24人の作家論――『偏愛的作家論』(2)

三島由紀夫の二律背反の根源は、澁澤龍彥によれば、以下の通りだ。

人生には何の目的もないから、せめて生きている限りは、自我実現の目標を立て、おのれの生の痕跡を、歴史に残しておきたいというもの。
 
それに対し、人生には何の目的もないから、自我なんてどうでもよく、何か一つの目的を設定して、信じるにせよ信じないにせよ、それに向かって突っ走り、自分を滅ぼすと同時に、世界をも滅ぼしてしまいたい、という考え方がある。
 
三島は作家であるから、作家としての仕事を、というのはつまり、前者の考え方を、完全に放擲したとは考えられない。たとえ最後は身を滅ぼしたとしても。

「だいぶ荒っぽい総括で恐縮であるが、現在の三島由紀夫氏の逢着している二律背反の根源は、ざっと以上のごとき構図のものであり、何事をも洞察している批評家的明敏をそなえた作家としての三島氏は、先ほど私が述べた二つの立場のうちの前者のそれに拠りながら、どれだけ後者の立場に文学的に接近しうるかという、いわばおのれの作家的生命を賭した危険な実験を行いつつあるわけである。」
 
これは明晰極まる三島由紀夫論といえよう。こうして三島は、ついに破滅したのだ。
 
澁澤はそこに、ダメ押しのように、もう一つ付け加える。

「ただ、以前から三島氏が強く惹きつけられていた、芸術のそれとはちがった領域、そこでは芸術がまったく不要になるような領域が、ついに海のように氾濫を起して、かつて三島氏が大事に守っていた古典主義の領土を滔々と浸している、というだけのことであろう。」
 
そういうものが、三島由紀夫を浸しているというのだから、僕が究極、興味をなくしたのは、むべなるかな、というものだ。
 
それにしても、これほど明晰な三島由紀夫論は、読んだことがない。
 
あとはいくつかアトランダムに取り上げていこう。
 
澁澤は、旧制高校を出たばかりのころ、「モダン日本」という出版社で、アルバイトをしたことがある。
 
そのときの『モダン日本』の編集長は、吉行淳之介であった。まだ24歳という若さだった。
 
二人は仕事が済むと、新橋や有楽町でよく飲んだ。澁澤はそのころ、ポール・モーランやシュペルヴィエルを読むことを勧めた。
 
吉行は梶井基次郎や牧野信一、あるいはチェホフ、ゴーゴリ、シュニッツラー、モーパッサンといったところを、細かい心理や情緒のニュアンスを楽しみながら、読んでいた。
 
しかしここでは、文学とは関係のない一場面を引いておこう。

「私の瞼の裏に焼きついている、若き日の吉行さんの酩酊したすがたの一つは、さる有楽町の二階の飲み屋の入口から下の道路へ通じる、木造の階段の手すりに、いきなり彼がうしろ向きに跨がって、子供がよくやるように、するすると下へすべり降り、あっけにとられて見ている私を尻目に、ぽんと地面に跳びおりると、『どうだ、うまいだろう、きみもやってみろよ』というような笑顔を浮かべて、上にいる私を見上げた時のそれである。」
 
それはいかにも屈託のない、爽快で無邪気な、感じのよいものだった。

「私は、ひょっとすると吉行文学の原点がここにあるような気もするのである。」
 
これは実に鋭い。

吉行文学については、男女の機微を描いて、まるでスポーツ選手のようである、という中村光夫の評が有名だが、澁澤龍彥のこちらの方が優れている。
posted by 中嶋 廣 at 11:37Comment(0)日記

24人の作家論――『偏愛的作家論』(1)

『龍彥親王航海記』を読んだあと、続けて『偏愛的作家論』を読みたくなった。
 
これはずっと昔に読んだことがある。

調べてみると、初版は1972年6月に青土社から出ている。その後、増補版が1976年8月に、新訂増補版が1978年12月に、同じく青土社から出ている。
 
そして文庫版として、福武書店から1986年11月に、福武文庫が消滅してからは、河出文庫で、1997年7月に出版されている。
 
考えてみれば、一冊の本としては、増補はされているようだが、驚くべき生命力である。
 
最初に僕が読んだのは、時期から考えて、72年6月の初版本のときだと思う。このころは澁澤を熱心に読んでいた。仏文の学生だった時期だ。
 
しかし今では、『偏愛的作家論』と言われても、ほとんど何も浮かばない。それで読むことにした。
 
収録されている作家は24名。掲載順に石川淳、三島由紀夫、稲垣足穂、林達夫、瀧口修造、埴谷雄高、吉行淳之介、鷲巣繁男、野坂昭如、花田清輝、安西冬衛、泉鏡花、谷崎潤一郎、堀辰雄、日夏耿之介、江戸川乱歩、久生十蘭、夢野久作、小栗虫太郎、橘外男、岡本かの子、中井英夫、吉岡実、南方熊楠。
 
こういう並べ方が澁澤的であるし、また一時代の文学エッセイの典型でもある。
 
たとえば、「青年時代の伝記的な資料をみずから完全に抹殺し、虚構の生活のなかに自己の肉身を韜晦しているという点では、おそらく石川淳氏は、第一次戦後派の花田清輝氏と双璧をなすだろう」、という言葉。こういう文章がすらっと出てくるところが、澁澤の明晰さである。
 
この中では、何本かの三島由紀夫論が断然優れている。
 
僕は三島由紀夫が好きではない。とうぜん数多ある三島由紀夫論も面白くはない。
 
しかし、澁澤の三島論は良かった。

「私のなかの『文学者』は、私のなかの『市民』とつねに敵対している。あなたのなかの『文学者』は、あなたのなかの『市民』とつねに敵対しているべきだろう。(中略)この『文学者』という言葉は、おしなべて『超越を志向するもの』という言葉に置き換えてもよい。」
 
最初に、自分や三島が立っているところを、明確にしておいて、そこから話を進めていく。
 
だから「三島氏の掲げるイデオロギーと、切腹という異様な自殺の方法とが、諸外国にどんな悪影響をあたえるか、といったような政府与党的な配慮には、私はまったく興味がない。」
 
三島のそういうところには、興味はないと言っている。近しいところで三島を見続けた人にとっては、だから虚飾を剝ぎ取った、生身の三島が浮かび上がってくるのだ。

「絶対主義と相対主義の相剋、そのイタチごっこ、そのイロニーにこそ、ロマン主義文学としての三島文学の本質があった。」
 
これだけでは、分かり辛いかもしれない。このタイトルは、「『天人五衰』書評」なので、それを例に引こう。

「言語表現の世界と現実世界との本質的差異をあえて無視して、さきほどの『存在しないものの美学』に即していうならば、ニヒリズム=相対主義=『カラカラな嘘の海』、ヒロイズム=絶対主義=『豊かな海のイメージ』という、相対立する等式が成立するであろう。」
 
そういう二項対立のイタチごっこなのである。
 
しかしこれでも、なお分かり辛いかもしれない。
posted by 中嶋 廣 at 18:36Comment(0)日記

解釈はどちらに?――『月日の残像』(2)

山田太一は、今村昌平学長の申し出を、断ったのか、承諾したのか。
 
田中晶子は、山田太一と特に親しくはないが、そしてかなり年の差はあるが、パーティーで会ったりすれば、シナリオライター同士、挨拶をする間柄である。
 
また、山田太一が教えるはずであった横浜放送映画専門学院は、ここに書いてあるように、新百合ヶ丘の日本映画大学になったが、ここでも田中晶子は、ついこの前までシナリオの書き方を教えていた。
 
つまりいろいろな意味で、環境をよく知っている。
 
その人が、山田太一は結局、この仕事を断っている、というのだ。そういうところは、絶対にゆるがせにしない人だ、という。
 
僕はしかし、山田太一は引き受けている、と思うのだ。
 
山田太一は、前回も書いたとおり、事件のあった帰りの電車の中で、テレビへの思いが、自分も初期からすると、ずいぶん変わってきたと思い、高名なシナリオライターの「『あのテレビに対する反感は分かるよなあ』と思いはじめていた。」
 
もちろん今村昌平の人物についても、その前に過不足なく書かれている。

「一九七四年、先日亡くなられた今村昌平さんから電話をいただいた。いうまでもなく『豚と軍艦』『赤い殺意』『にっぽん昆虫記』『復讐するは我にあり』の名監督である。と、こんな註釈さえ礼を欠くような気になる」。
 
つまり、シナリオのゼミを受け持つことについては、いちおう納得のいく理由が挙げられているのだ。ここで、今村昌平からの話をご破算にするのは、言ってみれば、大人の態度ではない。
 
しかしそれでも、田中晶子は、山田太一はこういうときにこそ牙を剝く人だ、というのだ。それはそれで、じつに魅力的な人間ではあるが。
 
ここまで来たら、いっそ山田太一に直接聞いてみればいいじゃないか、と誰でも思うだろう。まして山田太一と田中晶子は、面識があるのだから。
 
しかし、そうはいかないのだ。

山田太一は、2017年に脳出血を患い、今は老人ホームに入っているという。娘さんの話では、脚本家としてはもう誰にも会いたくないという。
 
これでは、「土の話」に出てくるシナリオを受け持つ話は、実のところどうなったでしょうか、とは聞けない。
 
それにこの話は、山田太一を鏡として、じつは僕と田中晶子に、返ってくる話なのである。
 
僕は結局、社会の中で(というのも変な話だが)暮らしてきた。そこで飯を食べてきた。どんなに尖ったことを言ったり書いたりしても、その枠にはギリギリ踏みとどまってきた。
 
それに対して田中晶子は、社会をはみ出る、とは言わないが、自分一人で、孤独な自分の力で、決断を下さなければならなかった。
 
これは広い意味で、編集者と著者の関係の話ともいえる。もし僕が現役の編集者なら、著者の田中晶子の意見に、もろ手を挙げて賛同するだろう。そういうものだ。
 
いざと言うとき牙をむく、山田太一という人について、そこから田中晶子の、山田太一をめぐる人物論が始まる。
 
しかし僕は、もう編集者ではない。だからそこで、ささやかな抵抗をしたい。たとえ山田太一を、つまらぬ「大人」の領域に連れ込んだにしても。
 
しかしどうも書けば書くほど、田中晶子の山田太一論の方が、魅力的だな(でも変えないよ)。
 
ところで、山田太一が部屋に入ったとき、二人のシナリオライターがいた。一人は石堂淑朗で、「いや、まあ、ここへいらっしゃい」と、とりなすように言ってくれた。
 
ではもう一人の、喧嘩腰の高名なライターは、いったい誰だろう。それが最後まで、気にかかったままだった。

(『月日の残像』山田太一、新潮社、2013年12月20日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 14:36Comment(0)日記

解釈はどちらに?――『月日の残像』(1)

朗読も、ローテーションを回しているだけだと、退屈してくる。たまには目先の変わったものを、取り上げたくなる。
 
で、山田太一の『月日の残像』を読む。
 
これは大正解だった。朗読していくと、山田太一の文章が、自然に立ってくるのである。屈曲の鮮やかな、しみじみした文章が、出血した脳の再建に、そのまま役立っているのが分かる、という気がしてくる。
 
こういうのは、実際に朗読して見なければ、分からないことだ。
 
この本は、新潮社の『考える人』に連載された、エッセー集をまとめたものだ。
 
これを妻の田中晶子が聞いていて、ときどき注釈を加えてくれる。妻も脚本家だから、その注釈は痒い所に手が届く、なかなか味のあるものだ。
 
ところが「土の話」という一篇で、二人の意見が分かれてしまった。エピソードの解釈が、真っ二つに分かれてしまった。
 
あるとき山田太一に、映画監督の巨匠、今村昌平から電話が架かってくる。

「横浜放送映画専門学院というものをつくることになり、そこでテレビドラマの脚本のゼミを一つ持ってくれないか、というお話であった。いま新百合ヶ丘にある日本映画大学の母体である。
 教える資格があるかどうかと口から出かかったが、今村さんからのお話を断るなんてできないという思いが強くて、電話の前でお辞儀をしたりして受けてしまった。」
 
それで、会ったことのない今村昌平に会いに行き、挨拶をし、それから事務の人の案内で、××号教室で、二人のシナリオライターと打ち合わせをすることになった。
 
ここで、ちょっとした事件が起こる。

「『えーと、ここで打ち合せをするようにいわれて、来ました。ゼミを一つ受持つことになった山田です。よろしくお願いします』と通常の挨拶をすると、
『知らねえよ』と一人の高名なライターが喧嘩腰なのである。『ここは映画のシナリオの打合わせなんだ。テレビのことなんて知らねえよ。勝手にやってくれよ』」
 
まあテレビの初期にはよくあったらしい。いや、今だってそれに近い人はいるらしい。これは田中晶子に聞いたことがある。
 
このとき、山田太一はどうしたか。

「『いえ、あ、その、それじゃあ』と私はうろたえたようになって、すぐ廊下へ出てドアを閉め、エレベーターの方へ向いながら、まったくこういう咄嗟の攻撃にピシリと格好いいことをいい返せないのは教養がないからだ、と情けなくて、どこをどう歩いたのか(というほど複雑でもなく駅はすぐだったのだが)、気がつくと電車に乗っていて、『あのテレビに対する反感は分かるよなあ』と思いはじめていた。」
 
でさて、このあと山田太一は、シナリオのゼミの先生を、引き受けたのかどうか、というのが疑問の焦点である。
 
僕は当然、山田太一は、今村昌平の前で引き受けるといったのだから、気分の良くない一件はあったが、それはそれとして、ゼミは引き受けたと思っていた。
 
ところがこれに対し、田中晶子は、絶対に引き受けてはいない、と主張する。山田太一は、人間の心理をどこまでも探る、奥の深い、複雑な人だが、最後に自分の矜持は、絶対に守る人だという。
 
うーん、これはどっちだろう。
posted by 中嶋 廣 at 12:35Comment(0)日記

末木先生以外にはない――『日本思想史』(3)

大伝統から中伝統へという、本書の大部分を占める歴史記述には、面白いところも多々ある。

「最澄や空海が築いた世俗と仏法の関係は、それぞれが独自の世界を持ちながら、相互にとって必要不可欠という関係を結ぶというものであった。その関係構造は中世を通して、より成熟した形で継承されていくのである。」
 
この辺りは日本思想史という、巨視的なパースペクティヴを視野に入れてなければ、言えないことだろう。
 
高野山の一山寺院を、実際に見た後では、なぜあんなものを作り上げることができたのか、そして、それに対応する朝廷の大きさと、そこからの距離の取り方を巡って、いろいろ考えさせられた。
 
そういう巨視的なところだけではなく、所々に忍び込ませてある、末木先生の呟きが面白い。

「戦後、保田〔輿重郎〕は戦争を鼓舞したイデオローグとして一身に罪を背負わされたが、実のところ、彼の評論は戦意を高揚させるようなものではなく、むしろ厭世的な気分に満ちている。保田が共感をもって描き出したのは、はかない日本の美であり、敗残者の精神であった。勇ましい政府の掛け声の影で、保田か戦争期の精神的支柱になったのは、はじめから無理な戦争に若者たちが死にに行かなければならない不条理な状況ゆえであった。」
 
保田輿重郎は、「日本の橋」以外は読んだことがない。後方にいて、戦争をけしかけた「悪い奴」という印象が強すぎて、何も読まなかった。
 
末木さんの記述を読むと、いかにもそういうことがありそうな気がする。ちょっと読んでみようかとも思うが、でもなあ、日本浪漫派は嫌いなのだ。
 
あとは、悪名高き「近代の超克」である。
 
これは大学に入ってすぐ、西川正雄先生のゼミで取り上げられたことがある。西川先生はヨーロッパの近・現代史が専門なのに、このときは第二次大戦下の日本がテーマであった。
 
それで必要な文献はざっと読んだ(と言っても、大学の一年生が読むのだから、知れたものであるが)。

「京都学派の哲学者だけでなく、文学者や音楽家なども含めて開いた座談会『近代の超克』は世評に高かったものだが、今日読み返してみると、危機感に乏しい雑談に終始し、当時の思想界(と言えるだけのものがあったかどうか自体が分からないが)の限界を露呈することになった。」
 
ぼろくそですな。

しかし、出版という業界に入ってみると、総合雑誌の座談会などはこの程度の、中身のないものだということがよくわかる。それに「思想界」というものも、いまでもあるのか、きわめて怪しいものだ。

1942年の9月といえば、日本が負けだしてすぐの頃、たぶん大本営発表で、戦争の現状を知らされてないときだろう。

河上徹太郎先生以下の参加者は、気楽にしゃべってください。『文学界』がそう言うから参加したのに、という嘆き、不満が聞こえてきそうだ。
 
最後の十二章は、「平和の理想と幻想」という題である。そこにもすでに、先生の批判がある。

「戦後憲法の中心原理である主権在民と平和主義のいずれもが普遍性をもった原理であることを宣言している。(中略)普遍的原理であれば、いつでもどこでも通用しなければならないから、そこには歴史性や特殊性が入り込む余地はない。戦後の小伝統は、中伝統とも、ましてそれ以前の大伝統とも断絶した普遍性に基づいて築かれる。」
 
しかし冒頭の第一条は天皇制から始まっている。このあたりが、日本の旧勢力とGHQの、妥協の産物である。
 
ことほどさように、この本は中に踏み込んでいけば、いろんな側面で議論ができる。

誰もやらないなら私がやるという、末木文美士先生の最大の狙いは、まずは当たったといえよう。

(『日本思想史』末木文美士、岩波新書、2020年1月21日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 16:25Comment(0)日記

末木先生以外にはない――『日本思想史』(2)

『日本思想史』だから、日本史に沿って叙述がなされる。その最初から、ちょっとびっくりするようなことが書かれている。

「しばしば日本の古来の宗教はアニミズムとされるが、そのような証拠はどこにもない。逆に、神が憑依するシャーマニズムの形態は、民間も含めて今日まで長く継承されている。」
 
最初の宗教がアニミズムというのは、子どものときからの刷り込みなのだろうか。あるいはヨーロッパの、アルタミラ洞窟あたりをイメージして、動物の絵があったな、という思い込みであろうか。
 
一方、大和朝廷の前、卑弥呼のときから、シャーマンはいた。
 
一木一草、日本人は古来より、自然界にカミを見たというのは、近世または近代において捏造されたものか。
 
よくわからないけれど、しかしこれは、その後の日本思想史よりも、大きな問題ではないか。
 
次の聖徳太子については、伝説はかなり剝がれてきている。厩戸皇子と称する人が、飛鳥地方にいた、ということを除いては、はっきりしたことは何もわかってない。

「十七条憲法に関しては、後世の加筆や創作の可能性もあって、確実に推古朝のものとは言えないが、第一条が『礼記(らいき)』による「和を以て貴と為す」で始まり、礼の秩序によって豪族の統合体を統御しようという方針が示される。それに加えて、第二条の「篤く三宝を敬え」で、「万国の極宗」である仏法への帰依を示して、文明国の構築を目指している。」
 
これだけ、中国にある典拠がはっきりしていると、聖徳太子の十七条憲法は、後世の捏造だと明らかになってしまう。
 
しかしながら、聖徳太子の十七条憲法に託して、「和を以て貴と為す」と言い、「篤く三宝を敬え」で仏教に帰依したのは、もう少し後の朝廷であることは確かだ。思想の歴史は、観念の歴史であり、それは一筋縄では収まらないところが、面白いのだ。
 
こういう本を読んでいると、法蔵館で『上山春平著作集』を編集していたころを思い出す。もう20年以上前のことだ。
 
上山先生は、碩学だった。本当に巨大な知識人だった。その人が言うのである。「日本の歴史は天皇制の歴史である」と。

これはたしか藤原不比等を扱った、『埋もれた巨像ー国家論の試みー』の一節ではなかったか。
 
僕はそういうふうに言い切ることについては、わずかに疑問があった。先生にそういうことを申し上げた。

ほんとの碩学に対しては、自分の疑問を躊躇なく言えた。相手があまりに巨大すぎて、僕などは、こんなことを聞いてもいいかな、と躊躇する間がなかったのだ。
 
先生は、「これは僕の意見やからねえ」と、真面目にお答えになった。その後、どんなやりとりがあったかは、もう忘れた。
 
大伝統と中伝統の分かれ目は、明治維新にある。それまでは武家と朝廷が、距離をおいて並列していた。

「皮肉なことに、明治維新は律令の大本に戻って太政官・神祇官の二官制度の復活を旗印にしたが、国郡制度を廃止し、官位を廃止することで、逆に律令制度にとどめを刺すことになった。それによって大伝統が終わり、中伝統の時代となるのである。」
 
そういうことか。大伝統から中伝統へは分かりやすい、ような気がする。
 
そこから小伝統までの、民主主義の世の中というのが、断裂があって分かりにくいのだ。
posted by 中嶋 廣 at 23:01Comment(0)日記

末木先生以外にはない――『日本思想史』(1)

今どき岩波新書で、通史で日本思想史を書こうとする人など、末木文美士さん以外にいるはずがない。
 
末木先生には、これの前に、岩波新書で『日本宗教史』というのもあった。これはタイトルを見たときは、凄い度胸というか、ちょっと狂気の沙汰だなあ、と思ったけど、読んでみると、実に内容が濃くて傑作だった。
 
そしてこんどは、『日本思想史』である。ついつい期待してしまう。

「長い間、日本人にとって過去の自分たちの思想は、まともに考えるべき対象とはされてこなかった。思想や哲学と言えば、西洋から輸入されたものを指し、最新流行の欧米の概念を使って、その口真似のうまい学者が思想家としてもてはやされた。」

「はじめに」の冒頭、これは強烈である。欧米の最新流行の「口真似のうまい学者が思想家としてもてはやされ」る、と。
 
これは最初から喧嘩腰だ。誰とは言わず、たちまち数人の、かつて売れっ子だった人たちの顔が、頭に浮かぶ。

「ところが困ったことに、ここ二、三十年、欧米の思想界も行き詰まり、輸入すべき最新の思想が枯渇してきた。時代は大きく変わり、日本国内も、そして世界も、あらゆる問題が一気に押し寄せてきて、誰もが右往左往している。もはや表面だけの格好いい思想では済まなくなっている。……それは、お仕着せではなく、自分自身の過去をしっかり踏まえ、そこから必然的に湧き上がってくる思想でなければならない。」
 
というわけで末木さんが、通史を書き上げることにしたのだ。
 
とはいうものの、日本思想史を構想するのは難しい。
 
末木先生はまず初めに、日本の思想史を貫くものとして、「王権」と「神仏」を両極に置き、文化や生活が、その両極の緊張関係の下に営まれる、という図式を置く。

「このような思想史の構造は、近世までの前近代においてもっともよく当てはまる。それに対して、明治維新後の近代においては、それまで両極に分かれていた王権と神仏の要素が天皇を中心として一元化される。そのような体制はまた、戦後に解体され、西洋的な近代の民主主義の理念が根底に置かれるようになる。このように、日本の思想史は大きく三つに分けて考えることができる。前近代と近代と戦後である。それをそれぞれ大伝統・中伝統・小伝統と呼ぶことにする。」
 
問題は最後の一文である。大伝統・中伝統・小伝統は、果たして大・中・小という具合に、曲がりなりにも連続しているだろうか。
 
とくに戦後の小伝統は、いちばん問題ではないか。しかし本書は、そこはうまく切り抜けている。

「本書は、紙数の関係から、小伝統以後については簡単に触れるだけにとどめ、別の機会を期することにしたい。」
 
末木先生のもともとの専門が仏教史なのだから、これは仕方のないところだろうが、しかし最初から読者をトリコにしておくためには、思い切って戦後の小伝統から、始めるべきではなかったか。
 
そんな無茶な、という末木先生の声が、聞こえてくるような気がするが、それでもやっぱり、そういう選択肢は、あり得たのではないかと思う。
posted by 中嶋 廣 at 14:33Comment(0)日記

愉しかった「前世」の記憶――『新宿ゴールデン街物語』

呑み屋の「ナベサン」を張っていた渡辺英綱、通称「ナベさん」が、どっぷり浸かったゴールデン街の、いろいろな顔を物語る。
 
と言っても、渡辺英綱はもういない。2003年に56歳で他界している。
 
僕がゴールデン街に足を踏み入れたのは、40年ほど前。その頃、ナベさんは元気だった。
 
僕は出版社に入ってから、ゴールデン街にときどき通った。

学校を出て就職したが、その出版社は2、3か月で倒産してしまい、だからゴールデン街へも、ときたま以外は通えなかったのだ。

いま巻末の「ゴールデン街店舗リスト(1986年当時)」で見ると、よく通った店は、「しの」、「唯尼庵(ゆにあん)」、「青梅雨(あおつゆ)」、「まえだ」、「あり」、「ひしょう」などである。
 
ここにはまた、終戦直後の面白い話が載っている。

「そこでは金魚酒や三味線うどんなどと呼ばれるものも売られていた。金魚が泳げるほどアルコールが薄い酒、三味線のように三本しか器に入っていないうどんという意味である。」
 
これは初めて聞く言葉だ。でもまあ、そんなことはどうでもいい。
 
その後、俗に「青線」という売春地帯となり、売春禁止法以後は、飲み屋街になった。
 
僕はゴールデン街もよく行ったが、そこから少し外れたところにある、「アンダンテ」や「英(ひで)」にもよく通った。しかしどちらも、今はもうない。

脳出血になる前は、週に3日、4日は飲んでいた。病気した後は、まったく飲まないし、夜は外に出かけることもない。というか、出かけられない。
 
それで、この本を読んだりしている。
 
読んでいると、僕のゴールデン街との付き合いなどは、いかにも浅いものだが、それでも場面によっては、まざまざと光景がよみがえる。
 
そして、ああ、前世は前世で、いろいろなことがあったなあと、つい感慨に耽ったりする。
 
思い出話をするようになれば、もう終わりだとは、よく言われることだ。だから思い出話は、これ以上はしない。
 
僕の前世の記憶として、自分で心の中で、愉しんで転がしていればいいのだ(ん? そういうのも禁じ手かな)。

とにかく、これはそういう本である。

(『新宿ゴールデン街物語』渡辺英綱、講談社+α文庫、2016年11月17日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:29Comment(0)日記

「獣姦」、または「動物性愛」――『聖なるズー』(4)

濱野ちひろは、ズーと知り合うことで、新しい世界へ行けただろうか。
 
しかしその前に、彼女は自分が受けた性暴力を、どんなふうに理解し、咀嚼していたろうか。
 
性暴力によって浮き彫りにされるのは、「支配する側とそれに甘んじる側が演じる役割分担のようなものだ」と濱野は言う
 
性暴力が繰り返されるたびに、決定づけられることがある。それは「間違いなくおまえは、生きる価値がない人間だ」ということだ。そう濱野は言う。
 
もちろん性暴力だって、いろんなタイプのものがあるだろう。濱野ちひろが陥ったのは、お前には生きる価値がない、というものだった。

「私はこのような関係には、全力で抵抗しなければならなかった。支配されることを拒否しなければならなかった。だが、それができなかったのは、私のなかにも暴力性があったからだ。自分への暴力。私の暴力性は、相手の暴力性によって喚起され、自分自身へと向かい、自分を縛り付けた。」
 
「私の暴力性は、相手の暴力性によって喚起され、自分自身へと向かい、自分を縛り付けた」、ここが僕には分からない。もう少し先まで読んでみよう。

「暴力を受け続けると、自分のなかにもいずれ暴力性が芽生えていく。その矛先が誰に、あるいは何に向かうかは、人それぞれなのだろう。私の場合は、まっさきに自分自身に向かった。
 私が自分自身に暴力を振るうのをやめるきっかけがあったとしたら、それは自らの欲望の有無や欲望のかたちを知ることだった。しかし、私は欲望を見失ったまま、まるで縄で縛られた動物のように、男に自分を明け渡してしまっていた。」
 
よくわからないが、でもそういうことなのか。

しかしその先の、濱野ちひろが、なぜ、「まるで縄で縛られた動物のように、男に自分を明け渡してしまっていた」のかについては、ついに分からないままだ。
 
性暴力を受けてから20数年が経ち、ようやくこの本を書くことができたのは、ズーたちの勇気を知ったからだ、と彼女は言う。

「『普通』ではない経験からくる、居心地の悪さ、それを打ち破ろうとするときには、私もズーもまったく同じ立場にいる。彼らのセックスと私のセックスは、この部分で重なり合う。」
 
著者が抱えてきた傷が、ズーたちとの交流で癒えたとはいえない。しかし少なくとも、著者が受けた性暴力の怒りや苦しみから、目をそらすことはもうない。そこでは一つ、段階を越えた、と著者は言う。
 
しかしそれでも、ズーたちの動物との愛は究極、僕にはわからない。と言って、他人の動物性愛を、否定する気は全然ない。ただ僕には、あまりに遠い世界だ。
 
最後に蛇足を一つ。濱野ちひろは結局、性暴力を媒介にした、男との10年を書かなければならないんじゃないか。僕はそう思う。

(『聖なるズー』濱野ちひろ、集英社、2019年11月30日初刷、12月24日第2刷)
posted by 中嶋 廣 at 11:34Comment(0)日記

「獣姦」、または「動物性愛」――『聖なるズー』(3)

著者は、ミヒャエルという名のズーと知り合う。ミヒャエルは、恥ずかしいことや、間違ったことはしていないから、自分のことを書くときは、実名でかまわないという。
 
彼は結婚していたが、10年でその結婚を解消する。

「離婚後、ミヒャエルは初めてオス犬のパートナーを得て、初めて動物とのセックスをした。そして、自分を偽ることに苦しみ切って、疲れ果て、ドイツでも初めてに近い、ズーであることをカミングアウトする人間になった。彼はブログを運営し始め、動物性愛に関する情報発信を行った。現在のゼータのメンバーで、彼のブログに救われた若い世代は多い。」
 
なんにでも先駆者はいるものである。
 
濱野ちひろの、ミヒャエルの描き方を見ていると、実に誠実そうな男性で、繊細で好感が持てる。

「ミヒャエルの家は、庭もリビングもキッチンもベッドルームも、いたるところに動物の気配が充満している。リビングにこもり、ミヒャエルと話しているとき、私はなぜか犬や猫たちとも相対しているような感覚を受ける。ここでは犬や猫が人間と同じ『力』を持っていて、常にそこに『いる』。
 その空間を生み出しているのは、視線の交差の量と質ではないかと思う。」
 
ここは、ズーの家を描いて秀逸だ。いわゆるペットがいる家の中とはまったく違う。

「ミヒャエルと犬と猫たちは頻繁に目を合わせるし、しばしば誰かが誰かを見ている。
 その視線のやりとりをもしもすべて糸にして表したなら、数十分で濃い網の目が部屋のなかに出現するだろう。私はその網のなかにいるから、まるで犬や猫たちとも絡み合っているような気がしてくるのだ。
 この空間のあり方は独特なものだ。ズーの家では、人間と動物がともに、まったく同等の強さで存在している。」
 
自分で経験したことはなくても、ズーの家が髣髴できると思わないだろうか。
 
またエドヴァルドとは、動物とのセックスについて話し合う。

「犬のセックスって、人間と全然違うんだよ。人間はずっと激しく腰を動かすでしょ。でも、犬が腰を動かすのは最初だけなんだ。その後は不思議なくらいじっとしているんだよ。そのまま動かないで、何度も射精する。犬は背後から僕のお尻の穴に挿入しているんだけと、完全にリラックスして僕の身体にもたれかかっているんだ。僕の頭のすぐ後ろに犬の顔があって、あたたかくて、それはもう素晴らしい感覚としか言いようがない。なんと言ったらいいかな……、そうだな……、神秘的なんだ。」
 
著者はここでは、ズーに限りなく共感している。その根本はどこにあるか。

「問題をすっきりさせる鍵は、やはり対等性にある。対等性とは、相手の生命やそこに含まれるすべての側面を自分と同じように尊重することにほかならない。対等性は、動物や子どもを性的対象と想定する性行為のみに問われるのではなく、大人同士のセックスでも必要とされるものだ。」
 
その大人同士のセックスで、濱野ちひろは徹底的に暴力をもって、相手にいたぶられたのだ。著者が、ズーの語るセックスを羨む気持ちは、分かるような気がする。
posted by 中嶋 廣 at 11:48Comment(0)日記