朝日新聞の没落――『朝日新聞政治部』(3)

鮫島は「吉田調書」でスクープを放った日、朝日新聞本社にあるコンビニに入って行くと、その場にいる社員たちに取り囲まれ、握手攻めにあった。ちょっとしたアイドル気分だった。報道部長は、木村伊量(ただかず)社長が大喜びしている、と伝えてきた。鮫島のパソコンには、よくやったとか、感動したというメールが溢れかえっていた。
 
それでも特別報道部の中には、「待機命令を知らずに第二原発へ向かった所員もいたと思う。はやめに軌道修正したほうがいい」という記者もいた。著者もそれはそうだと思ったが、軌道修正する暇はなかった。
 
そこに「慰安婦」問題と「池上彰コラム」が重なる。

「私たちは第一報の記事内容が不十分だったという以上に、記事を出した後の危機対応に失敗したのである。これは危機管理の敗北であった。」
 
池上彰は、「慰安婦問題をめぐる『吉田証言』を虚偽と判断して過去の記事を取り消した対応は遅きに失したと批判」したのだが、このゲラを見た木村社長は激怒し、コラム掲載を拒否した。そのいきさつを、週刊誌などが報じたのである。
 
この3点セットで言うと、「池上コラム」の掲載拒否が、もっとも大きな問題だと私は思う。しかし会社の上層部にとっては、「吉田調書」を前面に出して、世間の批判やバッシングが、取材班に集中することが願わしかったのだ。

「朝日新聞社は私たちを守るどころか放置した。ネットに溢れる『捏造記者』などの名誉棄損に対して抗議や撤回を求めることなく、私たちが家族も含めて標的にされることに何の対応もせず黙殺した。」
 
朝日新聞は、言論の自由と人権擁護で鳴らし、分かりやすい世俗左翼の雄だから、弱みを見せると右から徹底的にやられる。ネットは90パーセント右寄りだから、打たれるのに慣れていないエリート集団のトップは、特定の社員を守るどころではなかっただろう、と私は思う。
 
しかし著者の方にしてみれば、憤懣やるかたなく、そしていよいよ引導を渡す。

「新聞社が現場の記者をここまで露骨に切り捨てるとは夢にも思わなかった。私は木村社長が記者会見した2014年9月11日に朝日新聞は死んだと思っている。」
 
鮫島は、左遷されてからも、朝日を蘇らせようとして悪戦苦闘している。なんとかネットを取り込んで、新しい時代の朝日新聞を目指そうとするが、それも横やりを入れられ挫折する。

鮫島浩は2021年5月31日に、朝日新聞社を辞めた。
 
そのころ朝日は、いよいよネットに押されて苦境に立っていた。
 
この本は各章扉の裏に、朝日、読売、毎日、産経各紙の、部数の凋落ぶりが記されているが、ここでは朝日新聞だけを見ておく。

        朝刊販売部数    前年比

  1994年   822万3523部   -9872部

  1999年   829万4751部   -2万3104部

  2005年   818万5581部   -6万9335部

  2008年   803万8100部   -2万2489部

  2012年   765万4978部   -9万4607部

  2015年   675万3912部   -51万3414部

  2021年   466万3183部   -39万1536部

こう見てくると2010年代に、部数が激減している。これはもう、終わりが見えるといっていいくらい、切羽詰まった数の減り方だ。
 
しかしそういうこととは違って、私はいくつかの疑問を感じた。

朝日新聞の没落――『朝日新聞政治部』(2)

その後、鮫島浩は「特別報道部」に移り、デスクとして「手抜き除染」を報道し、2013年度の新聞協会賞を受賞する。
 
特別報道部は勢いづいた。この部署は、朝日の中でも一風変わった特色があった。それは、①記者クラブに属さず、官製の発表を取材する必要がない。②記者の持ち場がなく、特ダネを抜かれる心配がない。③固定した紙面がなく、穴埋め原稿を書く必要がない。④記者に組織の垣根がなく、年功序列がない。⑤記事を書くノルマがない。
 
取材テーマは記者が主体的に決めていい。単独で取材できなければ、仲間に声をかけ、また部長やデスクにも相談する。
 
特別報道部は、「隠された事実を暴く特ダネを連発し、朝日新聞の報道機関としての影響力を高めること」を掲げ、その上で「新しい取材方法や報道モデルへ挑戦すること」と、「スター記者をつくること」を目標に掲げた。
 
意欲満々だが、逆風が吹くとその分、風当たりはきつくなる。

しかし鮫島は、この部署にいた2年余りがもっとも面白かったという。

「特別報道部デスクに着任してから『吉田調書』報道の責任を問われて更迭・処分されるまでの2年余りは、私の新聞記者人生でいちばん充実した時であり、最高に楽しい日々であり、最も傲慢になっていた時期かもしれなかった。」
 
最後の部分が大事だ。
 
そうして「吉田調書」を入手し、これが脚光を浴びる。
 
これは福島第一原発の吉田昌郎所長が、最前線で危機対応に当たり、それに関し政府の事故調査・検証委員会の聴取に応えた公文書である。政府はこれを極秘文書として公開せず、ひたすら原発事故の真実を国民に隠していた。
 
これは最初、経済部の木村英昭記者が入手したものであるが、「経済部長が自分たちには手に負えないと相談に来たので、特別報道部が引き取ることにした。」
 
私には、ここらあたりの経緯は書かれてはいるが、よくわからない。経済部の木村記者は、2012年度の新聞協会賞を受賞した、「プロメテウスの罠」の執筆者の1人である。これは福島第一原発を正面から扱ったものだ。

なぜそれを「自分たちには手に負えない」として、著者のいる特別報道部に回すのか。これは超の付く特ダネではないか。このときの経済部長は、何を考えていたのか。
 
それはともかく、「吉田調書」は著者の手に渡った。この「調書」で、吉田所長は、3月14日夕方以後を振り返り、「ここで本当に死んだと思ったんです」「これでもう私はだめだと思ったんですよ」「我々のイメージは東日本壊滅ですよ」と証言している。
 
しかし、著者たちが注目したのは、そこではなかった。注目したのは、吉田所長が3月15日朝、社内のテレビ会議で第一原発の所員に対し、「すぐに現場に戻れる第一原発での待機」を命じていたことだった。

「吉田所長は第一原発の現場に踏みとどまるよう命令したのに、所員の9割は第一原発を離れて第二原発へ退避し、第一原発の現場ですぐに事故対応にあたることができない状況だったのである。その間、原子炉は暴走を続けた。しかも第一原発を離れた所員には事故対応を指揮するはずの部課長級の責任者も含まれていた。」
 
東電の隠したいところが如実にわかる。朝日の見出しは、「所長命令に違反 原発撤退」だった。
 
しかし後になって問題が出てくると、著者が反省すべき点は、多々あるという。

「私の見解への賛否は割れると思う。〔中略〕『混乱のなかで待機命令に気づかないまま第二原発へ向かった所員もいたとみられる』という一文を入れたほうがよかったし、『この記事は撤退した所員の責任を問うものではない』という報道目的をもっとはっきり記せばよかった。」
 
前の方はそうすればよかったと思う。後の方は疑問が残る。「撤退した所員の責任を問う」ことは、全く問題ではないのか、と私は思う。
 
いずれにしても、これは現場の記者にではなく、全責任は記事を仕上げた著者にある。そういうことらしい。
 
それでもこれを、後になって「誤報」というのは、それこそ「捏造」ではないか。
 
しかしこのとき朝日は、「吉田調書」と並んで「慰安婦」「池上彰コラム」と、3つの問題が同時に噴出していたのだ。

朝日新聞の没落――『朝日新聞政治部』(1)

鮫島浩は2014年、福島原発事故をめぐる「吉田調書」報道を誤報だと言われ、政治部デスクを解任された。これはその弁明の書。
 
それにしてもよく書けたと思う。「おわりに」のところで、「吉田調書」問題を書く段になると、心身が硬直して一歩も先へ進めない、とあるが、それを何とか克服してよく書いたものだ。
 
本の作りはいかにもノンフィクションで、編集者は手慣れたものだ。まずオビ表から、これは3カ所に分かれている。

「崩壊する/大新聞/の中枢」

「すべて実名で綴る/内部告発/ノンフィクション」

「『池上コラム掲載拒否』/『吉田調書問題』/『慰安婦記事取り消し』/政治部出身の/経営陣は/どこで何を/間違えたのか?」
 
これで概略のところはわかるだろう。
 
次にオビ裏を読めば、これが単に「吉田調書」問題ではないことがわかる。

「そうか、朝日新聞はこれに屈したのだ。ネットの世界からの攻撃に太刀打ちできず、ただひたすらに殴られ続け、『捏造』のレッテルを貼られた。/それにもかかわらず朝日新聞はネット言論を軽視し、見下し、自分たちは高尚なところで知的な仕事をしているというような顔をして、ネット言論の台頭から目を背けた。それがネット界の反感をさらにかき立て、ますますバッシングを増幅させたのだ。/すでに既存メディアをしのぐ影響力を持ち始めたネットの世界を、私はあまりに知らなすぎた。――本文より」
 
朝日新聞が崩壊していったのは、誤報問題だけではなかったのだ。
 
この本の3分の2までは、まあ面白い。まあ、という意味は、駆け出しの記者が徐々に手柄を立て、総理番に就き、小渕恵三首相が倒れるのを間近で見、さらに竹中平蔵蔵相の構造改革を、ただ一人、相手の懐に潜り込んで観察、さらには菅直人の番記者になる。
 
この間、著者は朝日新聞という場で、人間関係のからまった糸をほぐし、それを乗り越え、新しい仕事も意欲的にやっていく。敏腕記者の同時代の実録として、まことに面白い。
 
しかしこの話は、終わり3分の1が重要である。それまでは序章に過ぎない。
 
2011年3月11日、東日本大震災が発生、続いて福島第一原発の事故が起こる。さまざまな事情が重なり、東日本全体が大惨事になるところを、かろうじて免れたが、「のちに福島第一原発の吉田昌郎所長が証言したように『東日本が壊滅する』一歩手前まで危機は迫っていた。」
 
このとき著者は、政治記者としてもっとも腕力を揮える立場にあった。

「官邸の総理、官房長官、首相補佐官はいずれも旧知の政治家で、各社の政治記者の中では屈指の関係を築いていた。朝日新聞社内では政治部次長に抜擢され、政治部長から絶大な信頼を得て、取材体制や報道内容を仕切る権限を託されていた。」
 
これだけ条件が揃うことはあり得なかった。しかも40歳とまだ若い。著者にとっては一世一代の舞台だった。

「にもかかわらず、原発事故という歴史的局面において、政治記者として10年かけて築いた民主党人脈も、紙面づくりで強力な権限を持つ政治部デスクの立場も、読者に必要な情報を伝えるという意味では、まるで役に立たなかったのだ。」
 
ここで、自分をごまかさず反省しているのが、著者の非凡なところだ。
 
しかし刻々と変貌する大事故を前に、その反省を突き詰めている余裕はまったくなかった。

すれ違い――『新宿書房往来記』(2)

杉浦康平さんは「杉浦康平山脈」と題して、章の見出しにしている。杉浦さんには弟子、それも優れたお弟子さんたちが大勢いて、それが山脈を形成している。中垣信夫、鈴木一誌、海保透、赤崎正一、谷村彰彦、佐藤篤司といった人たち。僕はこの中では、谷村彰彦さん、佐藤篤司さんと仕事をしたことがある。
 
村山恒夫さんは平凡社にいるとき、杉浦先生と出会った。

「私たち編集者は杉浦さんに徹底的にしごかれた。書籍を読者と著者を結びつける多面的、構造的なオブジェとして、冗漫で大量な文字よりも、これを視覚化し、フロー化、構造化すること。とくに百科事典などのレファランス系の書籍にはこのことがいかに大事であるかを具体的に教わった。」
 
言葉だけ取り出してみると、百科事典を知らない者にとってはチンプンカンプンだが、杉浦先生の迫力ある話と、具体的に次から次へと、見たこともない本を出してこられると、ただもう感嘆し、深く納得するほかはない。
 
これは『編集とはどのような仕事なのか』の項でも書いたが、本を理路整然と語ることのできるブックデザイナーが、初めて現われたのだ、と鷲尾賢也さんは書いている。
 
村山恒夫さんは新宿書房では、杉浦先生のお弟子さんの谷村彰彦さんとの仕事が多い。

『【生活のなかの料理】学』『踊る日記』『仮面の声』『パルンガの夜明け』『ビルマの民衆文化』『神の乙女クマリ』『見世物小屋の文化誌』『見世物稼業』の8冊。タイトルを見ただけで、この装幀家の強烈な個性がわかろうというものだ。
 
僕は法蔵館東京事務所にいるころに、中村生雄さんの『日本の神と王権』と『折口信夫の戦後天皇論』の装丁をやってもらった。これは中村生雄三部作の予定で、3冊目は『祭祀と供犠―日本人の自然観・動物観―』だったが、谷村さんはガンで倒れて間に合わなかった。

3冊目は、他の2冊とうまく釣り合いをとるように、と高麗隆彦さんにお願いした。そういう厄介なことをお願いするには、高麗さんを措いては考えられなかった。
 
そういえばトランスビューを始めるときに、高麗さんにロゴを作ってもらった。僕はこのロゴを見たとき、トランスビューはうまくいくと確信したのだ。

お礼にいくら払えばいいかと聞いたとき、高麗さんは、こういうのはお金のやり取りはしないものだ、とおっしゃった。だから何も払っていない。
 
村山恒夫さんのこの本は他に、田村義也に師事したこと、平野甲賀の書き文字、急逝した如月小春、宇江敏勝と『VIKING』など、興味深い記事が多い。
 
それとは別に、毛色の変わったところでは、村山恒夫さんの縁者は映画関係者が多い。たとえば叔父の村山新治監督は、『映画芸術』でインタビューを受けている。聞いているのは、深作欣二と澤井信一郎、司会は同誌編集長で脚本家の荒井晴彦。荒井さんは妻・田中晶子の、なんというか、師匠筋というか兄弟子に当たる人だ。
 
このときのインタビューを含む本は、『村山新治 上野発五時三五分―私が関わった映画、その時代―』として2018年5月に刊行している
 
映画を別にすれば、これだけ接点がありながら、全く知らない出版社というのは珍しい。ちょうど飛行機が交わることなく、平行に、高さを違えて飛び続けているようなものだ。高さが違えば、平行に飛んでいる分、視界には入ってこないのだ。

(『新宿書房往来記』村山恒夫、港の人、2021年12月10日初刷)

すれ違い――『新宿書房往来記』(1)

著者の村山恒夫氏は新宿書房の代表、1946年生まれ。早稲田大学を出て、70年、平凡社に入り、世界大百科事典の編集に携わる。80年に平凡社を退社し、百人社を設立、82年に新宿書房に統合する。98年から2001年まで、マイクロソフト社のエンカルタ百科事典の日本版編集長を兼ねている。
 
といえば、なかなかのものだという気がするが、僕がやっていたトランスビューと、どっこいどっこいの弱小出版社である。
 
巻末に「新宿書房刊行書籍一覧」が載っていて、これは1970年から2020年までである。
 
そこに毎年出ている10点から20点くらいの新刊を見ていると、本当に驚く。50年にわたる目録を見ても、僕の意識に残っている書目が1冊もない。人文系の出版社で、真面目なものを出しながら、ただの1冊も見たことがないというのは、つまり目に入ってこないというのは、実に珍しい。
 
いや本当は1冊だけ、買った本がある。石塚純一氏の『金尾文淵堂をめぐる人びと』(2005年)である。
 
このころ元小沢書店の長谷川郁夫さんの提唱で、日本編集者学会を作ることになり、石塚さんも僕もお呼びがかかった。そのころ札幌大学におられた石塚さんとは、初対面なので、著書を読んでおこうと思ったのだ。
 
その本は面白くて、しかも学術書としてもしっかりしていた。新宿書房とは、どういうところだろうと思った。とにかく全然知らない版元だった。
 
編集者学会の年次総会のパーティーで、石塚さんから、社長の村山さんに紹介されたのではないかと思う。
 
そういう縁で、『新宿書房往来記』を読んでみようと思ったのだ。
 
この本に出てくる人で僕にとっては、松本昌次さんと杉浦康平さんが縁が深い。松本昌次さんはトランスビューから、『わたしの戦後出版史』を出している。

『新宿書房往来記』の中で、松本さんは村山恒夫さんに対して、こんなことを話している。

「一人の作家、著者の本をつくる際、スカスカの書き下ろしでなく、さまざまな文を集めた『集め本』にこそ、編集の醍醐味がある。著者の小文をモザイクのように組み立て、どう構成、演出するかで、単行本の思想的、芸術的価値が増すのだ」。
 
僕はこの意見には賛成ではない。松本昌次さんの前提は、「スカスカの書き下ろしでなく」という点にある。書き下ろしで、内容・形式ともにみっちり詰まっていれば、これの価値が一番高いに決まっている。
 
しかしそういう話を面と向かって、松本さんにしたことはない。編集者がどこに本の価値を置くかは、人それぞれである。
 
松本さんは80代後半から、杖をつくようになった。8年前、僕が脳出血で入院したときは、狭山から小金井まで杖をつきつつ、見舞いに来てくださった。

快気祝いのパーティーを出版クラブでしたときも、スピーチをしていただいた。考えてみれば僕はそのころ、頭が正常には働いておらず、大勢人を呼んでパーティーをやれれば、ただ面白いだろうとだけ思っていた。今考えて見れば、冷汗三斗である。
 
村山さんはこの本に書いている。

「昨年、評判の映画『万引き家族』のことが気になり、狭山市の自宅から杖をついて有楽町の映画館まで行ったという。
 最後まで松本さんらしい姿である。」
 
前半の30年を未来社編集長として、後半の30年を影書房社主として腕を振るった松本昌次さんは、2019年1月15日、91歳で亡くなった。

どんな顔もしてないんじゃないか――『戦争は女の顔をしていない』(4)

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、これまで書かれたことのない、女性の戦争記録を発表するために、ペレストロイカが訪れるまで、原稿ができてから2年待ったという。
 
つまり、あえてこういう言い方をするが、旧ソ連は「この程度の」記録さえ、闇に葬っていたのだ。その代わり、戦争の記録と言えば、あの検閲官の言う「我々が憧れているもの、こうでありたいと願うもの」を指し、それはすなわち「男の記録」だった。
 
一般に戦勝国の戦争記録とは、どんなものなんだろう。考えてみれば、戦争記録の聞き書きなんて、文学を除けば、日本以外には読んだことがない。どれも似たようなものだろうと、漠然と考えていたが、戦勝国の場合、例えば旧ソ連の場合は、明らかに違うようだ。
 
日本の場合はとにかく悲惨だ。南方に出兵した兵士は、ただひたすらジャングルをさまよい歩き、多くは病に斃れるか、飢死にした。そうでない場合は、戦争末期、特攻隊として死を選ばされた。

中国大陸に渡った兵士や、それ以外の者たちは、兵隊たちは捕虜に取られ、それ以外の者たちは引き上げるにも、場合によっては悲惨を極めた。

『戦争は女の顔をしていない』は終わりの方で、5人のドイツ娘がソ連兵に集団暴行を受ける場面があるが、本当に悲惨なのはここくらいだ(とはいっても一晩中、無数のソ連兵に性交を強要されるのだから、実際には命を失うつらさだろう)。
 
日本でも、旧ソ連でも、戦争体験を聞き書きするときには、ある前提がある。まず死者は、言葉を発することがないから、除外される。次に戦争を体験した人でも、本当に悲惨なことは言いたくない、絶対に言いたくないという人、これも除外される。
 
そういうものは、戦争の記録には載らない、ということを前提として、旧ソ連と日本では、記載されたものの方向が正反対を向いている。
 
旧ソ連では、艱難辛苦を耐え忍びながらも、最後は勝利が待っている。アレクシエーヴィチによれば、女の場合は、能天気な男と違って、かなり苦い勝利だが、それでも勝利は勝利で、敗北とは180度違う。
 
日本は、中国大陸では十五年戦争を戦い、東南アジアと南洋諸島では4年半戦ったけれど、そうして最後は竹槍(!)で戦おうとしていたが、原子爆弾2発でケリをつけられた。だから日本人の場合は、行き着くところは、ただひたすら反省である(これを「一億総懺悔」ともいう)。
 
私は子どもの頃に、母親が「戦争に負けてよかった、負けなかったら、まだきっとやっているに違いない」と言うのを聞いて、「ふーん、そういうものか」と思ったが、『戦争は女の顔をしていない』を読んで、このたびは心底、「負けてよかった」と思ったのは、母親の実感なのだと思う。戦争の犠牲者は期せずして、戦争がどういうものかを、身をもって教えているのだ。今さらながら、そのことが身に染みた。
 
こういうことは負けた国でないと、結局はわからない。しかしスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチがノーベル賞をもらうということは、日本人の戦争体験記録は、日本以外には広まっていないことがわかる。もっともそんなもの、日本人以外に興味を持って読む人は、いないのかもしれない。
 
アメリカは第2次大戦以降、世界のどこかで必ず戦争をしている、とチョムスキーは言っている。あるいはウクライナに侵攻するロシア、こんなことが長引けば、日本の十五年戦争と同じことになる、と言っても、自分で経験しなければ、分からないのだろう。
 
私にはもう1つ疑問がある。日本では徴兵で赤紙が来ると、みんないやだと思いながら、表向きそんなことは言えないから、近所の人も一緒になって、バンザイ、バンザイで送り出したという。これはもう、みんなそう書いてある。
 
旧ソ連の場合は、100万人を超える女性が、志願して従軍したと書いてある。
 
これはどういうことなのだろう。日本の場合には、赤紙が来たので、これで戦争に行けると思い本当にうれしかった、と言うのは禁句になっているのか。それとも本当に、そういう人はいなかったのか。
 
それにしても、100万を超える女性が志願兵になる、というのは凄まじい。旧ソ連人というのは、それほど祖国愛が強いものなのか。これをどう考えればいいのか。

(『戦争は女の顔をしていない』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、
 三浦みどり・訳、岩波現代文庫、2021年2月16日初刷、2022年4月26日第15刷)

どんな顔もしてないんじゃないか――『戦争は女の顔をしていない』(3)

聞き書きを、もう少し続けたい。

「タマーラ・ルキヤーノヴナ・トロプ 二等兵(土木工事担当)」には信念がある。
「父のような人たちのことを愚か者だ、スターリンを信じてしまった盲目だと言う人たちがいますが、私はそうは思わない。スターリンのことは恐れていた。レーニンの思想を信じていた。誓って言いますが、あの人たちは、正直で善良な人たちだった。あの人たちが信じたのはスターリンでもレーニンでもなく、共産主義という思想です。人間の顔をした社会主義、そういう思想を。」
 もし今も生きていたら、ウクライナに攻め込むロシアを見て、何というだろうか。

「ソフィヤ・アダーモヴナ・クンツェヴィチ 曹長(砲兵中隊衛生指導員)」は、18歳になる手前だった。
「包帯は全然足りませんでした。銃弾の傷は深くて、ありったけの包帯を使っても足りないんです。自分の下着は全部裂いて、男の人たちにも『ズボン下を、下着を供出してください、人が死にかけているんです』と頼みました。男たちはズボン下を脱ぎ、シャツを脱いで、裂いてくれました。恥ずかしくありませんでした。」
 この人は3回負傷して、3回脳挫傷を負った。しかし陥落したベルリンまで行き、国会議事堂の壁に、「私こと、ソフィヤ・クンツェヴィチは『戦争』を殺しにここまで来た」、と書いてサインをしたという。

「アポリーナ・ニコノヴナ・リツケーヴィチ=バイラク 少尉(地雷除去工兵小隊隊長)」は20歳だった。
「みんな勝利の日まで生きていたかった。一九四四年の十月、二一〇地雷除去分隊に入った私たちの大隊は第四ウクライナ戦線の軍人たちと一緒にチェコスロヴァキアに入ったんです。いたるところで大歓迎。花や果物、タバコなどを投げてくれる……舗装道路には絨毯が敷かれている……地雷除去の工兵小隊隊長が女の子だということはどこでも大センセーションを起こしたわ。髪を短く刈り込んでズボンに軍服なので女というより、少年のようだった。」
 人が死に、語り尽くせないくらいいろんなことがあったが、あえて一言で言えば、この20歳の隊長の軍隊生活は充実していた。

「エレーナ・ヴィクトロヴナ・クレノフスカヤ パルチザン」の言葉は信じられない。
「思い出したい……私が特別美しい気持ちで戻ったってことを話したいんです。どんなに特別な感激と感嘆の気持ちで男たちが接してくれたか、言葉ではとても言い表しようがありません。男たちとは同じ土壕で暮らして、同じテントで寝て、同じ任務についていました。」
 凍りつくような寒いときには、男の人が毛皮街頭の前を開け、暖めてくれたという。この人はパルチザン、まるで『誰がために鐘は鳴る』の世界だ。

「アントニーナ・アレクセーエヴナ・コンドラショワ パルチザン(斥候)」は、母をファシストに銃殺された。
「私は敵が憎かった。憎しみに支えられていた。井戸に放り込まれる子供の叫び声が今でも耳に残っています。そんな叫び声を聴いたことがありますか? 子供は落ちていきながら叫び続けて、それはどこか地中から聞こえてくるようでした。あの世からの声、子供の声とは言えません。人間の声ではなくなっています。ノコギリでいくつかに切り分けられた若者を見たことがあります。丸太のように切ってあるのです。パルチザンの仲間です。」
 この人はただ復讐に燃えていた。問題はこのような文章も、世に出すに当たっては、いい顔をされなかったということだ。

「ラトキナ・A 伍長(通信兵)」は、匿名でないと語れないことを語る。
「私たちの指揮官のところに五人のドイツ娘がやって来たの。みんな泣いていたわ……産婦人科が検査して、その子たちはあそこに引き裂いたようなけがをしてた。パンツは血だらけだった……その娘さんたちは一晩中暴行されたの。兵隊たちが行列していた……」
 兵隊たちは洋の東西を問わず、みな同じだ。あるいはこういうところが「検閲官」の検査に引っかかったのか。
 
しかし私はこの本を読んで、言いようのない複雑な感慨を持ち、しばし考え込んでしまった。

どんな顔もしてないんじゃないか――『戦争は女の顔をしていない』(2)

まず最初は『同志少女よ、敵を撃て』の、タネ本に当たる部分。戦闘体験集だから、初めに女性の名前と所属が書かれている。

「マリヤ・イワーノヴナ・モローゾワ(イワーヌシュキナ) 兵長(狙撃兵)」。
この人は、もうすぐ18歳になるところだった。ヒットラーがモスクワを占領するなんて、と思ったら、矢も楯もたまらず志願していた。そういう若者はソ連全土からきていた。占領地から来た者、身近な者を失って復讐に燃える者たちで、いっぱいだったという。
「〔戦闘の〕勉強が始まった。守備隊勤務の規則や規律を学び、現地でのカムフラージュや毒ガス対策。みんなとても頑張った。眼をつぶったまま銃を組み立て、解体できるようになり、風速、標的の動き、標的までの距離を判断し、隠れ場所を掘り、斥候の匍匐前進など何もかもできるようになった。」
こうして一般の男よりも優秀な、女狙撃兵が生まれた。

「クラヴヂヤ・グリゴリエヴナ・クローヒナ 上級軍曹(狙撃兵)」の場合は、ドイツ兵を75人殺したが、21歳で戦線から戻ったときは、すっかり白髪になっており、脳挫傷があって、片耳がよく聞こえなかった。この人は今も、「心の痛み」を患っている。

「ナヂェージダ・ワシーリエヴナ・アニシモワ 機関銃中隊衛生指導員」は、戦闘中に、負傷者を8時間かけて、自分の部隊まで引きずって帰った。それでメダルをもらったのが19歳だが、そのときはもう髪が白くなっていた。やはり19歳のとき、彼女は最後の戦いで、左右の肺を撃ち抜かれ、弾丸が脊椎の間を貫通し、両足が麻痺して、戦死したとみなされた。
「私が家に帰った時、妹が私の戦死を知らせる公報を見せてくれました。」
この人はその後、結婚した。今はちょうど19歳になる孫娘がいる。

「アリヴィナ・アレクサンドロヴナ・ガンチムロワ 上級軍曹(斥候)」は、戦争が終わっても15年間、毎晩毎晩、偵察に行く夢を見ていた。「自動小銃が壊れてしまったり、包囲されていたり、眼が覚めてもまだ歯ががちがちなっていました。」

「ローラ・アフメートワ 二等兵(射撃手)」は、ちょっと違うことを言う。
「戦争で一番恐ろしかったのは、男物のパンツをはいていることだよ。これはいやだった。〔中略〕祖国のために死んでもいい覚悟で戦地にいて、はいているのは男物のパンツなんだよ。こっけいなかっこしてるなんて、ばかげてるよ。間がぬけてて。そのころの男物のパンツって長いのだったんだ。がばがばで、つるつるした生地で縫ってあって。あたしたちの土壕には十人の女の子がいて、みな男物のパンツをはいてた。まったく、どうしようもない! 夏も冬も。四年間だよ。」
これをどう考えるか。命がけの戦場で、どちらかと言えば滑稽なことと取るか、それとも極限まで行ったときは、変なことが浮かぶと取るか。

「オリガ・ワシーリエヴナ・ポドヴィシェンスカヤ 一等兵(海軍)」は言う。
「戦後何十年もして有名なジャーナリストのヴェーラ・トカチェンコが、女たちも戦争に行っていたってことを中央紙の『プラウダ』に初めて書いてくれた。戦地で闘った女性がいるってことを。従軍していた戦闘員の女性たちが家庭を持てず、今も自分の家もない女たちがいること、その人たちに対して国民みんなに責任があるのだということを。」
女たちの参戦は、なかったことにされていた。

「ワレンチーナ・パーヴロヴナ・チュダーエワ 軍曹(高射砲指揮官)」はこう語る。
「夫と話していろいろな女の子たちのことを話しだした。私はわっと泣き出してしまった。『立派だとか、尊敬とか言ってるけど、女たちはほとんど全員が独身のままよ。結婚していない。共同住宅に住んでいるわ。誰が彼女たちを哀れんでくれた? 守ってくれたの? どこにあんたたち隠れてたの? 裏切者!』つまり、私は男たちの浮かれた気分をぶちこわしてしまった。」

国によって、民族によって、事情はそれぞれ違うものだ。ソ連の場合、闘った女性は戦争の後、だれにも顧みられなかった。これが、著者がこの本を書いた理由だ。

どんな顔もしてないんじゃないか――『戦争は女の顔をしていない』(1)

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチはベラルーシ出身の女性、2015年度のノーベル文学賞受賞者である。翻訳者は三浦みどり、文庫解説を澤地久枝が書いている。

この本は、漫画にもなり根強い人気があったが、『同志少女よ、敵を撃て』の一部タネ本に使われて火が付き、さらに今年、ロシアのウクライナ侵攻があり、ロングセラーになった。
 
アレクシエーヴィチはこの本で初めて、「女の言葉」で戦闘体験を記録した。これは体験集なのだ。それは「男の言葉」によっては、語られなかったことだ、と著者は言う。

「〔男が言う〕英雄的に他の者たちを殺して勝利した、あるいは負けたということはほとんどない。女たちが話すことは別のことだった。『女たちの』戦争にはそれなりの色、臭いがあり、光があり、気持ちが入っていた。そこには英雄もなく信じがたいような手柄もない、人間を越えてしまうようなスケールの事に関わっている人々がいるだけ。」
 
しかし、とアレクシエーヴィチは言う。なぜ女たちは、自分の言葉や気持ちを、これまで語ろうとはしなかったのだろう。

「まるまる一つの世界が知られないままに隠されてきた。女たちの戦争は知られないままになっていた……
 その戦争の物語を書きたい。」
 
そういうわけで、この本が生まれた。
 
しかし原稿ができてから本になるまでには、さらに2年間かかった。ゴルバチョフのペレストロイカが始まって、ようやく本になり、しかもその部数は200万部に達した。
 
こういうのを読むと、私の胸はもやもやとする。結果的にソ連は勝ち、日本は負けた。そういう結果の相反する国で、戦争体験集を編むと、戦争といってもこれだけ違うものか。

しかしその話は、後にまわそう。
 
まず序章に当たる部分があって、その中にこんなことが書かれている。

「検閲官との会話より――
『(中略)英雄的な手本を探そうとするべきだ。そういうものは何百とある。ところがあなたは戦争の汚さばかりを見せようとしている。何をねらっているんです? 真実が現実にあるものだと思ってるんですか? 街に転がっているものだと? 俗世のものだと? そんなものではない。真実というのは我々が憧れているものだ。こうでありたいと願うものなのだ。』」
 
これはたぶんペレストロイカの前に、「検閲官」と交わした言葉なのだろう。

しかしそもそも「検閲官」とはなんぞや。フルシチョフがスターリン批判をしてから、もう何年も経っているのに、ソヴィエトの社会主義は、まだこんなことをやっていたのか。社会主義とは、要するにこういうことか。
 
ペレストロイカがあったといっても、そういう風土のところで出されたものだということを、心に留め置く必要がある。

死んだ学問を生き返らせる――『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?―これからの経済と女性の話―』(4)

以下この本は、手を変え品を変え、現代経済学と新自由主義に、呪詛を投げつける。それを逐次紹介するのは、どこかで聞いたような話もあって、いささかくたびれる。
 
ただドバイの話だけは、取り上げたい。

「ドバイはアラブ首長国連邦を構成する7つの首長国のひとつだ。めざましい経済発展、民主主義も政党もない絶対君主制、所得税もなければ労働組合もない世界。
 まるで砂漠の真ん中につくられた、新自由主義のテーマパークだ。」
 
こういう国は、国の体をなしていない、と僕は思う。
 
毎年恒例のショッピング・フェスティバルには、実業家、スポーツ選手、映画俳優から、マフィア、麻薬王まで、ありとあらゆる金持ちが集まってくる。ろくなものではない。
 
ドバイはどこまでも、人工庭園が続いているように思える。
 
が、そうではない。

「都心を一歩離れると、外国人労働者の住むキャンプが乱立している。狭い部屋に6人から8人が詰め込まれ、台所やトイレすらついていないことが多い。
 ドバイの街をつくったのは、外国人労働者たちだ。でも彼らは、都会の住人からは見えないところに追いやられている。」
 
NHKであれ民放であれ、テレビはドバイのこういうところは映さない。もっとひどいこともある。

「ロシアやインドやイランやアルメニアから来たセックスワーカーも、人々の目から隠されている。マフィアの仲介で、高級ホテルで外国人観光客に体を売る女性たち。自由なドバイのイメージには、女性の体を買う自由という意味もかなり含まれる。」

こういう国は、もうすぐ亡びる。石油の枯渇とともに、あるいはそれよりも早く、砂漠の中に廃墟が出現する。僕はそう思う。
 
何度も言うがこの本は、カトリーン・マルサルの「経済人」に対する呪詛に満ちている。

「〔経済人とは〕人の身体や感情や依存や複雑さから全力で逃げだすための道具である。つながりと責任を逃れるために、人の弱さから目をそらすために、私たちがつくりだした方便だ。」
 
そうか、経済人とは、「私たちがつくりだした方便」に過ぎないのか。道理で経済の本を読んでも、実際の人間を考えると、よくわからなくなるわけだ。

「もがけ、苦しめ、もっと欲しいと叫べ。まわりは敵だらけだ。隙を見せるな。だからみんなに合わせるんだ。だからベッドから起き上がるんだ。だからお金を払ってレシートを保管するんだ。期待は苦痛を連れてくる。認められたきゃ手を汚せ。〔中略〕
 そしてあらゆる社会が、どうでもいい作り話のために苦しみつづける。」
 
著者はあるとき、過酷な労働条件下で働かされたに違いない。経済学者の、「どうでもいい作り話のために苦し」んだのだろう。
 
しかし著者が、いくら呪詛の言葉を投げつけても、この経済体制は変わらないだろう、いつまでも続くに違いない、と考えているあなた、そう思っているとしたら、足をすくわれる。
 
先進国ではもう、人口を支えるだけの子どもが生まれないのだ。

「欧州の女性は平均で2.36人の子どもが欲しいと考えているが、実際の出生率は1.7人だ。
〔中略〕なぜ自分が欲しい数の子どもを持てないのだろうか。」

「経済命」の人間が、「まわりは敵だらけ」の孤独な人間を、主人公に選んだからだ。みんな主役になりたがる。

「子どもを育てながら無理なく働ける選択肢を社会が支援しないかぎり、少子化は解決しない。キャリアか出産か、の二者択一を突きつけられれば、多くの人はキャリアを選ぶ。
 そして少子化の進んだ国々――ドイツ、イタリア、日本など――は、例外なく深刻な経済問題に直面している。」
 
もう多くは書かない。日本や、近いところでは韓国が、存亡の危機に直面している。

これは人間の暮らしを、経済問題ではなく別の原理で、立て直せるかどうかにかかっている。

とはいっても、時間はもう、あまり残ってはいないように見えるが。

(『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?―これからの経済と女性の話―』
 カトリーン・マルサル、高橋璃子・訳、河出書房新社、2021年11月30日初刷、2022年3月30日第4刷)