私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(2)

まず簡単な事実から始めよう。

「時間の流れは、山では速く、低地では遅い。」
 
ここでは書いていることを、そのまま仰せのとおりとして、読み進めるほかない。ここで眉に唾をつけると、そこから先へ進めなくなる。

「二人の友が袂を分かち、一人は平原で、もう一人は山の上で暮らし始めたとしよう。数年後に二人が再会すると、平原で暮らしていた人は生きてきた時間が短く、年の取り方が少なくなっている。」
 
ほんとかね、と思わず言いたくなってしまう。でもこの話は、聞いたことがあるぞ。

「鳩時計の振り子が振れた回数は少なく、さまざまなことをする時間も短く、植物はあまり成長しておらず、思考を展開する時間も短い。低地では、高地より時間がゆっくり流れているのだ。」
 
これは今では、精度の高い時計で、正確に測定できる!
 
この話は、今を去ること50余年前に、学校の図書館で借りたガモフ全集のある巻に、こんなようなことが載っていた。
 
ロケットを飛ばして宇宙旅行をすると、信じられないことだが、そこに乗っている間だけ、時間はゆっくり進む。
 
だからロケットに乗って帰ってくると、まわりの人間は自分よりも、ずいぶん年を取っている。つまり私は、浦島太郎の状態になってしまう。

ところがどっこいそのときは、地球に帰ってくると、自分の肉体は、地球上の時間に合わせたものになるので、浦島太郎にはならない、そういう話だったような気がする。
 
時間が、場所と行為によって違うことを発見したのは、ガモフによれば、アインシュタインである。
 
この本にも、正確に測定する前に、時間の加減に気づいた人は、アインシュタインである、と出てくるが、一つだけ違う点がある。
 
50年前の本と違うのは、地球に戻ってくれば、時間のプラス・マイナスはチャラになる、ということだったが、今では地球上の基になる時間は、もうない。時間はそれぞれ、山の上と地上では、別個の時間を歩むのだ。

「この世界は、ただ一人の指揮官が刻むリズムに従って前進する小隊ではなく、互いに影響を及ぼし合う出来事のネットワークなのだ。」
 
恋人と待ち合わせをしているとき、お互いの腕時計の針は、ぴったり一致していないから、待ち合わせの時間に、ドンピシャで一緒になることはない、みたいな感じかね。
 
まあしかし、物理学の話を日常生活にたとえれば、すべからく頓珍漢な話になるのだが。
 
もう一度、過去と未来の話に戻そう。

「この世界のメカニズムの襞(ひだ)の何が、かつて存在した過去とまだ存在していない未来を分かつのか。わたしたちにとって、なぜ過去はこれほどまでに未来と違うのか。」
 
こういう疑問の立て方は、おかしいでしょう、どうにかならんかね。ということは、さておき、一応の結論を見てみよう。

「途方もないことが明らかになったのだ。過去と未来、原因と結果、記憶と期待、後悔と意図を分かつものは、じつは、世界のメカニズムを記述する基本法則のどこにも存在しない。」
 
時間が過去から未来へと、一直線に伸びているというのは、物理学の「基本法則」の中には、存在しなかったのだ。
 
しかしそれなら、「基本法則」の方を、書き改めるべきであって、物理学者の方こそ、改心すべきだ……とは、物理学者は絶対に考えない。
 
数学者が数学の理論を、机上の空論ではなく、現実に存在していると考えるのと同様、物理学者は、導き出された方程式の方を信じ、その結果、信じられないことに、現実の方をねじ曲げる、というか改変する。
 
そしてそういうことが、たとえば素粒子の世界では、現実に起こっているのだ。
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私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(1)

これは朝日新聞のウェブ論座の「神保町の匠」で、幻冬舎の小木田順子さんと、角川書店の堀由紀子さんが、それぞれ「今年の収穫3点」に挙げていた。

『時間は存在しない』というのは、なんとなく古臭いタイトルだと思い込んでいたが、信頼する目利き二人が推薦するのであれば、読まないわけにはいかない。
 
それに書評もいくつも見た。そのどれももう一つ、というか、バシッと分かるものはなかったのだか。
 
それでは早速読んでいこう。と、意気込むと、たちまち腰砕けになる。

「なぜ、過去を思い出すことはできても未来を思い出すことはできないのか。」
 
そんなムチャ、言わんといてなあ。

過去と未来は、そもそもそういうふうにできている。過去を思い出せて、未来も思い出せれば、過去と未来は、ごっちゃになるではないか。

「時の流れに耳を澄ますとき、わたしはいったい何を聞いているのか。」
 
そりゃ、決まってまんがな、「時の流れ」でっしゃろ、と関西弁で茶々を入れたくなるほど、荒唐無稽な高みに立った、深い詠嘆を含む疑問文である。
 
しかし3ページ目まで読んだとき、こちらの頭を思いっきり殴られる。

「ふつうわたしたちは、時間は単純で基本的なものであり、ほかのあらゆることに無関係に過去から未来へと一様に流れ、置き時計や腕時計で計れると思っている。この宇宙の出来事は、時間の流れのなかで整然と起きる――過去の出来事、現在の出来事、未来の出来事。そして、過去は定まっていても、未来は定まっていない……ところが、これらはすべて誤りであることがわかった。」
 
これら全部が誤りだとすると、いったいどうすればよいのか。どこから、最初に考えればよいのか。何を考えればよいのか。

「時間に特有とされている性質が一つまた一つと、じつは近似だったり、わたしたちの見方がもたらした間違いであることが明らかになったのだ――ちょうど、地球は平らだとか、太陽が地球のまわりを回っているといった見方が間違いであったように。」
 
ああそうか、そういうことか。地球の自転も公転も、地球の表面にいる我々には、まったくわからないことだ。でも、現代の人間は、地球の自転も公転も、それはそういうものだとして、そのまま受け入れている。
 
ところで「過去は定まっていても、未来は定まっていない」とは、どういうふうに、逆転させればいいのか。見当もつかないではないか。

「わたしたちが『時間』と呼んでいるものは、さまざまな層や構造の複雑な集合体なのだ。そのうえさらに深く調べていくと、それらの層も一枚また一枚と剝がれ落ち、かけらも次々に消えていった。」
 
そういうことであるらしい。時間という概念は崩壊する。でもそこは、どんな世界なのか。著者のカルロ・ロヴェッリに聞いてみよう。

「わたしが取り組んでいる量子重力理論と呼ばれる物理学は、この極端で美しい風景、時間のない世界を理解し、筋の通った意味を与えようとする試みなのだ。」
 
いやあ、本当にゾクゾクするぜ、と言っておくしかないな。
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書物快楽主義者の幸福な伝記――『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』(7)

編集者による伝記は、澁澤龍彦への批判に対しても、目配りが効いている。

本当は、そんなことはどうでもいいことなのだが、せっかく取り上げてあるから、一、二、話題にしておく。
 
澁澤文学が、いわゆる人間の内面を欠落させたものである、という批判である。

人間の内面を追求することをやめると、代わりに、「ディレッタントの文学」、「たんなるメルヘン」、「現実遊離の文学」、「遊びの文学」、といったレッテルが用意される。

「そもそも、澁澤自身が、『人間の魂の領域を扱う作家は、私にはどうも苦手なのである』などと堂々と書きしるしているが(「ヴァルナーの鎖」)、……この『澁澤の内面のなさ』も、それ自体を単純に批判として否定的にとらえるか、あるいは反対に賛辞として肯定的にとらえるかで、一八〇度くらい違った評価がとうぜん出てきてしまう。」
 
人間の心の葛藤や深淵を見つめるのは、もちろん文学の本筋である。

しかし、本筋以外に道はないとなると、それは違うだろう。それ以外の方法やテーマも、もちろん認めるべきなのだ。それを認めなければ、文学は痩せ細ってしまう。

もし澁澤なかりせば、と考えるならば、現代文学は、どんなにつまらなくなっていたか、考えるまでもないであろう。
 
ただ一つ、浅田彰の発言だけは耳目を引く。
 
浅田は、澁澤の三島追悼エッセー、「絶対を垣間見んとして……」を題材に、次のように話している。

「信じがたく単純なこのエッセイを読んで感じるのは、澁澤龍彦というのがたかだか高度成長期までの文学者だったということだ。近代社会のタテマエがそれなりにしっかりしていたから、それにちょっと背を向けて見せれば『異端の文学者』を気取ることができた。それに、ヨーロッパがまだまだ遠く、洋書を手に入れるのも難しかったから、あの程度でも素人は眩惑できたという事情もある。」
 
なるほど、そうか。でも、プロである浅田彰はともかく、「素人」である私は、澁澤の文章を読んで、充分に眩惑されたのである。
 
1987年8月5日、都内の病院で頸動脈流が破裂し、澁澤は死んだ。享年59歳。

澁澤は十年以上も前に、同人誌のアンケートで、「あと一日で死ぬとしたら」という問いに、「いつものように本を読みます」と書いたが、まさにその通りだった。
 
著者は最後に述べている。

「不治の病いにおかされた体で執筆した『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』と『穴ノアル肉体ノコト』に二編は、たんにそれが傑作であるばかりでなく、澁澤龍彦という人間を考える際に重要な作品となっている。」
 
そういうわけで、この2作品は必ず読むことにする。

(『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』
 礒崎純一、白水社、2019年11月15日初刷、12月5日第2刷)
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書物快楽主義者の幸福な伝記――『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』(6)

礒崎純一の『龍彦親王航海記』には、いかにも編集者から見た澁澤像があって、面白い。

澁澤は生きているときは、「人気有名作家なるカテゴリーからはほど遠い人物で、まだまだ世間的には、知る人ぞ知るマイナー作家のチャンピオンとでもいった存在だった。著書の文庫本などは一冊もない。実際、〈ビブリオテカ澁澤龍彦〉の各巻の初版部数も、三千部から四千部といった程度である。澁澤本人の口からも『普通の単行本はだいたい三千部くらいなもの』と聞いた記憶があるけれども、この数字は、当時私が編集者としてつくっていたマイナーな外国文学の翻訳書の部数と比べても、どんぐりの背くらべなのである。」
 
これはそういうものだと思う。1990年代の前半くらいまでは、まともに作った単行本は、どんなに売れなくとも、3000部は捌けると言われていた。考えてみれば、牧歌的ないい時代だったわけだ。
 
そういう時代に、桃源社や、現代思潮社や、青土社といったところの出版人、編集者と、心行くまで本づくりを楽しむことができたのは、やはり著者として、無類の魅力があったのだろう。
 
澁澤のほとんどの本が文庫になり、それが何万、何十万と売れ、さらに海外で翻訳が出版されている今とは、隔世の感がある。
 
澁澤も、「そりゃあ大手出版社の方が原稿料はいいけどさあ、自分の作品をよく知ってくれている編集者がいる、小さな出版社と仕事する方がやっぱりいいよね」、と話していた。
 
著者は編集者として、次のような疑問も浮かんだ。澁澤家の家計は、正直なところ、どうであったのか。
 
この質問を、龍子夫人にしてみた。

「澁澤の場合、雑誌なんかに書いた原稿が必ず単行本にもなるので、私が結婚して以降なら、同年代のサラリーマンの平均なんかに比べても多いくらいの収入があったわよ。そういう意味で、経済的に困ったということはないわね。」
 
そもそも澁澤は、贅沢な人ではなかった。
 
種村季弘は、出口裕弘との対談で語っている。

「澁澤は『根本的にはやはりストイックに人だったと思いますよ』、『お金ってものはいらない人じゃないですか』と言い、一方の出口も『あの人はいわゆる遊びをしない人だしね』と答えている。」
 
このあたりは、脳出血から後の、二度目の生をおくる私と、ほとんど同じである。お金は、半身不随なので全然使わない、というか使えない。キャッシュレスの最先端を行く。もちろん本を読む以外に、遊びも全然やらない。
 
ただ澁澤の場合は、生活全体が、隅々まで遊びに満ちていた、とも言えるのである。
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書物快楽主義者の幸福な伝記――『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』(5)

さらに断片的なことを書きつけておく。

1972年7月に『偏愛的作家論』が出る。装幀は高麗隆彦。
 
高麗さんは、私が法蔵館にいるころからお世話になり、島田裕巳『戒名』や、養老孟司『カミとヒトの解剖学』、『日本人の身体観の歴史』などの装幀をお願いした。
 
トランスビューに移ってからは、森岡正博『無痛文明論』、山中和子『昭和二十一年八月の絵日記』、島田裕巳『オウムーなぜ宗教はテロリズムを生んだのかー』、ノーム・チョムスキー『チョムスキー、世界を語る』など、柱になるものの装幀をお願いした。
 
トランスビューを立ち上げるとき、アルファベットのロゴマークを作っていただいた。いくらくらいお支払いすればいいか、と申し上げたところ、こういうのはただなんだ、と。
 
このことはすでに何回か、書いたことがある。しかし何回でも、書かずにはおられない。
 
トランスビューのロゴマークを見たとき、瞬間的に、この会社はうまくいくと思ったのだ。しかしこれは、いよいよ澁澤と関係がなくなる。
 
1974年10月に、『ユリイカ』連載の「ミクロコスモス譜」を改題した、『胡桃の中の世界』が刊行された。
 
著者自装のこの本は、外側はよく覚えている。でも本として覚えているだけで、中身は全部、忘れた。ただこの本は、重厚だけれども、明るかったことだけは覚えている。
 
澁澤もこの本は、「七〇年代以後の私の仕事の、新しい出発点になった」と回想している。

「エッセーを書く楽しみをみずから味わいつつ、自分の好みの領域を気ままに飛びまわって、好みの書物から好みのテーマのみを拾いあつめる」という澁澤本来の、書き手にマッチした方法であった。
 
澁澤にとっても会心の出来栄えだったが、書評も続々と出た。丸谷才一、高橋英夫、出口裕弘、中田耕治、田中美代子、日影丈吉……、中でも英文学者の富士川義之の、長文書評が新鮮だった。

「それまで異端、暗黒、オカルト等々のおどろおどろしい概念だけで安直にくくられることの多かった澁澤の文学が本来持つ、『全体として明徴で端正な古典主義的な特性』を明確に指摘した最初の澁澤論と言えるだろう。」
 
たしかにそうかもしれないけれど、しかしこの本によって、澁澤が新しい、明るい境地に出たことは、特筆大書されていい。
 
のちに澁澤は、別の時に、「わが著書を語る」という副題のついた文章で、次のように語っている。

「私は学者でもないので、自分の仕事を堅苦しい文学研究の一種だとは思われたくない。そういう誤解はぜひとも訂正しておきたいと思う。つまり、私はエッセイストとして、読者に楽しい読書体験を味わってもらえればそれで十分なのである。」
 
ここに澁澤の全貌が出ている。
 
読者の中には、澁澤にないものねだりをする人もいる。後で見る浅田彰のような。しかし澁澤はここで、そういう人を問題にしないと言っているのだ。
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書物快楽主義者の幸福な伝記――『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』(4)

1968年11月1日の奥付で、澁澤龍彦編集『血と薔薇』が出た。部数1万1000部、定価は1000円、主な特集は「男の死」と「吸血鬼」である。
 
前の年に出た澁澤の単行本、『サド研究』が490円、『エロティシズム』が480円だから、『血と薔薇』がどれほど高いかが分かる。
 
この雑誌は、第2号が「フェテイシズム」、第3号が「愛の思想」で、澁澤が編集したのはそこまでだった。文字通り3号雑誌である。
 
私はこういう雑誌は、好きではない。というか、そもそもたいがいの雑誌は、あまり好きではない。書店で見て横目で通り過ぎることにしているが、澁澤が特集のテーマを決め、隅々まで目を配った目次は、見ておきたい。
 
澁澤サークルをめぐる人々は、どんな人たちだったのか。

「『血と薔薇』の目次を見ると、まず気がつくのは、この時代の澁澤サークルの面々が軒並み勢ぞろいしていることである。書き手として、三島由紀夫、種村季弘、松山俊太郎をはじめ、加藤郁乎、堂本正樹、高橋睦郎、出口裕弘、巖谷國士がおり、美術や写真やモデルには、金子國義、野中ユリ、池田満寿夫、横尾忠則、細江英公、土方巽、唐十郎がいる。これら、〈呑み会常連メンバー〉以外でも、稲垣足穂、埴谷雄高、吉行淳之介、吉岡実といった、澁澤との交友が以前から深かった年配者たちの名前を見ることができる。」
 
澁澤の伝記の大きな柱が、こういう人たちとの深い交流なのだ。それがメインの伝記だといえば、どういうものか、概略お分かりいただけるだろう。
 
私もこの中で、付き合いのある人が、少数だが、何人かいる。しかしそれを書き出せば、話は横道へそれていってしまうだろう。
 
ただ一人、金子國義氏のことは書いておきたい。

ある晩、12時を過ぎたころ、金子さんは、5,6人の若い人たち、いわば「お小姓さん」を連れて、白いスーツで、神保町の小さなバーに現われた。

かなり酔っていて、私も同じように酔っていたので、初めてではあったが、すぐに仲良くなった。
 
お互い、何曲かカラオケで歌ったころに、私は、仏文でバタイユをやりました、と告げた。

金子さんは、一瞬覚醒したように見えた。それで私は、角川文庫のバタイユの『マダム・エドワルダ』の装幀と挿画は、素晴らしいと申し上げた。
 
金子さんは笑いながら、こんなところでよせよ、という具合に、顔の正面で手を振り、私ももちろん、それ以上言う気はなかった。
 
しかしそれから後、金子さんはカラオケで歌いながら、じっと体を寄せかけてきて、しばらくの間そうしていた。
 
それから数年たって、金子國義氏は病気で亡くなった。私はその新聞記事を読みながら、ただ一度、神保町の小さなバーで出会ったことを、何ものかに感謝したい気になった。
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書物快楽主義者の幸福な伝記――『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』(3)

私は大学に入った1972年に、『黒魔術の手帖』を読んだ。しかし出版されたのは1961年なので、あるいは古本で読んだのかもしれない。
 
これは強烈な体験であった。これまで読んできた本とは、決定的に違う本だった。

関西の地方都市から上京して、一年目に読んだ本である。

「A5判、貼函入り。函も黒、表紙の布クロスも黒、天地小口三方も黒塗という、素晴らしく凝った造本で、序文だけがグリーンのインクで刷られ、巻頭には白く浮かぶ澁澤の顔と書物の上に置かれたパルミジャニーノを思わせる巨大な手を合成した、魔術的な『著者照影』が掲げられている。この印象的なコラージュは、前年に知りあった野中ユリの手になるものだ。」
 
1960年代初頭といえば、オカルトは全く未知の分野で、そこに初めて切り込んだのだ。
 
私が70年代初めに読んだときでも、なおその印象は強烈だった。そこには、野中ユリの造本感覚が生きていたのだ。
 
また澁澤龍彦の家といえば、北鎌倉の瀟洒な洋館が有名である。壁の全面を書物が覆い、四谷シモンの人形が置かれた書斎は、雑誌の澁澤の特集号で、一度は見たことがあるはずだ。
 
しかし同じ鎌倉でも、その前の小町の、「質素でおんぼろな日本家屋」の方に、澁澤の本当の姿を見る人もある。

「〔この借家は〕『衣食住すべて質素な中で、観念世界だけが突出して』いたと出口裕弘は語っている。」
 
ここはもう少し細かく見ておこう。

「その晩年、澁澤の蔵書は一万五千冊を超えていたが、松山俊太郎によれば、小町での初めの頃の澁澤の蔵書は、せいぜい千冊くらいのものだったらしい。松山は書いている。『澁澤さんには、小町での、過激・困窮・清貧・閑雅と変遷する二十年があったからこそ、北鎌倉での、華麗な飛躍が可能となったのである』」。

「過激・困窮・清貧・閑雅と変遷する二十年があったからこそ」、というところが、何とも言えずいい。
 
澁澤も最初から、パイプは銜えていたにせよ、突出した才人ではなかったのだ。そのことを知るだけでも、何かほっとする。
 
この後に、小町の家を情感たっぷりに回想した、巖谷國士の文章があるが、それはもう引かない。

真正面からの、愚直な伝記を読む面白さは、このあたりにある。
posted by 中嶋 廣 at 00:09Comment(0)日記

書物快楽主義者の幸福な伝記――『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』(2)

澁澤龍彦と小笠原豊樹の、濃密な関わりと、離れて行くところも、奇妙でおかしい。そんなことがあったのかと、ちょっと驚く。
 
翻訳家・小笠原豊樹は、詩人・岩田宏でもある。
 
翻訳家としては、ロシア語のマヤコフスキー、ソルジェニーチィンが有名だが、個人的には、ハードボイルド作家のロス・マクドナルド、「リュー・アーチャー」ものが懐かしい。『ウィチャリー家の女』や『さむけ』など、思い出してもゾクゾクする。
 
岩田宏としては、詩集の『いやな唄』や『グァンタナモ』、小説の『踊ろうぜ』、『なりななむ』などが、強く印象に残っている。

「当時の小笠原は、澁澤の家から歩いて十分ほどのところに住んでおり、車中でブルトンの原書を読んでいる澁澤に小笠原が声をかけたのが、二人の出会いの最初だったという。」
 
澁澤が20歳代前半のころだという。
 
1956年に刊行された、岩田宏の処女詩集『独裁』の出版記念会には、当然澁澤も出席している。
 
2人は20歳代前半、輝かしい出会いになるはずであった。
 
しかしそれ以降、2人の間は急速に離れていく。何があったのかは、分からない。
 
著者は、「くらしの詩人」岩田宏と、澁澤は、意外な取り合わせであるというが、どちらも語学の達人で、小説も書く。長吉ふうに言えば、貫目は、どちらがどうともいえない、将来の横綱大関クラスである。
 
岩田宏もまた、澁澤に負けないスタイリッシュな詩人である。しかし、そのスタイルは微妙に違う。その違いが、じつは決定的な違いなのだろう。

「澁澤は一九六六年(昭和四十一)に『岩田宏詩集』が刊行された際に書評を書いていて、彼我の違いを微妙に述べたこの書評は生前の澁澤の単行本には収録をみなかった。」
 
大塚譲次という人が、次のように語っている。

「小笠原君と澁澤君は、両方とも才人だし、博学だったけれども、資質が違うんだな。お互いに批判もあったらしいけれど。」
 
これでは何もわからないけれど、しかし興味は尽きない。
posted by 中嶋 廣 at 10:38Comment(0)日記

書物快楽主義者の幸福な伝記――『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』(1)

著者の磯崎純一は編集者。最晩年の澁澤龍彦に会い、澁澤が亡くなった後、『書物の宇宙誌 澁澤龍彦蔵書目録』(国書刊行会)を編纂している。

「あとがき」にいわく、この伝記は、「澁澤龍彦の生涯と作品について書かれ、語られた膨大な文章(もちろんそこには澁澤本人のものがもっとも多い)に、あたうかぎり目を通し、それらを選択して、編集配列することにより成った『伝記』である。」
 
だから非常に明晰で、分かりやすい。

「〔著者の〕役目は〈福音史家〉なのだから、福音史家がみずから朗々と歌う愚は厳につつしんだつもりであるし、いわんや、ロマネスクな想像力などといったものは、本書の叙述にはいっさいもちいられていない。」
 
そういうわけで、この伝記は、周囲の人の織りなす言葉を一次資料とし、それを著者が、切り張りしたものだと言える。もちろん、著者が直接、澁澤に会ったときの話も混じっている。
 
でもとりあえず、著者が朗々と歌わず、一切のロマネスクな情熱を禁じているのであれば、あとはひたすら、外側からの証言をもって、外壁を固めることになるわけだ。

しかしそうすると、澁澤龍彦の文学とは何であったか、という内側からの理解が、じつはよく分からなくなる。
 
私は1972年に大学に入り、その年と次の年に、澁澤龍彦をかなり読んだ。2年後に、仏文に行こうと思っていたのだ。

しかしその内容は、ほとんど忘れてしまった。

もちろん本そのものは覚えている。特に桃源社の本などは、装幀がありありと浮んでくる。しかし内容は、きれいさっぱり忘れてしまった。
 
だから、澁澤文学の内容に、相渡ることのないこの伝記は、初めはちょっと退屈だった。
 
しかし全部を読み通してみると、自分でも意外なことに、ずしんと深奥に来るものがある。深く感動しているのだ。
 
著者が、ロマネスクな想像力を駆使しないことが、意外やこういう効果をもたらしたのである。
 
正面切っての伝記なので、読んでいただくしかないのだが、それでもところどころ、強く印象に残るところがある。
 
澁澤は東大仏文に入る前に、鎌倉に住んでいた今日出海から、フランス語の翻訳の下請け仕事をもらっている。澁澤の母の節子が、今夫人と友人だったらしい。
 
それはジョルジュ・シムノンの推理小説、『霧の港』だった。

「翻訳が完成して得意顔で原稿を持って行くと、今日出海はパラパラ原稿用紙をめくってから、『なんだい、こりゃ。わけが分からん。きみ、シュールレアリスムのつもりで訳しちゃ困るよ。一般読者に分からなければだめだよ』と苦笑を浮かべて言った。
『のちに翻訳をたくさんやるようになった私だが、このときの今さんのことばはいつも自戒のことばとして私の耳にひびいている』と、澁澤は述べている。」
 
翻訳名人の澁澤にして、先人の直接の教えのあったことが、ほほえましい。
posted by 中嶋 廣 at 09:16Comment(0)日記

腹にガツンと一撃――『最後の秘境 東京藝大ー天才たちのカオスな日常ー』(5)

第10章には「先端芸術表現科」の、村上愛佳(まなか)さんと植村真さん(大学院)が登場する。

「先端芸術表現科」は、美術の油画から分離した科である。油画に進みながら、油絵ではないものをやりたい人たちを、まとめた科なのである。
 
だから、いろいろなメディアを扱って、作品を制作していくという。

「何でも一通りやります。例えば工作。電子工作もやるし、砂糖でウサギの人形作ったりとかもします。それからデザインもするし、あとは写真、映像、コンピュータ、身体表現……音も扱いますね。気になる音を録音してこい、みたいな課題で。プロジェクションマッピングもやります」。
 
これはそもそも、油画とは何の関係もないじゃないか、とついつい思ってしまう。

それで「先端芸術表現科」と名乗るのは、苦しいとみるか、とつぜん開けた新しい沃野とみるか、難しいところだ。

「先端芸術」の教授陣も、肩書を並べただけでも、「美術評論家、美術史家、現代美術家、演劇評論家、写真家、作曲家、彫刻家、メディアアーティスト、キュレーター……。加えて、今活躍しているアーティストを外部から呼んで講義をしてもらうこともある。美術家に限らず、お笑い芸人やミュージシャンが候補に挙がったりもするそうだ。」
 
著者は、教授陣の肩書だけでも凄いというけれど、見方によっては、ごった煮の闇鍋状態ともいえる。
 
ここは突き詰めていけば、なにがアートかということも含めて、けっこう大変なことになる。

「毎年病んでしまう人が最低一人はいますね。何をすればいいのかわからなくなったりして……休学して、来なくなっちゃったり。なんか外国へ旅に出ちゃったり。」
 
徹底的に、ひたすら徹底的に自由にやっていいといえば、そうなるんだろうなあ。
 
その意味では逆説的に、「先端芸術表現科」は、十分に内実のある科ともいえよう。
 
植村さんが、穏やかな顔をして言う。

「ちゃんと役に立つものを作るのは、アートとは違ってきちゃいます。この世にまだないもの、それはだいたい無駄なものなんですけど、それを作るのがアートなんで」。
 
それで、国立の東京藝大が今日在る意味が、おぼろげにわかった気がする。
 
およそ偏差値で受験生を輪切りにするのが、現代社会に沿うものだとすると、東京藝大だけは、そこからはみ出ている。教師と生徒が一体となって、何かを生み出していければいい、という夢物語をどこかで信じている。僕にはそういうふうに読めた。

(『最後の秘境 東京藝大ー天才たちのカオスな日常ー』
 二宮敦人、新潮社、2016年9月15日初刷、11月15日第8刷)
posted by 中嶋 廣 at 17:03Comment(0)日記