質と反物質の対称形はわずかに壊れており、物質が反物質よりもわずかに多くなっている。そういうふうに、「物理学神話」では設定してある。
僕は妄想を抱く。もしこれが逆で、反物質が物質よりも、わずかに多い場合には、どういう宇宙になっていたのか。その場合も、世の中は同じように生まれていたのだろうか。日本の場合は、世間に対して反世間か。
そして生命は、生まれていたのだろうか。
それとも、もっと魔的なもの、反生命と呼ぶしかないようなものが、生まれていたのだろうか。とはいっても、反生命が何を指すかは、皆目わからないのだが。
ともかく宇宙の年齢が、1マイクロ秒(10-4〔乗〕)以前には、温度が約1兆度以上あった。
そう言われてもなあ。1兆度と言われても、ただ熱い、すごく熱い、としか言いようがない。それとも僕自身が、見ただけで、溶けてしまうだろうか。これもたぶん、方程式を解くことで、得られた結果に違いない。
1兆度以上の温度では、陽子や中性子などは存在しない。後に陽子や中性子を塊として構成するクォークや、電子、光子が、この段階では素粒子として、自在に飛び交っていたのだ。
はじめは、クォークとレプトンの質量はゼロであった。これもきっと、当該の方程式を解くことで得られたのだろう。
それが、宇宙が膨張して冷える過程で、電子を含む素粒子は、初めて質量をもったのだ。
この驚くべき構造の変化は、宇宙空間にヒッグズ粒子が敷き詰められていて、初めて可能になった。ヒッグズ粒子が敷き詰められていれば、その間を通る素粒子は減速する。この減速する分が、素粒子の質量になる。
なるほど、質量ってそういうものなのか。
しかし著者は、ときどき読者が戸惑うようなことを言う。
「よく比喩的に『初期の宇宙は非常に小さかったので、素粒子物理学で調べることができる』と言われることがありますが、これは正確ではありません。〔中略〕宇宙の『大きさ』は初めから無限であり得ます。『初期の宇宙は非常に高エネルギー密度の状態にあったので、素粒子物理学の知識を用いないと調べることができない』がより正しいステートメントです。」
「宇宙神話」の叙述の仕方で、きっと様々な流派があるのだろう。
第3章以降、つまりビッグバン以前が、確実だと言えないのは、観測によるデータが得られないからである。
それでも大枠は分かる、と著者が言うのは、物理法則を使って、時間をさかのぼれるからである。
また第3章には、「反物質」の話も出てくる。
世の中に存在するすべての物質には、正反対の性質を持つ「反物質」が存在している。これも「場の量子論」の一般的な結論であることが、分かっているという。
たとえば、電荷がマイナス1の電子に対しては、プラス1の「反電子」、つまり「陽電子」が存在する。これは陽子、中性子の場合も同じことである。
「世の中に存在する(ダークマターも含む)すべての物質に、対応する反物質が存在しなければならない〔中略〕。なお、光の粒子である光子のように、電荷等の性質を持たない粒子に関しては、反粒子が元の粒子そのものである可能性があります。実際に光子の場合、反粒子は光子自身です。」
後半、何を言っているのかわからんぞ。要するに電荷のない場合には、粒子・反粒子といっても、区別の仕様がないのだから、意味はないということか。
この素粒子と反素粒子、物質と反物質は、宇宙で出会えば、「対消滅〔ついしょうめつ〕」という現象を起こして、大量のエネルギーに変換され、必ず消滅する。
つまりこの宇宙では、物質と反物質は必ずペアで生み出され(これを「対生成」という)、それが出会うと「対消滅」を起こす。
よって宇宙には何も存在しない、太陽や地球も、私やあなたも存在しない、となると困るので、物質と反物質の対称形はわずかに壊れており、物質が反物質よりもわずかに多くなっている。そういうふうに、「物理学神話」では設定してある。
僕は妄想を抱く。もしこれが逆で、反物質が物質よりも、わずかに多い場合には、どういう宇宙になっていたのか。その場合も、世の中は同じように生まれていたのだろうか。日本の場合は、世間に対して反世間か。
そして生命は、生まれていたのだろうか。
それとも、もっと魔的なもの、反生命と呼ぶしかないようなものが、生まれていたのだろうか。とはいっても、反生命が何を指すかは、皆目わからないのだが。
半分、神の領域か――『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』(野村泰紀)(3)
そしてダークマター以外にも、新たな謎がある。
1998年(わずか30年足らず前)に、観測結果として、宇宙の膨張スピードは加速している、という発表があった。
これは衝撃的だった。
宇宙に異なる物質があれば、この間には必ず引力が働く。それは2つの物質が離れていくのを遅くする。
「つまり、宇宙膨張は重力の効果で遅くなっていくと考えられるのです。」
ところが現実には、宇宙は加速膨張をしている。
これは宇宙には、物質以外の何かがあることを意味する。重力よりも大きな、なんだか分からないエネルギー源、つまり「ダークエネルギー」である。といっても何も言ったことにならないのだが。
「ダークマターとダークエネルギーは、その名称が少し似ているにもかかわらず全く別のものです。ダークマターは、標準模型に含まれる粒子ではないものの、物質であることには変わりありません。一方で、ダークエネルギーは物質ですらないのです。」
ちなみに「宇宙のエネルギー密度の組成」は、普通の物質などが5%、ダークマターが26%、そしてダークエネルギーが69%である。つまりダークと付く物質とエネルギーで、なんと95パーセントを占めている。ここに来て、宇宙はほとんど謎だ。
しかし、と著者は高らかに言う。
「私たちが宇宙と言ったときに真っ先に思い浮かべる星や銀河は、宇宙にとってはある意味『不純物』のようなものにすきません。とはいえ、この不純物が私たちを育んだのです。そして、その不純物のおまけでもあるような私たちが宇宙全体の組成を明らかにしたことは、科学の力を物語るものです。」
著者には悪いけれど、これは言いすぎだと思う。科学者が集まって明らかにしたのは、ほんのわずか、地球の周りと、宇宙における物質が5%だけである。
それ以外は「ダーク」な「物質」と「エネルギー」、つまり謎であり、分からないのである。
でも考えてみれば、人類がこういう考察をしてから、1万年もたっていない。
話は思いきり違うが、たとえば将棋。これを極めるのに何年、何百年、何千年かかるか。藤井聡太は毎回、初手は決まっている。初手お茶は別にして、取りあえずは「2六歩」(後手の場合は「8四歩」)である。
これは初手「2六歩」を、まずは極めようということだと思う。
本当は初手は、どんな指し方でもいいはずだ。そしてそれを、全部の指し手について極めるためには、藤井竜王・名人クラスの人間が何人いて、何年かかることか。
将棋でさえそうなのだから、それを思えば、科学の謎を解くのに、あと十万年かかろうが、百万年かかろうが、そのくらいは見ておいた方がよい。もちろんこれは最速で考えているので、途中、戦争をしたりするようでは、ゴールは遠くおぼつかない。
第2章は「ビッグバン宇宙 Ⅰ――宇宙開闢約0.1秒後『以降』」で、これは現在の物理学で、ほぼ解明ができている、と著者は言う。誕生した後、約0.1秒後の宇宙が、高温の「火の玉」であったことは間違いない、と。
以下、一般相対性理論などの方程式を解くことで、だいたいのことは分かる、と著者は言う。
その結果は実に面白いが、僕にとっては、これもまた「神話」というしかない。そういう「神話」の物語の一節を、書きとどめておく。
「私たちの太陽は、これら第一世代の恒星がその寿命を爆発により終えた後、そこから吹き飛ばされたガスを基に今から50億年ほど前に誕生した第二世代、もしくは第三世代の星です。そのため、地球を含む太陽系の惑星にはこれらの重い元素が十分に含まれます。そして、これらの元素は地球やそこに生きる生命の体を構成しています。つまり、私たちの体は大昔の星の残骸でできているのです。」
著者が自信満々に語る「宇宙0.1秒後からの歴史」に、僕は強烈に惹きつけられつつも、ここに完全に取り込まれてはいけない、と思っている。
1998年(わずか30年足らず前)に、観測結果として、宇宙の膨張スピードは加速している、という発表があった。
これは衝撃的だった。
宇宙に異なる物質があれば、この間には必ず引力が働く。それは2つの物質が離れていくのを遅くする。
「つまり、宇宙膨張は重力の効果で遅くなっていくと考えられるのです。」
ところが現実には、宇宙は加速膨張をしている。
これは宇宙には、物質以外の何かがあることを意味する。重力よりも大きな、なんだか分からないエネルギー源、つまり「ダークエネルギー」である。といっても何も言ったことにならないのだが。
「ダークマターとダークエネルギーは、その名称が少し似ているにもかかわらず全く別のものです。ダークマターは、標準模型に含まれる粒子ではないものの、物質であることには変わりありません。一方で、ダークエネルギーは物質ですらないのです。」
ちなみに「宇宙のエネルギー密度の組成」は、普通の物質などが5%、ダークマターが26%、そしてダークエネルギーが69%である。つまりダークと付く物質とエネルギーで、なんと95パーセントを占めている。ここに来て、宇宙はほとんど謎だ。
しかし、と著者は高らかに言う。
「私たちが宇宙と言ったときに真っ先に思い浮かべる星や銀河は、宇宙にとってはある意味『不純物』のようなものにすきません。とはいえ、この不純物が私たちを育んだのです。そして、その不純物のおまけでもあるような私たちが宇宙全体の組成を明らかにしたことは、科学の力を物語るものです。」
著者には悪いけれど、これは言いすぎだと思う。科学者が集まって明らかにしたのは、ほんのわずか、地球の周りと、宇宙における物質が5%だけである。
それ以外は「ダーク」な「物質」と「エネルギー」、つまり謎であり、分からないのである。
でも考えてみれば、人類がこういう考察をしてから、1万年もたっていない。
話は思いきり違うが、たとえば将棋。これを極めるのに何年、何百年、何千年かかるか。藤井聡太は毎回、初手は決まっている。初手お茶は別にして、取りあえずは「2六歩」(後手の場合は「8四歩」)である。
これは初手「2六歩」を、まずは極めようということだと思う。
本当は初手は、どんな指し方でもいいはずだ。そしてそれを、全部の指し手について極めるためには、藤井竜王・名人クラスの人間が何人いて、何年かかることか。
将棋でさえそうなのだから、それを思えば、科学の謎を解くのに、あと十万年かかろうが、百万年かかろうが、そのくらいは見ておいた方がよい。もちろんこれは最速で考えているので、途中、戦争をしたりするようでは、ゴールは遠くおぼつかない。
第2章は「ビッグバン宇宙 Ⅰ――宇宙開闢約0.1秒後『以降』」で、これは現在の物理学で、ほぼ解明ができている、と著者は言う。誕生した後、約0.1秒後の宇宙が、高温の「火の玉」であったことは間違いない、と。
以下、一般相対性理論などの方程式を解くことで、だいたいのことは分かる、と著者は言う。
その結果は実に面白いが、僕にとっては、これもまた「神話」というしかない。そういう「神話」の物語の一節を、書きとどめておく。
「私たちの太陽は、これら第一世代の恒星がその寿命を爆発により終えた後、そこから吹き飛ばされたガスを基に今から50億年ほど前に誕生した第二世代、もしくは第三世代の星です。そのため、地球を含む太陽系の惑星にはこれらの重い元素が十分に含まれます。そして、これらの元素は地球やそこに生きる生命の体を構成しています。つまり、私たちの体は大昔の星の残骸でできているのです。」
著者が自信満々に語る「宇宙0.1秒後からの歴史」に、僕は強烈に惹きつけられつつも、ここに完全に取り込まれてはいけない、と思っている。
半分、神の領域か――『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』(野村泰紀)(2)
第1章は「現在の宇宙」について。ここでは20世紀初めの、「宇宙は膨張している」という大発見がある。
これは、望遠鏡で宇宙を見て観察した結果、分かったことではない。アインシュタインが一般相対性理論を完成させ、宇宙は膨張するか収縮するかのどちらかである、という結論を得たのだ。どうしてこういう結論になったのか。その証明は、ブルーバックスの読者、つまり僕程度では難しい。
そのすぐ後、アメリカの天文学者が観測により、宇宙は膨張していることを確かめたのだ。
というと素人の僕は、そういうものかと納得するのだが、しかし考えてみれば、おかしなところはいろいろある。
たとえば、「宇宙の膨張」とは「宇宙全体のサイズが大きくなること」とは限らない、と著者は言う。
「宇宙の膨張とは、銀河間の距離といった、宇宙の異なる点の間の距離が一様に大きくなっていくことであって、これは必ずしも宇宙全体が有限であって、そのサイズが時間とともに大きくなっていくということを意味するわけではないのです。」
その結果、とんでもないことを言う。
「宇宙全体のサイズが、最初から無限だという可能性もあるのです。」
これはおかしい、と僕は思う。だってビッグバンが起こる前の、インフレーションが起こる前の宇宙は、限りなく小さな点だったのではないか。だいたい最初から「無限」では、宇宙の「誕生」に意味がないではないか。
でもまあいい。物理学的「神話」においては、とにかくしばらくは、お説ごもっともで行くほかはない。
つぎに天体を構成する、基本粒子の話が出てくる。これは原子よりもずっと小さなものだ。その素粒子は今のところ、17個が発見されている。
最後まで問題になったヒッグズ粒子も、その中の1つである。
それぞれの粒子の詳しい性質が述べられているが、そこは省略する。
その最後に、「素粒子の標準模型の数式」というのが載っているが、そこも省略したい。数式というだけあって、本当に数式そのものなのだが、等式の右辺と左辺が何をあらわしているか、見当もつかない。
著者によれば、次のようなことらしい。
「この素粒子の標準模型は、主に1950年代から1970年代にかけて多くの物理学者の手によって完成したもので、ゲージ原理という極めて美しい数学的構造に基づいて作られています。〔中略〕このたった数行の式が、私たちが直接(重力以外の力を通して)観測できる現象の全てを極めて正確に記述するのです。」
ここでは「重力以外の……」というところが気にかかる。
著者はさらに言う。
「〔17個の〕粒子とその振る舞いを説明するこの数行の式が、素粒子物理から原子核の物理、物性の物理、原子・分子等の化学、生命等に至るまでの全ての起源なのです。」
ひとつの等式が、そんなことを表わしているのか。
そこでこの等式を、ここに書き残しておきたいのだが、僕のキーボードを操る技量では、文字分数や指数、シグマが入った等式は手に余る。
さて問題は、星とその周辺の星間ガスを合わせても、重力から推定される質量に、はるかに及ばないということ。
こうして謎の質量、ダークマター(暗黒物質)が現われてくる。
現在では、宇宙に存在する全物質の質量の、約6分の5がダークマターである。
著者は驚きをもっていう。
「現在ではダークマターが標準模型の粒子である可能性は、様々な考察から否定されています。すなわち、宇宙を占める物質の大部分は私たちの知らない粒子なのです!」
未発見の素粒子は、まだいくらでもあるということか。それともそれは、素粒子ではないのか。
それにしても、宇宙の全質量の約6分の5が未知のものであるとは、考えられないことではないか。
これは、望遠鏡で宇宙を見て観察した結果、分かったことではない。アインシュタインが一般相対性理論を完成させ、宇宙は膨張するか収縮するかのどちらかである、という結論を得たのだ。どうしてこういう結論になったのか。その証明は、ブルーバックスの読者、つまり僕程度では難しい。
そのすぐ後、アメリカの天文学者が観測により、宇宙は膨張していることを確かめたのだ。
というと素人の僕は、そういうものかと納得するのだが、しかし考えてみれば、おかしなところはいろいろある。
たとえば、「宇宙の膨張」とは「宇宙全体のサイズが大きくなること」とは限らない、と著者は言う。
「宇宙の膨張とは、銀河間の距離といった、宇宙の異なる点の間の距離が一様に大きくなっていくことであって、これは必ずしも宇宙全体が有限であって、そのサイズが時間とともに大きくなっていくということを意味するわけではないのです。」
その結果、とんでもないことを言う。
「宇宙全体のサイズが、最初から無限だという可能性もあるのです。」
これはおかしい、と僕は思う。だってビッグバンが起こる前の、インフレーションが起こる前の宇宙は、限りなく小さな点だったのではないか。だいたい最初から「無限」では、宇宙の「誕生」に意味がないではないか。
でもまあいい。物理学的「神話」においては、とにかくしばらくは、お説ごもっともで行くほかはない。
つぎに天体を構成する、基本粒子の話が出てくる。これは原子よりもずっと小さなものだ。その素粒子は今のところ、17個が発見されている。
最後まで問題になったヒッグズ粒子も、その中の1つである。
それぞれの粒子の詳しい性質が述べられているが、そこは省略する。
その最後に、「素粒子の標準模型の数式」というのが載っているが、そこも省略したい。数式というだけあって、本当に数式そのものなのだが、等式の右辺と左辺が何をあらわしているか、見当もつかない。
著者によれば、次のようなことらしい。
「この素粒子の標準模型は、主に1950年代から1970年代にかけて多くの物理学者の手によって完成したもので、ゲージ原理という極めて美しい数学的構造に基づいて作られています。〔中略〕このたった数行の式が、私たちが直接(重力以外の力を通して)観測できる現象の全てを極めて正確に記述するのです。」
ここでは「重力以外の……」というところが気にかかる。
著者はさらに言う。
「〔17個の〕粒子とその振る舞いを説明するこの数行の式が、素粒子物理から原子核の物理、物性の物理、原子・分子等の化学、生命等に至るまでの全ての起源なのです。」
ひとつの等式が、そんなことを表わしているのか。
そこでこの等式を、ここに書き残しておきたいのだが、僕のキーボードを操る技量では、文字分数や指数、シグマが入った等式は手に余る。
さて問題は、星とその周辺の星間ガスを合わせても、重力から推定される質量に、はるかに及ばないということ。
こうして謎の質量、ダークマター(暗黒物質)が現われてくる。
現在では、宇宙に存在する全物質の質量の、約6分の5がダークマターである。
著者は驚きをもっていう。
「現在ではダークマターが標準模型の粒子である可能性は、様々な考察から否定されています。すなわち、宇宙を占める物質の大部分は私たちの知らない粒子なのです!」
未発見の素粒子は、まだいくらでもあるということか。それともそれは、素粒子ではないのか。
それにしても、宇宙の全質量の約6分の5が未知のものであるとは、考えられないことではないか。
半分、神の領域か――『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』(野村泰紀)(1)
村山斉の『宇宙になぜ我々が存在するのか―最新素粒子論入門―』を読んだので、今度は宇宙全体を射程に入れたい。とまあ、本を読む前はいつも稀有壮大、意気軒高なのだ。
もちろん、僕のおおもとの疑問は、もとをたどれば素粒子である私たちが、なぜ素粒子そのものを考察できるのか、というところにある。
それにしてもこの本、2022年4月に初版が出て、2024年6月には第17刷が出ている。ほぼ2カ月に一度の割合で重版している。すごいね、これは期待が持てますぜ。
初めに「まえがき」があって、これがなんというか、圧巻である。
「現代の宇宙論は私たちの宇宙が誕生してから約10-30〔乗〕秒後といった宇宙の『超初期』を科学的に調べることができるレベルにあります。」
10-30〔乗〕秒後だって、人間の言葉では、瞬間という以外に言いようがない。
「また、恒星や銀河、銀河団といった現在私たちが見ることのできる構造の起源が、このような宇宙の超初期にどのようにして作られたのか、というような根源的な問いに関しても、理論的にかなりの確信をもって答えることができ、またそれを確認するための観測も行われています。」
ということは、村山斉『宇宙になぜ我々が存在するのか』を、より具体的に説明したものなのだ。
「さらに理論物理学の最前線では、私たちの宇宙を越えた、その外側や生まれる以前などについても議論できるようになってきているのです。」
宇宙の外側、宇宙が生まれる以前、そういうことを議論しようではないか、と言っている。著者は正気だから、これはちょっと寒気がするというか、武者震いするというか。
本全体は、6章立てになっている。
第1章は「現在の宇宙」ということで、宇宙の物質を構成する17の素粒子や、ダークマター(暗黒物質)、ダークエネルギー(暗黒エネルギー)を解説している。
第2章と第3章は、ビッグバン宇宙を扱っている。第2章が「宇宙開闢約0.1秒後『以降』」であり、第3章は「宇宙開闢約0.1秒後『以前』」である。
第2章「宇宙開闢約0.1秒後『以降』」の事柄は、だいたい分かっている、と著者は自信をもって語るが、ほんとかね。
続けて第4章は、「インフレーション理論」である。
ここまではよくある話だ。というと分かった気になっているようだが、何度も話で聞いたことがあるだけで、何をどう考えたらそうなるのかは、全く意味不明だ。
さらにここから先、仰天するようなことが書いてある。
第5章「私たちの住むこの宇宙が、よくできすぎているのはなぜか」は、かなり哲学的な内容が入ってくる、と僕は思う。
しかしもちろん著者は、哲学的なところへは入らず、物理学の論理一辺倒で押しまくる。
第6章「無数の異なる宇宙たち――『マルチバース』」になると、その論理がとんでもないところに届いてしまう。
第6章で生成される宇宙は、それこそ永久に、無数にある。僕らの宇宙は、いわばその「泡宇宙」の1つにすぎないのだ。
だから僕らの宇宙が、4次元であるのに対し、別の「泡宇宙」では、10次元の世界が展開され、そこでは物理学の法則も、素粒子の種類と数も、まったく違うのだ。
いいでしょう、いいでしょう、物理学の論理は、物理学者に言わせれば、唯一絶対の法則だから、それは言ってみれば、神をも凌ぐ。
もちろん著者の野村泰紀先生は、そんなことは仰っていない。しかし宇宙の果てに、それを包み込む宇宙が現われる、などと聞けば、それはもう半分、神の領域ではないか。
もちろん、僕のおおもとの疑問は、もとをたどれば素粒子である私たちが、なぜ素粒子そのものを考察できるのか、というところにある。
それにしてもこの本、2022年4月に初版が出て、2024年6月には第17刷が出ている。ほぼ2カ月に一度の割合で重版している。すごいね、これは期待が持てますぜ。
初めに「まえがき」があって、これがなんというか、圧巻である。
「現代の宇宙論は私たちの宇宙が誕生してから約10-30〔乗〕秒後といった宇宙の『超初期』を科学的に調べることができるレベルにあります。」
10-30〔乗〕秒後だって、人間の言葉では、瞬間という以外に言いようがない。
「また、恒星や銀河、銀河団といった現在私たちが見ることのできる構造の起源が、このような宇宙の超初期にどのようにして作られたのか、というような根源的な問いに関しても、理論的にかなりの確信をもって答えることができ、またそれを確認するための観測も行われています。」
ということは、村山斉『宇宙になぜ我々が存在するのか』を、より具体的に説明したものなのだ。
「さらに理論物理学の最前線では、私たちの宇宙を越えた、その外側や生まれる以前などについても議論できるようになってきているのです。」
宇宙の外側、宇宙が生まれる以前、そういうことを議論しようではないか、と言っている。著者は正気だから、これはちょっと寒気がするというか、武者震いするというか。
本全体は、6章立てになっている。
第1章は「現在の宇宙」ということで、宇宙の物質を構成する17の素粒子や、ダークマター(暗黒物質)、ダークエネルギー(暗黒エネルギー)を解説している。
第2章と第3章は、ビッグバン宇宙を扱っている。第2章が「宇宙開闢約0.1秒後『以降』」であり、第3章は「宇宙開闢約0.1秒後『以前』」である。
第2章「宇宙開闢約0.1秒後『以降』」の事柄は、だいたい分かっている、と著者は自信をもって語るが、ほんとかね。
続けて第4章は、「インフレーション理論」である。
ここまではよくある話だ。というと分かった気になっているようだが、何度も話で聞いたことがあるだけで、何をどう考えたらそうなるのかは、全く意味不明だ。
さらにここから先、仰天するようなことが書いてある。
第5章「私たちの住むこの宇宙が、よくできすぎているのはなぜか」は、かなり哲学的な内容が入ってくる、と僕は思う。
しかしもちろん著者は、哲学的なところへは入らず、物理学の論理一辺倒で押しまくる。
第6章「無数の異なる宇宙たち――『マルチバース』」になると、その論理がとんでもないところに届いてしまう。
第6章で生成される宇宙は、それこそ永久に、無数にある。僕らの宇宙は、いわばその「泡宇宙」の1つにすぎないのだ。
だから僕らの宇宙が、4次元であるのに対し、別の「泡宇宙」では、10次元の世界が展開され、そこでは物理学の法則も、素粒子の種類と数も、まったく違うのだ。
いいでしょう、いいでしょう、物理学の論理は、物理学者に言わせれば、唯一絶対の法則だから、それは言ってみれば、神をも凌ぐ。
もちろん著者の野村泰紀先生は、そんなことは仰っていない。しかし宇宙の果てに、それを包み込む宇宙が現われる、などと聞けば、それはもう半分、神の領域ではないか。
私もまた高次脳機能障害――『貧困と脳―「働かない」のではなく「働けない」―』(鈴木大介)(3)
私はそういうことはなかったが、多くの高次脳機能障害者には、次のような厄介な問題がついて回る。
「債務履行のような重要課題ですら、むしろ重要課題だからこそ自身の中に把握し続けることができない。『症状』が、またもや不自由な脳の当事者に共通の症状としてあるのだ。
そしてこれもまた、僕自身の苦しめられている症状でもある。」
これは私の場合、妻が全部を仕切っていたおかげで、苦になるということがなかったのかもしれない。
次は私も、著者ほどではないが、苦しめられた症状である。
「嫌なあいつの顔が脳裏の『そこにある』と気づいた瞬間、僕の脳内のすべての注意や思考は、その人物との不愉快なエピソードの記憶に全集中し、ガッチリとロックしたように『そのこと以外を一切考えられなくなる』のだ。」
本当にある角度から以外に、その事柄や人物について、考えられなくなってしまう。
私はそんなとき、思考がその方向に行かないよう、自分の内面全体に、強制的にシャッターを降ろした。それはもう、シャッター音が聞こえるくらい、キッパリとしたものだった。
鈴木大介の場合は、私よりもずっと深刻である。
「その時には、その人物に不愉快な対応を受けた瞬間の苛立ちや怒りの感情が、『体験当時のサイズ』のまま、リアルにフレッシュに蘇ってきてしまう。〔中略〕『そうなってしまう自分』を自分自身で一切コントロールできない、やめられない、止まらない。」
これはもう地獄だろうな。そしてこの状態には先がある。
「僕の脳は、それこそ発作的な脳性疲労と同様に頭に濃霧が降りてきたように重怠くなり、思考がまとまらなくなり、人の言葉や文章の理解まで困難になる。車の前に子どもが飛び出してきた直後のような緊張感がずっと続き、胸も喉も詰まり、〔中略〕呼吸そのものが難しくなってしまう。」
こういうことは、体験した者でないとわからない。私自身、高次脳機能障害であるにもかかわらず、著者の気持ちは想像するけれども、そこに届いていかない。
「立ち向かうための行動を起こさなければならないのに、逆に全く動けなくなるなんて、想像したこともない不自由だった。だいたい不安になると文字が読めなくなるとか、人の話が聞き取れなくなるとか、全く意味不明だ。」
本人が意味不明だと言っているのだから、周りの人が全く無理解だとしても、しょうがない。これは絶望的だ。
そうして落ち行く先は、「自分を殺したい・消したい」となる。
私は妻の支えがあって、そこに落ちることはなかったが、そのどん底に達した人は、かなり深刻であり危険だ。
鈴木大介はそういう人たちに対して、こんな言葉をかけている。
「『こうありたい。他者から信用・信頼される人間でありたい』と願ってしまい、努力してもそのようにできない自分を責めてしまう生真面目で責任感の強いあなたこそが、あなた自身なのであって、それができないあなたや、自身でも許しがたいほどにだらしなく必要な行動が取れないあなたが、あなた自身の本態ではない。」
著者も言うように、これでは禅問答のようで、伝わる自信もないが、少なくともこんなふうに声をかけられた方は、生きていく最後の気力を、奮い立たせるのではないか。そういうふうに信じたい。
この本全体を覆う、出口のない苦しい叙述の中で、意外にも「第八章 唯一前進している生活保護界隈」だけは、希望が持てる。
「〔メディアが〕生活保護を取り巻く環境が変化しつつある中で旧態依然の事案ばかりを強調してきたことで、徐々に社会のイメージと実態とが乖離してきてしまったというのが、このギャップの正体なのではないかと思う。」
即効性のある現実的な方法は、まずここを始めとするしかないのだ。
(『貧困と脳―「働かない」のではなく「働けない」―』
鈴木大介、幻冬社新書、2024年11月25日初刷)
「債務履行のような重要課題ですら、むしろ重要課題だからこそ自身の中に把握し続けることができない。『症状』が、またもや不自由な脳の当事者に共通の症状としてあるのだ。
そしてこれもまた、僕自身の苦しめられている症状でもある。」
これは私の場合、妻が全部を仕切っていたおかげで、苦になるということがなかったのかもしれない。
次は私も、著者ほどではないが、苦しめられた症状である。
「嫌なあいつの顔が脳裏の『そこにある』と気づいた瞬間、僕の脳内のすべての注意や思考は、その人物との不愉快なエピソードの記憶に全集中し、ガッチリとロックしたように『そのこと以外を一切考えられなくなる』のだ。」
本当にある角度から以外に、その事柄や人物について、考えられなくなってしまう。
私はそんなとき、思考がその方向に行かないよう、自分の内面全体に、強制的にシャッターを降ろした。それはもう、シャッター音が聞こえるくらい、キッパリとしたものだった。
鈴木大介の場合は、私よりもずっと深刻である。
「その時には、その人物に不愉快な対応を受けた瞬間の苛立ちや怒りの感情が、『体験当時のサイズ』のまま、リアルにフレッシュに蘇ってきてしまう。〔中略〕『そうなってしまう自分』を自分自身で一切コントロールできない、やめられない、止まらない。」
これはもう地獄だろうな。そしてこの状態には先がある。
「僕の脳は、それこそ発作的な脳性疲労と同様に頭に濃霧が降りてきたように重怠くなり、思考がまとまらなくなり、人の言葉や文章の理解まで困難になる。車の前に子どもが飛び出してきた直後のような緊張感がずっと続き、胸も喉も詰まり、〔中略〕呼吸そのものが難しくなってしまう。」
こういうことは、体験した者でないとわからない。私自身、高次脳機能障害であるにもかかわらず、著者の気持ちは想像するけれども、そこに届いていかない。
「立ち向かうための行動を起こさなければならないのに、逆に全く動けなくなるなんて、想像したこともない不自由だった。だいたい不安になると文字が読めなくなるとか、人の話が聞き取れなくなるとか、全く意味不明だ。」
本人が意味不明だと言っているのだから、周りの人が全く無理解だとしても、しょうがない。これは絶望的だ。
そうして落ち行く先は、「自分を殺したい・消したい」となる。
私は妻の支えがあって、そこに落ちることはなかったが、そのどん底に達した人は、かなり深刻であり危険だ。
鈴木大介はそういう人たちに対して、こんな言葉をかけている。
「『こうありたい。他者から信用・信頼される人間でありたい』と願ってしまい、努力してもそのようにできない自分を責めてしまう生真面目で責任感の強いあなたこそが、あなた自身なのであって、それができないあなたや、自身でも許しがたいほどにだらしなく必要な行動が取れないあなたが、あなた自身の本態ではない。」
著者も言うように、これでは禅問答のようで、伝わる自信もないが、少なくともこんなふうに声をかけられた方は、生きていく最後の気力を、奮い立たせるのではないか。そういうふうに信じたい。
この本全体を覆う、出口のない苦しい叙述の中で、意外にも「第八章 唯一前進している生活保護界隈」だけは、希望が持てる。
「〔メディアが〕生活保護を取り巻く環境が変化しつつある中で旧態依然の事案ばかりを強調してきたことで、徐々に社会のイメージと実態とが乖離してきてしまったというのが、このギャップの正体なのではないかと思う。」
即効性のある現実的な方法は、まずここを始めとするしかないのだ。
(『貧困と脳―「働かない」のではなく「働けない」―』
鈴木大介、幻冬社新書、2024年11月25日初刷)
私もまた高次脳機能障害――『貧困と脳―「働かない」のではなく「働けない」―』(鈴木大介)(2)
高次脳機能障害の鈴木大介は、自分の苦手なことを数えてみる。
「僕にとって最も脳を疲労させるタスクには、自身が苦手意識を感じる相手に対して言葉を選んでメールの文面を考える作業や、3人以上が参加する会議、過去に作ったいくつかの原稿や企画案などを比較検討しつつ、良いとこ取りで一本の新規資料・企画にまとめる作業などがある。」
これは私も同じだ。苦手な人としゃべるときには、直接であれ、電話であれ、血圧が上がり、うまくしゃべれず、ひどい時には何を言っているのか、自分でも音は出ているが、言葉になっていないことがある。
私はもう、人と定期的に会うような仕事はしていない。だから3人以上と会議をすることはない。しかし人と話しているとき、別の人が割り込んでくると、言葉を続けることが、まったくできなくなる。
今は原稿料の支払いが生じているのは、『日本古書通信』のエッセイだけである。それはメールで要件は済んでいるので、編集長のTさんは、私の高次脳機能障害に気づくことは、ほとんどないはずである。
私も普段は忘れているが、しかし相変わらず障害はある。
何よりも脳以外の、右半身麻痺の後遺症が残っている。今は杖を突いて歩くことのできる距離が、200メートルほど。半身不随なので、電車やバスに乗ることはできない。まあしかし、こんなことを喋っていてもしょうがない。
著者はこの本で、以下のことを目標としている。
1つは、事情があって働けなくなった者に、自己責任論を押し付けるのはやめてほしいということ。そして、「身近に働くことに困難を抱える当事者のいる家族や友人や知人が叱責や失望ではなくその困難を理解すること、そして状況からの脱却を共に考えること」。
この3つのうち2つは、ほとんど無理な目標だろう。
仕事でミスを重ねる人がいれば、事情はどうあれ、その担当を外さざるを得ないし、そのとき自己責任を問うか、事情はよくわかるけども辞めてくれと言うかは、大した違いではないような気がする。
それとも、そういうふうに考える私は、まちがっているだろうか。
また脳性疲労の状況から脱却することを、目標とすることは、新書一冊の内容には、荷が重すぎる。
しかし家族や友人に、𠮟責や失望ではなく、こちらの脳の状況を理解してもらうのは、この本をよく読み、考えれば可能だろう。
近しい人には、是非とも分かってほしい。そしてそのくらいが、自分の内側しか理解できない人間には、限界ではないかと思う。たった1人の人でも、理解者がいれば、生きていくことは可能なのである。
私がリハビリ病院にいるとき、壊れた私を理解している妻を、唯一の命綱にして、この世界にとどまっていたようなものだ。
次は鈴木大介に固有の症状。この辺は、私にはなかった。
「視界にたくさんの物があると、物と物が輪郭を失って溶け合ったように見え、その中から特定の物だけを探すのが異様に難しい。おかげでたくさんの商品が並ぶ百円ショップや、色とりどりの背表紙から目的の本を探す古本屋などからは、めっきり足が遠のいた。実は発症8年後でも、『コンビニで5分10分探して牛乳が見つけられない』なんてことがあった。」
こういうのは分からない。同じ高次脳機能障害の私が、具体的に理解できないのだ。
しかし不自由な脳には、大きく分けると、3つの共通点が挙げられるようだ。
「臨機応変・咄嗟の対応力の喪失」
「現況の把握力、判断力、自己決定力の喪失」
「論理的コミュニケーション力の喪失」
この中では私は、3番目の「喪失」がいちばん応えた。私は発症から約半年間、ほとんど口がきけなかったのである。
「僕にとって最も脳を疲労させるタスクには、自身が苦手意識を感じる相手に対して言葉を選んでメールの文面を考える作業や、3人以上が参加する会議、過去に作ったいくつかの原稿や企画案などを比較検討しつつ、良いとこ取りで一本の新規資料・企画にまとめる作業などがある。」
これは私も同じだ。苦手な人としゃべるときには、直接であれ、電話であれ、血圧が上がり、うまくしゃべれず、ひどい時には何を言っているのか、自分でも音は出ているが、言葉になっていないことがある。
私はもう、人と定期的に会うような仕事はしていない。だから3人以上と会議をすることはない。しかし人と話しているとき、別の人が割り込んでくると、言葉を続けることが、まったくできなくなる。
今は原稿料の支払いが生じているのは、『日本古書通信』のエッセイだけである。それはメールで要件は済んでいるので、編集長のTさんは、私の高次脳機能障害に気づくことは、ほとんどないはずである。
私も普段は忘れているが、しかし相変わらず障害はある。
何よりも脳以外の、右半身麻痺の後遺症が残っている。今は杖を突いて歩くことのできる距離が、200メートルほど。半身不随なので、電車やバスに乗ることはできない。まあしかし、こんなことを喋っていてもしょうがない。
著者はこの本で、以下のことを目標としている。
1つは、事情があって働けなくなった者に、自己責任論を押し付けるのはやめてほしいということ。そして、「身近に働くことに困難を抱える当事者のいる家族や友人や知人が叱責や失望ではなくその困難を理解すること、そして状況からの脱却を共に考えること」。
この3つのうち2つは、ほとんど無理な目標だろう。
仕事でミスを重ねる人がいれば、事情はどうあれ、その担当を外さざるを得ないし、そのとき自己責任を問うか、事情はよくわかるけども辞めてくれと言うかは、大した違いではないような気がする。
それとも、そういうふうに考える私は、まちがっているだろうか。
また脳性疲労の状況から脱却することを、目標とすることは、新書一冊の内容には、荷が重すぎる。
しかし家族や友人に、𠮟責や失望ではなく、こちらの脳の状況を理解してもらうのは、この本をよく読み、考えれば可能だろう。
近しい人には、是非とも分かってほしい。そしてそのくらいが、自分の内側しか理解できない人間には、限界ではないかと思う。たった1人の人でも、理解者がいれば、生きていくことは可能なのである。
私がリハビリ病院にいるとき、壊れた私を理解している妻を、唯一の命綱にして、この世界にとどまっていたようなものだ。
次は鈴木大介に固有の症状。この辺は、私にはなかった。
「視界にたくさんの物があると、物と物が輪郭を失って溶け合ったように見え、その中から特定の物だけを探すのが異様に難しい。おかげでたくさんの商品が並ぶ百円ショップや、色とりどりの背表紙から目的の本を探す古本屋などからは、めっきり足が遠のいた。実は発症8年後でも、『コンビニで5分10分探して牛乳が見つけられない』なんてことがあった。」
こういうのは分からない。同じ高次脳機能障害の私が、具体的に理解できないのだ。
しかし不自由な脳には、大きく分けると、3つの共通点が挙げられるようだ。
「臨機応変・咄嗟の対応力の喪失」
「現況の把握力、判断力、自己決定力の喪失」
「論理的コミュニケーション力の喪失」
この中では私は、3番目の「喪失」がいちばん応えた。私は発症から約半年間、ほとんど口がきけなかったのである。
私もまた高次脳機能障害――『貧困と脳―「働かない」のではなく「働けない」―』(鈴木大介)(1)
鈴木大介は『最貧困女子』がベストセラーになり、広く知られるようになった。
そしてすぐに脳梗塞になり、後遺症として高次脳機能障害になった。
このときのことを書いた『脳が壊れた』と『脳は回復する―高次脳機能障害からの脱出―』(いずれも新潮新書)は、いろいろと考えさせるところがあった。何よりもその体で、2冊の本を書いたところがすごい。
私もまた脳出血で、かろうじて一命を取りとめ、そのあと高次脳機能障害になった。地下鉄の国会議事堂前で、仕事の帰りだった。突然、仕事のキャリアがすべて断たれた。10年前のことだ。
鈴木大介は「まえがき――最貧困女子から10年」で、次のように書く。
「日本に飢えるようなことはない、すべての子どもが学校に通えるような日本に子どもの貧困など存在しないと吐き捨てる為政者もいた。だが、2024年。もはやこの国が格差社会であることも、事実貧困者が存在することも、誰も疑わない。」
著者は、その根底に多くの場合、壊れた脳、働けない脳が、あるのではないかと言う。
著者は脳梗塞になる前、いろんな人を取材したが、その過程で敢えて書かなかったことがある。それは次のようなことだ。
「なぜ彼らは、こんなにもだらしないのか。/なぜ、何度も何度も約束の時間を破って遅刻を重ねるのか?/なぜ即座に動かなければ一層状況が悪くなるのが目に見えてわかっている場面で、他人事のようにぼんやりした顔をし、自ら動こうとしないのか?/なぜ熱もないのに寝たまま行政や銀行の窓口稼働時間を逃し、支払いや申請が間に合わずに泣きついてくるのか?/なぜ督促と書かれた封筒を開けもせず、ポストの中に溜めるのか?/なぜ手を差し伸べる支援者に限って激しく嚙みつき、せっかくの縁をぶち壊しにするのか?」
こういうことは、あえて書かなかった。これをそのまま書けば、それはお前が悪いという、自己責任論の出番となるからだ。
だから著者は『最貧困女子』では、3つの障害として、「精神障害・発達障害・知的障害」を挙げた。
事実、売春で自活する少女たちには、発達障害や知的障害のあるものが多く、売春を主な生計として子育てをするシングルマザー、21名のほぼ全員が、精神科に通院中か通院歴があった。
著者はそれをこう考えた。
「『なぜ』をたびたび感じながらも、それが貧困者の実像であり、それが精神を病んだり障害特性がある者の実情なのだと解釈し、彼らに対する自己責任論の燃料になりそうなリアルは徹底して解像度を落として描写し続けた。
そのことをいまは、後悔している。」
なぜか。それは著者自身が、同じ状況に陥ってしまったからだ。
「彼らに対して感じ続けてきた、なぜ『やろうとしないのか』、なぜそんなにも『やる気がないのか』、なぜそんなにも『ちゃんとしていないのか』等々が、『必死に頑張ってもできないこと』『やる気があってもできないこと』だったと、我が身をもって理解した。」
私は10年前、半年間の入院生活を終え、病院を退院した頃を思い出す。
あの頃、さまざまな手続きがあった。障害者年金、介護保険による保障、それ以外の個人に関わる保険等々。
妻が差し出す書類の、自筆署名以外は、全部妻が書き込んだ。私は何も覚えていない。
そして実は、今に至るも、いわゆる手続き書類は、すべて妻の指図に従って書く。私は一応、これは何の書類だと聞くが、それが目の前から消えれば、きれいさっぱり記憶にない。あるいは記憶していても、おぼろげであり、それが何の書類か正確には分からない。
これがつまり、私の場合の高次脳機能障害だ。
〔追記)
このブログを読んだ妻から、訂正が入った。
「障害者年金、介護保険による保障、」は間違い、または不正確。正しくは「障害年金、介護保険の手続き、」となる。ことほどさように、身の回りの手続きに関しては、私はずっと曖昧である。
そしてすぐに脳梗塞になり、後遺症として高次脳機能障害になった。
このときのことを書いた『脳が壊れた』と『脳は回復する―高次脳機能障害からの脱出―』(いずれも新潮新書)は、いろいろと考えさせるところがあった。何よりもその体で、2冊の本を書いたところがすごい。
私もまた脳出血で、かろうじて一命を取りとめ、そのあと高次脳機能障害になった。地下鉄の国会議事堂前で、仕事の帰りだった。突然、仕事のキャリアがすべて断たれた。10年前のことだ。
鈴木大介は「まえがき――最貧困女子から10年」で、次のように書く。
「日本に飢えるようなことはない、すべての子どもが学校に通えるような日本に子どもの貧困など存在しないと吐き捨てる為政者もいた。だが、2024年。もはやこの国が格差社会であることも、事実貧困者が存在することも、誰も疑わない。」
著者は、その根底に多くの場合、壊れた脳、働けない脳が、あるのではないかと言う。
著者は脳梗塞になる前、いろんな人を取材したが、その過程で敢えて書かなかったことがある。それは次のようなことだ。
「なぜ彼らは、こんなにもだらしないのか。/なぜ、何度も何度も約束の時間を破って遅刻を重ねるのか?/なぜ即座に動かなければ一層状況が悪くなるのが目に見えてわかっている場面で、他人事のようにぼんやりした顔をし、自ら動こうとしないのか?/なぜ熱もないのに寝たまま行政や銀行の窓口稼働時間を逃し、支払いや申請が間に合わずに泣きついてくるのか?/なぜ督促と書かれた封筒を開けもせず、ポストの中に溜めるのか?/なぜ手を差し伸べる支援者に限って激しく嚙みつき、せっかくの縁をぶち壊しにするのか?」
こういうことは、あえて書かなかった。これをそのまま書けば、それはお前が悪いという、自己責任論の出番となるからだ。
だから著者は『最貧困女子』では、3つの障害として、「精神障害・発達障害・知的障害」を挙げた。
事実、売春で自活する少女たちには、発達障害や知的障害のあるものが多く、売春を主な生計として子育てをするシングルマザー、21名のほぼ全員が、精神科に通院中か通院歴があった。
著者はそれをこう考えた。
「『なぜ』をたびたび感じながらも、それが貧困者の実像であり、それが精神を病んだり障害特性がある者の実情なのだと解釈し、彼らに対する自己責任論の燃料になりそうなリアルは徹底して解像度を落として描写し続けた。
そのことをいまは、後悔している。」
なぜか。それは著者自身が、同じ状況に陥ってしまったからだ。
「彼らに対して感じ続けてきた、なぜ『やろうとしないのか』、なぜそんなにも『やる気がないのか』、なぜそんなにも『ちゃんとしていないのか』等々が、『必死に頑張ってもできないこと』『やる気があってもできないこと』だったと、我が身をもって理解した。」
私は10年前、半年間の入院生活を終え、病院を退院した頃を思い出す。
あの頃、さまざまな手続きがあった。障害者年金、介護保険による保障、それ以外の個人に関わる保険等々。
妻が差し出す書類の、自筆署名以外は、全部妻が書き込んだ。私は何も覚えていない。
そして実は、今に至るも、いわゆる手続き書類は、すべて妻の指図に従って書く。私は一応、これは何の書類だと聞くが、それが目の前から消えれば、きれいさっぱり記憶にない。あるいは記憶していても、おぼろげであり、それが何の書類か正確には分からない。
これがつまり、私の場合の高次脳機能障害だ。
〔追記)
このブログを読んだ妻から、訂正が入った。
「障害者年金、介護保険による保障、」は間違い、または不正確。正しくは「障害年金、介護保険の手続き、」となる。ことほどさように、身の回りの手続きに関しては、私はずっと曖昧である。