この本は構成そのものが、オリジナリティに富んでいる。ここまで朝ドラに見る沖縄と、喜納昌吉について見てきたが、さらにその先の話題を、章としていくつか挙げてみる。
「沖縄幻想を食い破った映画」、「沖縄チームの甲子園」、「大転換期の『基地問題』」、「アメリカンビレッジの行方」、「現前する死者」など、変化に富んでいる。
最初の「沖縄幻想を食い破った映画」では、中心を占めるのは、1989年に高嶺剛が発表した『ウンタマギルー』であるが、それよりもその前に出てくる、『ひめゆりの塔』(今井正監督)にまつわる話が興味深い。
「ひめゆり学徒たちの信条はあくまでも『殉国』の側にあり、ここからは日本が沖縄で行った差別的政策は見えてこない。今井作品も沖縄の側に立って、日本を批判するものではなかった。結果として、『贖罪』の意識は、沖縄は本土と同じ方向を向いて悲劇を甘受したという虚偽の歴史観から生まれている。」
「ひめゆり学徒」たちは、時の日本政府の、差別的政策の犠牲になったものであるが、映画では、そこは巧妙に避けられている。
「『ひめゆり』の物語は本土側の沖縄幻想の中に係留されたままになった。結局、本土人が身に付けたのは、贖罪という眼差しで沖縄を見るという習性のようなものだけだった。」
痛烈で正しい意見だが、それでも「ひめゆり」ものを見るときはいまだに、「贖罪という眼差しで沖縄を見るという習性のようなもの」が、忍び込んでくる。だから私は、「ひめゆり」ものや、沖縄のそれに類するものを、避けて通りたいのだ。
「大転換期の『基地問題』」は、現在に続く問題で、軽々に要約はできない。それでも押さえておくべき、決定的な文言がある。
まず大枠の「冷戦」について。
「日本にとってそもそも冷戦とは何だったのか。
核兵器がもたらす破滅的な結末が逆説的にもたらす偽装的な平和――これが冷戦の実体である。そのまがい物の安定と秩序を最大限に活用し、高度経済成長を手中にした国が日本であったことは間違いない。」
これも痛烈である。
もっとも、平和は偽装的であってもなくても同じことだ。政治は結果で、そこだけが問題になる、という言い方をする人もいる。日々を暮らしていく中では、そういう結果が大事であり、またそれを受け入れていくしかない、とも言える。
しかし私は、「まがい物の安定と秩序を最大限に活用し、高度経済成長を手中にした国」に生きているということは、忘れないでいたいと思う。
そしてそのあとに続く文章。
「高度成長の恩恵を受けた本土から、アジア冷戦体制の拠点になった沖縄が切り離されたことで、本土の日本人の大半は、(沖縄が復帰した後も!)冷戦という現実から目をそらしたままだった。」
そしてそれは今も変わらない。これは日本人だけが悪いのではない。この点では、アメリカも必死だったのだ。それは本文を読んでいただきたい。
菊地さんは最後を、こんな言葉で締めくくっている。
「立場や利害の違いはあれ、沖縄の人々は大勢では新基地に反対し続けた。その間に、五人の県知事とアメリカ大統領、十二人の日本の首相が沖縄を通り過ぎていった。
四半世紀の間に世界は変わり、当初の『目論見』の意味はなかば失われてしまったのではないか。世界の情勢は逃げ水のようにつかまえがたい。そして膨大な労役と費用と迷惑の挙句に、無用の長物ができあがっていくナンセンス。我々はその行方をまだ見通せないでいる。」
私たちは「その行方をまだ見通せない」というよりは、私たちの手で当面の決着をつけるべきではないか。私はそう思う。
3部作の、その先へ――『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』(2)
私が喜納昌吉に会ったのは、2010年前後だったと思う。神保町のⅯというバーだった。
そのころそのバーで、糸数慶子の秘書をしているというIさんと知り合いになった。糸数慶子は、2006年の沖縄県知事選に出て敗れ、2007年の国政選挙で参議院議員に返り咲いた。
そのころIさんと知り合ったのだ。何度か飲んでいるうちに、こんど喜納昌吉を連れてくるから、会うかといった。
喜納昌吉は、「ハイサイおじさん」や「花~すべての人の心に花を~」であまりにも有名であり、このころは民主党の参議院議員をしていた。
バーで会ったとき、けっこう長く飲んだが、政治の話が主で、早口の沖縄言葉で話すものだから、肝心のところは聞きそびれた。話に出てきた中では、しきりに小沢一郎のことを喋っていたのが、印象に残っている。
菊地さんは「第六章 島唄から始まった」で、喜納昌吉を取り上げている。
喜納が音楽の世界で活躍する、少し前のあたりから。
「〔1973年頃〕喜納昌吉は沖縄刑務所を出所し、今後の身の振り方を試行錯誤で探っているところだった。麻薬の不法所持で起訴され、実刑1年半という判決が下ったのだ。コザで経営する『ミカド』が成功し、稼ぎまくって遊蕩を尽くした挙句のことだった。獄中では、膨大な書物を乱読し、自身と向き合った。」
やんちゃな時代があったのだ。その後、喜納昌吉はもう一度、音楽と向き合っていく。「喜納昌吉&チャンプルーズ」は1968年に結成されたが、このころ活動を再開している。
そうして「ハイサイおじさん」の大ヒットとなる。
このモデルの男は、一家で隣家に暮らしていたが、そこで惨劇が起きる。
「喜納は学校の帰りに窓の外から室内を覗いた。玄関の脇には、毛布にくるまれた小さな塊があった。首を切られた少女の死体だった。首は、切り落とした母親が大鍋で煮て食べようとしていたという。」
これは1962年5月23日に、実際に起きた事件である。もう少し詳しく見ていこう。
「娘を殺害した母親の夫は那覇の遊郭へ客を運ぶ馬車の車夫だったが、自動車の普及で仕事を失い、自暴自棄の果てにアルコールに溺れた。錯乱状態にあった母親の凶行は、この無為の夫にも原因があったのだろう。彼こそ『ハイサイおじさん』だ。」
ここで「ハイサイおじさん」の歌詞を、引いておくべきだろうが、それはしない。全編、沖縄ことばが横溢していて、外の人間には皆目分からないのだ。
菊地さんは、曲全体の不思議な印象を、こんなふうに書きつける。
「それにしても『ハイサイおじさん』は不思議な曲だ。喜納は、不幸に見舞われた『おじさん』へのシンパシーがあったとコメントしているが、歌詞の中に現れる少年は『おじさん』に酒や娘を要求し、ハゲやヒゲを笑い、女郎を買いに行けとからかう。これはいったい、シンパシーなのだろうか。なぜ、中学生の喜納は、惨劇を瞼に焼き付けながら、こんなコミカルで軽快な曲を書いたのだろうか?」
この問いに対する答えは、もちろん推測の域を出ない。それでも沖縄の人々の鬱屈や、「沖縄の現実への苦い認識(絶望)」から、我知らず噴出したイメージなのだろう。
「近い世代の歌手たちにはない、喜納の不可解な凄みは、この最初の歌にも現れていた。」
私は喜納昌吉について、まったく理解していなかった。「ハイサイおじさん」が、こういう曲だということも知らなかった。
歌から政治へ(そしてその後、また歌へ)。喜納昌吉については、そのくらいのイメージしかなかった。バッカだねえ、私は本当にどうしようもない。
その後、沖縄の歌(「島唄」)は、数多くの傑作を生みだした。BEGIN、夏川りみ、安室奈美恵、りんけんバンドなどなど、数え上げれば切りがない。
しかし、と菊地さんは言う。
「喜納昌吉はその中にはいない。彼だけがそこにいない。一九八〇年代に生まれ、九〇年代にかけて『内発的ブーム』の先駆けを務めた沖縄ポップスのいちばん先鋭的な唄者は、その『原型』を保ったまま、今も沖縄のあるべき姿を掲げ続け、たった一人で歌い、語り続けている。」
私は喜納昌吉の、いまの歌を聞いてみたいと思う。
そのころそのバーで、糸数慶子の秘書をしているというIさんと知り合いになった。糸数慶子は、2006年の沖縄県知事選に出て敗れ、2007年の国政選挙で参議院議員に返り咲いた。
そのころIさんと知り合ったのだ。何度か飲んでいるうちに、こんど喜納昌吉を連れてくるから、会うかといった。
喜納昌吉は、「ハイサイおじさん」や「花~すべての人の心に花を~」であまりにも有名であり、このころは民主党の参議院議員をしていた。
バーで会ったとき、けっこう長く飲んだが、政治の話が主で、早口の沖縄言葉で話すものだから、肝心のところは聞きそびれた。話に出てきた中では、しきりに小沢一郎のことを喋っていたのが、印象に残っている。
菊地さんは「第六章 島唄から始まった」で、喜納昌吉を取り上げている。
喜納が音楽の世界で活躍する、少し前のあたりから。
「〔1973年頃〕喜納昌吉は沖縄刑務所を出所し、今後の身の振り方を試行錯誤で探っているところだった。麻薬の不法所持で起訴され、実刑1年半という判決が下ったのだ。コザで経営する『ミカド』が成功し、稼ぎまくって遊蕩を尽くした挙句のことだった。獄中では、膨大な書物を乱読し、自身と向き合った。」
やんちゃな時代があったのだ。その後、喜納昌吉はもう一度、音楽と向き合っていく。「喜納昌吉&チャンプルーズ」は1968年に結成されたが、このころ活動を再開している。
そうして「ハイサイおじさん」の大ヒットとなる。
このモデルの男は、一家で隣家に暮らしていたが、そこで惨劇が起きる。
「喜納は学校の帰りに窓の外から室内を覗いた。玄関の脇には、毛布にくるまれた小さな塊があった。首を切られた少女の死体だった。首は、切り落とした母親が大鍋で煮て食べようとしていたという。」
これは1962年5月23日に、実際に起きた事件である。もう少し詳しく見ていこう。
「娘を殺害した母親の夫は那覇の遊郭へ客を運ぶ馬車の車夫だったが、自動車の普及で仕事を失い、自暴自棄の果てにアルコールに溺れた。錯乱状態にあった母親の凶行は、この無為の夫にも原因があったのだろう。彼こそ『ハイサイおじさん』だ。」
ここで「ハイサイおじさん」の歌詞を、引いておくべきだろうが、それはしない。全編、沖縄ことばが横溢していて、外の人間には皆目分からないのだ。
菊地さんは、曲全体の不思議な印象を、こんなふうに書きつける。
「それにしても『ハイサイおじさん』は不思議な曲だ。喜納は、不幸に見舞われた『おじさん』へのシンパシーがあったとコメントしているが、歌詞の中に現れる少年は『おじさん』に酒や娘を要求し、ハゲやヒゲを笑い、女郎を買いに行けとからかう。これはいったい、シンパシーなのだろうか。なぜ、中学生の喜納は、惨劇を瞼に焼き付けながら、こんなコミカルで軽快な曲を書いたのだろうか?」
この問いに対する答えは、もちろん推測の域を出ない。それでも沖縄の人々の鬱屈や、「沖縄の現実への苦い認識(絶望)」から、我知らず噴出したイメージなのだろう。
「近い世代の歌手たちにはない、喜納の不可解な凄みは、この最初の歌にも現れていた。」
私は喜納昌吉について、まったく理解していなかった。「ハイサイおじさん」が、こういう曲だということも知らなかった。
歌から政治へ(そしてその後、また歌へ)。喜納昌吉については、そのくらいのイメージしかなかった。バッカだねえ、私は本当にどうしようもない。
その後、沖縄の歌(「島唄」)は、数多くの傑作を生みだした。BEGIN、夏川りみ、安室奈美恵、りんけんバンドなどなど、数え上げれば切りがない。
しかし、と菊地さんは言う。
「喜納昌吉はその中にはいない。彼だけがそこにいない。一九八〇年代に生まれ、九〇年代にかけて『内発的ブーム』の先駆けを務めた沖縄ポップスのいちばん先鋭的な唄者は、その『原型』を保ったまま、今も沖縄のあるべき姿を掲げ続け、たった一人で歌い、語り続けている。」
私は喜納昌吉の、いまの歌を聞いてみたいと思う。
3部作の、その先へ――『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』(1)
著者は菊地史彦氏、トランスビューで、『「幸せ」の戦後史』、『「若者」の時代』を出していただいて、3部作の掉尾を飾る『「象徴」のいる国で』を出そうと考えているときに、私が脳出血になってしまった。
菊地さんには本当にご迷惑をおかけした。3作目は作品社で出された。
そして『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』も、同じところから出された。
菊地さんのテーマは日本戦後史、もっといえば日本の戦後社会史である。それはフレデリック・ルイス・アレンの『オンリー・イエスタディ』を、自身を巻き込みながら、さらにきめ細かく探求していくものだ。
3部作が完成して、次は各論に入っていく。それが今度の本なのだ。
そうはいっても、テーマは「沖縄」、簡単ではない。書き手がどの位置から書くか、そこが問題であり、書き手だけではなく、読者の方も緊張して読むことになる。
しかし私は、特に個人的に、沖縄に興味があるというわけではない。第2次世界大戦の末期、沖縄は地獄を見た。そして戦後の基地問題。そういうことと、沖縄が好きだというのとは、違うことだ。
そういう意味では私と、菊地さんがこの本を書く姿勢には、ずれがある。だからここでは、興味に応じて、自分が惹かれたところを挙げていこう。
NHK朝ドラの『ちゅらさん』は、2001年の上半期、朝ドラとしては初めて沖縄を舞台にした。視聴率は22・2%で、この時期では並の数字だった。ただし人気は根強く、続編がパート4まで作られ、このドラマが「『沖縄ブーム』の駆動力の一つになったのも確かなことである」、と著者は言う。
そしてそこから踏み込んで、こうも言う。
「『ちゅらさん』は、一貫して沖縄の悲劇的な歴史に言及しなかった。少なくともおばぁは沖縄戦を体験した世代だが、彼女の科白に『戦争』はついに現れなかった。〔中略〕結局、『ちゅらさん』には、米軍基地も暴行事件も登場しない。それは沖縄の現代劇である以上、却って不自然な印象を与えた。」
まったくもってその通り。しかし「朝ドラ」で、沖縄の真実を直視することは、かなり難しいだろう、という気がする。
そして本土復帰50年目の2022年、朝ドラで『ちむどんどん』が放映された。これについても、著者は厳しいことを言う。
「ヒロインの比嘉暢子〔ひがのぶこ〕は他者への配慮なしに、自分のやりたいことに夢中になってしまい、たびたび悶着を起こす。自らの決心を人前で宣言する癖があり、彼女に共感できない人間の反発を招いてしまう。要するにかなりの自己中心主義。」
ほとんどバカと紙一重であり、これを素直に演じた黒島結菜は気の毒であった。
さらに、ヒロインのパートナーを務める本土の男性が、沖縄ものでは、このドラマを含めて、必ずヒロインよりも上層の階層に属している。
もちろん男女の婚姻譚では、今もシンデレラストーリーが、通俗的には幅を利かせている。しかし著者は、その先を推測する。
「それだけではない。本土の視聴者には(たぶん沖縄の視聴者にも)、こうした階層差のある男女の関係はごく自然に受け入れられている。だから脚本家たちは、あまり悩むことなく、この関係を踏襲している。」
ここでいったん結論を出しておいて、最後にもう一度、NHK朝ドラの沖縄ものについて、きっぱりと断言する。
「きっとつくり手たちは、ふと沖縄に向き合ったとき、それが見慣れたリゾートアイランドではなく、さまざまな理不尽や不可解が散乱する複雑な現実であることに気付くのだ。沖縄っていったい何なんだ? そんな戸惑いにしばらく足を取られると、ドラマをつくる人々は(その手練れと忙しさゆえに)、極端な人物造形やステレオタイプへ、一挙に舵を切るのだろう。もちろん、それもプロの仕事振りの一つだが、そこでは、沖縄を描くことの本当の難しさは言い出されないままなのだ。」
そうもいえるだろう。
しかし沖縄が、「さまざまな理不尽や不可解が散乱する複雑な現実であることに気付」けば、そういう衝突、特にNHKの枠を超えて政治問題化するのを徹底的に避けようとすれば、「極端な人物造形やステレオタイプへ、一挙に舵を切るの」は、当然ではないか。
菊地さんには本当にご迷惑をおかけした。3作目は作品社で出された。
そして『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』も、同じところから出された。
菊地さんのテーマは日本戦後史、もっといえば日本の戦後社会史である。それはフレデリック・ルイス・アレンの『オンリー・イエスタディ』を、自身を巻き込みながら、さらにきめ細かく探求していくものだ。
3部作が完成して、次は各論に入っていく。それが今度の本なのだ。
そうはいっても、テーマは「沖縄」、簡単ではない。書き手がどの位置から書くか、そこが問題であり、書き手だけではなく、読者の方も緊張して読むことになる。
しかし私は、特に個人的に、沖縄に興味があるというわけではない。第2次世界大戦の末期、沖縄は地獄を見た。そして戦後の基地問題。そういうことと、沖縄が好きだというのとは、違うことだ。
そういう意味では私と、菊地さんがこの本を書く姿勢には、ずれがある。だからここでは、興味に応じて、自分が惹かれたところを挙げていこう。
NHK朝ドラの『ちゅらさん』は、2001年の上半期、朝ドラとしては初めて沖縄を舞台にした。視聴率は22・2%で、この時期では並の数字だった。ただし人気は根強く、続編がパート4まで作られ、このドラマが「『沖縄ブーム』の駆動力の一つになったのも確かなことである」、と著者は言う。
そしてそこから踏み込んで、こうも言う。
「『ちゅらさん』は、一貫して沖縄の悲劇的な歴史に言及しなかった。少なくともおばぁは沖縄戦を体験した世代だが、彼女の科白に『戦争』はついに現れなかった。〔中略〕結局、『ちゅらさん』には、米軍基地も暴行事件も登場しない。それは沖縄の現代劇である以上、却って不自然な印象を与えた。」
まったくもってその通り。しかし「朝ドラ」で、沖縄の真実を直視することは、かなり難しいだろう、という気がする。
そして本土復帰50年目の2022年、朝ドラで『ちむどんどん』が放映された。これについても、著者は厳しいことを言う。
「ヒロインの比嘉暢子〔ひがのぶこ〕は他者への配慮なしに、自分のやりたいことに夢中になってしまい、たびたび悶着を起こす。自らの決心を人前で宣言する癖があり、彼女に共感できない人間の反発を招いてしまう。要するにかなりの自己中心主義。」
ほとんどバカと紙一重であり、これを素直に演じた黒島結菜は気の毒であった。
さらに、ヒロインのパートナーを務める本土の男性が、沖縄ものでは、このドラマを含めて、必ずヒロインよりも上層の階層に属している。
もちろん男女の婚姻譚では、今もシンデレラストーリーが、通俗的には幅を利かせている。しかし著者は、その先を推測する。
「それだけではない。本土の視聴者には(たぶん沖縄の視聴者にも)、こうした階層差のある男女の関係はごく自然に受け入れられている。だから脚本家たちは、あまり悩むことなく、この関係を踏襲している。」
ここでいったん結論を出しておいて、最後にもう一度、NHK朝ドラの沖縄ものについて、きっぱりと断言する。
「きっとつくり手たちは、ふと沖縄に向き合ったとき、それが見慣れたリゾートアイランドではなく、さまざまな理不尽や不可解が散乱する複雑な現実であることに気付くのだ。沖縄っていったい何なんだ? そんな戸惑いにしばらく足を取られると、ドラマをつくる人々は(その手練れと忙しさゆえに)、極端な人物造形やステレオタイプへ、一挙に舵を切るのだろう。もちろん、それもプロの仕事振りの一つだが、そこでは、沖縄を描くことの本当の難しさは言い出されないままなのだ。」
そうもいえるだろう。
しかし沖縄が、「さまざまな理不尽や不可解が散乱する複雑な現実であることに気付」けば、そういう衝突、特にNHKの枠を超えて政治問題化するのを徹底的に避けようとすれば、「極端な人物造形やステレオタイプへ、一挙に舵を切るの」は、当然ではないか。
A級順位戦の最終日に――『挑戦―常識のブレーキをはずせ―』(2)
誰でも同じだと思うが、私がAIと関連させていちばん気になるのは、どちらかに形勢が傾いたときである。指し手の意味は、解説を聞かなければ、まったく意味不明だが、形勢が傾いたときは、画面にグラフと数字で出る。
藤井聡太も、ここではAIと関連させてはいないが、いつ形勢が傾いたかを重視すると言っている。
「藤井 負けた将棋でいちばん気になるのは、いつ形勢が傾いたか、初めて形勢が傾いたポイントのところです。〔中略〕初めて形勢が動いたところはどこか。そこは振り返る時にいちばん重視するところです。」
単純にAIを参照してはいないにせよ、この辺りは素人の私と同じである。
さらに形勢が動くところとして、もう一歩踏み込む。
「藤井 自分が負けてしまった将棋を振り返ると、自分が対局でミスをするのは、中盤で駒がぶつかる辺りと、あと中盤から終盤にさしかかる入り口の局面で相手に後れを取ってしまうような展開が多かったと思っています。」
だからその辺りを改善することが、課題であるという。なるほど非常に明晰で、分かりやすい。
しかし考えてみれば、「中盤で駒がぶつかる辺り」と、「中盤から終盤にさしかかる入り口の局面」が問題だというのは、棋士の10人ちゅう10人が、言うことではないだろうか。だからこれは、藤井5冠王の秘密でも何でもない、と私は思う。
対局する相手については、一局ごとに相手に応じて、特定の戦型を掘り下げることは、やっていないという。
「藤井 自分は具体的な目標はあまり立てないほうで、というか、今まで立ててなかったんですけど。単純に強くなりたい、最善に近づく、というのが理想です。」
そういうことだ。またこうも言っている。
「藤井 まずは自分との戦いというか、自分の実力をどれだけ上げることができるかということです。もっと実力を上げて、その先に結果がついてくるかなと思っています。」
だから「初手お茶」の次は、「飛車先の歩」と決まっているのだ。
山中伸弥も、将棋とは関係なく、医療に対して本音を語っている。
「山中 医療がビジネスになって、人を助けるためだった医学がいつの間にかお金儲けの対象になってしまって、その弊害が見過ごせないほどになっています。せっかく新しい治療法ができても、一人当たり治療費に何千万円もかかったりして、お金持ちの人は治せるけど、お金のない人は治せない、ということになっています。しかも『資本主義だから当然だ』みたいなことになりつつあるんですよ。」
医者は、みんなの病気を治そうとしているのに、治療法ができてみたら、金持ちしか利用できないなんてふざけている、と山中は言う。
IPS細胞による治療は、国民健康保険の適応が受けられますよう、祈っております。
この本の中心は、「第5章 AIが常識というブレーキをはずす」という、「AIと将棋」論である。とはいえ大体のところは、ほかの媒体でも喋っている。そうではないところを、何か所か取り上げてみる。
「今のAIは強化学習によって、人間とは違う価値観、感覚が進歩してきたように感じます。それまで人間が気づかなかった手や判断を示されることもあるので、今までの価値観が刷新されてきて、むしろ自由度が上がったという感じがします。」
これはハッとする見方だ。ふつうはコンピュータによって模範回答が示されるから、そこに至る考え方を習得すべく、人間の方は自由度が下がるのではないか。しかし藤井は、まったく逆のことを言っているのだ。
次は、AIにも個性があるという話。
「藤井 AIによっても、けっこう棋風というか特徴にはそれぞれ違いがあります。同じぐらいの強さでも指し方が違うというケースはけっこう多いです。自分が使っていても、とくに序盤の評価値に極端な違いが出ることがあります。特徴がはっきりあるな、という印象です。」
これは面白い話だ。その違いが何に由来するのか。私が考えてもしょうがないのだが、しかし考えは尽きない、
そして最後に結論が来る。
「藤井 将棋というゲームの結論は、先手勝ちか、後手勝ちか、引き分けの三種類なんですが、その結論を知っている『将棋の神様』から見たら、あらゆる局面がその三つのどれかに分類されることになります。今のAIは局面も評価値という『勝ちやすさ』でとらえているので、神様のレベルには全然達していない状態だということだと思います。」
素人つまり私は、勝負には時間の要素が入ってくるので、それは無理だと考えるが、それは素人考えというもので、実際はどうなっているのか分からない。
最初に戻って、これは対談本として成り立っているか、と問われれば、やはり微妙というしかない。ただ、20歳前の人間が、40歳年上の、ノーベル賞をもらった人間と、対談するということを、どういうふうに考えるか。
そこを考えると、藤井聡太の底知れない不思議さが、際立ってくる。
A級順位戦の最終日は、藤井と広瀬がともに勝ち、3月8日にプレイオフで決着をつけることになった。
(『挑戦―常識のブレーキをはずせ―』山中伸弥・藤井聡太
講談社、2021年12月6日初刷、23日第2刷)
藤井聡太も、ここではAIと関連させてはいないが、いつ形勢が傾いたかを重視すると言っている。
「藤井 負けた将棋でいちばん気になるのは、いつ形勢が傾いたか、初めて形勢が傾いたポイントのところです。〔中略〕初めて形勢が動いたところはどこか。そこは振り返る時にいちばん重視するところです。」
単純にAIを参照してはいないにせよ、この辺りは素人の私と同じである。
さらに形勢が動くところとして、もう一歩踏み込む。
「藤井 自分が負けてしまった将棋を振り返ると、自分が対局でミスをするのは、中盤で駒がぶつかる辺りと、あと中盤から終盤にさしかかる入り口の局面で相手に後れを取ってしまうような展開が多かったと思っています。」
だからその辺りを改善することが、課題であるという。なるほど非常に明晰で、分かりやすい。
しかし考えてみれば、「中盤で駒がぶつかる辺り」と、「中盤から終盤にさしかかる入り口の局面」が問題だというのは、棋士の10人ちゅう10人が、言うことではないだろうか。だからこれは、藤井5冠王の秘密でも何でもない、と私は思う。
対局する相手については、一局ごとに相手に応じて、特定の戦型を掘り下げることは、やっていないという。
「藤井 自分は具体的な目標はあまり立てないほうで、というか、今まで立ててなかったんですけど。単純に強くなりたい、最善に近づく、というのが理想です。」
そういうことだ。またこうも言っている。
「藤井 まずは自分との戦いというか、自分の実力をどれだけ上げることができるかということです。もっと実力を上げて、その先に結果がついてくるかなと思っています。」
だから「初手お茶」の次は、「飛車先の歩」と決まっているのだ。
山中伸弥も、将棋とは関係なく、医療に対して本音を語っている。
「山中 医療がビジネスになって、人を助けるためだった医学がいつの間にかお金儲けの対象になってしまって、その弊害が見過ごせないほどになっています。せっかく新しい治療法ができても、一人当たり治療費に何千万円もかかったりして、お金持ちの人は治せるけど、お金のない人は治せない、ということになっています。しかも『資本主義だから当然だ』みたいなことになりつつあるんですよ。」
医者は、みんなの病気を治そうとしているのに、治療法ができてみたら、金持ちしか利用できないなんてふざけている、と山中は言う。
IPS細胞による治療は、国民健康保険の適応が受けられますよう、祈っております。
この本の中心は、「第5章 AIが常識というブレーキをはずす」という、「AIと将棋」論である。とはいえ大体のところは、ほかの媒体でも喋っている。そうではないところを、何か所か取り上げてみる。
「今のAIは強化学習によって、人間とは違う価値観、感覚が進歩してきたように感じます。それまで人間が気づかなかった手や判断を示されることもあるので、今までの価値観が刷新されてきて、むしろ自由度が上がったという感じがします。」
これはハッとする見方だ。ふつうはコンピュータによって模範回答が示されるから、そこに至る考え方を習得すべく、人間の方は自由度が下がるのではないか。しかし藤井は、まったく逆のことを言っているのだ。
次は、AIにも個性があるという話。
「藤井 AIによっても、けっこう棋風というか特徴にはそれぞれ違いがあります。同じぐらいの強さでも指し方が違うというケースはけっこう多いです。自分が使っていても、とくに序盤の評価値に極端な違いが出ることがあります。特徴がはっきりあるな、という印象です。」
これは面白い話だ。その違いが何に由来するのか。私が考えてもしょうがないのだが、しかし考えは尽きない、
そして最後に結論が来る。
「藤井 将棋というゲームの結論は、先手勝ちか、後手勝ちか、引き分けの三種類なんですが、その結論を知っている『将棋の神様』から見たら、あらゆる局面がその三つのどれかに分類されることになります。今のAIは局面も評価値という『勝ちやすさ』でとらえているので、神様のレベルには全然達していない状態だということだと思います。」
素人つまり私は、勝負には時間の要素が入ってくるので、それは無理だと考えるが、それは素人考えというもので、実際はどうなっているのか分からない。
最初に戻って、これは対談本として成り立っているか、と問われれば、やはり微妙というしかない。ただ、20歳前の人間が、40歳年上の、ノーベル賞をもらった人間と、対談するということを、どういうふうに考えるか。
そこを考えると、藤井聡太の底知れない不思議さが、際立ってくる。
A級順位戦の最終日は、藤井と広瀬がともに勝ち、3月8日にプレイオフで決着をつけることになった。
(『挑戦―常識のブレーキをはずせ―』山中伸弥・藤井聡太
講談社、2021年12月6日初刷、23日第2刷)
A級順位戦の最終日に――『挑戦―常識のブレーキをはずせ―』(1)
2日前の3月2日は、第81期A級順位戦の最終日、俗にいう「将棋界の一番長い日」で、全員一斉対局がある。藤井聡太と広瀬章人八段が、これまで6勝2敗でトップを走り、勝った方が名人戦挑戦者になる。どちらも勝ったら、改めてプレイオフで勝敗を決める。
そういう日にちなんで、藤井聡太と山中伸弥の『挑戦―常識のブレーキをはずせ―』を読んでみる。
ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥と、このころ(2021年12月)、史上最年少四冠を達成した、将棋の藤井聡太の対談本である(藤井は現在、五冠王)。
山中伸弥が1942年生まれ、藤井が2002年生まれ。40歳違いの2人が「対談本」を出すという。果たして成り立つのか。
全体を読み終えてみると、微妙ですね。藤井聡太は、大半はいつも言っていることだし、山中伸弥の方は、IPS細胞のことを話すけれども、これは藤井聡太では難しい。というか自然科学者でなければ、相手をするのは難しい。
それでもなお、藤井は新しいことも言っている。それらを拾ってみる。
まず藤井の「はじめに」のところ。山中伸弥の豊かな知識と経験から、話は「勝負のあり方から若返りの可能性、人工知能の未来、人間の可能性まで、さまざまな方面に」及んだ。
「なかでも印象に残ったのは、異分野の知識に触れることがIPS細胞発見への弾みになったという体験談、それから成功確率が低くても人間が信念や直感に基づいて進んだ道が別の新しい発見につながることがある、というお話でした。」
特に前段、異分野の知識に触れることが、ブレイクスルーの要になることがある、という話。だから藤井は、山中伸弥と対談しているのか。
さらに対談中のセリフをいくつか。
「藤井 けっこう時間をかけて指した手の後に、まったく予想していなかった有力な手を指されると、そのたびに読み直すことになって大変なんですけど、それはそれで対局の面白さの一つです。そういう経験が将棋に対する自分の見方を変えてくれたりして、すごくいい経験になると思っています。」
ここでは、タイトルを防衛するとか獲りに行くとかは、問題にされていない。自分にとって見方を変えてくれるもの、それが将棋なのだ。
これでは他の棋士たちは大変だ。他の棋士たちはみな、タイトルを獲りに行くことを目標としている。
対して藤井はそうではない。彼にとって将棋は、「すごくいい経験になる」もので、タイトルはその過程で落ちているもの、という表現がきついとすれば、途中で摘み取っていく果実のようなものである。ここは他の棋士たちと、まったく違うところだ。
一局を終えた後、感想戦についても、面白いことを言っている。
「藤井 とくに負けた将棋だと、改善すべき点をフィードバックして、次につなげていくことが大事だと思います。『感想戦は敗者のためにある』という好きな言葉があって、感想戦の意義をよく表した言葉だと思います。」
感想戦は敗者のためにあるというけど、藤井聡太は年度別でも全期間通算でも、勝ち数は8割を超えている(これは驚異だ!)。めったに負けないから、「感想戦は敗者のためにある」という言葉が、深く納得できるのだろうか。
それに続けて、「やはり負けた将棋のほうが、印象に残っていることが多いと思います」と述べている。
負けた将棋は、負けになったところが分かれば、納得して貯めこまない、ああでもないこうでもないと、いつまでも考えているのは、あとの勝負に悪影響をもたらす、と言った名人大山康晴とはだいぶ趣が違う。
そういう日にちなんで、藤井聡太と山中伸弥の『挑戦―常識のブレーキをはずせ―』を読んでみる。
ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥と、このころ(2021年12月)、史上最年少四冠を達成した、将棋の藤井聡太の対談本である(藤井は現在、五冠王)。
山中伸弥が1942年生まれ、藤井が2002年生まれ。40歳違いの2人が「対談本」を出すという。果たして成り立つのか。
全体を読み終えてみると、微妙ですね。藤井聡太は、大半はいつも言っていることだし、山中伸弥の方は、IPS細胞のことを話すけれども、これは藤井聡太では難しい。というか自然科学者でなければ、相手をするのは難しい。
それでもなお、藤井は新しいことも言っている。それらを拾ってみる。
まず藤井の「はじめに」のところ。山中伸弥の豊かな知識と経験から、話は「勝負のあり方から若返りの可能性、人工知能の未来、人間の可能性まで、さまざまな方面に」及んだ。
「なかでも印象に残ったのは、異分野の知識に触れることがIPS細胞発見への弾みになったという体験談、それから成功確率が低くても人間が信念や直感に基づいて進んだ道が別の新しい発見につながることがある、というお話でした。」
特に前段、異分野の知識に触れることが、ブレイクスルーの要になることがある、という話。だから藤井は、山中伸弥と対談しているのか。
さらに対談中のセリフをいくつか。
「藤井 けっこう時間をかけて指した手の後に、まったく予想していなかった有力な手を指されると、そのたびに読み直すことになって大変なんですけど、それはそれで対局の面白さの一つです。そういう経験が将棋に対する自分の見方を変えてくれたりして、すごくいい経験になると思っています。」
ここでは、タイトルを防衛するとか獲りに行くとかは、問題にされていない。自分にとって見方を変えてくれるもの、それが将棋なのだ。
これでは他の棋士たちは大変だ。他の棋士たちはみな、タイトルを獲りに行くことを目標としている。
対して藤井はそうではない。彼にとって将棋は、「すごくいい経験になる」もので、タイトルはその過程で落ちているもの、という表現がきついとすれば、途中で摘み取っていく果実のようなものである。ここは他の棋士たちと、まったく違うところだ。
一局を終えた後、感想戦についても、面白いことを言っている。
「藤井 とくに負けた将棋だと、改善すべき点をフィードバックして、次につなげていくことが大事だと思います。『感想戦は敗者のためにある』という好きな言葉があって、感想戦の意義をよく表した言葉だと思います。」
感想戦は敗者のためにあるというけど、藤井聡太は年度別でも全期間通算でも、勝ち数は8割を超えている(これは驚異だ!)。めったに負けないから、「感想戦は敗者のためにある」という言葉が、深く納得できるのだろうか。
それに続けて、「やはり負けた将棋のほうが、印象に残っていることが多いと思います」と述べている。
負けた将棋は、負けになったところが分かれば、納得して貯めこまない、ああでもないこうでもないと、いつまでも考えているのは、あとの勝負に悪影響をもたらす、と言った名人大山康晴とはだいぶ趣が違う。
男社会を憎悪する――『ババヤガの夜』
少し前に東京新聞の読書面で、『破果』が取り上げられ絶賛されていた。
ネットで見ると、帯の文句は「韓国文学史上最高の『キラー小説』、待望の日本上陸!」、「女殺し屋、人生最後の死闘がはじまる」というので、いやあ、これは期待させる。
ところが、出版元がなんと岩波書店で、思わず躊躇する。女殺し屋の死闘に、難しい理屈が付いていたり、哲学的反省が入ってないだろうな。
書評の欄外に、もう一つ読むならこれも、と言うことで、同傾向の作品として、王谷晶『ババヤガの夜』が出ていた。で、『破果』の前にこっちを読んでみる。
よく考えれば、素直に『破果』を読めばいいのだが、ここ10年ほどの岩波の本は、嫌いなのだ。毎月の広告を見ても、企画決定の際に、これは社会に必要な本だとか、良質な本だとか、もっともらしい声が聞こえてきて、うんざりする(もちろん岩波の企画会議など、覗いたこともないけれど)。
王谷晶(おうたにあきら)については、何も知らない。晶という名は、男女どちらでも可能だが、著者略歴に、「一九八一年、東京都生まれ。著書に『完璧じゃない、あたしたち』『どうせカラダが目当てでしょ』など」とあるから、たぶん女性だろう。
書き出しの1行は、「日暮れ始めた甲州街道を走る白いセダンは、煙草と血の匂いで満ちていた」と、のっけからバイオレンス調だ。そしてそのまま、4分の3まで行く。
はっきり言って、うんざりである。ヤクザに雇われた凶暴な女主人公と、組長の娘の、荒唐無稽な話で、そこにハチャメチャな暴力描写が挿入される。
その間、主人公や組長の娘の内面の描写など、薬にしたくとも無い。
それが、組長の娘が、自分を犯しに来た組長を殺してからは、まったく一変する。
その描写も、言ってみれば、かなりブラックで変態的、というか寓話的なのだ。
主人公は言う。
「何を、してる。あんた、父親だろうが……」〔中略〕
「儂の娘だから、儂がぶち込む権利があるんだろうが。あの変態のところにやる前にできるだけやり貯めとかんと損だからな。」
組長のお嬢さんは大学生だが、すでに別の組長と婚約している。その変態組長は、関係者みんなの前で、1か月間、射精を我慢して、新婚の夜に精液を浴びせるのが楽しみでならない、と股間を突っ張らかしたまま言う。
お嬢さんは、父親である組長を弓で射殺し、主人公と果てしない逃走の旅に出る。
ここには一つ、トリックがあって、それはなかなか見事なものだ。組長と娘の前から、母親が、子分のヤクザを連れて、もう何年も逃げ続けている。このことと、主人公とお嬢さんが逃げるのとが、重ね合わせになって叙述のトリックが成立し、しかも実によく効いている。
しかしながら、この小説の中心は、半世紀近くを生き延びる、女2人の生活、しかも決して人に知られてはならない、静かな生活にある。
「男に見えるもの〔=お嬢さん〕と女に見えるもの〔=主人公〕が一緒にいれば、すなわちそれは夫婦と見られる。カタにはまった世の中ほど騙しやすい。」
きっとそんなふうにして、著者は女の人と、人知れず静かな生活を送ってきたのだろう、と空想させるに十分だ。
読み終わってみれば、ヤクザのバイオレンスという古臭い設定が、著者の、男社会に対する、痛烈な批判であることがわかる。しかもそこは、隙あらば女を犯したい、バレなければ自分の娘だって犯したい、という社会なのだ。
これはもちろん、極端に戯画化された世界だ。しかし王谷晶はそのくらい、男社会におぞ気を奮うほど、嫌い抜いているのだ。
(『ババヤガの夜』王谷晶、河出書房新社、2020年10月30日初刷)
ネットで見ると、帯の文句は「韓国文学史上最高の『キラー小説』、待望の日本上陸!」、「女殺し屋、人生最後の死闘がはじまる」というので、いやあ、これは期待させる。
ところが、出版元がなんと岩波書店で、思わず躊躇する。女殺し屋の死闘に、難しい理屈が付いていたり、哲学的反省が入ってないだろうな。
書評の欄外に、もう一つ読むならこれも、と言うことで、同傾向の作品として、王谷晶『ババヤガの夜』が出ていた。で、『破果』の前にこっちを読んでみる。
よく考えれば、素直に『破果』を読めばいいのだが、ここ10年ほどの岩波の本は、嫌いなのだ。毎月の広告を見ても、企画決定の際に、これは社会に必要な本だとか、良質な本だとか、もっともらしい声が聞こえてきて、うんざりする(もちろん岩波の企画会議など、覗いたこともないけれど)。
王谷晶(おうたにあきら)については、何も知らない。晶という名は、男女どちらでも可能だが、著者略歴に、「一九八一年、東京都生まれ。著書に『完璧じゃない、あたしたち』『どうせカラダが目当てでしょ』など」とあるから、たぶん女性だろう。
書き出しの1行は、「日暮れ始めた甲州街道を走る白いセダンは、煙草と血の匂いで満ちていた」と、のっけからバイオレンス調だ。そしてそのまま、4分の3まで行く。
はっきり言って、うんざりである。ヤクザに雇われた凶暴な女主人公と、組長の娘の、荒唐無稽な話で、そこにハチャメチャな暴力描写が挿入される。
その間、主人公や組長の娘の内面の描写など、薬にしたくとも無い。
それが、組長の娘が、自分を犯しに来た組長を殺してからは、まったく一変する。
その描写も、言ってみれば、かなりブラックで変態的、というか寓話的なのだ。
主人公は言う。
「何を、してる。あんた、父親だろうが……」〔中略〕
「儂の娘だから、儂がぶち込む権利があるんだろうが。あの変態のところにやる前にできるだけやり貯めとかんと損だからな。」
組長のお嬢さんは大学生だが、すでに別の組長と婚約している。その変態組長は、関係者みんなの前で、1か月間、射精を我慢して、新婚の夜に精液を浴びせるのが楽しみでならない、と股間を突っ張らかしたまま言う。
お嬢さんは、父親である組長を弓で射殺し、主人公と果てしない逃走の旅に出る。
ここには一つ、トリックがあって、それはなかなか見事なものだ。組長と娘の前から、母親が、子分のヤクザを連れて、もう何年も逃げ続けている。このことと、主人公とお嬢さんが逃げるのとが、重ね合わせになって叙述のトリックが成立し、しかも実によく効いている。
しかしながら、この小説の中心は、半世紀近くを生き延びる、女2人の生活、しかも決して人に知られてはならない、静かな生活にある。
「男に見えるもの〔=お嬢さん〕と女に見えるもの〔=主人公〕が一緒にいれば、すなわちそれは夫婦と見られる。カタにはまった世の中ほど騙しやすい。」
きっとそんなふうにして、著者は女の人と、人知れず静かな生活を送ってきたのだろう、と空想させるに十分だ。
読み終わってみれば、ヤクザのバイオレンスという古臭い設定が、著者の、男社会に対する、痛烈な批判であることがわかる。しかもそこは、隙あらば女を犯したい、バレなければ自分の娘だって犯したい、という社会なのだ。
これはもちろん、極端に戯画化された世界だ。しかし王谷晶はそのくらい、男社会におぞ気を奮うほど、嫌い抜いているのだ。
(『ババヤガの夜』王谷晶、河出書房新社、2020年10月30日初刷)
世界の見方が変わる――『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』(4)
今や未来は不確かなものになった、と著者は言う。現代文明が、ここにきて明らかに崩壊し始めた兆候がある、と言う。
地球上の富を無制限に濫費すれば、いずれは枯渇することになる。これは明らかである。
「私たちは文明、そして政治家たちを夢中にした経済成長が健全な環境の上に成り立っているという事実を見失っていたのだ。ミツバチ、土壌、糞虫、ミミズ、きれいな水と空気がなければ、食料を生産できず、食料がなければ経済もない。」
これは根本的な、文明の価値の転換なのだが、私たちは、これを受け入れることができるだろうか。
1992年に、世界中の1700人の科学者たちが、「人類への警告」を発表した。
「人間は生存に欠かせない土壌を浸食し、劣化させているうえ、オゾン層を破壊し、大気を汚し、多雨林を伐採し、海で乱獲し、酸性雨をもたらし、海洋に汚染された『死の領域』をつくり、空前のスピードで種を絶滅させ、貴重な地下水資源を枯渇させてきた」。
だから大惨事を避けたいなら、地球と、そこに住む生命とのつきあい方を、大きく変えなければならない。今から30年前に、この警告は出されている。
「温室効果ガスの排出量の削減、化石燃料の段階的な使用停止、森林伐採の削減に取り組まなければならないほか、生物多様性が崩壊しつつある傾向を逆転させる必要もある。」
けれども各国の政府も、大多数の人間も、この警告に耳を貸そうとしなかった。
92年と言えば、法蔵館で『季刊仏教』を編集していたころだ。「環境問題」は、この雑誌にはもってこいだった。
そのころ、養老孟司先生に連載をお願いしていたから、環境問題についても、話を聞いていたに違いない。養老先生は、今では環境問題が一番大きい、とおっしゃっていたはずだ。でも私には記憶がない。凡庸な編集者とはこんなものだ。
環境問題の根本原因は、資本主義制度にある、と著者は言う。
「巨大な多国籍企業が、政治家や、さらには国家全体さえもはるかに凌駕する大きな力を集めることを許し、人間や環境が負う代償を顧みることなく利益を最大化するように世界を形成したというのだ。」
この方向で走ってきた文明が、急に方向を転換することができるだろうか。
「まだ手遅れではない」と著者は言う。将来の子孫を思い、真剣に考えを変えるべきなのだ。そうすれば、違う未来が見えてくる。
「昆虫は食物連鎖の底辺近くに位置していることから、昆虫の回復は鳥やコウモリ、爬虫類、両生類などの個体数が回復する礎となる。人間がおびただしい数の大小さまざまなほかの生き物とともに生きる、活気と緑に満ちた持続可能な未来に、手が届くようになるのだ。」
大半の昆虫が絶滅するのと、人間が考えを改めるのと、どちらが早いか。結局はそういうことだろう。
話は違うが、このところ同性婚について、岸田首相が、こんなことをすれば、社会が変わってしまう、と述べている。それに対して、革新系の人たちは、同性婚を認めても、異性婚をしている人たちには、何の変化もないと言っている。
何というか、「バカ」に合わせるには、これも方便だが、本当はこれではだめなのだ。
私たちが同性婚を認めることは、実は世界がほんの少し変わることであり、動物と共存できれば、世界は90度変わることになる。さらに昆虫とも共存できるようになれば、世界は180度変わることになるのだ。
そういうことができるかどうか。この方向に努力しなければいけない、と思いつつ、しかし私には自信がない、というか、はっきりしたヴィジョンを描くことができない。
(『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』デイヴ・グールソン、
藤原多伽夫・訳、NHK出版、2022年8月30日初刷、9月30日第2刷)
地球上の富を無制限に濫費すれば、いずれは枯渇することになる。これは明らかである。
「私たちは文明、そして政治家たちを夢中にした経済成長が健全な環境の上に成り立っているという事実を見失っていたのだ。ミツバチ、土壌、糞虫、ミミズ、きれいな水と空気がなければ、食料を生産できず、食料がなければ経済もない。」
これは根本的な、文明の価値の転換なのだが、私たちは、これを受け入れることができるだろうか。
1992年に、世界中の1700人の科学者たちが、「人類への警告」を発表した。
「人間は生存に欠かせない土壌を浸食し、劣化させているうえ、オゾン層を破壊し、大気を汚し、多雨林を伐採し、海で乱獲し、酸性雨をもたらし、海洋に汚染された『死の領域』をつくり、空前のスピードで種を絶滅させ、貴重な地下水資源を枯渇させてきた」。
だから大惨事を避けたいなら、地球と、そこに住む生命とのつきあい方を、大きく変えなければならない。今から30年前に、この警告は出されている。
「温室効果ガスの排出量の削減、化石燃料の段階的な使用停止、森林伐採の削減に取り組まなければならないほか、生物多様性が崩壊しつつある傾向を逆転させる必要もある。」
けれども各国の政府も、大多数の人間も、この警告に耳を貸そうとしなかった。
92年と言えば、法蔵館で『季刊仏教』を編集していたころだ。「環境問題」は、この雑誌にはもってこいだった。
そのころ、養老孟司先生に連載をお願いしていたから、環境問題についても、話を聞いていたに違いない。養老先生は、今では環境問題が一番大きい、とおっしゃっていたはずだ。でも私には記憶がない。凡庸な編集者とはこんなものだ。
環境問題の根本原因は、資本主義制度にある、と著者は言う。
「巨大な多国籍企業が、政治家や、さらには国家全体さえもはるかに凌駕する大きな力を集めることを許し、人間や環境が負う代償を顧みることなく利益を最大化するように世界を形成したというのだ。」
この方向で走ってきた文明が、急に方向を転換することができるだろうか。
「まだ手遅れではない」と著者は言う。将来の子孫を思い、真剣に考えを変えるべきなのだ。そうすれば、違う未来が見えてくる。
「昆虫は食物連鎖の底辺近くに位置していることから、昆虫の回復は鳥やコウモリ、爬虫類、両生類などの個体数が回復する礎となる。人間がおびただしい数の大小さまざまなほかの生き物とともに生きる、活気と緑に満ちた持続可能な未来に、手が届くようになるのだ。」
大半の昆虫が絶滅するのと、人間が考えを改めるのと、どちらが早いか。結局はそういうことだろう。
話は違うが、このところ同性婚について、岸田首相が、こんなことをすれば、社会が変わってしまう、と述べている。それに対して、革新系の人たちは、同性婚を認めても、異性婚をしている人たちには、何の変化もないと言っている。
何というか、「バカ」に合わせるには、これも方便だが、本当はこれではだめなのだ。
私たちが同性婚を認めることは、実は世界がほんの少し変わることであり、動物と共存できれば、世界は90度変わることになる。さらに昆虫とも共存できるようになれば、世界は180度変わることになるのだ。
そういうことができるかどうか。この方向に努力しなければいけない、と思いつつ、しかし私には自信がない、というか、はっきりしたヴィジョンを描くことができない。
(『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』デイヴ・グールソン、
藤原多伽夫・訳、NHK出版、2022年8月30日初刷、9月30日第2刷)
世界の見方が変わる――『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』(3)
第3章は「昆虫の不思議」である。ここは全部を紹介したいが、そうもいかないのでピックアップしておく。
まずはセックスの話。
「ブラジルの洞窟にすむチャタテムシは、交尾のとき雌が雄の上に乗り、とげのある膨張式のペニスのような大きな器官を雄に挿入して、精子を吸い上げる。『ペニス』にとげがあることで、雌は交尾を終えるまで雄をしっかりつかまえることができる。交尾は五〇時間以上も続くことがあるという。」
精子を吸い上げる、とげのある膨張式の疑似ペニス、しかもその交尾は、50時間以上も続くことがあるという。
こういうことになると、雌雄というのも、考えなくてはいけなくなる。人間を基準にしてはいけない、昆虫学者から見れば、そんなの当たり前と言われそうだが。
しかし、もっとすごいのがいる。
「〔チャタテムシは〕ある種のナナフシに比べれば、まだ短いほうだ。昆虫界のセックスの達人ともいうべきそのナナフシは何週間も交尾したままでいられ、最長で七九日という記録が残っている。」
どこからツッコミをいれようか、と関西人なら思わず考えてしまう。いや、ほんま、飯も食わんと二か月半、オメコばっかりしとる。そんなアホな、と言いたくなる。
しかしまた、これを観察するほうも、するほうだね。来る日も来る日も、じっと交尾を見つめているなんて、……。
やはりいずれ人間と昆虫は、なんとか意思疎通の道を見出すべきだ。2か月半、セックスをしたナナフシは、それほど深く相手と交わりたかったのか。雄と雌のどちらが、セックス中毒であったのか、あるいはどちらも同じくらい、狂おしいほど一つになりたかったのか。ぜひとも2匹で会見してほしい。
こうなるとカフカの『変身』は、目の付けどころはよかったが、そこから筆が伸びていない。人間から虫に変身(変態)し、今度は虫になって、虫としての存在を、考え詰めなければいけなかった(しかしなにしろ100年前だからなあ)。
これは村田沙耶香あたりが、『変身 2』として考えてもいいところだ。虫と人間では、たとえば交尾の意味が違うというように。
変わった例では、ネジレバネというのがいて、世界中に棲息している。雄と雌は形がまったく違う。
ネジレバネの雌は寄生虫で、ハチやバッタなどに寄生している。成長すると、宿主の体内の9割を占めることもあるが、それでも宿主のハチやバッタはなんとか生きて活動している。まるでゾンビだ。
「ネジレバネの雌は成虫になっても、ウジのように目も脚も翅もなく、一見自分では何もできなさそうな見かけだが、それでも宿主の腹部の体節と体節のあいだから目のない頭部を押し出し、フェロモンを放出して交尾相手を誘う。」
実に不気味である。目も脚も翅もなく、しかし宿主の体節の間から、フェロモンを出して雄を誘う。この存在は、もう雌そのものというしかない。
これに対して、雄はまったく違う。
「雄は小型で繊細な昆虫で、黒っぽい三角の翅を一対もっていて自由に飛べる。宿主の体内にいる雌と交尾するとすぐ、力尽きて死んでしまう。雌が産んだ無数の子は、母親の体を食べ尽くすと宿主の体から這い出して、そのなかの雌がまた生きのいい宿主を探す。」
こういう昆虫は、たぶん人間の役には立たない。しかし「地球上のあらゆる生物は人間と同じようにこの惑星に存在する権利がある」と著者は言う。
ここは著者が、一歩踏み出したところだ。
「ナメクジが『何のため』にいるかを知ろうとする必要などない。それを知らなくても、彼らの存在を許すべきだ。ペンギンだろうと、パンダだろうと、シミだろうと、美しいかどうかに関係なく、そして生態系に欠かせない役割を果たしているかどうかに関係なく、惑星『地球号』に同乗している仲間たちすべての面倒を見る道徳的義務が、私たちにあるのではないのだろうか?」
しかし人間は凝りもせず、まだ「戦争」をしている。ロシアだけではない。世界中のあらゆるところで、「戦争」をしている。
著者の境地へ、人類の大半が行き着くまでに、何千年、何万年かかることだろうか。しかし、そこに達するまでは、人間はたびたび、滅びの一歩手前を歩むことになるのだろう。
まずはセックスの話。
「ブラジルの洞窟にすむチャタテムシは、交尾のとき雌が雄の上に乗り、とげのある膨張式のペニスのような大きな器官を雄に挿入して、精子を吸い上げる。『ペニス』にとげがあることで、雌は交尾を終えるまで雄をしっかりつかまえることができる。交尾は五〇時間以上も続くことがあるという。」
精子を吸い上げる、とげのある膨張式の疑似ペニス、しかもその交尾は、50時間以上も続くことがあるという。
こういうことになると、雌雄というのも、考えなくてはいけなくなる。人間を基準にしてはいけない、昆虫学者から見れば、そんなの当たり前と言われそうだが。
しかし、もっとすごいのがいる。
「〔チャタテムシは〕ある種のナナフシに比べれば、まだ短いほうだ。昆虫界のセックスの達人ともいうべきそのナナフシは何週間も交尾したままでいられ、最長で七九日という記録が残っている。」
どこからツッコミをいれようか、と関西人なら思わず考えてしまう。いや、ほんま、飯も食わんと二か月半、オメコばっかりしとる。そんなアホな、と言いたくなる。
しかしまた、これを観察するほうも、するほうだね。来る日も来る日も、じっと交尾を見つめているなんて、……。
やはりいずれ人間と昆虫は、なんとか意思疎通の道を見出すべきだ。2か月半、セックスをしたナナフシは、それほど深く相手と交わりたかったのか。雄と雌のどちらが、セックス中毒であったのか、あるいはどちらも同じくらい、狂おしいほど一つになりたかったのか。ぜひとも2匹で会見してほしい。
こうなるとカフカの『変身』は、目の付けどころはよかったが、そこから筆が伸びていない。人間から虫に変身(変態)し、今度は虫になって、虫としての存在を、考え詰めなければいけなかった(しかしなにしろ100年前だからなあ)。
これは村田沙耶香あたりが、『変身 2』として考えてもいいところだ。虫と人間では、たとえば交尾の意味が違うというように。
変わった例では、ネジレバネというのがいて、世界中に棲息している。雄と雌は形がまったく違う。
ネジレバネの雌は寄生虫で、ハチやバッタなどに寄生している。成長すると、宿主の体内の9割を占めることもあるが、それでも宿主のハチやバッタはなんとか生きて活動している。まるでゾンビだ。
「ネジレバネの雌は成虫になっても、ウジのように目も脚も翅もなく、一見自分では何もできなさそうな見かけだが、それでも宿主の腹部の体節と体節のあいだから目のない頭部を押し出し、フェロモンを放出して交尾相手を誘う。」
実に不気味である。目も脚も翅もなく、しかし宿主の体節の間から、フェロモンを出して雄を誘う。この存在は、もう雌そのものというしかない。
これに対して、雄はまったく違う。
「雄は小型で繊細な昆虫で、黒っぽい三角の翅を一対もっていて自由に飛べる。宿主の体内にいる雌と交尾するとすぐ、力尽きて死んでしまう。雌が産んだ無数の子は、母親の体を食べ尽くすと宿主の体から這い出して、そのなかの雌がまた生きのいい宿主を探す。」
こういう昆虫は、たぶん人間の役には立たない。しかし「地球上のあらゆる生物は人間と同じようにこの惑星に存在する権利がある」と著者は言う。
ここは著者が、一歩踏み出したところだ。
「ナメクジが『何のため』にいるかを知ろうとする必要などない。それを知らなくても、彼らの存在を許すべきだ。ペンギンだろうと、パンダだろうと、シミだろうと、美しいかどうかに関係なく、そして生態系に欠かせない役割を果たしているかどうかに関係なく、惑星『地球号』に同乗している仲間たちすべての面倒を見る道徳的義務が、私たちにあるのではないのだろうか?」
しかし人間は凝りもせず、まだ「戦争」をしている。ロシアだけではない。世界中のあらゆるところで、「戦争」をしている。
著者の境地へ、人類の大半が行き着くまでに、何千年、何万年かかることだろうか。しかし、そこに達するまでは、人間はたびたび、滅びの一歩手前を歩むことになるのだろう。
世界の見方が変わる――『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』(2)
この本には章の間に、ところどころ「私の好きな虫」というコラムが入っている。最初は題して「魔性のホタル」。
ある種のホタルの雌は、別のホタルの雌の光を、真似る能力を発達させた。その目的は交尾ではなく、獲物となる昆虫やミミズ、カタツムリなどを、おびき寄せるためだ。これは雄も、同じ罠にかかる。
「かわいそうな好色の雄がその誘いに乗ると、あっという間に食べられる。この習性から、こうした雌は『ファム・ファタル(魔性の女)』ホタルとも呼ばれている。」
人間にも、そのままいそうですね。「ファム・ファタル・ホタル」なんて、遠くから見てる分には、ときどき光って、ちょっと素敵ではありませんか。
それはともかく、昆虫は地球上で知られている種の、大半を占めるというから、絶滅していけば、地球上の生物多様性は激減されるだろう。
「その多様性と膨大な個体数を考えると、昆虫が陸上と淡水環境のあらゆる食物連鎖と食物網に密接にかかわっているのは明らかだ。」
そうか、植物の受粉に果たす役割の前に、食物連鎖という、もっと大きな役割があったのだ。
「たとえば、イモムシやアブラムシ、トビケラの幼虫、バッタは草食で、植物の構成物質をより大型の動物にとってはるかにおいしくて消化しやすい昆虫のタンパク質に変えてくれる。スズメバチやオサムシ、カマキリといったほかの昆虫は草食の昆虫を食べる捕食者で、食物連鎖の次の段階にある。そして、これらの昆虫たちすべてが多数の鳥類やコウモリ、クモ、爬虫類、両生類、小型哺乳類、魚類の獲物となる。昆虫がいなくなれば、こうした動物たちが食べるものはないに等しい。」
そうすると巡りめぐって、人間が食べる動物や魚類は無くなってしまう。
さらに著者は、推定によれば2050年に100億から120億の人を、養おうとするなら、従来の家畜に替えて、より持続可能な「昆虫食」を試し、「昆虫養殖」を真剣に考えるべきだという。
日本でもごく一部の昆虫は、食用になっている。私は、飲み屋の「鮒忠」で出すイナゴの佃煮は大好きである。しかし30年前に台湾に行ったとき、円環の屋台で出た幼虫の、半生に焼いたものは食べられなかった。
というようなことはどうでもよくて、昆虫の養殖は、緊急に考える必要があるだろう。
そしていよいよ受粉の話である。花粉運びのほとんどは、昆虫に頼っている。
「色とりどりの花びら、花の香りと蜜は送粉者(花粉媒介者)を引きつけるために進化した。花粉の運び屋がいなければ、花粉の運び屋がいなければ、野花は結実せず、やがて大半が姿を消すだろう。ヤグルマギクもポピーも、ジギタリスもワスレナグサもなくなる。世界から徐々に色が失われていくことを嘆き悲しむ人もいるだろうが、送粉者がいなくなることは美しい花の喪失よりもはるかに甚大な影響を生態系に及ぼすことになる。植物はあらゆる食物連鎖の基礎をなす存在だから、膨大な数の植物種が結実できなくなって死滅すれば、地上のあらゆる生物群集が一変し、貧弱になってしまうだろう。」
貧弱になるどころの話ではない。たちまち飢餓が襲ってくる。なお「生物群集」というのは、特定の地域にすむ生物種を、ひとまとめに捉えたもののこと。
ある種のホタルの雌は、別のホタルの雌の光を、真似る能力を発達させた。その目的は交尾ではなく、獲物となる昆虫やミミズ、カタツムリなどを、おびき寄せるためだ。これは雄も、同じ罠にかかる。
「かわいそうな好色の雄がその誘いに乗ると、あっという間に食べられる。この習性から、こうした雌は『ファム・ファタル(魔性の女)』ホタルとも呼ばれている。」
人間にも、そのままいそうですね。「ファム・ファタル・ホタル」なんて、遠くから見てる分には、ときどき光って、ちょっと素敵ではありませんか。
それはともかく、昆虫は地球上で知られている種の、大半を占めるというから、絶滅していけば、地球上の生物多様性は激減されるだろう。
「その多様性と膨大な個体数を考えると、昆虫が陸上と淡水環境のあらゆる食物連鎖と食物網に密接にかかわっているのは明らかだ。」
そうか、植物の受粉に果たす役割の前に、食物連鎖という、もっと大きな役割があったのだ。
「たとえば、イモムシやアブラムシ、トビケラの幼虫、バッタは草食で、植物の構成物質をより大型の動物にとってはるかにおいしくて消化しやすい昆虫のタンパク質に変えてくれる。スズメバチやオサムシ、カマキリといったほかの昆虫は草食の昆虫を食べる捕食者で、食物連鎖の次の段階にある。そして、これらの昆虫たちすべてが多数の鳥類やコウモリ、クモ、爬虫類、両生類、小型哺乳類、魚類の獲物となる。昆虫がいなくなれば、こうした動物たちが食べるものはないに等しい。」
そうすると巡りめぐって、人間が食べる動物や魚類は無くなってしまう。
さらに著者は、推定によれば2050年に100億から120億の人を、養おうとするなら、従来の家畜に替えて、より持続可能な「昆虫食」を試し、「昆虫養殖」を真剣に考えるべきだという。
日本でもごく一部の昆虫は、食用になっている。私は、飲み屋の「鮒忠」で出すイナゴの佃煮は大好きである。しかし30年前に台湾に行ったとき、円環の屋台で出た幼虫の、半生に焼いたものは食べられなかった。
というようなことはどうでもよくて、昆虫の養殖は、緊急に考える必要があるだろう。
そしていよいよ受粉の話である。花粉運びのほとんどは、昆虫に頼っている。
「色とりどりの花びら、花の香りと蜜は送粉者(花粉媒介者)を引きつけるために進化した。花粉の運び屋がいなければ、花粉の運び屋がいなければ、野花は結実せず、やがて大半が姿を消すだろう。ヤグルマギクもポピーも、ジギタリスもワスレナグサもなくなる。世界から徐々に色が失われていくことを嘆き悲しむ人もいるだろうが、送粉者がいなくなることは美しい花の喪失よりもはるかに甚大な影響を生態系に及ぼすことになる。植物はあらゆる食物連鎖の基礎をなす存在だから、膨大な数の植物種が結実できなくなって死滅すれば、地上のあらゆる生物群集が一変し、貧弱になってしまうだろう。」
貧弱になるどころの話ではない。たちまち飢餓が襲ってくる。なお「生物群集」というのは、特定の地域にすむ生物種を、ひとまとめに捉えたもののこと。
世界の見方が変わる――『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』(1)
タイトルに借用した『沈黙の春』(Silent Spring)は、あまりに有名なレイチェル・カーソンの作品。DDTなど殺虫剤・農薬の化学物質の危険性を訴えた。
著者のデイヴ・グールソンは英国人。昆虫、特にマルハナバチの研究と保護が専門で、激減するマルハナバチを保護する基金を設立した。EU全域に、ネオニコチノイド系殺虫剤の使用禁止を決断させた推進者である。以上は「著者紹介」から。
ネオニコチノイドと言えば、菅原文太を思い出す。このブログにも書いたが、ヤクザ映画の元大スターは、晩年は農業従事者として、自然農法による作物の育成を推進していた。そのさい、昆虫に最も害を与えるのが、ネオニコチノイド系農薬だ。
菅原文太さんは、ミツバチが死滅していく例を挙げ、ヨーロッパではネオニコチノイドは禁止されつつある、日本も早急にそうしなければ、取り返しのつかないことになる、と警鐘を鳴らした。
この本も、全体を読み終わって、しばし愕然とさせる。これに重ねて、斎藤幸平の『人新生の「資本論」』を読めば、人間だけが地球上でのさばっているのは、明らかにまずいと思わされる。
中身を読んでいこう。
「マルハナバチはうっかり者のテディベアのような見かけだが、実際は昆虫界の知の巨人であり、目印になる地形や花が咲いている場所の位置を記憶し、それを頼りに飛び回ることができるうえ、精妙な形の花の奥にあるごちそうを効率的に採取するし、コロニーでは複雑な社会が形成され、陰謀や女王殺しが絶えない。」
さすがマルハナバチの専門家、その肩の入れ具合は並のものではない。「コロニーでは複雑な社会が形成され」というところは分かるが、「陰謀や女王殺しが絶えない」とはどういうことか。ウーム、知りたい。
しかもこの後に蛇足がついている。
「マルハナバチと比べてしまうと、子どもの頃に追いかけていたチョウは、美しいが愚かな生き物のように見えてくる。」
昆虫の知能を検査すれば、マルハナバチは「昆虫界の知の巨人」、すなわち立花隆であり、チョウは美しいが愚かな、たとえばマリリン・モンローである、と言っているのだ(マリリン、ごめん)。
それはともかく、昆虫の数は減り続けている。
「推定値はさまざまで正確ではないが、私が五歳だったとき以降、昆虫の数はどうやら七五%以上も減ったとみられている。」
しかし昆虫が減ることが、人間にとって、それほど危機的な状況なのだろうか。実はそうなのである。それは植物の「受粉」ということと関係している。
しかしその前に、昆虫の歴史を見ておこう。
5億年前の海にいた、バージェス頁岩から出土した奇妙な生き物の話は、省略する。
こういうことを言い出すと、スティーヴン・J・グールドの『ワンダフル・ライフ』を思い出す。この本が大ベストセラーになったので、日本のおもちゃメーカーが、「お風呂で遊べるアノマロカリス」を発売した。アノマロカリスはカンブリア紀の、巨大なゲジゲジのような生き物である。
昆虫は、飛行能力を持ったことが、長く繁栄する決め手となったが、そのほかにも「ある種の昆虫が『変態』という能力を獲得した。イモムシからチョウに、あるいはウジからハエに変わるように、未成熟の期間(幼虫)からまったく異なる姿の成虫に変化する驚くべき能力だ。」
これが、石炭紀が終わってすぐ、2億8000万年前のことである。
昆虫の変態は、さなぎと呼ばれる段階が、クライマックスである。
たとえばイモムシは、最後に葉を食べてから、「絹糸〔けんし〕」と呼ばれる糸で、体を植物の茎に固定する。この状態で何週間も、種によっては何カ月も過ごすことになる。
「ぴかぴかの蛹〔さなぎ〕の表皮の下では、体が溶け、胎内組織と内臓の細胞が死んで分解するようにあらかじめ決まっている。自身はただのスープのような状態になる。ただし胚細胞の集まりはいくつか残り、それらが増殖して新たな内臓と構造が一からつくり直されて、まったく新しい体に変身する。」
ほんとかね、「自身はただのスープのような状態になる」って。信じられないね、「体が溶け、胎内組織と内臓の細胞が死んで分解する」って。
もう一度、子どものときに戻って、イモムシのさなぎを解剖してみたい。
著者のデイヴ・グールソンは英国人。昆虫、特にマルハナバチの研究と保護が専門で、激減するマルハナバチを保護する基金を設立した。EU全域に、ネオニコチノイド系殺虫剤の使用禁止を決断させた推進者である。以上は「著者紹介」から。
ネオニコチノイドと言えば、菅原文太を思い出す。このブログにも書いたが、ヤクザ映画の元大スターは、晩年は農業従事者として、自然農法による作物の育成を推進していた。そのさい、昆虫に最も害を与えるのが、ネオニコチノイド系農薬だ。
菅原文太さんは、ミツバチが死滅していく例を挙げ、ヨーロッパではネオニコチノイドは禁止されつつある、日本も早急にそうしなければ、取り返しのつかないことになる、と警鐘を鳴らした。
この本も、全体を読み終わって、しばし愕然とさせる。これに重ねて、斎藤幸平の『人新生の「資本論」』を読めば、人間だけが地球上でのさばっているのは、明らかにまずいと思わされる。
中身を読んでいこう。
「マルハナバチはうっかり者のテディベアのような見かけだが、実際は昆虫界の知の巨人であり、目印になる地形や花が咲いている場所の位置を記憶し、それを頼りに飛び回ることができるうえ、精妙な形の花の奥にあるごちそうを効率的に採取するし、コロニーでは複雑な社会が形成され、陰謀や女王殺しが絶えない。」
さすがマルハナバチの専門家、その肩の入れ具合は並のものではない。「コロニーでは複雑な社会が形成され」というところは分かるが、「陰謀や女王殺しが絶えない」とはどういうことか。ウーム、知りたい。
しかもこの後に蛇足がついている。
「マルハナバチと比べてしまうと、子どもの頃に追いかけていたチョウは、美しいが愚かな生き物のように見えてくる。」
昆虫の知能を検査すれば、マルハナバチは「昆虫界の知の巨人」、すなわち立花隆であり、チョウは美しいが愚かな、たとえばマリリン・モンローである、と言っているのだ(マリリン、ごめん)。
それはともかく、昆虫の数は減り続けている。
「推定値はさまざまで正確ではないが、私が五歳だったとき以降、昆虫の数はどうやら七五%以上も減ったとみられている。」
しかし昆虫が減ることが、人間にとって、それほど危機的な状況なのだろうか。実はそうなのである。それは植物の「受粉」ということと関係している。
しかしその前に、昆虫の歴史を見ておこう。
5億年前の海にいた、バージェス頁岩から出土した奇妙な生き物の話は、省略する。
こういうことを言い出すと、スティーヴン・J・グールドの『ワンダフル・ライフ』を思い出す。この本が大ベストセラーになったので、日本のおもちゃメーカーが、「お風呂で遊べるアノマロカリス」を発売した。アノマロカリスはカンブリア紀の、巨大なゲジゲジのような生き物である。
昆虫は、飛行能力を持ったことが、長く繁栄する決め手となったが、そのほかにも「ある種の昆虫が『変態』という能力を獲得した。イモムシからチョウに、あるいはウジからハエに変わるように、未成熟の期間(幼虫)からまったく異なる姿の成虫に変化する驚くべき能力だ。」
これが、石炭紀が終わってすぐ、2億8000万年前のことである。
昆虫の変態は、さなぎと呼ばれる段階が、クライマックスである。
たとえばイモムシは、最後に葉を食べてから、「絹糸〔けんし〕」と呼ばれる糸で、体を植物の茎に固定する。この状態で何週間も、種によっては何カ月も過ごすことになる。
「ぴかぴかの蛹〔さなぎ〕の表皮の下では、体が溶け、胎内組織と内臓の細胞が死んで分解するようにあらかじめ決まっている。自身はただのスープのような状態になる。ただし胚細胞の集まりはいくつか残り、それらが増殖して新たな内臓と構造が一からつくり直されて、まったく新しい体に変身する。」
ほんとかね、「自身はただのスープのような状態になる」って。信じられないね、「体が溶け、胎内組織と内臓の細胞が死んで分解する」って。
もう一度、子どものときに戻って、イモムシのさなぎを解剖してみたい。