新宿にあった店――『聖子―新宿の文壇BAR「風紋」の女主人―』(3)

聖子さんは1年ちょっと新潮社にいたのち、昭和23年に筑摩書房に入っている。社長の古田晁の秘書という名目だった。

古田は太宰治を大事にした。その縁で聖子さん親子とも親しくなった。母親を亡くした聖子さんを心配したのだ。
 
聖子さんは昭和25年に筑摩書房をやめた。筑摩の社員は30人足らずだったが、経営状態は悪く、余剰人員を雇うどころではなかった。
 
そして銀座5丁目にあったバー、「コットン」に勤めた。
 
戻って昭和23年に、聖子さんは出英利(いでひでとし)とつきあい、同棲している。出英利は、東大教授の出隆(いでたかし)の息子。出隆は高名な哲学者で、『哲学以前』というベストセラーを出している。
 
出英利は『世代』という同人誌に関わってはいたけれど、まとまったものは何も書いていない。聖子さんが養っていたのだ。

森まゆみはそうは書いていないが、聖子さんには、破天荒な画家の父の記憶があるだろう。男を養うくらいは自然なことだ。店は「コットン」から、「カルド―」に代わっている。
 
出英利はもうすぐ就職するつもりで、内定も出ていた。聖子さんは出と結婚するつもりだった。出家もそういうつもりで、聖子さんを遇している。
 
しかし昭和27年1月8日の未明、出英利は西荻窪の踏切で、列車に撥ねられ死亡する。
 
聖子さんは、出家の養女になっては、という申し出を断り、またひとりに戻った。
 
昭和27年、出英利が死んだころ勤めていたのは、銀座5丁目のスタンドバー「やま」である。
 
その「やま」に、聖子さんが「ヒロシくん」と呼ぶ男が来る。

「ヒロシ君ね。前衛的な草月流といういけばなをお父様の蒼風(そうふう)さんが作ったのよ、私の一つ上だから昭和二(一九二七)年生まれだと思うわ」

「ヒロシくん」は、「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」を監督し、その後、陶芸、舞台美術、書、そして生け花と、多彩な才能で活躍した勅使河原宏である。
 
聖子さんは東中野の一軒家で、勅使河原宏と、昭和27年から30年の4年間、一緒に暮らした。
 
彼には東京美術学校時代に結婚した音楽家の妻がいて、その人がどうしても籍を抜いてくれなかったという。
 
勅使河原宏はお金があったので、聖子さんは銀座の店をやめ、女優を目指して、舞台芸術学院から劇団「青俳」に入り、安倍公房の「快速船」という芝居に出たりする。「青俳」は木村功や岡田英次、西村晃、加藤嘉らがいて、一緒に入った「蜷川幸雄くんはまだハイティーン」だった。

「――舞台芸術学院の頃も、聖子さんに憧れる芝居仲間は多く、未来も嘱目されていた。なぜ芝居をやめたのですか。
『もう、よく覚えていませんね。たぶん食べることが先決だったんでしょう』」

勅使河原宏と別れた聖子さんは、芝居の稽古にはいかなくなり、生活のために目白の「ミモザ」という店に勤めることになった。
 
そして昭和36年(1961)12月15日、第1次「風紋」が開店する。

「資本がなくてもやれる仕事は飲み屋しかない。初めは住んでいた東中野でもいいかな、と思ったんですが、そうするとJRを使うお客様しか来られないでしょう。新宿ならターミナルだから、京王線や小田急線の私鉄沿線のお客様も来てくださる。しかも、三光町は新宿駅から遠いから、家賃が安かったのよ」
 
なかなか考えている。それにしても「風紋」を開けるまでに、聖子さんが辿った波乱の人生はどうだ。しかも交友関係をもった人々の、それこそ「貫目」がすごい。そこにはもちろん、大杉栄の友人の父と、太宰治の友人の母の血が、流れている。

そして「風紋」の幕開け、これが流行らないわけがない。

新宿にあった店――『聖子―新宿の文壇BAR「風紋」の女主人―』(2)

聖子さんの母、林富子は結核であったが、体調のいいときは新宿武蔵野館の前の、「タイガー」というカフェに勤めていたこともある。そこで室生犀星や萩原朔太郎、そして太宰治に会う。
 
聖子さんが初めて太宰に会ったのは、昭和16年夏ころ、13歳のときである。

「母にお使いに行かされて、踏切のところで、白いシャツに灰色のズボン、下駄履きでつんのめるように歩いてくる男の人がいました。すぐ、あっ、太宰さんだとわかりました。画家を目指した母がよくスケッチで、太宰さんてこういう顔なの、と描いていましたから。」
 
富子はさっぱりした気性で、聞き上手だったから、近くに住む太宰はたびたび訪れた。恋愛関係ではなかったという。

聖子さんは太宰に、高円寺駅前の本屋で、『母をたずねて三千里』と『フクちゃん』を買ってもらったこともある。
 
終戦翌年の暮れのことである。

「太宰さんが我が家に来られて、懐からひどく真面目な顔で『中央公論』新年号を出して『これは僕のクリスマスプレゼント』と言って、雑誌をくださいました。そこに載っていた『メリイクリスマス』では私が主人公の少女のモデルで、母親が広島の空襲で亡くなった孤児ということになっています。三鷹の本屋での再会の様子が、より洗練された形で描かれていて、私はこれを読むと、ずっと昔の自分に出会うことができます」
 
聖子さんの聞き書きのかたちはとっているが、過不足のない、間然するところのない文章である。
 
聖子さんは昭和22年、19歳のとき、太宰の世話で新潮社に勤める。
 
新潮社はこのとき社員全部で30人くらい、聖子さんのいた出版部は、5人くらいの小さな部署である。前年に野平健一(京大卒)と野原一夫(東大卒)が入っているが、このときは700人受けて、2人だけが通ったという。終戦直後から、出版社は難しかったのだ。2人は太宰の担当編集者になる。
 
昭和53年に僕が筑摩書房に入ったとき、野原一夫さんは筑摩の相談役か何かをしておられた。入ってすぐに、1回だけ酒場に行った。何をしてきた人なのか知らなかったので、だからどうという話もない。
 
そのころの太宰は、聖子さんの目にはどう映ったか。

「……明るい方ですね。お酒も強かった。ほとんど冷や酒。酔っ払った姿はあんまり見たことがないです。太宰さんは売れっ子になっても威張りもせず、三鷹の屋台で一人で飲んでいたんですね。酔って歌うのは灰田勝彦の『燦めく星座』。都心には行かなかった。銀座のバー『ルパン』で撮られた林忠彦さんの有名な写真がありますが、あれはむしろ珍しいでしょ」
 
太宰の歌う灰田勝彦の『燦めく星座』と言えば、豊川悦司の『太宰治物語』を思い出す。これは田中晶子が脚本を書いた。太宰の全集を読むところから始まり、緻密に物語を作り上げていった。
 
僕はその苦闘ぶりを、近いところで逐一見ているので、これを客観的に最高の傑作とは言えない(しかし主観的にはそう言いたい)。

だから太宰の『燦めく星座』と言えば、必然的に豊悦が浮かんでくる。これは2005年の作品だが、今もときどきテレビでやっている。
 
太宰は1948年6月13日夜半、玉川上水で山崎富栄と心中した。
 
太宰は、障害を持つ長男をおいては死ねない、と繰り返し言っていた。その針が、あるとき逆に振れたのだ。
 
聖子さんは6月14日の明け方、野平健一に突然起こされ、すぐに玉川上水に違いないと思い、土手まで走って、入水した場所を突き止めたという。
 
同じ年の12月13日、母富子が永眠した。

「死の前に母富子は『太宰さんが窓の外から覗いている』とうわごとのようにいった。聖子は『もうだめだなあ』と悲しく聞いていたという。」

残された聖子さんは、まだ20歳である。

新宿にあった店――『聖子―新宿の文壇BAR「風紋」の女主人―』(1)

著者は森まゆみ、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』、通称「やねせん」で名を挙げた人だ。
 
僕はこれまで、まとまったものは読んだことがない。下町の地域の話が多いような気がして、話がせせこましい、文人を主人公にしても、その地域を過去に遡って掘り下げるような話が多い、と思っていた。
 
もう一つ、講談社のWさんが、雑談をしているときに、森まゆみは力のこもったものを書くんだけど、その割には売れないんだ、と。この売れないは、行っても再版どまりということだった。しかしこれも呑み屋の戯言、すべてを見渡して言ったことではないと思う。

『聖子―新宿の文壇BAR「風紋」の女主人―』は評判になったが、僕は筑摩にいたこともあり、知らない店ではないので、かえって敬遠していた。
 
それで今度読んでみると、まずその文章に驚嘆した。うまいなんてもんじゃない。ほとんど名人ですな。
 
もう一つは「風紋」のマダム、林聖子さんが波乱万丈、こんなにも豊かな人生を送った人であることを、まったく知らなかった。
 
聖子さんは、おっとりでもなく、早口でもない、ごく普通の喋り方をする。それまでの波乱万丈を、全部飲み込んで言葉を出しているとは、20代の僕には思いもよらないことであった。
 
この本は2部構成になっていて、「第Ⅰ部 戦前篇」の主人公は林聖子の父、画家の林倭衛(しずえ)、「第Ⅱ部 戦後編」は聖子さんが主人公である。分量もⅠ部、Ⅱ部でちょうど半分ずつである。
 
林倭衛は「出獄の日のO氏」で大杉栄を描き、「或る詩人の肖像」でダダイスト、辻潤を描いた人だ。
 
その生い立ちから描いていくのは、一般の読者にとっては退屈で、場合によっては苦痛だろうとふつうは思う。
 
ところがさにあらず。第Ⅰ部でも、聖子さんの聞き書きを多用して、まったく飽きさせない。
 
ちなみに全編を通じて、「聖子さんは言った」あるいは「こう述べた」というたぐいは、一箇所もない。誰が語ったかは、聖子さん以外でも、わかるようにしようと思えばできる。
 
それは分かっているが、聞き書き、著者の地の文、資料を用いた文などを、緊密に出し入れして進んでいくさまは、しかもこれを華麗にではなく、ごく自然に出し入れするさまは、感嘆するほかはない。
 
林倭衛は、伯父から毎月40円の仕送りを受けて、パリで修行する。

「当時のヨーロッパは未来派、ダダ、純粋主義、構成派、エコール・ド・パリなどの新しいイズムの疾風怒濤の時代であった。日本人の画家だけでも当時三〇〇人近くがパリに滞在していたと伝わる。」
 
僕は絵描きというと、司修さんしか知らない。だから司修さんを原型に、他の画家の像を思い描いている。
 
林倭衛は、その原型をそのままもってくればよい。女にも男にも好かれ、酒は浴びるほど飲み、イヴォンヌというフランス女性とも暮らしている。
 
聖子さんは、林倭衛と秋田富子が結婚し、生まれた子供だが、林倭衛はイヴォンヌとの間にも、子どもがいる。聖子さんにとっては腹違いの子だが、倭衛のことは好きだったので、そういうことは自然に受け入れている。
 
この「自然に受け入れる」ということが、後になってみれば、「風紋」の一番の特色ではないかと思う。
 
第Ⅰ部の半ばに、林倭衛の写真がある。実に芸術家らしい、繊細で、しかし意志を表に出した顔をしている。これは男も女も、フランス女もほれ込んでしまう。
 
森まゆみは、これを67ページに、文と合わせて3分の1の写真にしている。僕ならこの写真は、巻頭に近く全頁で出す。凡庸な編集者なら、必ずそうする。

森まゆみは、そうはしなかった。これは玄人の極み、あるいは東京人の恥じらいか。

「私は運よく父とは男としては会っていませんから、今も父を好きですし、付き合うには実に面白い男だと思いますが、亭主だとしたら呆れる。破天荒で、何が起こるかわからない。飲むわ、喧嘩はするわ、捕まるわ、どこかへ行っちゃうわ、引っ越しはするわ。ハハハハ。でも父を見ちゃったから、ちょっとやそっとの男には興味がわかないのかもしれないの」
 
1945年1月10日、林倭衛、急死。享年49。酒の飲み過ぎで、直前までは意外に元気だったという。

究極の難問に挑む――『ひとはなぜ戦争をするのか』(3)

養老先生の「解説Ⅰ ヒトと戦争」は難しい。
 
アインシュタインとフロイトの往復書簡の後、第2次大戦が起こり、そのあと2人の時代にはなかったものが現われる。ITである。パソコンとスマホに代表されるITは、現代の日常生活を変えた。

「現代のシステムはアルゴリズム、つまり計算や手続きと考えてもらえばいいが、それに従って成立する。それまでは社会システム、たとえば世間はいわば『ひとりでにできる』、あるいは『自然にできてしまった』という面が大きかった。でも現代ではそれは違う。『アルゴリズムに従って創られる』面が大きい。経済や流通、通信はそうなっている。それを合理的とか、効率がいいとか、グローバル化とか表現する。」
 
最後の一文に、養老先生の面白くなさそうな顔が浮かんでくる。
 
そこから話はテロに行く。アルゴリズムに従って人を選別すれば、どうしたって格差が生じる。格差が下の者は面白くない。そこで場合によっては、テロが起きる。一言で話をまとめれば、こういうことになる。
 
その先に脳機能の話があり、「個人でいえば意識と身体、集団でいえばアルゴリズム的な社会と自然発生的な社会、その両者のバランスの上に将来の社会システムが構築されていく。」
 
だから戦争の地位も、その中で定まるというのが、養老先生の予想である。

「ただしその地位は、すでに述べてきたように、アインシュタインやフロイトが生きていた時代よりはるかに小さくなってきており、いずれ、飼い殺されるに違いない。ヒトは変わり、社会も変わるのである。」
 
だから、ウクライナにおけるロシアの戦争は限定付きだし、最後の戦争に近い、と私は希望をもって予測したい(でもまだ駄目だろうなという気も、それに「核」の問題もある)。
 
斎藤環の「解説Ⅱ 私たちの『文化』が戦争を抑止する」は、大枠でフロイトをなぞったものだ。
 
ただ途中で出てくる、人間に「本能」はない、という話は面白かった。

「動物の場合は、遺伝子にあらかじめ刻まれたプログラム(=本能)によって、教わらなくても生殖を行うことができます。しかし人間の場合は、生殖などの行動も、言葉を通して後天的に学ばなければできません。つまり人間は、生きる上で必要なありとあらゆる行動を、後天的に学ばなければ実行できないという限界を抱えた生きものなのです。ただしそのことは、人間に対して限界と同時に大きな自由も与えたわけですが。」
 
この発見は精神分析学の功績の1つである、と斎藤は言う。
 
そして斎藤は、フロイトに倣って「文化」を押し出していく以外に、戦争を避ける道はないと言い、最後にその具体的成果である、「世界的に見てもトップレベルの『日本国憲法』」を出してくる。

「そこにはフロイトすら思いもよらなかった戦争解決の手段、すなわち『戦争放棄』の文言が燦然と輝いています。この美しい憲法において先取りされた文化レベルにゆっくりと追いついていくことが、これからも私たちの課題であり続けるでしょう。」
 
これをどういうふうに考えたらいいのか。ウクライナにおけるロシアの戦争で、日本国憲法の価値は二分している。ロシアを見て戦争に備えるべきだという見方と、だから戦争に巻き込まれないよう、「日本国憲法」が最後の砦だという見方と。
 
これも長い議論が必要だが、結論だけを記せば、私は日本国憲法は最後の砦だと思う。
 
最後にこの本とは別に、以下はポッカリと頭に浮かんだことである。
 
今度のウクライナ・ロシアの戦争を見ていると、ヨーロッパの首相その他の要職には、驚くほど女性が多く就いている。女性は少数の例外を除けば、率先して戦争はしないような気がする。戦争は後片付けが大変だからなあ。
 
またこういうことも浮かんでくる。プーチンは、NATOがもう領土を広げることはないと言いつつ、ジワリと押し寄せてくることが、不気味で寒気がしたという。それならロシアもNATOに入れてあげればいいのに。
 
そうすると、何か不都合があるのだろうか。あるのだろうな。そんなことをしたら、敵がいなくなっちゃうじゃないか。しかしそれは、本末転倒ではないか。
 
人間が、現在の殻をぶち破って、本当に戦争のない状態を作るには、「人間の壁」を超えなければ、難しい気もする。それができたとき、フロイトが言ったように、滅亡の道が始まるというのは、人間の限界を指し示したものとして、象徴的だという気がする。

(『ひとはなぜ戦争をするのか』A・アインシュタイン、S・フロイト、浅見昇吾・訳
 講談社学術文庫、2016年6月10日初刷、2017年12月8日第8刷)

究極の難問に挑む――『ひとはなぜ戦争をするのか』(2)

人間は、個人の中に、戦争に傾きやすい欲望を持っているのだから、これを個人の側で押さえつけることは難しい。
 
そうすると、それを外側から押さえつける以外に方法はなくなる。

「戦争を確実に防ごうと思えば、皆が一致協力して強大な中央集権的な権力を作り上げ、何か利害の対立が起きたときにはこの権力に裁定を委ねるべきなのです。それしか道がないのです。」
 
それでこの時代は国際連盟をつくったのだが、そういうものでは、いけないのであった。

「この道を進むには、二つの条件が満たされていなければなりません。現実にそのような機関が創設されること、これが一つ。自らの裁定を押し通すのに必要な力を持つこと、これが二つ目です。」
 
国際連盟は2つ目の条件を満たせなかった。次にできた国際連合は、国連軍を持ったけど、これはもっぱらアメリカ主導で、一段高い中央集権的国家連合とはなっていない。
 
けれども次の段階の、まだ見ぬ「メタ国際連合」は、常任理事国の問題を含めて、知恵の絞りどころだ。
 
このあとフロイトは、精神分析の話に沿って、人間そのものを探求していく。そうしてある結論を出す。それは「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」ということである。
 
しかし、とフロイトは言う。

「人間の攻撃性を完全に取り除くことが問題なのではありません。人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよいのです。」
 
こうして「破壊欲動」に対して、反対のエロスを発動させるべく、訴えかければよいことになる。

その方向性は2つ。1つは性的な欲求だけではなく、より広い隣人愛を喚起すること。しかし「言うは易く行うは難し」で、これは簡単なことではない。
 
もう1つは、一体感や帰属意識によって、感情面での結びつきを得られるようにすること。こうした結びつきこそ、人間社会を強力に支えるものなのである。これがつまり、文化の力なのだ。
 
しかしここでフロイトは、「文化の力」なるものに、一点疑問を付している。

「文化が発展していくと、人類が消滅する危険性があります。なぜなら、文化の発展のために、人間の性的な機能がさまざまな形で損なわれてきているからです。今日ですら、文化の洗礼を受けていない人種、文化の発展に取り残された社会階層の人たちが急激に人口を増加させているのに対し、文化を発展させた人々は子どもを産まなくなってきています。」
 
戦争を抑止するために文化を発展させると、それは同時に、肉体のレベルで変化を生じさせ、子どもを産まなくなっているのだ。
 
要するに「ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなり、本能的な欲望の度合いが弱まってき」たのである。
 
これはこれで面白い問題、というか人類存続に関わる問題だが、今は横道にそれるので、これには触れない。しかしフロイト、さすがである。
 
フロイトの結論は、国連をよりバージョンアップすること、文化の発展を強力に推し進めること、の2点に尽きている。
 
では養老孟司、斎藤環のお二人は、これに対してどう応えるか。

究極の難問に挑む――『ひとはなぜ戦争をするのか』(1)

国際連盟がアインシュタインに提案し、「誰でも好きな方を選び、いまの文明でもっとも大切と思える問いについて意見を交換できる」ことになった。
 
アインシュタインは、「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」という問いを、フロイトにぶつける。

これは2人の往復書簡である。
 
それだけでも面白いのに、「解説Ⅰ」を養老孟司が、「解説Ⅱ」を斎藤環が書いている。20世紀の智者が一堂に会している。

しかし「四(!)酔人経綸問答」と言っては悪いが、人はなぜ戦争をやめられないのか、については、たぶん正解は出ない。大方の人間は、4人の知の高みには、達していないからである。

しかし文明が進んでゆけば、戦争をしないようになる糸口だけは、見つかるかもしれない。
 
内容を読んでいこう。初めにアインシュタインの手紙である。
 
アインシュタインは率直である。なぜ多くの人々が努力をするにもかかわらず、国際平和は実現されていないのか。それは「人間の心自体に問題があるのだ。人間の心の中に、平和への努力に抗う種々の力が働いているのだ。」
 
たとえば次のようなことがある。

「なぜ少数の人たちがおびただしい数の国民を動かし、彼らを自分たちの欲望の道具にすることができるのか? 戦争が起きれば一般の国民は苦しむだけなのに、なぜ彼らは少数の人間の欲望に手を貸すような真似をするのか?」
 
まさにウクライナを攻撃するロシアである。プーチン1人が、戦争を仕掛けているように見えるのに、なぜ大勢の国民が支持し、場合によっては命を捨てるのか。
 
マスコミの情報操作や学校教育によって、人は自分自身を犠牲にしても、戦争に行くようになる。なぜ、こんなことが起こるのか。

「答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」
 
そこで「本能的な欲求」ということになれば、「無意識の大家」フロイトに訊け、となるのである。
 
ちなみにこの往復書簡は1932年のことで、第2次大戦の7年前になる。
 
アインシュタインに対して、フロイトも同じく率直に書く。
 
人の利害の対立は、まず初めは暴力で解決していた。動物たちは、そうやって決着をつけてきた。人間も動物なのだから、最初はみな暴力で解決していたのである。
 
しかしこういうやり方は、社会の発展に伴って、暴力による支配から、「法(権利)」による支配へと変わっていく。
 
フロイトは言う。ただし「法(権利)」とは、連帯した人間たちの力であり、「共同体の権力」にほかならない。

「相違点はただ一つ、一人の人間の暴力ではなく、多数の人間の暴力が幅を利かすだけなのです。」
 
うーん、そういうものなのか。

「『法によって支配される』社会が一度できあがっても、利害の対立が起きれば、暴力が問題を解決するようになってしまうのです。これは避けがたいことです。」
 
そうですか。これは人間の、超えられない条件の1つ、というわけですね。
 
でもそうすると、人間は永久に、戦争を続けるしかなくなるではないか。

経済学者はいなかった?――『大切なことは言葉にならない―養老孟司の大言論Ⅲ―』

その『大切なことは言葉にならない』を朗読していて、考え込んでしまった。

「生物多様性と採算性」のこういう箇所だ。

「官僚という仕事は、採算がとれているのだろうか。そもそも赤字の垂れ流し、八百兆円という借金を作っているという日本国そのものは『採算がとれている』のだろうか」(今は赤字国債は1千兆円を超えた)。
 
これは前段があって、林野庁の高官が、島根県の国有林の作業道のセミナーで、「不採算な作業なんて、やめてしまえばいいじゃないか」といったことに対して、養老先生が感じたことである。
 
誤解がないように言っておくと、養老さんは、この官僚を批判しているのではない。言ってみれば、赤字黒字の採算のとり方に問題がある。

「採算は合っていなければならない。それは『見える』。しかし国という組織はどうか、ということなのである。『国の採算』は目に見えない。財務省は見えるというかもしれない。でもそこで本当に採算を考えていたのなら、公共の借金がここまで増えるはずがなかった。神風特別攻撃隊に至っては、採算という言葉は使えまい。いったい採算とは何なのか。」
 
ここでは、あらゆることを「経済」問題とすることの是非を、問うているのである。
 
それは大事なことだけれど、そういう「高尚なこと」ではなく、養老先生とは逆に、私は「経済」問題として、官僚や経済学者に問うてみたい。なぜこうも膨大な借金大国になったのか、と。
 
考えてみれば、おかしなことである。日本は第2次大戦後、おおかた80年間、戦争の当事国にならなかった。むしろアメリカの後ろにくっついていって、朝鮮であれ、ヴェトナムであれ、戦争で儲けたくちではないか。自衛隊という憲法的には問題のあるものを、それでも軍事費は1パーセントの枠内に抑えて、「うまい汁を吸ってきた」ではないか。
 
それがどうして、第2次大戦後70余年を経ってみると、世界に冠たる、並ぶもののない借金大国になっているのだ。
 
経済学者によっては、そんなに気に病むことはない、借金しているのは外国に対してではなく、日本国民なのだから、という語り方もある。
 
私が問題にするのは、そうではなく、なぜ日本一国だけが、あえて言えば「先進国」の中で、膨大な借金漬けになったのか、ということなのだ。
 
日本にまともな経済学者はいなかったのか。そんなことをすれば危ない、借金漬けはまずいと、なぜ言わなかったのか。あるいは言ったけれども、政治家が聞かなかったのか。
 
日本の健康保険制度はよくできているとは、外国から帰った人がみな言うことだ。そこに金を使いすぎたのか。
 
あるいは日本人の寿命は、戦後すぐまでは平均50歳だったのが、このごろは男女とも80歳を超えている。女性は世界で1位、男性も2位である。寿命は1年に半年延びている。ここまで長生きさせることに、国家予算を使いすぎたのか。
 
しかし現状の日本人を見れば、貧困率は先進国の中でもかなり高い。これだけ借金をしておいて、国民の2割が貧困だというのはおかしくないか。
 
経済の本はたまに読む。このブログで明らかなように、一念発起して読んでも、どれもまったくピンとこない。私の頭が経済向きではないのだ。
 
しかし大枠を考えずに、株価や投資信託の話をしても、無駄だと思うんだけど。

(『大切なことは言葉にならない―養老孟司の大言論Ⅲ―』
 養老孟司、新潮社、2011年4月30日初刷)

考えてしまうじゃないですか――『クリスマスのフロスト』

例によって「養老孟司の大言論」シリーズ、3冊目の『大切なことは言葉にならない』を朗読している。
 
その巻末に「養老孟司 オススメ本リスト」がついていて、いろんなジャンルから150冊を超える本が選ばれている。
 
そのⅤ項目、「ミステリー中毒のあなたへ」のトップに、R・D・ウィングフィールドの『クリスマスのフロスト』が上がっていた。

この項は、選りすぐりのミステリー、約10冊の本が挙げられていて、そうすると選ばれて読んでないものは、読みたくなる。ミステリー読みの養老さんが、選りに選った10冊を挙げてるんだぜ。
 
で、読んでみた。裏表紙の惹句から。

「ロンドンから70マイル。ここ田舎町のデントンでは、もうクリスマスだというのに大小様々な難問が持ちあがる。日曜学校からの帰途、突然姿を消した八歳の少女、銀行の玄関を深夜金梃でこじ開けようとする謎の人物……。続発する難事件を前に、不屈の仕事中毒〔ワーカホリック〕にして下品きわまる名物警部のフロストが繰り広げる一大奮闘。抜群の構成力と不敵な笑いのセンスが冴える、注目の第一弾!」
 
そういうことなのだが、うーん、ミステリーとしては、はっきり言って大したことない。いくつも難事件は起きるが、それは時にフロストの馬車馬的努力により、また時には幸運が重なって解決してゆく。

問題はフロストの、事件は解決するけど、「不屈の仕事中毒にして下品きわまる名物警部」ぶりである。

「ジャック・フロストは、権威と規律が重んじられるデントン署内では異質の存在である。きわどい冗談を連発し、服務規定を守らず、地道な捜査と書類仕事が大の苦手、上司の命令を平気で忘れ、叱責されれば空とぼけ、同僚に馬鹿にされればふてくされ、食らいついた相手にはしつこくつきまとい、ひとり暴走してはへまをしでかし、それをごまかそうと冷や汗をかきながら奔走する。」(「訳者あとがき」より)
 
要するに官僚的な世界では、やっていけない人間なのである。
 
養老さんは、デントンの田舎町に東京大学を重ね合わせ、留飲を下げていたのではないか。
 
養老さんは中学・高校で、神奈川の栄光学園というカトリックの学校を出た。そこには神父がおり、国籍は多種多様、国連みたいだったという。つまりグローバル化していた。
 
それが東大に就職したとたん、世間は東大一色になり、まるで田舎に来たかと思ったという。一挙にローカル化したわけですな。

東大ストレスをどんどん溜め込んで、それが頂点に達するころ、『クリスマスのフロスト』に行き当たったのだね。書類仕事なんかどうでもいい、万事結果オーライ、それで行けたらどんなにいいだろう。

養老先生は通勤の行き帰り、これを読んで、憂さを晴らしていたに違いない。
 
しかし問題は、そういう人が一杯いたらしいことである。この本は、1994年の「週刊文春」海外部門ミステリーの第1位なのである。考えてしまうじゃないですか。

(『クリスマスのフロスト』R・D・ウィングフィールド、芹澤恵・訳
 創元推理文庫、1994年9月30日初刷、2003年1月24日第31刷)

最初の百科事典を作った男――『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』(6)

1752年2月7日、『百科全書』第1巻と2巻は、枢密会議によって発行禁止になってしまう。
 
この間の経緯は複雑で、国王側にも『百科全書』に与するもの、内通するものがいて、かなり錯綜している。
 
ただ刊行停止にも関わらず、読者は『百科全書』の刊行を熱望していた。刊行停止という迫害が、格好の宣伝になったという。禁止の時点で予約者の数は2000名だった。それで第3巻は3100部を刷ったという。
 
こういうところになると、私には見当がつかない。1,2巻は発行停止になった。それでもう『百科全書』は、途中でストップしたのではないのか。格好の宣伝になったといって、第3巻を3100部刷るというのは、どういうことか。この時代の出版と流通には、今から見ると分からないことが多い(あるいは私だけがわかっていないのか)。

とにかく、『百科全書』自体はますます好調だ。

「一七五四年二月、第一巻、第二巻の二刷りと三刷りが決定、第三巻もそれに合わせて増刷されました。さらに一〇月に刊行予定の第四巻は四二〇〇部と決まりました。度重なる迫害や妨害にもかかわらず、この売れ行きは驚異的です。」
 
まったくすごいです。昔の異国のことであっても、本が売れることは素直に喜ばしい。ディドロやダランベールだけでなく、それ以上に「協同書籍商」たちは、ほくそ笑んだろう。
 
ディドロやダランベールは栄誉を取り、書籍商は実利を得たことが、この本の後の章に詳しく出てくる。
 
1755年、第5巻が刊行され、ディドロが執筆した長大な項目、「百科全書」(ENCYCLOPEDIE)が評判になる。『百科全書』のなかで、「百科全書」という項目を執筆するのは、何ともおかしい。
 
なおディドロはこの中で、理想の編集者像を描いている。

「すぐれた感覚に恵まれ、広大な知識、高邁な感情と思想、仕事への愛によって知られる人物。公私両面にわたる性格によって愛され、尊敬され、真理、美徳、人間性にかかわる場合はべつとして、けっして物事に夢中になって溺れない人のことである。」
 
ランダムハウスを作ったベネット・サーフの自伝、『アトランダム』に少し似ている。18世紀のフランスでも、20世紀のアメリカでも、望まれる編集者はいつも同じだ。
 
第6巻は1756年10月に刊行された。ここではヴォルテールが、15編も項目を書いている。しかしヴォルテールは、『百科全書』の項目ごとの出来不出来が多いことに苛立っている。
 
1757年11月に第7巻が刊行される。この時点で予約者は4000名、印刷部数4200。書籍商たちは100万フラン以上の収益を上げた。

「進捗状況としては、アルファベットでまだG、項目『ギュティウム』までしか来ていないので、〔中略〕八巻の予定を大幅に超過してしまうことは明らかです。増補版一巻につき二四リーヴルの予約料値上げが発表されました。予定図版数も六〇〇枚から一〇〇〇枚に増え、増補版二巻分で、図版料も当初の四〇リーヴルから一三〇リーヴルへの値上げが布告されます。」
 
まさにイケイケどんどんですな。日本でも、今を去ること50年より前には、百科事典や文学全集で増刊また増刊の、景気のいい時代があったようだ。
 
ところが『百科全書』本文は、その後すったもんだがあって、「しばらく地下に潜り」、1765年から66年にかけて、残りの10巻を一挙に配布する。
 
この辺りもよくわからない、というか信じられない。「残りの一〇巻を一挙に配布」といったって、在庫を置くところだけでも大変で(これは鷲見先生もそう書いている)、どう考えてもおかしい。しかもある時期、「地下に潜」っているのである。一体どうやって配布したんだろう。
 
一方、図版の巻は1762年1月、第1巻を配布し、以後順調に刊行され、1772年に第11巻で完結する。実はこの図版の巻が、『百科全書』と、凡百の百科事典を大きく分ける要なのだ。
 
とはいえ『百科全書』の紹介は、ここまでにしよう。そうでないと、「一身にして二生を経る」というブログが、「『百科全書』の森を歩く」に代わってしまう。

しかしこれでもわずか第2章まで、全体900ページのうち200頁を紹介しただけ、しかも上っ面の筋書きだけである。
 
このあと「第三章 編集者ディドロの生涯/第四章 商業出版企画としての『百科全書』/第五章 『百科全書』編集作業の現場/第六章 「結社」の仲間さまざま/第七章 協力者の思想と編集長の思想」と続いていくが、あとへ行けば行くほど、面白さが倍加する。鷲見先生の筆が、章を追うごとにどんどん乗ってくるのだ。
 
そして最後の2章が来る。「第八章 図版の世界/第九章 身体知のなかの図版」は、あなたがこれまで、まったく読んだことのない経験をすることになる。図版を読み解くとは、こういうことであったのか、まったく知らなかった、と。
 
私が鷲見先生と会って、すぐに書き下ろしをお願いしたのは、この日の講演が、この2章分に集中していたから、それでびっくりしてしまい、すぐにお願いしたのだ。
 
なおこの本全体については、『日本古書通信』の同名のコラム、「一身にして二生を経る」に、また違った角度から記すことにする。

(『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』
 鷲見洋一、平凡社、2022年4月25日初刷)

最初の百科事典を作った男――『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』(5)

『百科全書』の編集者にとって、宗教と政治、とりわけ神学関係の項目を誰に書かせるかは、最大の難問だった。
 
ディドロは無神論者だったが、面白いことに若いころから、教会とは密接な関係を持っていた。項目執筆者の中にも、何人も聖職者がいる。初期の項目執筆者の代表的な神父と言えば、コレージュ・ド・ナヴァールの神学教授だったエドム=フランソワ・マレである。

マレは『百科全書』第5巻が出た年に亡くなっているが、全部で2000を超える項目を執筆した。「神学」「教会史」「商業」「貨幣」について、900リーヴルを支払う約束の文書が残っている。
 
鷲見先生が確認した限りでは、マレが執筆したジャンルは、政治、数学、医学、宗教、歴史、地理学、商業、軍事、経済、文学、美術、法律などに亙っている。本当にそうなのか。これはもう言ってみれば万能の天才、なんでも来いではないか。
 
しかしディドロは、マレの宗教思想が温和で妥協的なところが満足できず、さらに3名の若い聖職者、クロード・イヴォン、ジャン・ペストレ、ジャン=マルタン・ド・プラドを起用する。

「いずれも聖職にありながら、キリスト教の信仰を人間理性の行使と融和させようとする、当時としてはかなりリベラルな、というよりも危険な思想を奉じていた人びとでした。」
 
そこから話は、さらに深いところに触れるのだが、私にはこの時代のキリスト教信仰というのが、皮膚感覚としてよくわからない。
 
ただディドロが、著者を起用する上で、悪戦苦闘の努力をしていたことだけは十分にわかる。
 
1752年1月末に、第2巻が刊行される。
 
鷲見先生は、この中で目玉項目は、執筆者と対で表わすならば、カユザック「バレー」(BALLET)、ダランベール「気圧計」(BAROMETRE)、ダランベールとディドロ「文字板」(CADRAN)、ディドロ「靴下製造」(BAS)、「ブロンズ」(BRONZE)、「カカオ」(CACAO)、「樹木」(BOIS)、「ビール醸造業」(BRASSERIE)、「印刷活字」(CARACTERES D‛IMPRIMERIE)、「カード」(CARTES)などである。
 
そしてとりわけ注目すべきは、「死体」(CADAVRE)という項目である。これはトゥッサン、ダランベール、ディドロが書いている。

「ようするに三名の執筆者がほぼ等量の記事を書いて、『死体解剖』の問題を論じているのですが、驚くのは三人の主張がまったく食い違っており、編集長二人がそれをよしとして、一切手を加えずにそのまま載せていることです。」
 
これは考えられない。2人の編集長は、中で調整するどころが、まったくアッケラカンとそのまま投げ出しているのだ。
 
それに対して現代の研究者は、こんなことを言う。

「〔鷲見先生の先生である〕ジャック・プルーストはこの項目が『もっとも驚異的な対話の一つ、真の多音音楽〔ポリフォニ〕を構成している』と絶賛しています(『百科全書』、平岡昇・市川慎一訳、岩波書店、一九七九年、一〇六頁)。この『対話の精神』は、今日の私たちには理解を絶するような編集方針となって時おり姿を見せるのです。」
 
こういうところになると、ほんとうに言葉がない。鷲見先生の先生、ジャック・プルーストの批評も、同じく言葉がない。
 
ただここまでで分かることは、『百科全書』とは、現代の「百科事典」とは異なり、かなりジャーナリスティックなものだったということだ。
 
だから『百科全書』第1巻と2巻は、たちまち刊行停止を食らってしまうのだ。