話の骨格は、火星から脱走してきた8人の指名手配のアンドロイドと、それを追う賞金稼ぎのリック、という単純なものだ。賞金稼ぎとはいっても、リックは正式の警官である。
大枠の筋道の中で、女のアンドロイドとリックが、惹かれ合って寝たり、リックに協力した人間が、本人は人間だと思っているが、実はアンドロイドだったりして、つまりこれは、アイデンティティをめぐる話だと分かる。
「人間」というのが、フィリップ ・K・ディックの中では、それほど輪郭がはっきりしていないのだ。あるいはこれまで思っていたよりも、「人間」というものが、アンドロイドに名を借りて、拡張して考えられている、と言ったらいいか。
原書が1968年だから、この時代としては圧倒的に斬新だったろう。自己のアイデンティティを定めることができずに、苦悩、苦闘する人間とアンドロイド。
カフカの『変身』が1910年代だから、それから50年経って、SFを纏ってフィリップ・K・ディックが現われたのだ。
しかし私は閉口した。
「ベッドわきの情調〔ムード〕オルガンから、アラームが送ってきた陽気な弱いサージ電流で、リック・デッカードは目をさました。」
これが冒頭の1行である。それから少し進んだところ。
「かたわらのベッドでは、妻のイーランが陰気な灰色の目をひらき、まばたきし、うめきをもらして、また目をつむってしまった。
『そっちのペンフィールドの調節が弱すぎたんだ』リックはいった。『いまリセットしてやるから、それでちゃんと目をさまして――』
『あたしの機械にさわらないでよ』妻の声には苦いとげとげしさがこもっていた。」
こういう冒頭を、いつものSF調だと心得て、安心して読める人がいる。
私は駄目である。こんな訳の分からないところで、著者と読者が暗黙の了解を取り、周りにはわからない隠微な世界で、お互いに心地よいふりをする、ということがたまらなく嫌なのだ。
そういうわけで、ディックのこの本は、読みかけて3回挫折した。4回目に全部を読んで、なるほどこういう話かと納得はしたが、それだけのこと。臨床読書体験としては、可もなし不可もなしである。
(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック、浅倉久志・訳
早川書房、1977年3月15日初刷、2014年7月15日第68刷)
4度目の正直――『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1)
フィリップ・K・ディックのこの本は、大学に入ったとき読みかけたのだが、最初の数ページで挫折した。
2度目は会社が倒産したときで、逼塞して、食うや食わずで、文庫本でも読むしかなかった。しかしこのときも、本格的な物語に入る前に投げ出した。
3度目は新婚の時代、田中晶子が私に見せるために、ビデオ屋で『ブレードランナー』を借りてきた。監督、リドリー・スコット。出演、ハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、そして自分を人間だと思っていたレプリカントにショーン・ヤング。これは面白かった。
この原作が『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、今度はじっくり読もうと思ったが、なんと3度目も挫折した。
これで普通は諦める。というかその本があること自体、もう忘れている。
そして去年、『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』を読んだ。すると長い「あとがき」があって、なんとそこにフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のことが、書かれているではないか。
その前に前段がある。
「あと一〇年もたてば、情報メディアは私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって、信じられないような伝達や受容が実現していることでしょう。」
そして具体的な例として、鷲見洋一先生は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を挙げているのだ。
「はじめの方で、主人公が自宅でテレヴィに似た機械装置の前に腰掛けて準備し、スイッチを押すと、おそらくは有料の『ヴァーチャル・リアリティ』番組が始まります。そこでは画面に登場する人物がなぜか周囲から疎まれ、石を投げられるのですが、石の一つが人物の額に当たると、同時に主人公のおなじ場所にも激痛が走り、本物の血が流れるのです。こうした『疑似体験型』の身体知データベースこそが、今後の百科事典の主流になる日はさほど遠くないような気がします。」
こういう流れであれば、なんとか本を投げ出さずに済むのではないか。というよりも、この機会を逃したら……。で、読んでみた。
こんな小説だったのか。映画の『ブレードランナー』を面白いと言いつつ、よく分かってなかったですね。
その前に、まず石ころの場面。
「不意に石ころが飛んできて、腕にあたった。痛みがおそった。首をふりむけようとしたとき、第二の石ころが体すれすれをかすめていった。地面にぶつかった石ころは、ぎくりとするような音を立てた。だれが? いぶかしみながら、虐待者を見つけようと目をこらした。」
こういうところに目を留めて、「情報メディアは私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって、信じられないような伝達や受容が実現している」に違いない、と考える鷲見洋一は、確かに卓抜した想像力を持っている。
少なくとも私は、10年もすれば実現している新しい百科事典の主流、としては、どうにも考えられない。
しかし「私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって」、というところは面白い。脳髄の視神経や脳神経と、直接コンタクトできるのであれば、あるいは五感を超えた「第六感」を、示唆することにはならないだろうか。
2度目は会社が倒産したときで、逼塞して、食うや食わずで、文庫本でも読むしかなかった。しかしこのときも、本格的な物語に入る前に投げ出した。
3度目は新婚の時代、田中晶子が私に見せるために、ビデオ屋で『ブレードランナー』を借りてきた。監督、リドリー・スコット。出演、ハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、そして自分を人間だと思っていたレプリカントにショーン・ヤング。これは面白かった。
この原作が『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、今度はじっくり読もうと思ったが、なんと3度目も挫折した。
これで普通は諦める。というかその本があること自体、もう忘れている。
そして去年、『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』を読んだ。すると長い「あとがき」があって、なんとそこにフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のことが、書かれているではないか。
その前に前段がある。
「あと一〇年もたてば、情報メディアは私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって、信じられないような伝達や受容が実現していることでしょう。」
そして具体的な例として、鷲見洋一先生は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を挙げているのだ。
「はじめの方で、主人公が自宅でテレヴィに似た機械装置の前に腰掛けて準備し、スイッチを押すと、おそらくは有料の『ヴァーチャル・リアリティ』番組が始まります。そこでは画面に登場する人物がなぜか周囲から疎まれ、石を投げられるのですが、石の一つが人物の額に当たると、同時に主人公のおなじ場所にも激痛が走り、本物の血が流れるのです。こうした『疑似体験型』の身体知データベースこそが、今後の百科事典の主流になる日はさほど遠くないような気がします。」
こういう流れであれば、なんとか本を投げ出さずに済むのではないか。というよりも、この機会を逃したら……。で、読んでみた。
こんな小説だったのか。映画の『ブレードランナー』を面白いと言いつつ、よく分かってなかったですね。
その前に、まず石ころの場面。
「不意に石ころが飛んできて、腕にあたった。痛みがおそった。首をふりむけようとしたとき、第二の石ころが体すれすれをかすめていった。地面にぶつかった石ころは、ぎくりとするような音を立てた。だれが? いぶかしみながら、虐待者を見つけようと目をこらした。」
こういうところに目を留めて、「情報メディアは私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって、信じられないような伝達や受容が実現している」に違いない、と考える鷲見洋一は、確かに卓抜した想像力を持っている。
少なくとも私は、10年もすれば実現している新しい百科事典の主流、としては、どうにも考えられない。
しかし「私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって」、というところは面白い。脳髄の視神経や脳神経と、直接コンタクトできるのであれば、あるいは五感を超えた「第六感」を、示唆することにはならないだろうか。
ノンフィクションというよりは随筆――『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(3)
もう一つだけ挙げておく。富山県黒部市の黒部市美術館、「開館二五周年企画『風間サチコ展 コンクリート組曲』」である。
「風間サチコ(一九七二~)は、一貫して木版技法を用いた作品を発表してきた。極めて伝統的な手法を使いながらも作品テーマは現代的で、特に評判になったのは、《ディスリンピック2680》(二〇一八年)である。」
「ディスリンピック2680」は242.4×640.5cmと大きなもので、本書のカバー裏にモノクロで載っている。46判の単行本のカバーに、ピタリと収まる比率である。
著者はそこで、白鳥さんに説明を始める。
「まず、ここはどこだ? ええと、オリンピック競技場だ。〔中略〕わたしはよくわからないまま言葉を絞り出した。
『オリンピック競技場みたいに段差がある建物で、中心には競技ができそうな広いスペースがある。巨大な建造物で、造っている途中みたい……。ところどころパルテノン神殿みたいな柱があって、ギリシャ神話っぽい感じもする。でも、建設に使っている機械はブルドーザーだから、時代は現代なのかも。』」
これは最初に背景の空間が真っ暗、あるいは真っ黒であることを説明した方がいい。「ディスリンピック」というタイトル通り、真っ暗な中に「ディストピア的世界」が広がる。
「そこは、ひとが競争原理によってランクづけされ、いわゆる勝ち組と負け組が選別される過酷なオリンピックだった。役に立たない負け組は柵で囲われ、生き埋めにされる。逆に『役に立つ』と選ばれた人々はのっぺらぼうでマスゲームに参加する。羽がもがれた勝利の女神・ニケは、右側の世界の象徴だった。」
左側は勝ち組、右側は負け組の世界から、著者は「旧・優生保護法」の世界を想像する。今では「出性前診断」により、生まれてくる子の障害のあるなしが、簡単にわかる。その結果、産まないことを選ぶ人も増えてきた。
「それぞれの切迫した事情や考え方が入り組み、抱える病の重篤さによっても区別され、どんな治療をどこまで認めるのかという議論は複雑化の一途をたどっている。ただハッキリと言えることは、いまや受精の段階で、いやもうそれ以前に事実上の命の選別が始まっていることだ。」
「ディスリンピック2680」は、著者にそこまで考えさせるのだ。
川内有緒は、ほかにもいろんなものを見ているのだが、何かが足りない。そのことは正直に書いている。
「そろそろ白鳥さんとの鑑賞体験を一冊の本にまとめたい。伝えたいことはすでにたくさんあり、かなりの分量の文章を書き終えていた。それでも、なにかが決定的に足りないという感覚に苛まれ、行き詰まっていた。不足しているのは鑑賞体験の量や質なのか、会話の深みなのか、白鳥さんの言葉なのか、リサーチや思索なのか、本を書ききるための集中力なのか、それすらもわからない。わからないことがわからない、というメビウスの輪的な状況のなか、なにかがぽっかりと抜けていることだけが妙にくっきりしていた。」
「白鳥さんと見にいく」は、文字通り「白鳥さんと見にいく」だけであって、そのために著者の見る目が鋭くなったのは、結構なことである。でもそれだけのことだ。
その鋭くなった目で、最先端のアート・パフォーマンスを見れば、どうなるか。それが本書の中身だろう。
だから『目の見えない白鳥さんとアートを見にいってわかったこと』というのが、正確なタイトルであり、白鳥さんが主役ではなく、川内有緒が主人公でなくてはいけない。それがはっきりしてしまえば、全体の半分くらいは、書き方が変わっただろう。
(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』川内有緒、
集英社インターナショナル、2021年9月8日初刷、2022年8月6日第7刷)
「風間サチコ(一九七二~)は、一貫して木版技法を用いた作品を発表してきた。極めて伝統的な手法を使いながらも作品テーマは現代的で、特に評判になったのは、《ディスリンピック2680》(二〇一八年)である。」
「ディスリンピック2680」は242.4×640.5cmと大きなもので、本書のカバー裏にモノクロで載っている。46判の単行本のカバーに、ピタリと収まる比率である。
著者はそこで、白鳥さんに説明を始める。
「まず、ここはどこだ? ええと、オリンピック競技場だ。〔中略〕わたしはよくわからないまま言葉を絞り出した。
『オリンピック競技場みたいに段差がある建物で、中心には競技ができそうな広いスペースがある。巨大な建造物で、造っている途中みたい……。ところどころパルテノン神殿みたいな柱があって、ギリシャ神話っぽい感じもする。でも、建設に使っている機械はブルドーザーだから、時代は現代なのかも。』」
これは最初に背景の空間が真っ暗、あるいは真っ黒であることを説明した方がいい。「ディスリンピック」というタイトル通り、真っ暗な中に「ディストピア的世界」が広がる。
「そこは、ひとが競争原理によってランクづけされ、いわゆる勝ち組と負け組が選別される過酷なオリンピックだった。役に立たない負け組は柵で囲われ、生き埋めにされる。逆に『役に立つ』と選ばれた人々はのっぺらぼうでマスゲームに参加する。羽がもがれた勝利の女神・ニケは、右側の世界の象徴だった。」
左側は勝ち組、右側は負け組の世界から、著者は「旧・優生保護法」の世界を想像する。今では「出性前診断」により、生まれてくる子の障害のあるなしが、簡単にわかる。その結果、産まないことを選ぶ人も増えてきた。
「それぞれの切迫した事情や考え方が入り組み、抱える病の重篤さによっても区別され、どんな治療をどこまで認めるのかという議論は複雑化の一途をたどっている。ただハッキリと言えることは、いまや受精の段階で、いやもうそれ以前に事実上の命の選別が始まっていることだ。」
「ディスリンピック2680」は、著者にそこまで考えさせるのだ。
川内有緒は、ほかにもいろんなものを見ているのだが、何かが足りない。そのことは正直に書いている。
「そろそろ白鳥さんとの鑑賞体験を一冊の本にまとめたい。伝えたいことはすでにたくさんあり、かなりの分量の文章を書き終えていた。それでも、なにかが決定的に足りないという感覚に苛まれ、行き詰まっていた。不足しているのは鑑賞体験の量や質なのか、会話の深みなのか、白鳥さんの言葉なのか、リサーチや思索なのか、本を書ききるための集中力なのか、それすらもわからない。わからないことがわからない、というメビウスの輪的な状況のなか、なにかがぽっかりと抜けていることだけが妙にくっきりしていた。」
「白鳥さんと見にいく」は、文字通り「白鳥さんと見にいく」だけであって、そのために著者の見る目が鋭くなったのは、結構なことである。でもそれだけのことだ。
その鋭くなった目で、最先端のアート・パフォーマンスを見れば、どうなるか。それが本書の中身だろう。
だから『目の見えない白鳥さんとアートを見にいってわかったこと』というのが、正確なタイトルであり、白鳥さんが主役ではなく、川内有緒が主人公でなくてはいけない。それがはっきりしてしまえば、全体の半分くらいは、書き方が変わっただろう。
(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』川内有緒、
集英社インターナショナル、2021年9月8日初刷、2022年8月6日第7刷)
ノンフィクションというよりは随筆――『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(2)
川内有緒は、白鳥さんと美術館をめぐるうちに、彼に美術品の解説をしていると、目の前の作品を見る眼が、変わっていくことに気がつく。対象をはっきり見定めるように、目が変化していくのだ。
「美術館に足を運び、長い列に並び、入場料を払い、やっとのことで見た作品でも実は見えていないもののほうが圧倒的に多い。しかし、『見えないひと』が隣にいるとき、普段使っている脳の取捨選択センサーがオフになり、わたしたちの視点は文字通り、作品の上を自由にさまよい、細やかなディテールに目が留まる。おかげで『いままで見えなかったものが急に見えた』」ということが起こりうる。
この本では、いろんな美術館を訪れているが、その中では圧倒的に「はじまりの美術館」が面白い。所在地は福島県の真ん中あたり、磐越西線の猪苗代駅から車で5分の距離にある。
「はじまりの美術館」は、障害のある人の作品を中心に展示している。今回は白鳥さんとマイティ、それに著者の娘で、保育園に通うナナオの4人である。
展示作品には、たとえば折元立身〔たつみ〕のシリーズ、《アート・ママ》、この本では「タイヤチューブ・コミュニケーション 母と近所の人たち」(1996年)と、「アート・ママ+息子」(2008年)が掲載されている。
どちらも写真で、前者はカラー、3人のお婆さんが車のタイヤを首にかけ、ソファに座っている。この中には、折元立身の母親も入っている。
後者はモノクロで、折元が母親を抱きしめ、口づけをしている。折元はファインダーを見つめているが、抱き締められた母親は、迷惑そうにギュッと目を瞑っている。
「作者の折元立身(一九四六~)は、もともと国内外の芸術祭や美術館で広く活躍するアーティストだったが、あるとき母親の男代〔おだい〕が認知症と鬱を発症。母と一緒に暮らしていた折元は、その後二〇年にもわたって介護を続け、制作活動は制限せざるを得なくなった。しかし、そうする中で『絵を描いたり、彫刻を彫ったりするのだけがアートではない』、『介護することもアート』、『食卓を一緒に囲むのもアート』という新しい境地に達し、母、男代と一緒に作品を作り始めた。」
この写真がアートであるかないかは、よくわからない。というか、そんなことはどうでもいい。ただ面白いのである。写真を見つめていると、何とも言えないものが湧き上がってきて、ただ面白い。母親の迷惑そうな顔がすばらしい(でも彼女の方は、とにかくかなわん、ただそれだけかもしれない)。
展示の中には、色とりどりのおもちゃのブロックが置いてあるコーナーがあり、「搬入プロジェクト(悪魔のしるし)」という作品の一部をなしている。
これを著者の娘のナナオが大喜びし、著者たちが展示を見ている間、このコーナーに入り浸っていた。
学芸員が、工作用の色鉛筆や紙を出してくれるのを、著者は感激の面持ちで見ている。
「一般的には、子連れで美術館に行くのはけっこうハードルが高い。でもここなら子連れや、身体が不自由なひとでも気後れすることなく来られる。間口は狭いけれど、懐はでっかい美術館だった。」
いわゆる普通の美術館ではない。これを立ち上げたのは、知的障害者などの支援を行う、社会福祉法人「安積〔あさか〕愛育園」である。
そこでは、実にユニークな作品が生まれる。
たとえば酒井美穂子の「サッポロ一番しょうゆ味」。彼女は、サッポロ一番の醤油ラーメンのパックを触るのが好きで、20年にわたって1日中、ラーメンの袋を握りしめてきた。味噌味や塩味では駄目で、醤油味のみである。
その20年分をズラッと展示してあるのが、カラー図版で出ている。酒井美穂子作「サッポロ一番しょうゆ味」、これを圧巻と言わずして何というか。
「美術館に足を運び、長い列に並び、入場料を払い、やっとのことで見た作品でも実は見えていないもののほうが圧倒的に多い。しかし、『見えないひと』が隣にいるとき、普段使っている脳の取捨選択センサーがオフになり、わたしたちの視点は文字通り、作品の上を自由にさまよい、細やかなディテールに目が留まる。おかげで『いままで見えなかったものが急に見えた』」ということが起こりうる。
この本では、いろんな美術館を訪れているが、その中では圧倒的に「はじまりの美術館」が面白い。所在地は福島県の真ん中あたり、磐越西線の猪苗代駅から車で5分の距離にある。
「はじまりの美術館」は、障害のある人の作品を中心に展示している。今回は白鳥さんとマイティ、それに著者の娘で、保育園に通うナナオの4人である。
展示作品には、たとえば折元立身〔たつみ〕のシリーズ、《アート・ママ》、この本では「タイヤチューブ・コミュニケーション 母と近所の人たち」(1996年)と、「アート・ママ+息子」(2008年)が掲載されている。
どちらも写真で、前者はカラー、3人のお婆さんが車のタイヤを首にかけ、ソファに座っている。この中には、折元立身の母親も入っている。
後者はモノクロで、折元が母親を抱きしめ、口づけをしている。折元はファインダーを見つめているが、抱き締められた母親は、迷惑そうにギュッと目を瞑っている。
「作者の折元立身(一九四六~)は、もともと国内外の芸術祭や美術館で広く活躍するアーティストだったが、あるとき母親の男代〔おだい〕が認知症と鬱を発症。母と一緒に暮らしていた折元は、その後二〇年にもわたって介護を続け、制作活動は制限せざるを得なくなった。しかし、そうする中で『絵を描いたり、彫刻を彫ったりするのだけがアートではない』、『介護することもアート』、『食卓を一緒に囲むのもアート』という新しい境地に達し、母、男代と一緒に作品を作り始めた。」
この写真がアートであるかないかは、よくわからない。というか、そんなことはどうでもいい。ただ面白いのである。写真を見つめていると、何とも言えないものが湧き上がってきて、ただ面白い。母親の迷惑そうな顔がすばらしい(でも彼女の方は、とにかくかなわん、ただそれだけかもしれない)。
展示の中には、色とりどりのおもちゃのブロックが置いてあるコーナーがあり、「搬入プロジェクト(悪魔のしるし)」という作品の一部をなしている。
これを著者の娘のナナオが大喜びし、著者たちが展示を見ている間、このコーナーに入り浸っていた。
学芸員が、工作用の色鉛筆や紙を出してくれるのを、著者は感激の面持ちで見ている。
「一般的には、子連れで美術館に行くのはけっこうハードルが高い。でもここなら子連れや、身体が不自由なひとでも気後れすることなく来られる。間口は狭いけれど、懐はでっかい美術館だった。」
いわゆる普通の美術館ではない。これを立ち上げたのは、知的障害者などの支援を行う、社会福祉法人「安積〔あさか〕愛育園」である。
そこでは、実にユニークな作品が生まれる。
たとえば酒井美穂子の「サッポロ一番しょうゆ味」。彼女は、サッポロ一番の醤油ラーメンのパックを触るのが好きで、20年にわたって1日中、ラーメンの袋を握りしめてきた。味噌味や塩味では駄目で、醤油味のみである。
その20年分をズラッと展示してあるのが、カラー図版で出ている。酒井美穂子作「サッポロ一番しょうゆ味」、これを圧巻と言わずして何というか。
ノンフィクションというよりは随筆――『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(1)
著者の川内有緒はノンフィクション作家、1972年東京生まれの女性である。
オビに「2022年本屋大賞ノンフィクション本大賞ノミネート!」とある。「本屋大賞」は全国の書店員が選ぶから、どうしても「売らんかな」の側面が強く表に出る。
これも同じで、まずタイトルでびっくりさせ、それで1年の間に7刷りまで行った。
読んでみると、ヘソのない本というか、まとまりに欠けるところがある。
なによりも「全盲の美術鑑賞者、白鳥健二さん」の人間像が、くっきりと浮かび上がってこない。「全盲の美術鑑賞者」は、どういうふうに美術を鑑賞しているのか、あまりに言葉が足りなくて(これは最終的には白鳥さんではなくて、著者の責任である)、よく分からない。ノンフィクションとしてはもの足りない。
それではこの本を打ち捨てておけるか、というと、そんなことはない。いいところもあるのだ。これはノンフィクションというよりも、エッセイ、随筆といったほうがいい。そう思えば、面白さの際立っているところも挙げやすい。
経巡ったところは三菱一号館美術館、国立新美術館、水戸芸術館、はじまりの美術館、黒部市美術館、茨城県近代美術館などである。
ちなみに本文中には、そこに展示されたもののほかに、何点ものカラー図版が入っている。
第1章は三菱一号館美術館、これは大手町にあり、私も行ったことがある。
著者が、白鳥さんとアートを見にいくのは、こんなふうにしてである。
「細く開いた目の奥にかすかに瞳が見えたものの、こちらのほうは見ていない。それが白鳥健二さんだった。〔中略〕
あたふたしながら白鳥さんの横に立った。すると彼は『じゃあ、お願いします』と言い、わたしのセーターの肘部分にそっと手を添え、半歩後ろに立った。こうすることで、白杖がなくても正しい方角に歩いていけるらしい。内心、ちょっとドキドキした。全盲のひとをアテンドするのは初めてだったし、自分の周りには視覚障害者はほとんどいなかった。」
それはそうだろうなあ。でも「視覚障害者はほとんどいなかった」ということは、少しはいたということか。そんなことがありうるのか。
このとき三菱一号館美術館では、「フィリップス・コレクション展」をやっていた。赤煉瓦の建物の入り口に、巨大ポスターが貼られていて、そのコピーが「全員巨匠!」。分かりやすいと言えば言えるけれど、どうも身もふたもないものだった。
著者たちは最初に、ピエール・ボナールの「犬を抱く女」(1922年)を鑑賞する。ちなみにこれは、カラー図版が3分の1ページの大きさで入っている。
実物ではないから正確な品評はできないが、私にはどうという感想もない。絵全体がぼやけているのだ。
著者と白鳥さんのやり取りは、こんなふうである。
「『じゃあ、なにが見えるか教えてください』
あさっての方向を向いたままの白鳥さんが小声で囁く。マイティ〔=著者の20年来の友人、佐藤麻衣子〕が『絵があるのはこっちだよ』と白鳥さんの体に手を添え、絵に向かってまっすぐ立たせた。
この瞬間、稲妻のように理解した。そうか彼は『耳』で見るのだ。」
そしてこのあと、絵を説明するのだが、それがトンチンカンでおかしい。
「『一人の女性が犬を抱いて座っているんだけど、犬の後頭部をやたらと見ています。犬にシラミがいるかどうか見ているのかな』
マイティと白鳥さんは『えー、シラミ?』と小さな笑い声をあげた(実際には動物にたかるのはノミだが、このときは勘違いしていた)。」
なかなか愉快である。そして白鳥さんは、この勘違いを喜んだ。
「どうやら彼は、作品に関する正しい知識やオフィシャルな解説は求めておらず、『目の前にあるもの』という限られた情報の中で行われる筋書きのない会話こそに興味があるようだった。」
そういうことなので、著者はずいぶん気楽になり、一方で、「わたしはあんまり美術に詳しくない」という、ヘンな自身も持つことになった。
オビに「2022年本屋大賞ノンフィクション本大賞ノミネート!」とある。「本屋大賞」は全国の書店員が選ぶから、どうしても「売らんかな」の側面が強く表に出る。
これも同じで、まずタイトルでびっくりさせ、それで1年の間に7刷りまで行った。
読んでみると、ヘソのない本というか、まとまりに欠けるところがある。
なによりも「全盲の美術鑑賞者、白鳥健二さん」の人間像が、くっきりと浮かび上がってこない。「全盲の美術鑑賞者」は、どういうふうに美術を鑑賞しているのか、あまりに言葉が足りなくて(これは最終的には白鳥さんではなくて、著者の責任である)、よく分からない。ノンフィクションとしてはもの足りない。
それではこの本を打ち捨てておけるか、というと、そんなことはない。いいところもあるのだ。これはノンフィクションというよりも、エッセイ、随筆といったほうがいい。そう思えば、面白さの際立っているところも挙げやすい。
経巡ったところは三菱一号館美術館、国立新美術館、水戸芸術館、はじまりの美術館、黒部市美術館、茨城県近代美術館などである。
ちなみに本文中には、そこに展示されたもののほかに、何点ものカラー図版が入っている。
第1章は三菱一号館美術館、これは大手町にあり、私も行ったことがある。
著者が、白鳥さんとアートを見にいくのは、こんなふうにしてである。
「細く開いた目の奥にかすかに瞳が見えたものの、こちらのほうは見ていない。それが白鳥健二さんだった。〔中略〕
あたふたしながら白鳥さんの横に立った。すると彼は『じゃあ、お願いします』と言い、わたしのセーターの肘部分にそっと手を添え、半歩後ろに立った。こうすることで、白杖がなくても正しい方角に歩いていけるらしい。内心、ちょっとドキドキした。全盲のひとをアテンドするのは初めてだったし、自分の周りには視覚障害者はほとんどいなかった。」
それはそうだろうなあ。でも「視覚障害者はほとんどいなかった」ということは、少しはいたということか。そんなことがありうるのか。
このとき三菱一号館美術館では、「フィリップス・コレクション展」をやっていた。赤煉瓦の建物の入り口に、巨大ポスターが貼られていて、そのコピーが「全員巨匠!」。分かりやすいと言えば言えるけれど、どうも身もふたもないものだった。
著者たちは最初に、ピエール・ボナールの「犬を抱く女」(1922年)を鑑賞する。ちなみにこれは、カラー図版が3分の1ページの大きさで入っている。
実物ではないから正確な品評はできないが、私にはどうという感想もない。絵全体がぼやけているのだ。
著者と白鳥さんのやり取りは、こんなふうである。
「『じゃあ、なにが見えるか教えてください』
あさっての方向を向いたままの白鳥さんが小声で囁く。マイティ〔=著者の20年来の友人、佐藤麻衣子〕が『絵があるのはこっちだよ』と白鳥さんの体に手を添え、絵に向かってまっすぐ立たせた。
この瞬間、稲妻のように理解した。そうか彼は『耳』で見るのだ。」
そしてこのあと、絵を説明するのだが、それがトンチンカンでおかしい。
「『一人の女性が犬を抱いて座っているんだけど、犬の後頭部をやたらと見ています。犬にシラミがいるかどうか見ているのかな』
マイティと白鳥さんは『えー、シラミ?』と小さな笑い声をあげた(実際には動物にたかるのはノミだが、このときは勘違いしていた)。」
なかなか愉快である。そして白鳥さんは、この勘違いを喜んだ。
「どうやら彼は、作品に関する正しい知識やオフィシャルな解説は求めておらず、『目の前にあるもの』という限られた情報の中で行われる筋書きのない会話こそに興味があるようだった。」
そういうことなので、著者はずいぶん気楽になり、一方で、「わたしはあんまり美術に詳しくない」という、ヘンな自身も持つことになった。
エメラルドゴキブリバチの毒――『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』
2月8日の東京新聞、斎藤美奈子の「本音のコラム」を読んでいて、とっぴな例だが『サイレント・アース』の、エメラルドゴキブリバチを連想してしまった。
コラムの内容は、「同性婚もLGBT平等も選択的夫婦別姓も日本ではいまだ法制化されていない」、これを阻む壁として「自民党の保守派に配慮」という文言が、必ず入るというもの。
これは何かというと、旧統一教会にべったりの、自民党政治家のことである。
この団体は、同性婚は「決して認めるべきではない」と主張し、選択的夫婦別姓は、日本の家族制度を根本的に変えるもの、と主張している。
僕は、岸田首相が安倍晋三、菅義偉と替わったとき、これでちょっとは政治も中道になり、穏健になるかと思った。
初めは確かにそうなりそうだった。それが、LGBTの平等も選択的夫婦別姓も、そんなことをすれば、世のなか変わってしまう、と岸田首相が言いだした。それは実に急旋回だった。
ついで国民が、エネルギーをはじめとする物価高にあえいでいても、子供が限りなく生まれなくなっても、軍備だけは重税をもって重装備にする、と言い放った。
この急旋回が、エメラルドゴキブリバチにやられたゴキブリに、よく似ているのである。
エメラルドゴキブリバチは、体長2センチほど、メタリックな緑色と、鮮やかな赤い足をもち、熱帯地方の大部分に生息している。
エメラルドゴキブリバチはゴキブリを見つけると、胸部に針を刺して、一時的にマヒ状態にする。
ゴキブリが動けなくなったところで、脳に慎重に針を刺して、ふたたび毒を注入し、完全に動けなくする。
そのあと、ゴキブリの触角のそれぞれを、半分ずつ嚙み切り、そこから沁み出してくる血液(昆虫の血リンパ)を飲む。そうして最初に入れた毒を吸い取り、2回目に注入した毒の効果を、最大限に引き出す。この辺りは実に芸が細かい。
そうすると、獲物はどうなるか。
「ゴキブリはほとんどゾンビのように従順になり、エメラルドゴキブリバチは自分よりはるかに体が大きい獲物の残った触角をくわえて、リードにつながったイヌのように自分の巣へ導く。」
この辺、リアルですなあ。
そのあと、エメラルドゴキブリバチはゴキブリの体の表面に、1個の卵を産みつける。卵は間もなく孵る。
「ゴキブリは、〔中略〕逃走も防御もできない状態で、エメラルドゴキブリバチの幼虫にゆっくりと生きたまま体をむさぼられる。最初は体の外側だけだが、やがて体内へと侵入され、生命維持に不可欠な内臓を食べられる。」
だから今は、「ほとんどゾンビのように従順になり」、内部を侵食されている途中なのだ。そう思えば、岸田首相の急激な右旋回も納得がいく。
僕はそんなふうに妄想を膨らませた。それにしてもエメラルドゴキブリバチ、美しくも邪悪な昆虫である。
なお『サイレント・アース』は読んでる途中なので、読み終わったら、全体の書評を書く。
コラムの内容は、「同性婚もLGBT平等も選択的夫婦別姓も日本ではいまだ法制化されていない」、これを阻む壁として「自民党の保守派に配慮」という文言が、必ず入るというもの。
これは何かというと、旧統一教会にべったりの、自民党政治家のことである。
この団体は、同性婚は「決して認めるべきではない」と主張し、選択的夫婦別姓は、日本の家族制度を根本的に変えるもの、と主張している。
僕は、岸田首相が安倍晋三、菅義偉と替わったとき、これでちょっとは政治も中道になり、穏健になるかと思った。
初めは確かにそうなりそうだった。それが、LGBTの平等も選択的夫婦別姓も、そんなことをすれば、世のなか変わってしまう、と岸田首相が言いだした。それは実に急旋回だった。
ついで国民が、エネルギーをはじめとする物価高にあえいでいても、子供が限りなく生まれなくなっても、軍備だけは重税をもって重装備にする、と言い放った。
この急旋回が、エメラルドゴキブリバチにやられたゴキブリに、よく似ているのである。
エメラルドゴキブリバチは、体長2センチほど、メタリックな緑色と、鮮やかな赤い足をもち、熱帯地方の大部分に生息している。
エメラルドゴキブリバチはゴキブリを見つけると、胸部に針を刺して、一時的にマヒ状態にする。
ゴキブリが動けなくなったところで、脳に慎重に針を刺して、ふたたび毒を注入し、完全に動けなくする。
そのあと、ゴキブリの触角のそれぞれを、半分ずつ嚙み切り、そこから沁み出してくる血液(昆虫の血リンパ)を飲む。そうして最初に入れた毒を吸い取り、2回目に注入した毒の効果を、最大限に引き出す。この辺りは実に芸が細かい。
そうすると、獲物はどうなるか。
「ゴキブリはほとんどゾンビのように従順になり、エメラルドゴキブリバチは自分よりはるかに体が大きい獲物の残った触角をくわえて、リードにつながったイヌのように自分の巣へ導く。」
この辺、リアルですなあ。
そのあと、エメラルドゴキブリバチはゴキブリの体の表面に、1個の卵を産みつける。卵は間もなく孵る。
「ゴキブリは、〔中略〕逃走も防御もできない状態で、エメラルドゴキブリバチの幼虫にゆっくりと生きたまま体をむさぼられる。最初は体の外側だけだが、やがて体内へと侵入され、生命維持に不可欠な内臓を食べられる。」
だから今は、「ほとんどゾンビのように従順になり」、内部を侵食されている途中なのだ。そう思えば、岸田首相の急激な右旋回も納得がいく。
僕はそんなふうに妄想を膨らませた。それにしてもエメラルドゴキブリバチ、美しくも邪悪な昆虫である。
なお『サイレント・アース』は読んでる途中なので、読み終わったら、全体の書評を書く。
「警察捜査小説」の元祖――『失踪当時の服装は』
これは70年前の小説とは思えないほど、緊張感があり面白かった。
ホリー・ジャクソンの『優等生は探偵に向かない』を読んだら、その解説に、ヒラリー・ウォーの『この町の誰かが』が挙げられていた。ホリー・ジャクソンの小説は、この系譜に連なるという。
しかもこれは、我が国においても、多くの後続作品を生み出したという。宮部みゆきや恩田陸の作品、とりわけ佐野広美の『誰かがこの町で』は、タイトルからして、その系譜を引くことを宣言している。
というわけで『この町の誰かが』を読んでいくと、今度はその解説に、『失踪当時の服装は』の話が出てくる。これが警察小説のはじまりだ、と。
川出正樹という人が、「〈警察捜査小説〉を確立した三つの出会い」として、解説にこんなことを書いている。
「一九五二年に発表された『失踪当時の服装は』は、ミステリの歴史を変えた一作です。この作品でヒラリー・ウォーは、〈警察捜査小説〉〔ポリス・プロシーデュラル〕という新たなジャンルを確立しました。」
カバーには、「巨匠が捜査の実態をこの上なくリアルに描いた警察小説の里程標的傑作!」とある。これを無視して通るわけにはいくまい。
作品の内容は、女子大学の寮から1人の学生が忽然と消え、これを警察署長のフォードとキャメロン巡査部長が地道に捜査する話。筋といってはこれだけで、しかも枝葉の副筋も、刑事の人間味を示す挿話も、およそ皆無だ。
つまり一見面白そうではない。ところがこれが、全編緊張感が漲っていて、いわゆる、巻を措くこと能わざる、なのだ。
地道な捜査が主なので、本文を抜き出してもしょうがないけれど、でも一箇所だけ引いておく。フォード署長のセリフである。
「この先は待つしかない。腰を据えて待っていれば、じきに何かが起きるだろう。それを機に、ミッチェル嬢は必ず見つかる。警察の仕事とはそういうものだ。さんざん歩きまわって、いやというほど無駄骨を折り、延々と待つ」
ついでにもう一つ、引きたくなった。やはりフォードの言葉から。
「他にできることは何もない。警察の仕事がどういうものかは、わかっているだろう? 歩いて、歩いて、歩きまくる。そして、あらゆる可能性について調べ尽くす。一トンの砂を篩〔ふるい〕にかけて、ひと粒の金をさがすような仕事だ。百人に話を聞いて何も得られなければ、また歩きまわって、もう百人に話を聞く。そういうものだ」
全編これに貫かれている。そしてこれが面白いのだ。
考えてみれば、僕は警察小説があまり好きではない。中学1年のときに、クロフツの『樽』を読んだけれど、退屈だった。今考えると子どもには、警察機構の機微は難しかったのではないか。
マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーのマルティン・ベックものも、10作のうち半分くらい読んだが、も一つだった(『笑う警官』など)。
エド・マクベインの87分署シリーズは、刑事の捜査活動から私生活までをリアルに描き、警察小説の代表みたいだけれど、これも退屈だった(『警官嫌い』など)。
学生の頃は、犯人が終わり近くに初めて出てくるミステリーが、耐えられなかった。それまで読んだ分は何だったのだ、という気持ちだった。
たぶん僕が、歳をとったのだろう。これだけ生きてみると、人生の大半は、一見無駄足と見えるが、そこに味わいがある。
なーんて、言ってみたくなるが、しかしもちろん、そんなことは思ってもいない。
で、何が言いたいかというと、ヒラリー・ウォーの『失踪当時の服装は』はとびきり面白い、ただそれだけ。
(『失踪当時の服装は』ヒラリー・ウォー、法村里絵・訳、
東京創元社、2014年11月28日初刷)
ホリー・ジャクソンの『優等生は探偵に向かない』を読んだら、その解説に、ヒラリー・ウォーの『この町の誰かが』が挙げられていた。ホリー・ジャクソンの小説は、この系譜に連なるという。
しかもこれは、我が国においても、多くの後続作品を生み出したという。宮部みゆきや恩田陸の作品、とりわけ佐野広美の『誰かがこの町で』は、タイトルからして、その系譜を引くことを宣言している。
というわけで『この町の誰かが』を読んでいくと、今度はその解説に、『失踪当時の服装は』の話が出てくる。これが警察小説のはじまりだ、と。
川出正樹という人が、「〈警察捜査小説〉を確立した三つの出会い」として、解説にこんなことを書いている。
「一九五二年に発表された『失踪当時の服装は』は、ミステリの歴史を変えた一作です。この作品でヒラリー・ウォーは、〈警察捜査小説〉〔ポリス・プロシーデュラル〕という新たなジャンルを確立しました。」
カバーには、「巨匠が捜査の実態をこの上なくリアルに描いた警察小説の里程標的傑作!」とある。これを無視して通るわけにはいくまい。
作品の内容は、女子大学の寮から1人の学生が忽然と消え、これを警察署長のフォードとキャメロン巡査部長が地道に捜査する話。筋といってはこれだけで、しかも枝葉の副筋も、刑事の人間味を示す挿話も、およそ皆無だ。
つまり一見面白そうではない。ところがこれが、全編緊張感が漲っていて、いわゆる、巻を措くこと能わざる、なのだ。
地道な捜査が主なので、本文を抜き出してもしょうがないけれど、でも一箇所だけ引いておく。フォード署長のセリフである。
「この先は待つしかない。腰を据えて待っていれば、じきに何かが起きるだろう。それを機に、ミッチェル嬢は必ず見つかる。警察の仕事とはそういうものだ。さんざん歩きまわって、いやというほど無駄骨を折り、延々と待つ」
ついでにもう一つ、引きたくなった。やはりフォードの言葉から。
「他にできることは何もない。警察の仕事がどういうものかは、わかっているだろう? 歩いて、歩いて、歩きまくる。そして、あらゆる可能性について調べ尽くす。一トンの砂を篩〔ふるい〕にかけて、ひと粒の金をさがすような仕事だ。百人に話を聞いて何も得られなければ、また歩きまわって、もう百人に話を聞く。そういうものだ」
全編これに貫かれている。そしてこれが面白いのだ。
考えてみれば、僕は警察小説があまり好きではない。中学1年のときに、クロフツの『樽』を読んだけれど、退屈だった。今考えると子どもには、警察機構の機微は難しかったのではないか。
マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーのマルティン・ベックものも、10作のうち半分くらい読んだが、も一つだった(『笑う警官』など)。
エド・マクベインの87分署シリーズは、刑事の捜査活動から私生活までをリアルに描き、警察小説の代表みたいだけれど、これも退屈だった(『警官嫌い』など)。
学生の頃は、犯人が終わり近くに初めて出てくるミステリーが、耐えられなかった。それまで読んだ分は何だったのだ、という気持ちだった。
たぶん僕が、歳をとったのだろう。これだけ生きてみると、人生の大半は、一見無駄足と見えるが、そこに味わいがある。
なーんて、言ってみたくなるが、しかしもちろん、そんなことは思ってもいない。
で、何が言いたいかというと、ヒラリー・ウォーの『失踪当時の服装は』はとびきり面白い、ただそれだけ。
(『失踪当時の服装は』ヒラリー・ウォー、法村里絵・訳、
東京創元社、2014年11月28日初刷)
フェミニズム小説なんかじゃない――『別の人』(7)
最後はハ・ユリだ。ユリは自分の意見を、はっきり言うことができない。というよりも、嫌なら嫌ということを、相手の男に分からせることができない。
大学時代、スジンとハ・ユリが仲が良かったころ。
「〔スジンが言う〕『嫌だって、はっきり言わないと』
するとユリは悲しげな表情になった。そしてこう言った。
『平気だよ。そこまで悪い男の人っていなかったし。それに男の人って、欲しいものを手に入れるまでは、ほんっとうに優しくしてくれるんだよね。あたし、それがうれしいんだ』
スジンはもどかしくなった。『欲しいものを手に入れたら、あんたを好き勝手にするじゃない』
『うーん』ユリの表情が少し曇った。『そーしたら、別な男の人とつきあうもん』」
なるほど、ハ・ユリは、それで男を次から次へと取り替えていたのだ。
しかし、ユリは大学のときに、交通事故であっけなく死んだ。
その直前、キム・ジナは、ユリとばったり出遭った。追いかけられてるみたいで、「ユーリッ!」と、路地の奥から男の声が聞こえた。
「あの日、私はユリに冷たく言い放った。
『あんたってホント、ここから抜け出せないんだね』
そして私は背を向けた。ユリはずっと私の名前を呼んでいた。
振り返らなかった。
ユリがもう一度、私を呼んだ。
『ジナあ!』
『ジナあ、助けて』
私は前を見て歩き続けた。」
キム・ジナは、直後にアンジン大学をやめ、ソウルの大学に編入したのだ。
ジナがスジンに怒って、アンジン市に戻り、その流れで、ユリが誰と付き合っていたかを、探ろうとした。そんなことをしても、昔のことでどうにもならない、と分かっていても、探らずにはおられない。
カン・スンヨンという男との対話。
「『ユリは、誰かに嫌がらせをされているようなことを言ってたんでしょうか?』
『あれは嫌がらせじゃないです』
私はじっと耳を傾けた。カン・スンヨンが続けた。
『あれはレイプでした。望まない関係を、ずっと持たされ続けていると。嫌だと言っても近づいてきて、無視して、無理やりするって話でした。そしてそのせいで病気にもなっていました。ユリは、子宮頸がんのステージ1一歩手前でした。体調もとても悪そうで。毎日痛みがあると。なのに男はユリの訴えを無視した。気を引こうとして嘘をついていると責められたんだそうです』」
『別の人』は小説であるから、筋を運ぶのに、いくつもの謎を孕み、現在と大学時代を自在に往還して、まったく飽きさせない。しかも章によって、登場する人物が違い、まるでそれぞれが主人公のように、内面を苦しげに語りだす。
しかし私はここで、ミステリーと見まがうような粗筋を、ことさら辿ることはしなかった。それよりも、この小説が象徴的に描く、韓国社会の異常さの方が、まず胸に迫ってきた。
男のDVを経験したキム・ジナ、過去の強姦事件で夫婦生活が上手くいかないスジン、男から男へと渡り歩くハ・ユリ、そして女性嫌悪を内面化したイ・ガンヒョン准教授、これらの人々がすべて、悶々とし、暴発寸前になり、徹底的に孤立している。
韓国という息苦しい社会で、みんなアップアップしていて、どこにも出口がない。象徴的なのは、この小説では、子供が生まれないということだ。
何人かは妊娠するが、強姦によるものだから、中絶する。夫婦になったのはスジンだけだが、夫の精子に問題があるのと、スジン自身が、この結婚は偽りの幸福を糊塗して手に入れた、と思っているので、子どもの話はタブーである。
『別の人』にキム・ジナの、こんな挿話がある。
「ソウルの大学での、卒業を控えた最後の学期。ある老教授が私たちに、女子に、こんなことを言った。
『君らがここでこうやって座っているから人口が減るんじゃないか! 早く出てって結婚して、子どもを産みたまえ!』
怒った女子学生数人が大学側に老教授を告発する署名を集めた。」
日本も同じ、まるで自民党の政治家だ。コロナ禍が止むことがなければ、日本も約20年後に、子供は生まれなくなる。
それでも韓国の方が、子供が生まれなくなるのは、早いだろうという気がする。それは出口なしの社会の象徴である。
(『別の人』カン・ファギル、小山内園子、
エトセトラブックス、2021年3月30日初刷)
大学時代、スジンとハ・ユリが仲が良かったころ。
「〔スジンが言う〕『嫌だって、はっきり言わないと』
するとユリは悲しげな表情になった。そしてこう言った。
『平気だよ。そこまで悪い男の人っていなかったし。それに男の人って、欲しいものを手に入れるまでは、ほんっとうに優しくしてくれるんだよね。あたし、それがうれしいんだ』
スジンはもどかしくなった。『欲しいものを手に入れたら、あんたを好き勝手にするじゃない』
『うーん』ユリの表情が少し曇った。『そーしたら、別な男の人とつきあうもん』」
なるほど、ハ・ユリは、それで男を次から次へと取り替えていたのだ。
しかし、ユリは大学のときに、交通事故であっけなく死んだ。
その直前、キム・ジナは、ユリとばったり出遭った。追いかけられてるみたいで、「ユーリッ!」と、路地の奥から男の声が聞こえた。
「あの日、私はユリに冷たく言い放った。
『あんたってホント、ここから抜け出せないんだね』
そして私は背を向けた。ユリはずっと私の名前を呼んでいた。
振り返らなかった。
ユリがもう一度、私を呼んだ。
『ジナあ!』
『ジナあ、助けて』
私は前を見て歩き続けた。」
キム・ジナは、直後にアンジン大学をやめ、ソウルの大学に編入したのだ。
ジナがスジンに怒って、アンジン市に戻り、その流れで、ユリが誰と付き合っていたかを、探ろうとした。そんなことをしても、昔のことでどうにもならない、と分かっていても、探らずにはおられない。
カン・スンヨンという男との対話。
「『ユリは、誰かに嫌がらせをされているようなことを言ってたんでしょうか?』
『あれは嫌がらせじゃないです』
私はじっと耳を傾けた。カン・スンヨンが続けた。
『あれはレイプでした。望まない関係を、ずっと持たされ続けていると。嫌だと言っても近づいてきて、無視して、無理やりするって話でした。そしてそのせいで病気にもなっていました。ユリは、子宮頸がんのステージ1一歩手前でした。体調もとても悪そうで。毎日痛みがあると。なのに男はユリの訴えを無視した。気を引こうとして嘘をついていると責められたんだそうです』」
『別の人』は小説であるから、筋を運ぶのに、いくつもの謎を孕み、現在と大学時代を自在に往還して、まったく飽きさせない。しかも章によって、登場する人物が違い、まるでそれぞれが主人公のように、内面を苦しげに語りだす。
しかし私はここで、ミステリーと見まがうような粗筋を、ことさら辿ることはしなかった。それよりも、この小説が象徴的に描く、韓国社会の異常さの方が、まず胸に迫ってきた。
男のDVを経験したキム・ジナ、過去の強姦事件で夫婦生活が上手くいかないスジン、男から男へと渡り歩くハ・ユリ、そして女性嫌悪を内面化したイ・ガンヒョン准教授、これらの人々がすべて、悶々とし、暴発寸前になり、徹底的に孤立している。
韓国という息苦しい社会で、みんなアップアップしていて、どこにも出口がない。象徴的なのは、この小説では、子供が生まれないということだ。
何人かは妊娠するが、強姦によるものだから、中絶する。夫婦になったのはスジンだけだが、夫の精子に問題があるのと、スジン自身が、この結婚は偽りの幸福を糊塗して手に入れた、と思っているので、子どもの話はタブーである。
『別の人』にキム・ジナの、こんな挿話がある。
「ソウルの大学での、卒業を控えた最後の学期。ある老教授が私たちに、女子に、こんなことを言った。
『君らがここでこうやって座っているから人口が減るんじゃないか! 早く出てって結婚して、子どもを産みたまえ!』
怒った女子学生数人が大学側に老教授を告発する署名を集めた。」
日本も同じ、まるで自民党の政治家だ。コロナ禍が止むことがなければ、日本も約20年後に、子供は生まれなくなる。
それでも韓国の方が、子供が生まれなくなるのは、早いだろうという気がする。それは出口なしの社会の象徴である。
(『別の人』カン・ファギル、小山内園子、
エトセトラブックス、2021年3月30日初刷)
フェミニズム小説なんかじゃない――『別の人』(6)
第二部13章は「ガンヒョン」。あの口の臭う教師だ。この章を読むと、作者のカン・ファギルは、大学教師をしているエセ知識人を、露骨に憎んでいるとしか思えない。
イ・ガンヒョンは、すり寄ってくるドンヒを信用しない。彼女は、男も女も信じない。自分以外の誰にも関心がないのだ。
「女はどの瞬間もそんな目に遭ってるんだよ。生まれたその日から顔がきれいかどうか品定めされる。足を広げていると行儀が悪いと背中をぶたれ、成績がよくても医者か判事か検事になれないなら公務員試験あたりを受けろと言われ」る。
カン・ファギルがフェミニストと呼ばれるのは、この辺りの憤懣、憤りを指しているのか。しかしイ・ガンヒョンは、フェミニストの皮を被った、たんなる利己主義者に過ぎない。
「イ・ガンヒョンは教授たちが真に望むものをそっと探り当ててやり、自分の望みのものを手に入れる。どんな地位にも欲のないフリ、仕事を頼めば文句も言わずにやるフリ、フリフリフリ。やさしくて従順な女のフリ、競争心のないフリ、フリフリフリ。ところが、ある時から人々はイ・ガンヒョンをフェミニストと呼ぶようになった。」
こう見てくると、韓国でフェミニストと呼ばれるのも、一筋縄ではいかないことがわかる。
「男たちにとって都合の良い自立した女。未婚だがいつでも結婚するつもりがあり、男たちのやることにしゃしゃり出てはこないが金は公平に出し、下ネタやセクハラに近い冗談にも目くじらを立てず、男たちが二次会に行くときは気を遣って退散し、最近の女性運動はいきすぎだと指摘でき、より重要な問題に目を向けなければと口にするフェミニスト。あいつらが許容するフェミニズムを実践するフェミニスト!」
イ・ガンヒョンにとっては、フェミニズムくそくらえだ。
その彼女を、嫌味たっぷりに描くカン・ファギルは、作家にレッテルを貼るのは止めなさい、と言いたいのだ。彼女は、「現代フェミニズム文学の先端を走る作家」と、判で押したように呼ばれるのが、我慢ならないほど嫌なのだ。そうとしか思えない。
準教授イ・ガンヒョンは、鼻持ちならないほど醜くて(容貌については書いてないけれど、きっとそうだと私は思う)、嫌な女だ。私だけではなくて、だれでもそう思うだろう。そしてその分、どす黒い魅力がある。
「たまに彼女は、自分が何に突き動かされてここまで来たのか知りたくなることがある。出世欲だろうか、欲望だろうか、承認欲求だろうか。すべての言葉が正しくて、だが不正確だ。何か別の感覚にずっと背を押されて、ここまで来たらしい。なんだったのだろう?」
口臭のするイ・ガンヒョン、なかなか魅力的でしょう。
本書『別の人』は、ある時期アンジン大学に集った女子学生たちが、上手くいかない人生を、どうしたものかと考え、もがく話だが、私はイ・ガンヒョンが主役で、大学の知識人たちが醜く争う話を読んでみたい。
イ・ガンヒョンは母親のお腹にいるとき、堕されそうになった。
「しかしすぐに彼女は感傷から抜け出す。幼い頃のトラウマで人生が決まったとごねるような真似は真っ平だ。したこともない。彼女は今まで、自分で自分を突き動かしてきた。その瞬間、理由に気づく。生き残るためだ。ひたすら、生き残るため。男であれ女であれ、生存の妨げになるものは容赦なく排除し、飛び越えてきた。これからだっていくらでもそうするはずだ。」
こういう教師が、「ユーラシア文化コンテンツ学科」を牛耳っているのだ。キム・ジナも、スジンも、ハ・ユリも、そして年代は違うけどもキム・イヨンも、だれも救われることはないわけだ。
イ・ガンヒョンは、すり寄ってくるドンヒを信用しない。彼女は、男も女も信じない。自分以外の誰にも関心がないのだ。
「女はどの瞬間もそんな目に遭ってるんだよ。生まれたその日から顔がきれいかどうか品定めされる。足を広げていると行儀が悪いと背中をぶたれ、成績がよくても医者か判事か検事になれないなら公務員試験あたりを受けろと言われ」る。
カン・ファギルがフェミニストと呼ばれるのは、この辺りの憤懣、憤りを指しているのか。しかしイ・ガンヒョンは、フェミニストの皮を被った、たんなる利己主義者に過ぎない。
「イ・ガンヒョンは教授たちが真に望むものをそっと探り当ててやり、自分の望みのものを手に入れる。どんな地位にも欲のないフリ、仕事を頼めば文句も言わずにやるフリ、フリフリフリ。やさしくて従順な女のフリ、競争心のないフリ、フリフリフリ。ところが、ある時から人々はイ・ガンヒョンをフェミニストと呼ぶようになった。」
こう見てくると、韓国でフェミニストと呼ばれるのも、一筋縄ではいかないことがわかる。
「男たちにとって都合の良い自立した女。未婚だがいつでも結婚するつもりがあり、男たちのやることにしゃしゃり出てはこないが金は公平に出し、下ネタやセクハラに近い冗談にも目くじらを立てず、男たちが二次会に行くときは気を遣って退散し、最近の女性運動はいきすぎだと指摘でき、より重要な問題に目を向けなければと口にするフェミニスト。あいつらが許容するフェミニズムを実践するフェミニスト!」
イ・ガンヒョンにとっては、フェミニズムくそくらえだ。
その彼女を、嫌味たっぷりに描くカン・ファギルは、作家にレッテルを貼るのは止めなさい、と言いたいのだ。彼女は、「現代フェミニズム文学の先端を走る作家」と、判で押したように呼ばれるのが、我慢ならないほど嫌なのだ。そうとしか思えない。
準教授イ・ガンヒョンは、鼻持ちならないほど醜くて(容貌については書いてないけれど、きっとそうだと私は思う)、嫌な女だ。私だけではなくて、だれでもそう思うだろう。そしてその分、どす黒い魅力がある。
「たまに彼女は、自分が何に突き動かされてここまで来たのか知りたくなることがある。出世欲だろうか、欲望だろうか、承認欲求だろうか。すべての言葉が正しくて、だが不正確だ。何か別の感覚にずっと背を押されて、ここまで来たらしい。なんだったのだろう?」
口臭のするイ・ガンヒョン、なかなか魅力的でしょう。
本書『別の人』は、ある時期アンジン大学に集った女子学生たちが、上手くいかない人生を、どうしたものかと考え、もがく話だが、私はイ・ガンヒョンが主役で、大学の知識人たちが醜く争う話を読んでみたい。
イ・ガンヒョンは母親のお腹にいるとき、堕されそうになった。
「しかしすぐに彼女は感傷から抜け出す。幼い頃のトラウマで人生が決まったとごねるような真似は真っ平だ。したこともない。彼女は今まで、自分で自分を突き動かしてきた。その瞬間、理由に気づく。生き残るためだ。ひたすら、生き残るため。男であれ女であれ、生存の妨げになるものは容赦なく排除し、飛び越えてきた。これからだっていくらでもそうするはずだ。」
こういう教師が、「ユーラシア文化コンテンツ学科」を牛耳っているのだ。キム・ジナも、スジンも、ハ・ユリも、そして年代は違うけどもキム・イヨンも、だれも救われることはないわけだ。
フェミニズム小説なんかじゃない――『別の人』(5)
第二部11章の見出しは、またも「スジン」。ここでは、レイプについて掘り下げる。
スジンは、別の女たちがレイプされた後、どうしているか、何を感じているか、知りたかった。被害者の集まりや相談所に出ていくのは、アンジンが狭い町であることを考えると、噂になりそうで危険だった。
スジンが知りたかったのは、以下のような事柄だ。
「それで、どうでしたか? あなたたちはどんな気持ちでしたか? 私みたいに惨めですか? 悪夢を見ますか? 私みたいに自分が虫けらのような感じがしますか?」
それが導入部で、そこからさらに掘り下げる。
「最も知りたかったのは罪悪感だった。
自分は何も悪いことをしていないのに、なぜ、何か過ちを犯した気がするんでしょうか? 子供を堕したからでしょうか? でも、あれは本当に子供だったのでしょうか。自分が望まない状況で、望まないやり方で生じた細胞を、必ずしも子供と呼ばなくてはいけないのでしょうか? 私は? 私の人生は? 私の身体は? あなたたちはどうですか?」
しかしどれほど捜してみても、ネットには何の答えも出ていなかった。
スジンは大学に入って、ただ一度だけ酒を飲み、そのままドンヒと一緒にホテルに入った。それからあとは、ドンヒの言葉によれば、スジンから挑んでいったという。
しかし朝起きて、スジンはまったく覚えてなかった。
「『なかったことにして』
彼はベッドに腰を下ろし、靴下を履きながら言った。
『そうだな、酒を飲んで一緒に失敗した。忘れちまおうぜ。酒のせいさ』
〔中略〕何も起きていない。私は何もされなかった。私は、被害者じゃない。誰もこのことは知らなくていい。ミスったんだ。そう。私はミスを犯した。」
そしてそのミスは、彼女の深いところで傷になり、決して消えることはなかった。
そもそもレイプは、女性が強い拒絶の意志を示したときにのみ、立証された。女性が殴られ、叫びを上げ、脅され、命の危険を感じたときにのみ、レイプと呼ばれた。だからスジンが経験したことは、レイプではなかった。
しかしスジンは、ドンヒとの性交を望んだことはなかった。スジンにとって、レイプは単純だった。「被害者が望んでいない時に持たれた性関係」。
しかしスジンは酒に酔い、意識を失い、何もできない状態で、性交をした。
「スジンの場合は準強姦に該当した。準。よりによってこの単語の前に『準』という語がつくのか?」
自分の未来や、祖母のことを考えれば、ドンヒを告発することはできなかった。
そして妊娠した。初めは膣の内側の痛みが、3週間以上続いた。病院に行くと、膣の内部が損傷し、炎症を起こしているので、エコーを撮った。そして妊娠がわかり、手術をした。
「手術の後も、スジンはずっと病院に行った。痛かったからだ。病院には外科的に何の異常もないと追い返された。鎮痛剤だけ処方された。それでもスジンはずっと痛みを感じていた。下半身が攣るような、子宮の中で小さな肉片が剝がれていくような痛みを感じていた。下半身が完全になくなってしまったような、ボロボロになってぶら下がっているような感覚。体が、引き裂かれた紙みたいになった気分。」
ここは男の私が読んでいても、どうにも発する言葉がない。ドンヒを告発しようとは思わないし、してもしょうがないだろう。ただ女と男は、性交ということについて、対等の関係にはない、もっと言えば、非対称であると、そんなことしか浮かんでこない。
スジンは、別の女たちがレイプされた後、どうしているか、何を感じているか、知りたかった。被害者の集まりや相談所に出ていくのは、アンジンが狭い町であることを考えると、噂になりそうで危険だった。
スジンが知りたかったのは、以下のような事柄だ。
「それで、どうでしたか? あなたたちはどんな気持ちでしたか? 私みたいに惨めですか? 悪夢を見ますか? 私みたいに自分が虫けらのような感じがしますか?」
それが導入部で、そこからさらに掘り下げる。
「最も知りたかったのは罪悪感だった。
自分は何も悪いことをしていないのに、なぜ、何か過ちを犯した気がするんでしょうか? 子供を堕したからでしょうか? でも、あれは本当に子供だったのでしょうか。自分が望まない状況で、望まないやり方で生じた細胞を、必ずしも子供と呼ばなくてはいけないのでしょうか? 私は? 私の人生は? 私の身体は? あなたたちはどうですか?」
しかしどれほど捜してみても、ネットには何の答えも出ていなかった。
スジンは大学に入って、ただ一度だけ酒を飲み、そのままドンヒと一緒にホテルに入った。それからあとは、ドンヒの言葉によれば、スジンから挑んでいったという。
しかし朝起きて、スジンはまったく覚えてなかった。
「『なかったことにして』
彼はベッドに腰を下ろし、靴下を履きながら言った。
『そうだな、酒を飲んで一緒に失敗した。忘れちまおうぜ。酒のせいさ』
〔中略〕何も起きていない。私は何もされなかった。私は、被害者じゃない。誰もこのことは知らなくていい。ミスったんだ。そう。私はミスを犯した。」
そしてそのミスは、彼女の深いところで傷になり、決して消えることはなかった。
そもそもレイプは、女性が強い拒絶の意志を示したときにのみ、立証された。女性が殴られ、叫びを上げ、脅され、命の危険を感じたときにのみ、レイプと呼ばれた。だからスジンが経験したことは、レイプではなかった。
しかしスジンは、ドンヒとの性交を望んだことはなかった。スジンにとって、レイプは単純だった。「被害者が望んでいない時に持たれた性関係」。
しかしスジンは酒に酔い、意識を失い、何もできない状態で、性交をした。
「スジンの場合は準強姦に該当した。準。よりによってこの単語の前に『準』という語がつくのか?」
自分の未来や、祖母のことを考えれば、ドンヒを告発することはできなかった。
そして妊娠した。初めは膣の内側の痛みが、3週間以上続いた。病院に行くと、膣の内部が損傷し、炎症を起こしているので、エコーを撮った。そして妊娠がわかり、手術をした。
「手術の後も、スジンはずっと病院に行った。痛かったからだ。病院には外科的に何の異常もないと追い返された。鎮痛剤だけ処方された。それでもスジンはずっと痛みを感じていた。下半身が攣るような、子宮の中で小さな肉片が剝がれていくような痛みを感じていた。下半身が完全になくなってしまったような、ボロボロになってぶら下がっているような感覚。体が、引き裂かれた紙みたいになった気分。」
ここは男の私が読んでいても、どうにも発する言葉がない。ドンヒを告発しようとは思わないし、してもしょうがないだろう。ただ女と男は、性交ということについて、対等の関係にはない、もっと言えば、非対称であると、そんなことしか浮かんでこない。