最後の時にも――『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(2)

「穴ノアル肉体ノコト」は、読んで字のごとく。左右の鎖骨の間に、ぽっかりと穴が開いていて、ここから澁澤は、呼吸をしているのだ。

声は失っているし、喉ぼとけもない。呼吸をしない鼻の穴は、無用の長物に過ぎない。
 
それらのことを、いくぶん滑稽味を含めて、淡々と記す。

「風呂へはいるときにも、私はよくよく注意して、お湯が鎖骨の線よりも上へは来ないように気をつけている。もし酔っぱらって風呂へはいり、そのまま前後不覚に寝てしまって、お湯がぶくぶく穴から侵入でもしてこようものなら、私はそれっきりお陀仏であろう。」
 
面白い。声をうしない、喉ぼとけを失ってなお、自分というものを、滑稽味をもって見ている。
 
さらにその先がある。

「そのかわり、鼻の孔や口をふさがれても、私は平然たるものであろう。暴漢に襲われて首を締められても、さらに痛痒を感じないであろう。これらはメリットともいうべきものだ」。
 
なかなか面白いですね。

「逆に困ったこともないわけではない。なにより私にとって残念でたまらないのは、自殺の中でもっとも安易な手段というべき、あの首吊り自殺が私には永久に不可能になってしまったという一事である。」
 
これは本気かね。でも、いよいよもって面白い。

「たとえぶらりと縄にぶらさがっても、その縄が私の首をきりきりと締めつけても、私は一向に息苦しくはならないであろうし、一向に死にはしないであろう。なぜなら、首の下のほうに口をあけた穴によって、私はひそかに呼吸をつづけていられるからである。」
 
澁澤も書くように、これは喜劇以外の何ものでもない。
 
しかし、これを書いているのは、澁澤自身である。そう思うと、ある種ぞっとしたまま、感動に似たものが襲ってくる。

漱石の『猫』の、水島寒月君の馘くくりの力学、どころではない。
 
澁澤はなおも、鏡で自分を見ている。

「ダンディーは鏡とともに生きるとボードレールはいったものだが、いかに鏡をひねくりまわしたところで、のどに穴のあいたダンディーでは、どうもあまりぞっとしないであろう。まあ仕方がない。」
 
押さえの、「まあ仕方がない」が、絶妙である。

「穴のある肉体。男は女よりも肉体における穴の数が一つだけ少ないが、どうやら私は新たにうがった穴によって、女にひとしい穴の数を所有することができたともいえそうである。両性具有。」
 
ここからさらに、肉体をめぐる妄想にのめり込んでゆく。

「私ののどの穴は、もしかしたら女陰の代替物なのかもしれない。私の潜在的な両性具有願望の、はからずも実現されたすがたなのかもしれない。そういえば、私には男性の象徴たるノドボトケも、すでに失われているのである。」
 
この一篇は、最後の日々を迎えた自分を題材にして、ただもう見事と言うほかはない。これは澁澤龍彥の最後の傑作である。
 
ただ、これ以外の膨大なエッセーは、もはや現代に一書を編むには、あまりに物足りない、と私は思う。その理由は、『偏愛的作家論』のところに書いた。

(『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』
 澁澤龍彥、小学館、2016年12月11日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:53Comment(0)日記

最後の時にも――『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(1)

礒崎純一の『龍彦親王航海記ー澁澤龍彥伝ー』を読むと、こういう個所があった。

「不治の病いにおかされた体で執筆した『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』と『穴ノアル肉体ノコト』に二編は、たんにそれが傑作であるばかりでなく、澁澤龍彥という人間を考える際に重要な作品となっている。」
 
こういうことが最後の方に出てきて、強烈な印象を残す。これは読まねばなるまい。
 
これは澁澤が生前、約束をしていた最後のエッセー集だが、生きているときには間に合わなかった。
 
タイトルにあるごとく冒頭、「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」と、続けて「穴ノアル肉体ノコト」が掲載されている。
 
どちらも傑作である。

「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」については、もともと澁澤は闘病記の類が大嫌いだったが、ここは前提として、どんな病気で、どんな治療をしているかを、言わざるを得ない。そのうえで筆を進める。

「じつは私は入院中、これまで自分にはさっぱり縁のないものとばかり思っていた幻覚を、初めてまのあたりに見た体験を語りたかったのである。幻覚体験、これこそ入院中のもっとも印象的なエピソードだった。」
 
こうして様々な幻覚が描かれる。これは看護婦のくれた薬によって、出現するものだが、面白いのは、脳裡にも幻覚が棲みつくことだ。

「これまでの幻覚はすべて外部に投影されたイメージであったが、それとは別に、いわば内部に投影されたイメージともいうべき種類の幻覚もあった。つまり、目を閉じると瞼の裏にあらわれてくる幻覚である。どちらかといえば、私には、この瞼の裏に執拗にあらわれてくる幻覚のほうがいっそう不快であった。」
 
この段階で、澁澤は気管切開をして、声を失っている。しかし本を読むのに、声は必ずしも必要ではない。病室にいて、自分の書斎の、どこにどのような本がある、ということを、龍子夫人に筆談で示せればよいのだ。
 
だから澁澤は、周りで見ているほど、悲惨な境遇ではない。
 
しかし内部に投影された幻覚には、参ったようだ。
 
それは非常に語りにくいものだったが、澁澤はなんとか、精緻に筆にしている。
 
薬のききめが消えると、幻覚に悩まされることもなくなった。
 
そこで今度は、自分の号を考える。荷風に断腸亭、秋生に無腸のように、ぴったりくるものはないか。

「私もこれからさき、無声あるいは亡声と号すべきではないか。しかしどうも、この号は平凡であまりおもしろくない。魚には声がないから、魚声居士という号はどうか。いや、これもやはり気に入らない。とつおいつ考えた末に、ひらめくものがあって、私は呑珠庵〔どんじゅあん〕という号を思いついた。」
 
溢れかえる夢魔で苦しいところを通り抜け、最後にぴたりと着地を決める。最後の日々を迎えても、澁澤龍彥は澁澤龍彥である。
posted by 中嶋 廣 at 09:39Comment(0)日記

悲惨な人生相談――『人生の救いー車谷長吉の人生相談ー』(3)

強欲な兄嫁への憎しみを、癒やすためのアドバイスが欲しい、という主婦に対しては、こんなふうに答える。

「世の中には強欲だけの人もいます。もしそうだとしたら、救う途はありません。この『強欲だけ』というのが、ある意味もっとも『人間らしい』とも言えるので、人間としてこの世に生まれてきたことには、基本的に救いはないのです。」
 
これは、けっこう深いところを突いている。

人間は欲望を失っては、人間ではなくなる。つまり、人として生まれてきたかぎりは、救いはないということだ。
 
そう覚悟することが大事だ。その上で「哲学・文学・宗教に触れる以外ありません」と、長吉は言うけれど、そんなことで救いは訪れるのだろうか。私には疑問だ。
 
人間はどんなに向上しても、ぎりぎりここまでというふうに、あらかじめ可能性の条件は、決まっているのではなかろうか。
 
相変わらず憎しみ合い、略奪し、殺し合う民族を見ていると、これが人間の限界かな、と思えてくる。それは、背広を着ていても同じことだ。
 
万城目学が、この本の「解説」を書いていて、これがなかなか面白い。

「『人生相談』と銘打っていても、相談という双方向のコミュニケーションが取られた形跡はあまり感じられない。むしろ、他人の悩み事を回答者が片っ端から殺しているようにも見える。一刀両断とはちょっとちがう。やはり、殺していると呼ぶのが相応しいように思う。」
 
なるほど、殺しているか、うまいことを言うもんだな。
 
これは朝日新聞の「悩みのるつぼ」に載せられたのだが、万城目学はそのときから、愛読していたという(これは私もおなじ)。

「『いやあ、今日も車谷先生、豪快に殺してはるわ~』
 とそのあまりに独自性に富んだ回答に、土曜のさわやかな朝が、得も言われぬ澱みを纏ってスタートしたこともしばしばであった。」
 
ふふ、ほんとに。
 
例えば、自分は不運だと相談してくる人がいる。
 
それに対し、自分はもっと不運だと説く。生まれたときから、鼻で息ができなかった。高校入試で信じられないほど、ひどい結果を食らった。でも大丈夫、不運な人は、不運をそのままに生きていけばいい、その方が人生の陰翳があるという。

「こんなことをぶつけられたら、どんな悩み事だって即終了である。
 悩み事という精神の暗き淵から発せられた訴えに対し、さらなる奈落から回答する。まったく新しい悩み事相談のかたちを、車谷さんは作り出したのではなかろうか。」
 
本当にそうだ。「さらなる奈落から回答する」、というのを一度味わってしまうと、並みの人生相談は、全く面白くないのだ。
 
私は、万城目学の小説は、一つも読んだことがなかった。これを機に『鴨川ホルモー』を読んでみよう。

(『人生の救いー車谷長吉の人生相談ー』
 車谷長吉、朝日文庫、2012年12月30日初刷、2013年3月15日第2刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:45Comment(0)日記

悲惨な人生相談――『人生の救いー車谷長吉の人生相談ー』(2)

教え子の女生徒が恋しいという、四十代の高校教諭に対しては、それならそこに飛び込んでみよ、と説く。
 
妻も子も捨てて、自分の生が破綻するところまで、自分を追い詰めよ、と。

「世の多くの人は、自分の生は、この世に誕生した時に始まった、と考えていますが、実はそうではありません。生が破綻した時に、はじめて人生が始まるのです。従って破綻なく一生を終える人は、せっかく人間に生まれてきながら、人生の本当の味わいを知らずに終わってしまいます。気の毒なことです。」
 
気の毒なことです、と言われてもなあ。

「あなたは高校の教師だそうですが、好きになった女生徒と出来てしまえば、それでよいのです。そうすると、はじめて人間の生とは何かということが見え、この世の本当の姿が見えるのです。」
 
そういう人もいるのかもしれない。
 
でも、違う人もいるだろう。

人間の、その段階における生や、この世の、その段階における本当の姿が、見える人もいれば、見えない人もいるだろう。人の中身はそれぞれだ、と私は思う。
 
しかしとにかく車谷は、フツーの人の良識を、軽く飛び越えてしまう。
 
人の不幸を望んでしまう、という主婦に対しては、「あなたには人生の不幸を乗り越える力がありません。愚痴死が待っているだけです。それは私には明瞭に見えています。つまり、あなたには一切の救いがないのです。」
 
こういうの、人生相談になるんだろうか。

「あなたには一切の救いがないのです」、それですっきりして、明るく前を向いて、歩いていくことができるようになりました、というふうになるのだろうか。
 
まあ、読んでいる読者は、笑うほかないが。
 
義父母の自慢話の繰り返しには、本当にウンザリする、という主婦に向かっては、こう答える。

「自慢話ばかりしている人は、それ以外には生き甲斐のない人です。精神性の低い、脳みその皮が薄い人です。これは生まれつきの性質なので、死んで、寡黙な人に生まれ変わる以外に、救う途はありません。そう生まれ変われるとは思いませんが。」
 
ここでは、まず義父母に引導を渡す。
 
そうして、「もしあなたが義父母の自慢話に耐えられないのなら、耐えられません、とはっきり言えばいいのです。」
 
こういうところが車谷長吉だねえ。義父母なんだから、柔らかくオブラートに包んで、というようなことは、全然ない。
 
最後の一文は、「人間世界には、楽な道はありません。」
 
これはむしろ、車谷が苦闘の道を選んでいってるんじゃないか、と思うんだけど。
posted by 中嶋 廣 at 12:06Comment(0)日記

悲惨な人生相談――『人生の救いー車谷長吉の人生相談ー』(1)

世の中は新型コロナウイルス、一色である。
 
しかしそれも、政治家はすべてアサッテの方向ばかり向いていて、どうしようもないので、テレビは極力見ない。
 
そもそも2ヵ月半ほど前、検査で陽性の人を、徹底的に炙り出しておけば、それですんだはず。

そうはいっても陽性の、ある数は出てくるので、医者は大変だろうけれど、しかし医者も政治家も、こぞってお手上げということはなかったはずだ。それは北海道を見ればわかる。
 
どうしてもオリンピックをやりたい、というのがあって、五輪が延期になる前は、ひたすら「大本営発表」で、陽性の数を過少に報告してきたわけだが、五輪が延期になった後も、そのままずっと過少に出るので、政府はやりようがない。
 
さすがに小池都知事は、エライことだというので、次々と自粛の手は打ったが、そもそも全貌が分からないので、どうしようもない。
 
とにかくコロナにかかっていそうな人は、全員検査するほかはないが、しかし、この2ヵ月半、野放しにしておいたんだから、それは悲惨なことになる。
 
それでも、いったん悲惨になる事態を通り抜けなければ、その先には行けない。じつに憂鬱なことだ。
 
こういうときは、『人生の救いー車谷長吉の人生相談ー』を読むに限る。

何が「読むに限る」のかは、よく分からないが、しかしとにかく、こんな悲惨な人生相談はない。
 
大学四年生が、金融危機でろくな就職口がない、大学を出るときに運不運があるのは、仕方のないことでしょうか、という質問が来る。
 
車谷は、まず自分の遺伝性蓄膿症を挙げておいて、運不運があるのは、人間世界が始まったときからだという。

「不運な人は、不運なりに生きていけばよいのです。私はそう覚悟して、不運を生きてきました。」
 
そういう人生には、真実があるという。「この世の苦しみを知ったところから真(まこと)の人生は始まるのです。」
 
なるほど、苦しみを知るところからしか、人生の手ごたえは生まれないんだな。
 
そして最後の一段。

「私は己れの幸運の上にふんぞり返って生きている人を、たくさん知っています。そういう人を羨ましいと思ったことは一度もありません。己れの不運を知ることは、ありがたいことです。」
 
端的に言って、逆転の発想である。大学を出るとき、金融恐慌にぶつかってしまった。その学生に対し、大丈夫、私はもっと不運を生きているという。
 
その不運を生きること以外に、人生を味わい尽くす方法はないのである。
 
いやもう、お見事というしかないですね。
 
相談した学生も、ただ苦笑するほかなかったんじゃないだろうか。
posted by 中嶋 廣 at 10:54Comment(0)日記

高度な文明批評――『中高年ひきこもり』(5)

結局のところ斎藤環は、どういうふうになれば、ひきこもりは解決がつく、と考えているのだろうか。
 
それについては、驚くべき意見を出す。

「むしろ孤立する自由、ひきこもる自由が確保されたとき、人は初めて孤立やひきこもりをやめる自分だけの動機を獲得します。治療や支援に関わる人は、この逆説を踏まえておく必要があると思います。」
 
これは、あっと驚く逆説である。

「『働かなくても大丈夫』と安心できて初めて、ひきこもり当事者は安定した就労動機を〝 発見〟するからです。」
 
これは鮮やかな、逆転の発想である。でもこれを、みんなが納得するのは、難しそうだな。
 
とくにひきこもりの人の家族が、心から納得するのは、きわめて難しいと思う。
 
しかしこれは、ひきこもりを解決しようとする、要ともいえるものだ。

「家族の基本的な心構えとしてもっとも重要なことは何か。それは、『本人が安心してひきこもれる関係づくりをすること』です。」
 
これは、人間の作り上げた文明に対する批評として、きわめて優れたものだ。
 
勉強して良い大学に入らなければだめだ、良い会社に入らなければだめだ、良い会社に入ったら、良い業績を上げなければだめだ――ひきこもりの人は、結果としてこの考え方を、全身で拒否しているのだ。
 
こういう人にとっては、まず何よりも、家にいて「安心」ということが大事になる。

「食べるに困らず、居場所(個室)をおびやかされず、むやみに責められたり批判されたりしない。そのように家族から受容され安心できる環境があって初めて、承認欲求、すなわち社会参加への意欲が生まれてきます。」
 
そういうことなのである。つまりこれが、「安心してひきこもれる関係」が必要になる、ということなのだ。
 
ここでもう一度、斎藤環が言っていた、ひきこもりの人は「たまたま困難な状況にあるまともな人」だということを、思い出す必要がある。ひきこもりの人は、安心してひきこもれるようにすることが、ひどく調子の悪い時期の、いちばんの休息なのだ。
 
ここにはまた、たとえば家庭内暴力をどういうふうに扱うか、といった問題もある。いずれ家庭内暴力の解決は、ひきこもりの解決よりも、はるかに容易なことであるという。これはぜひ、お読みいただきたい。
 
最後に斎藤環は、文明批評としての「ひきこもり論」を述べる。

「『ひきこもりのいない明るい社会』はあり得ません。あり得ない以上に、意味がありません。苦しければ休養し、他人に助けを求めることができる緩い社会を志向するなら、むしろ私たちは『ひきこもることがふつうである社会』を目指すべきです。」
 
私たちは例えば、生産性の有無で、人間の価値を判断するというようなことは、もうやめるべきではないのか、というのだ。

「再び根拠なく断言しますが、もしひきこもることが一〇〇%容認される社会が実現したら、長期間ひきこもってしまう人は激減するでしょう。予防という発想を捨てることが、最大の予防策になる。三〇年余りの実践を通じて、私はいま、そのように確信しています。」
 
僕はひきこもりについて、まったく誤解していた。いまは斎藤環の逆説に、深く納得している。

(『中高年ひきこもり』斎藤環、幻冬舎新書、2020年1月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 14:22Comment(0)日記

高度な文明批評――『中高年ひきこもり』(4)

ひきこもりの原因として重要なのは、学校や職場など、家庭以外の人間関係である、と斎藤環は言う。

これは当たり前すぎて、いまさら頷くのもおかしいようだが、しかしここは踏ん張って、眼を開けて見据えておく必要がある。
 
ひきこもりの入り口である不登校については、その二大要因が明らかになっている。

「『友人関係』と『教師との関係』です。前者が『いじめ』を含むことは言うまでもないでしょう。後者も、単に『関係がうまくいかない』という話ではありません。その多くは、教師によるパワハラやセクハラなどの『ハラスメント』です。」
 
学校の教室は、教師を王様とする、閉じられた密室である。教師と生徒の双方向のやりとりも、小中学生では、まだ無理だ。これは本当に難しい。
 
いじめについても、それがトラウマになり、その後の社会生活や健康にも、重大な影響を及ぼす、ということが分かっている。

「この調査は、イギリスで七歳から――歳までのあいだにいじめを体験した約八〇〇〇人に対し追跡調査を行ったもので、いじめ被害を受けなかった群れにくらべて、うつ病、自殺などのリスクが二倍近くになっていました。また、社交関係の欠如や経済的な問題など、いじめを受けたあと、四〇年を経た時点での生活満足度・生活水準の低さにいじめ被害が関連していることも明らかになっています。」
 
いじめの後遺症で多いのは、対人恐怖である。これが、ひきこもりを起こす典型であることは、間違いない。
 
斎藤環は、いじめについて提言している。

「加害者と被害者を同等に扱っていては、和解したかのように見えても問題は絶対に解決しません。加害者にきちんとした罰を与えることで、被害者もある程度納得する」のである。
 
そうは言っても、これは難しい。まれに教師が、人間的に優れていても、なお難しい。
 
しかしともかく、学校の在り方を見直すところからしか、スタートは切れないのだろう。
 
ひきこもりの状態から抜け出すには、家族以外の第三者の関わりが必須である、と斎藤環は言う。
 
ひきこもりの人を、社会復帰させようと、家族は叱咤激励するけれど、ひきこもりの人にとってはプレッシャーやストレスになるだけで、さらにひきこもりの状態が深まることになる。
 
すると家族は、ますます不安になって、より強い言葉でプレッシャーをかける。それに対して、ひきこもりの子は、ますます接点をもてなくなる。
 
ひきこもりの子がいる家庭では、そんな悪循環が深みにはまって、延々繰り返されてしまう。
 
それを立ち切るのは、第三者の介入である。

「本人が『自力で何とかなる』という考えを捨て、第三者の力を借りて社会参加に向かおうと自発的に思ってくれれば、その時点でひきこもり問題はほぼ解決したといっても過言ではないでしょう。」
 
へーえ、そうなんだ。

「逆に言えば、そこにたどり着くまでが簡単ではないということ。それぐらい『自力で何とかできる』という本人の思い込みは強いのです。せめて近くにいる家族は、それがほぼあり得ないことを理解しておかなければいけないでしょう。」
 
これも難しい。第三者の介入が、必要だとわかっている家族は、ひきこもりの人のいる家庭で、何割くらいいるのだろうか。
 
そういう家族がいてくれれば、そもそもひきこもりには、ならなかったんじゃないだろうか、とついつい考えてしまう。
posted by 中嶋 廣 at 11:59Comment(0)日記

高度な文明批評――『中高年ひきこもり』(3)

これに関連して、「世間」と「社会」という問題がある。これは興味深い。
 
ひきこもりの人たちは、近所への外出はできないのに、家族と海外旅行に行くのは、平気という人もいる。

「彼らは『自宅の外』の世界そのものが怖いわけではなく、外にある『世間』が怖いからです。たとえば近隣住民の視線は怖いけれど、日本人のいない海外にはそういう『世間』がないので怖くない。」
 
そういうことは、あるかもなあ。大きく言えば、何か島国の息苦しさが、伝わってくるようだ。

「東日本大震災のときには、ひきこもりの人たちが避難所で活躍したという報告がいくつもありました。〔中略〕おそらく、それまで自分の周囲を取り巻いていた『世間』がいったん壊れたからでしょう。」
 
そういうことなんだ。

でも、これは結局、避難した人の中で、コミュニティができあがっていくにしたがって、ひきこもりの人たちは、避難所の一角から出てこなくなったそうだ。
 
そこで演じられていた葛藤、内面のドラマを思うと、なにか切なくなる。
 
日本以外でひきこもりの多いのは、韓国とイタリアである。この3か国に多いのは、成人した子が、親と同居していることだという。いずれの国も、30歳までの若者の、親との同居率は70パーセントを超えるという。
 
確かにひきこもりという現象は、親がいなければ成り立つはずがない。
 
それならイギリスやアメリカの、親子が別れて暮らす、徹底した個人主義がいいかというと、これも実は問題がある。
 
ひきこもりは起こらない代わりに、親元で暮らせないから、ホームレスになる可能性が高いという。そこでは若いホームレスが多くなるのだ。
 
僕は、ひきこもりについては、家から追い出しゃいいじゃないか、いろいろな問題はあるにせよ、根本はそれで解決じゃないか、と思ってきた。
 
でも、そうではないのだ。

「社会参加ができない若者はどの国にもたくさんいます。大きな視点から見れば、これは『社会的排除』であり『社会的孤立』です。彼らの生活形態は、つまるところ、ひきこもりかホームレスの二択しかないのです。」
 
これは厳しい意見だ。社会参加ができないのをどうするか。

「日本の親が子との同居をやめて無理やり外に追い出せば、ひきこもりはなくなるでしょう。しかしその代わり、社会参加できない二〇〇万人以上もの人たちがホームレスになってしまうおそれがあります。『家から叩き出せ』と煽るのは簡単ですが、根本の問題は解決しません。やはり政策レベルでは、彼らの社会参加が容易になるよう支援しなければならないのです。」
 
では、ひきこもりは、なぜ起きるのだろうか。若い人の社会参加が、難しくなるような原因とは、いったい何だろうか。
posted by 中嶋 廣 at 11:42Comment(0)日記

高度な文明批評――『中高年ひきこもり』(2)

斎藤環によれば、ひきこもりの定義は、次の二つである。

(一)六カ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続すること。

(二)ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいこと。
 
そうではあるけれど、大事なことは、ひきこもりは(一)のような、「状態」を意味する、ニュートラルな言葉だということだ。

「たとえば『不登校』にしても『ホームレス』にしても、病名ではないけれどなんらかの支援が時に必要となる『状態』であり、それらと同様に考えていただければと思います。」
 
つまりキュア(治療)は必要ないけれど、ケア(介護)は必要としているということ。これが斎藤の、基本的な姿勢だ。
 
そして「中高年ひきこもり」については、ひとつの典型的な例を挙げる。
 
2018年1月に札幌市内のアパートで、82歳の母親と、52歳の娘の遺体が発見される。

これはまず母親が死に、長年ひきこもりだった娘は、その後、誰にも気づかれずに、衰弱死したと見られる。これが典型的な「8050問題」である。
 
これを放置しておくと、「やがて孤独死が大量発生する時代が来るでしょう。また、みんなが生活保護を受けて生計を立てられたとしても、こんどはそれが社会保障制度を破綻させかねません。」
 
こういうのを読むと、キュアは必要ないとはいえ、そうとう手厚いケアが、必要とされていると思う。
 
斎藤環によればそのケアは、ひきこもっている人と家族の間に、かならず第三者を入れること、そして、ひきこもっている本人は、いわゆる「モンスター」ではなくて、「困難な状況にあるまともな人」に過ぎないということである。
 
この「困難な状況にあるまともな人」こそ、ひきこもりの本質である、ということを、全編を通して、説得的に描こうというのが、斎藤環の狙いである。

「少なくとも周囲の人には、彼らを病気や障害のある人という色眼鏡で見ないようにしてほしいのです。最も望ましいのは、〔中略〕彼らを『たまたま困難な状況にあるまともな人』として見ることだと思います。そうした姿勢で向き合い続けることで、彼らの傷ついた自己愛のねじれが、少しずつ解きほぐされていくことが可能になるでしょう。」
 
それは、ひきこもりの人たちだけではなく、それに向き合う僕たちにも、ある変革をもたらしてくるのだ。
posted by 中嶋 廣 at 14:05Comment(0)日記

高度な文明批評――『中高年ひきこもり』(1)

斎藤環のこの本は、Kさんにもらった。

Kさんは辣腕の編集者で、斎藤環が世に出るきっかけとなった、『社会的ひきこもり 終わらない思春期』を企画・編集した人だ。斎藤環はこの本によって、「ひきこもり問題」の第一人者となったのだ。
 
でも僕は、ひきこもりに関しては、ほとんど興味がなかった。

「賢治の学校」の故・鳥山敏子さんとは気があって、ひきこもりについても、ずいぶんいろんな話をした。

鳥山さんと喋っている間は、なるほど大きな問題だと思ったが、しかしそれは、その時かぎりのことだった。鳥山先生は、ひきこもりの子どもたちこそ、人間らしい明日を築く希望だとおっしゃったのだが……。
 
だいたい編集者時代の僕はよく喋り、どこにでも出かけていくお調子者だった。もちろん職業に合わせて、そういうふうに自分を作っていたのだ。そういう人間からすると、ひきこもりは対極にある存在だ。

Kさんは、僕のそういうところもわかっていて、この本を送ってくれたのだから、まずは心して読むことにする。
 
まず初めに、2019年に起こった、二つの事件が取り上げられる。
 
一つは、川崎市のバス停で、51歳の男が、登校中の小学生ら20人に、刃物で襲いかかり、2人を殺害した事件。これは、誰か特定の人物を狙ったものではなく、通り魔によるものだった。
 
二つ目は、その4日後に練馬区で、元農水省の事務次官が、長男を刺殺した事件である。父親は76歳、子どもは44歳で無職だった。
 
これは、一方は加害者、もう一方は被害者という違いはあるが、いずれも「中高年ひきこもり」が、引き起こした事件だった。
 
ちなみに内閣府の調査によれば、40歳から64歳までの、ひきこもり状態にある人は、全国で61万3千人の推計値が出ている。
 
しかし斎藤環は、この数字は、実態よりも少なめに出る傾向があるという。

「私の推定では少なくともその二倍はいます。現時点で日本全国でひきこもり状態にある人はおそらく二〇〇万人以上にのぼり、その半数が中高年でしょう。」
 
これは怖ぞけをふるう数字だ。人知れず悶々とした人が、他者と切れた状態のまま、200万人以上いるのだ。
 
ところが斎藤は、まったく逆のことを言う。

「推計二〇〇万人以上の集団であるにもかかわらず、これだけ長期間にわたってほぼ大きな事件がなかったことは、ひきこもりが『犯罪者予備軍』どころか、犯罪とはほぼ無縁の集団であることを物語っています。」
 
これは同意するにせよ、しないにせよ、鮮やかな逆転ではないか。
posted by 中嶋 廣 at 18:30Comment(0)日記