水を得た魚――『ワイルドサイドをほっつき歩けーハマータウンのおっさんたちー』(4)

ブレイディみかこのエッセイを読んでいると、NHSという医療制度について書かれているのに、よく出合うはずだ。
 
終戦直後の1945年、チャーチルを破って労働党政権が誕生し、いわゆる「ゆりかごから墓場まで」という、福祉国家の時代を築いた。その中心政策がNHS(National Health Service) の設立であった。

この制度は社会の階層に関係なく、誰もが無料で医師の治療を受けられる、というもので、この制度を70年間も維持してきたのは、英国人にとっては誇るべきことであった。
 
ところがその制度が、10年ちょっと前から、機能不全に陥っているのだ。
 
2010年、保守党が政権を握ると、「緊縮財政」という名の悪名高い政策を始めた。これは一言でいうと、「『国の借金が膨れ上がってますから、返さないと我々はえらいことになります』と人民を脅して政府が様々な分野での財政支出を削減することだ。」
 
こうして学校や病院は、規模縮小と人員削減の一途をたどり、公共の建物は続々と閉鎖に追い込まれた。
 
もちろん金持ちは、病院も学校も、私立のものを利用するので、緊縮財政がどんなに大規模に実施されようと関係がない。
 
関わりのあるのは労働者階級、つまり著者たちである。
 
ここしばらくのNHSの病院が、どれほどひどい状態になっているかを見てみよう。

たとえば専門医に見てもらうために、地域の診療所に行き、第一段階の医者(GP=ジェネラル・プラクティショナー)に、話を聞いてもらう場合、その最初の医者が、連絡を取るのが非常に難しい。

「まず、近所の診療所では、朝八時に電話するシステムが廃止になった。じゃあどうすればいいのかというと、医者に会いたきゃ朝八時に診療所に直接来いというのだ。……しかもこれ、八時に診療所が開いたらそのまま見てもらえるわけではない。あくまでも、予約を入れるための列だから、受付で予約を入れたらいったん帰宅して予約時間にまた出直す。」
 
なぜこんな嫌味なことをするかといえば、一言でいうと、NHSに金がないから、つまり政府に金がないから、無料で医者にかからせたくないのだ。

「これだけ予約のハードルが高くなると、人はちょっとぐらいのぎっくり腰や蕁麻疹ぐらいなら我慢するようになる(わたしのことだ)。」
 
はは、面白い。でも、そうとばかりは言ってられない。

「寒い冬の朝、老人や子連れのお母さんなんかが毛布を体に巻いたりしてゴホゴホ言いながら並んでいる姿は、どこの発展途上国の人々が医療を求めて列をなしているのかと思うほどだった。」
 
20世紀の英国で、まことに凄まじいものだ。
 
こんなことをしていて、たとえばコロナの検査や、陽性の場合の隔離は、どうしていたんだろう。
 
あるいは病院が間に合わなくて、英国の場合はそれで、感染して亡くなる人が増えたのだろうか。
 
まあコロナに関しては、外国を見る前に、我が足元を見なくてはいけないのだが。
 
それにしても、少し巨視的に見れば、国家の方針など、180度変わるものだ。

戦後、英国の「ゆりかごから墓場まで」は、日本が範とするに足るものだった。さすがに人権思想がある国は、違うものだ。日本も軍国主義が滅びた後は、そういう国を目指さなければ、だったはずだ。それが一瞬で変わる。
 
考えてみれば、これは英国に限った話ではない。今は戦前の反動で、人権思想が、曲がりなりにも、行き渡っているかのように見える日本も、油断していれば、あっという間に、また180度変わるかもしれないのだ。
posted by 中嶋 廣 at 00:23Comment(0)日記

水を得た魚――『ワイルドサイドをほっつき歩けーハマータウンのおっさんたちー』(3)

しかしブレイディみかこは、かならずしも達観しているわけではない。

EU離脱の国民投票は、彼女が移民であることを、骨の髄まで知らしめたのだ。
 
前後の物語は省略するが、あるとき、著者と仲の良い英国の女性が、感情を振り切るようにして、今は亡き弟の恋人だったベトナムの美女を、これでもかというくらい、悪しざまに非難した。
 
それを見たブレイディみかこは、思わず考え込んだ。

「ふだんは見えない英国人の深層心理が一気に爆発しているような気がしたのだ。英国の地で我々が汗水を流し、悲喜こもごもを乗り越えて培ってきたものを、ひょい、と現れたよそ者に収奪されてたまるかというような怒り、というより、恐れにも似た何か。」
 
これは、移民を前にした英国人の、もっとも深いところから出てくる、深層の心理ではないか。
 
著者はそこからさらに進む。

「憎悪。という言葉が胸に浮かんだ。きっと英国在住の移民はこういうことにいま過敏になっている。それだけでも、ブレグジットというのはけっしてすべきではない有害な投票だった。英国人の剝き出しの本音を見てしまった我々移民は、以前のように彼らを信じられなくなってしまったからだ。」
 
社会関係を根底から分断されるということは、著者においては、こういうことなのだろう。
 
ところで初回に書いたレイとレイチェルは、7年間の同棲生活を解消して別れた。

家も子どももレイチェルのものだったので、ハウス・ハズバンドだったレイは、追い出されて友達のところで居候になった。
 
レイは宿なしになっても、今度はアル中にならない。なぜか。

「彼には『労働者階級の合理性』が備わっているからだ。『俺の人生だから、まあこんなもんだよな』という諦念のことである。あんないい女に捨てられて悲しい→けど、そもそもあんな若い別嬪と俺が一緒にいたのがおかしかった。かわいい子どもたちにもう会えなくて悲しい→けど、そもそもみんな俺の子どもじゃないし、子は成長すると親離れするからそれが早く来ただけ。みたいな悟りである。」
 
レイも歳を重ねて、悟ったのだ。労働者階級の悟りは非常に簡単、まず食っていかなければならないのだ。

「絶望、なんてロマンティックなことは、上の階級のやつらがすることよ」。
 
しかし職を求めても、60過ぎという年齢ではじかれるレイは、粋がってはいても、ちょっと悲しい。
posted by 中嶋 廣 at 09:35Comment(0)日記

水を得た魚――『ワイルドサイドをほっつき歩けーハマータウンのおっさんたちー』(2)

第1部は21のエッセイが入っている。それぞれに主役となるおっさんがいて、そのおっさんは、ブレイディみかこの「連合い」の友人、または知り合いであり、年恰好も同じくらいだ。
 
この労働者階級のおっさんたちには、何か一つ、無駄に豊富な知識をそなえた人がいる場合がある。

「実はこのあたり、サッチャー政権からブラウン政権ぐらいまではわりと楽に失業保険や生活保護が受給できたので、労働者階級の街には仕事をしないでぶらぶらしている人がけっこういた」ということだ。
 
ブレイディみかこは、そういうおっさんたちを、陰翳深く、苦みを効かせて描く。
 
日本人にはわかりにくい北アイルランド問題も、分かりやすく説き明かす。

「北アイルランドとアイルランドの間だけ特別扱いにして、国境は置かないことにするとしたら、アイルランドに入ってきたEU移民はそのまま北アイルランド経由で英国に入って来られるから、それ、何のEU離脱にもならないよな」。
 
アイルランド系英国人のおっさん二人が、いずれやってくる「アイリッシュ大差別時代」を予感して、パブの片隅でうなだれながら話している。

「だいたいそもそも、国民投票とかしたやつが悪い」。
 
しかしこの労働者階級のおっさん二人は、入国してくるEU移民に職を奪われまいとして、EU離脱に一票を投じたのである。ことほどさように紆余曲折があり、おっさんは陰翳を帯びざるを得ない。
 
そもそも数値を見る限り、EU全体では、経済は好調である(これはもちろん、コロナがヨーロッパを覆う前である。ここではすべて、それ以前ことである)。
 
しかしそれが、現代のヨーロッパが抱える問題なのだ。

「統計では景気はいいのに、下側はどんどん底の底まで落ちているのである。数カ月前に行ったベルギーのブリュッセルも路上生活者だらけだった。
 路上生活者だけじゃない。路上に立って物乞いをする人も、ここ数年、いったいいつの時代なんだよ、というぐらい増えている。こういうのはマーガレット・サッチャーの時代で終わったかと思っていたのに。」
 
日本から欧州を見ているだけでは、あまりに遠くて、全然わからない世界がある。そしてこういうことを書く人は、ブレイディみかこ以外にはいない。

引用の最後のサッチャーについては、回顧録が日本でもベストセラーになった。たしか養老孟司さんの書評集を編纂したおり、そこに書かれた評を見て、面白そうだと思った記憶がある(政治家の回想録は嫌いなので、読まなかったが)。
 
しかしブレイディみかこの観点は、日本語で読むのとは、およそ違ったはずだ。
 
著者はそうして、ある悟りに近い視点を得る。

「おとなしく勤勉に働けば生きて行ける時代には人は反抗的になり、まともに働いても生活が保障されない時代には先を争って勤勉に働き始める。従順で扱いやすい奴隷を増やしたいときには、国家は景気を悪くすればいいのだ。不況は人災、という言葉もあるように、景気の良し悪しは『運』じゃない。人が為すことだ。」
 
ブレイディみかこは、こういう地点から、ものを書いているのだ。
posted by 中嶋 廣 at 11:58Comment(0)日記

水を得た魚――『ワイルドサイドをほっつき歩けーハマータウンのおっさんたちー』(1)

ブレイディみかこが、PR誌『ちくま』連載した第一部と、書き下ろしの第二部から成る。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』とまったく同じ時期に、連載していたという。
 
一方は自分の子どもを中心にした、少年たちの世界、もう一方は、「人生の苦渋をたっぷり吸い過ぎてメンマのようになったおっさんたち」の世界。それを書く作業は、英国について、複眼的に考える機会になったという。

「二冊の本は同じコインの両面である。」
 
そういうふうに著者は言うけれど、僕は『ワイルドサイドをほっつき歩け』のほうが断然おもしろかった。
 
自分の子どもを主役にして、ノンフィクション・エッセイを書くのは非常に難しい。どうしたって、著者である母親と、子どもは、対等の関係ではない。
 
優れた著者は、そういうことをおもんぱかって、できるだけ子どもを、自分から突き放して書こうとするけれども、それを十全にやるのは難しい。

『ぼくはイエローで……』を、著者の息子は、どんなふうに読むのだろうか。そのことを考えただけで、子どもが長じて、ばかばかしいと言って、その本を後ろに投げ捨てる光景が浮かんできて、たまらない思いがする。

『ワイルドサイドをほっつき歩け』は、その点では、おっさんたちとブレイディみかこは、まったく対等だから、そしてその距離も正確に測れるから、書きたい放題、言いたい放題である。著者も、何だか生き生きしている。
 
最初は、レイというおっさんと、レイチェルという30代のビジネスウーマンが、仲良くなって同棲する話。
 
レイチェルは複数のパートナーたちとの間に、3人の子どもがいて、現在はシングルマザーである。
 
そこでレイは子育てをしながら家事をし、レイチェルは2件の美容院を経営し、自分でも本店で美容師として働いていた。
 
そこへ、二人の間に亀裂を生じさせる出来事が勃発する。2016年のEU離脱(ブレグジット)の国民投票である。
 
レイは離脱に一票を入れ、そこで家庭生活に亀裂が入った。
 
レイチェルは激高した。

「英国は離脱したほうがいいなんて何考えてんのよ、あんた! あたしのビジネスはどうなるの? うちは美容師も顧客も、はっきり言って七〇%はEU圏からの移民なのよ」。
 
それからすったもんだがあって、レイは仲直りの意味で、漢字で「平和」というタトゥーを彫り、レイチェルに見せる。

「誇らしげに笑いながら右腕上部、ちょうど二の腕の外側のあたりをこちらに見せて立っているレイ。彼の背後には、『もう一度あんたについていくわ』みたいな微笑を浮かべながら彼の肩に手をのせているレイチェルも写っている。」
 
タトゥーが仲直りの印というのも、著者にはよくわからないけれど、そのタトゥーが、「平和」ではなくて、漢字の「中和」になっている。

でも漢字だから、それでもいいのだ。「いいじゃないの幸せならば」という、古い流行歌が聞こえてくる。

そう、このエッセイ集は章ごとにオチが付き、また一篇ずつに曲が織り込まれているのだ。
posted by 中嶋 廣 at 17:02Comment(0)日記

ついふらふらと――『老いてこそ生き甲斐』

石原慎太郎のエッセイ。新聞か何かの書評に、作者だけが知る真実、かなにか書かれており、江藤淳のことが出ていたので、ついふらふらと買ってしまった。
 
結論から言うと、まあどうしようもない。だからここでは、なぜ慎太郎はつまらないかを書いてみる。
 
と言っても、ともかく平凡、凡庸、光るところが一箇所もない。
 
江藤淳の死をめぐって、「自分はもう以前の自分ではないとあきらめて自ら死んでしまった彼は、いったい何を失ってしまったのだろうか」と言って、疑問形で終わるのでは、どうしようもないでしょう。
 
一点、「孤独感」というものを取り上げて、江藤淳の場合には、それが脳梗塞と相まって、命取りになったということだが、それは江藤淳について、ほとんどの人がいっていることである。
 
ただ昭和天皇について書かれているところは、ちょっと意外だった。

「私が屈辱と怒りを込めた心外を感じたのは、後日の新聞の無残な焼け跡を視察する天皇の写真でした。革の長靴を履いて軍刀をぶら下げ白い手袋をして焼け跡を歩き回る彼の姿は、相変わらず尊大で悲痛な表情など覗えもしなかった。」
 
慎太郎は、特攻隊を美化しているのではなかったっけ。その辺は、つまり天皇崇拝と特攻の美化が、どういうふうにつながるのか、あるいはつながらないのかは、よくわからない。
 
しかし昭和天皇に対する感覚は、ごく正常だと思われる。

「その翌日に天皇の戦争終結の玉音放送なるものを聞かされました。不備なラジオから伝わってくる、初めて聞かされる天皇の、あのちょび髭をつけ白馬に跨り神様と崇められていた男の奇矯な声に驚き、幻滅したのを覚えています。」
 
昭和天皇について、左翼でない人から、これだけはっきりした批判を浴びせられるのは、珍しいだろう。
 
著者が在籍していた一橋大学の寮の話は、それなりに面白い。

「この私もある時、空腹と甘いものほしさに手元に残っていた十五円で何を買うか迷ったものです。当時の菓子パンでの贅沢はカレーパンで十二円、しかしそれでは二つは手には出来ない。迷った末に十円のジャムパンと五円の甘食パンで我慢したものでした。」
 
面白い、たしかに。しかしこれは、ある時期まで大学で寮生活を送った人なら、ほとんど誰でも経験していることだ。
 
そういうわけで、ちかごろ稀に見る、つまらない読書体験であった。

(『老いてこそ生き甲斐』石原慎太郎、幻冬舎、2020年3月25日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 15:54Comment(0)日記

前提を変える――『生命式』(6)

「パズル」は、自分は建築物だ、という感覚を持つОLの話。これは、リアルであることが難しい話だが、作者はそれを、いとも軽々と乗り越える。

「立ち並ぶビルの間をヒールで進みながら、早苗は、自分がこのビルの一つである感覚が拭えなかった。
 コンクリートたちの灰色のグラデーションを見ていると、小さい頃住んでいた団地を思い出す。早苗はその頃から、自分のことを団地の一棟であると感じていた。」
 
要するに「早苗」は、自覚する限りでは、生命体ではない。ではなんだと問われたら、「団地の一棟」、つまり建築物だと答えるほかない。
 
だから「早苗」は、生命体に憧れを持っている。

「溜息をついた同期の女の子の口の奥で唾液が光を反射しているのが見える。生命体は泉のようで、そこからさまざまな液体が湧き出すのだ。唾液もそうだし、尿、血液などの液体、口からは内臓の臭気が染み込んだ空気が噴出し生臭さが漂っている。その一つ一つが、早苗が排出するとどうしても生々しさがないものばかりだった。」
 
自分が建築物かどうかは別にして、この生命体に憧れるのは、村田沙耶香のごく自然な成り行き、正直な告白ではないか、というふうに、思わず信じてしまう。
 
なお表題の「パズル」は、以下のような理由に依る。

「早苗は確かに異世界で暮らしているかもしれないが、この世界と彼らが内臓ではなく人間である世界は、少しも違和感がなく共存できるのだ。まるでパズルがぴったりとあわさるように、二つの世界の住人は共に暮らすことができるのだ。」
 
こういう感覚は、文章の上にしか存在しない。これが文學だなあと、本当に感嘆してしまう。
 
次の「街を食べる」も面白い。これは文字通り、街に生えている草を食べる話で、しかし主人公のОLは、わずかな野生の草を調理して食べる間に、変貌を遂げる、という話だ。
 
最後の「孵化」は、自分が流されて、周りの人間にとって、都合のいい人になっているという話。

「私には性格がないのだ。
 あるコミュニティの中で『好かれる』ための言葉を選んで発信する。その場に適応するためだけに『呼応』する。ただそれだけのロボットのようなものだったのだ。」
 
これは結婚騒動を含めて、徹底的に戯画化してあるけれど、振り返って自分を見れば、特に若いうちは、けっこうありそうな話だ。
 
以上、短篇集『生命式』をざっとみた。どの一篇も、村田沙耶香の毒が効いており、類のないものだ。
 
私はやはり文学に、滋味だとか、希望だとか、絶望だとか、軽妙さとか、重厚さとか、可哀想な話とか、エロチックな話とか、……を求めたいので、村田沙耶香のような、一箇所必ずとんでもなく変な設定で、そしてそれを受け入れる話は、ざらっとしていて、好きではない。というか、好き嫌いを超越している。
 
しかしそれでも、今回読んでしまったものは仕方がない。これを機会に、同じ作者の小説を、次々に読むかと問われたら、それは勘弁してと言わざるを得ない。

でも、多分ときどきは、村田沙耶香の作品を読むだろう。そういう中毒性は、忘れたころに蘇ってきて、書店の棚に気がつけば手が伸びている、そういうことは大いにありそうだ。

(『生命式』村田沙耶香
 河出書房新社、2109年10月30日初刷、11月30日第2刷)
posted by 中嶋 廣 at 00:11Comment(0)日記

前提を変える――『生命式』(5)

初めの三作があまりに強烈なので、それに続く「夏の夜の口付け」「二人家族」「大きな星の時間」が、ともすれば作品の前提を、現実にはない、わずかな箇所を変えてあるだけで、大したことはないと思ってしまう。
 
しかし次の「ポチ」は、僕のような凡庸な読み手にも、これはなんだ、と思わせる。
 
少女とユキは同級生、二人は学校が終わると、裏山に行く。裏山の小さな小屋の中に、二人の秘密の「ポチ」がいる。

「ユキが、
『これ、ポチ』
と、私のお父さんと同じくらいのおじさんを小屋から出してきたとき、心の中で仰天した。」
 
たしかに仰天する。ポチというおじさんと、そして、こともなく現実と受けとめている、同級生の「ユキ」にも。

「私は恐る恐る『ポチ』に近づいて、頭を撫でた。ポチからは、獣のような臭いがして、頭のてっぺんの青白い皮膚はべたべたしていた。」
 
うー、ちょっと気持ち悪い。

「私はポチの頭を撫でるのを躊躇した。ポチはかわいいところはあるけれど、触るのは少し気味が悪い。ユキは平気そうに、ポチの頭や不精髭を撫で回していた。」
 
ポチは中年のサラリーマンで、だからこういうことは起こりえない、というのは現実の世界で、文学の世界では何でもおこる。
 
それが不気味だけれど、反面、おかしい。そして、おかしいままで、ゾッとする。そういう世界を、村田沙耶香は好んで描く。
 
次の「魔法のからだ」は、中学二年生の少女たちを描く。まるで少女小説のように繊細で、私は一瞬、村田沙耶香はふつうの小説も書けるのではないか、と思ってしまった。
 
しかしよく考えてみると、やっぱり作者の描く現実は、歪んでいるのだ。

「詩穂」は、田舎のおばあちゃんの家の近くで、お盆のときに、男の子と仲良くなる。それも徹底的に仲良くなる。

「小学四年生のお盆に屋根裏部屋でキスをして、この前のお盆のとき、蔵の中でセックスをした。そうあっけらかんと話す詩穂に、私は面食らった。
 キスやセックスは、もっといやらしいことだと思っていた。でも詩穂と話していると、それがとてもあどけない、純粋なできごとに思えてくるのだった。」
 
ここはあまりに繊細に、かつあっけらかんと書かれているので、ついついそういうものかと思ってしまう。でもちょっと考えてみると、おぞましくもある。
 
そういえば、小学生同士の、精通もしていないセックスは、『地球星人』でも書かれていた。これは、作者が固執するだけの、原体験があるのだろうか。
 
ともかくどちらも、得も言えぬ、素晴らしい体験として記されている。
posted by 中嶋 廣 at 14:19Comment(0)日記

前提を変える――『生命式』(4)

3作目の「素晴らしい食卓」は、姉が、妹とその婚約者、そして婚約者の両親を招いて、会食する話である。これがなかなか、村田沙耶香にふさわしく、ゾッとさせる。
 
一人称で話を展開させるのは姉。その姉には夫がいて、彼は「ワンランク上の生活」にあこがれている。

「私と夫の食事は、ほとんど通販サイトハッピーフューチャーで買ったものだ。冷凍野菜がキューブになったものが入ったスープに、フューチャーオートミール。フリーズドライのパンとサラダ。宇宙食を思わせる数々の食品を、向かい合って口に入れていく。」
 
こういう食生活を送るにあたっては、夫に主義主張がある。

「ハッピーフューチャーフードは、『次世代の食事』をあなたの食卓にもお届けします、というコンセプトの通販サイトで、海外セレブがこぞって利用していることで話題になった。夫はすっかりこの通販サイトにはまっていて、今では我が家の食卓は、ほとんどハッピーフューチャーフードのサイトで注文したものだ。」
 
つまり夫は徹底した俗物であり、姉は、その俗物性がどこまで行くのかを、半分笑いながら見ている。
 
一方、妹は、「自分の前世は魔界都市ドゥンディラスで戦う超能力者」ということで、この日は、料理の腕を振るうことになっている。

「朝早く、妹はたくさんの食材をぶらさげて家にやってきた。
『たんぽぽ、どくだみ……これが今日の食材?』
『うん。魔界に生えている薬草っていう設定なの』
『こっちの缶詰は?』
『それは魔界の地下街で闇取引されている食べ物っていう設定』
 妹の食材には全て設定がついていた。」
 
ここまでくれば、もうお分かりだろう。

婚約者の男は、「僕はお菓子とフライドポテトが大好きだ。できればそれを一生食べていたい」という。

義理の両親は、婚約者の妹がしつらえる、「魔界都市ドゥンディラス」の食べ物が、口に合わない場合も考えて、周到に準備してくる。

「紙袋から取り出したのは、びっしりと虫が詰まった瓶だった。白い小さな芋虫のようなもの、それよりもう少し大きめの別の芋虫、そしてプラスチックの入れ物に入っているのはイナゴだろう。」これはあざとくも、田舎の年寄りの「典型」だろう。
 
全部が並んだところで、婚約者の男は高らかに宣言する。

「これこそが、僕が今日、見たかった光景なんです。」
 
個人主義の究極が、夫婦が別々のものを食べる、ということなのだ。

村田沙耶香は、そういうことを戯画化して描くのが、本当にうまい。
 
最後に、姉の夫が、異文化交流会議から帰ってきて、会食に加わる。

「夫の口の中で、魔界都市ドゥンディラスのパンと、芋虫と、ハッピーフューチャーフードの食品と、ペプシが混ざり合っている。私も吐き気がこみあげて、思わず目を背けたくなった。」

「ワンランク上の生活」に憧れる夫は、今日の異文化交流の講演に、たちまち影響され、テーブルの上にあるものを、どんどん咀嚼していく。
 
そして最後は、

「『なんて素晴らしい食卓なんだ! おいしいなあ!』
 私たちは化け物を見る目で、手の中の食材に齧り付く夫を見つめ続けている。」
 
ここでは、村田沙耶香は、最後は読者の方に、身を寄せているように見える。
 
でも本当は違う。村田沙耶香は、人と同じ暮らしをしながら、できれば「魔界都市ドゥンディラス」の食べ物を、是非とも食べてみたい、と思っているに違いない。
posted by 中嶋 廣 at 00:18Comment(0)日記

前提を変える――『生命式』(3)

次の「素敵な素材」は、もうすぐ結婚するカップルのうち、男の方は、人体を衣服や装飾品に使うのは、倫理にもとるという考えを持ち、それで二人の間に波風が立つ話だ。
 
時代はもう、男の方が圧倒的少数だ。
 
主人公の女が、女友達ふたりと、午後のお茶をしながらおしゃべりしている。

「私はティーカップを弄びながら、小さな声で言った。
『うーん……でもね、彼が、人毛の服、あまり好きじゃないの』
 アヤが目を見開いて、不可解そうに言った。
『え、なあにそれ? どういうこと? 意味わかんない』
『私にもちょっと理解できないんだけど、人毛だけじゃなくて、人間を素材にしたファッションやインテリアが、あんまり好きじゃないみたいなの』」
 
女性は、特に若い女は、こういう調子だ。
 
それに対して男の方は、こういうふうに弁明する。

「僕には皆が何でこんな残酷なことを平気でしているのか、どうしてもわからないんだ。猫も犬もウサギも、そんなことは絶対にしない。普通の動物は仲間の死体をセーターやランプになんかしないんだ。僕は正しい動物でいたいだけなんだ……」
 
このあと紆余曲折があって、男はだんだん自信がなくなる。

「……なんだか、わからなくなってしまったんだ。……皆が言うように、人間が死後に素材になって、道具として使われるということは、素晴らしくて、感動的なことなんだろうか……」
 
男は未知の、新しい領域を、手探りしつつ、混迷の中をさまよっている。

それに対して、女の方は迷いがない。例えば次の場面。

「向こうに並んでいるダイニングテーブルの上には、頭蓋骨を逆さにして作った皿が並べられている。天井からは、ミホがお勧めだと言っていた、人間の爪をうろこ状にした上品なシャンデリアがぶら下がっている。筒の形に並べられた爪の奥から、ピンクと黄色の中間のような温かい光が漏れていて、本当はあんなシャンデリアの下で、頭蓋骨のお皿にとっておきのスープを入れてナオキと一緒に食卓を囲むことができたらどんなに幸福だろうと思う。」
 
ここには人体、人骨を利用して、日常の細々したことを、まかなうということについて、いささかの疑いもない。

「自分もまた、素材であるのだということ、死んだあとも道具になって活用されていくということ。そのことが、尊くて素晴らしい営みだという想いは、やはり自分の中から打ち消すことができないのだった。」
 
これはそのまま読めば、けっこう感動的ではある。
 
しかしどうも、作者が手放しで、素晴らしいこととして書いている事柄は、よく考えてみると(考えてみなくとも)、やっぱりゾーっとしてしまう。
posted by 中嶋 廣 at 09:34Comment(0)日記

前提を変える――『生命式』(2)

「生命式」の主人公、池谷真保は会社の喫煙室で、山本という39歳の男性とよく話す。山本は小太りで、気のいい同僚である。
 
池谷真保は、大っぴらに人肉を食べるという「生命式」に、かすかな違和感があり、それを山本に吐露する。
 
すると山本は、あまり神経質にならない方がいいと言う。
 
その山本が、車に轢かれて死んだ。
 
池谷真保は、行きがかり上、山本の「生命式」の準備を手伝うことになる。

「皆の満面の笑みを見て、何となく私は得意だった。山本は、こういう皆の笑顔が見たいという奴だったのだ。こういう温かい空間を、自分の生命式で作りだしたいと願うような、そんな人柄だったのだ。」
 
文章中で、生命式を「こういう温かい空間」と、しれっと書くところが、この作者の図太いというか、何とも言えない常人とは違うところだろう(ちょっと頭がおかしいと言えばおかしいか)。
 
それはともかく、まず鍋だ。ダシの沁み込んだ「山本の団子」は、柚子の果汁と、大根おろしの食感とともに、「ふはふは」と口を動かすと、何とも言えない味がする。

「肉の旨味と出汁の味がまざりあって、舌の上で溶けていく。肉団子にからんだ少し辛い大根おろしが、なんとも言えないアクセントになって、肉の味を引き立てている。」
 
こういうところが、かなり不気味であり、またしいて言えば、可笑しくもある。

「今度は山本の塩角煮に箸を伸ばした。角煮にはぎゅっと旨味が詰まっている。少し濃厚な人肉の味に、柚子こしょうがよく合う。ちょっとだけ獣っぽさのある味が、薬味で上品に調えられ、白いご飯が欲しくなる。少しだけ筋のある、歯ごたえのある肉の部分と、ぷるりとした脂肪の部分が嚙めば嚙むほど深い味を醸し出す。」
 
人肉を食べるのを、ここまで上手に書ける人は珍しいだろう。村田沙耶香は明らかに、おいしく味わって、これを書いている。

「山本を愛していた人たちが山本を食べて、山本の命をエネルギーに、新しい命を作りに行く。
『生命式』という式が初めて素晴らしく思えた。」
 
主人公は最後に、海辺で男性と会い、その男性が、トイレで瓶に採取してきた精子を受け容れる。

「波が膝までくるところまで進むと、私はジーンズをおろした。瓶から白い液体を掬いとって、ゆっくりと身体のなかに差し込んだ。
 指先から精液がこぼれおちていく。」
 
女と男の交情は全然ないけれど、これはこれで、ひとつのクライマックスを形成している。
 
好き嫌いはあるだろうけれど、これが新しい、未知の領域を切り開いていることは、間違いない。
posted by 中嶋 廣 at 09:41Comment(0)日記