前提を変える――『生命式』(2)

「生命式」の主人公、池谷真保は会社の喫煙室で、山本という39歳の男性とよく話す。山本は小太りで、気のいい同僚である。
 
池谷真保は、大っぴらに人肉を食べるという「生命式」に、かすかな違和感があり、それを山本に吐露する。
 
すると山本は、あまり神経質にならない方がいいと言う。
 
その山本が、車に轢かれて死んだ。
 
池谷真保は、行きがかり上、山本の「生命式」の準備を手伝うことになる。

「皆の満面の笑みを見て、何となく私は得意だった。山本は、こういう皆の笑顔が見たいという奴だったのだ。こういう温かい空間を、自分の生命式で作りだしたいと願うような、そんな人柄だったのだ。」
 
文章中で、生命式を「こういう温かい空間」と、しれっと書くところが、この作者の図太いというか、何とも言えない常人とは違うところだろう(ちょっと頭がおかしいと言えばおかしいか)。
 
それはともかく、まず鍋だ。ダシの沁み込んだ「山本の団子」は、柚子の果汁と、大根おろしの食感とともに、「ふはふは」と口を動かすと、何とも言えない味がする。

「肉の旨味と出汁の味がまざりあって、舌の上で溶けていく。肉団子にからんだ少し辛い大根おろしが、なんとも言えないアクセントになって、肉の味を引き立てている。」
 
こういうところが、かなり不気味であり、またしいて言えば、可笑しくもある。

「今度は山本の塩角煮に箸を伸ばした。角煮にはぎゅっと旨味が詰まっている。少し濃厚な人肉の味に、柚子こしょうがよく合う。ちょっとだけ獣っぽさのある味が、薬味で上品に調えられ、白いご飯が欲しくなる。少しだけ筋のある、歯ごたえのある肉の部分と、ぷるりとした脂肪の部分が嚙めば嚙むほど深い味を醸し出す。」
 
人肉を食べるのを、ここまで上手に書ける人は珍しいだろう。村田沙耶香は明らかに、おいしく味わって、これを書いている。

「山本を愛していた人たちが山本を食べて、山本の命をエネルギーに、新しい命を作りに行く。
『生命式』という式が初めて素晴らしく思えた。」
 
主人公は最後に、海辺で男性と会い、その男性が、トイレで瓶に採取してきた精子を受け容れる。

「波が膝までくるところまで進むと、私はジーンズをおろした。瓶から白い液体を掬いとって、ゆっくりと身体のなかに差し込んだ。
 指先から精液がこぼれおちていく。」
 
女と男の交情は全然ないけれど、これはこれで、ひとつのクライマックスを形成している。
 
好き嫌いはあるだろうけれど、これが新しい、未知の領域を切り開いていることは、間違いない。
posted by 中嶋 廣 at 09:41Comment(0)日記

前提を変える――『生命式』(1)

村田沙耶香の短編集。この本は三度読んだ。

最初は「生命式」「素敵な素材」「素晴らしい食卓」と、並んでいる順に読み、真剣に読んだのはそこまで。あとは流し読みした。

最初の三つが、広い意味での人食いの話で、かなり強烈だった。

それ以下の「夏の夜の口付け」「二人家族」「大きな星の時間」「ポチ」「魔法のからだ」「かぜのこいびと」「パズル」「町を食べる」「孵化」は、奇抜なところもあるが、要するに短編集に仕立て上げるために集めたもの、というふうに見ていた。
 
でも、喉に小骨が刺さったようで、どこかおかしい。それでもう一度読んだ。
 
もう一度読んで、冒頭の三作と、それ以下の作品は、緊密につながっているのではないか、と思った。
 
それで結局、もう一度、つまり都合三度読んだ。
 
もともと村田沙耶香という人は、『コンビニ人間』『地球星人』を読んだことがあるだけで、『地球星人』は面白かったけど、好きな作家というわけではない。もちろん嫌いではない。
 
私は、現代小説が好きだとは言っても、今となっては古いタイプの小説、つまり梅崎春生、吉行淳之介から、せいぜい村上龍、村上春樹までの、文章に彫琢を凝らしたものか、文章が皮膚呼吸をしているようなものが好きなのであって、たとえば村田沙耶香や松田青子などは、それに比べれば、肌合いが違っていて、ざらざらして、ぴたりと合うということはない。
 
しかし、それでもなお、この短編集は気にかかる。
 
というわけで、最初から読んでいくことにしよう。

「生命式」は「葬式」と対になる言葉で、「葬式」の代わりに「生命式」を行なう。
 
なぜかというと、あるときから、地球上の人口が急激に減り、もしかすると人類は本当に亡びるんじゃないか、という不安感がつのり、その不安感は、人口が増えるということを、正義にしていった。

「30年かけて少しずつ、私たちは変容した。セックスという言葉を使う人はあまりいなくなり、『受精』という妊娠を目的とした交尾が主流となった。
 そして、誰かが死んだときには、お葬式ではなく『生命式』というタイプの式を行うのがスタンダードになった。」
 
なかなか快調である。そんなに無理をしなくても、そういうこともあるかもしれないと思わせる、ような気がする。

「生命式とは、死んだ人間を食べながら、男女が受精相手を探し、相手を見つけたら二人で式から退場してどこかで受精を行うというものだ。死から生を生む、というスタンスのこの式は、繁殖にこだわる私たちの無意識下にあった、大衆の心の蠢(うごめ)きにぴったりとあてはまった。」
 
どうです。いかにも村田沙耶香でしょう。
posted by 中嶋 廣 at 11:28Comment(0)日記

「ふんどしおやじ」――『日本古書通信』6月号

僕は4年前から、『日本古書通信』に書評の連載を持っている。

『日本古書通信』は本と古本の雑誌で、1934年(昭和9年)1月に創刊されているから、おおかた百年経つ。思えばなかなかすごいことだ。現在の編集長は樽見博さん。
 
その雑誌に、小田光男さんが、「古本屋散策」というのを連載している。6月号は題して、「三一新書と野次馬旅団編『戯歌番外地』(ざれうたばんがいち)」。
 
これがなかなか面白い、というか、あまりにおかしくて、笑い死にしそうだ。
 
三一新書なので、サブタイトルとして、「替え歌にみる学生運動」と付されている。

60年代の初期から69年11月まで、そして番外として、戦前から50年代のものが付け加えられ、それぞれの時代のヒット歌謡、106曲の替え歌が、収録されている。
 
そこで小田さんの挙げた歌は、『ハレンチおやじ』で、元歌は『オウマのおや子』(童謡)である。

「『三島おやじは/ふんどしおやじ/男の美学で/キンタマ/ゆれる』とある。当時の三島の日本刀を持つふんどし姿の写真を、「戯歌」としたものだ。」
 
百の説法屁一つ、ではなくて、替え歌一発!
 
もっとも小田光男さんは、あくまで正統な「古本屋散策」をくずさず、真面目である。

「この『ハレンチおやじ』は、その注に『早稲田界隈の活動家が口ずさんでいたものを収録した。ナンセンス歌謡の傑作』とされるが、私はきいたことがない。」
 
僕も聞いたことがない。

「この一冊は『序詞』上野昂志、『挿画師』赤瀬川原平、協力者として、新崎智=呉智英、松田哲夫の名前が記されているように、『ガロ』の関係者と三一新書のコラボレーションによると見なせよう。」
 
この本、だれか復刊してくれないか。

僕がトランスビューをやっていたら、まちがいなくやっていたのに。ほかに100余曲のどんな歌が載っていたか、ぜひ知りたい。

(『日本古書通信』6月号、日本古書通信社、2020年6月15日発行)
posted by 中嶋 廣 at 11:53Comment(0)日記

「火垂るの墓」の真実とは――『「駅の子」の闘いー戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史ー』(2)

戦争が終わってから、「駅の子」の闘いが始まった。

内藤博一さんは、母に連れられて三宮駅に来た。母は毎日どこからか、一人分の食糧を持って来てくれた。ときにはゴミ箱を漁ることもあった。そうしてそれを内藤さんに与え、自分は何も食べなかった。

だから栄養失調にかかり、どんどん細くなっていって、そのまま死んだ。
 
内藤さんは、後に妹を引き取りに行って、三宮の闇市で、妹を食べさせるために物乞いをしたり、ときには盗みをしたりした。

「もう悪に関しては絶対やらないと食べられへんしね。悪いとは分かっているんだけども、妹と二人で生きていくためには、そうしないといかんと思ってね」。
 
内藤さんは、母が亡くなった三宮駅の構内にだけは、今も気持ちの整理がつかず、どうしても再訪することができないと言う。

「あそこだけは、いまでも足が向きませんし、私はいまだにこの戦争が終わった、平和やなという気持ちは持ってません。持つことができないんです。」
 
内藤さんは市営バスの運転手として働き、いまは定年退職をして、地元小学校の野球の監督を務めたりしている。
 
そういう人の内面では、戦争は終わっていない、終えることができない、ということだ(そういう人はもちろん、「駅の子」に限らず、人には言わないけれど、大勢いる)。

そもそも「駅の子」は、どのくらいいたか。厚生省が昭和23年2月1日に行なった、「全国孤児一斉調査」によれば、12万3511人という数字が残されている。
 
しかしこれは、戦争から3年後の話だし、住所不定の子どもたちを、どういうふうに把捉したか、大いに疑問である。

戦後すぐに、「駅の子」はどのくらいいたか。これは全くわかっていない。
 
上野の地下道では、「駅の子」は次々に死んでいった。金子トミさんは、いまでも、周りで飢えに苦しんでいた子どもを、助けることができなかったという、自責の念に苛まれる。
 
金子トミさんも「駅の子」だ。自分の食糧は、他の子どもからは、見えないところにいって、こっそり食べた。食べ物がなくて、空腹に苦しんでいる子は、衰弱し、動けなくなり、死んでいった。

「本音を言うなら、たとえ1日1個でいいからおにぎりくらい配ってほしかったですよ。なんででしょうね。戦争孤児が戦争を起こしたんじゃないんだから。政府がやったんだから。それなのに何にも政府は……。毎日死んでいくんですよ、子どもが。食べなきゃ死んじゃいますよね」。
 
ほかにも学童疎開の話をはじめ、もっと悲惨な話がある。でも、もう書かない。というか、もう書けない。後は本文を読まれたい。
 
ただ、アメリカの公文書館に残されていたGHQの、1946年9月9日付の内部文書だけは見ておきたい。
 
そこには、戦争のために浮浪児となった子どもたちが、各地で悲惨な状況にあることに対して、「日本の官僚の歴史的な無感覚無関心さがこの種の活動において、職員、食料、設備の不足よりもさらに障害になっている」とある。

「児童福祉行政をリードするべき官僚たちの意識の低さこそが、致命的な障害になっている」という厳しい指摘である。
 
この国は、戦争中から現代にいたるまで、まったく変わっていない。それは、昨今のコロナ騒動を見てもわかるとおりだ。

(『「駅の子」の闘いー戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史ー』
 中村光博、幻冬舎新書、2020年1月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:45Comment(0)日記

「火垂るの墓」の真実とは――『「駅の子」の闘いー戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史ー』(1)

著者の中村光博はNHKの社会番組のディレクター、「駅の子」は戦争孤児の話である。
 
この番組は2018年度のギャラクシー賞で、テレビ部門の選奨に、次の言葉とともに選ばれた。

「本作は政府の無策を糾弾する以上に、彼らを見捨てたのは我々市民だったという事実を突きつけます。太平洋戦争の理解に新たな視点を提供する、戦争特番の新機軸です。」
 
これは、京都が大規模な空襲を免れたことから、京都駅の駅舎が残り、それを目指して雨露をしのぐために、戦争孤児たちが全国から集まってきた、それが「駅の子」と呼ばれたのである。
 
もちろん京都駅だけではなく、上野や大阪駅も取材しており、その悲惨さは、どれも想像を絶する。
 
しかしそもそも取材は、簡単には進まなかった。

「……戦争孤児だった過去を明かしている人は多くない。ましてや、親を亡くした後に行き場を失い、駅の地下道などで雨露をしのぎながらその日暮らしをする『駅の子』の経験を明らかにしている人は、ほとんどいないのだ。」
 
けれどもその中で、そういう子どもがいたんだ、それを歴史の中に消してしまってはいけない、と名乗りを上げた人が、何人かいたのである。
 
登場順に挙げれば、内藤博一さん、金子トミさん、渡辺喜太郎さん、瀬川陽子さん、小倉勇さん、伊藤幸男さん、山田清一郎さんといった人びとである。
 
戦争孤児の話は、ずっと前からあった。

「夏になると毎年のように再放送されてきたアニメ映画『火垂るの墓』で描かれた兄と妹の苦境などで、戦争孤児の存在や苦しみなどについては、多くの人が漠然としたイメージは持っているだろう。しかし、戦争孤児について、ましてや路上生活に追い込まれた子どもたちについては、これまでアカデミズムの研究や、メディアでも本格的には取り上げられてこなかった。いわば日本の戦後史の中の空白地帯となり、これまで置き去りにされてきた分野だったのだ。」
 
そうなのか。『火垂るの墓』があるから、それも毎年、再放送されるから、もうすべて明るみに出ていることかと思ってきた。
 
それが、全然そうではなかったのだ。
posted by 中嶋 廣 at 09:43Comment(0)日記

「酔眼方向への正しい歩み方」――『自選 ニッポン居酒屋放浪記』(2)

とはいっても、文章上の押し引きが、えも言われぬほどうまいとなると、短い文章では無理である。
 
ここでは、もう少し砕けた、分かりやすい例を引く。
 
横浜はホテル・ニューグランドに宿をとった夏の暑い日、焼き鳥「若竹」の簾のスイングドアを押し、カウンターに腰を下ろす。冷房はなく、もうもうたる煙が充満し、奥はよく見えないがどうやら満員だ。

「店の中は爆発的に暑く、座ると背腹に汗がどっと流れ、すぐさま置かれた団扇の一本をとった。……目の前で必死にトリを焼く親父が団扇をバタバタと煽ぎ煙が皆、私の方に来る。たまらずこちらも煽ぎ返し両方で競争のようになった。」
 
うーん、この原初的なドタバタ感がたまりません。

「『だからお父さん換気扇触るなって言ったでしょ』金切声がひびく。『うるさい!』この忙しいのにと親父は意固地になってるのがおかしい。どうやら換気扇が壊れたようだ。たまらなく暑苦しく、まるで火事場で焼鳥食べてるみたいだ」。

「火事場で焼鳥」というところが、何とも面白い。しかもこの焼鳥は、ものすごくうまいのだ。

「焼きたての手羽先はウズラ卵の入る大根おろしがつき、とてもうまい。冷たいビールをングングと飲み干し店をとび出した。
『うひゃーたまらん』
 煙攻めから逃がれ、両手でわが身をあおぎ振返ると、煙の中に人がぎっしり詰まり酒を飲むすごい眺めだ。」
 
私には焼鳥屋の、ある夏の日の情景を、こんなふうに書けるということが、凄いと思われる。

巻末の「解説」はみな優れているが、ここでは椎名誠のそれを取り上げる。
 
椎名誠とその御一党さんは、ビールに始まり、あとは酒盛りを繰り広げられればいいというので、酒がそこにあるからとにかく喉にぶっこめ、という飲み方をしてきた。
 
ところがそこに太田和彦が、いつの頃からか参入してくる。

「ふと気がつくとなんだか静かな男が一人、一座の端っこの方でひっそりとした微笑みなど浮かべながらさり気なく盃を口許に運んでいるのだ。ひと口飲むたびに、おおなんということだ、この人はそれをしみじみ味わっているように見える。」
 
途中で入る合いの手の「おおなんと……」が、絶妙の間合いだ。

「太田和彦の出現は、我等が酒呑み仲間の間にしずかな動揺とおののきと畏敬の念を走らせた。
『おお、あの人は酒を味わって飲んでいるぞ』
『しかもそれが表情に出ているではないか』
『あくまでも落ち着いているぞ』
『あ、こっちを見たぞ』」
 
最後の、「あ、こっちを見たぞ」という一句が、さりげなくおかしい。
 
ちなみにこの表題は、椎名誠の次のところから取った。

「東京の居酒屋だけでなくあちこちの地方都市、山の中や離れ小島など太田和彦とはずいぶんいろんな所を一緒に旅した。そこでは必ず酒を飲んだが、彼にはその土地ならではの酒の飲み方、肴の吟味の仕方、酔眼方向への正しい歩み方などといったことを沢山教えてもらった。」
 
つまり太田和彦という人は椎名誠に、酒のこだわった飲み方を、指南した人なのである。
 
それゆえ椎名誠は太田和彦を、酒飲み仲間の師範代のような人と見ている。それはちょうど、利根の河原を行く平手酒造(ひらてみき)を、見つめているようなのである。

(『自選 ニッポン居酒屋放浪記』太田和彦、新潮文庫、2010年5月1日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:12Comment(0)日記

「酔眼方向への正しい歩み方」――『自選 ニッポン居酒屋放浪記』(1)

コロナのせいでテレビも、ドラマは再放送ばかりで見るものが無い。ぼやっとつけていると、「太田和彦のふらり旅 新・居酒屋百選」というのが目に入った。
 
一度見出すと、だらだらと毎週見てしまう。あちこち旅して、昼間は土産物屋に類するところを紹介し、夜は2,3軒の居酒屋を訪問するという、芸も何もない、と言っては何だけど、まあそういう番組である。
 
毎週見てるうちに、何ということのない番組だけど、太田和彦という人物に興味がわいた。居酒屋の主人との間合いが、見ていると、絶妙なのである。

それは一度や二度、見ただけではわからない。見る人が見れば、すぐにわかるのだろうが、私は何度か見ているうちに気がついた。
 
ネットで太田和彦を調べてみると、居酒屋関係の本をずいぶん書いている。あまりに多すぎて、どれを読んだらいいのかわからない。
 
と思っていたら、『自選 ニッポン居酒屋放浪記』というのが目に入った。これは新潮社から刊行された、『ニッポン居酒屋放浪記 立志篇』、『同 疾風篇』、『同 望郷篇』の3冊の文庫本から、著者の自選により、新たに1冊に編集されたものである。
 
これなら、ワンランク上の(何がワンランク上だかよくわからないが)、居酒屋放浪記が入っているに違いない。
 
で、さっそく読んでみると、いやあ、参りましたね。この人、文章の押し引き出し入れが、えも言われぬほど絶妙なのである。
 
もともと『小説新潮』に3年にわたって連載されていたから、そういう人を知らない私が、活字の世界のイナカモンで、どうしようもないのである。
 
内容は居酒屋巡り全16章。目次順に、松本・鳥取・釧路・金沢・高知・長崎・横浜・徳島・鹿児島・東京下町・大分・富山・那覇・仙台・札幌・神戸、それに書き下ろしで、「私の居酒屋二〇年――あとがきにかえて」が付されている。
 
各章のタイトルは、気の利いたのがついていて、「釧路の毛ガニは毛深かった」、「長崎、皿うどんに邪恋うずまく」、「横浜、アクアビットに霧笛ながれて」、「那覇、午前三時のTボーンステーキ」、「神戸、鯛のきずしに星がふる」、といった調子だ。

「解説」は、最初の3冊を1冊に収録してあって、山田詠美、川上弘美、椎名誠が入っている。これもあまりに豪華すぎて、びっくりである。
 
でもまあ、びっくりしていてもしょうがないので、本文を読んでいくことにしよう。
posted by 中嶋 廣 at 00:12Comment(0)日記

ゴーンは変わったのか?――『カルロス・ゴーンー国境、組織、すべての枠を超える生き方 (私の履歴書)ー』(4)

第2部に「カルロス・ゴーン名語録」という、切り取られた短い文章が載っている。いかにも日経新聞であり、「私の履歴書」である。
 
ここに、ときどき面白いことが書かれている。

「……ひとつの柱は透明性です。/成果があがっていなくても/透明性があれば会社は/信頼を得ることができます。」
 
ほんとかなあ。もしそう信じているのなら、ゴーンはこれまで信じられていたよりも、もっと面白い人のような気がする。
 
次の言葉も含蓄が深い。

「人にやる気を起こさせるには、/アイデンティティーを/尊重すること。/これこそ人間が/何千年も苦しみや痛みを/かけて学んだことです。」
 
ゴーンが本当にそう信じているならば、人間の教師と呼ぶにふさわしい、人物ではあるけれど……。
 
次の言葉も示唆的だ。

「日産の社風を変えようとしても、/おそらく変えることは/できなかったでしょう。/だいたい、変えようとする/などということは、/はなはだしく人間の本性に/もとることです。」
 
とにかくゴーンは、まず相手のアイデンティティーを尊重するところから、仕事を始めたように見える。
 
そこはどうなのか。実際にゴーンと仕事をした人に、聞いてみたいものだ。
 
ということでカルロス・ゴーンの本2冊、2001年発行の『ルネッサンスー再生への挑戦ー』と、2018年発行の『カルロス・ゴーンー国境、組織、すべての枠を超える生き方 (私の履歴書)ー』を読んでみた。
 
結論から言うと、ゴーンはあんまり、というか全然、変わっていない。
 
アライアンスの考え方は、2冊目の本のあと、変えたのかもしれない。いや、ルノー・日産の合併を推進したのだから、仮にいやいやであるにしても、はっきり変えてしまったと言えるだろう。
 
しかし、ここではもう一点、この本に書かれていないことで、気になることを述べてみよう。それは、ゴーンをめぐる女たちのことだ。
 
ここから話は、ぐんと飛ぶ。
 
山田太一の『月日の残像』という本については、このブログでも数回取り上げた。その中にこんな話が載っている。

「ダスティン・ホフマンが『卒業』のオーデイションを受け、その結果を自宅の電話で夫人が受け『静かに電話を切った。彼女が目をあげ、ダスティンと長い廊下の端と端とで見つめ合った。彼女がひっそりと言った。「あなたに決まったわ」その瞬間、ダスティンはこの結婚が終わったと思った』(『書いては書き直し』酒井洋子訳)
 それはいくら何でも早すぎるんじゃないかと思うが、アメリカの成功というのは、それだけすさまじいのだろう。」
 
そういうことが、ゴーンの場合にも起こったんだろう。ほかのところは、どんなに変わっていなくても、その点だけが決定的に違っていれば、ということなのだろう。これは本人にも、どうしようもないことだ。

(『カルロス・ゴーンー国境、組織、すべての枠を超える生き方 (私の履歴書)ー』
 カルロス・ゴーン、日本経済新聞出版社、2018年3月23日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 12:06Comment(0)日記

ゴーンは変わったのか?――『カルロス・ゴーンー国境、組織、すべての枠を超える生き方 (私の履歴書)ー』(3)

話はそれるが、ゴーンの生まれ故郷、ブラジル出身の作家で、パウロ・コエーリョという人がいる。この人は『アルケミストー夢を旅した少年ー』という、ベスト&ロングセラーを書いている。
 
ゴーンはそれを、2016年の秋に読み返した。そして、ひとたび自分が信じたら、周囲の批判を恐れずに、突き進んでいくことが大事だ、ということを改めて思った。
 
これはゴーンの、電気自動車にかける夢を述べたくだりだが、はっきり言って、コエーリョの『アルケミスト』とは、あんまり関係がないんじゃないか、と私は思う。
 
ただ、『アルケミスト』が自然に思い浮かぶところが、ゴーンの真骨頂であると思うし、そういう点では、「私の履歴書」という半分、饅頭本のような本も、馬鹿にしたものではないと思う。
 
日本の実業家の誰が、パウロ・コエーリョを挙げられるだろう。あるいはそれでなくとも、文学作品の最上の上澄みを、何か挙げられるだろうか。
 
ということはさておき、ゴーンがマクロン大統領に屈服する前には、日産とルノーの関係について、こんなことを言っていた。

「日産とルノーが進める『アライアンス(提携)』は合併でも買収でもない第3の道である。日産にとってルノーは大株主だ。だが、だからといって日産が何でも言うことを聞く関係だったら、両者の関係はここまでうまくいかなかった。」
 
日産とルノーは、ゴーンにとって、ある時期までは、そういう関係だった。
 
そこに、フランス政府との、というのはマクロン大統領との、緊張関係が起こった。

「決着したのは15年暮れだ。関係者が多く、詳細は控えるが、一言で言えば、大きな試練だった。株式を2年以上保有する株主に2倍の議決権を与えるという14年春施行の『フロランジュ法』が発端だ。」
 
フランス政府が、2倍の議決権をもって、株を買い増しし、緊張が高まったのだ。
 
じつはこの間の経緯は、ここを読んでも、よくわからない。ゴーンが言うように、「詳細は控える」、ということか。
 
しかしこの間、ゴーンには、ひとつの信念があった。

「『フランスの出来事は日産に何ら影響を与えてはならない』というものだ。17年かけて築いた日産・ルノーのアライアンスそのものが揺らぐ懸念があった。
 最後は、仏政府の関与を限定する内容で合意に至ることができた。ルノーへの議決権を限られた案件に制限し、日産に関連する案件には議決権を持てない仕組みができた。日産には良い結論だった。」
 
ここまでを見ていると、ゴーンは一貫して、日産の独立のために体を張っている。

けれども多分、それがいつごろからか、そういうふうには、なれなくなっていったのだ。
 
ゴーンはやがて、ルノーと日産の「合併」を議題に挙げ、経営会議の面々は誰も、これに正面切って反対しなかったという。
 
そして2018年の暮れに、ゴーンは逮捕された。
posted by 中嶋 廣 at 00:10Comment(0)日記

ゴーンは変わったのか?――『カルロス・ゴーンー国境、組織、すべての枠を超える生き方 (私の履歴書)ー』(2)

ゴーンは2005年に、日産とルノーという巨大自動車会社を率いる、初の経営者になった。

「両社を同時に経営することで『ルノー・日産アライアンス』という形で関係をより発展させることも可能になった。」
 
たしかに、そういうことも言えるだろう。
 
しかしそれが言えるのは、ゴーンをおいて他にはなかった。「ルノー・日産アライアンス」は、ゴーンのもとで、世界で唯一成功したアライアンスだったのだ。
 
ということはさておき、ゴーンの日常はどのように変わったか。

「それまでは1カ月のうち3週間を日本、残りを海外出張に充てていたが、ルノーのトップを兼務してからは日仏とその他海外での滞在に3分の1ずつを使う時間配分になった。家族はフランスに移った。」
 
ここにはまったく書かれていないけれど、そうやって世界を飛び回っていれば、いろいろな女も寄って来よう。ゴーンは2012年に、糟糠の妻、リタと離婚して、キャロルと再婚している。
 
キャロルは派手なことが好きで、ゴーンとの披露宴をベルサイユ宮殿で開いている、と『ゴーンショッキング』には書かれていたけれど、こういうことの真相は分からない。ゴーンが開きたかったのかもしれない。
 
とにかくそのための金は、公私混同で使っていたという。
 
子供の学費や、自分のバカンスの金も、同じく公私混同で使い、それはとめどがなかったと、これも『ゴーンショッキング』に書いてある。
 
ただ、ゴーンが逮捕された4度の中には、そういうことは入っていない。これは比較すれば、金額が小さいのかもしれない。あるいは、立証するのが大変なのか。その辺はよくわからない。
 
またルノーと日産を率いるからには、また日本人の相棒も、吟味しなければならない。

「日産について言えば、私とともに経営にあたるCOOのポストをつくり、志賀俊之常務を指名した。私の時間の半分はルノーのためのものなので、日産だけのトップの時のように細部までは目配りできない。」
 
しかし逮捕された後、志賀俊之常務は、反旗を翻す。

「16年末、三菱自動車の会長に選任された時もチーフ・コンペテイティヴ・オフィサーの西川広人さんを日産の共同CEOに指名した。これも役割分担の一環だった。」
 
日産の西川広人社長は、ゴーンが逮捕された後は、口を極めてゴーンを罵った。手の平を返すとは、まさにこのことだ。
 
しかし一般に、2年あまり共同で重責を担った人間を、逮捕されれば、たちまち敵陣に回り、反旗を翻せるだろうか。
 
ここにはもう一つ、はっきりした別の意思、思惑がある、という気がするが。
posted by 中嶋 廣 at 09:45Comment(0)日記