ここまで書いていいのか――『対馬の海に沈む』(窪田新之助)(4)

西山義治の不正は複雑で多岐にわたる。著者の窪田新之助が、不正の全体像を書き終えてみて、初めて理解できたというのだから、読者である私が、要領よく手短かにまとめる、というわけにはいかない。
 
それでも、著者が強引にまとめているところを、抜き出しておく。

「西山は、顧客の名前を借りて、架空の契約を作った。被害を捏造したり顧客に無断で解約したりして、支払われた共済金を自らが管理する口座、すなわち顧客に無断で作った借名口座と、顧客から通帳や印鑑などを預かっていた借用口座に入金させて自らの懐に入れてきた。さらに、そうした不正に基づく実績を積み重ねることで得られる歩合給までも原資にして、同様の犯行を重ねる。不正をすればするほど、金は無尽蔵に増えていく。」
 
その細かい手口については、本書にあたっていただきたい。
 
問題はそれが、とても西山一人ではできなかっただろう、ということだ。
 
西山は職場で、「西山軍団」を結成していた。

「『俺の軍団に入らないか』
 ある日、西山は職員にこう声をかける。〔中略〕
 誘う相手は、上対馬支店の職員だけにとどまらなかった。本店と支店の共済事業の担当者が多かったと聞いている。
 おそらくは、西山の組織における権力を前に、ほとんどの職員は『はい』と答えざるを得なかったのではないかと想像する。」
 
正確な「団員」の数は分からないものの、非正規の職員を含め、JA対馬の相当な割合の職員が「団員」だったのだろう、と著者は推測する。

「団員」になると、ほとんど毎日、西山の奢りで飲み食いができる。
 
しかしこれは、いわば「青春ごっこ」のうちである。「西山軍団」に入る理由は、本当はそうではない。それは職場の不正と緊密に結びついていた。
 
JA職員は、経済的にも、心身の面でも、過酷な共済営業のノルマに苦しめられていた。「西山軍団」に入れば、そこから逃れられたのだ。
 
しかしその前に、西山が海に飛び込む前日、スナックで過ごした夜のことを、書いておきたい(これは主に裁判資料に基づく)。

「JA対馬の関係者は、酒席の場で西山から伝えられたことはおそるべきことであったと推察している。『おそらく西山軍団にとって最後の晩餐だったのでは。西山はもはや言い逃れできないので、翌日に自分は自殺すると打ち明けたんでしょう。そして西山軍団の連中に、その後始末を託したのではないでしょうか』」
 
西山が死ぬと、職員は蜘蛛の子を散らすようにいなくなり、西山軍団は消滅した。
 
このとき西山に近しい者は、何人かがJAを辞職し、何人かは減給の処分を受けたが、いまも在職している。
 
上に挙げた「何人か」は、この本ではすべて実名で出てくる。
 
しかし、西山に近い人間だけを非難しても、この事件の真相に迫ることはできない。

「西山は職員を苦しめるノルマをむしろ逆手に取り、組織での求心力や影響力を伸ばす道具としてじつに巧みに使いこなしてきた。そのからくりを知ることで初めて、あれだけ大規模な不正にまで発展した背景や経緯を理解することができる。そして、被害者を装っているJA対馬やJA共済連をはじめとするほかのJAの組織が西山と同罪であることも。」
 
ここまで書いていいのか。著者の身に危険は及ばないのか。

ここまで書いていいのか――『対馬の海に沈む』(窪田新之助)(3)

JAの金融事業は、全国的に見れば職員による横領や詐欺が、後を絶たない。全国に共通する「腐敗の構造」が確かに存在する、と著者は言う。

「私は過去の仕事で、JAにおいて一連の不祥事件が起きる要因に、共済商品の営業において過大なノルマがあることをつまびらかにしてきた。すなわち職員はノルマをこなすために、自分や家族が不必要な契約を結ぶ『自爆』と呼ぶ営業を強いられている。」
 
過大なノルマと言えば、「かんぽ生命」を思い浮かべる。

地方では、郵便局の人間は顔見知りであり、悪いことをするはずがない、と思われている。年寄りは言われるがままに、担当者の営業成績のためだけに、保険の付け替えをしていたのである。

もちろんその前に、自らの「自爆」があって、「かんぽ」の職員も、抜き差しならないところに追い込まれている。
 
JA共済の職員も、まったく同じである。

「一部の職員は、自爆による経済的な損失を取り戻したいという気持ちも手伝って、詐欺や横領に手を染めてしまう。
 あるいは自爆による経済的な負担を減らすために、顧客を騙して、不利益となる契約をあえて勧めることも横行している。」
 
そうしないと、ノルマが達成できない。
 
ただ西山だけは、ノルマなどまったく問題にしていない。彼は、JAグループが抱える組織の弱点や問題点を、見つけていたのではないか。それが著者の考えである。

ここに、西山の遺族とJAの間で争っている、長崎地方裁判所の裁判記録がある。

「そこには、西山が架空の契約を作っていたことも書かれていた。一年間で何百とか何千とかいう契約を捏造することは、事務的な処理をする量だけを取っても、とても一人でできるはずもないことは容易に想像がつく。しかも、西山は長年にわたってそんな莫大な実績を挙げ続けてきたのである。」
 
それを誰も問題にせず、異常さに気づかない、という方が、実は異常なのではないか。
 
西山の葬儀は、対馬でも最大規模だった。JA対馬は、100万円近い香典を出している。他の参列者からの香典は、680件に及んだ。

この当時、JA対馬の職員数は正職員、嘱託、臨時職員を含めても、80人程度だった。ほかはJA共済連をはじめとする、JAグループの関連団体、地元の企業、取引先の業者、そして組合員である。西山が仕事を通じて、人望と信頼をどれほど得てきたかが分かる。

「JA対馬の役職員たちは、日本一のLAだった故人の過去の偉業を称えた。
〈西山のおかげで何年も職員の給料が出た〉
〔中略〕JA対馬の縫田組合長は葬儀でこう話した。参列したJA対馬の関係者からも、私は同様の証言を得た。」
 
これはすごい話である。ここから何らかのボロが明るみに出る、ということを気にしてはいない、麻痺している。しかもこれは、発言者が実名であることに注意されたい。
 
葬儀から10日もしないうちに、事態はたちまち変わった。西山の受け持っていた共済契約者たち10人から、通帳や印鑑を西山に預けたりはしていないし、また共済証書を受け取ったりもしていない、という問い合わせが上対馬支店にあった。 

ここまで書いていいのか――『対馬の海に沈む』(窪田新之助)(2)

もう少し農協の話を続ける。そうしないと、事件の構図全体が頭に入ってこないからだ。
 
JAの事業としてすぐに頭に浮かぶのは、農産物を集荷したり、それらを卸売市場や量販店に出荷することだが、北海道を除く都道府県の約9割のJAは、農業に関連する「経済事業」は赤字である。
 
その穴を埋めているのが「共済事業」であり、「信用事業」である。

「共済事業」は、組合員が互いに助け合うことを目的とし、金を出しあって運営する保障制度であり、「信用事業」は、貯金の受け入れや、資金の貸し出しをする制度で、「共済」と「信用」を、まとめて「金融事業」と呼んでいる。
 
その規模は、いずれも莫大なものである。

「JA共済連」の総資産は、57兆6000億円(「日本の国家予算の半分ほど」)、保有契約高は224兆3000億円(「世界でも指折りの規模」)であり、これは日本生命に次いで二番目である。

「農林中金」は「日本を代表する機関投資家」であり、組合員から集めた貯金を、外貨建ての金融商品に投資し、その利ざやと売買益で稼いできた。その貯金残高は108兆3000億円に及ぶ。

「いまのJAグループの実態を概観すると、『農業の専門集団』というよりは『金融屋』としての色が非常に濃くなっている。」
 
そこで西山義治の話である。西山は共済事業を専門とする「ライフアドバイザー(Life Adviser=LA)」である。JA共済連が都内のホテルで毎年開催する「優績ライフアドバイザー全国表彰式」、略して「LAの甲子園」で、西山は12回も表彰されてきた。
 
その結果、西山は「スーパーライフアドバイザー(SLA)」という称号を得ていた。西山は桁外れの顧客を持っていて、「LAの甲子園」でも、2位以下とは圧倒的な差をつけており、「LAの神様」と呼ばれていた。
 
西山の基本給は賞与、管理職手当などが加味され、年間500万を越えるが、そこにさらに、営業実績に応じた歩合給が加わる。これがすごい。著者の調べによると、いちばん多い2017年度の歩合給は、3285万円余りであった。両方合わせれば4000万円近くになる。西山本人は周囲に、「年収はプロ野球の選手並み」と吹聴していた。
 
西山が対馬の海に飛び込んだことについては、JAの職場では、最初から自殺の噂が飛び交っていた。

「JA対馬やJA共済連が後に調べたところ、西山が共済を契約している建物の被害を捏造し、共済金が不正に振り込まれるようにしていたことが判明した。
 さらに、共済金の振込先を、本来の契約者ではなく、自分や第三者が名義人になっている口座に設定していた。」
 
第三者が名義人である口座には、2種類あるという。

「一つは、西山が口座の名義人に無断でつくった『借名口座』、もう一つは、口座の名義人が自ら開設した後、西山が依頼して通帳や印鑑、あるいはキャッシュカードまで預かっていたという『借用口座』。
 西山の死後、職場にある彼の机の引き出しには、それらの名義人の印鑑が何十本という束になって入っているのが見つかった。」
 
どちらの口座も似たようなものだけど、それにしても通帳や印鑑を預けっぱなしというのは、顔見知りしか会わない、田舎ならではのことだろう。
 
西山はしかも、かってに共済金を積み増ししてくれていた。個人の実績を上げるためである。

「不正の実態が明らかになるに従い、被害の総額はだんだんと積み上がっていった。JA対馬が二〇二二年六月二四日発表したところでは、調査できた二〇一〇年度から二〇一八年度だけで二二億一九〇〇万円に達している。」
 
西山個人の犯罪に限っても、これだけある。どうやら農協は、黒い組織であり、それゆえ本の中身を軽々に謳うわけにはいかなかったのだ。

ここまで書いていいのか――『対馬の海に沈む』(窪田新之助)(1)

2024年の開高健ノンフィクション賞受賞作である。

けれども、オビにも表紙まわりにも、内容に触れたところが見事にない。かろうじてオビ裏に、「選考委員大絶賛!」とあるが、加藤陽子・姜尚中・藤沢周・堀川惠子・森達也の選考委員たちの評が、徹底して内容に触れていない。
 
たとえば姜尚中――「取材の執拗なほどの粘着さと緻密さ、読む者を引き込む力の点で抜きん出ていた。」この批評なら、来年も再来年も使える。
 
そう言えば新聞広告も、でかでかと打っていた割には、内容に亙るところは、徹底して秘匿していた。
 
これは何かある。
 
そう思って読んでいくと、農協の伝説的な職員が伝票を操作して、虚構の実績を積み上げ、捜査が身辺に及びそうになり、ついに対馬の海に車ごとダイブした、という話だった。
 
なんだ、使い込みの話か、そう思っていると、途中から事件は異様な相貌を帯びる。これでは収拾がつかない、いわゆる「共犯者」を挙げるにも、数が多すぎて、しかも実名で出てくるから、逆に著者は訴えられて、厖大な数の訴訟を抱えるのではないか。そういうふうにも考えて、とにかく呆然とした
 
事故は2019年2月25日に起きた。「私」(=窪田新之助)が取材で対馬を訪れたのは、2022年11月だった。

「車は四人乗りのダイハツ『アトレーワゴン』。フロントガラスの全面が蜘蛛の巣状にひび割れ、ボンネットが大きく凹むなど、事故の衝撃を物語っていた。
 引き揚げられる際に、車は逆さになった。そのせいで男がいる場所が運転席から助手席に移動したのだろう、助手席側の後部の扉の窓からは左足が、助手席の扉の窓からは左手が見えた。」
 
著者の文体は上記の通り。JAグループの日本農業新聞にいたから、文章はいかにもそれらしく安定している。

「亡くなったのは、対馬農業協同組合(JA対馬)の正職員西山義治〔よしはる〕。享年四四だった。」
 
ここで農協の説明がある(とはいっても、とても頭に入らないだろうから、ややこしいものとして捉えておけばいい)。
 
まずJA対馬のように、地域で活動をする農業協同組合があり、これが最下部の組織で、日本全国で506を数える(2024年10月時点)。
 
その上に「JA共済連」(共済事業を束ねている)、「農林中金」(信用事業を統括する)、「JA全農」(経済事業を統括する)といった組織があり、さらにその上に全体の指導的立場にある「JA全中」がある。
 
このほかに挙げれば切りがないほどの、関連する会社や団体がある。それぞれは別の組織であり、互いの交流は薄いが、それらを総称して「JAグループ」と呼んでおく。

西山義治が死んだという事実は、JA対馬だけではなく、JAグループ全体にも広がっていった。なぜなら西山は、JAの共済事業で長年にわたって、とても考えられない実績を残してきたからである。

共感はできない、しかし名著だ――『透析を止めた日』(堀川惠子)(4)

ここでもう一つの選択肢である「腹膜透析」を考えてみたい。「血液透析」とはどう違うか。

「血液透析は『治療効果』が高く、毒素や水分をしっかり引く〔抜く―中嶋註〕ことができる。腹膜透析は、治療効果はゆるやかだが身体への負担が小さく、患者のQOL(生活の質)を保つのに優れている。それぞれにメリットとデメリットがあり、患者の状態に応じて使い分けることが必要だ」。
 
そういうことなのだが、2022年にアメリカで出たデータが衝撃だった。
 
日本の透析患者全体のうち、腹膜透析患者は2.9%、日本と並んで「透析大国」といわれる香港は69%、欧州やカナダが20~30%、ニュージーランドが30%、先進国の中でも低いといわれるアメリカでも10%を超えている。日本だけが群を抜く低さだ。
 
日本では腹膜透析といえば、「腹膜炎になる」「水が引きにくい」「在宅での操作が難しい」といった評価が定着してきたが、そういうこととは別の問題がある。

バブル期前後から金融機関は、「〔血液〕透析でビルが建つ」と言い、「必ず成功する」という謳い文句で、医療関係者に積極的な融資を行ってきた。
 
その結果、国内の血液透析の設備は増え続け、最大収容能力は約48万人。それに対して慢性透析患者数は約35万人で、すべての患者が血液透析を選んだとしても、ベッドは約7割しか埋まらない。
 
これでは医者が、しゃかりきになって血液透析を勧めるわけだ。

しかしもちろん、外部の雑音に妨げられない医師もいる。次の取材相手は、東北医科薬科大学病院で腎臓内分泌内科を率いる森建文教授だ。

「これまで腹膜透析は高齢者にとって、透析液バッグの交換が負担になるので導入は難しいといわれてきた。ところが現実には、認知症のないほとんどの高齢者が問題なく自分で作業をこなすという。訪問看護の日数もしっかり確保することができるので、見守りの体制も盤石だ。むしろ週に3度の通院が必要な血液透析の患者のほうが負担が大きく、年に数例は介護者が患者より先に亡くなって患者が入院せざるを得なくなる困難なケースに出くわすのだと森教授は言う。」
 
森教授の話を聞いていると、すべてが通説と逆で、驚かざるを得ない。
 
これはタイムラグの問題もある。著者が夫を亡くしたのは、7年も前のことなのだ。医学の進歩は日進月歩、それでもいろいろな外部の要因で、それがストレートに生かせないこともある。
 
著者はしかし、これだというものを摑み取ったのだ。

「余生にどう生きがいを見つけるか、誰に介護してもらうか、最後はどこで死ぬか――。
 終末期の医療にかかわるということは、治療方針の設計だけではなく、『人生の設計』が必要だ。対象は『高齢者』、現場は『家(施設)』この条件に、腹膜透析がぴたりとはまった。」
 
このあと腹膜透析を選んだ患者の、看取りの実例が、堀川惠子の感動的な筆で描かれる。
 
そして最後の文章。

「終末期に腹膜透析を選んだ透析患者たちの、いくつもの看取りの現場を知った。穏やかだったのは、亡き人たちだけではない。彼らを囲む家族や医療者も、どこか『納得』して死を見送っていた気がする。
 日本の透析業界で、腹膜透析患者は2.9%。たとえ終末期になって腹膜透析の導入を希望したとしても、在宅医療を支える体制の整わぬ地域の方がまだまだ多い。〔中略〕
 それでも、医療とはいったい誰のためのものなのか、という冒頭の問いを改めてこの胸に置いたとき、きっと変化は起き始めている、そう思えた。」
 
堀川惠子はこの本で、少なくとも一つ、終末期における腹膜透析という道を見出したのだ。
 
夫君を看取って7年、できれば周辺の思い出したくないことも、多かったはずだ。それを乗り越えた陰には、編集者の支えがあった。そこは「あとがき」に詳しい。
 
なお夫婦の間では、生体腎移植にも話はおよび、積極的にそれを試そうともしていた。
 
しかしそれは叶わなかった。夫婦と、いくつかの病院との間のことは、別に論ずべきであるが、結局実現しなかったので、今回は略す。

(『透析を止めた日』堀川惠子、
 講談社、2024年11月20日初刷、2025年2月3日第5刷)

共感はできない、しかし名著だ――『透析を止めた日』(堀川惠子)(3)

第二部の焦点は、死を目前にして透析をどこまでするか、ということは透析をどこで止めるかと、それに続く緩和ケアの問題、そして後で詳しく述べる、腹膜透析という選択肢の問題がある。
 
また透析を止めた後、死亡した時点で、患者が認知症をわずらっていた例がある。これはあるデータによれば、全体の3分の1を超えている。

「的確な判断を下せない〔認知症の〕患者の透析をいつまで続けるのか、透析の現場が困難な環境に置かれていることがうかがえる。」
 
これは途方に暮れざるを得ない。私の乏しいデイ・サービスの経験でも、認知症は十人十色、その人に向かって、血液透析を止めますか、続けますか、とはとても聞けない。
 
しかし認知症のあるなしに関わらず、透析をどこまでやるか、という見極めは非情に難しい。「透析を止めて訴えられたら、殺人罪で訴追される恐れもある。」
 
透析を止めた後、そこから先はどうしたらいいか、誰もよく分からないのである。
 
もう一度、腎不全の患者が置かれている位置を、確かめておきたい。

「末期腎不全患者の緩和ケアは、医師がいくら対応しても相応の見返りがない。乱暴に書けば、保険適応がないからタダ働きになる。まして緩和ケア病棟に透析患者を受け入れ、症状を緩和するために透析をまわしでもすれば、保険適用外のため病院に多額の持ち出しが生じてしまう。病院経営は慈善事業ではない。だから多忙な医師が、業務の『合間』に看取りを行わざるをえなくなる。」
 
そしてここに「2040年問題」が加わり、さらに今後を悲観させる。

「2040までに、都市部で医療や介護の需要が爆発して通常の対応が困難になり、地方では病院や介護事業所の撤退が相次ぎ、国内全土で深刻な医療崩壊が起きることが懸念されている。医療の現場では当然、死よりも生、救命が優先される。このまま環境整備が追いつかなければ、がん以外の患者の死がおざなりにされる傾向はより強まっていくのではないか。」
 
昨日もニュ―スで、吉祥寺の病院が閉鎖されることを放送していた。人手不足か赤字経営か、あるいはその両方が絡み合った要因か。
 
これは、この本とは焦点がずれるが、すでに起こりつつある問題であり、堀川惠子にはさらにテレビと本の両方で、取り上げてほしいテーマだ。
 
本筋に戻って、今度の取材相手は広島市・安芸市民病院で緩和ケア病棟の部長を務める松浦将浩医師である。

「患者が緩和ケア病棟に紹介されてくるとき、主治医の外科医らはよく、『もうすることがない』と口にするという。その言葉を聞くたび松浦医師は、
『「もうすることがない」の主語はお前だろう、と怒鳴りたくなるんです』〔中略〕
『どんな病状の、どんな末期の患者にも、間違いなく緩和ケアの余地はあります。たとえ最後の数ヵ月でも最後の数日でも、その時間が、本人や家族にとってどれだけ大事か』。」
 
松浦医師の言葉を、胸を熱くして聞いた著者は、こう思う。

「できることなら私も、夫が苦しみ抜いた最後の6日間をやり直したい――。」
 
松浦医師の話を聞きながら、著者は考える。

「腎不全患者に適した医療用麻酔の種類や使い方、尿毒症による呼吸困難を悪化させない鎮静の手順について、教科書のようなものを作れないものか。」
 
そう考えて松浦医師に話してみると、言下に否定された。

「マニュアルは独り歩きします。緩和ケアは本当にケースバイケースで、ひとりひとりの患者さんに向き合って手探りでやるものです。痛みと眠気のさじ加減を慎重に観察しながら、薬の種類や量を変えていく。終末期の透析も一律に治療と捉えるのではなくて、呼吸苦などの症状を抑えるための〝緩和の手段〟と考えて、もっと柔軟に対応することもできると思うんです。緩和ケアでは患者と医師がゴールを目指して話し合い、適切な方法を見つけていく共有意思決定がことさら大事なんですよ」。
 
うーん、これは難しいし、これから先、医療従事者が足りないことを考えると、絶望的といえるのではないか。

共感はできない、しかし名著だ――『透析を止めた日』(堀川惠子)(2)

透析とは腎臓の機能が低下したり、廃絶した患者の体から、過剰な水分や毒素など、老廃物を取り除いて、血液を浄化する治療である。
 
慢性の経過で壊れた腎臓は、二度と再生することはない。血液透析は一生続き、透析を止めてしまえば、数日から数週間で死ぬ。
 
この透析を止めてから死までの、数日から数週間までが問題なのだ。

「透析の中止によって引き起こされる症状は、尿毒症をはじめ多岐にわたる。体内の水分を除去できないことによってもたらされる苦痛は、『溺れるような苦しみ』とも言われ、筆舌に尽くしがたい。突然死でない限り、透析患者の死は酷い苦しみを伴う。」
 
だから当然、緩和ケアが必要になる。
 
ところが日本の場合、緩和ケアの対象は、保険診療上は、癌患者に限定されているのだ。

「死が目前に差し迫る透析患者であっても、ホスピスに入ることもできない。患者も、家族も、緩和ケアの現場から見放されている。WHO(世界保健機関)は、病の種類を問わず、終末期のあらゆる患者に緩和ケアを受ける権利を説いているが、日本ではそうなっていない。世界的に見ても、異例の状態が続いている。」
 
私はうかつにも緩和ケアの対象が、保険診療上は、癌患者に限られることを知らなかった。

「透析大国と呼ばれるこの国で、声なき透析患者たちが苦しみに満ちた最期を迎え、家族が悲嘆にくれている。多くの関係者がその現実を知りながら、透析患者の死をタブー視し、長く沈黙に堕してきた。
 なぜ、厖大に存在するはずの透析患者の終末期のデータが、死の臨床に生かされていないのか。なぜ、矛盾だらけの医療制度を誰も変えようとしないのか。」
 
そこで著者の探索と追究が始まる。
 
第一部は先にも述べたように、夫婦の物語である。夫が厭な奴だ(あくまでも私にとって)ということを除けば、堀川惠子の筆は、病気の進行具合から夫婦の機微に至るまで、過不足なく見事である。内容が内容なので、手放しで褒めるのもどうかと思うが、透析患者が透析を止めて、どんなふうに死んでいくかが、迫真のタッチで描かれる。

この夫婦の個別の物語が、真に迫って来なければ、第二部の医療をめぐる諸問題を、読者が真剣に考えることはないだろう。
 
第一部はそういうことであり、ここでは第二部を考えてみたい。
 
ただ第一部のうち、読者が気になると思う、透析にかかる医療費の問題だけを取り上げておく。

「日本は透析患者の人口比で世界3位という透析大国である。1ヵ月の透析には約40万円の費用がかかるといわれるが、手厚い医療費の助成制度があり、患者の自己負担は最大でも月2万円に抑えられている。」
 
透析患者ひとり当たり、年に約500万円の公費が支出されている。
 
このことをもって、透析患者への誹謗中傷があふれているが、これはもう人種差別だったり、少数者の差別だったりという、SNSが絡んだ、この時代特有の病というほかはない。
 
これについても、堀川惠子は腎臓病患者の実態を掘り下げ、及ぶ限りの意を尽くしている。こういうところで余計な気を使わなければいけないのは、たまらない気がする。

共感はできない、しかし名著だ――『透析を止めた日』(堀川惠子)(1)

堀川惠子さんには会ったことがある。「ムダの会」という編集者、新聞記者、著者の集まる会で、毎年12月に、その年度を代表する本に、「いける本大賞」を出していたことがある。
 
2013年に『永山則夫―封印された鑑定記録』で、その賞を取ったのが堀川惠子さんで、元講談社の鷲尾賢也さんが、強力に推薦したのを覚えている。
 
授賞式のパーティーが山の上ホテルであり、そこでお目にかかったのだ。
 
実際に会ってみると、本の話をしていて、飾るところのまったくない方で、実に気持ちがよかった。
 
今度の『透析を止めた日』は、夫の林新(はやしあらた)と堀川惠子の夫婦が主人公である。林はNHKの有名なプロデューサーであった。
 
堀川惠子が林新と結婚するとき、彼はすでに透析を始めて8年が経っていた。
 
この本は第一部と第二部に分かれていて、第一部は夫が透析をやめて死ぬまで、第二部は透析をめぐる諸問題と、患者たちが透析をやめてから、死に至るまでの過程を描いている。
 
だから順を追って紹介すればいいのだが、第一部で私は、夫君の人間性に大きな疑問を抱いてしまった。
 
ということは、堀川惠子の文章に、疑問を抱いたと言ってもいい。
 
たとえばこんなところ。

「君はどんなテーマでも80点の番組に仕上げる力がある。だがな、80点の番組を量産しても、放送した先から消えていく。来年には誰も覚えちゃいない。視聴者の記憶と歴史に残るのは、100点の番組だけだ。俺のところに90点の番組をもってこい。そうすれば全力で100点まで引き上げてやる。」
 
うーん、こういうオッサン、嫌ですね。
 
林新はまた、黒澤明の『椿三十郎』を百回近く見ていた。

「『俺はな、武骨な椿三十郎を人生の手本として生きてきた。今観てもらったように、椿三十郎は女には優しくできん。そういうことはやろうと思ってもできないから、心しておいてくれ』
 口調までどこか椿三十郎に似ていて、私は思わず噴き出しそうになるのを必死でこらえた。」
 
こらえずに噴き出してしまえばよかったのに。こういうオヤジの存在は、本当にたまらない。
 
林はこうも言う。

「君を使いたいと思うプロデューサーは山ほどいるだろう。だがな、君を育てようと思っているのは俺だけだ。」
 
これを面と向って言うのだ。もう、ゾワゾワですな。

それに応える堀川惠子の言葉。

「椿三十郎ばりの台詞は、今も私を励ます。仕事の仕方も、彼と出会って根底から覆された。」
 
つまりこの結婚は、弟子と師匠の契りなのである。そういう人と巡り合って、それはよかったね、というほかない。
 
とにかく私は、そういう夫婦には近寄りたくないのだ。それにエラソーな人と、偉い人は違う。それはいわば、両極端な位置にいる。
 
堀川惠子は、テレビ界のディレクターであると同時に、本の方ではノンフィクションの優れた書き手である。ノンフィクションの優れた書き手が、人との関係で、自分を低く置くこと、あるいは人を上下関係において見ることが、あり得るのだろうか。
 
第一部はそういうわけで、叙述そのものは巧みで、私を引き込むのだが、その根底に共感できない部分が残った。
 
しかし第二部まで読み終わったとき、このノンフィクションが透析の行く末を切り開く、今のところ唯一のものであることが、よく分かった。

問題の書、または胃痛・嘔吐・下痢・便秘――『癲狂院日乗』(車谷長吉)(9)

長吉は、プロの作家にはなりたくない、と強く思う。
 
直木賞をもらって以来、今度は文藝春秋の編集者たちが、長吉に書け書けとうるさく言う。

「私はそうはしたくない。飽くまでアマチュアの書き手として書いて行きたい。プロの作家とは、編輯者の注文に応じて原稿を書いて行く人であり、アマチュアとは自分の内心の声にのみに従って書く人を言う。私は書きたい時に書きたいものだけを書く人でありたい。」(11月22日)
 
そうは言っても、というところだ。もう逃れようのない、どん詰まりに来ている。

「こういう具合に言われれば言われるほど、気力が萎えて行く。どうして自由に書かせてくれないのだろう。私は自己の魂の救済のために書いてきた。書くことは商売ではない。併し編輯者にとっては、書かせることは商売だ。この深い矛盾。」(12月3日)
 
書けなくなるまで、もう一歩のところまで来ている。
 
長吉は、やはり「この人のためなら」と思わせられなければ、書けないのだ。
 
長吉が都落ちしているとき、新潮社の編集者が神戸まで来てくれて、もう一度原稿を書けと言ってくれた。
 
しかし長吉は書けなくて、断りの電話をかけるつもりだった。そのとき、その編集者の子どもが、普通の子ではないことを知った。編集者は電話の向こうで、泣いている気配だった。

「私は自転車に乗って家を飛び出した。それから半日、どこでどうしていたのか、まったく記憶にない。ただ、夕暮れに家へ帰って来た時、私の手は十束のコクヨの原稿用紙を掴んでいた。その翌日から、私は息を詰めて『萬蔵の場合』を書き始めた。も一度、東京へ行って、前田氏を励ましてやらなければ、という気があった。前田氏の具合の悪い子を抱っこしてやらねば、という思いがあった。」(12月20日)
 
長吉は、自己の魂の救済のために書くというが、この場合は新潮社の編集者のためだし、「鹽壺の匙」の場合でも、高橋順子に寄せる思いが、書くきっかけになっている。
 
その意味では、編集者のつけ込む余地はあるのだ(と僕はすぐに、編集者の立場に立ってしまう)。
 
この日記もいよいよ大詰めである。すべての人間を縛るもの、それは「性」。人間の中で、正面切って、明るみの中でそのことを問題にできるのは、作家だけである。
 
しかし問題にする、その仕方が、作家によってまったく違う。
 
長吉の場合はどうか。

「性への嫌悪感がどうして醸成されたかを考えて見れば、独身時代の自涜癖が禍いしている。ある時から私は強い意志を以て、自涜を止めた。併し躯の中に精液は溜まって来る。それが時々、夢精という形で噴出して来た。夢精があったあとの、あの不快感は堪えがたいものだった。〔中略〕ために、私はまた夢精を未然に防ぐために、厭々ながら自涜をせざるを得ないこともあった。」(3月17日)
 
長吉は、「自涜」も「夢精」も嫌なのだった。

「性的妄想を抑圧できれば、それで問題はないが、併し性は抑圧しようとする力を内側から圧し破って、はみ出して来る。それに対する嫌悪感が、強迫神経症の原因であるらしい。このごろ、私はそう確信するようになった。」(同日)
 
これはもう、「人間の男」に生まれたことを、呪うよりほかにしょうがない。
 
高橋順子が、後書きとして「日の目を見るまで」を書いている。長吉への思いに溢れた文章だ。

「私が生きているうちに公刊を決意しなければ、車谷の作家の魂は闇の中で呻きつづけるだろう。私が死んで原稿が廃棄されてしまったら、それは私の罪だ。この原稿には問題が多すぎるが、業の深さの中に、それと同じ強さの一筋の光が宿っているのではないか。」

「一筋の光」どころではない。近年このように、真実の言葉のみで書かれた作品は、まったく稀であり、僕は読んでいる間、感動し続けていた。

(『癲狂院日乗』車谷長吉、新書館、2024年8月1日初刷)

問題の書、または胃痛・嘔吐・下痢・便秘――『癲狂院日乗』(車谷長吉)(8)

「順子ちゃん」と腹の探り合いをするカネの話もある。

「結婚以来五年近くなるが、私は未だ順子ちゃんがいくら貯金を持っているか見せてもらっていない。私は結婚直後に私の貯金はこれだけですと言うて、銀行の通帳を見せたが、順子ちゃんは自分のは見せなかった。金に関してはなかなか抜け目のない女だ。」(10月6日)
 
長吉はどんな顔をして、この文章を書いたのだろう。通常は、苦笑いをして、となるところだが、長吉は案外、真剣な表情だったような気もする。
 
またこの頃から、便秘と下痢についての詳しい記述が見られる。

「朝、大便が出ないので、下剤をのむ。ところが、その直後に出る。〔中略〕
 夕、谷中銀座へ晩飯のおかずを買いに行く。その帰り道、突然、尻の穴がむずむずして、ズボンの中に下痢ぎみの大便が出てしまう。朝のんだ下剤が正確に効いて来たのだ。不快な惨めな思いで帰宅。風呂場で躯を洗う。順子ちゃんに笑われる。〔中略〕
 生きているのが厭になる。」(10月11日)
 
ここを読んだとき、しばらく呆然とした。
 
僕は10年前に脳出血になり、半年間、小金井リハビリ病院に入院し、その後、家に帰った。家に帰っても車椅子を覚悟せよ、と言われたのを、かろうじて杖を突いて歩けるようになった。

それでも右半身不随だから、いろいろ困ることはあったが、中でも排便が一番厄介だった。
 
病院にいたときから、センノシドという下剤を、毎日2錠ずつのむのだが、それでも排便は3,4日に一度、稀には5日に一度、あるだけだった。
 
それから4,5年たって、排便は2,3日に一度になったが、今度は下痢を起こすようになった。センノシドが効きすぎるのだ。それで排便した日は、この薬を止めた。
 
それでもたまに、センノシドを飲んだ日には、強烈な下痢をすることがある。僕は便所で糞まみれの下半身を裸にし、いったん外した脚の装具を再びつけて、何とか体を風呂場まで持って行き、そこでまた装具を外し、裸で立ったまま糞便にまみれた下半身を、妻にシャワーで洗ってもらうことになる。
 
これは長吉が、惨めな思いで風呂場で体を洗うのを「順子ちゃん」に笑われる、どころの話ではない。
 
病院にいるときは、看護師さんが処理をしてくれた。度々そういうふうになるので、あるとき、生きているのが厭になる、もう死にたくなるというと、看護師のSさんが、そういうことを言ってはだめ、ときつい調子で言った。
 
あなたは自分の病気が分かっているから、身体は考えているようには動かない、ということが分かっているでしょう。でも奥様にしてみたら、あなたの身体は半分が不自由というだけでも、大変な負担だし、そのうえあなたが排便の処理ができないことは、相当なショックなの。だからあなたが動揺してはだめ、分かった?
 
看護師さんにはいろいろお世話になったが、このときの注意は、ひときわ印象に残っている。そこでベストセラーになりそうな『排便・排尿大百科』という企画を考えたが、これはまた別の話。
 
養老孟司先生の『唯脳論』を読むと、脳は全てのことを管理・統御しようとするが、その土台は身体であることを忘れている、と書いてある。
 
若い頃はそれを読んで、なるほどと感心したが、年を取ってみると、『唯脳論』は若い時だけかかる錯覚または迷妄であることが、いやになるほど分かる。