奇跡の漫画――『将棋の渡辺くん』①~⑤(2)

まあそうはいっても、あまりからかわれると、「渡辺くん」、ちょっとかわいそう。
 
②巻の19番目の漫画は、「旦那は断然/布団派」「ベッドは/落ちそうで/怖い」で始まり、布団は敷きっぱなしにして、と言い、最後のコマは、夫人の目から見た旦那の、「布団とぬいぐるみ/のセットを見ると/中に入らずには/いられない」、「ゴキブリホイホイ/みたいな感じだ」で終わる。
 
これで、「君が僕をどう描こうが、僕の仕事には一切関係がない」、と言えるのは、まさに名人、第一級の人物である。
 
ここで初めて得た知識もある。たとえば、トーナメントで力の入るのが、決勝よりも準決勝なんて、まったく知らなかった(②巻の28番目)。
 
将棋界では1・2位は、優勝・準優勝として名前が残るけども、3・4位は残らない。1・2位は、対局料以外に賞金が出るが、3・4位は、対局料以外は何ももらえない。
 
渡辺が語る最後のコマ。

「だから/気合が入るのは/2位以上になれるか/どうかを決める/準決勝の方だね!」
 
でもね、お言葉を返すようですが、準優勝は棋界の内では名前が残るかもしれないが、外の我々一般には名前は残らないですね。
 
でも渡辺が言うように、「ツウの方は/準決勝も楽しんで/いただければ!」というのは、新しい知識として知っておこう。
 
⑤巻の14番目の漫画は、息を呑む。2017年度の渡辺の成績は、21勝27敗、勝率4割と自己最低だった(ちなみに渡辺の通算勝率は6割6分強である)。
 
このときの夫人の会話。「正直言うとね/君はもう勝てないと/私も思ってたよ」。いやあ、よく言うねえ。
 
このときは得意だった戦法をやめて、思い切って新しい戦法に変えてみた。それも血の滲むような努力をして。

すると翌年、40勝10敗、勝率8割で、自己最高を記録した。
 
どん底から復活までを、赤裸々に、真っ正直に描いて、躊躇するところがない。舌を巻く。

最後の場面はこうだ。

「そしてそうこう/している内に/藤井くんが/来るんだよ」
「で 俺も含めた/棋士みんなが/そっちの対策に/追われるの」
「もう真後ろに/いるんじゃん?」
「え?」
 
ちょっとゾクッとするような、素晴らしい幕切れである。
 
⑤巻の17番目は、渡辺明と藤井聡太の初対戦、朝日杯決勝である。これは公開対局であった。

渡辺はこれに敗れた。
 
家に帰って、伊奈めぐみの取材を受ける渡辺だが、これがまた正直なのである。
 
藤井くんの将棋はどうだった、という夫人の質問に対して、渡辺の答えは、長所は一杯あって短所はない、序盤の理解度が深くて、普段から勉強している上に、その場での順応が早い、一番の長所は、中盤戦での読みのスピード、1分間でそんなに読めるのかよ、というぐあい。とにかく大絶賛である。
 
最後に「渡辺明ブログ」が引いてあり、「(藤井くんだって)たまには負けたり苦戦する将棋もあるはずなので、次回までにそれを研究したいと思います」と締め括る。
 
それに対して伊奈めぐみは、「小学生の作文みたいだな…(かわいいな おい)」と受ける。
 
しかしこれは「小学生の作文みたい」、なんかじゃない。まったく素直に、思ったままを吐露しているのだ。渡辺の真の強さは、ここにもはっきり出でいる。
 
そして夫人の伊奈めぐみも、それを分かっているのだ。

『将棋の渡辺くん』はまだまだ続く、本当に楽しみだなあ、と小学生の作文みたいな感想を書いたりして。

(『将棋の渡辺くん』①~⑤伊奈めぐみ、講談社マガジンコミックス、
 ①2015年12月9日初刷、2020年10月2日第10刷、
 ②2016年8月9日初刷、2021年4月19日第10刷、
 ③2018年3月9日初刷、2020年11月6日第6刷、
 ④2019年8月8日初刷、2020年11月6日第5刷、
 ⑤2020年9月9日初刷、2020年11月6日第3刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:17Comment(0)日記

奇跡の漫画――『将棋の渡辺くん』①~⑤(1)

渡辺明名人を中心に将棋指しの奇妙な生態を、夫人の伊奈めぐみさんが、漫画にしたもの。
 
中身は全部ノンフィクションらしいのだが、渡辺名人が漫画用にデフォルメされていて、思わず笑ってしまう。
 
それにしても、将棋界も変わったものだ。むかし内藤國雄夫人が、主人も40歳を超えると物忘れするようになって、先日は傘をタクシーの中に置き忘れたんですよ、とさる所で喋ると、内藤が、そんなことを言ってはいけない、と嗜めたことがある。ライバルである有吉道夫に、弱みを見せたくなかったのだ。
 
いまでもそういう風潮は、ひょっとすると棋士の底流にあるのかもしれない。
 
しかし「渡辺くん」と、伊奈めぐみのカップルは違う。そもそもお互いを呼ぶときに、夫人の方が年上なこともあって、「きみ」だものね。こういう形式は、世間的には徐々に変わっていくだろう。

僕は妻を呼ぶときは、「きみ」で通している。だって田中晶子を呼ぶときに、「おまえ」とは呼べない。「おまえ」と呼んだら、「あなた、何様のつもりよ」、となるだろう。
 
この漫画は、しかしよく考えてみると、ほとんど奇跡の上に成り立っている。
 
まず伊奈めぐみが、将棋界と独立して立っている。だから将棋指しを、客観的に描くことができる。これは将棋指しという変わった種族というか、はっきり言って変人集団を、距離を置いて描くのに都合がいい。
 
もう一つは、渡辺明の実力、というか将棋界における地位である。長年「龍王」の位置にあり、いまはまた「名人」2期目である。これでは棋界や、その周りの少々のやっかみは、封印されざるを得ない。
 
この人が亭主では、悪口でない限り、細君は何を言っても許される。というか、漫画を通して、夫人の歯に衣着せぬ、しかし限りなくチャーミングなところが滲み出ていて、何度も読み、何度も納得されてしまう。
 
この漫画が成り立っている要めの位置に、渡辺名人の、「僕は、君が何を描こうが、僕の仕事にはまったく影響しない」という一言がある。
 
伊奈めぐみは、渡辺名人をどんなにからかって描こうが、渡辺明はまったく気にしてないのである。
 
渡辺名人は、将棋に関しては、徹底的に合理的なのだ。対戦相手の戦法を細かく研究し、場合によっては初手から詰みまでを暗記する。
 
藤井聡太3冠が、渡辺明名人にただ1回敗れたときは、そんなふうだった。渡辺は100手前後まで暗記してきたのである。
 
そしてそういうことは、夫人の仕事とはいっさい関係がない。
 
だから、こういうことをすれば、縁起が良いとか悪いとか、あるいはゲンを担ぐということがない。

周りの雑音にも惑わされない。藤井とやるときでも、全員が藤井を応援しても、アウェー感がない(ま、将棋は室内ゲームで、しかも密室に近いから、アウェー感もなにもないが)。
 
そういう夫君であればこそ、伊奈めぐみは、縦横の活躍ができるのだ。これはどれが欠けても、『将棋の渡辺くん』は成立しなくなるのである。
posted by 中嶋 廣 at 09:22Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(8)

盛田昭夫・石原慎太郎の『「NO」と言える日本』は、もう取り上げるのはやめようかと思っていた。
 
しかし著者が調子に乗りまくり、出版社が後押しすると、こんな本ができてしまう、という典型として上げておく。
 
1989年、竹下登政権の時代、アメリカは製造業の不振で、貿易赤字と財政赤字に苦しんでいた。対日感情は悪化し、激しいジャパン・バッシングが起こった。

しかしバブル景気に沸く日本は、アメリカの反感など、日本が一流になった証拠で、たいしたことではないと考えていた。まだGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)が、一社もなかったころの話である。

「そういう時代の産物だと思うと、『「NO」と言える日本』はまことにおもしろい、というか恥ずかしい本である。大言壮語というか傲岸不遜というか、二人とも吹きまくっており、『人間、増長するとこうなります』という見本のようだ。」
 
斎藤美奈子の★は〈名作度〉〈使える度〉ともに1つだが、ここでは藤井聡太の常に謙虚なたたずまいを見習うのがよかろう、と一言付け加えて、ともに無星としたい。(あるいは藤井に習うことが、高尚すぎて無理だとすれば、吉本新喜劇でMr.オクレが舞台から下がるときのセリフ、「ア~ホ~」を進呈したい。)
 
司馬遼太郎『この国のかたち』は、私には読めなかった。『この国のかたち』だけではなく、司馬遼の小説、『竜馬がゆく』や『菜の花の沖』も読めない。5ページも読むと、もういけない。
 
とにかく床屋政談が、エッセイでも小説でも頻繁に出てくるが、そして著者は得々とそれを語るが、噴飯もの以外の何ものでもない。

その文体もまた、目の粗い花崗岩のようで、まことにウンザリする。

もうそろそろ全国の書店で、潮が引くように、一斉に返品の洪水になっているだろう。斎藤美奈子は〈名作度〉〈使える度〉ともに★1つだが、もちろん無星、できればここに取り上げるのもやめてほしい。
 
全部の本について読んでくると、1990年代のものがあまりに寂しい。『この国のかたち』、『清貧の思想』、『マディソン郡の橋』の3本ではどうにもならない。
 
年代的に近くなれば、選ぶのが難しくなる、というのならわかるが、90年代以降、じつはろくな本がないから、というのではどうしようもない。だからいま私は、どちらかといえば新刊に軸足を置いて、書評を書いているのだ。
 
それはともかく、この本は役に立った。とりあえず『橋のない川』住井すゑ、『感傷旅行』田辺聖子、『あゝ野麦峠』山本茂実、『極東セレナーデ』小林信彦、そして片岡義男の新刊エッセイを読んでみよう。
 
最後に斎藤美奈子は、「あとがき」にかいている。

「単行本化するにあたり、結局ほとんど本を読み直し、原稿も書き直すことになった。一四年の間に世の中は進み、同じ本でも二〇一〇年に読んだのと、二〇二〇年に読むのとでは、気分がやっぱり違うのだ。」
 
そうなのである。だから縁がないと思っていた、『橋のない川』や『あゝ野麦峠』も、読もうと思ったのだ。

(『中古典のすすめ』斎藤美奈子、紀伊國屋書店、2020年9月10日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 11:55Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(7)

1987年のベストセラー第1位は、俵万智の『サラダ記念日』だった。第2位はG・キングスレイ・ウォードの『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』(城山三郎訳)。 
 
そして第3位が安部譲二『塀の中の懲りない面々』である。斎藤美奈子は、「なぜこのような本がミリオンセラーになったのか。いまとなっては謎だけど」と書いているが、この年のベストテンには、安部譲二の『極道渡世の素敵な面々』と『塀の中のプレイ・ボール』の2冊が入っている。安部は、短かったけども、ナンバーワンの売れっ子作家の時代があったのだ。

『塀の中の懲りない面々』は何といっても、山本夏彦が主宰する雑誌、『室内』に連載されたことが大きかった。

大立者というよりは、小言幸兵衛といった方がぴったりの山本夏彦が、チンピラ風に見える安部譲二を、言葉は悪いが、子犬を手なずけるように転がしている。そこも良かった。
 
それにしても、今から見るとベストテンの顔ぶれは、実に豊かだったと言わざるを得ない。本当はこの時代には、読み応えのあるしっかりした本が、もう無くなってきていた。
 
ふり返っていまは、年間のベストテンを見る気もしない。
 
ちなみに『塀の中の懲りない面々』は、〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★2つだが、これが古典に格上げされることはないだろう。
 
小林信彦『極東セレナーデ』は、『中古典のすすめ』に導かれて読んだ本の中では、圧倒的に面白かった。まさに掘り出し物だった。
 
このバブルの時代は、よってたかってアイドルを作り上げ、そこにギョーカイ人が押し寄せる。

「ま、あり得ない話です。あり得ない話なんだけど、バカげたカネを使ってバカげた商売を考える人たちが実際いたのも、この時代ではあった。そのうえ利奈〔主人公〕の周りを固めているのがまた、いかにもギョーカイ然とした怪しいやつばっかりなんだ。」
 
後半の最後、チェルノブイリの原発事故が起こる。小説の明るい調子は転調し、時代は暗転する。
 
ここを先途と東京電力と広告会社は躍起となって、「だって――日本の原子力発電は安全なんだもん」キャンペーンを打ち出す。これを背負わされたアイドルは、どうなっていくのか。

「文化人やタレントを積極的に活用した、巧妙な原発安全キャンペーンがスタートしたのが九〇年代だったことを思えば、不吉な未来を予言していたともいうべきかもしれない。」

「かもしれない」どころではない。この結末は、数々の事故、中でも福島原発の事故を予言し、この先の日本をあまりに精確に見ていた。
 
こんな優れた小説があったのか。しかも小林信彦の新聞小説で。
 
これは福島第一原発の事故後、もっと読まれてしかるべきだった。それとも実際に、この時期読まれたのに、私が知らなかっただけか。どうせ小林信彦だから通俗小説と思って、見ていたのかもしれない。実にバカだった。
 
ちなみにこれは、〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つだが、こういうものが、大きく言えば、千変万化する「中古典」と呼ぶにふさわしい。
posted by 中嶋 廣 at 16:21Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(6)

堀江邦夫『原発ジプシー』、これは現代人の必読書。正確には『増補改訂版 原発ジプシー——被曝下請け労働者の記録』という増補版が出ている。
 
これは国民必読の書だろう。〈名作度〉〈使える度〉、ともに★3つである。
 
斎藤美奈子は言う。

「原発事故から九年たった二〇二〇年七月二〇日現在、日本の原発は全部で五七基。うち稼働している原発は四基で、二九基が停止中、二四基は廃炉が決定している。
 しかし、廃炉への道は容易ではない。」
 
容易でなかろうとあろうと、必ず今すぐに廃炉にすべきものだ。今すぐにと言ったって、時間はかかる。だから今すぐに、でなければならないのだ。
 
自民党政府は、原子炉で汚染された水を薄めて、海水の中へ棄てよという。日本はどの国よりも基準が厳しくて、さらにその基準を大幅に下回っているから、海水と混ぜても問題ないのだという。
 
馬鹿を言うな。汚染の度合いと、国家の基準は、何の関係もないことだ。もっと言えば、国家基準は常に、汚染水の基準を上回って設定すればよいのだ。これで問題ありません。アホか!
 
一度、汚染水を海に流してしまえば、ほとんど永久に海に流し続けるだろう。これを止めるのは、まず不可能である。

いつの日か、海から上がるものは、魚であれ、貝であれ、あるいは海藻であれ、一切口にはできぬことになっていよう。
 
もっとも『原発ジプシー』は、直接の反原発本ではない。しかしそこに従事する人を描いて、強烈なノーを突きつける。
 
ホイチョイ・プロダクションの『見栄講座』は、斎藤美奈子の本文を読んでもよくわからない。

「知らない人もいると思うが、私はこれが八〇年代を代表する本だと思っている。空前のバブル景気に日本中が浮かれるのは八〇年代の後半だが、前半のプレ・バブル期でも、世間はすでに浮ついていた。若者たちは夜な夜な『カフェバー』や『ディスコ』に集い、夏はテニスやサーフィン、冬はスキーと遊び回り、『ギョーカイ人』が幅を利かせ、『ネクラ』なやつが排斥され、みんながシティボーイやシティガールを気取っていた。」
 
なるほどね。私は大学を出て筑摩書房に就職し、それがあっという間に潰れて、それでもどこへ行けばいいのかわからず、更生会社の筑摩書房に9年いた。だから80年代は、ずっと食うや食わず(比喩ではなく)だったわけだ。
 
しかし、ふと考える。筑摩書房が潰れていなくて、仮に景気がよかったら、こういう本をバイブルに遊んでいたのだろうか。そう考えると、私には縁のない本だった。
 
斎藤美奈子は、〈名作度〉★1つ、〈使える度〉★3つとしているが、私にとっては両方とも無星である。
posted by 中嶋 廣 at 09:27Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(5)

小松左京『日本沈没』は、上下巻合わせて400万部という大ベストセラーだ。
 
しかし読んでいるときは、息も継がせぬほどだったが、読み終わってみると、まあそういうことなんだな、という感じだった。つまりはSFの世界の話である。
 
ところが21世紀にはいるころから、あるいはもう少し前から、様相が変わってきた。

「温室効果ガスの増加による地球の温暖化である。気候変動は年々激しさを増し、このまま行けば地球の永久凍土が溶け、海水面が上昇、太平洋の海抜の低い島国は水没するという説を唱える人もいる。
『日本沈没』に繰り返し読者が戻ってくるのは、ここで描かれたような地球の変異と無縁ではない世界に私たちが生きているからだろう。」
 
これは〈名作度〉★3つ、〈使える度〉★2つとしてあるが、〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つにした方がいいだろう。
 
しかし、ほとんど古典に入りそうな本が、これほど面白くていいのかね。

片岡義男『スローなブギにしてくれ』は、最初から食指が動かなかった。
 
斎藤美奈子の分析によれば、ひとつには、シーンを切り取ることは巧みでも、長編小説の場合、構成力が必要だったから。そこが彼の弱点だった。

「もうひとつの理由は、日本文学の側が彼のような表現を好まなかったことである。内面を拒否し、長編小説に相応しい構成力を持たず、登場人物の家族関係にも彼らを取り巻く社会的な背景にも目を向けない片岡文学。それは芥川賞からも直木賞からもハジかれる特異な存在だった。いいかえると、片岡文学はどこまでも乾いていた。」
 
私が一作も読んでこなかった理由は、齋藤の分析に尽きている。

ところがこれは〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つなのである。
 
うーん、どうしよう。代表的な短篇を読んでも、たちまち本を投げつけるに決まっている。それなら脇道にそれたところから、つまりエッセイを読んで、そこから先を考えてみよう。さいわい片岡義男の『珈琲が呼ぶ』が、新刊エッセイで評判を呼んでいるところだ。
 
橋本治『桃尻娘』は、出たときは夢中になって読んだ。それから10年後の『桃尻語訳枕草子』も、傑作だった。
 
しかしあまりに多作で、以後は読まなかった。橋本治が急に亡くなって、久しぶりに何冊か読んだ。

小説もエッセイも、じつに無慙なものだった。橋本治に己れを疑うところが、かけらもないために、とりつくしまがなかった。それはこのブログに詳しく書いた。

『桃尻娘』は〈名作度〉★3つ、〈使える度〉★3つ、とあるが、ここまででよかったのだ。
 
五木寛之『四季・奈津子』は映画になり、主役の「奈津子」を烏丸せつこ、相手役の「ケイ」を阿木燿子が演じた。二人ともヌードが奇麗だった。
 
映画の原作には十分ではあっても、本の方は読む気はなかった。
 
斎藤美奈子の感想。

「発表から四〇年以上が経過したいま読むと、恥ずかしすぎて鼻血が出そうな小説である。奈津子っていう人は、じっくりものを考える習慣がないのだろうか。」
 
鼻血ブーの小説の〈名作度〉は★2つ、〈使える度〉★1つだが、これは〈名作度〉★1つではなかろうか。
posted by 中嶋 廣 at 09:28Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(4)

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』を初めて読んだときは、衝撃だった。後になってみれば、若い物書きや読者は、一様に衝撃を受けていたのだ。

「読者に衝撃を与えたこの小説の新しさは、何よりもその文体だった。
〈ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず『ママ』が出てくるのだ〉
 以上が書き出し。」
 
庄司薫の文体については、菊地史彦さんと話したことがある。菊地さんが書下ろしで大作『「幸せ」の戦後史』を書いている頃で、どういう経緯かは忘れたが、庄司薫の文体は素晴らしい、ほとんど革命的であるという話を、お互いにしたことを覚えている。
 
以後この文体は、いろいろなところを広く覆っていった。〈名作度〉★3つ、〈使える度〉★2つであるが、〈使える度〉は★3つとした方がよい。
 
土居健郎『「甘え」の構造』は、大学の遼にいるときに読んだ。向学心に燃えている頃だから、けっこう面白く読んだ記憶がある。
 
しかし斎藤美奈子の評は違う。

「悪いが私の感想は、あなたが『甘え』の構造じゃ、であった。論旨は不明瞭。あちこちに話が飛ぶ。思いつきの域を出ない。文章がまどろっこしい。」
 
クソミソである。〈名作度〉★1つ、〈使える度〉★1つ。これでは読み直す気も失せる。
 
有吉佐和子『恍惚の人』を読んだときの衝撃は、今でもはっきりと覚えている。このころは介護保険制度がなかったし、今の「認知症」も「痴呆」と呼ばれていた。
 
この小説が出た1972年は、平均寿命が女性76歳、男性71歳。対して2018年は、女性は87歳、男性81歳である。50年前であれば、私もそろそろ、寿命が尽きるころだ。
 
1970年には10人で1人の高齢者を支えていればよかったが、現在は2人で1人を支える時代である。軍備なんかに金をかけている時代じゃないことは、ようくわかっているはずだ。
 
なお本文中に、老人介護を描いた小説がいくつか出てくる。そのうち耕治人の3部作、「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」は傑作だ。

『恍惚の人』が、〈名作度〉〈使える度〉ともに★2つなら、耕治人の3部作は、ともに★3つだと私は思う。
 
井上ひさし『青葉繁れる』は読んだときは、愕然とした。まず文体がひどい。読んでいても、一切焦点が合わないのだ。これで物書きとは恐れ入った。
 
そして内容。「ぶす」の女の子が、主人公たちに危うくレイプされそうになる。事の次第を知った男子校の校長の言い分が、また危うく絶句しそうである。

「校長の言い分は〈彼女はひょこひょこ山へ行き、行ったら当然起るであろうことが起こっただけなのに、乱暴されたとわめく。これはじつに卑怯ですなぁ〉。
 生徒が生徒なら校長も校長、とんだ名門校があったものである。」
 
こういうの、どんな顔して読めというのかね。これはともに★1つとあるが、無星がいいところである。
posted by 中嶋 廣 at 09:33Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(3)

田辺聖子の『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』は芥川賞受賞作。

共産党「党員」との恋を、徹底的に茶化して描き、〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つの星を付ける。
 
田辺聖子については、不幸な出会いがある。中学生になったとき、『中一コース』を買った。そこに田辺聖子の小説が載っていた。内容はもちろん忘れたが、実に噴飯ものだったことは覚えている。
 
とにかく中学生になったばかりで、思いっきり背伸びして、新潮文庫の『赤と黒』と『月と六ペンス』を、読み始めたころである。

今となってみれば、この2冊は、全体はよく分からないはずだが、それでも読み終わって、ひどく感動した。本を読むとは、こういう感動を味わうことなのだ、と心に刻んだ。
 
それに対して、田辺聖子の、たぶんティーンエイジャーの、『中一コース』向きの恋愛小説である。不幸な出会いというのはあるものだ。このまま一生縁がなくていいのか。そうだ、ここで巡りあったのが機縁で読んでみよう、ということです。

『されどわれらが日々——』(柴田翔)は、〈名作度〉★3つ、〈使える度〉★2つとあるが、なぜ学生が自殺するのかがよくわからない、当時は自殺が流行っていた、としか思えない。〈使える度〉は★1つだろう。
 
山崎豊子『白い巨塔』は〈名作度〉★3つだが、これは甘い。「悪いお医者と良いお医者。じつにわかりやすい悪玉と善玉の描き分けじゃあありませんか!」と書いているのだから、★2つが精々のところだろう。
 
梅棹忠夫『文明の生態史観』、これを評するのは実は難しい。私たちの頃は、江上波夫の「騎馬民族国家」や、加藤周一の「雑種文化論」と並べて読んだ。
 
それに対し斎藤美奈子はこう言う。「いかにも本当らしく見えるこの本は、実証しようがない点で、じつは思いつきの域を出ない。」
 
うーん、そうかい。

「梅棹当人も生態史観は〈単なる知的好奇心の産物〉だと述べているのだ。本書を論拠に世界を語ろうとする人には『バカだね、あれは居酒屋談義だよ。与太話だよ』といってやるべきだろう。」
 
実に痛烈である。

それでも〈名作度〉は★3つ、〈使える度〉は★2つ、と評価大なるものがある。これはどういうことか。ま、これ以上突っ込むのはヤメにしよう。
 
山本茂実『あゝ野麦峠』は、時期が時期だけに読んでみよう。ちなみに「野麦」とはクマザサのことで、この峠にはクマザサが群生しているという。

「経済格差が広がり、非正規雇用者が激増し、劣悪な職場環境が社会問題化し、社会の『野麦峠化』が顕著な今日、本書を読む意味はむしろ上がったんじゃないだろうか。」
 
これは〈名作度〉も〈使える度〉も、★3つである。
 
石川達三『青春の蹉跌』は大学のときに、映画化されたのを見た。神代辰巳監督、長谷川和彦脚本で、萩原健一、桃井かおり、檀ふみらが演じた。ずいぶん話題になった。

〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つ。しかし私は、読もうとは思わない。
 
もともとシオドア・ドライザーの『アメリカの悲劇』の翻訳版で、これは高校の時に読んだ。陰惨な話で、名作だが、二度三度読む気はしない。

それを映画化したモンゴメリー・クリフト、エリザベス・テイラーの『陽のあたる場所』も、一度見れば十分だ。
 
何よりも石川達三の、通俗の極みである文体が嫌いだ。
posted by 中嶋 廣 at 09:51Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(2)

ざっと並べてみると、最初から箸にも棒にも掛からないという作品があって、これは斎藤美奈子と一緒になって、丁々発止やりあえばいいのだな、とわかる。
 
たとえは『ジャパン アズ ナンバーワン』、『なんとなく、クリスタル』、『気くばりのすすめ』、『ひとひらの雪』、『見栄講座』、『「NO」と言える日本』というような、毒にも薬にもならない本、いやむしろ場合によっては、はっきり毒になるような本である。
 
ただしホイチョイ・プロダクションの『見栄講座』を、齋藤は独自の視点から読んで、高く評価している。
 
とりあえずは読んでいこう。
 
トップはまず『橋のない川』、これは〈名作度〉〈使える度〉ともに、★3つである。結びの文章は次のようだ。

「特に中高生はみんな読んだほうがいいと私は思う。二〇一六年、障害者差別解消法やヘイトスピーチ対策法とともに、部落差別解消推進法が施行されたのはなぜか。今日も差別が解消されていないからである。差別への感受性が鈍っている時代にこそ効くストレートパンチ。『橋のない川』はそういう小説だ。」
 
ちょっとタテマエが鼻につくけども、そして斎藤美奈子は、そういうところがあるけども、これは読んでみよう。
 
あとはピックアップしていく。

『日本の思想』(丸山眞男)は〈名作度〉が★3つ、〈使える度〉が★2つとあるが、私は〈使える度〉も★3つだと思う。これぞ限りなく古典に近づいた中古典!
 
山口瞳の『江分利満氏の優雅な生活』は、サラリーマンのちょっとした苦労を描いた、エッセイのようなもの、というのをオブラートに包んだ、戦争を呪詛する書。これについては、このブログの初めの方に書いた。

〈名作度〉が★3つ、〈使える度〉が★2つとあるが、〈使える度〉は★1つだろう。もちろん山口瞳贔屓の私としては、齋藤の★2つは嬉しい限りだが。
 
遠藤周作『わたしが・棄てた・女』は、どうしようもない代物である。

「森田ミツ」は背が低く小太り、小児麻痺のせいで足が悪く、自己卑下から男に身を任せてしまう。主人公の「吉岡」は、そこにつけ込む。足の悪い小太りの娘とは、一回ヤレば十分だ。

娘は薄幸で、転落の道をたどり、最後は交通事故で死んでしまう。

しかし「吉岡」は、娘が自分を恨んでなかったことを知る。

「理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女だと思っている……」
 
あ、あ、あほか! それ、ほとんど同意なきセックスやぞ、レイプやんけ! それを訴えないから「聖女」だとは!

斎藤美奈子は、「その昔、はじめて私が読んだ際の読後感は最悪だった」と吐き捨てる。

これは万人にとって、「わたしが・棄てた・本」になるだろう、と私は思う。評価はもちろん、無星が妥当だ。
posted by 中嶋 廣 at 09:09Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(1)

中古典は斎藤美奈子の造語で、歴史的な評価が定まっていないもの、帯によれば「『ベストセラー』以上『古典』未満」の本を指す。

「それが古典に昇格するか否かは、現時点では神のみぞ知るである。」
 
そういう本を48冊選んで、読み直してみたのである。具体的には次の通りだが、長いので、横目でチラっと見てください。

一九六〇年代
 『橋のない川』住井すゑ           『日本の思想』丸山眞男
 『キューポラのある街』早船ちよ       『江分利満氏の優雅な生活』山口瞳
 『わたしが・棄てた・女』遠藤周作      『感傷旅行』田辺聖子
 『されどわれらが日々ーー』柴田翔      『白い巨塔』山崎豊子
 『天国にいちばん近い島』森村桂       『文明の生態史観』梅棹忠夫
 『タテ社会の人間関係』中根千枝       『あゝ野麦峠』山本茂実
 『青春の蹉跌』石川達三           『どくとるマンボウ青春期』北杜夫
 『赤頭巾ちゃん気をつけて』庄司薫

一九七〇年代
 『日本人とユダヤ人』イザヤ・ベンダサン   『二十歳の原点』高野悦子
 『「甘え」の構造』土居健郎         『サンダカン八番娼館』山崎朋子
 『恍惚の人』有吉佐和子           『青葉繁れる』井上ひさし
 『日本沈没』小松左京            『自動車絶望工場』鎌田慧
 『兎の眼』灰谷健次郎            『スローなブギにしてくれ』片岡義男
 『桃尻娘』橋本治              『知的悪女のすすめ』小池真理子
 『四季・奈津子』五木寛之          『原発ジプシー』堀江邦夫
 『ジャパン アズ ナンバーワン』エズラ・F・ヴォーゲル

一九八〇年代
 『蒼い時』山口百恵             『悪魔の飽食』森村誠一
 『なんとなく、クリスタル』田中康夫     『窓ぎわのトットちゃん』黒柳徹子
 『気くばりのすすめ』鈴木健二        『ルンルンを買っておうちに帰ろう』
                                    林真理子
 『ひとひらの雪』渡辺淳一          『構造と力』浅田彰
 『見栄講座』ホイチョイ・プロダクション   『良いおっぱい悪いおっぱい』
                                   伊藤比呂美
 『塀の中の懲りない面々』安部譲二      『極東セレナーデ』小林信彦
 『ノルウェイの森』村上春樹         『キッチン』吉本ばなな
 『「NO」と言える日本』盛田昭夫・石原慎太郎

一九九〇年代
 『この国のかたち』司馬遼太郎        『清貧の思想』中野孝次
 『マディソン郡の橋』ロバート・J・ウォラー

全部並べてみると、懐かしいのと同時に、あのベストセラーは残る本になったのか、ということを指摘しておきたいのだな、とわかる。
 
しかもこれには採点表が付いていて、こういうものである。

〈名作度〉                 〈使える度〉
  ★★★ すでに古典の領域          ★★★ いまも十分読む価値あり
  ★★  知る人ぞ知る古典の補欠       ★★  暇なら読んで損はない
  ★   名作の名に値せず          ★   無理して読む必要なし

こりゃあ、面白いぞ。
posted by 中嶋 廣 at 09:27Comment(0)日記