「獣姦」、または「動物性愛」――『聖なるズー』(2)

動物性愛については、大きく分けて二つの見方がある。

一つは性的倒錯だとする精神医学的な見方、もう一つは、同性愛などと同じく性的指向のひとつだとする、性科学的・心理学的な見方に立つものだ。
 
とはいっても、動物性愛について、僕がどう感じるかが大事なのだが、僕は肝心の動物性愛の現場を知らない。だからとにかく読んでみよう。

「『獣姦』と『動物性愛』は、似て非なるものだ。獣姦は動物とセックスすることそのものを指す用語で、ときに暴力的行為も含むとされる。そこに愛があるかどうかはまったく関係がない。一方で動物性愛は、心理的な愛着が動物に対してあるかどうかが焦点となる。」
 
この区別はよくわかる。が、動物への愛着と、その相手とセックスをする関係は、いったいどうなっているのか。それは簡単に、一線を超えられるものなのだろうか。

「私にとっての愛とセックスの問題は、絡み合ったまま、すでに二十数年の月日がたっている。動物性愛者の愛とセックスを知ることは、私の奥底に凝り固まるもつれた問いを解くための鍵になり得るのではないか、と私は感じ始めていた。」
 
なるほど、そういうふうに入っていくのか。
 
しかし、よく考えれば、一人の男をつかまえて(あるいは一人の女でもいい)、それで胸の裡に凝り固まったしこりを、時間をかけて溶かしていった方がよい、とは考えなかったのだろうか。
 
というふうにこの作品の、そもそもの動機というか基盤を、つい壊したくなってしまうが、それを言っちゃあおしまいだよ。というわけで著者は、ドイツにある世界で唯一の動物性愛者の団体、「ゼータ(ZETA=寛容と啓発を促す動物性愛者団体)」のメンバーと連絡を取る。
 
ゼータは2009年から活動している団体だが、活動内容が「良俗に反する」という理由で、今も法人格は備えていない。今現在、ゼータに所属するメンバーは、30人ほどである。
 
彼らは自分たちを、「ズー」と称する。これは動物性愛者を意味する、ズーファイル(zoophile)の略語だ。書名の『聖なるズー』は、この意味だ。
 
彼らは、「動物への愛着や性的欲求は、自分ではどうにもできない。あらかじめ備わっていた感覚だ」と、口をそろえる。
 
僕はここで、非常に突飛な連想だが、アニル・アナンサスワーミーの『私はすでに死んでいるーゆがんだ〈自己〉を生みだす脳ー』の中の一章を、思い出してしまった。
 
そこでは、ものごころつくころから、自分の足がどうにも邪魔で、切り落としたくて、どうしようもなくなっている人を取材している。
 
この人は、闇の医者による手術で、脚を一本、切り落とした。そしてインタビューで、ああ、清々した、よけいなものがなくなって、ほんとに晴れ晴れする、と答えている。
 
これは動物性愛とはまったく違うけど、しかしたとえば、犬と死ぬほどセックスがしたくて、そしてついにやったあと、心は満たされているというのと、同じような気持ちではないだろうか。
 
どちらも、「良俗に反する」ということでは、後ろめたさを感じると思うけど、しかし、他人に迷惑をかけない、という点では同じことだ。
posted by 中嶋 廣 at 17:11Comment(0)日記

「獣姦」、または「動物性愛」――『聖なるズー』(1)

「動物との/性愛。/禁忌の先に、/何がある?」というのが、オビ表の文句。「獣姦」を正面から扱った本だ。
 
著者の濱野ちひろは、これで開高健ノンフィクション賞を受賞している。それももちろん、オビに大書してある。
 
でもなあ、開高健ノンフィクション賞は、謳い文句ほどは面白くないのだ。選挙の泡沫候補を描いた『黙殺』も、いまいちだったしなあ……などと逡巡していてもしょうがない。
 
濱野ちひろは19歳のときから、同棲する男に、性暴力を含む身体的、精神的暴力を振るわれていた。
 
その後、その男と28歳のときに結婚し、そして9か月後に離婚した。

男と結婚するのは、著者にとって賭けだった。そこでもし男が暴力を振るえば、離婚する理由ができ、別れられる。そして賭けに勝ったのだ。
 
ここまで、冒頭わずか5ページだけど、あまりにも男女の異様な核心に触れすぎていて、しかし一方わからないことも多すぎて、困ってしまう。ちょっとゲップが出る。

「そこまでに十年がかかった。離婚が成立してすぐに元気になれたわけではない。それからの十年は、これまでとはまた違う意味で苦しかった。なぜ逃げられなかったのかと自分を責め、なぜ暴力の対象となったのが自分だったのかと怒りを抱き続けていた。」
 
男と女の暴力のことは、よくわからない。僕だけではなくて、たいていの人にとっても、よくわからないんじゃないか。
 
おまけに著者が、「なぜ暴力の対象となったのが自分だったのかと怒りを抱き続けていた」というのだから、著者に分からないものが、他人に分かるはずがない。
 
著者は30歳を超えてから、ようやくこの問題と向き合い、本気で取り組むことにした。

そして試行錯誤したあげく、京都大学の大学院で、文化人類学におけるセクシュアリティの研究をしようと思う。
 
当初は、己れの浴びた性暴力の問題を扱うことも考えたが、それはまだ傷口が癒えていないような気がした。
 
そこで文化人類学という枠組みを考えたとき、指導教官と話す中で、「動物性愛」というテーマが、浮かび上がってきた。

「このテーマは私にとっての愛やセックスの問題と、必ずしもぴったりとは重なり合わない。だがこの問題の背景には、人間の性的欲望の不可解さが垣間見えるように感じられた。私の身に降りかかった現象とは異なってはいても、なにかしら重なる部分がありそうだという、直感としか言えない訴えかけがあった。」
 
ここは著者の言葉を、素直に聞いておくほかはない。いろいろな言葉や疑問が、渦を巻いて湧き起こってくるが、ともかく先へ進んでみるほかはない。
 
ただ、著者と話しているとき、最初に「獣姦」という言葉を発した指導教官の名は、著者は書いていないけれど、気にかかる。素晴らしい教官ではないか。
posted by 中嶋 廣 at 09:16Comment(0)日記

ただ文章のみ――『星の子』

これはつまらない。

『こちらあみ子』、『あひる』、『むらさきのスカートの女』と、濃淡はあれ、いずれも面白かったのに、今回はどうしようもなく駄目だ。
 
これは野間文芸新人賞をもらっているが、今村夏子は、野間賞などにたぶらかされてはいけない。
 
主人公の少女は、両親と姉の四人で住んでいるが、この両親が宗教にはまってしまう。どうやら蓮っ葉なインチキ新宗教らしい。
 
姉はそのインチキを見抜いているらしくて、こんな宗教は願い下げだとばかりに家を出てしまう。

「翌朝、わたしが起きたときは、すでにまーちゃんは家をでたあとだった。『バイバイ。もう帰りません』と簡単なメモ一枚ちゃぶ台の上に残して。
 まーちゃんが帰ってこないのは今にはじまったことじゃないのに、これまでとはなにかがちがうと感じたのだろうか。両親は警察に連絡し、思いつくかぎりの場所を自分たちの足でくまなく探し回った。わたしも駅の周辺や公園を探した。生ごみ置き場に自然と目がいき、ふたり乗りのバイクを見かければ、後ろに乗っているのはまーちゃんじゃないかと観察して見るくせがついた。父も母も毎晩やつれた姿で帰ってきた。落合さんはじめ、教会の人たちから多くの助言が寄せられた。そのたびに滝に打たれたり、断食したりと、まーちゃんが無事に帰ってくるために、ふたりともできることならなんでもしていた。」
 
文章は、少しまったりしていて、しかもよどみがない。内容はなかなかハードなのに、読んでいて、少しも嫌な感じがしない。こういう文体は、希少価値である。
 
でもね、文体はそこに描かれている内容と、不可分の関係にある。
 
ここでは新興宗教の裏を探り、両親も巻き添えにして、その裏の裏までを剔抉しなければ、究極のところ、その文体は生きてはこないのだ。本当に、宝の持ち腐れだよ。
 
今村の文体は、宗教に巻き込まれた、平凡な家族の側面を描いても、独特の味わいがある、とか何とか、もっともらしいことを言って、野間賞をもらったのだろうが、そんなことで満足していては、絶対にダメだ。

最後は、その宗教の一大イベントがあって、両親と一緒に星を見に行くが、それがクライマックスとは、まったく情けない。
 
終りの方は、こうなっている。

「星がひとつ流れるたびに、父と母はそういって、わたしの体に回した腕に力をこめた。
 〔中略〕
 私のいる場所はあたたかく、目を閉じればそのまま眠ってしまいそうだった。
 このまま眠ってしまえばいいだろうか。そうしたら、薬を飲まされ、ICチップを埋め込まれ、催眠術をかけられて、明日の朝にわたしは変わっているだろうか……」
 
終わりの終わりに、つまらぬ疑問形で、作品全体を投げ出してしまうんじゃないよ。
 
次も必ず読むから、次の作品では、こういうことはないようにと願う。

(『星の子』今村夏子、朝日新聞出版、2017年6月30日初刷、2018年2月10日第7刷)
posted by 中嶋 廣 at 16:39Comment(0)日記

忘れられた老人たち――『銀齢の果て』

筒井康隆『老人の美学』に、著者の書いた例として、『敵』、『わたしのグランパ』、『愛のひだりがわ』、『銀齢の果て』などが挙がっていた。
 
このうち、『銀齢の果て』は読んだことがなかったので、読むことにする。

「どうして、こんなストーリーを思いついたのだろう」と、著者本人が言うとおり、実に殺伐とした話だ。

「ご承知のように、二年前から全国で実施されております老人相互処刑制度、つまり俗にシルバー・バトルと言われておりますこの殺しあいは、今回は日本全国九十カ所の地区、都内では三カ所で一斉に開始され、そのひとつがこのベルテ若葉台なのであります。ひひひひひ。いや失礼」と、厚生労働省の役人が言う。

「老人は老人であることそのものが罪であるという思想」に基づき、肥大化した老人人口を調節し、破綻寸前の国民年金制度を維持するために、特定の町内会で、老人に殺し合いを命じ、最終的に町内で1人の老人のみが、生きることを許される。その殺し合いの過程を描いたものだ。
 
あまりに殺伐として、読んでいて嫌になる。

殺しの過程はあっさりしていて、血反吐は出るけれど、吐き気を催すことはない。ここら辺は例によって、筒井康隆の文体であるから、滑るように走ってゆく。軽快である。
 
でも、いつものように快感は伴わない。ただひたすら砂をかむようで、苦いものが残り続ける。
 
たぶんそれが、筒井康隆の狙いなのだろう。
 
そういうわけで、読み終わって、はっきりいやなものを読んだなあと、これはこれで筒井康隆の術中にはまるところだが、今回は時期が時期だけに考えてしまった。
 
今は新型コロナウイルスが原因で、全国の小・中・高校が、ほぼ休校になりそうである。そのまま春休みに雪崩れ込んでいきそうだ。
 
スポーツも、プロ野球をはじめほとんどが、観客なしでやっている。催しもディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパンをはじめ、次々と中止になった。
 
北海道では今週土日、知事が外出を自粛してほしいと述べていた。ほかの所でも、用事がない場合には、外出を控えようという感じだ。
 
ところが老人向けのデイサービスは、僕の通っている2カ所では、これまで通り朝から夕方までの約8時間、ほとんど密室の中で、食事をしたり、レクリエーションをしたりといった具合だ。
 
この2カ所をAとBとすると、どちらもだいたい20人で、どちらも80歳以上が6割を占める。
 
そのうちAは、マスクをしているのが、僕と女の人が一人いるだけ。
 
Bは、4割はマスクをしてくるが、昼ご飯を食べると、そのままマスクを取ったままだ。
 
別にマスクは、大した予防にはならない、ということは分かっている。しかし感染した人が、マスクをするのには意味がある。
 
でもそういうことは、もう大抵の人にはわからない。20人のうち、半分近くの人は、認知症とまではいかなくても、ボケている。
 
そうであれば、同居人がなんとかしてやらなければ、いけないんじゃないか。
 
でもたぶん、子どものことが心配で、年寄りにまでは手が回らないのだろう。

とにかく一刻も早く、施設を閉じてやることだ。でもみんな、一箇所に集められた老人のことは、忘れている。
 
厚生労働省の役人は、あるいは、「肥大化した老人人口を調節し、破綻寸前の国民年金制度を維持するために」、これ幸いと知らん顔をしてるのかもしれない。とにかく80歳以上の老人は、いったん広まりだせば、たちまち命の危険が迫る。
 
明日、月曜日からはまた毎日、朝の10時から夕方の5時まで、動物実験よろしく、マスクもせずに、密室に年寄りを閉じ込めるだろう。
 
しかし忘れられた老人は、忘れられたままにはなっていない。

もちろん僕は、この騒動が終わるまで、デイサービスには行かない。新型コロナウイルスをうつされるのも嫌だけれど、僕が感染源になってうつしてまわるのは、もっと嫌だから。

(『銀齢の果て』筒井康隆、新潮社、2006年1月20日初刷)
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私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(8)

カルロ・ロヴェッリは、極微の世界こそ、本質的な世界だというけれど、それは今現在での議論だ。それがあまりに最先端の議論だから、極微の世界に見とれるだけなのだ。私はそう思う。

何百年か何千年かたって、極小の世界が明らかにされたなら、そのときは極小の世界と、今いる私たちの近似の世界は同等になって、極小から近似まで、統一された世界が開けてくるのではないか。

そうなれば、「場の統一理論」は、物理学を飛び越えて、本当に、究極の「場の統一理論」として、あらゆるところに顔を出すだろう(という言い方でいいのかな?)。
 
そうなれば、学問の世界では、根本的な組み換えが起こって、たとえば物理学的・化学的・生命科学といったものが、考えられるのではないか。
 
そしてそうなれば、丸山真男の世界までは、ほんのひとっ跳びの距離だ。
 
しかしそのときにも、なお残る問題がある。

この問題を考える「私」は、近似の立場に立っているけれども、それでいいのか。

「私」の本質は、「物」ではなくて「関係」である。だから「私」は、あるときポコンと現われて、あるとき音もなく去ってゆく。これはいかにも、「関係」と呼ぶにふさわしい。
 
しかしそれでも、「私」は近似値で、そういう「私」が、なぜ本質的な極微の世界までを、想定できるのか、というのは、問題にならないのだろうか。
 
それと関連して、究極的な問題として、いつもの、例の、「私」が、最終的に浮上してくる。

「私」を、微細なところまで切り刻んでいくとして、量子の世界では、「私」はどんなふうに存在しているのだろうか。
 
あるいはもう存在していないのか。
 
でもそんなふうになったら、「私」は存在していないのだから、問いを立てることもできなくなってしまう。
 
仮に「私」が存在するとして、量子の「私」が、同じ量子を見て、あるいは実験によって、そういうものが体感できるとして、その段階で、自他の区別はつくのだろうか。まあ、無理だろうねえ。
 
ここまで来ると、あのノーベル賞のジョン・C・ エックルスの、「心は脳を超える」か、といういつもの問い、というか結論に戻る。
 
エックルスによれば、魂はいつの間にか、神の手によって、人間の体にそっと植え付けられる、というわけだ。
 
でもそこまで行ったら、思考の後戻りはできないから、いまはカルロ・ロヴェッリの、時間のない、極小の量子的世界を前にして、ただ茫然と佇んでおくことにしよう。

(『時間は存在しない』カルロ・ロヴェッリ、冨永星・訳
 NHK出版、2019年8月30日初刷、12月5日第6刷)
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私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(7)

カルロ・ロヴェッリの世界を見る見方は、おぼろげにわかってきたと思うが、そこから驚くべきことが分かる。

量子の世界では、事物は「存在する」のではなく、「起こる」のだ。世界とは、固定した物ではなくて、変化する関係なのだ。
 
これは、ただただ鮮やかで、息を呑む。理屈はよくわからないけれど、物事の本質が、ブランク時間とプランク長なら、この世界は物ではなく、出来事の集まりなのである。
 
だから「この世界について考える際の最良の語法は、不変性を表す語法ではなく変化を表す語法、『~である』ではなく『~になる』という語法なのだ。」
 
いやあ、こんなところで丸山真男に会おうとは、思わなかったよ。丸山の『日本の思想』のある章は、「『である』ことと『する』こと」で、文章の正確な文言は違うが、カルロ・ロヴェッリの、事物は固定したものではなくて関係だ、というのとよく似ている。
 
丸山真男は、日本人の固定化した枠組みを、戦後に鮮やかな一撃を加え、揺さぶったのだが、それは物理学者が、「基本的な量子の世界に降りたとき」、よく似たことが起こったのである。
 
著者はまた卓抜な比喩で、「事物」と「関係」の真相を解き明かす。

「物の典型が石だとすると、『明日、あの石はどこにあるんだろう』と考えることができる。いっぽうキスは出来事で、『明日、あのキスはどこにあるんだろう』という問いは無意味である。この世界は石ではなく、キスのネットワークでできている。」
 
あまりに卓抜すぎて、ちょっと面食らったかな。

時間や空間がそのありようを変える、極小規模の世界は、子細に見ていくと、その本質が徐々に分かってくる。

「いかにも『物』らしい対象でも、長く続く『出来事』でしかない。もっとも硬い石は、化学や物理学や鉱物学や地理学や心理学の知見によると、じつは量子場の複雑な振動であり、複数の力の一瞬の相互作用であり、崩れて再び砂に戻るまでのごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程であり、惑星上の元素同士の相互作用の歴史のごく短い一幕であり、新石器時代の人類の痕跡であり、横町のわんぱくギャング団が使う武器であり、時間に関する本に載っている一つの例であり、ある存在論のメタファーなのだ。」
 
硬い石は、実は量子場の複雑な振動であり、ある存在論のメタファーだというところが、本質を突いた議論である。
 
こういうところから、物理学を超えて、人文科学の方へ飛び越してくるのは、ほんのわずかのことではないか。私には、そういうふうに思われる。
posted by 中嶋 廣 at 16:12Comment(0)日記

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(6)

ふーん、でもねえ、アリストテレスとニュートンを、アインシュタインが統合して、その理論をカルロ・ロヴェッリが先まで推し進め、それを私が、ああだこうだと論評するというのは、なんとなく、というか、そうとう無理があるような気がする。
 
しかし、やってしまったものは、やってしまったもので、ともかく終わりまで行くことにしよう。

「時空は重力場である。〔中略〕世界はキャンバスの上に描かれた絵ではなく、キャンバスや層が重ね合わされたもので、重力場もそれらの層の一つなのである。重力場もほかの場と同様、絶対ではなく、一様でもなく、固定されているわけでもない。しなやかで、伸びたり、ほかのものとぶつかったり、押したり引いたりする。」

「時空は重力場」というのがよく分からないが、しかしこれでとにかく、伸び縮みする時空については、無理やりにでも、イメージが摑めたことと思う。分からなくても、分かったことにして、その先へ進もう。

「こうして時間は、空間の幾何学と織り合わされた複雑な幾何学の一部となる。これこそが、アインシュタインがアリストテレスの時間の概念とニュートンの時間の概念の間に見いだした統合なのだ。アインシュタインはその巨大な翼で一気に飛翔し、アリストテレスとニュートンがともに正しいことを理解した。」
 
そういうことだ。でも、この「そういうこと」の中に何が入るかは、よく分からない。
 
よく分からないなりに先へ進むと、今度は、これまでの相対論的な物理学の奇妙な風景に、空間や時間の「量子的な性質」を、考慮に入れることにする(なぜそういう性質を考慮に入れるかについては、特に注記はないのでちょっと不親切だ)。

「空間や時間の量子的な性質を調べる分野は『量子重力』と呼ばれていて、わたし自身もこの分野を研究している。科学者の共同体に広く受け入れられた量子重力理論はまだ存在しておらず、実験で裏付けられたわけでもない。わたしは科学者としての人生のほぼすべてをかけて、この問いの答えになり得るものを構築しようとしてきた。」
 
カルロ・ロヴェッリが、人生を賭けた探求がこれなのだ。

しかしそうすると、風景は謎めいてきて、ますます分からなくなってくる。
 
時間が量子化されると、それは粒状になって、「いくつかの値だけを取って、その他の値は取らない。まるで時間が連続的ではなく、粒状であるかのように。」
 
その粒である「量子」の最小の時間は、「プランク時間」と呼ばれていて、これはさまざまな定数を組み合わせれば、その値を簡単に計算できる、のだそうだ。
 
その計算の結果は、1秒の1億分の1の10億分の1の10億分の1の10億分の1の10億分の1の時間である。
 
別の言い方をすれば、計算によって、10のマイナス44乗秒という時間が得られる。

「プランク時間はひじょうに短い。今日実際の時計で計り得る時間よりはるかに短く、ここまで小さな規模になると、もはや時間の概念があてはまらなくとも驚くには当たらない。」
 
おいおい、そういうことかよ。「プランク時間」においては、あまりに短すぎて、時間の概念が成立しないのだ。
 
それなら過去と未来も、同じ理由で、存在できなくなる。

そしてこれが、物事の究極的な本質なのだ、とカルロ・ロヴェッリは言う。
 
ちなみに、プランク時間に見合う空間は、「プランク長」で、「この最小限の長さより短いところでは、長さの概念が意味をなさなくなる」のだそうだ。
 
そのプランク長は、1センチメートルの10億分の1の10億分の1の10億分の1の100万分の1である。
 
これも別の言い方をすれば、約10のマイナス33乗センチメートルになる。

「大学時代、まだ若かったわたしは、この極端に小さな規模でいったい何が起きるのか、という問いに夢中になった。」
 
まあなんにせよ、夢中になるのは、悪いことではない。

「この規模の世界で何が起きているのかを理解すること、それを自分の目標にすると決意した。時間や空間がそのありようを変える極小規模の世界、基本的な量子の世界に降りたときに、いったい何が起きるのか。以来今日までずっと、わたしはこの目標を達成しようと努めてきた。」
 
この極小の時間、極小の長さで、何が起こるか、それを見てみたい、あるいは見るのが無理であれば、体感してみたいというのが、著者の願いなのだ。
 
人はいろいろなことを望むものだ。でも正直、ちょっと言葉がない。
posted by 中嶋 廣 at 09:23Comment(0)日記

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(5)

時間とは何か、という問いを立てたのは、著者の知る限りでは、あのアリストテレスである。
 
アリストテレスは、「時間とは変化を計測した数である」と言った。
 
これはどういうことかというと、「事物は連続的に変わっていくのだから、その変化を計測した数、つまり自分たちが勘定したものが『時間』なのだ。」
 
これではどうもわかりにくい。そこで問いの立て方を変えてみる。

「では、今かりに何も変わらなければ、何も動かなければ、時間は経過しないのか。」
 
これに対して、アリストテレスは、驚くべきことに、「何も動かなければ、時間は経過しない」と考えている。

「何も変わらなければ、時間は流れない。なぜなら時間は、わたしたちが事物の変化に対して己を位置づけるための方法、勘定した日にちと関連づけて自分たちの位置を定める手段なのだから。時間は変化を計測したものであって、なにも変化しなければ、時間は存在しない。」
 
こういうことなのだが、これでもなお分かりづらい。

そこでもう一方の、計るものが何であれ、時間はそんなことと関係なく存在している、という考え方を取り上げてみよう。
 
これはニュートンが考え出した方法である。
 
ニュートンは日にちなどを計測した時間とは別に、どんな場合も全く無関係な「本物の」時間が存在すると考えた。
 
それは私たちが、どこでどんなことをしていても、あるいはしてなくても、一定の長さで流れているはずのものだ。

「この概念は、徐々にわたしたち全員の見方となった。世界中の学校の教科書を通じてわたしたちに浸透し、やがて広く時間を理解する術となり、ついには常識となった。だが、事物やその動きから独立した一様な時間が存在するという見方が、いくら今日のわたしたちにとって自然なことに思えたとしても、それは、太古からの人類の自然な直感ではなかった。ニュートンが考えたことだったのだ。」
 
それは本当に知らなかった。一人、ニュートンの考えたことが、地球上を覆うなんて、考えてみれば、なかなか凄いことだ。
 
アリストテレスとニュートンは、時間に関しては、まったく逆のことを主張したのだ。そして軍配は、この数百年の間、ニュートンに上がっているように見えた。

「なぜなら『事物とはまったく無関係な時間』という概念にもとづくニュートンのモデルのおかげで近代物理学を構築することができたからで、その物理学はひじょうにうまく機能した。こうして、時間は揺るぎなく一様に流れる実体として確かに存在する、と考えられるようになった。」
 
ところが、そうではなかったのだ。
 
時間は伸び縮みし、そして最新の成果では、存在しない!
 
しかしその前に、アリストテレスとニュートンの時間を統合した、アインシュタインの話がある。
posted by 中嶋 廣 at 17:14Comment(0)日記

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(4)

著者はまた、こんなことも言う。私たちに、普遍の「今、現在」はない、それは宇宙全体に広がっているものではない、と。
 
そういうことを問うのは、意味がない、と言うのだ。

「バスケットボール・リーグでどのサッカーチームが優勝したのかを尋ねるようなもの、ツバメがいくら稼いだか、音符の重さはどれくらいかを尋ねるようなものなのだ。」
 
すごい例えではある。

「現在」というのは、自分たちを取り囲む泡のようなものだ、その泡にどれくらいの広がりがあるのか、というと。

「それは、時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で確定する場合の『現在』の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。」
 
なるほど、時間によって「現在」の範囲が変わるわけだな。なぜ時間によってなのかは、わからないが。

「わたしたち人間に識別できるのはかろうじて一〇分の一秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡に含まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有しているかのように、『現在』について語ることができる。だがそれより遠くには、『現在』はない。」
 
うーん、全体がちょっとアホダラ経だが、字面を追って読めることは読める。しかし中身には、全然ついていけない。
 
はっきりしているのは、私たちが見ているものは、何も見ていないということだ。

「じつは、何らかの形態の宇宙が『今』存在していて、時間の経過とともに変化しているという見方自体が破綻している」、ということだ。
 
なるほどねー、……でも、そんなことがあるのかい。
 
だいたい私たちが、時間に関して、どこでもいつでも、同じ速さで流れている、と思い込んでいたのはなぜだろう、と著者は言う。
 
そういえば日本でも、江戸時代までは、昼と夜の長さによって、時間は伸び縮みしていたのではなかったか。

「自分たちが直接経験している時間の経過にもとづいて、時間がどこでも常に同じ速さで経過する、と考えるようになったのでないことは確かだ。では、このような考えはどこから生まれたのか。」
 
そもそも時間観念は、最初は昼と夜の交代だけだった。

「日周リズムは自然界の至る所に存在する。このリズムは生命に欠かせないもので、わたし自身は、地球上に生命が発生する際にも重要な役割を果たしたのではないかと考えでいる。おそらく、ある仕組みを動かすための振動の役割を果たしたのだろう。」
 
なんだ、よくわかっているじゃないか。それなら、時間は存在しないなどと、ふざけたことを言わないように。

「生命体には時計がたくさん詰まっている。分子の時計、ニューロンの時計、化学時計、ホルモンの時計と、その種類もじつに多様で、これらすべてが大なり小なりほかの時計と調和している。単一細胞の生化学にすら、二四時間のリズムを刻む化学的なメカニズムがある。」
 
そういういろんな時間があるけれど、いろんな時間を経験することと、「時間とはなんぞや」と問うのは、ぜんぜん違うことだ。
 
その最初の問いを立てたのはだれか。
posted by 中嶋 廣 at 18:27Comment(0)日記

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(3)

ところが唯一、熱に関しては、時間の矢、つまり時間の向きが登場するのだ。
 
どういうことかというと、「その核心は、熱は熱い物体から冷たい物体にしか移らず、決して逆は生じないという事実にある。」
 
これは「熱力学の第二法則」と呼ばれるものである。ちなみに「第一法則」は、あの有名な「エネルギー保存の法則」で、変化した前後でもエネルギーの総量は変わらない、というものだ。

つまり、時間の矢が現われる非可逆的な方程式は、これのみである、ということだ。
 
熱は熱いものから冷たいものへ移る、というのを、わざわざ法則として顕在化する、というのが、凡人には分からない閃きなのだろう。
 
だって冷たいお茶が、何もしないのに、熱いお茶に変わっていたら、どうしますか。台所に入るのは、ちょっとおっかなびっくりですな。
 
その後、エントロピーの話が出てくるが、ここまでくると、私にはうまく要約できない。

「熱という概念やエントロピーという概念や過去のエントロピーのほうが低いという見方は、自然を近似的、統計的に記述したときにはじめて生じるものなのだ。」
 
ここで言いたいのは、自然を近似的に見たときに、つまり正確に見ないで、ぼやけて見るときに、はじめて過去と未来が現われるということだ。

「事物のミクロな状況を観察すると、過去と未来の違いは消えてしまう。(中略)よく、原因は結果に先んじるといわれるが、事物の基本的な原理では『原因』と『結果』の区別はつかない。この世界には、物理法則なるものによって表される規則性があり、異なる時間の出来事を結んでいるが、それらは未来と過去で対称だ。つまり、ミクロな記述では、いかなる意味でも過去と未来は違わない。」
 
ミクロな世界とは、いかなるものなのか。著者は、「未来と過去で対称」なミクロの世界こそ、物理法則にのっとった真の世界だという。
 
でも、そうかなあ。

「重要なのは、熱、温度、お茶からスプーンへの熱の移動といった概念を使って記述すると、実際に起きていることを曖昧に見ることになるという点なのだ。そして、このような曖昧な見方をしたときにだけ、過去と未来が明確に異なるものとして立ち現れる。」

過去と未来が、違うものとして現われるのは、「曖昧な見方をしたときにだけ」、原因と結果が区別できるのは、そういう曖昧な見方をしたときだけである、と著者は言う。
 
そもそも、事物の基本的な原理に立ち返って考えたときには、というのは、つまりミクロの世界では、過去・未来など問題にならない。
 
ここでは、目に見える曖昧な世界と、事物の基本的な原理に立ち返った、ミクロの世界が対照されている。
 
そしてもちろん、目に見える曖昧な現実よりも、基本的な原理に立つミクロの世界が、より本質的で、重要である。
 
そういうことなんだ。これは養老孟司さんの言う、人によって、どちらに脳の重みを感じるか、ということだ。
 
私はもちろん、「目に見える曖昧な現実」の方が、「基本的な原理に立つミクロの世界」よりも、はるかに大事だと思う。それはたぶん、大半の読者も同じであろう。
 
ただ、「基本的な原理に立つミクロの世界」を重んじる物理学者は、ここからさらに、驚異的なところを突き抜けていく。

だからもう少し、お付き合い願いたい。
posted by 中嶋 廣 at 00:12Comment(0)日記