初めて読む内田樹――『私家版・ユダヤ文化論』(3)

ただ、そこから先へ進むとどうだろうか。

「『ユダヤ人』というシニフィアンを発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである。」
 
むちゃくちゃ、という気がしないでもない。

「シニフィエ」とは、ソシュール言語学における「意味されるもの」「表わされるもの」。内田樹は仏文の出だから、そういう少しキザッたらしい言葉遣いになる。
 
それにしても、かなり大胆な仮説ではある。

「無謀な着想であることはよく分っているが、多少は無謀なことをしないと、あえて『私家版』を称してユダヤ文化を論じる甲斐がない。」
 
完全に居直ってますな。面白い。
 
ただここから先は、あまり面白くない。

「『ユダヤ人』という概念で人間を分節する習慣のない世界にはユダヤ人は存在しない」というのだから、私の世界には、ユダヤ人は存在しない。そういうところで、これ以上ユダヤ人問題を論じてみても、虚しいではないか。
 
たとえば19世紀末に、ドリュモンの『ユダヤ的フランス』が、爆発的に売れた。その中身はというと、

「ユダヤ人はペストに罹らない、カトリック信者の七倍の生殖能力を有する、タルムードには『異教徒を殺し、その財産を奪え』という教えが書いてある、ユダヤ人は体臭がきつい、自分の子供を売り飛ばす、売春と高利貸しが天職であるとか、悪だくみばかりめぐらせているので脳の解剖学的組成が変化しているとか……そういう人種差別的な妄言である。」

「ユダヤ人が存在しない」、私のまわりの世界なら、こういう人種差別的な妄言に、これ以上つきあう必要はないだろう。
 
著者は「新書版のためのあとがき」で、最後にこんなことを言っている。

「私のユダヤ文化論の基本的立場は『ユダヤ人問題について正しく語れるような言語を非ユダヤ人は持っていない』というものである。」
 
これは、最後にきて、全部をひっくり返すようなものだが、一方では、非常に正直に、己れのうちを語ってもいるのだ。
 
ではなぜ、一般の日本人に向けて、ユダヤ人問題を語れるような言語を持っていないのに、内田樹はこのような本を書いたのだろうか。
 
それは、「ユダヤ人読者が読んだときに、『なるほど、ユダヤ人のことを「こんなふうに」見ている日本人もいるのか……』という『データ』として有用であることを目指して書いている」からだ。
 
ではなぜ、著者は、ユダヤ人の読者を必要とするのだろう。それはこの「私家版」を、そもそも一人の人に宛てて書いているからだ。

「……レヴィナス老師の骨格をなしているユダヤ的な思考をどれくらい理解できるようになったのか、私には判断できない。でも、この一冊は私が老師の墓前に捧げる何度目かの『手向けの花』である。先生は私の『ユダヤ文化論』を読んで、どう思われるだろう。」
 
そういうことなのである。

「『三十年やってきて、これですか……やれやれ。もう少し書きようがあるんじゃないかね』とおっしゃるだろうか。それとも『ふうん。だいぶ、わかってきたじゃないか』とおっしゃるだろうか。」
 
昔、老師から頂いた一通の手紙を、額に収めて掛けてあるその書斎で、ただ一人の、今はもういない人に宛てて、この『私家版・ユダヤ文化論』は書かれたのである。

(『私家版・ユダヤ文化論』内田樹、文春新書、2006年7月20日初刷)
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初めて読む内田樹――『私家版・ユダヤ文化論』(2)

まず最初に、ユダヤ人というのは、国民の名ではない。

「ユダヤ人は世界中に散らばっていて、イスラエルから日本まで世界各地に棲みついている。もちろん場所によって、国籍も、ライフスタイルも、用いている言語も違う。」
 
言われてみればその通りだが、それでも実情を無視して、架空の「ユダヤ人」なるものを作り出そうとしがちだ。
 
第二に、ユダヤ人は人種ではない。
 
うーん、これは虚を突かれる。

「欧米に広く分布しているユダヤ人図像には二種類がある。一つは浅黒い肌に巻き毛の黒髪、鉤鼻ででっぷり太った欲深そうな中年男性の像。もう一つは痩せて鉤鼻で残忍そうな老人の像である。」
 
ベニスの商人、シャイロックは、偏見を象徴した、架空の人物像なのだ。

「ユダヤ人を他の民族集団と差異化できる有意な生物学的特徴は存在しない。」
 
鉤鼻で背の高い、知的な風貌のユダヤ人は、まぼろしなのだ。
 
三番目に、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。ユダヤ人がユダヤ教徒であったのは、近代よりも前のこと、現代では宗教共同体ではない。
 
以上の三点から、その先に奇妙なことが分かる。

「そのようなたしかな実体的基礎を持たないにもかかわらず、ユダヤ人は二千年にわたって、それを排除しようとする強烈な淘汰圧にさらされながら、生き延びてきた。この事実から私たちが漠然と推理できる結論は、危ういものだけれど、一つしかない。
 それは、ユダヤ人は『ユダヤ人を否定しようとするもの』に媒介されて存在し続けてきたということである。」
 
なるほど、すばらしい。そういうことか。

「言い換えれば、私たちがユダヤ人と名づけるものは、『端的に私ならざるもの』に冠された名だということである。」
 
ユダヤ人は、ユダヤ人の方に実体があるのではなく、それをことばにしている「私たち」の方に、ユダヤ人なるものが棲みついているのだ。

「私たちの語彙には、『それ』を名づけることばがなく、それゆえ私たちが『それ』について語ることばの一つ一つが私たちにとっての『他者』の輪郭をおぼつかない手つきで描き出すことになる。私たちはユダヤ人について語るときに必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまうのである。」
 
最後の一行は、あまりにカッコよく決めすぎたので、ちょっと上滑りしているけれども、しかしこういうふうに言われると、思わず頷いてしまう(あるいは、もののわかった西洋人なら、まったくその通りだわい、と深く同意するのかもしれない)。

「『ユダヤ人』という概念で人間を分節する習慣のない世界にはユダヤ人は存在しない。ユダヤ人が存在するのは『ユダヤ人』という名詞が繰り返し同じ何かを指すと信じている人間がいる世界の中だけである。
 私たちはユダヤ人の定義としてこの同語反復以外のものを有していない。」
 
すさまじく鮮やかなものである。
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初めて読む内田樹――『私家版・ユダヤ文化論』(1)

内田樹は初めて読む。

この人は、ずいぶんいろんな本を書いているが、タイトルを見て、なんとなく虫が好かなかった。たとえば『「おじさん」的思考』、『寝ながら学べる構造主義』などなど。
 
ところが養老孟司先生が、『身体巡礼』(僕の音読本)の中で、『私家版・ユダヤ文化論』をべた褒めしておられたのである。僕が内田樹を初めて読むには、一番いいのではないか。

「私が本書で論じたのは、『なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか』という問題である。そのことだけが論じられている。」
 
きっぱりとした言い方だ。いかにも養老先生が、好みそうな書き出しである。
 
ユダヤ人問題には、ややこしい「罠」がある。それを回避しながら、核心に迫っていくには、問題の設定を変えるほかない。

「『ユダヤ人迫害には理由がある』と思っている人間がいることには何らかの理由がある。その理由は何か、というふうに問いを書き換えることである。
『反ユダヤ主義には理由がある』ということと、『反ユダヤ主義には理由があると信じている人間がいることには理由がある』ということは似ているようだけれど、問題の設定されている次元が違う。」
 
なかなか鮮やかですな。
 
しかしそこから出発したとしても、著者の示す道筋を辿ることは、容易ではない。

「私がみなさんにご理解願いたいと思っているのは、『ユダヤ人』というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念であるということ、そして、この概念を理解するためには、私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除することが必要であるということ、この二点である。」
 
これは難しい。昔、『日本人とユダヤ人』という、イザヤ・ベンダサンこと山本七平のベストセラーがあったが、内田樹は、そういう対比は成り立たない、と言っているのだ。
 
後段の「私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除する」というのは、どういうことを言っているのか、僕には分からない。
 
しかし著者は、強くこういうふうに言うのだ。

「この論考を読み終えたあとに、みなさんがその二点について同意くださってさえいれば(結局「ユダヤ」というのが、何のことか解らなかった、ということになったとしても)、この論考を書く目的の半ば以上は達成せられたことになる。」
 
こういうのを最初にもってくるのは、良くないんじゃないか。ここからの議論は、厄介いですよ、とあらかじめ振っているのだが、そういうことを言う前に、これからの議論を嚙み砕く用意をすべきではないだろうか。
 
ということはさておき、では「ユダヤ人」とは、いったい何者であるのか?
 
著者はここで、アクロバティックに、問いを逆転させる。

「それは『ユダヤ人は何ではないのか』という消去法である。これが私が読者の間に立てることのできる、さしあたり唯一の『共通の基盤』である。」
 
そう来るか、というところだけれど、しかしこれは、中身を見ればかなり衝撃的だ。
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ただもう情けない――『出家への道ー苦の果てに出逢ったタイ仏教ー』

僕が中学1年のとき、笹倉明は、同じ学校の高校2年だった。姫路の私立淳心学院中・高等学校に通っていたころだ。
 
僕はもちろん、学校にいるときは、5年離れていることもあって、彼のことは全然知らなかった。
 
1988年に、『漂流裁判』でサントリーミステリー大賞を受賞して、その略歴に姫路の淳心学院とあって、びっくりした。
 
さっそく読んでみると、なかなか面白い。
 
89年には『遠い国からの殺人者』で直木賞も取った。それ以外にも『東京難民事件』『女たちの海峡』『推定有罪』など、かなり読んだ。
 
しばらく名前を見ないなと思っていたら、突然、笹倉明という名を捨てて、というかそれは俗名で、プラ・アキラ・アマローという名で出家していた。ただもう、吃驚である。
 
オビの文句は、「異国へと/落ちていった/直木賞作家は/ついに/俗世を捨てた。/なぜだった/のか?」。これは買わずにはいられません。
 
この本は、これでもかと言わんばかりの、みずからの愚行と、タイ仏教における、自分の克明な出家式が、交互に挟まれている。
 
タイ仏教の出家式には、ほとんど興味がないので、そこは斜めに読んで、笹倉明の、我が懺悔の章を、克明に読む。
 
結論からいうと、本人も言うとおり、ただもう実に情けない。

「諸々の弱点と失敗が招いた経済的窮地を、手早く生活がラクになる国への移住でもって切り抜けようとした、そのことがさらなる没落への道を敷くことになってしまいます。が、命だけは持ちこたえるという最低限の幸いはあったのだと、自分を慰めてもいたのです。」
 
最初に書いてある、自分の半生の総括が、すべてを物語っている。
 
金儲けにも失敗し、女でも失敗する著者は、一昔前の無頼派の文士そのものだ。場合によっては、自分を主人公にして、ケッサクが書けたかもしれない。

ところが驚くべきことに、著者は究極のところ、その数々の失敗を、戦後教育のせいにする。
 
まったく信じられない。自分の不始末を、自分ではなく、時代のせいにするとは、文士の風上にも置けない。というか、この人、文士にもっとも向いてない。
 
これをまとめることになった編集者も、成りゆきで関わったものの、本当に嫌だったろうなあ。
 
直接の関係はないのだが、こんな先輩ですみませんと、つい言いそうになってしまう。

(『出家への道ー苦の果てに出逢ったタイ仏教ー』
 プラ・アキラ・アマロー(笹倉明)、幻冬舎新書、2019年11月30日初刷)
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私もまた、さようならを言う――『本の雑誌 二〇二〇年四月号ー特集 さようなら、坪内祐三ー』(3)

この追悼文集は、何度でも、いつまでも、読むことができる。それはたぶん坪内さんが、誰を相手にしても、生(なま)の神経を曝して、付き合っていたからではないかと思う。
 
その中でも一篇、橋本倫史の「神経のふれかた」を挙げておく。ちなみに著者は、まったく知らない人である。
 
坪内さんには、気難しい点があった。

「……誰かの訃報に言及することも多かったが、坪内さんより年配の独特な気配をまとった人がこの世を去っていくことに対し、坪内さんはどこか寂しそうだった。そのことと、坪内さんの怒りは、関係しているような気がしていた。」
 
それは当たっていたんじゃないだろうか。

「どうして僕はこんなことを書き綴っているのだろう。それはきっと、これを書いておかなければ、坪内さんの振る舞いが『酒癖が悪かった』と片づけられてしまうからだ。それはあまりにも残念だ。」
 
そういうことを述べたうえで、核心に触れる。

「その神経のふれかたに、坪内さんらしさが詰まっているような気がする。坪内さんは、神経をふるわせながら、最後まで街を歩いていた。」
 
だから神保町や新宿で、振り向けば今も、坪内さんが歩いているような気がする。
 
私は坪内さんとは、会えば必ず挨拶をした。もっぱら夜の酒場だったから、たいていはお互い酔っていて、だから話し込んだことは、一、二度しかない。
 
一度は「風花」のカウンターだった。
 
どんなことを話していたか、あらかたは忘れたが、一点だけ覚えていることがある。

そのころ文庫には、新潮文庫でも角川文庫でも、独特の匂いがあって、それは見なくても、棚の前に行くと、分かった。
 
私がそういうふうに言うと、坪内さんは、そうなんだよ、匂いでわかるんだよ、と言った。
 
そういう話を、人に向かってしたのは、初めてで、それ以後もない。
 
中学生のとき、兵庫の加古川駅前の下司書店で、新潮文庫の棚に向かうと、心が何とはなしに落ち着く、という話をしたのだ。
 
坪内さんは朗らかに笑いながら、そうだよなあという具合に、大きく相槌を打った。

(『本の雑誌 二〇二〇年四月号ー特集 さようなら、坪内祐三ー』
 本の雑誌社、2020年4月1日発行)
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私もまた、さようならを言う――『本の雑誌 二〇二〇年四月号ー特集 さようなら、坪内祐三ー』(2)

追悼を書いているのは、重松清、福田和也、中野翠、嵐山光三郎、南伸坊、目黒孝二、亀和田武、泉麻人、四方田犬彦、川本三郎といった方々から、身近にいたライターやイラストレイター、飲み屋の仲間、各社の編集者まで、実に幅広く集めている。
 
その追悼も、個人の文章だけではなく、それぞれ複数の対談あり、鼎談ありで、すぐに引き込まれる。
 
そんな中で、坪内さんと距離を置いて書いたものがあって、おっと思った。
 
一つは四方田犬彦の文章である。

「わたしは、こいつはちょっといいなと思った。ひょっとしたら今の世の斎藤緑雨になれるかもしれない。そう期待してみた。」
 
でも坪内さんは、そうはなれなかった、という。

「わたしは彼が同業者を何人か集めて、タクシー会社の宣伝のような雑誌を拵えたとき、これはダメだと思った。群れなどなしていては、いい批評など書けるわけがないからだ。」
 
これは『en-taxi』(エンタクシー)のことだな。2003年に創刊され、福田和也、坪内祐三、柳美里、リリー・フランキーが共同で責任編集していた。私は雑誌を読まないのでよくわからないが、けっこう評判になっていたと思う。
 
それにある時期、協同で同人誌をやるというようなことは、小林秀雄のみならず、多くの場合に運動としてあったものだ。

「ちょっと可哀想なことを書くようだが、新宿の狭い『文壇』とやらに入り浸って、英語の本を読む習慣を忘れてしまったのは、彼の凋落の始まりだったような気がしている。」
 
果たして坪内祐三が、英語の本を読む習慣を無くしていたかどうかは分からない。また「新宿の狭い『文壇』とやらに入り浸って」というのは、ちょっと違うと思う。
 
坪内さんは中心にいる人で、あけっぴろげで、相手を区別はしても、差別はしなかった。むしろ「文壇」という言葉を、半分は尊重し、半分はからかって、使っていたんじゃないかと思う。
 
しかし四方田犬彦の、批判的な文章があることは、いいと思う。場合によっては、そういう目で坪内さんを見ている人も、いたかもしれない。

私は、それは間違っていると思うけど、でも、そういう見方をする人がいたって、もちろんかまわない。
 
もう一つは、瀬尾佳菜子さんである。佳菜子さんはバー「猫目」のマダムだった人である。
 
私は6年前に脳出血で倒れて以来、酒を一滴も飲んだことがないから、新宿のバーの様子など、皆目分からなかった。
 
佳菜子さんの文章を読むと、ある日坪内さんは、「猫目」にはもう来ないと言って、実際にその通りにしたという。

「坪内さんが『もう俺はこんな新宿にはこないかもしれない』とおもむろに私に言った。
 これまでもこんなことは何度もあったはずなのに、私はその日『そうですか、それはもう仕方ないですね』と坪内さんの目を見返して言ってしまった。」
 
ある時期、「猫目」は、坪内さんにとって、いってみれば夜の仕事の中心であった。あまりにも中心になり過ぎていた。
 
それはたぶん、佳菜子さんにも分かっていただろう。
 
だからその日、お互いに、さようならをしたのだ。こういう男と女の別れ方もある。
posted by 中嶋 廣 at 09:41Comment(0)日記

私もまた、さようならを言う――『本の雑誌 二〇二〇年四月号ー特集 さようなら、坪内祐三ー』(1)

坪内祐三は今年、1月13日に心臓麻痺で亡くなった。新聞にはそういうふうに出ていた。

『本の雑誌』は、坪内さんが一番肩入れしていた雑誌なので、丁重におくるだろう。そう思ったので、久しぶりに買ってきて(30年ぶりだ)、特集の坪内さんに関するところは、舐めるように読んだ。
 
巻頭のカラー8ページから、もう駄目である。「いつまでも/読書中/坪内祐三ー本棚が見たい! 特別編ー」の最終ページにネームがある。

「自宅(1~4頁)と仕事場(5~8頁)にそれぞれ万単位の本を所蔵。自宅から徒歩5分の仕事場に毎日出勤し、大久保の小料理店「くろがね」から譲り受けた井伏鱒二ゆかりのちゃぶ台で原稿を書き続けた」。
 
そうか、井伏鱒二のちゃぶ台を、くろがね経由でもらい受けたのか。くろがねも、店を閉めてから、もうずいぶんになる。それにしても、凄い冊数の本だなあ。
 
などと取りとめのないことを、ぼんやり考えていると、そこからもう、坪内さんの世界に入り込んでいる。
 
夫人の佐久間文子さんが、「ツボちゃんが、死んでしまった。/自分で書きながらまったく現実味がない」という書き出しで、追悼を書いている。

「ツボちゃんの記憶力も特殊能力と思えるほどで、一緒に見た映画や舞台の、隅に映っていた〇〇が、とかいう細部の話を延々されて、自分ははたして同じものを見ていたんだろうか、と不安になることがあった。一方で、一度間違って覚えた記憶はなかなか上書きされなかったりもした。一日を無理やりリセットするために、お酒の力を借りる必要があったのかもしれない。」

「一度間違って覚えた記憶はなかなか上書きされな」いとは、近くで暮らした人ならではの言葉だ。

「私も激しい性格なので、喧嘩はしょっちゅうだった。」
 
佐久間さんが、朝日新聞で読書面を担当しておられるころ、そういえば電話で、烈火のごとく怒らせたことがあったな、と懐かしく思い出す。
 
坪内さんは、リチャード・イェーツの短編集を訳したがっていた。

「『タイトルは決めてあるんだ。「さびしさの11のかたち」』と言うので、めちゃくちゃ売れそうじゃない? と盛り上がった。自分の中にもさびしさをいくつも抱えこんでいた。」
 
つれあいに、こういうふうに追悼されるというのは、うまく言えないけれど、どれほどのものか。胸がいっぱいになる。
posted by 中嶋 廣 at 17:24Comment(0)日記

帯電する文体――『掃除婦のための手引き書ールシア・ベルリン作品集ー』(3)

「どうにもならない」は、自分のアルコール中毒を描いたものだ。
 
ある朝の、息詰まるような、わずかな時間を、実況中継する。

「深くて暗い魂の夜の底、酒屋もバーも閉まっている。彼女はマットレスの下に手を入れた。ウォッカの一パイント瓶は空だった。ベッドから出て、立ち上がる。体がひどく震えて、床にへたりこんだ。過呼吸が始まった。このまま酒を飲まなければ、譫妄が始まるか、でなければ心臓発作だ。」
 
書き出しは見事で、たちまち引き込まれる。私はアル中ではないけれど、心拍数が一気に上がってドキドキする。

「机の上の小銭を入れてある瓶に全部で一ドル三十セントあった。クローゼットの中のバッグとコートのポケット、それにキッチンの引き出しを漁ってやっと四ドルかき集めた。あの糞ったれインド人、この時間はウォッカ半パイントをそんな値段で売りつけるのだ。ここいらのアル中はみんなあそこにつぎ込んでいた。ただし買うのは甘いワインだ、そのほうが早く効く。」
 
アル中には甘いワインが効く、というのを初めて知った(ま、どうでもいいけど)。
 
その後、子どもたちが起きてきて、早く病院へ行ってアル中を治してきてと言われ、それから学校へ行く。
 
あとに残された「彼女」は、「窓のところに立って、バス停まで歩いていく二人を見た。バスが来て二人を乗せ、テレグラフ通りを走り去るまで待った。それから家を出て角の酒屋に向かった。もう今なら空いている。」
 
これも幕切れは鮮やかだ。

でも、敢えて言えば、それだけ。アル中の彼女の、朝の一コマ。読んでいるときは、ずっとドキドキしていたけれど、朝の一コマは一コマ、それ以外に付け加えることはない。

これは、小説といっていえないことはないけれど、どちらかといえば散文詩であろう(それにしては書き込み過ぎているが)。

別の一篇、「苦しみの殿堂」には、こういう一節もある。

「ママ、あなたはどこにいても、誰にでも、何にでも、醜さと悪を見いだした。
  …………
 今のわたしはまるであなただ。辛辣で、毒舌で。ゴミためみたいな町ね。あなたは人を嫌うのと同じ激しさで場所を嫌った。今までに住んだすべての鉱山町も、アメリカも、エルパソも、故郷も、チリも、ペルーも。」
 
川上未映子が、オビの推薦文に書いている。

「何でもないものが詩になる、/空前絶後の作家。」
 
そういう言い方もできよう。詩を読むのが好きなら、夢中になるかもしれない。
 
私は、平松洋子を連想した。
 
平松洋子の食べ物エッセイは、言葉ではなく、食べ物がそこにある。言葉と食べ物の間に、距離がないのだ。つまり、文体が「帯電」している。
 
うまく言えないのだけれど、ルシア・ベルリンと平松洋子は、姉妹といってはあんまりだが、親戚の伯母くらいには、近しい関係にある。
 
ルシア・ベルリンは短篇作家ではない、と決めてしまえば、次のもまた楽しみである。

(『掃除婦のための手引き書ールシア・ベルリン作品集ー』ルシア・ベルリン、
 岸本佐知子・訳、講談社、2019年7月8日初刷、11月1日第6刷)
posted by 中嶋 廣 at 16:50Comment(0)日記

帯電する文体――『掃除婦のための手引き書ールシア・ベルリン作品集ー』(2)

全体で300ページほど、そこに24本の短篇が入っている。どれもごく短い。

「ドクターH・A・モイニハン」は、腕のいい歯医者だった祖父の話。

祖父は完璧な入れ歯を作るのに、自分の歯を抜こうとして実験台になる。そのとき手伝いをするのが、「わたし」である。

「わたしはその口を開けて片方の端にペーパータオルを押しこみ、残りの奥歯三本を抜きにかかった。
 歯はぜんぶ抜けた。ペダルを踏んで椅子を下げようとして、まちがってレバーを押してしまい、祖父はぐるぐる回転しながら血をあたりの床にふりまいた。そのままにしておくと、椅子はきしみながらゆっくり停まった。」

「わたしは母に電話をかけに走った。コインがなかった。祖父のポケットから取ろうにも体が動かせなかった。祖父は失禁していて、おしっこがぽたぽた床に垂れていた。鼻の穴から血の泡が膨らんでははじけた。」
 
なかなか凄い描写だ。ただただ圧倒される。
 
でも二度目に読むと、文章はすごいけど、作品の広がりや奥行きがなくて、物足りないという気もする。
 
祖父と「わたし」の間に、「わたし」の母、つまり祖父の娘が入ってくる。その親子関係の、立ち位置が問題である。
 
最後はこんなふうである。

「〔祖父は〕さぞや痛かったにちがいない。
『父さん、いい仕事をしたわね』と母が言った。
『じゃあお祖父ちゃんのこと、もうきらいじゃない?』
『いいえ』と母は言った。『大っきらいよ』」
 
こういう幕切れは鮮やかで、いろんなニュアンスを含んで、面白いともいえるが、私は今では好きではない(こういう趣向は、文学部の学生を卒業するときに捨ててきた)。

「掃除婦のための手引き書」は全体の中では、工夫が効いていて、いかにも好短篇である。

「42番ーピードモント行き」などというのが、ゴチックで小見出しの役割を果たし、行く先別のバスがいくつかあって、それぞれ掃除婦のための、皮肉を効かしたマニュアルが記されている。
 
たとえばこんな具合だ。

「掃除婦が物を盗むのは本当だ。ただし雇い主が神経を尖らせているものは盗らない。余りもののおこぼれをもらう。小さな灰皿に入れてある小銭なんかに、わたしたちは手を出さない。」
 
そうして( )に入れて、バスの行く先別に、掃除婦たちへのアドバイスがある。

「42番ーピードモント行き」なら、こんなふうだ。

「(奥様がくれるものは、何でももらってありがとうございますと言うこと。バスに置いてくるか、道端に捨てるかすればいい。)」
 
こういう仕掛けがあって、さらにその奥に、別れた男のことがある。

「ターは絶対にバスに乗らなかった。乗ってる連中を見ると気が滅入ると言って。でもグレイハウンドバスの停車場は好きだった。〔中略〕いちばん通ったのはオークランドのサンバブロ通りだった。サンバブロ通りに似ているからお前が好きだよと、前にターに言われたことがある。」
 
最後の比喩は、胸ぐらに一撃を食らう。

それに対して、「わたし」はこう言う。

「ターはバークレーのゴミ捨て場に似ていた。あのゴミ捨て場に行くバスがあればいいのに。ニューメキシコが恋しくなると、二人でよくあそこに行った。殺風景で吹きっさらしで、カモメが砂漠のヨタカみたいに舞っている。どっちを向いても、上を見ても、空がある。ゴミのトラックがもうもうと土埃をあげてごとごと過ぎる。灰色の恐竜だ。」
 
比喩で返すこのあたりは、本当に素晴らしい。
 
しかし「わたし」は最後に、男と死に別れたのだ、ということが分かる。
 
そして最後の1行。

「わたしはやっと泣く。」
 
私はこういう、胸に迫りくる終わり方は、胸が一杯になる分、敢えて言えば、安っぽいと思うのだ。
posted by 中嶋 廣 at 10:55Comment(0)日記

帯電する文体――『掃除婦のための手引き書ールシア・ベルリン作品集ー』(1)

煙草くわえて、ちょっと斜めにすかしてる。表紙の写真は、リズ・テイラーに似ている。
 
めくると目次の後ろに、エキゾテイックな表情で下から見上げる、挑みかかるようなルシア・ベルリンの写真。これも女優の誰かに似ている。
 
昨年、外国文学のうちで最も売れた一つが、ルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』である。

手もとに何のデータを持っていなくても、そう言える。いや、昨年の7月に出て、4カ月で6刷になっていれば、誰でもそう言えるか。
 
この功績はまず、クラフト・エヴィング商會のお二人、吉田浩美さんと篤弘さんの、絶妙の装幀にある。いや、ほんとに上手いものだ。
 
これは新しい本ですよ、しかも新しい作家ですよ、ということを強烈にアピールしている。
 
それで中をめくり、カバー袖の文章を読むと、なんと彼女は、すでに2004年に亡くなっている。
 
すでに本文に入らないうちから、大きなドラマを経験する。
 
本文を読み終わると、リディア・ディヴィスの解説、「物語〔ストーリー〕こそがすべて」がくる、その一行目。

「ルシア・ベルリンの小説は帯電している。」
 
素晴らしい。死んだ人間のアンソロジーを出すなら、ここまで惚れ込まないと。

「むきだしの電線のように、触れるとビリッ、バチッとくる。読み手の頭もそれに反応し、魅了され、歓喜し、目覚め、シナプス全部で沸きたつ。これこそまさに読み手の至福だ――脳を使い、おのれの心臓の鼓動を感じる、この状態こそが。」
 
そこで、そういう状態になって読まねば、と思うじゃないですか。
 
だから私も2回読んだ。
 
ルシア・ベルリンは、普通の人生なら、何人分にも相当するような職業を経験し、たくさんの場所に住み、並みはずれて多くの経験をした。

「苦難の子供時代、幼少期の性的虐待、めくるめく情事、依存症の苦しみ、困難な病気と身体の不自由、きょうだいとの思いがけない絆、単調な仕事、厄介な同僚、口うるさい上司、友人の裏切り。それからもちろん自然界への畏れにも似た感動」。
 
ルシア・ベルリンはそういうことを書いた。
 
ほぼ女手一つで、4人の息子を育てるために、掃除婦や、看護師や、病院の事務員や、電話交換手や、大学の教師など、もろもろの職に就いた。

「息子の一人は、子どものころは九か月おきに引っ越ししていたと振り返る。」(リディア・ディヴィスの解説より)
 
こういう作家は、必然的に書くものが決まってくる。次は岸本佐知子の「訳者あとがき」から。

「ルシア・ベルリンの小説は、ほぼすべてが彼女の実人生に材をとっている。そしてその人生がじつに紆余曲折の多いカラフルなものだったために、切り取る場所によってまったくちがう形の断面になる多面体のように、見える景色は作品ごとに大きく変わる。」
 
こういう作家の短篇集だから、一回目に読んだときには、とにかく圧倒された。
 
しかし、二度目に読んだときには、何というか、私とテキストの間に微妙な隙間が生まれている。
posted by 中嶋 廣 at 11:55Comment(0)日記