優雅な書簡集――『傍観者からの手紙―FROM LONDON 2003-2005―』(外岡秀俊)(1)

『外岡秀俊という新聞記者がいた』(及川智洋)について書いていたら、元みすず書房の尾方邦雄氏から、それに関する資料をいただいた。

『外岡秀俊という……』に登場する「みすずのOさん」は、尾方邦雄さんである。手紙やメールでやり取りしたのだが、その中で私は、外岡秀俊の書くものを読んだことがない、というと、さっそく1冊送ってくれた。
 
それが『傍観者からの手紙―FROM LONDON 2003-2005―』で、これはみすず書房の編集者、守田省吾氏に宛てて書かれた書簡集だ。
 
尾方さんは雑誌『みすず』を編集していたので、90年代から外岡秀俊とは縁があったという。『傍観者からの手紙』は守田省吾氏が編集を担当し、尾方さんが装幀を担当した。
 
みすずの本であるから、カバー裏に内容の説明が入っている。

「2003年3月,イラク戦争前夜,朝日新聞ヨーロッパ総局長としてロンドンにデスクを構えていた著者から,一通の手紙の形式で原稿が送られてきた.〔中略〕
 以来,2005年7月のロンドン同時多発テロ事件まで55通.歴史や文学作品というフィルターを通しながら,現場の取材と困難な時局の分析を記した本書は,ひとつの時代のかたちを定着させようとする試みでもある.」
 
なるほど、そういうことか。そうすると、ある時代を定着させるためには、取材しながら全体としては少し引く、自身をそういう立ち位置におかなければならない。
 
でも、そんなこと、可能なのか?
 
そこで一つの工夫としては、足場を歴史・文学作品に求め、また文体も、よくある新聞記者のノンフイクションものとは、まったく違うものにならざるを得ないだろう。
 
これはたぶん、外岡秀俊にとっては有難いことだったろう。朝日新聞で書くときには、中学生から読めるように、という縛りが掛かっていたのだから。

東大在学中に「北帰行」で、河出の「文藝賞」を受賞した外岡としては、足枷が外れたような開放感だったのではないか。
 
本文を読んでいこう。第1章は「予告された殺人の記録」、章のタイトルは一重カギだが、本文で作品を指す場合には、二重カギになっている。

これはガルシア=マルケスの小説ではなくて、それを原作とする映画を、外岡は思い浮かべている。

「町のすべての人が、主人公が終末に殺されることを知りながら、何もしない、できない。市民は、衆目の前で行われる殺人の共犯者になります。あるいは、聖なる供犠に不承不承加わり、最後には熱狂の中で陶酔を味わう無辜の民のように、歯車のように冷徹に刻まれる時の流れが、私たちを支配しているかのようです。」
 
対イラク戦争を、ロンドンにあってこのように描写しても、日本の読者には、というか私にはかなり難しい。
 
もちろんロンドンで百数十万人の、空前の反戦デモが起きたことは、当然記されている。しかしそれでもなお、こういうふうに文学作品になぞらえることは、日本人にとって分かりにくいのではないか。
 
この章の末尾に、大事なことが書いてある。

「若い頃オルテガ・イ・ガセーの『傍観者』を愛読しました。当事者にならないことを批評の基準とし、戒めともした碩学を慕って、由なし事を手紙でご報告したいと思います。」
 
なるほど、そういう意味だったのか。
 
しかしもしそうだとすると、この本のタイトルは『「傍観者」からの手紙』としなければいけないのではないか。ただ『傍観者からの手紙』としたのでは、たんなる「傍観者」だと思い、手に取られなくなる恐れがある。私が、この時まで手に取らなかったのは、そういう理由からだ。

ただただ、びっくり――『イニシャルはBB―ブリジット・バルドー自伝―』(ブリジット・バルドー、渡辺隆司・訳)(7)

ブリジット・バルドーの動物好きは、どの程度のものだったのか。15年続く、彼女と雌犬「グアパ」の物語の最初はこうだ。
 
知人が、町の子供たちにいじめられている子犬を、救ってやったと話した。

「私は打ちのめされ、憤慨した。
 これほど無害な小さな生き物を殺そうとするなどどうしてできるのだろう。私の心と胸はぎりぎりと締めつけられた。その黒斑〔くろぶち〕の白い小さな生き物を両手に抱き取り、ハシバミ色の瞳をのぞき込んだ。怯えて、訴えかけるような深く優しい目を見つめながら、私は『あなたのことが大好きよ、もう悲しいことは起こらないわ、これからずっと面倒を見てあげるわね』と語りかけた。」
 
バルドーの動物好きは、犬が好きというところから始まった。どんなときも、彼女の傍らに居てくれるからである。

「グアパは私のプリンセスになった。グアパは教えるまでもなく、部屋の中でオシッコしてはいけないことを理解し、外に出たくなると、ドアの前で吠えるのだった。グアパはまるで影のように私の後についてきた。私には、グアパと私のどちらが相手をより愛しているのか、わからなくなってしまった。こうして私の生活は変わった。もうひとりぼっちでなくなったのである。」
 
夜はグアパと一緒に、体を寄せるようにして、一つのベッドで寝た。いつも一緒だった。

「私たちは同じ食事をし、いっしょに散歩し、同じものを眺めた。あらゆるものを分けあったのである。
 私はグアパを愛した。」
 
ここで大切なのは、「ひとりぼっちでなくなった」ということである。映画の撮影の間も一緒にいて、夜も体を寄せ合って眠る。男に求めて得られなかったことが、グアパの場合には、すべて得られるのである。
 
バルドーの動物愛護は、ここからずっと広がって、果ては社会運動になっていく。
 
バルドーは極端から極端に走りやすく、映画界と動物愛護のどちらも、適当にやることができなかった。

「私は、洗練の極みから、もっとも田舎臭い素朴な姿に直接移行することができた。
 パゾーシュでの週末には、ゴム長に古いコールテンのズボンをはき、髪はばさばさで、六匹の雌犬、一ダースほどの猫、飼い慣らされたウサギ一羽、二十羽ほどの鴨、ロバのコルニション、屠場から救いだしてきた半ダースほどの山羊と羊に囲まれて、泥と糞の中を歩いていた私の姿がよく見られた。」
 
もちろん、この物語は女優の、それもある時期、世界でもっとも有名だった女優の一代記である。だから男優や女優、その周辺の話は枚挙にいとまがない。
 
新人女優の頃の、ジャン・ギャバンのさりげない気づかい、熊のようなリノ・ヴァンチュラの、女優とキスもしない傷つきやすい心、西部劇でクラウディア・カルディナーレと、1週間取っ組み合いの喧嘩をし、終生の友となった話など、挙げればきりがない。
 
しかしブリジット・バルドーは、結局、女優にはなりたくなかったのだ。そこがこの人の、根本的な人生の形である。

最後に、この本の執筆期間について書いておく。

本の半分くらいのところで、47歳になったとある。バルドーは1934年生まれだから、47歳は1981年ころである。この本の末尾の日付は、1995年12月7日だから、本の半ばから数えても、15年たっている。
 
すると全体を書き終えるまでには、どう見たって四半世紀はかかっている。この文体の緊張感を、これだけ持続させるとは、やはりただ者ではない。
 
そういえば、女優を辞めてからは読書にも励み、リルケ、ロレンス・ダレル、スコット・フイッツジェラルドなどを、発見したと書いている。
 
この本は、作り方を間違えている。「セクシーでコケティッシュな、世界で最も有名な女優は、女優になりたくなかった!」、外側をこうしなければ、中身と齟齬がある。こうすればきっと、はるかに売れただろう。

(『イニシャルはBB―ブリジット・バルドー自伝―』
 ブリジット・バルドー、渡辺隆司・訳、早川書房、1997年11月30日初刷)

ただただ、びっくり――『イニシャルはBB―ブリジット・バルドー自伝―』(ブリジット・バルドー、渡辺隆司・訳)(6)

ブリジット・バルドーは、人の好き嫌いもはっきりしている。社交界の人々や、いわゆるスノッブたちとの、虚飾に満ちたつきあいよりも、シンプルな人と一緒にいる方を好む。
 
自然と都市との比較でも、実にはっきりしている。

「自然と私との間の距離が広がれば広がるほど、私は居心地が悪くなる。だから私は、都市や、ビルディングや、コンクリート、高い天井や、何階もある家、大きな部屋や、エレベーター、プラスチック、それに電気製品が嫌いなのだ。」
 
つまり脳化社会が嫌いだ。ほとんど養老先生である。
 
バルドーが女優を捨てて、動物愛護に身を転じるのは、ここから緩やかな線を描いてはいるが、しかし一直線である。
 
その前にただ一度、マリリン・モンロ―に会ったときのことを書いておこう。
 
それはイギリス王室のパーティで、エリザベス女王に拝謁したときのことだ。

「私は化粧室〔レイディズ〕で彼女といっしょになった。〔中略〕彼女は鏡に映った自分の姿を眺め、左を向いて微笑み、右を見て微笑した。シャネルの五番の香りがした。私はうっとりして、彼女を眺め、讃嘆していた。」
 
こういうときバルドーは、自分が有名な女優であることを忘れている。相手に対抗心を持ったり、嫉妬に駆られたりすることはない。そこは非常に素直なのだ。

「マリリン・モンロ―と会ったのは、これが最初で最後である。しかし、彼女はわずか三十秒間で私を魅惑してしまった。彼女からは優雅なもろさと、いたずら娘の甘さが発散していた。私は決してこのことを忘れないだろう。」
 
何年か後にモンローが自殺したとき、バルドーは親しい人に去られたようで、苦しみで胸が締めつけられた。このことも、バルドーが女優という職業を、見直す契機になった。
 
1957年の『殿方ご免遊ばせ』(監督・ミシェル・ボアロン、共演・シャルル・ボワイエ、アンリ・ヴィダル)は、ユーモアと機知にあふれたコメディで、大当たりした。

「あまり数多くない私が自慢できる作品の一つである。この成功に刺激されて、私は映画俳優という仕事をもうすこしつづける気になった。」
 
この辺はバルドー自身も、女優という仕事に迷い、揺れている。
 
続いて同じく、1957年の『月夜の宝石』(監督・ロジェ・ヴァディム、共演・アリダ・ヴァリ、スティーヴン・ボイド)は、スペインで、3カ月から4カ月も撮影しなければならなかった。
 
そしてこのとき、ジャン=ルイ・トランティニャンと別れることになる。

「彼の視線が私のそれとからまり、私たちの涙は混じりあった。まったくどうでもいいと思っているつまらない映画のために、最愛の人と別れるなんて、なんと馬鹿げたことだろう。しかし、私は契約書の最後に『以上のごとく相違ありません』として署名していたのだ。」
 
注目すべきは、「まったくどうでもいいと思っているつまらない映画」というところ。共演はアリダ・ヴァリ(『第三の男』)、スティーヴン・ボイド(『真夜中のカーボーイ』)、監督はロジェ・ヴァディム(『素直な悪女』)なのだ。
 
それでもバルドーにとっては、最愛の男と別れることに比べれば、「まったくどうでもいいと思っているつまらない映画」なのである。
 
バルドーは自分が主役をやる映画であっても、常に客観的に映画を評価している。これ以降、彼女の絶賛に値するのは、『真実』(1960年、監督・アンリ=ジョルジュ・クルーゾー)と、『ラムの大通り』(1970年、監督・ロベール・アンリコ、共演・リノ・ヴァンチュラ)くらいのものだ。
 
もっともジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』などは、良い悪いの判断はしていない。
 
いずれにしてもブリジット・バルドーは、自分が女優であると思ったことは、一度もない。この本の何カ所かに、はっきりそう書いている。

ただただ、びっくり――『イニシャルはBB―ブリジット・バルドー自伝―』(ブリジット・バルドー、渡辺隆司・訳)(5)

『素直な悪女』(1956年)はブリジット・バルドーの、決定的な転換点となった映画である。
 
そして私生活においても、相手役のジャン=ルイ・トランティニャンと、燃え上がるような恋をする。
 
その時までに、ロジェ・ヴァディムとの間は、兄と妹のようになっていた。だから親愛の情は強く持っていたが、恋人ではなくなっていた。
 
ふつう夫婦は、一般にそういう変化をたどって、お互いに肉親であるという、成熟した関係を作ってゆくものだ。しかしバルドーには、そういう機会はなかった。

「私はジャン=ルイに対してすべてを燃やしつくすような熱情を感じていたのである。内気で、地味だが、まじめで、注意深く、穏やかで、力強く、深みがある彼は、私とはまったく違っており、私よりはるかに優れていた。
 私はまっしぐらに彼の目の中、生活の中に飛び込んでいった。」
 
ブリジット・バルドーの恋は、いつもこの型を取る。相手に、尊敬できる点を認めるのだ。大して尊敬できない場合には、比較的早くに情熱が覚める。
 
しかしとにかく、誰かそういう人が近くにいないと、自分を支えることはできないのだ。バルドーはそれを、小さいとき母に愛されなかったため、としている。

しかしこのときから、映画界を引退するまで、絶えず記者やカメラマンに追いかけられ続けることを思えば、誰か心の通じ合った人と一緒にいなければ、耐えることはできなかったろう。
 
それよりも、バルドーがジャン=ルイ・トランティニャンと片時も離れないのを、監督のロジェ・ヴァディムは、どんなつもりで見ていたのか。

「ヴァディムにとって、私たちにラブシーンの演技指導するのはつらいことだったろう。〔中略〕みんなは自分たちの眼前で展開しているこの小事件について、からかい、非難し、嘲笑し、こそこそ噂していた。」
 
つまりヴァディムは、「寝取られ男」なのである。そういう中で、ブリジット・バルドー主演の映画を撮り切るのは、並の人間にできることではない。
 
バルドーは翌年、ロジェ・ヴァディムと離婚した。ジャン=ルイ・トランティニャンも、結婚していたのだが離婚した。2人は真剣だったのだ。

映画の『素直な悪女』は、『カイエ・デュ・シネマ』のフランソワ・トリュフォーを筆頭に、酷評された。

「テーマの安易さ、俳優の選択が批判された。〔中略〕私は容赦なくこき下ろされた。話し方は間延びし、発音も不明瞭というわけだ。ポール・ルブーはもっとあからさまで、私の容姿はまるで若い女中そのままで品がなく、話し方は無学な者特有の愚かさを示していると言っていた。」
 
バルドーは、自分のことについても、これだけ冷静に書けるのだ。自分は本物の女優ではない、という自覚があってのことと思うが、それにしても素晴らしい女性だ。
 
もっともヴァディム監督は酷評を聞いて、頭を搔きむしるほど絶望していた。

「もはや外国でヒットすることを願うしかなかった。『予言者、郷里にいれられず』である。」
 
思わず、ブリジット、うまい、と声が出る。
 
そしてある日、アメリカで、『素直な悪女』が途方もないほどヒットしている、という知らせが入ってくる。

「批評家たちは口をそろえて絶賛し、私は突如として大西洋の向こうでもっとも有名なフランス女となった。
 映画は何十万ドルものお金をもたらし〔中略〕、ヴァディムはここ十年間で最高の映画監督とみなされ、私は一夜にして『ナンバーワン・スター』『フランスのセクシーなお転婆娘〔フレンチ・セックス・キトン〕』等々となっていた。」
 
アメリカで大ヒットということは、世界中で大ヒットする、ということである。
 
しかしブリジット・バルドーは、なおも自分を見つめることをやめない。

「こうした大騒ぎには奇妙な気分にさせられた。信じられないほど素晴らしかったが、同時に、恐ろしくもあった。それは予期せぬおとぎ話であり、気分も体調もよくするが、怖くもさせ、心臓を締めつけた。危険で魅惑的な渦巻きのはじまりだったのである。」
 
バルドーは、驚くほど冷静だった。

「そうした現象がすべてうわべだけで、脆弱な、運次第の、そして何よりもばかばかしいものだと熟知していたからである。」
 
一度本当に、会ってみたい。

ただただ、びっくり――『イニシャルはBB―ブリジット・バルドー自伝―』(ブリジット・バルドー、渡辺隆司・訳)(4)

結婚前、ブリジット・バルドーは、ロジェ・ヴァディムの子を妊娠した。

調子が悪いのを心配したママンは、「偉いお医者さま」に診断をお願いした。医者は、ウイルス性黄疸だから、安静にしておくようにと言った。

「このときから、私は医学を信用しなくなった。」
 
バルドーは両親をごまかし、ヴァディムと一緒にスイスに行き、「テーブルの片隅の上で」中絶した。それは大変だった。

「私はちゃんとした手当をしてもらえず、もう少しで死ぬところだったのである。
 私はこの不幸な経験から、妊娠と出産が異常に恐ろしくなってしまった。それで私はずっとそれを拒みつづけてきたし、天からの懲罰であるとも見なしてきたのである。」
 
あらゆる動物に対して、溢れんばかりの愛情を注ぎこむバルドーが、自分の身体で命を育てるのは絶対に嫌だ、それは懲罰であるという。大変な矛盾だが、バルドーはそう考えてはいない。この辺は、直接会って聞いてみたいところだ。
 
ブリジット・バルドーは18歳で、ロジェ・ヴァディムと結婚した。ヴァディムはロシア正教徒だったのだが、週2回、公教要理の授業を受け、カトリック教徒として教会の結婚式に出た。

「後になって私たちは世界じゅうの人々の目に悪徳、エロチシズム、そして善良な人々の気苦労の種を代表していると思われることになったが、教会の椅子におとなしくすわっていたあのときの私たちの姿を思い起こすと、今なお不当だという気がしてならない。」
 
たしかに微笑ましいが、その後のことを考えると、ちょっと無理であろう。
 
そのころバルドーは、映画に出るようになっていた。そしてあるとき、ルネ・クレール監督の『夜の騎士道』に、端役で出ることになった。主演はジェラール・フィリップとミシェル・モルガンである。
 
ルネ・クレールは親切で品があり、バルドーを優しく、かつ厳しく指導した。
 
ミシェル・モルガンは、眺めるだけで、話しかけることもできなかった。バルドーは彼女を前にすると、気後れしてしまった。

「ジェラール・フィリップのほうは、まったく神話の中の人物だった。彼に質問されると、髪の毛の付け根まで真っ赤になった。動揺したり、臆病になったり、狼狽したりすると、私はいつも真っ赤になった。」
 
バルドーはずっと後になっても、有名人が相手だと、たちまち真っ赤になった。自分が有名な女優であることを、忘れてしまうのだ。その位置になじめないのだ。
 
そしてこのとき、一つの教訓を得る。

「〔『夜の騎士道』の〕役はそれほど大したものではなかったが、いい映画で端役を演ずるほうが、悪い映画で主役をやるよりずっといい。」
 
このことを、例えば日本では、何人の役者が自信をもって言えるだろうか。
 
1956年、バルドーはルポルタージュのために、ピカソと会うことになった。

「ああ神様。なんという人、なんという人物だろう。そこにはもうスターの卵など姿も形もなく、半分神様のような男性の前でただただ驚嘆しているばかりの若い女がいただけである。私はふたたび臆病になり、真っ赤になっていた。〔中略〕彼はシンプルで、知的で、すこしばかり無頓着で、そしてすてきに愛らしかった。」
 
この感想だけで、写真入りルポルタージュは、成功したことが分かる。
 
もっともブリジット・バルドーは、「私のポートレートを描いてください」と頼みたいと思ったが、それを言い出す勇気はなかったらしい。

ただただ、びっくり――『イニシャルはBB―ブリジット・バルドー自伝―』(ブリジット・バルドー、渡辺隆司・訳)(3)

そのころ、15歳のブリジット・バルドーは、『エル』のモデルとして、少しばかりの金を稼ぎ、新聞が少しずつ、バルドーのことを書き始めていたとあるが、これは芸能新聞(そういうものがあるとして)のことだろう。
 
ロジェ・ヴァディムはバルドーを、いろんなパーティに連れて行った。ジャーナリスト、大臣、作家、俳優、監督……。その中で、できる限り小さくなっていたバルドーだが、意に反して、最後はこの少女は誰なのか、という会話ばかりになった。

「シモーヌ・べリオ―夫人は、席が静まり返っていたとき、だしぬけに私に声をかけた。『ずいぶん魅力的だわよ、あなた。で、あなたまだ処女でいらっしゃるの』みんながいっせいに私を見た。〔中略〕嘲笑していた。ふたたび静けさがもどったとき、私は、思わずこう返事していた。『いいえ、マダム。それで、あなたは』」
 
誰も真似のできない絶妙の返し、これで15歳である。ロジェ・ヴァディムが、バルドーをさんざん連れまわした意味も、分かるような気がする。
 
ヴァディムのおかげで、ジャン・コクトーとも会っている。

「一番驚かされたのは、私に対するコクトーの優しさと心遣いだった。
 彼は私を一人前の女性として迎えてくれた。彼は魅力的だった。私を会話に参加させ、冷たい飲み物を出してくれた。そして、たえまなく『あなたは素晴らしい』と言ってくれた。」
 
コクトーが、どういうつもりだったかは分からない。しかし10代半ばの小娘に接する態度ではない。はっきりと何かを感じたのだ。
 
もちろんバルドーも、同じく何かを感じている。

「私はこの目新しく素晴らしい世界、そこにあった絵、書物、そして、あれほど繊細であれほど偉大だった男性を、穴が開くほど見つめていた。
 このことは決して忘れない。」
 
ヴァディムはまた、ジャン・ジュネ、ジュリエット・グレコたちとも、会う機会を作ってくれた。
 
でもそこで、ちょっと待てよ、となる。10代のブリジット・バルドーは、そのころの傑物、怪人、偉人とあっている。しかしそれを連れまわしてくれたのは、20代前半の、まだ1本の映画も撮っていない、監督志望者に過ぎない。ブリジット・バルドー以上に、ロジェ・ヴァディムは魅力のある、謎の男だ。
 
最後に、10代で会った大物俳優のことを話そう。
 
ヴァディムについて行ったバルドーは、あるときマーロン・ブランドが借りている部屋に、朝食のお盆を持って行くことになった。「聖なる怪物」の俳優を、どうしても見たくなったのだ。

もう午後の2時を超えていた。

「私は朝食ですと言いながら、明かりをつけた。むくんだ髭面がシーツから出ているのが見えた。ねばねばした声が『いっちまえ、淫売の息子〔ゴー・アウェイ サン・オブ・ア・ビッチ〕』と言うのが聞こえた。」

彼が寝返りを打ったので、朝食の盆はたちまちひっくり返った。

「私がまだぐずぐずしていたので、彼はゆで卵をつかみ、私に向かって投げつけた。卵は壁にぶつかって音を立てて潰れた。そして彼はオレンジジュース、ミルク、コーヒー、潰れた卵にまみれて、ふたたび眠り込んだのである。」
 
マーロン・ブランドについては、いくつもの伝説が流布している
 
しかしブリジット・バルドーが、この経験から得た教訓は、「下僕にとって、偉人は存在しない」ということ、つまり、どんなに偉い人でも、身近に接していれば、欠点が目につくものだ、ということである。
 
バルドーがこの回想記を書いているのは、少なくとも40代を越えてからだろうから、そこから得た教訓を、今は一言で述べることができる。しかしその経験そのものは、10代後半で得たことである。ブリジット・バルドー、ただものではない。

ただただ、びっくり――『イニシャルはBB―ブリジット・バルドー自伝―』(ブリジット・バルドー、渡辺隆司・訳)(2)

そうはいっても、男づきあいも実に派手である。

18歳のとき、5歳年上のロジェ・ヴァディムと結婚する。

4年後にヴァディム監督の『素直な悪女』が、アメリカを中心に全世界で爆発的に売れ、そこで共演したジャン=ルイ・トランティニャンと、燃えるような恋をする。
 
その後は有名人のみならず、男たちとの色恋沙汰が絶えず、7年ごとに結婚・離婚を繰り返す。
 
ジルベール・ベコー、ラフ・ヴァローネ、ジャック・シャリエ(第2の夫)、サミー・フレー、サッシャ・ディステル、ギュンター・ザックス(第3の夫)、セルジュ・ゲンズブール……、と名を挙げるのも嫌になるほど。

「千人切り」とも称される、フランスを代表する女優は、健全な家庭からは、蛇蝎のごとく嫌われた。
 
しかしまあ、そういう総括は置いといて、最初から少し丁寧に読んでいこう。
 
ブリジットにはミジャヌーという妹がいて、両親は妹の方を溺愛するようになる。

「それにつれて私の気持ちも両親から離れていった。両親の妹に対する偏愛はあまりにもひどかったので、私の精神には今もなおそれから受けた傷跡が残っている。」
 
これは苦しいものだった。具体的にはこんなふうである。

「妹はきれいだったが、ひ弱で、すこし偽善者だった。私がいじめたといっては、泣きながら言いつけにいった。すると、私は笞で打たれ、パンツの布が肌の傷にくっつくのだった。私はママンが友達にこう話しているのを聞いた。『ブリジットは勉強もできないし、器量も悪くて……。ミジャヌーがいてくれてほっとしますわ。』」
 
実際、妹に比べると、ブリジットの器量は良くなかった。

「ほんとうに私は醜かった。〔中略〕
 どうして神様は私をこんなにも不器量にお造りになったんだろう。眼が悪いから眼鏡をかけねばならないし、小さいころ親指を吸っていたから、出っ歯になって、矯正器をとりつけなければならなかった。」(しかし矯正器の効果はなかった。)
 
さんざんである。2カ所ある写真ページの後半に、「グレタ・ガルボに似た妹のミジャヌーと、その夫で俳優のパトリック・ボーショー」というネームで、妹が出ている。正統派で落ち着いた、素晴らしい美女である。
 
しかしここで鮮烈なのは、ブリジット・バルドーの正直さ、冷静さである。女優が容貌のことを語って、ここまで冷徹に、あえて言えば醜さを曝け出しているのは、見たことがない。
 
ブリジット・バルドーは1934年9月28日に生まれた。そして1950年、15歳のときオーディションで、ロジェ・ヴァディムに出会う。

「ヴァディムは一言も話さなかったが、野生の狼のような目で私を見つめていた。私は彼が怖くなり、彼に引きつけられ、そのうち、なにがなんだかわからなくなってしまった。」
 
こうして2人は恋に落ち、それはずっと、18歳で結婚するまで続いた。

「パパとママンはまだヴァディムを忘れさせようとしていた。彼らにとって、あれほど無一文で、あれほどボヘミアンの男と私を結婚させるというのはとても不釣り合いに見えたのだ。彼がフランスのロシア領事の息子であっても、彼の性はプレミアニコフであり、いかなる地位も持っておらず、その上彼は『左翼』なのだった。」
 
彼はその後、ブリジット・バルドーからカトリーヌ・ドヌーヴ、ジエーン・フォンダと結婚相手を次々に代えていく。いずれも見事に、女優の水準はトップレベルである。
 
ロジェ・ヴァディム、一体どんな奴か見てみたいと思って、写真ページを繰ると、落ち着いた面長の、いわゆるプレイボーイとは全く違った、端正な男なのだった。
 
そういえばブリジット・バルドーはその後、動物愛護に行きつき、ジエーン・フォンダは女優の枠を捨てて、左翼の闘志として名をはせる。そういう意味では、男女の貫目は見事に合っているのである。

ただただ、びっくり――『イニシャルはBB―ブリジット・バルドー自伝―』(ブリジット・バルドー、渡辺隆司・訳)(1)

山田宏一の『ゴダール/映画誌』を読んだとき、『軽蔑』に主演したブリジット・バルドーが、自伝の『イニシャルはBB』で、ゴダールをくそみそに言っているのが面白かった。
 
山田はこの本を、「言いたい放題の、じつにおもしろくあからさまな回想録」と評している。とくれば、読まずにはおられない。
 
本のつくりは7ポ2段組み、700ページ。途中、写真ページが2か所、それぞれ16ページずつ入っている。
 
これだけ長いと、退屈するところもありそうに思うが、そういう箇所は全然ない。渡辺隆司の訳がうまいのだろうが、ブリジット・バルドーの原文も素晴らしく面白いのだ。
 
ちなみにこの自伝が何年かけて書かれたのか、正確なことは知らないが、ざっと計算すると20年以上はかかっているだろう。それについては後述する。
 
この本のカバーの惹句は、次のようである。

「ヌードの似合うスター女優/天真爛漫なセックスシンボル/とびっきり可愛い美神〔ミューズ〕の/激しく華麗な男性遍歴/話題騒然!/フランス本国だけで60万部突破の、世界的ベストセラー」

そして行をアケて「仏ポール・レオトー賞受賞/伊キャンチアーノ文学賞受賞」とある。
 
これらの文学賞のことはよく知らないが、惹句そのものはうわっつらを撫でただけ、はっきり言えば間違いである。特に「天真爛漫なセックスシンボル」というのは嘘である。
 
それを示す典型的な例を引こう。

「私は一度も真の意味で女優だったことはない。私は、どうでもいいと思って、あたえられた台本をなんの努力もせずに暗唱するか、あるいは、あたかもそれが私のほんとうの生活であるかのように思いこみ、自分自身を破壊してしまうほど、演じている人物の生活を生きるかのいずれかであった。とはいっても、私は登場人物になりきったわけではない。いつも登場人物を私の身体に入れたのである。この違いは重要である。」
 
バルドーはここで、私は本当の女優ではない、と言っている。さらに重要なのは、「私は登場人物になりきったわけではない。いつも登場人物を私の身体に入れたのである」と言い、「この違いは重要である」と言い切っていることだ。
 
自分を冷静な目で透徹してみており、さらに40歳になる前に女優を引退したのは、このあたりに原因がある。

「自伝」は最初のところで、動物たちの命への共感が語られる。
 
子供のとき、盲腸の手術をした。「まだ小さかったけれど、あの恐ろしさははっきりと記憶している。だから今私は、子供たちと同様守ってくれるものがなにも無く、あの恐怖を感じている動物たちのことを考えるのである。なにも言わないことをいいことに、動物たちにあんな恐ろしい苦しみを味わわせるなどということは、非人間的な恥ずべきことだ。」
 
子供のときのことが、生きる教えになり、それが底流にあって、女優を捨てて、動物を愛護して生きることになったのだ。
 
そのことが最初に書かれている。

だからこの「自伝」は、上り詰めた女優の話ではなく、「あるべき女優」に何とか抵抗した女優の話なのだ。

ただ面白いだけ――『ブレイクショットの軌跡』(逢坂冬馬)

逢坂冬馬の書下ろし小説、第3弾!『同志少女よ、敵を撃て』『歌われなかった海賊へ』は読み終わってなお、面白いけれど苦さが余韻となって残り、複雑な味わいの作品だった。

今度の小説は577ページと厚い。「早川書房 創立80周年記念作品」、「8つの物語の「軌跡」が、/世界と繋がる「奇跡」/『同志少女よ、敵を撃て』/を超える/最高傑作」と帯にある。

確かにページを繰るのもまどろっこしいほど、面白くて、よく出来ている。
 
でもそれだけ。面白い、本当に、ただそれだけなのである。

『同志少女よ、敵を撃て』は、少女狙撃兵たちの中に、ロシアとウクライナの差別意識が持ち込まれ、それがまるで、半年先のロシアとウクライナの戦争を予言しているようで、戦慄を覚えた。

『歌われなかった海賊へ』は、ナチスに抵抗する青年少女の話で、最後に戦争が終わり、めでたしめでたしで終わるかと思っていた。

ところが町じゅうの人が、ガス室におけるユダヤ人の虐殺を、知らない振りをしていただけで、しかも戦争が終わっても、みんなそういう振りをし続けるのだった。そういう話である。
 
まるでカンヌ映画祭でグランプリを獲った、『関心領域』のような話だ。

『ブレイクショットの軌跡』には、そういう余韻がない。ただ面白くて、それで完結してしまっている。

「ブレイクショット」とは、ビリヤードを開始するとき、球を散らすために行われる最初のショットのこと。ここでは高級車につけられた名前で、コロナとかフェアレディZの類だ。その車が転々と持ち主を変えることで、不幸を呼ぶ。
 
むかしジュリアン・デュヴィヴィエが、アメリカに渡って撮った『運命の饗宴』という映画があった。燕尾服が転々と持ち主を変え、最後は黒人たちの畑の案山子を飾る、という話で、それと同じ手法である。

『運命の饗宴』は実にいい映画だった。それなら『ブレイクショットの軌跡』も、いい小説になるのではないか、と思うと、どうもそうではない。
 
一例をあげると、後半にヤクザが出てくる。ヤクザは作家にとっては、特に本物の文学を目指す作家にとっては、鬼門であり要注意である。

ヤクザは普通の人が持つ心理を、持っておらず、しかも大抵のマイナスのことは、不可能に見えても顔色一つ変えずやってみせる。ヤクザは、一般の人がどういうふうに考えたらいいのかわからないために、作品中に登場すればオールマイティである。
 
この小説の場合も、そういうふうになっている。活躍するだけしといて、捕まるときは、作者の都合のいいときである。ヤクザは、生きている人ではないから、作者にとっては、実に自由自在の駒である。
 
こんなものを登場させては、全体がぶち壊しになる。
 
もちろん、いくつかの話は素晴らしい。特に、世界的に有名になるサッカー選手と、年上のコーチの話は、深く胸にしみとおってくる。

最初は男同士の友情だったのが、やがてそれが愛情になり、お互いにカミングアウトして、周りの人からも祝福されて結婚する。

さてこの先、どうなるか。これは単独の話として読んでみたかった。

(『ブレイクショットの軌跡』逢坂冬馬、早川書房、2025年3月15日初刷)

文学は進歩している、か?――『出世と恋愛―近代文学で読む男と女―』(斎藤美奈子)(4)

細井和喜蔵『奴隷』に比べると、それ以後の徳富蘆花『不如帰』、尾崎紅葉『金色夜叉』、伊藤左千夫『野菊の墓』、有島武郎『或る女』、菊池寛『真珠夫人』は、斎藤美奈子の解説だけで十分である。

『金色夜叉』なんて本当に面白くない、というか嫌な感じのする小説だ。漱石がほかの小説を見比べて、百年後に残るのは自分だけだ、といった気持が、わかるような気がする。
 
その漱石に褒められたという、伊藤左千夫『野菊の墓』は、斎藤美奈子が「木綿のハンカチーフ」を引いて、鮮やかに解説している。

「この歌の主人公は、都会に出た青年と、故郷に残ったその恋人である。華やいだ街で浮かれる恋人が、都会の絵の具に染まっていくようすを、彼女は遠くから寂しく見ている。変わってゆく僕を許せと彼はいい、彼女は涙を拭くハンカチをくれといって二人は別れる。遠距離恋愛の破局。二十一世紀の今日まで、日本中でくり返されてきた光景だろう。」
 
ついでに言うと、『野菊の墓』は回想形式で書かれている。裏切った男を、純愛の主人公に変えるのが、「回想というマジック」である、と斎藤美奈子は言う。

『野菊の墓』は中学時代に読んだ。以来ずっと僕の中では、「珠玉の作品」として残っている。それは斎藤美奈子の、皮肉のきいた分析を読んだ後も、変わらない。

それがここに来て、変わるのが嫌さに、読み返すのをやめておこうと思う。つまり斎藤美奈子の分析が、当たっていると思うのだ。
 
最後の『伸子』は、この当時ではかなり進んだ結婚をする。

男は言う。「〈決して私は家政婦を求めているのではない〉」「インテリ同士とはいえ、この時代のカップルとしては驚異的な新しさだ。」
 
しかしこの夫婦は別れてしまう。

「物語の後半、テキストの半分以上は、上手くいかなくなった夫婦関係と夫に対する伸子の不満で埋め尽くされる。」
 
そうするとこれも、特に新しい小説とは言えないのではないか。一体どこが新しかったのか。

「『伸子』は近代文学ではじめて離婚を真正面から描いた小説といわれる。離婚自体は珍しくなかったが、そこに至るプロセス、ことに妻の側の心理を描いた点が新しかったのだ。」
 
なるほど。でもそんな小説、あらためて読みたくはないなあ。
 
で、結局、青春小説はどうなったのか。それは死、つまり戦争によって終息したのだ。

「思えば、立身出世という、戦前の青年たちを鼓舞した思想自体が、戦争と親和性が高かったのだ。立身出世とはそもそも、体制に順応し、競争原理を是とし、ホモソーシャルな世界で醸成された国家公認の思想である。『国の役に立つ人になる』と『国のために死ぬ』は紙一重である。国家の方針が変われば、若者たちに対する要求も変わるのだ。」
 
そういうわけで、青年たちを待っているものは、死しかなくなった。

「どれほど高い志や夢を持っていても、戦時の若者に期待されるのは兵士としての役割だけだ。青春も恋愛も、平和じゃなければ謳歌できない」。それはそうである。

(『出世と恋愛―近代文学で読む男と女―』斎藤美奈子、
 講談社現代新書、2023年6月20日初刷)