交わることのできない友もいる――『一度きりの大泉の話』(2)

この話は、はじめの3分の1くらいは、萩尾望都も武宮惠子も、少女漫画家として楽しく、懸命に努力する。
 
しかしあるところから突然、歯車が狂いだす。

「〔『ポーの一族』の〕2回目も書き終わり、入稿してホッとした頃、話があると言われて、武宮先生と増山さんが住んでいるOSマンションに呼ばれました。3月の半ば頃でした。
 話って何だろうなあ? 何も構えず、夜、そこを訪ねたら、武宮先生と増山さんから質問を受けました。
『あなたが描いてる『小鳥の巣』の連載だけど、1回目を読んだんだけど、あれは』
 その時の記憶は頭が真っ白になってしまったので、あまりはっきりしません。」
 
武宮惠子はそのとき、いつも通り冷静な声で話した。

「なぜ、男子寄宿舎ものを描いたのか?」
「なぜ、学校が川のそばにあるのか?」
「なぜ、温室が出てくるのか?」
「なぜ、転入生がやって来るの?」
 
萩尾望都は、いちいち釈明はあるけれど、突然のことに驚いて、言葉が出てこない。なんで、こんなことになるのか。
 
すると武宮惠子の、最後の言葉が出る。

「あなたは私の作品を盗作したのではないのか?」
 
これは決定的な言葉だ。そして双方ともが黙り込んでしまう。

「だいたい私は頭が真っ白になってしまって。
 なんだかよくわからないまま話は終わり、私は呆然として下宿に帰りました。」
 
ここまでが第一段階。

3日ほどして、こんどは武宮惠子が、萩尾望都のアパートにやってくる。そして驚くようなことを言う。

「『この間した話はすべて忘れてほしいの。全部、何も、なかったことにしてほしいの』
  〔中略〕
 そう聞いて、こちらもびっくりして、つまりこの間した話というのはあの話しかないけど、それを忘れてくれとは、よく考えたら誤解だったということ?」
 
しかし武宮は、「私が帰ったら、これを読んでください」と、手紙を置いて帰ってしまう。
 
そこには、こんなことが書かれていた。

「『OSマンションに来られては困る』
『せっかく別々に暮らしてるのに前より悪くなった』(私〔=萩尾〕か遊びに行くので?)『書棚の本を読んでほしくない』
『スケッチブックを見てほしくない』
『節度を持って距離を置きたい』
『『11月のギムナジウム』ぐらい完璧に描かれたら何も言えませんが』
 そして、私の何がいけないのかは、具体的には何も書いてありません。」
 
こうして萩尾望都は、ものが食べられなくなり、救急車で運ばれ、退院してからも、目を開けると、涙が止まらなくなったのである。
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交わることのできない友もいる――『一度きりの大泉の話』(1)

少女漫画家、萩尾望都の「人間関係失敗談」である。本人が「前書き」に、そう書いている。
 
先に結論だけを書いておくと、このノンフィクション、というか回想は、非常によくできている。なによりも文章が清冽で、濁りがない。大人になってもこういう文章が書けるのは、正真正銘、才能である。

「人間関係失敗談」とはいうものの、そういうときに必ず、自己を正当化するものだが、萩尾望都にはそういう気がない。おそらく、微細な神経を張り巡らしているからだと思うが、決して相手を貶めていない。
 
萩尾望都は1970年から72年まで、武宮惠子と、練馬区大泉の二階家で共同生活をしていた。そこで仕事もしていたのである。
 
のちに武宮惠子のブレインとなる増山法恵も近くに住み、みんなで仲良く過ごしていた。
 
それから「事件」が起こり、萩尾望都は1973年5月に東京を離れて、埼玉の田舎に引っ越した。
 
その後は、武宮惠子と増山法恵とは交流を断っている。また武宮惠子の作品も、いっさい読んでいない。

「私は一切を忘れて考えないようにしてきました。考えると苦しいし、眠れず食べられず目が見えず、体調不良になるからです。忘れていれば呼吸ができました。体を動かし、仕事もできました。前に進めました。」
 
そういうことである。
 
ところが2016年に、武宮惠子が自伝を出し、そこには大泉時代のことや萩尾望都のことが、好意をもって描かれていた。

まだ少女漫画というジャンルも定かでないときに、集団で生活し、切磋琢磨する若い女の漫画家たち。そこではドラマ化の話も、生まれてきたのである。
 
萩尾望都としては、武宮惠子の自伝は読みたくないし(なにしろ眠れず、食べられず、目が見えなくなる)、大泉時代のドラマ化など、とんでもないことである。
 
そういうわけで、『一度きりの大泉の話』を、本当に一回限りのこととして書いた。後は皆さん忘れて、ということで。
 
最初に断っておくと、僕は萩尾望都の漫画も、武宮惠子の漫画も、どちらもよく知らない。しかしこの本は、あちこちで話題になっており、気にはなっていた。それを、田中晶子が買って来て読んだ後、僕も読んだ。
 
僕はどちらの少女漫画もよく知らない、だから事態を公平に判定できるか、と思ったのだ。これが萩尾望都か武宮惠子の漫画のファンだったら、全体を読んでそういうことは難しいだろう。
 
本の造りはなかなか凝っている。未発表のスケッチ画が、10点以上入っており、また萩尾望都が英国にいるときに描いた『ハワードさんの新聞広告』というのが、31ページにわたって再録されている。
 
重苦しい話がメインだから、ちょっとは読者にサービスを、と考えたのかもしれない。
posted by 中嶋 廣 at 00:42Comment(0)日記

最高の映画――『仁義なき戦い 菅原文太伝』(8)

その後、文太は文芸路線を目指し、また息子、菅原薫を俳優として育てるべく奮闘する。

しかしその息子が下北沢の踏切で、電車と接触して亡くなったことが、文太を役者の道から遠ざける。
 
最後の主演作は、東陽一監督の『わたしのグランパ』(筒井康隆・原作)で、この映画でデビューした石原さとみは、国内の映画新人賞を総なめにした。
 
これは菅原文太の魅力を、前面に押し出した映画で、着流しスタイルで立ち回りも演じたが、三つ揃いのスーツを身に着け、ジャズのスタンダードナンバー「Hush a bye」を、ピアノ伴奏に乗せて歌っている。
 
この映画は私も見たが、「グランパ」役の文太は、いかにも楽しそうに演じており、これが最後の主演映画だとは信じられない。
 
文太はその後、大きく舵を切って、なんと農業をやる。俳優ではなく、農民を選んだのだ。無農薬の有機農業を広め、また辺野古の基地移設に反対し、日本が戦争をすることに、声を挙げて反対する。
 
私は亡くなる1年ほど前に、文太に会っている。
 
出版社仲間とその周辺の5,6人が幹事となり、3か月に一度、講師を呼んで勉強会を開いていた(これは、私は病気で脱落したが、まだやっている)。

その会に、有機農業と平和論を唱える菅原文太を呼ぼう、ということになった。研究会メンバーの出版社社長が提案し、聴衆も100人前後集まれるということで実現した。
 
講演会は充実したものだったし、文太は二次会にも来た。酒はもうあまり飲めないようだったが、いろんな人がスターと話したいということで、二次会にも大勢の人が来た。
 
午後11時になって文太を送っていくのに、私がついていくことになった。車のあるところまで、10分ほど歩きながら、いろんな話をした。でも内容は覚えていない。文太は終始、機嫌がよかった。
 
今はもう、話したことはみんな忘れたが、ただ一つ覚えているのは、「スターはいくつになっても、辛いものですね」という私の言葉だ。どうしてこんなことを言ったのか、前後の脈絡をすべて忘れているので、全く分からない。
 
言った後すぐに、しまったと思った。ひょっとすると怒るかもしれない、と思ったのだ。

文太はその瞬間、私の方を向いて、薄い笑いをうかべ、ちょっと困ったような顔をした。その顔は今でも忘れない。
 
菅原文太は2014年11月28日に亡くなった。私は11月20日に、脳出血で虎の門病院に運ばれたので、その死は半年先の退院まで、知らなかった。

(『仁義なき戦い 菅原文太伝』松田美智子、新潮社、2021年6月25日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 15:05Comment(0)日記

最高の映画――『仁義なき戦い 菅原文太伝』(7)

菅原文太はスターとはいっても、従来のスターとは違っていた。深作欣二は当時の文太を、「同志」と呼んでいた。

「彼の顔は、ノッペリした、いわゆる役者顔ではなく、苦労した人間の顔です。戦後の混乱期の体験を、どこかに引きずっている苦さ、彫りの深さがある。それが、スターといわれるとき、彼が示す気恥ずかしさに、よく出ている」(『平凡パンチ』73年12月17日より引用)。
 
高倉健や鶴田浩二には、取り巻きのスタッフがいて、ロケ地での撮影が終わると、夜はみなで飲みに出た。
 
しかし文太は、そういう取り巻きはつくらず、あまり飲みに出ることもなかった。宿舎にいて、助監督たちといつも話していたという。そんなスターは、東映では他にいなかった。
 
俳優同士の付き合いでも、同じである。いろんな人と共演はしたけれど、特に親しい付き合いはなかった。
 
出演料については、一作目は200万円だったが、それが倍近くになった。100万円の大入り袋も何度か受け取っているが、これは私にはよくわからない。

「公務員の初任給が8万6000円、山手線の初乗り運賃が60円(76年統計)の時代である。出演料の200万円は現在の600万円くらいの価値があっただろう。」
 
結構な額だということは分かるが、それがどのくらいの価値かはピンとこない。東映のスターならこんなものか? でもよくわからない。
 
文太はこの後、『トラック野郎』のシリーズで、さらに人気を得る。

しかし私は、映画館では一本も見ていない。後年、テレビで放映されるのを見たが、30分も持たずに消してしまった。
 
岡田茂は、『トラック野郎』はあまり乗り気ではなかった。それが豹変する。

「撮影前はあまり企画に乗り気ではなかったのに、映画がヒットすると自分の手柄のように絶賛する。岡田の口癖は『君子豹変す』で、時代の流れと共に生きる映画人は前言を翻すことを恐れてはならない、と語って憚らない豪胆な性格でもあった。」
 
こういうのを「豪胆」と言うのかね。
 
岡田は映画については、信念を持っていた。その3原則は、「泣く、笑う、(手に汗を)握る」だった。

うーん、実に明快だ。でも私はとにかく、『トラック野郎』は面白くなかった。
 
文太にとって痛かったのは、その後、プロデューサーの日下部五朗と、喧嘩別れしたことだろう。

「日下部は、多数の任侠映画に出演した高倉健を例に出し、文太も似たような映画の連続で、まだ続けるのかという心理状態ではなかったか、と推測する。
『マンネリだったんだろうけど、これまで一緒に仕事をしてきたプロデューサーを無視したのは、『トラック野郎』の成功でのぼせ上がっていたこともあるね』
 熱川でヤケ酒を飲んだ日から、日下部の気持ちは文太から離れてしまったのである。」
 
これは後になってみれば、文太にとってはじつに不幸なことといえる、と松田美智子は書く。しかし文太にとってみれば、後年の「もうスターはいいよ」、という伏線になっていたのではないか。
posted by 中嶋 廣 at 09:30Comment(0)日記

最高の映画――『仁義なき戦い 菅原文太伝』(6)

『仁義なき戦い』の裏話はまだまだ続く。だって楽しいんだもんね。
 
はじめて試写を観て、会社の上層部が「これは話題作になる」と判断し、続編が決定した。
 
現場の熱気は京都撮影所内に広まっていた。

「繁華街のロケでは、ほとんどがゲリラ的手法で撮影された。まず撮影所でアクションシーンのリハーサルをしたあと、現場へ行って、いきなり本番を撮る。小型の手持ちキャメラの撮影なので、通行人には、本物のヤクザが凶器を持って暴れ回っているとしか見えず、映画だとは気づかない。110番され、パトカーがやってきたこともあった。」
 
そりゃそうだ。チンピラに扮した室田日出男や川谷拓三が、往来で血まみれになって、のたうちまわってれば、だれでもすぐに110番するだろう。

「また、三上真一郎が演じた新開宇市が広島駅のホームで刺殺されるシーンは、実は京都駅のプラットホームで撮っている。本来なら駅の許可が必要だが、下りるわけがないので、無断撮影して、さっさと逃げた。ゲリラ撮影は一発勝負のため、撮る方も撮られる方も必死である。それがまた、映像に強いインパクトを与えている。」
 
そういう演技とは見えない演技が、観客の手に汗を握らせたのだ。
 
深作は特に大部屋俳優の使い方がうまかった、とは誰もが言うことだ。文太は、深作が大部屋俳優の名を一人一人、ちゃんと覚えていた、そんな監督は他にいないという。

「『仁義なき戦い』は、戦後混乱期の青春群像を描いているので、主演クラスの俳優だけでなく、脇役の誰もが主人公に成りうる。シーンによっては、主演クラスに殺される悪役の方が目立っていたりする。」
 
深作は口癖のように言っていた、「七、八秒のフィルムをやるから、悪役の花を咲かせて死ね」。なんかこの方が、映画の中みたいだ。
 
すべてがうまくいくように思えたそのとき、試写を観た笠原和夫は、怒り狂っていた。

「なんだ、あれは。話をちゃんと纏めてないじゃないか。キャメラはキャメラでカチャカチャ動き回り、人間の顔がフレームに収まらずに切れている」(『映画はやくざなり』より引用)。
 
映画が終わった瞬間、笠原は怒りを爆発させ、席を蹴って外に出た。

「そりゃおれのホンも纏まりが悪いものだったが、監督がさらに引っかき回しやがって、どんな話か分かりゃしない。こっちが苦労した群像ドラマの厚みも焼跡の青春の哀愁もふっ飛んで、目が回るだけじゃないか。言わんこっちゃないぜ、だからおれは深作の起用に反対したんだ! 今回は負け戦だけは避けたかったが、あの野郎のせいで、こりゃダメだ」(同書より引用)。
 
笠原はこの日、関係者たちと飲み歩き、深作にひどい言葉を投げつけたという。脚本家に罵倒されて、深作はどんな気持ちだったろう。想像するだに、ちょっといたたまれない。

あるいは、他の関係者の評判が絶賛に近いものだったので、深作は笠原の罵倒をいなしていたか。しかしやっぱり笠原和夫には、わかってほしかったんじゃないか。
 
年が明けて1973年1月13日、笠原は京都の映画館に出かけて、仰天するほど認識を一変させる。映画館はほぼ満杯で、観客の熱狂がじかに伝わってきた。試写室とは違い、大画面の迫力に圧倒された。これは文句なしにすごく面白い。

「わたしは深作欣二監督の得難き才能を見損なっていた訳で、映画館の暗闇で秘かに脱帽し、おのれの不明を恥じた」(同書より引用)。
 
笠原和夫にして、試写室で観たときは、その新しさがわかっていなかった、という点が、私には面白いと思う。
posted by 中嶋 廣 at 18:12Comment(0)日記

最高の映画――『仁義なき戦い 菅原文太伝』(5)

『仁義なき戦い』の裏話はまだ続く。
 
まず監督を誰にするかで、そうとう揉めた。深作欣二にはここまで、大きなヒット作がなかったのだ。
 
しかも京都撮影所で撮るなら、中島貞夫や工藤栄一がいるではないか、というのが反対の理由だった。
 
しかし岡田茂や俊藤浩滋は、深作に取らせることに固執した。岡田茂は、深作は反抗的だからいい、と考えたのだ。

「深作はいうことをきかないんだよ。〔中略〕こういうやつは見どころがあると思ったね。これだけ僕の前でも盾ついて絶対いうことを聞かないのは才能あるわ、と」(山根貞男・米原尚志共著『「仁義なき戦い」をつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』より引用)。
 
あとになって、話を合わせてる感じも、しないではないけれど、それはまあいい。
 
深作の起用には、一番の難関が控えていた。脚本の笠原和夫が、深作の名前を聞いた瞬間、絶対に嫌だと、強い拒絶反応を見せた。深作は脚本を、必ず直すのだ。

「笠原は俊藤に強く念を押した。深作が脚本を読んで何を言おうと、一行一句直させない、と。胸の内では、もし、深作が直しを要求してきたら、脚本を引き上げ、映画の企画を流してやろうとまで考えていた。京都の連中は深作の怖さを知らないのだ。」
 
面白いですね。深作欣二と笠原和夫と言えば、黄金コンビだと思うじゃないですか。それが、深作は絶対に嫌だと、笠原和夫に言わせたとは。

「俊藤に念を押した2日後の深夜、笠原の自宅に電話が入った。
『あれを、そっくりそのままやらせて貰います』
 深作の声で、脚本の直しは一切いらないという。しかも、脚本の出来をしきりに褒めるので、笠原は拍子抜けして『あなた、本当に深作さん?』と聞きたくなった。」
 
最後の一文、本当に可笑しい。上手くいくときはこんなもんだ。
 
しかし、ほとんど全部うまくいったと思っても、終わってみれば、そういうふうにはならないこともある。
 
深作と文太の『仁義なき戦い』『新仁義なき戦い』のシリーズと『県警対組織暴力』の、すべてをプロデュースした日下部五朗は、深作監督とは二度と仕事をしたくないという。
 
日下部が腹を立てた理由は、深作監督が予算や日程を平気でオーバーするからだ。

「『撮影所にセットを作るでしょう。深作はちょっとしたところが気に入らん言うて、全部、壊しちゃうんだから。それで、また立て直させるわけだ』
 当然ながら、セットを一から建て直すと、予算のみならず撮影時間もオーバーする。進行係が作成したスケジュールも大幅な変更を余儀なくされた。」
 
名匠といわれた監督は、みな同じことをするのではないんだろうか。

「『代理戦争』と『頂上作戦』で助監督を務めた圡橋亨も、深作は、とにかくテストに長い時間をかけたと話す。画面の細部に拘る深作流の演出方法だ。〔中略〕
 スタッフから報告を受けた日下部は『あいつが、またか』と苛ついた。心穏やかな日は、ほとんどなかったと振り返る。」

でも、それが仕事でしょうが。『仁義なき戦い』のシリーズを撮っていて、心穏やかな日があるとは思えない。松竹が小津安二郎に最高の尊敬をもってしたようには、東映の深作は敬われてはいなかったようだ。
posted by 中嶋 廣 at 17:31Comment(0)日記

最高の映画――『仁義なき戦い 菅原文太伝』(4)

『仁義なき戦い』のもろもろの裏話は面白い。
 
笠原和夫は脚本が書けずに困っていた。あまりに人の出入りが複雑で、どうにもこうにもならないのだ。そのとき、神代辰巳の一本の映画と出会う。

「たまたま入った映画館で観たのは、日活ロマンポルノの『一条さゆり 濡れた欲情』(監督・神代辰巳)だった。〔中略〕
〈一条さゆり、白川和子、伊佐山ひろ子の三女優の裸身が、文字通り組んずほぐれつ、剝き出しの性本能をぶつけ合う一時間あまりの映像は、この上なく猥雑で、従って真実であり、固唾を呑む暇もないほど迫力があった〉(笠原和夫『破滅の美学』)
 笠原はこれからの映画はこうでなければならないと思い、『一条さゆり 濡れた欲情』の迫真性ある手法をもってすれば『仁義なき戦い』の材料は捌けるという、強い自信を抱いた。」
 
この時代、深作欣二と並ぶ監督と言えば、神代辰巳だ。『恋人たちは濡れた』『四畳半襖の裏張り』『赫い髪の女』などなど。
 
この2人が活躍する同時代の重なりを、笠原和夫という脚本家が、わが身をもって体現していたのだ。『仁義なき戦い』を執筆するのに、『一条さゆり 濡れた欲情』を応用するとは。
 
あまりに大雑把な話をすれば、55年体制が昔のことになり、替わって現われた全共闘はあっという間に崩れ去り、陰惨な内ゲバの時代もそろそろ終わろうという時、2人の監督は期せずして同時に現われたのだ。
 
人の出入りはごちゃごちゃしていて、猥雑で、どこへ向かうかもわからない。この時代、人というのはそういうものであることを、笠原和夫は、神代辰巳によってはっきり摑み取り、それを深作欣二が監督する映画に応用したのだ。
 
文太が演じた主人公については、渡哲也が本命だったという説がある。

「プロデューサーの日下部は、こう振り返った。
『僕はもの凄く彼(渡哲也)に出てもらいたくて、熱海の病院で療養していたところを訪ねたんですよ。彼を説得するために。そうしたら、胸を患っていて、まだ体力が回復していないと。この通り、作品に出られる身体ではないので申し訳ないと、断られたんです』」。
 
こういうわけで、文太にお鉢が回ってきたのである。
 
また作品全体の狂言回しである、山守組組長・山守義雄の役は、はじめ三國連太郎の名前が挙がっていたという。これは岡田茂が、「三國では映画が暗くなる」という理由で却下した。
 
岡田は金子信雄を、「岡山の出身なので、広島弁のイントネーションが上手い」という理由で推した。岡田は、極悪非道の役を演じてもどこか愛嬌がある、ということで金子信雄を買っていたのだ(もっとも金子は岡山ではなく、東京の出身だったが)。
 
しかしこれは、当初の予定どおり渡哲也と三國連太郎でやっていたら、どうなったか。そう考えると、興趣は尽きない。
 
三國は『釣りバカ日誌』で、喜劇もできるところを見せた。金子の、いじましくセコい演技は無理だとしても、また違った山守さん役が成立したと思う。
 
問題は渡哲也だ。たぶん文太の広能昌三とは違って、役に味や人間味は出なくて、ひたすら狂犬のような、真面目なヤクザになったのではないか。
 
それが後年、深作欣二と渡哲也で撮った『仁義の墓場』になる。
posted by 中嶋 廣 at 18:52Comment(0)日記

最高の映画――『仁義なき戦い 菅原文太伝』(3)

『仁義なき戦い』に至る前に、『現代やくざ 人斬り与太』や『木枯し紋次郎』などがあるが、そこはまだ文太が、いろんなことをやっていた時期だ。というか、東映が任侠映画を脱して、どこへ行こうか、試行錯誤していた時期だ。

『仁義なき戦い』は、「映画が大きな成功をおさめれば、みなが自分の手柄にしたがるものだが、ここでも関係者の証言は、すべて異なる。」これは面白い。

文太によれば、東京と京都の撮影所を、新幹線で往復しているときに、駅の売店で『週刊サンケイ』を買った。表紙に『現代やくざ 人斬り与太』のイラストが使われていたからである。それが飯干晃一の『仁義なき戦い』と出会った最初である。
 
次に俊藤浩滋によれば、「私は京都から東京本社の企画会議に行くとき、新幹線の駅で第一回の載ってる号を買うた。ええタイトルやなあと感心して、読むと、中身が面白い」(『任侠映画伝』より引用)。そこで企画会議に出し、即決やろうということになった。俊藤浩滋は富司純子の父親で、東映の大プロデューサーである。
 
岡田茂社長の記憶も、また異なる。

「ある日、『週刊サンケイ』の編集長が『岡ちゃん、いい素材が入ったぞ。ともかく来いよ』と電話してきたんです。さっそく編集部に行って『どんな素材だ?』ときいたら、『仁義なき戦い』だった。いいタイトルだ」(『映画主義者 深作欣二』より引用)。
 
岡田茂は連載が始まる前に、映画化を進めていたことになる。脚本を笠原和夫に依頼し、また当初から深作欣二を監督に想定していたという。任侠物の監督では無理だと思ったから。しかしこれは出来過ぎている。連載が始まる前に、脚本と監督が決まっていたなんて。
 
最後はプロデューサーの日下部五朗の証言。

「日下部は、そもそもの始まりは、自分と脚本家の笠原和夫が、飯干晃一の自宅へ別な企画の相談に行ったことからだと語る。
〈いろいろ話を聞かせていただいたあとで、「こんな手記があるんだけど」と見せられたのが、広島抗争で刑務所に入っていた美能幸三の原稿で、飯干さんはそれを「週刊サンケイ」に連載するという〉(日下部五朗『健さんと文太 映画プロデューサーの仕事論』)」。
 
後日、連載を読んでみると、血が熱くなったという。任侠映画とは異なり、裏切りに次ぐ裏切り、親分も子分もなく、欲望が渦を巻き、ヤクザが血を流す世界を、ぜひとも自分の手で映画化したいと思った。
 
文太は80歳になったとき、林真理子と対談し、『仁義なき戦い』は自分がやろうと言った、「いろんな説が飛びかっていて、『俺がやった』というのが3人も4人もいるんだけど、本人が言うんだから間違いない」(『週刊朝日』2013年9月27号)と言っているが、これは怪しい。
 
文太は監督を深作にするよう、俊藤浩滋プロデューサーに推薦したという。このとき俊藤は深作を知らなくて、文太は深作で行くよう熱心に口説いたというのだが、その前に俊藤のプロデュースで、『現代やくざ 人斬り与太』を深作と文太で、撮っているではないか。
 
結局、主要な人物がみな、「俺が旗を振った」と言っている。

「文太、岡田、俊藤、日下部の4人とも、自分の手柄のように話しているのは、全員が原作に注目し、企画の実現に向けてなんらかの働きかけをしたからである。実録路線という大きなうねりが起きようとしている中で、『仁義なき戦い』は東映で映像化されるのが必然の作品だった。」
 
同じ創造、創作と言っても、文学や絵画などと違って、映画は集団によるもの、ということが如実にわかる例だ。
posted by 中嶋 廣 at 17:40Comment(0)日記

最高の映画――『仁義なき戦い 菅原文太伝』(2)

『仁義なき戦い』は私にとって、日本映画の最高のものだ。多分そういう人は大勢いるだろう。
 
だから喰いつくように頁を繰った。そして面白かった。その面白さについて書く。

「『俺は田舎生まれの田舎育ち』そう繰り返していた菅原文太は1933年8月16日、宮城県仙台市で生まれた。当時、父の菅原芳助は仙台市に本社を置く新聞社『河北新報』の記者で、文太は長男。1歳違いの妹がいる。」
 
文太が3歳のころ、両親が離婚する。母親が子供たちを置いて出て行ったのである。このことは文太にとって、大きな傷になったのではないか。
 
もの心つくころ戦争が終わり、母親のいない子は、親戚に預けられて苦労する。
 
文太は早稲田大学に入ったが、奨学金の2000円をもらいに行くときだけ、大学に通った。
 
最初はモデルをやり、次に「劇団四季」の第1期生となり、やがて新東宝にスカウトされる。初出演作は58年9月公開の『白線秘密地帯』で、文太は25歳になっていた。
 
この年は、石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」や、小林旭の「ダイナマイトが百五十屯(トン)」などの流行歌が流れ、三船敏郎の『無法松の一生』(監督・稲垣浩)が、ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞した。
 
58年には私は5歳で、こういう歌や映画は後にリバイバルで知った。
 
その後、文太は松竹を経て東映に入る。

松田美智子は、子どものころからの苦労話も、本人が生きていればなかなか書けない話も、よく取材している。
 
文太の結婚についても記しているが、これはよくわからない。文太は初婚であり、夫人は女の子を連れた再婚である。
 
夫人は大学を出たばかりの頃に、堀辰雄や萩原朔太郎に関する著書がある。とびきりのインテリだった。
 
著者はこう書いている。「文太がかたくななまでに結婚の経緯を語らなかったのは、彼女とのなれそめが複雑だったからだろう。」これでは、ほとんど何もわからない。
 
しかし、分からないことについては、いい加減な推測を交えるのでなく、はっきり分からないと書くところは好感が持てる。
 
東映に入っても苦労は続くが、69年に飛躍がやってくる。文太は、前年の鈴木則文監督に続いて、深作欣二、中島貞夫の両監督に出会うのである。
 
その前に文太の初主演作、『現代やくざ 与太者の掟』(降旗康夫監督)がある。

その頃の東映は、鶴田浩二、高倉健、藤純子、若山富三郎の、ビッグ4に続くスターを育てようとし、候補としては梅宮辰夫、松方弘樹、千葉真一、菅原文太らがいた。
 
スター候補者たちは、みな陽性の演技は得意なのだが、「男の陰り」を表現するのは、苦手であった。なかで文太だけが、どこか拗ねているようで、色合いが違っていた。
 
そこで映画本部長だった岡田茂は、『現代やくざ 与太者の掟』を、文太にやらせることにしたのである。

岡田茂の眼は確かだった。任侠映画はもう古い。ここら辺から、「アンチ任侠映画」の可能性を、鈴木則文、深作欣二、中島貞夫の三監督と一緒に、文太は探っていくのである。
posted by 中嶋 廣 at 00:16Comment(0)日記

最高の映画――『仁義なき戦い 菅原文太伝』(1)

著者は松田美智子。この人は松田優作と結婚し、一子をもうけて離婚、その後、ノンフィクション作家、小説家として活躍中、と著者紹介にならって書いたが、他に読んだものはない。

『仁義なき戦い』は、私が大学1年のときに封切られた。しかし金がなかったので、封切りでは見ていない。もっぱら新宿昭和館や上板東映、その他、東映の二番館で見た。面白くて、シリーズ5本を、何度も何度も見た。

一発目の『仁義なき戦い』に、まずシビれた。広能昌三(菅原文太)のクライマックスのセリフ――。

「おやじさん、言うとってあげるが、あんたは初めから、わしらが担いどる神輿じゃないの。組がここまでなるのに、誰が血流しとるんや。神輿が勝手に歩けるいうんなら、歩いてみないや、のう!」
 
うう、文太のセリフが、耳にそのまま蘇ってくる!

そして最後の、映画史に残る台詞。
 
場面はこうだ。組員の葬儀の席に乗り込み、広能は祭壇に向けて銃を乱射する。そして最後に、

「山守さん、弾はまだ残っとるがよう……」

〈シン、と見送る一同の視線の中で、不適に歩み去ってゆく広能。その、孤独な、殺意に満ちた顔にーエンド・マーク〉
 
うう――。
 
学生のコンパでは、渋谷、新宿その他の酒場で、これを真似するものが続出した。もちろん私もやった。
 
そこから『仁義なき戦い 広島死闘篇』『仁義なき戦い 代理戦争』『仁義なき戦い 頂上作戦』『仁義なき戦い 完結篇』と、続けて何度も何度も見た。
 
北大路欣也がヤクザの殺し屋に扮する『広島死闘篇』は、やや異色ではあるが、これも面白い。

『代理戦争』『頂上作戦』『完結篇』は、ごちゃごちゃして、何が何だか分からないが、しかしこれも、めっぽう面白い。
 
シナリオを担当した笠原和夫が、『代理戦争』はごちゃごちゃしていて、わけがわからない、シナリオ作家にもよくわからんもんが、シリーズ最高の収益を上げるなんて、とびっくりしたものだ。
 
それから映画のテーマ曲。『仁義なき戦い』といえば、ジャンジャン、ジャンジャン、ジャンジャン、ジャンジャン、ジャジャーンジャーンジャーンジャ……。これだけは誌面に再現するのは不可能である。
 
なお『仁義なき戦い』を観て仰天したスティーヴン・スピルバーグは、面白さに感動するあまり、『ジョーズ』でサメが現れるときに、『仁義なき戦い』のテーマを流したことは、知る人はひそかによく知っている。
 
深作欣二監督の作品はまだまだ続く。『新仁義なき戦い』『新仁義なき戦い 組長の首』『新仁義なき戦い 組長最後の日』。しかしもう、そこらあたりの記憶になると曖昧である。
 
それよりも、『仁義なき戦い』から派生したといってもいい、『県警対組織暴力』が面白かった。これは朝日新聞の映画評が絶賛したので、びっくりした。
 
ここまですべて、深作監督と菅原文太のコンビで撮られた。
posted by 中嶋 廣 at 15:22Comment(0)日記