篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(6)

江藤淳が博士号を取得した『漱石とアーサー王傳説』については、夥しい誤記や、引用文を意図的に改竄したことも述べられており、著者はここでも、容赦がない。
 
なぜ江藤は、博士論文の執筆、提出、出版を、急ぐ必要があったのか。

「江藤にとって、博士号は東工大での発言力を強めるための、いわばパスポートだったのではないか。二十年間の東工大時代に、江藤は文系教授がつけるポストとしては一番上の評議員となって、大学行政に励んだ。」
 
うーん、江藤淳というのは、実に詰まらぬ男ではないか。
 
もちろん人間は多面的であり、相矛盾する性質も、当然持っている。だから、詰まらぬところもあれば、そうではないところもある。

しかし、それにしては、江藤淳の性格、人格は、特に激しく矛盾することもなく、外見を気にするだけの、ガッカリするほど卑小な人間ではないか。
 
江藤は自民党政治の中枢にも、深く食い込んでいた。

「江藤は福田内閣時代、政府の仕事をずいぶん手伝っている。自筆年譜の昭和五十二年の項には、七月に東南アジア五ヶ国に出張し、『各国との文化交流促進の可能性を探るのを使命とす』とある。翌五十三年の項には、『日中平和友好条約批准書交換に先立ち、安倍晋太郎内閣官房長官の要請にて北京に出張、鄧小平副総理その他の要人と会談』とある。福田事務所には、この時の『報告書』のコピーが残っていた。」
 
その報告書では、鄧小平と江藤淳が、一対一のサシで話しており、これはこれで政治的に興味深い。ここでは江藤は、一国を背負うかのごときである。
 
江藤は『海は甦える』の、伊藤博文と李鴻章の、下関講和条約のやりとりを描いていたに違いない、と著者は言う。
 
それはいいが、そこに記された、著者の記述はどうなんだろう。

「『報告書』は『江藤淳全集』刊行の折りには是非とも別巻に収録されるべき『作品』である。」
 
私はむしろ、こういうことをしているから、『江藤淳全集』は、すでに古臭くなり、年を追うごとに、その可能性はなくなりつつあると思うのだ。

「この時の江藤と鄧小平が並んで歩く写真も残っている。……この時に限らず、一九七〇年代の江藤の写真を見ると、その前、その後とは違って、悪相に写っている。文士の顔というより、『政治的人間』の顔なのか。それとも中年太りで、顔面にお肉がつき過ぎたためだけなのか。」
 
著者も、非常によくわかっているではないか。

文士の顔、というよりも、著述をする顔がどういう顔なのか、私などよりもはるかに、よくお分かりのはずではないか。
posted by 中嶋 廣 at 10:42Comment(0)日記

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(5)

ほかに印象に残るところを引いておく。
 
1963年7月、江藤淳はアメリカ留学をいったん切り上げ、日本に戻ってきた。

プリンストン大学で、日本文学の客員助教授に就任していたので、慶子夫人は、アメリカに残したままである。このとき江藤は30歳。
 
3週間の滞在で、慶子夫人に5通の手紙を出している。これがなかなか面白い。

「とにかく、東京は働きさえすればアブク銭はとれるところだし、帰ったあとも慶応に先生の口がありそうで、朝日も講談社、新潮社もみな特別に親切だから、少々頭金が減っても心配はあるまい。那須の土地は現在一万からしていて、来年夏には一万四、五千円にはなるだろうとのこと。これは君のおかげで本当にいい買物をしておいたと思う。」(第四信)
 
ここでは、那須に土地を買ったら、と言った慶子夫人に、素直に感謝している。プリンストンの日本文学の少壮助教授としては、そんなところに手が回るわけがない。賢夫人の支えがよくわかる。
 
最後の5通目は、江藤の、妻を思う愛情にあふれている。

「『週刊新潮』のグラビアにとった写真の残り(といってもいっぱいあるが)のうちいいものを伸してもらい、そのトン〔慶子夫人のこと〕の顔を毎晩見ている。そうすると朝から晩まで人に逢いづめに逢い、その合間に本のリストを集めに出、雑用を片づけ、という暑い湿気の多い東京の疲れがすうっととけて来る。それからベッドにはいり、トンのことを思い、トンのオッパイやあそこを思い出しながら、毎晩(でもないけれど)自分でする。トンしかパウ〔江藤淳のこと〕には愛している女はいないよ。トンのいない東京なんか、やかましいばかりで何の未練もありはしない。」
 
なかなかストレートである。二人の秘め事が、よもや晒されるとは思ってもいない。毎晩ではないが自瀆をするというあたり、江藤も30歳と若いのだ。
 
そしてこういうところは、著者が編集者として書き起こしたものではない。とにかく全部をさらけ出そうとしている。
 
そういう書きぶりは、たとえば車谷長吉のところにも覗える。

「さらなる例外は、昭和三十九年に慶大文学部に入った車谷長吉だろう。入学直後に江藤の『西洋の影』を読んで感嘆し、次々と江藤を貪り読んだ。江藤が非常勤講師で教える講義で、車谷は自分の文学観をつくった。『私が慶応義塾に学んだのは、たまたまこの講義を聞くことが出来たことによってのみ、至福であったと言うても過言ではない』(「殉愛」「文學界」平11・9)。車谷にとっての江藤は、江藤にとっての井筒俊彦という存在だったのだ。車谷のケースは、慶応というローカル色を感じさせる。」
 
車谷が江藤淳に私淑したのは、何かの間違いだと思われる。「文藝賞」に田中康夫を強力に押す江藤淳を、車谷長吉はどんな思いで見ていたろうか。
 
しかし問題は、そんなところにあるのではない。最後の一文、「車谷のケースは、慶応というローカル色を感じさせる」である。
 
これは単に、事実の一環として書いたものだとしても、読みようによっては、江藤を、きつい言い方をすれば、貶めてはいないか。ここにも、編集者を飛び越えた、著者の自己主張が出ている。
posted by 中嶋 廣 at 10:05Comment(0)日記

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(4)

大学生で『夏目漱石』を書き上げた江藤淳に対して、出版記念会が開催された。このとき集まった面子が興味深い。

「『夏目漱石』のささやかな出版記念会が行なわれた時、『三田文学』に書いていた東大英文科出身の秀才たちも顔を出した。丸谷才一、篠田一士などである。丸谷は『三田の西洋かぶれも、ここまで来れば本物というほかありません』とスピーチしたが、江藤がこの時に攻撃を仕掛けていたのは、丸谷や篠田の御本尊である『世界文学』であった。江藤の『フォニー』批判はこの二十年後のことだ。」
 
ここだけ読むと、訳が分からないかもしれないが、ここでは丸谷才一や篠田一士と早くも交流があること、そして行く行くは、文学を巡って深刻な対立を生む土壌が、こんなにも早く醸成されていた、ということが分かればよい。
 
また、これも学生のとき、「三田文学」に「現代小説の問題」を載せている。これは江藤の、散文に対する興味という点で、見逃せない。

「明治以降の作家で、『真に散文的な文体を持っていた作家』は漱石であり、志賀直哉は散文詩に近く、三島や芥川は美術工芸品に堕落している。小林秀雄の批評は『一種の詩語』であって、『通常の生活人には理解しがたい』。翌年に書かれた『近代散文の形成と挫折』での、福沢諭吉の『本質的に口語的な散文』への最大限の評価を合わせると、江藤の散文観が集約される。」
 
大学を出るか出ないかの頃だから、江藤の「散文観」がどういうふうに変化するかは、わからないけれど、しかしここだけ見れば、実に健康的である。

健康的で、あまりに通俗的でもあるが、しかし漱石の散文をもって、比べるものが無いとしたのは、それはその通りで、江藤淳の出発点は的を射ていた、実に堂々としていた。
 
江藤淳は大学院一年生のとき、同じ慶応で仏文科の、三浦慶子と結婚し、またこのとき、「文學界」に『生きている廃墟の影』を書き、文芸誌デビューを果たしている。
 
デビュー作に、いきなり60枚を書かせるのも、期待の大きさが分かるが、このとき、同じ誌面を飾っている作家たちを見れば、年代が上の読者には、込み上げてくるものがあると思う。

「六月号の目次には遠藤周作『海と毒薬』、菊村到『硫黄島』(芥川賞を受賞する)、曽野綾子『婚約式』といった小説、有吉佐和子、石原慎太郎、小田実、小林勝、富島健夫という五人の昭和生れ作家の座談会『「新人」の抵抗』と並んで、江藤淳も大きく出ている。」
 
こういう時代と今とでは、同じ文芸誌であっても、まったく別物の感じがする。
 
江藤淳はその後、西脇順三郎との確執もあって、慶応の教授になることは諦めて、ジャーナリズムの世界に打って出る。
 
それは華々しい活躍で、20代で、ほとんど大家として迎えられている。

その後、埴谷雄高から小林秀雄、あるいは三島由紀夫らと付き合い、その舞台は大きなものになっていくが、それをもって『江藤淳は甦える』か、と問われたら、それはその時代のこと、今となっては歴史の一場面に過ぎない、というだけである。
posted by 中嶋 廣 at 14:34Comment(0)日記

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(3)

江藤淳の「戦後」批判は、日本国憲法の制定過程から、GHQの占領下の検閲問題など、実証的な方向へ進んだ。
 
資料を発掘し、アカデミズムの批判に耐える、その著作は、「江藤淳にとっても、また今読んでも、まぎれもなく文学者の仕事でもあるのは、『戦後と私』の記述によって明らかである。」
 
そうであろうか。問題はここにある。

「文学者の仕事」を、著者はどうとらえているか。

「江藤の語る『もっとも大切なもの』とは、母・江頭廣子のかけがえのない記憶であり、その『イメイジが砕け散った』とは、母の記憶の痕跡をとどめる場所が、『痴戯』の現場になろうとしていたからだ。江藤は母の美しい記憶が無惨にも凌辱された、と感じた。ただの故郷喪失ではなかったのである。」
 
個人的な、あえて言えば、卑小な個人的体験を、戦後日本の歩みと抱き合わせ、そこで異議申し立てをする。
 
これは実にこざかしい、と言わざるを得ない。
 
それが、若くして死んだ母のことであるとしても、それを「文学」という修辞を用いて、個人的な悲しみを際立たせるのは、やめた方がいい。
 
なんだ、個人的な悲しみを、「文学的」という言葉で、オブラートでくるんであるのか、ただそれだけのことか。
 
本書とは少し話が逸れるが、私はむしろ、新大久保界隈の、「痴戯」の噴出する現場に、坂口安吾の「堕落論」に出てくるような話が、見出せそうな気がして、いっそ爽快なくらいだった。
 
しかしもちろん、江藤淳が、のちの批評家の、素晴らしい片鱗を見せたところもある。

「稲村ヶ崎の自宅近くには、漱石の次男・夏目伸六の家があった。ある日、通りで友達とキャッチボールをしていて、球が逸れた。その球を拾って投げ返してくれたのは夏目さんだった。『彼にはいわば世間一般に通用している漱石の名声の影を、暗く凝固したようなところ』があった。『この暗さには偉い親を持った息子の不幸などという月並みな判断では片附かぬ異常なものがあった』(『決定版 夏目漱石』)。」
 
こういうところは、まことに凄みがある。
 
そして、これに続くところ。

「江藤淳が処女作『夏目漱石』で執拗に追求した『漱石の低音部』を、次男の顔から感じていたというのだ。」
 
このあたり、江藤淳はさすがである。
posted by 中嶋 廣 at 17:14Comment(0)日記

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(2)

この「評伝」は非常に詳しく、また後で書くけれども、書きにくいところにも筆が及んでいて、飽きさせない。
 
そして、こういうところは、ちょっと息をのむ。

「この対談が終わった後、江藤淳が洩らした一言がある。松本健一は『SAPIO』の没後十年の江藤淳特集で江藤の言葉を記している。
『私は昨日の夜中、夢を見た。昭和天皇が枕元にお立ちになって「江藤、首相をやってくれ」と大命降下があった』
 松本は亡くなっているので、夢の詳細はわかりようもない。江藤なら大命を拝辞することは絶対ないだろう。」
 
ここを読めば、たいていの人は驚くんじゃないか。
 
江藤淳は、早くに亡くなった祖父の海軍大将をはじめ、海軍閥に囲まれた家柄だった。

「二・二六事件の時に襲撃された首相は岡田啓介、殺された内大臣は斎藤實だった。『〔江藤の〕祖母は彼らを個人的に知っていたのである』(「文学と私」)。江頭〔=江藤の実の苗字〕家は当主を失った後も、そうした家であった。
『祖父の生涯が、明治日本の中枢と直結し』、『戦前の日本の基礎を形成するのについやされた一生』であり、『自分と国家の距離が近いことを感じないわけにはいかな』い環境だった。」
 
特に最後の一行、「『自分と国家の距離が近いことを感じないわけにはいかな』い」、は重要である。
 
私はたぶん、こういうところが嫌で、江藤淳の書くものと、距離を取ったのだと思う。

そのころは、江藤がどんな出自か、まったく知らなかったけれど、こういうことは、自然に文章に表われるものだ。

「群像」に寄せた「戦後と私」というエッセイで、江藤淳は、20年ぶりに訪れた「故郷」、新大久保界隈のことを書いている。
 
昭和40年といえば、新大久保はすでに、連れ込みホテル街として有名になっていた。

「『戦後』とは、平和と民主主義と繁栄を獲得した時代ではない。九十九人が『戦後』を謳歌するにしても、一人の批評家の『私情』は、『深い癒しがたい悲しみ』によって満たされ、『戦後』を喪失の時代とすることを躊躇わない。『自分にとってもっとも大切なもののイメイジが砕け散ったと思われる以上』は。
『戦後』日本に対する最強の批判者が誕生した瞬間が、この『故郷』再訪であった。」
 
ばっかばかしい。江藤が「故郷」を懐かしみ、今は亡き母親との、ありし昔を思い出して、涙する。それはいい。しかしそれをもって、戦後日本に対する、「最強の批判者が誕生した瞬間」というのは、まったく笑止千万である。
posted by 中嶋 廣 at 09:41Comment(0)日記

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(1)

これは紛れもない労作。四六判で750頁余、四百字詰め原稿用紙でざっと1500枚。

江藤淳については、この本が基本的な資料になるだろう。

著者の平山周吉は、平成11年には、『文學界』編集長で、江藤の「幼年時代」の連載原稿の第2回目をもらった。それから4,5時間後に、江藤は、浴室で手首を切り、自殺する。
 
私は高校時代に、江藤淳の『夏目漱石』を読んだ。国語の先生が、何かの流れで、これは面白いよ、と推薦したのである。私はこの、松尾稔先生の批評眼を信頼していた。
 
読んでみると、小宮豊隆の漱石神話を、正面から木っ端微塵に粉砕していて、実に痛快だった。例の「則天去私」の「神話」である。
 
大学へ入ってからは、『漱石とその時代』(第一部)と『成熟と喪失』を読んだが、これはどうもいけなかった。しかし、なぜいけないのかは、深くは考えなかった。
 
大学のときか、出版社に入ってからか、江藤の博士論文、『漱石とアーサー王伝説』を読んだ。

これは慶應義塾大学に提出し、文学博士を取得したものだが、この本は、もっといけなかった。最後まで読むことができずに、投げた。
 
江藤淳は、これ以後、読むのをやめた。
 
今度、この本を読んだのは、推薦してくれる人があったからだ。

「君がどういうふうに読むか、そしてこの書名に対して、どういうふうに答えるのか、知りたい。」
 
そこまで見込まれては、読まずにはおられない。
 
最初にこの本の帯を読むと、なぜその後の江藤淳が、私とは合わなかったのか、わかる気がする。

「日本という国はなくなってしまうかも知れない。――「平成」の虚妄を予言し、現代文明を根底から疑った批評家の光と影。二十二歳の時、「夏目漱石論」でデビューして以来ほぼ半世紀、『成熟と喪失』『海は甦える』など常に文壇の第一線で闘い続けた軌跡を、自死の当日に会った著者が徹底的な取材により解き明かす。新事実多数。」
 
こういう姿勢で臨んでは、だめなのである。
 
いくらかでも、時代から飛び上がったところ、浮いたところがないと、そして少しでも、普遍の高みを目指さなければ、どうしようもない。私はそう思う。
 
しかし、最初の違和感は違和感として、まず読んでみよう。
 
その頃の江藤淳は、どんな具合だったか。

「慶子夫人を亡くした後の江藤さんは情緒不安定で、機嫌よく情勢判断や文壇人物月旦をしていたかと思うと、夫人のことを思い出して、急に嗚咽と滂沱の涙となる。涙がおさまると、すぐにもとの座談にけろりと戻る。」
 
ここでは著者は、ある一定の距離を保って、江藤淳のことを書こうとしている。これは希望が持てる。
posted by 中嶋 廣 at 09:12Comment(0)日記

老人問題は手に負えない――『老人の美学』

これは正直、つまらない本である。
 
でも、筒井康隆が書いているので、日本語を読む快感はある。だから、金返せとは言わない。
 
しかし内容は、自分の書いた本から例を引くだけで、あわよくば昔書いた本を、宣伝してやろうという、いじましい根性の本である。
 
でもそれでも、著者の日本語には、何とも言えずキレがある。
 
例として引く本は、「敵」、「わたしのグランパ」、「愛のひだりがわ」、「銀齢の果て」などである。
 
これらのうち、「銀齢の果て」を読んでなかったので、読むことにする。

「あわよくば昔書いた本を、宣伝してやろうという、いじましい根性の本」、などと言いつつ、完全に取り込まれてますな。しかし、これは面白そうだから、いいのだ。

『老人の美学』などと、ちょっとお高くとまってはいるけれど、著者にそんな気は全然ない、と思う。
 
老人になって、認知症になれば、それはもうしょうがない。

「最終的には自覚もなくなり、身の処しかたなどどうでもよくなる。どんな状態になろうがその意識が本人にないのだから仕方がない。小生も今のうちに言っておくが、それこそもう、どうにでもしてくれ、である。」
 
そういうことだ。でもどうにもならないから、まわりはみんな困っているのだ。
 
最後に一つ、大事な心得が書いてある。

「死とまともに向かい合うのが不愉快なあまり、他の人に対しても怒りっぽくなり、不機嫌を周囲に撒き散らすのはやめていただきたい。死ぬのは厭じゃとわめき散らしているようなものであって、それこそ死期を迎える老人の、最も美的でない生き方である。」
 
はい、わかりました、認知症にならない限り、気をつけます。
 
しかし、老人問題は、筒井康隆をもってしても、どうにもならないものだ、ということだけは、よくわかる本だった。

(『老人の美学』筒井康隆、新潮新書、2019年10月20日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 08:45Comment(0)日記

虚をつく問い――『銃・病原菌・鉄』(上・下)(4)

この本で問題になるのは、やはり「疫病」を、どう見るかであろう。

「世界史では、いくつかのポイントにおいて、疫病に免疫のある人たちが免疫のない人たちに病気をうつしたことが、その後の歴史の流れを決定的に変えてしまっている。天然痘をはじめとしてインフルエンザ、チフス、腺ペスト、その他の伝染病によって、ヨーロッパ人が侵略した大陸の先住民の多くが死んでいるのだ。」
 
そういわれても、なかなかおいそれとは信じられない。

「たとえば、アステカ帝国は一五二〇年のスペイン軍の最初の侵攻には耐えているが、その後に大流行した天然痘によって徹底的に打ちのめされた。皇帝モンテスマを継いだばかりの皇帝クイトラワクも、やはり天然痘で死んでいる。ヨーロッパからの移住者たちが持ち込んだ疫病は、彼らが移住地域を拡大するより速い速度で南北アメリカ大陸の先住民部族のあいだに広まり、コロンブスの大陸発見以前の人口の九五パーセントを葬り去ってしまった。」
 
数値の上でも、非常に正確な描写だが、これはどこの、何に基づいているのか。
 
叙述が巧みなので、つい信用しそうになるが、それにしては、それの基づくデータを一切上げないのはなぜか。
 
読み物としては、そういうものを上げるのは、読んでいくときの流れを妨げるのだろうか。
 
この上下二巻本は、じつに読みでがある。しかし注意して見ていくと、結局これは、通常の歴史の本と、変わらない叙述になっていくことが多い。

「それは、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の広さのちがい、東西に長いか南北に長いかのちがい、そして栽培化や家畜化可能な野生祖先種の分布状況のちがいによるものである。つまり、究極的には、ヨーロッパ人とアフリカ人は、異なる大陸で暮らしていたので、異なる歴史をたどったということなのである。」
 
そう言ってしまっては、おしまいなんじゃないか。
 
それよりも、最初に返って、著者の歴史を見る目を問題にしたい。

「本書は、煎じつめれば人類の歴史について書かれたものである。このテーマは学術的に興味深いだけではなく、その解明は現実的にも政治的にも非常に有意義なものでもある。というのも、さまざまな民族のかかわりあいの成果である人類社会を形成したのは、征服と疫病と殺戮の歴史だからである。」
 
これが著者の歴史観である。実に皮相ではないか。
 
殺戮の歴史は、民族の優劣に拠るのではない。それは大きく言って、風土によるものだ。著者の言いたいことは、せんじ詰めればそれだけ。そんなことは、わかりきったことではないか。
 
この本がアメリカで売れたのは、分かるような気がする。こういう結論は、アメリカの読者にとっては、ある意味、ショックだったのだろう。
 
レヴィ・ストロースの『悲しい熱帯』は、ついにここでは、何の影響も与えていなかったのである。

(『銃・病原菌・鉄』上・下、ジャレド・ダイアモンド、倉骨彰・訳
 草思社、上・2000年10月2日初刷、11月14日第9刷、下・2000年10月2日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 14:32Comment(0)日記

虚をつく問い――『銃・病原菌・鉄』(上・下)(3)

著者の、歴史以前と歴史に対する問いが、虚を突くもので、おたおたしていると、ここでもう一つ、読者がよく知らない事実を挙げてくる。

「……直接の要因と究極の要因を結ぶ因果の鎖を詳細に探っていく。その過程でわれわれは、まず、人口の稠密な集団に特有な感染症の病原菌がどのように進化したかを考察する。」
 
これ、本当かね。そんなことが、分かるものなのかしら。

「ヨーロッパ人が持ち込んだ病原菌の犠牲になったアメリカ先住民や非ユーラシア人の数は、彼らの銃や鋼鉄製の武器の犠牲になった数よりもはるかに多かった。それとは対照的に、新世界に侵略してきたヨーロッパ人は、致死性の病原菌にはほとんど遭遇していない。この不平等なちがいはなぜ起こったのだろうか。」
 
これは面白いけれども、データを挙げてくれなければ、おいそれとは信じられない。というか、どこまで、どういうふうに、信じればよいのかが分からない。
 
病原菌に関しては、最後までデータは挙がってこない。ユーラシアとアメリカ大陸では、人間の抵抗力が違っている、というのは、叙述がそこで終わっているから、そういうものだと思って読むしかない。
 
しかし、有史以来の話としては、この著者以外は、病原菌を取り上げた例は、寡聞にして知らない。
 
これは、僕が知らないだけなのか。どう考えたらいいのか、よくわからない。
 
もう一つ仕掛けがあって、ジャレド・ダイアモンドのフィールドは、オーストラリア、ニューギニアと、ポリネシアの島々である。
 
ここから、ヨーロッパやアジアを考えると、なんとなく新鮮な感じがする。

「ポリネシア社会の多様性に貢献しているのは、少なくとも六種類の環境要因である。島ごとに異なるそれらの要因とは、気候、地質、海洋資源、面積、地形、隔絶度である。」
 
この6つの要因をよく考えてみると、ポリネシアというところにびっくりしなければ、どんなところでも考えられる、普通の地理、歴史である。
 
こういう具合で、ジャレド・ダイアモンドは、最初の方の仕掛けにごまかされなければ、そして「病原菌」というキーワードに振り回されなければ、全体としては、まあまあ面白い、通史を扱った本ということになる。

「人口の稠密なところでは、農業を営んでいない住民が農民を支援するかたちで彼らを集約的な食料生産に従事させた結果、非生産民を養うに充分な食糧が生産された。」
 
もってまわった言い方だが、要するに、農業に従事することになり、定住することになった結果、食料に余分ができ、それで族長や役人、戦士や僧侶などが生まれ、やがて国家になっていった、というおなじみの話になる。
posted by 中嶋 廣 at 09:19Comment(0)日記

虚をつく問い――『銃・病原菌・鉄』(上・下)(2)

その問いはもう少し詳しく、さらに巧妙に仕掛けられる。

「現代世界における各社会間の不均衡についての疑問は、つぎのようにいいかえられる。世界の富や権力は、なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか? なぜほかの形で分配されなかったのか?」
 
これは難しい。ふつうは、今ある世界を、まず受け入れることから始まって、その歴史なり、風土なりを、つまり過去の歴史を辿ったり、あるいは現在の政治なり、文化なりを、俎上に載せる。
 
今あるそれらを俎上に載せないで、仮定の話を持ってくるのは、非常に難しい。
 
それはたとえば、こんなふうだ。

「たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、アフリカ大陸の人びと、そしてオーストラリア大陸のアボリジニが、ヨーロッパ系やアジア系の人びとを殺戮したり、征服したり、絶滅させるようなことが、なぜ起こらなかったのだろうか。」
 
場合によっては、アフリカやオーストラリアの原住民が、ヨーロッパの原住民を、襲ってもよかったじゃないか。しかしそれは、起こらなかった。それはなぜ?
 
これはまったく、考えたこともない問いだ。
 
ジャレド・ダイアモンドは、それに先立って、民族の優劣を知るために、この研究を始めたいと考えたわけではない、ということを、くどいほど述べている。

「私が、居住地域を異にする人間社会の差異について調べようと考えたのは、ある社会が他の社会よりも優れていることを示すためではない。人類社会の歴史において何が起こったのかを理解するために、これらの差異について調べようと考えたのである。」
 
そういうふうに言っているけれども、ここは掘り下げて考える必要がある。

というのは、著者はこんなことも言っているからだ。

「さまざまな民族のかかわりあいの成果である人類社会を形成したのは、征服と疫病と殺戮の歴史だからである。」
 
つまりこれは、こういうことに的を絞った、一万数千年前からの、歴史以前の本なのである。
 
ここは、この本の中では、無条件に前提とされていることだが、はたしてそうか。最後に考えてみたい。
 
それを前提にして、なぜヨーロッパ人は、さまざまな征服を可能にしてきたのか。

それはもちろんヨーロッパで発達した銃であり、伝染病に対する免疫であり、鉄器その他の加工品によるところが大きい。
 
しかし、そういう説明だけで、よいのだろうか。

「アフリカ人やアメリカ先住民ではなく、ヨーロッパ人が銃や病原菌や鉄を持つようになった究極の要因を探求しなければならない。
 ……
 このような究極の要因の説明がなされていないため、人類史を特徴づける大きなパターンはいまだに解明されず、われわれの知識には大きな欠落部分が残されているのだ。」
 
うーん、著者は僕らを、どこへ連れて行こうとするのか。
posted by 中嶋 廣 at 18:54Comment(0)日記