深化する柳美里――『JR上野駅公園口』(3)

この小説は続けて二度読んだ。最初に読んだときは、場面場面が切り立っていて、よくわからなかった。6年前の脳出血の後遺症で、こういう断章仕立ては無理なのだろうか、と思った。
 
二度目に読んだときは、全体が起きてきて、2次元だったものが、3次元の立体物になるようだった。
 
たぶん三度目に読むときには、もっとくっきりと、細部の手触りがあるように迫ってくるだろう。
 
そのことを前提にして、福島に生まれてほとんど出稼ぎに暮らし、長男と女房に早くに死なれ、年老いてからはホームレスとして、死に場所を求めた男の生と、それと対比的に天皇陛下の生を比べるのは、あまりに観念的で、自分の心の隅にわずかな疑問、というほど確固たるものではないが、違和感に似たものが残った。
 
それでまた、終わりに近い部分を読み返す。

「自分は悪いことはしていない。ただの一度だって他人様に後ろ指を指されるようなことはしていない。ただ、慣れることができなかっただけだ。どんな仕事にだって慣れることができたが、人生にだけは慣れることができなかった。人生の苦しみにも、悲しみにも……喜びにも……」
 
そう思っている人間が直接、天皇を見るのだ。

「国立科学博物館の方から先導の白バイが見えて、腕時計を見ると、一時七分だった。
 白バイの後に黒塗りの車がつづいて、御料車が近付いてきた。紅地に金の十六弁の菊紋がある『天皇旗』をボンネットに付けたトヨタ・センチュリーロイヤルだった。ナンバープレートの部分にも金の菊紋が入っている。
 後部座席――、刑事の説明通り、運転席の後ろが天皇陛下で、助手席側が皇后陛下だった。
 〔中略〕
 時速十キロメートルで徐行していた車がゆっくりと歩くぐらいの速度になり、後部座席の窓が開いた。
 てのひらをこちらに向け、揺らすように振っているのは天皇陛下だった。」
 
男はいろんな思いで一杯になりそうで、しかし言葉は出てこずに、ただ手を振るだけだった。
 
最後は大地震による三陸沖の津波で、孫娘が死ぬ。そのあと小説は、男が自死することを暗示して終わる。
 
人生にだけは慣れることのなかった男の一生、それが天皇の生の対極にあって終わる。
 
これ以上はないという力の入った作品だが、それでもやっぱり、微かな違和感は残る。

(『JR上野駅公園口』柳美里
 河出文庫、2017年2月20日初刷、2021年1月15日第23刷)
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深化する柳美里――『JR上野駅公園口』(2)

断片を重ねることによって、戦後の歴史を浮かび上がらせ、そこから男の48年間の出稼ぎ、その後のホームレスの生活と、同じ時を過ごしてきた天皇陛下の生が、「上野恩賜公園」で一瞬交錯する。
 
それはこんな具合だ。

「〈下記のとおり特別清掃を実施しますので、テントと荷物を移動してください。
  日時 平成18年11月20日(月)雨天決行
     午前8時30分までに、現在地から移動すること。
    (午前8時30分から午後1時00分までの間は公園内での移動禁止)
     〔中略〕
                         上野恩賜公園管理初〉
 あの日は、ホームレスの間で「山狩り」と呼ばれる「特別清掃」が行われる日だった。天皇家の方々が博物館や美術館を観覧する前にコャを畳み、公園の外に出なければならなかった。」
 
それは冬の雨の日で、「生きていること自体がみじめに思えてくる、とりわけ辛い朝だった。」
 
断章を重ねるのも、緊張感があり、実に巧みで、こういうのをどうやったら伝えることができるだろう。
 
その断章は、男のことを中心に、上野公園を歩いている年寄りの繰り言から、東電の原子力発電所に至るまで、それらをモザイク状に組み入れて、読んでいて息苦しくなるほどだ。
 
上野公園でホームレスとして生きていく上で、男は他のホームレスを相手に一線を画していた。

「打ち明け話の類は一切したくなかった。
 ただ、酔いで悲しみの方向に押し流されないよう細心の注意を払っていた。
 捨てることのできない過去の思い出は、みんな箱にしまった。箱に封印をしたのは、時だった。時の封印の付いた箱は開けてはいけない。開けたら、たちまち過去に転落してしまう。」
 
情緒的なところばかりを引用するようだが、そういう場面が、この上ない効果を上げている。
 
もちろん行きずりの二人の女の、こんな会話もある。

「認知症じゃないって主張するためだけに電話かけてくるんだからね」
「認知症だったら電話してこられないからね」
「でももうね、見る影ないの。そのくせ、ミエコ、お茶いれろ!とか従業員みたいな扱いなのよ」
「人生いろんなこと考えちゃうわよね」
「ぼけるのは大変、周りがもう、ね」
 
上野の森美術館に「ルドゥーテの『バラ図譜』展」を観に出かけた二人は、そんな話をする。

これはすぐにも一篇が書けそうである。
 
しかし今回は、福島出身のホームレスの男の話である。

男は死に場所を探して、くたびれ果てたまま、この5年間、上野公園に住み着いているのだ。
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深化する柳美里――『JR上野駅公園口』(1)

あらためて小説の醍醐味を味わうべく、柳美里の『JR上野駅公園口』を読む。
 
この作品は「全米図書賞」の翻訳文学部門受賞作である。と言ってもどういうものか、よくは知らない。でも柳美里ならがっかりすることはあるまい。
 
1933年、平成天皇と同じ日に生まれた、福島・相馬出身の一人の男の物語。

皇太子の結婚、高度成長期、東日本大地震と、紆余曲折はあるけれど、男はずっと出稼ぎで、一家の暮らしを支えてきた。
 
美智子妃が長男を生んだ昭和35年2月23日に、男は長男を得た。

しかし出稼ぎ者に団欒はない。
 
印象的な場面がある。

珍しく家に帰った男は、懐かない長男と下の長女を連れて、出かける。途中、一回いくらかで、ヘリコプターに乗せる催しに遭遇する。
 
男はしかし、それに見合う金がなかった。男の子はそれが悔しくてしゃくりあげる。

「あの日の空は一枚の青い布地のように晴れ渡っていた。乗せてやりたかったのに、金がなくて、乗せてやることができなかった。――悔いが残った。その悔いは、十年後のあの日に、矢となって心を射抜き、今も突き刺さったまま、抜けることはない――。」
 
男の子は成人し、21歳のとき、レントゲン技師の国家試験に合格した。しかしそれから数日後に、突然死んだ。変死の疑いがあるので、警察で解剖されたが、死因はわからなかった。監察医の死亡診断書には、「病死及び自然死」と記されていた。
 
男は歳をとってきたので、出稼ぎを止め、夫婦二人で暮らすことにした。そのとき女房が、突然死ぬ。朝、起こそうとして腕を伸ばすと、もう冷たかった。

「働き者で体が丈夫なことが取り柄だった節子が、六十五歳で死ぬなんて――、なんでこんな目にばっかり遭うんだべ――、と悲憤の錨が胸底に沈められ、もう泣くことはできなかった。」
 
「もう泣くことはできなかった」に至って、何度も読み返そうとするが、それでも柳美里は、そんなところにとどまってはいない。

長女は家庭を持っており、その娘が男と一緒に、暮らしてくれることになった。娘は動物病院に勤める看護師で、こまやかな心遣いがあった。
 
男はそこで考えた。

「二十一歳になったばかりの麻里を、祖父である自分とこの家に縛るわけにはいかない、と思った。
〈突然いなくなって、すみません。おじいさんは東京へ行きます。この家にはもう戻りません。探さないでください。いつも、おいしい朝飯を作ってくれて、ありがとう〉と書き置きをして、押し入れから出稼ぎに行く時に使っていた黒いボストンバッグを取り出し、身の回りの物を詰め込んだ。」
 
そうしてホームレスとして、あるいはホームレスになるために、上野駅公園口に降り立った。
 
この孫に宛てた書き置きは、いかにも上滑りで嘘くさい。けれどもそんなことが、何ほどの傷になるだろう。
 
そもそも、こうして粗筋を辿ることそのものが、この小説について、あなたを誤解させそうだ。しかし私に、他にどんなやり方があるだろう。
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臨床読書、「全部盛りクジラ丼」――『52ヘルツのクジラたち』

この本はいろんなところで評判になっている。

 王様のブランチBOOK大賞2020 第1位

 読書メーター総合ランキング 第1位

 ダ・ヴインチ小説部門 第4位

 本屋大賞ノミネート!
 
町田そのこはまったく読んだことのない小説家で、これほど好評だとつい手が出る。
 
で結論からいうと、あまり面白くなかった。というよりも、面白い面白くないを言う前に、ちょっと異様であった。
 
とにかく家族の問題がてんこ盛りで、主人公の貴瑚(きこ)は親から虐待は受けるわ、LGBT(性的少数者)の親友は自殺するわ、大分の片田舎で仲良くなった子は、虐待がもとで口はきけなくなるわで、みな言ってみれば、家族を巻き込んだ、あるいは家族に起因する病を抱えている。
 
主人公の悩みは深い。そこで親友、美晴がこんなことを言う。

「貴瑚はひとの温もりがないと生きていけない弱い生き物だよ。寂しさを知る人間は、寂しさを知ってるからこそ、失うことに怯えるものだから」。
 
こういう文章、背筋がゾワッとしますな。

話変わって、貴瑚の母親は妾であり、その祖母もまた妾であり、貴瑚も経営者の息子に、妾になれと言われて苦しんでいる。
 
経営者の御曹司が別の女と結婚を決め、貴瑚には妾になれと迫る場面。

「時間が必要なのは分かる。ちゃんと考えて欲しい。でも、貴瑚が俺についてきてくれるというのなら、俺は一生貴瑚を守る。ひとりの女としてのしあわせを贈りたい」。
 
ぴんから兄弟『女のみち』より、「♪私がささげたその人に」がバックにかかっている。というのは半分冗談だけれど、そうでもしないと心のバランスがとれない。
 
ところで主人公も含めて、てんこ盛りだった心の病は、どうなったんでしょうか。
 
タイトルの『52ヘルツのクジラたち』は、貴瑚と口のきけない少年の会話で出てくる。

「クジラもいろいろな種類がいるけど、どれもだいたい10から39ヘルツっていう高さで歌うんだって。でもこのクジラの歌声は52ヘルツ。あまりに高音だから、他のクジラたちには、この声は聞こえないんだ。」
 
壮大な海で確かに響かせているのに、それに呼応する仲間はどこにもいない。それほど孤独だというたとえ話です。まあジュニア小説ですね。
 
終わりまで行くと、一応めでたし、めでたしなのだが、何か物語を読んだ気がしない。なぜだろうと考えると、主人公の内面を語り、行動を叙述する文章に、全く個性がないことに気づく。
 
ひょっとすると、貴瑚はどんなに急場になっても、たいして感じない女なんじゃないか。あるいは多重人格で、どんな窮地に陥っても、それなりのヒロインの役をこなしてしまう、そういうことじゃないか。
 
こういう本は読まずに過ごす方がよくはないか、という意見に対し、私はそうではないと答える。

こういうものを読むことが、養老孟司先生の言う臨床読書である。どんな本でも、その本がどういうものであったか、その作者がどんな人か、それをこぞって挙げている書評氏がどういうものか、そういうことだけはわかるのである。

(『52ヘルツのクジラたち』町田そのこ
 中央公論新社、2020年4月25日初刷、7月5日第4刷)
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最高に刺激的! でも待てよ――『人新世の「資本論」』(6)

この本の最後の方に、資本主義の最悪の仕事として、「ブルシット・ジョブ」というのが出てくる。

「現在高給をとっている職業として、マーケティングや広告、コンサルティング、そして金融業や保険業などがあるが、こうした仕事は重要そうに見えるものの、実は社会の再生産そのものには、ほとんど役に立っていない。」
 
こういうのを「ブルシット・ジョブ(クソくだらない仕事)」と言う。
 
それは本当によくわかる。2度目の会社にいるときに、社長が思い立って、編集・営業会議の席に、コンサルタントを参加させたことがある。それは4、5年続いた。
 
月1回の参加で、その日は朝から夕方まで参加した。それで会社は月20万、払っていた。もちろん何の役にも立たなかった。コンサルタントというと、まずその思い出がよみがえる。
 
私の場合はそうだったが、しかしすべてを、そのたぐいと取らない方がいい。あるいは本当にそうであれば、「ブルシット・ジョブ」は、いずれなくなるはずだ、と思いたい。
 
仕事のそういうまわり道は、考えてみればいくらでもある。
 
あるいは逆に「ブルシット・ジョブ」と目されていたものが、当事者の努力によって生まれ変わることもある。
 
最後に根本的な疑問を書いておく。
 
この本でも、ナオミ・クラインの『地球が燃えている』でも、次のことがすでに大前提となっている。

「二〇一六年に発効したパリ協定が目指しているのは二一〇〇年までの気温上昇を産業革命以前と比較して、二℃未満(可能であれば、一・五℃未満)に抑え込むことである。」
 
これはおかしくないか。

何年か先のこととして、世界の気温を2℃未満、可能であれば1・5℃未満に抑える。そういう前提でいいのだろうか。
 
現在の異常気象は、すでに世界中で見られ、待ったなしである。たった一人で学校ストライキを始めたグレタ・トゥーンベリは、それでいいと思っているのか。
 
先のパリ協定が、先進国の妥協の産物であるなら、ということを、どうしても考えでしまう。これが最大の疑問である。
 
なお、「おわりに――歴史を終わらせないために」に、過激なことが書いてある。

「ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、『三・五%』の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。」
 
その後に、いろいろな例が引かれている。
 
私のような読者が眉に唾して読んできて、最後の「おわりに」に来て、一筋の光明が差してくる。
 
一冊の終わり方としては、なかなか見事であるが、しかし巻を措いてしばらくすると、やっぱり眉唾だと思ってしまう。

(『人新世の「資本論」』斎藤幸平
 集英社新書、2020年9月22日初刷、2021年1月13日第6刷)
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最高に刺激的! でも待てよ――『人新世の「資本論」』(5)

資本主義を選ぶかコミュニズムを選ぶか、とは違って、気候温暖化の危機は、誰も逃れることのできない、全世界を覆うグローバルな問題である。

「周辺部に転嫁できる公害とは違って、究極的には、先進国であれ、この破壊的帰結から逃れることはできない。だとすれば、ここにあるのは、最悪の事態を避けるためにすべての人類が連帯できるかという試練である。」
 
というふうに考えていては、だめなんじゃないかと思う。「すべての人類が連帯できるか」と仮定したとたん、言葉は美しいが、中身は空疎になる。
 
残念ながら人間には、知力の及ぶ範囲に限界がある。しかもそれは、歴史的にはせいぜい三代前、空間的には、日本人の場合は、東アジアの一角。私の場合はこの程度である。
 
もちろんこれは人によって極端に違う。しかし私の場合で言えば、ワールドニュースを見ていても、この範囲を超えると、想像力が働かなくなる。どれほど悲惨な事件が起こっても、そこを越えれば、心が千々に乱れるということはない。
 
どうすればいいのか。私に考えはないが、少なくとも、すべての人間の連帯といった瞬間に、事の真相は覆い隠され、そこから話は進まなくなってしまう、と思う。
 
しかしそれでも、斎藤幸平氏は、連帯を阻んでいる現代の不公正さを、糾弾し続ける。

「世の中は、経済成長のための『構造改革』が繰り返されることによって、むしろ、ますます経済格差、貧困や緊縮が溢れるようになっている。実際、世界で最も裕福な資本家二六人は、貧困層三八億人(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占している。」
 
これはまったく怪しからんことだ。しかしだからと言って、すぐにコミュニズムに鞍替えできるだろうか、あるいはすべきなのか。
 
それよりも、税金の累進性を徹底したり、独占禁止法の国際的な強化を、まずは考えた方がよくはないか。
 
しかし著者は、そういうふうには考えない。

「これ〔=富の独占〕は偶然だろうか。いや、こう考えるべきではないか。資本主義こそが希少性を生み出すシステムだという風に。私たちは、普通、資本主義が豊かさや潤沢さをもたらしてくれると考えているが、本当は、逆なのではないか。」
 
さあ、それはどうかわからない。現状はこうだから、こういうふうに悲惨だから、という言い方は、大変危険なのではないかと思う。この辺になると、本当によくわからない。
 
斎藤幸平氏は言う。

「ニューヨークやロンドンの中心地で個人事業主がオフィスを構えたり、店を開いたりするのはもはや至難の業だ。そういった機会は、大資本にしかひらかれていない。
 果たして、これを豊かさと呼ぶのだろうか。多くの人々にとって、これは欠乏だ。そう、資本主義は、絶えず欠乏を生み出すシステムなのである。」
 
大都市では投機目的の不動産売買が横行し、それにもかかわらずホームレスが大勢いる。これは社会的公正から見れば、ほとんどスキャンダルではないか。そう齋藤氏は言うのである。
 
でもそれは資本主義の中でも、是正できることではないか、本当にやる気があれば。
 
しかし一方で、現状は先進諸国がシャカリキになって、国民が投資することを進めているようでは、先は、まったくないと思わざるを得ない。
 
しかしそれだからと言って、人は晩期マルクスのコミュニズムの方へ行くだろうか。人間が突然、生まれ変わらない限り、それは無理ではないか。
posted by 中嶋 廣 at 12:10Comment(0)日記

最高に刺激的! でも待てよ――『人新世の「資本論」』(4)

斎藤幸平氏は資本主義に対して、生理的な嫌悪感を持っているようだ。
 
彼は言う、私たちはずっと昔、家畜を飼い、魚を釣って、それを捌いて生活していた。そのための道具も自前で作っていた。

「それに比べると、私たちは資本主義に取り込まれ、生き物として無力になっている。商品の力を媒介せずには生きられない。自然とともに生きるための技術を失ってしまっているのである。」
 
これはかなり根本的な、現代文明に対する批判、というより呪詛である。これがどこから来ているのかは分からない。

「資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くこともできない。」
 
そういう言い方もできるけれど、逆の面から見れば、一言で言ってしまえば、貨幣と商品のおかげで、人類がここまで栄えたのだ、ともいえる。
 
斎藤幸平氏はしかし、これを「栄えた」とはとらないと思う。
 
私は30年前の、吉本隆明氏の言葉を思い出す。『仏教』という雑誌で、栗原彬氏と対談していただいたときのことだ。
 
吉本さんは、イヴァン・イリイチが来日したとき対談をしたのだが、とにかく現代資本主義を呪詛する言葉ばかり、男は山へ芝刈りに行け、女は川で洗濯をしろ、というような話ばかりで、本当に参ったよ。
 
しかしもちろんイヴァン・イリイチの現代産業批判には、見るべき点がある。それどころか、現代の環境危機や、資本主義の行きつく先を推測すると、ひょっとするとイリイチの方が正しいともいえる。それは忘れてはいけないことだ。そしてそれは、斎藤幸平氏にも言えることだろう。
 
ただ、こういうところはどうだろう。

「現代の資本による包摂は、労働過程を超えてさまざまな領域へと拡張している。その結果、生産力の発展にもかかわらず、私たちは、未来を『構想』することができない。」
 
そうだろうか。将来を思い描く人もいれば、お先真っ暗な人もいる。その内容は、人それぞれではないだろうか。

もちろん普通は将来といえば、その人個人またはその家族のものであり、齋藤さんのように、この世界はどうなるか、またはこの世界をどうするかを考えている人は少ない。

それを考える人が、少数ではあっても、存在していることは大事だ。ものすごく大事だ。

しかし、それに続く次のようなところに、私は首を傾げてしまう。

「より徹底した資本への従属を迫られるようになっていき、資本の命令を『実行』するだけになる。」
 
そういう人もいるし、そうでない人もいる。同じ仕事でも人によっては、まったく逆の意味になりうる、ということではないか。
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最高に刺激的! でも待てよ――『人新世の「資本論」』(3)

この本のブログの第1回目に、「元バーのマダム、Tさんからは、齋藤幸平って面白いわよ、でも世の中がそっちの方向へ行っちゃうのは願い下げだけどね」と書いたら、Tさんから「そんなこと、言ってないわよ、むしろ逆よ」と抗議を受けた。
 
世界が、斎藤幸平さんの言う方向に、舵を切るのは大賛成だけど、「脱成長コミュニズム」、特にコミュニズムというのには抵抗があるわね、と言うことだった。
 
これでは私の言ったこととは、真逆のことである。すみません、人の意見を代弁するのは難しい。これからは気をつけます。
 
この本に戻って、資本主義のまま脱成長を推し進めることは、じつは実現不可能な空想主義だと言うのだ。脱成長で行くなら、この先、資本主義を組み替えた折衷案ではどうしようもない。

「もっと困難な理論的・実践的課題に取り組まねばならない。歴史の分岐点においては、資本主義そのものに毅然とした態度で挑むべきなのである。」
 
日々の暮らしを、仕事をしながら送っている人にとっては、これは言うは易く、実践するに難しいことではないだろうか。
 
そしてそれは、こういうところにつながっていく。

「労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を乗り越え、自由、平等で、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる。これこそが、新世代の脱成長論である。」
 
それは無理だと思うよ。というよりも、こういう空疎な言葉で語られる労働論は、私は願い下げにしたい。
 
しかし間違えてほしくないのは、齋藤幸平氏の言う脱成長論も、化石燃料を排する環境論にも、大賛成であるということだ。
 
著者の言うコミュニズムは、もひとつ説得されるところまではいかないけれど、しかし資本主義がどん詰まりに来ていることは、かなりの人がそう思っている。ではどうするかということで、だからこの本を読んでいるのだ。
 
端的に言って、もうマルクスに拠りかかるのは、やめた方がよい。

「私たちが『人新世』の環境危機を生き延びるためには、まさに、この晩期マルクスの思索からこそ学ぶべきものがあるのだ。」
 
そうかもしれないが、でもそれは、マルクスを踏み台にした、斎藤幸平氏の意見として出した方がいいと思う。
 
この本を読めば、マルクスはどう言っているかという異論が、一部読者から必ず出てくる。学生運動はさすがに昔のことだが、それでも「マルクス、我が仏」という手合いが、まだウジャウジャいる。
 
そんなことで足元を泥に捕らわれるのは、齋藤氏の本意ではなかろう。それともマルクスという「仏」は、絶対に降ろしてはいけない旗印かな。
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最高に刺激的! でも待てよ――『人新世の「資本論」』(2)

この本は、ナオミ・クラインの『地球が燃えている――気候崩壊から人類を救うグリーン・ニューディールの提言』と、途中まではまったく同じである。つまり議論の前提が同じなのである。

「二〇一六年に発効したパリ協定が目指しているのは二一〇〇年までの気温上昇を産業革命以前と比較して、二℃未満(可能であれば、一・五℃未満)に抑え込むことである。」
 
それは世界中、待ったなしで起こっているさまざまな異常気象や、カリフォルニアやオーストラリアの広範な山火事などである。
 
化石燃料とそれに由来する二酸化炭素が、気候変動を起こし、たとえば日本では、その影響で40℃以上の高温な日々や、何日もかけた集中豪雨と土砂災害、また近年、毎年襲うスーパー台風などがそれである。
 
それゆえ、ナオミ・クラインと同じく斎藤幸平氏にとっても、これは世界的な話題と同時に、身近なことでもあるのだ。
 
ナオミ・クラインはそこから、「グリーン・ニューディールの提言」に行きついた。これについては『地球が燃えている』をお読みいただきたい。ブログにはそれに対する批判、あるいは疑問も書いておいた。

齋藤幸平氏も、グリーン・ニューディールについては批判的である。本書をお読みいただきたいが、無理にも一言で言ってしまえば、それは経済成長を前提にした議論であり、将来の成長ジャンルの組み替えに過ぎない、というものである。

それに対し、『資本論』以後のマルクスを研究した斎藤氏は、経済成長を否定する「脱成長コミュニズム」に到達したのである。
 
著者は経済思想家なので、晩年のマルクスが『資本論』を突き抜けて、この時代に新たな思想家として、もう一度蘇ってくるのを期待している。それがつまり、新しいコミュニズムなのである。
 
その原理は、ごく簡単に言えばこうなる。

「資本主義がどれだけうまく回っているように見えても、究極的には、地球は有限である。外部化の余地がなくなった結果、採取主義の拡張がもたらす否定的帰結は、ついに先進国へと回帰するようになる。」
 
これは21世紀には、もう分かってはいることだが、正面切ってこれと取り組むのは、みな避けてきた、と思う。経済思想のことは皆目分からないけれど、多分そうだと思う。

資本主義はどん詰まりにきて、もう何ともならない、格差は世界的に見ても、一国の中だけを見ても、あまりに極端な乖離で、中間層などどこへ行ったものか、である。

資本主義の行きつく果てには、まだ少し時間がある。その間に知恵のあるものが、なんとかしてくれるだろう。こういう姿勢で、しかし今のところは、誰も、何ともなっていないんじゃないか。

その間、化石燃料による気候変動も、待ったなしである。
 
これが結び付いて、コミュニズムの再登場になったわけである。
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最高に刺激的! でも待てよ――『人新世の「資本論」』(1)

斎藤幸平は1987年生まれ、注目すべき気鋭の経済思想家である。
 
この人の名は、最初に元岩波書店社長の大塚信一さんから伺った。ちょっと面白い、ということだった。 
 
元朝日カルチャーのNさんからもSNSで、こういう人が評判になっており、大澤真幸さんと対談していて面白い、Nさんは大澤真幸さんと何度も仕事をしており、その大澤さんが買うのだから面白い、というわけだ。
 
元バーのマダム、Tさんからは、齋藤幸平って面白いわよ、でも世の中がそっちの方向へ行っちゃうのは願い下げだけどね、という話だった。
 
非常に短期間に3人の方が名前を挙げているので、これは読まねばなるまい。
 
とはいうものの、経済の本は苦手だ。書評なんてとんでもない、なんとか付いて行った、おぼつかない記録、といったところか。
 
一方で、経済の本に偏見があるのは、実はこういうことなのだ、ということを最後に述べればと思う。

「人新世(ひとしんせい)」とは、人間の活動が地球上を覆い尽くした年代、という意味で、カンブリア紀など地質年代で見た地球上の、新しい時代という意味である。
 
これはノーベル化学賞受賞者、パウル・クルッツェンが、人類の経済活動が地球に与える影響があまりに大きいため、それを表わして言った言葉である。
 
人類の活動によって地球は大きく変えられているのだが、その中でもひときわ深刻なのが、大気中の二酸化炭素であり、これが地球温暖化を急激に促進し、果ては人類を地球上から住みにくく、または住めなくさせてしまうのだ。
 
では、この気候危機を回避するには、どうしたらよいか。

それには資本主義ではなくコミュニズム、それも経済成長をやめる「脱成長コミュニズム」で行かなければならない、というのが斎藤幸平氏の主張である。
 
これは昔、講談社におられた鷲尾賢也さんと議論したことがある。私が、もう経済成長はやめて、みんなで本でも読んで暮らしたらどうか、その方が地球上の資源がなくなるであろうときまで、なんとか時間が稼げる、といったのに対して、鷲尾さんは、経済学では、経済は成長することが前提なんだ、とおっしゃった。
 
鷲尾さんは慶應大学の経済を出ておられたから、文学部の私は、そういうものかと黙ってしまった。
 
しかし斎藤幸平氏は、成長しないことを前提に経済を考えておられるではないか。しかも資本主義ではなく、何とコミュニズムである。これは面白いぞ!
posted by 中嶋 廣 at 15:29Comment(0)日記