本当の疑問――『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(6)

もはや多くを語る必要はあるまい。梯久美子の栗林忠道に対する評価は、小さな中での評価であり、別の言い方をすれば、うわべの矛盾を撫でるだけのものだった。

だから、栗林の戦術や作戦も、結果はむしろ、余計に悪くするものだった。

「目的はあくまでも持久戦なのだから、水際では決戦を行わず一撃を与えたら引き上げる。そして複線化した陣地で長期にわたって徹底抗戦をする。それが合理主義者である栗林の考えだった。」
 
このような「合理主義者」の行く先は、どれだけ悲惨な事態を生むか。

栗林はアメリカをよく知っていた、と梯は言う。

それで、硫黄島を戦場にして、ほかの南洋の島の場合とは、全く違う戦い方をした。しかしそれは、原爆につながる、最も悲惨な運命を、結果として選び取るものだった。
 
栗林はアメリカを、本当のところはよく知らなかったのだ、と私は思う。
 
梯久美子は、栗林を評価するのに、いつも近視眼的な見方ばかりをしている。

「……結論に行き着くや具体的な計画を立て、万難を排してただちに実行に移すという迅速さは栗林ならではであろう。しかもその時点において、栗林の決断は大本営の方針に背くものだったのだ。」
 
大本営の方針が、あまりに馬鹿々々しいから、それを批判する栗林は、一見合理的に見える。しかも、大本営に対して、栗林は一人で論陣を張り、戦っている。
 
でも、その合理主義は、より大局から見れば、とんでもない愚行なのだ。
 
栗林は、この本では、いかにも将兵を大事にし、合理主義者でスマートに見える。しかし、それは違うのだ。

「戦術思想においては合理主義者だった栗林だが、生き方においては、前線に赴き敵弾に身をさらすことこそが軍人の本分であるという愚直なまでの信念を持っていた。」
 
だから硫黄島の戦場は、栗林の意図したとおりになった、と梯は言うが、それは違うと思う。

「前線に赴き敵弾に身をさらすことこそが軍人の本分である」ということと、そのまま軍人として死ぬこととは、イコールで結ばれてもいなければ、直線的につながってもいない。
 
鴻上尚史『不死身の特攻兵』のブログで書いたように、今現在、本当に優れていると思うことでなければ、文章の修飾などでごまかしたり、酔ってうっとりしたって、駄目なものは駄目である。
 
とはいえ、戦争のことに関しては、例えば梯久美子の書くものが、今のところ、日本人の限界なのかとも思う。

話を広げて、人間の限界ということになると、これはもう、はっきりとあって、どうにもならない。

でも私は、できればそれを、少しでも広げたいと思い、現役の編集者のころは、そういう思いで仕事をしてきた。

今はもう、編集者の仕事はできないけれど、でも人としての限界を広げられたならと、なおも秘かに思っている。

(『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』
 梯久美子、新潮社、2005年7月30日初刷、2006年11月10日第21刷)
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本当の疑問――『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(5)

栗林忠道が、どんな犠牲を払ってでも、硫黄島の戦闘を持久戦に持ち込もうとしたのは、Bー29によって本土が空襲されるのを、一日でも遅らせたい、という思いからだった。
 
それは妻、「義井」宛ての手紙に、はっきり書かれている。

「もしまた私の居る島が攻め取られたりしたら、その上何百という敵機がさらに増加することとなり、本土は今の何層倍かの激しい空襲を受けることになり、悪くすると敵は千葉県や神奈川県の海岸から上陸して東京近辺へ侵入して来るかも知れない。」(昭和20年1月21日付)
 
だから自分は、「最後の一人となるも『ゲリラ』」となって、敵を悩まそうというわけだが、それにしても、全体としてはかなり空想的である。
 
硫黄島で戦っている間に、上層部で和平交渉をしてほしい。でも、軍の中枢で、いったい誰が? 「どうかアッツ島のようにやってくれ」、と言った東条英機か。
 
栗林が、妻に宛てた手紙には、はっきりと「敗戦」を前提とした一節がある。

「これからさらに恐ろしい敗戦の運命の中、どういうことになるかもわからないことを思い、女ながらも強く強く生き抜くことが肝心です。」(昭和19年8月25日付)
 
こんな手紙が検閲を通るはずがない、と思うだろうが、最高指揮官であればこそ、届いた手紙なのである。
 
硫黄島では、米軍との4日間の戦闘が、ガダルカナルでの5か月間にわたる戦闘を、上回る死傷者を出した。
 
あまりの犠牲者の数に、アメリカの世論は沸騰した。新聞には、若者をこれ以上殺すな、指揮官を更迭せよ、という投書が載った。

「こうした事態を事前に見越していたからこそ、栗林は華々しく戦って散るよりも、持久戦に持ち込んで米軍の人的被害を少しでも多くすることを選んだ」というのが、アメリカの史家の指摘である。
 
それが指摘通りだとしても、その後に起こったことは、栗林の期待を大きく裏切るものだった。

「これ以上自国の若者たちを死なせるわけにはいかないと考えた米国政府が戦争の早期終結のために選んだのは、原爆の使用によって、日本の一般市民を大量に殺傷することだったのである。」
 
これは栗林が、まったく予想もしていない結末であろう。
 
しかし、そうではあるけれど、米国政府が、「自国の若者たちを死なせるわけにはいかない」と考えたのに対し、日本は、「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言い、第2次大戦末期には、若者を特攻隊に仕立てて、次々と死地に追いやったのである。
 
米国と日本では、同じ戦争を戦ってはいても、戦争の位相が、まったく違っていたことに、注意すべきである。
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本当の疑問――『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(4)

栗林忠道は、実際にアメリカを知る機会があった。

「栗林は米国通の軍人だった。まず昭和3年から5年まで軍事研究のため留学。30代後半の、まだ陸軍大尉だった頃である。その後、昭和6年から8年まで駐在武官としてカナダに滞在している。
 アメリカ留学中は……ニューヨークやサンフランシスコ、ロサンゼルスなども訪れ、みずから車を運転して大陸横断までやってのけている。アメリカの軍事力、経済力を自分の目で見て把握していたのである。」
 
最後の一文には、疑問がある。栗林は本当に、「アメリカの軍事力、経済力を自分の目で見て把握」していたのだろうか。たぶん、そんなことはない。
 
ここから数行後に、こんな文章がある。

「〝アメリカびいき〟〝親米派〟だったかどうかは別として、栗林が、この戦争が無謀なものであることを知りつつ、死力を尽くして島を守り抜こうと決意していたのは確かであろう。」
 
おっかしーい、でしょう。滅びることを知りつつ、苦渋の表情で、運命を受け入れる。まるで東映のヤクザ映画である。
 
どうして、こういうことになるのか。
 
栗林は、アメリカと直接、戦争をするに際して、「烈々たる言葉」で、六項目の「敢闘の誓」を立て、全軍に配っている。
 
その中には、「我等は一発必中射撃に依って敵を撃ち仆(たお)さん」とか、「我等は最後の一人となるも『ゲリラ』に依って敵を悩まさん」、というようなスローガンがあるが、その中に、こういう一文がある。

「我等は敵十人を斃さざれば死すとも死せず。」
 
こういうスローガンを、正気で全軍に配布する栗林を、近代人として遇することができるだろうか。

「結果を言えば、2万余の将兵はまさにこの『敢闘の誓』通りに戦った。見事とも、無惨きわまりないともいえる戦い方である。それは米兵たちを震撼させた。」

「見事とも、無惨きわまりないともいえる戦い方」というのは、どちらが正しいのであろうか。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているに違いない。
 
梯久美子は、ギリギリのところで、筆を止めているが、でも、それではだめなのである。
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本当の疑問――『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(3)

それにしても、硫黄島はこれ以上ない、ひどいところだった。

「硫黄島に川は一本もなく、井戸を掘っても、出てくるのは硫黄分の多い塩水である。栗林を含む2万余の将兵の飲み水は、雨水を貯えてこれを用いるしかなかった。生命を支えるギリギリの量であるその水さえ汚染されており、兵士たちはパラチフスや下痢、栄養失調で次々に倒れた。」
 
こういうときに、彼我の軍事力の差を測り、さっさと降伏するということは、できなかったのか。
 
どうも日本軍の行く手には、「玉砕」の二文字しかないようだ。

「栗林を硫黄島の総指揮官に指名したのは、当時首相を務めていた東条英機である。その際、彼は栗林に『どうかアッツ島のようにやってくれ』と言ったという。アッツ島は、栗林が硫黄島へ行く前年の昭和18年、米軍の上陸を阻止しようとして死闘を演じ、玉砕という名の全滅を遂げたアリューシャン列島の小島である。」
 
こういうところを読んでしまうと、とても先へは進めなくなる。「どうかアッツ島のようにやってくれ」という東条の言葉。どうかしてるぜ、まったく。完全に狂気の世界だ。
 
それでこの本は、出てすぐに買ったにもかかわらず、読み差しのまま、長く放置してあった。
 
栗林忠道は、正直なところ、どうしようと思ったろうか。もっと前に、軍人を辞めることを、考えなかったろうか。
 
梯久美子は、なんとか栗林のぎりぎりの内面を、探ろうとする。

「……戦力の差は開く一方であった。問題は、島をいつまで持ちこたえられるか。その一点だった。
 しかし敗北が決定的になったとしても退却は許されない。『アッツ島のように』、粘れるだけ粘り、全員が死ぬまで戦わなければならないのだ。
 では、何のために戦うのか。勝利がありえないとすれば、どんな目的のためならば、部下たちは〝甲斐ある死〟を死ぬことができるのか。……栗林は、そう自問したはずである。」
 
自問したはずだが、その答えを、梯は、書いていない。
 
できるだけ抵抗が長引けば、その間に、アメリカとの和平交渉ができる。そう栗林は考えたのかもしれない、と梯は憶測する。
 
でもそんなことは、まったくの、言ってみれば〝空想〟に過ぎない。
 
硫黄島の最大の問題は、飲み水を、どう調達するかだった。栗林は、「この島では、水の一滴は血の一滴だ」と言い、階級の上下を問わず、もちろん自分も含めて、平等に我慢させている。
 
飲み水だけではなく、他の生活の面でも、栗林は階級によって差をつけることを、固く禁じている。
 
およそ帝国軍人らしからぬ、いかにも平等をモットーとする、近代人という感じがするが、しかし志向が伸びるのは、そこまでだ。なぜそこまでで、留まるのだろう。なぜ矛盾した二つの間で、一方の極、つまり日本人の「玉砕」の方に、すべてを賭けるのだろうか。
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本当の疑問――『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(2)

梯久美子は、プロローグの末尾を、こんなふうに締め括っている。

「このとき、私はまだ知らなかった。死んでゆく兵士たちを『悲しき』とうたうことが、指揮官にとってどれほど大きなタブーであったかを。エリート軍人たる栗林が、いたずらに将兵を死地に追いやった軍中枢部への、ぎりぎりの抗議ともいうべきこの歌を詠むまでに、どのような戦場の日々があったのかを。」
 
これが、全体を通したテーマであり、以下に書くべきことがらである。
 
資料が限られている中を、梯は新しい資料を発掘し、ゆかりの人に会い、想像力を駆使して、栗林忠道の足跡をたどっている。それは、鬼気迫る、といってもいいくらいだ。
 
しかし一点だけ、注意しておきたい。硫黄島で「いたずらに将兵を死地に追いやった」のは、直接的には、栗林忠道の命令であることを。
 
その硫黄島は、本当のところ、どういうところだったか。梯久美子は、栗林が妻に手紙で書いているのを、引いている。

「『一口に言えば、信州の飯綱原とか菅平とか不毛の原野で穴居生活している訳で、考えようによっては地獄の生活』と書いているように、硫黄島はまさに荒野のごとき場所であった。」
 
あるいは栗林の、手紙そのものを引いている。

「水は湧水は全くなく、全部雨水を溜めて使います。それですからいつも、ああツメたい水を飲みたいなあと思いますが、どうにもなりません。
 蚊と蠅と多い事は想像以上で全く閉口です。……兵隊達は全部、天幕露営か穴居生活です。穴居は風通し悪く蒸しあつく、ソレハソレハ大変です。私も無論そういう生活です。」
 
栗林忠道の手紙は、類を見ないほど、戦場を率直に描写しているという。
 
それならもう一歩、この戦争は何のためなのか、というところには、踏み込めなかったのか。それは、天地がひっくり返るほど、びっくりするような問いだったのか。本当のところは、どうだったのか。
 
ともかくも、栗林の指向は、うわべに現われた限りでは、この戦争は何のためにあるのか、というふうには進んでいかない。

その代わりに、アメリカに対し、どう抵抗すればよいか、という点に、ただひたすら集中していく。
 
実際、栗林忠道は、アメリカをもっとも苦しめた指揮官だった。

「硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場である。最終的には敗北する防御側が、攻撃側にここまで大きなダメージを与えたのは稀有なことであり、米海兵隊は史上最大の苦戦を強いられた。」
 
その栗林は、一方で、日常的なことを、戦場からの手紙に淡々と書く、「当時の軍人としては女々しいとさえ言える」、異色の指揮官であり、梯久美子は、そこに惹かれたのだった。
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本当の疑問――『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(1)

梯久美子の作品は、『狂うひとー「死の棘」の妻・島尾ミホー』『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』と読んできたが、一番奥にある、作品を書く動機といったものがよく見えない。

それで、もとへ返って処女作、『散るぞ悲しき』を読んでみる。

これは硫黄島の総指揮官、栗林忠道を描いたものだ。

栗林は昭和20年3月16日、アメリカとの最終決戦を控えて、大本営に宛てて、「訣別電報」を打った。そこに三首の辞世があるが、それが新聞に発表されたときには、改変が成されていた。

  国のため重きつとめを果し得で矢弾つき果て散るぞ口惜し
 
栗林の電文では、最後の言葉は「散るぞ悲しき」だったが、「大日本帝国軍人」が「悲しき」とは何事だ、というわけで、新聞発表の際に、「散るぞ口惜し」に差し替えられたのだ。帝国軍人が、女々しいことを言うとは何事だ、というわけ。
 
こういうことについては、言いたいことはいろいろあるけれど、今は先を急ごう。

硫黄島の戦いは、第二次世界大戦史において、特筆される戦いだった。栗林忠道は、日本よりも、アメリカで有名になった。

「硫黄島は、はじめから絶望的な戦場だった。彼我の戦力の差を見れば、万にひとつも勝ち目はない。硫黄島の日本軍にはもはや飛行機も戦艦もなく、海上・航空戦力はゼロに等しかった。
 ……日本軍の玉砕は自明のことであり、少しでも長く持ちこたえて米軍の本土侵攻を遅らせることが、たった一つの使命だった。」
 
栗林忠道は、そのたった一つの使命を、十全にやり遂げる。
 
ところで、ここから一行おいて、こういう文章がある。

「……『鬼神を哭(なか)しむる』、つまり死者の魂や天地の神々をも慟哭させずにおかないような、すさまじくも哀切な戦いぶりを見せた……」。
 
栗林が「麾下(きか)将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり」というのはいい。現実の戦場が、どれほど汚わいと屈辱にまみれようが、それを戦うのは、栗林忠道と部下の軍人なのだから、どう言っても、自分たちで尻拭いしなければならない。
 
しかし栗林の文章を、地の文に重ね合わせて、実際の戦場を描写するのはいけない。

引くところの、「すさまじくも哀切な戦いぶり」といえば、そこにはすでに、別の情感が忍び込む。それは、やってはいけないことだ。玉砕をどう修飾してもどうしようもない。というか、修飾は一切、やめるべきだ。
 
文章を修飾して、戦争を飾るのは、想像力の欠如、または戦争を隠蔽することだ。
posted by 中嶋 廣 at 12:03Comment(0)日記

「祈る人」――『詩集 燃える水滴』

トランスビューにいるころ、若松英輔さんの本を、何冊か出した。

『神秘の夜の旅』が処女作で、これは、何というか、エッジの立った本だった。越知保夫のことを書いた本で、菊地信義さんが、それにふさわしい装幀をして下さった。文字通り、キレのある本だ。

『魂にふれるー大震災と、生きている死者ー』は、何度も重版し、大勢に読まれた本だった。上原專祿や田辺元の「死者との協同」について、こんなに多く読まれたのは、信じられない。
 
最後の「魂にふれる」は、若松さんが奥様のことを書いて、ただもう感動したという以外に言いようがない。
 
そういえばこのころ、末木文美士先生も、上原專祿や田辺元の「死者の哲学」について、思いを巡らしておられた。これは昨年暮れに出た、末木先生の『死者と菩薩の倫理学』として結実した。これは今読んでいる。

『池田晶子 不滅の哲学』は、若松さんというよりは、池田晶子さんに、約束を果たしましたよ、というつもりだった。

池田さんは、若くして死ぬことを覚悟しておられ、自分が死んだ後、必ず精神のバトンを受け継ぐものが出てくるから、それを見逃さないで、とおっしゃったのだ。

若松さんはその後、売れっ子となり、いくつもの出版社から本を出された。その本をすべて送ってくださる。そしてときに、そこに励ましの短い手紙が入っている。本当に頭が下がる。

この詩集は、そのうちの一冊である。

私は詩集は、通り一遍にしか読まない、というか、読めない。若松さんには申し訳ないが、いつもそんなふうだ。

しかし、この詩集は、そうではなかった。

帯の文句に言う。

「弱き者の/ささやきを/聞き逃さないために」
 
このところ、『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』、『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺ーー1972~2016』と読んできて、それでこの帯である。気合いを入れて、読まないわけにはいかない。
 
とは言うものの、若松さんは宗教者であるために、詩の言葉になると、宗教を持たない私とは、言葉を発する位置が、微妙にずれている。
 
それでも、こういう言葉に出逢う。

  孤独にさいなまれ
  誰も
  自分のことを
  祈ってくれる人などいない

  そう おもったとき
  あなたの知らないところで
  祈る人の姿を
  想い出してください               
                            (「祈る人」部分)

西村玲さんに、読ませたかった。

(『詩集 燃える水滴』若松英輔、亜紀書房、2019年2月10日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:56Comment(0)日記

それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(6)

二人の「契約」は、実際には、男の統合失調症の病歴という、重大な事柄をかくすことで、成り立っていなかった。

「『今、ここ』を四十年間脇目もふらず生きてきて、初めて『今』より『先』を見てしまった結果である。親にも相談せず自分の意思だけで決定したことだけに衝撃は大きく、自信もなくした。」
 
実際、男は2か月後くらいから、豹変したのである。

「結婚二ヶ月ぐらいは一見順調に見えたことから、その後の相手の急激な変貌が信じられず、また今までのように、ポストに望みがなく、仮に就職できたとしても好きな研究だけをやっていられるわけでもない苦行を続けていくのかと思うと、気が萎えた。」
 
これは年譜の中に、もう少し詳しい事実が書いてある。

「新婚旅行から帰って以降、××〔ここは男の実名が入る〕は自分だけの判断で薬を勝手にやめ、被害妄想、幻聴などの症状が頻出、会話も減り、パソコンに依存、この病気の特徴である同居者への執拗な攻撃性などが増していった。」
 
このときまだ、西村さんは、相手の統合失調症の病歴を知らない。

「玲も精神的に不安定になり、下痢・嘔吐などの症状が出、……『精神病も伝染するんだよ』。」

つまりは、そういうことである。
 
しかし、ご両親が何とか自分を納得させたいと、かろうじて言葉にしておられるものを、私が外から書いていて、スムーズに腹に納められるわけがない。

私には、「それにしても、なぜ」、という言葉しか出てこない。
 
西村玲さんが亡くなって、翌2017年12月に、「西村玲氏追悼研究集会 近世日本仏教思想の過去と現在」が、追悼研究集会実行委員会の呼びかけで、東大の本郷キャンパスで開かれた。参加者は約70名。
 
2018年1月、遺稿論文集『近世仏教論』が、末木文美士先生を中心に編まれ、法蔵館より出された。
 
後で末木先生に聞いたところでは、個々の論文は精度の高いもので、それを取りまとめるところまで、もう一歩だった、という話だった。
 
ここでお断りを一つ。本書は奥付に、「私家版」と入っている。果たしてこれは、公にしてよいのかどうか。非常に迷う話で、だからこのブログは、許可を得ずに書いた。

とにかく、西村玲さんのことは、ブログにどうしても書きたかった。

14年間、トランスビューにいて、西村玲さんの『近世仏教思想の独創ーー僧侶普寂の思想と実践』だけは、私が編集者であったから出来た本だと思う。そのことを、どうしても書いておきたかった。私も、仕事の上で、何かの役には立ったのだ、と、そう思いたい。

(『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺ーー1972~2016』
編集・発行 西村茂樹・西村久仁子)
posted by 中嶋 廣 at 09:20Comment(0)日記

それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(5)

最後の日記は、日記帳ではなく、別紙に書かれていた。

「2016・1・25
 ……
 なにも手伝えなくて、何もできなくて、ごめん。
 突然の事故で、と言えばいいと思う。
 無責任で、家族に対する犯罪で、死んだ後ひどいコトになる。でも、他に思いつかない。ごめんね。」

そして2016年2月2日、午後7時11分に、首を括って死去した。

この本の「あとがき」を、ご両親が別々に書いておられる。

そのうちの、ご父君の「あとがき」に、晩年の西村玲さんの、精神的な傾きの経緯が記されている。

「四十歳まで、玲は真面目に精進していれば、〝しかるべきポスト〟はついてくると無意識に信じて研究を続けていたし、親も、これだけ勉強していれば報われないはずはないと思っていた。先のことは考えず、『今、ここ』だけを生きていたのである。」
 
それが40歳を超えて、大学にポストを求めて、得られなくなったとき、足元が揺らぎはじめる。

「二十校以上の大学にポストを求める願書を出して、その都度『貴意に添えず』という回答を得、要求された大部な願書が読まれた形跡もなく返されてきた〝実績〟に鑑みて、状況はこれから悪化することはあっても良くなる見込みはないと判断した。今日の大学が求めているのは知性ではなく、使い易い労働力だという現実を認識せざるを得なかった。」
 
日本の大学の現状については、このブログの『文系学部解体』(室井尚)や、『知性は死なないー平成の鬱をこえてー』(與那覇潤)で、論及したことがある。
 
西村さんは、40歳を超えて、少し弱気になったのだ。あるいは弱気になるように、つけこまれたというべきか。

「とつおいつ考えた末に、彼女自身言うところの『非常口』を開けるしかないと思った。結婚ーー研究は好きなだけやってよろしいというような奇特な男がもしいれば、安定した生活の中で好きな勉強ができるかもしれない。大きな期待をしたわけではないが試してみようと思った。/たまたま、その可能性のある男にめぐりあった。初めは冗談のように考えていた玲も、早朝から深夜に及ぶメイルによる執拗な口説き、熱意にほだされた。この話を断われば、相手の両親が上京して口説くという。」
 
これは二人が納得した、「契約」のように見えた。しかし「契約」は、成り立っていなかった。
posted by 中嶋 廣 at 08:49Comment(0)日記

それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(4)

私は脳出血で、2014年11月20日に、虎の門病院に運び込まれた。それからほどなく、小金井リハビリ病院に転院した。そこに半年間、2015年6月の初めまでいて、家に帰った。半身不随のままだった。
 
西村玲さんは、2014年3月に、「『私、結婚する』と突然、親に宣言」し(「年譜」)、精神科医でクリニック勤務の男性と婚約、11月に式を挙げる(『遺稿拾遺』には、男性は実名で記載されている)。
 
西村さんは、講義の都合があるので、東京の実家で暮らし、2015年の4月から、倉敷で結婚生活に入った。
 
6月には、イタリアで新婚旅行に出かけている。
 
私が、友人たちのおかげで、快気祝いの席に出られたのは7月で、このとき西村さんは、東京にいて出席されている。
 
場所は出版クラブだった。私が、結婚したんですね、と声をかけると、ええ、とためらいがちに、微笑みを浮かべておられた。
 
それ以上の話はしなかった。とにかく私は、かろうじて立っていられるだけで、話の相手をすることもできなかった。これで快気祝いとは、よく言ったものだ。
 
島田裕巳氏が、これは中嶋の生前葬だな、と笑いながら言っていたのが、当たっているんじゃないか。
 
西村さんは、8月は東京で集中講義があり、実家に泊まっている。
 
このころ男性は、「八年間服薬、注射していた統合失調症の薬を独断で中止し、勤務先院長より〝統合失調症の再発〟として休職を通告される。このとき初めて、全く隠蔽されていた統合失調症の病歴を知る。」(「年譜」)
 
男性のみならず、その両親も、婚約したときから、結婚後を通じて、統合失調症の病歴があることを徹底的に隠し、再発後に初めて認めたのである。

『遺稿拾遺』の終わりは、西村さんが亡くなる直前の日記だ。

「2015・11・2
 本当に、わずか二、三ヶ月でどうしてこんなにひどいことになったんだ。もう先のことも、前のことも考えない。本当に立ち上がれるのかどうか。仕事、研究のことがまるで別世界のように思える。それだけのことをされたんだから。……」
 
その四日後。

「2015・11・6
 大学に職がなく、安定を求めて結婚したら、相手が統合失調症で、自分が病気になりかけて、離婚を決めたけれど、応じてくれない。安定に目がくらんだことを認めつつ、認められない。……」
 
このあと、年が明けても数日、日記は続くが、徐々に精神の傾きは、より暗い所へ傾斜してゆく。
posted by 中嶋 廣 at 12:35Comment(0)日記