気持ちのよい雑文集――『そらそうや』(黒川博行)(3)

生き物を飼う話を除くと、後はいかにも作家のエッセイだ。とはいっても、黒川博行の人生は、けっこう波乱に満ちている。

高校を出て2年浪人し、大学へは行けず、父の伝手で船員になり、それがあまりに辛いので、また方向転換して美術系の大学に行き、そこを出て、スーパー・ダイエーの装飾部門の社員になり、そこがつまらなくて、高校の美術の先生になり、あるときサントリー・ミステリー大賞に応募して、ミステリー作家になった。
 
本人は、根は怠け者だが、目の前にニンジンがぶら下がると、猛然と馬力が入る、と謙遜するが、何度かの転身を見れば、絶えず努力するタイプだと思う。博打のことが、1章ぶん出てくるので、そうは思えないだろうが。

「私は教師になって小説を書き、それが縁で教師をまた辞めた。人生なにがきっかけでどうころぶか分からない。〝叱られたあの一言〟にその後の生き方を左右するような強烈な思い入れがあればいいのだけれど、つまるところ、無反省な私にはなにひとつ身についていない。」(「四年きりのスーパーマン生活」)

こういうふうに自分を低く構えるのは、人間が高級だからだ(こんなことを言えば、やめてくれ、と言われるに決まっているが)。
 
親しい作家を2人、追悼するエッセイがある。鷺沢萌と藤原伊織である。
 
鷺沢萌は『川べりの道』で、文學界新人賞を受賞した直後に知り合った。愛称は「めめ」、年は20歳くらい離れているが、かなり親しい友達で、酒とギャンブルは2人とも好きだった。

「めめとはほんとによく遊んだ。麻雀、サイコロ、カード、花札、酒も飲んでカラオケもした。『ロンリー・チャップリン』や『夜明けのスターライト』とかデュエットをして、ちっともハモッてないじゃん、と怒られた。めめはカラオケが上手かった。」
 
作家同士は、ときに意外な交友がある。

「めめの睡眠時間は少なかった。寝たら負けといい、小説はもちろん、エッセイ、ブログ、映画批評、戯曲、テレビ出演、小説の翻訳、絵本の翻訳、識字教室のボランティアまでしていた。なにごとにも真摯で、ほどほどということを知らなかった。」

「めめ」は黒川博行のことを、「よめはん」に「世の中は広いね。あんな生き方もできるんだ」と言っていたという。鷺沢は、多くの生き物を飼う黒川がもの珍しく、また羨ましかったに違いない。

「めめは生き急いだ。三十五年の人生に多くのことを凝縮しすぎた。」
 
鷺沢萌は、2004年4月11日に自殺した。縊死だった。
 
藤原伊織は、約2年半にわたって闘病し、食道ガンで亡くなった。この人の愛称は「いおりん」だった。

「ギャンブラーは往々にして心の奥底に荒んだものを宿しているものだが、いおりんにはそんな翳りがかけらもなかった。あれほど高潔で心根のやさしいギャンプラーは、いおりんのほかにいなかった。」
 
この人は電通に勤めて、小説を書いていた。私は新宿の雀荘で2度、手合わせを願ったことがある。他に誰がいたかは忘れた。誰も大勝ちも大負けもしなかったので、その2回の印象は薄い。
 
第Ⅵ章に、東野圭吾との対談がある。これはずいぶん面白いが、中でも大阪弁をめぐって、2人が深いことを言う。

「黒川 純粋な大阪弁は文章にしたら意味が通じないことがたくさんあります。〔中略〕僕の書いてるのは本物の大阪弁じゃないですよ。」
 
黒川博行を読んでいて、まるで漫才みたいだと思っていたが、あるときこれは、書き言葉の大阪弁で、つまり話している大阪弁とは、だいぶ違うことに気づいた。そのことを、著者の言で確認できたのは嬉しい。

「東野 目で見て、頭のなかで読むと大阪弁なんだけども、それをほんとうに喋るかっていうとそうではないということですね。特に大阪弁は句読点の位置が難しい。助詞がなかったりするから。」
 
東野圭吾はやや退屈で、積極的に読む気はしないが、全編大阪弁の小説なら読んでみたい。

(『そらそうや』黒川博行、中央公論新社、2024年10月10日初刷)

気持ちのよい雑文集――『そらそうや』(黒川博行)(2)

生き物の話はまだ続く。そしてどれも面白い。

「お裾分けのオタマジャクシ」は、友人が持って来てくれたモリアオガエルを、庭の火鉢で飼う話。
 
以前、ヒキガエル30数匹と、アマガエル5匹ばかりを、仕事部屋で飼っていて、その餌のミールワームやコオロギも、衣装ケースで飼っていたことがある。
 
しかし今は、カエルはいない。世話が大変なのだ。だからもう、カエルの世話はしない。

「庭の虫を食って、またあのきれいな鳴き声を聞かせてくれるのを祈るばかりだ。」
 
オカメインコのマキが、寝ている著者の目じりのあたりをつつく朝、起きろという合図だ。そのささやかな幸福を描いた、「幸せは小鳥や金魚とともに」。

「朝飯が終わると、わたしは甘夏を半分に切って庭に出る。甘夏を木蓮の枝に差し、枝に吊るしたプラスチックのボウルに『小鳥の餌』をマグカップ三杯分ほど入れる。甘夏はヒヨドリとメジロに、ヒエやアワの混合餌はスズメにやるためだ。」
 
気にかけるのは、飼っている動物だけではないのだ。

「スズメ(三十羽を超える軍団)もヒヨドリ(いつも二羽)もわたしの姿をちらっと見ただけで逃げる。まるで愛想はないが、野生のスズメは一年か二年の寿命だというから、少しでも冬越えしやすいように、十年ほど前から餌付けをしている。」
 
ハードボイルドの小説もいいが、博物学者としての文章も絶品である(しかしスズメは、最近とんと見なくなったなあ)。
 
小鳥のあとは、火鉢の金魚50匹ほどと、メダカ約100匹に餌をやる。みんな去年の春から夏にかけて生まれ、冬を無事に越えた。冬越しできてよかった、という著者の思いが伝わる。
 
生き物は、動物だけとは限らない。
 
50歳を過ぎたあたりから、庭いじりが面白くなってきた。

「新緑の春、園芸店を覗くと、鉢植えの花や苗木がいっぱい並んでいる。蠟梅、牡丹、木蓮、桜、桃、薔薇、椿、わたしは花木が好きだ。沈丁花や梔子など、切り花にすると部屋中が馥郁たる香りにつつまれる。」(「手間ちがい」)
 
ここでは、工事中で切り倒されるミモザを、5本ほど折りとって、庭で挿し木にした。花が咲くのは何年も先だろう。
 
猫の話も当然ある。

あるとき地下の部屋に、仔猫が迷い込んだ。頭のいい仔で、猫用の砂をリビングの隅に置くと、2日でトイレをおぼえた。名前を「ねこマキ」と呼んだ。

「インコのマキがわたしの肩にとまっているのを見て、同じように背中から這いあがってきて肩にとまる。右の肩にはマキ、左の肩にはねこマキ、一羽と一匹がわたしの頭をあいだにしてとまるのがたいそうかわいかった。」(「ねこマキ」)
 
しかしインコのマキは放し飼いだから、猫を飼うことはできない。「ねこマキ」は、テニス仲間の家へもらわれていった。
 
今は「ふく」という名で、幸せに暮らしている。

「セグとの日々」は、少年のころ飼っていた犬の話。その犬は薄茶色で、背中が黒かったので、セグロだから「セグ」と呼んだ。
 
子供のころの著者と、13年暮らした。そしてあるとき、いなくなった。

「セグはほんとに賢かった。なにか芸を教えて、それができるというレベルの頭ではなかった。愛情が深く、常に飼い主のためを思って行動した。仔犬のころの丸々とした顔がいまも忘れられない。」
 
そういう犬を私も飼いたかった。いや、犬でなくても、小鳥でもいい。しかし私の家は、生き物は一切禁止だった。

気持ちのよい雑文集――『そらそうや』(黒川博行)(1)

「はじめに、編集者の田辺美奈さんに大感謝です。よくぞ、これだけ大量の種々雑多なエッセイを集め、きれいにまとめてくれました。わたしの四十年にわたる作家生活がここに凝縮しています」(「著者あとがき」)という雑文集である。
 
黒川博行とくれば浪花のハードボイルド、なぜそういうものを書くようになったのか、その舞台裏がたっぷりと描かれている。これはたまらんぜ。
 
目次はその期待に沿うべく、「Ⅰ デビューまで」「Ⅱ 作家的日常」「Ⅲ 麻雀・将棋・カジノ・そして運」「Ⅳ 交友録」「Ⅴ 自作解説」「Ⅵ 直木賞受賞記念エッセイ&対談」と並んでいる。
 
ところが読み始めると、「作家的日常」のなかに、なんと「生き物」のことが、これでもかこれでもかと出てくる。

「わたしは昼の十二時ごろ起きる。枕元で寝ているオカメインコのマキも起きて、いっしょに隣室の仕事場へ行く。仕事場の八つの水槽で飼っているのはグッピーとサワガニで、この世話が三十分はかかる。まず水槽の底の水をポンプで吸って、ためおきの水を補充する。次にグッピーの稚魚をすくって、稚魚だけの水槽に移す。この時期は三、四十匹前後の仔が生まれる(グッピーは卵胎生)から、けっこう手間がかかる。」(「一日の始まりは麻雀から」)
 
のっけからこれで、ちょっと驚く。
 
ちなみに黒川博行・雅子夫妻には、少なくとも男の子が1人いる。だから車谷長吉・高橋順子夫妻のように、カブトムシやガマガエルを、子供のように飼っているのではない。

「引越しビオトーブ」というエッセイは、ほとんど博物誌である。

今度の家は庭に池があるので、金魚を放した。

「『えらいこっちゃ。金魚がこどもを産んでる』
『ほんまや。水草に卵を産みつけたんや』
 稚魚は百匹以上いる。親に食われたらいけないから半分ほどをすくいとり、手水鉢に移した。」
 
稚魚が百匹以上とは大変だ。これは放っておくと、親が食べてしまう。私も子供のころに経験している。

「水がきれいになると、アマガエルが住みついた。トンボやチョウが飛ぶ。よめはんとわたしは近くのため池に行き、メダカやタナゴやオタマジャクシをすくってきた。ビオトープ(ある範囲内に動植物が生息できる空間を作る、環境運動の一種)の真似ごとである。」
 
夫婦の趣味が一致してよかったね(こういう趣味は、結婚する前は分からないものだ)。
 
黒川雅子さんは、プロの絵描きである。あるとき、生きたカニを描きたいと言って、サワガニを買ってきた。50数匹で2000円、がさごそとハサミを振り挙げて動く。

「わたしは水槽に水を張り、小石を積み上げた。水草とエアポンプを入れてサワガニを放すと、石を器用に移動させて巣を作る。餌は飯粒、煮干し、金魚の餌、食欲旺盛でなんでも食べる。よめはんは数匹のサワガニを洗面器に入れてアトリエに持ち込み、せっせとデッサンをする。」
 
あるときテニス仲間のおじさんたちが、引越し祝いをしてくれるというので、ヒキガエルを2匹、リクエストした。

「これはかわいい。
 わたしは鳥籠に砂利を敷いて水飲み場を作った。〔中略〕生きて動いているものはなんでも丸呑みにするから、ミミズやダンゴムシ、イモムシ、バッタなどをとってきて食べさせる。鳥籠から出すと、家中をのそのそ這いまわって機嫌がいい。わたしは毎晩、ヒキガエルといっしょに風呂に入る。湯船に入れたら茹だってしまうから、洗い場で遊ばせている。」
 
いつも一緒にいるのは、もう友達ではないか。それにしても「洗い場で遊ばせている」というのは、湯がかかりそうで危険だろう。そうでもないのか。
 
そして結論。

「金魚の稚魚は三十匹が生き残り、五センチほどに育った。メダカもたくさんの稚魚が孵って百匹に増えた。タナゴはどれも十センチくらいに育ち、水槽のオタマジャクシはみんな足が生えている。よめはんの描いたサワガニの日本画は二点が売れた。」
 
どれも順調に育っている。
 
最後の一文はこうだ。

「まともなペットではないが、生き物はおもしろい。」

この本の初版は2024年10月。この文章は、いくつかの中学・高校の入試問題に、ことし出るだろう。

下向きの視線――『新編 日本の面影 Ⅱ』(ラフカディオ・ハーン、池田雅之・訳)(4)

ハーンは英語で書いたので、出版については、外国の書肆と交渉することになる。これが行き違いになり、表題のことや挿画などで、十全に打ち合わせができなくて、癇癪を起こすことがあった。

「向うからの手紙を読んでから怒って烈しい返事を書きます。すぐに郵便に出せと申します。そんな時の様子がすぐに分かりますから『はい』と申して置いてその手紙を出さないで置きます。二、三日致しますと怒りが静まってその手紙は余り烈しかったと悔やむようです。」
 
さあどうするというところで、編集者・節子の出番である。

「『ママさん、あの手紙出しましたか』と聞きますから、わざと『はい』と申します。本当に悔んでいるようですから、ヒョイと出してやりますと、大層喜んで『だから、ママさんに限る』などと申して、やや穏やかな文句に書き改めて出したりしたようでございます。」
 
素晴らしい。ちょっとドタバタ喜劇の趣もある。
 
ハーンは、人の表情にも好みがあった。

「眼なども西洋人のように上向きでなく、下向きに見ているのを好みました。観音様とか、地蔵様とかあのような眼が好きでございました。私どもが写真をとろうとする時も、少し下を向いて写せと申しましたが、自分のもそのようになっているのが多いのでございます。」
 
自他の表情に対する好みは、写真にとられるときだけでなく、人生全般にわたって、生きてゆくときの基本の姿勢だったのだ。
 
ハーンの好きだったもの、嫌いだつたものは、

「ヘルンの好きな物をくりかえして列べて申しますと、西、夕焼け、夏、海、游泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬萊などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御崎、それから焼津、食物や嗜好品ではビフテキとプラムプーデン、と煙草。嫌いな物は、うそつき、弱いものいじめ、フロックコートやワイシャツ、その外いろいろありました。」
 
ちょっと詩のよう。プラムプーデンは、ドライフルーツ、スパイス、牛脂などを使用した、英国の伝統的なクリスマスケーキである。
 
別れは突然やってきた。それまでにも、心臓が痛むことはあった。

「子供等と別れていつものように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間程して私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で『ママさん、先日の病気また参りました』と申しました。〔中略〕暫くの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑いを含んでおりました。」
 
まずは見事な最後である。でも淋しいし、悲しい。
 
なお翻訳の文体について、訳者の池田雅之が微妙なことを書いている。

「ハーンのいかにも十九世紀的な息の長い、ごてごてした英文を、いかに現代日本語に置きかえて表現するか。私の翻訳は、したがって、逐語訳でもなければ、さりとて意訳、超訳の類いでもない。あえて言えば、現代の若い読者へ向けての私の解釈、読み方の提示(ダイナミック・トランスレーション)と言ってよい。この翻訳法は、ハーン作品のような古典を現代に甦らせる方法の一つだと考えている。〔中略〕
 私は、『日本の面影』をこの時代に再現させるには、こうした時代に即したダイナミックな翻訳の方法が有効ではないかと考えている。」
 
ラフカディオ・ハーンの日本語訳は、池田雅之がこんなふうに考えて、作り出したものなのだ。
 
そういえば『日本の面影』の『Ⅰ』の方でも、池田は「訳者あとがき」で、こんなふうに書いている。

「私は『日本の面影』の文体の特徴は、きわめて十九世紀的な装飾語句の多い、凝った息の長い文体にあると思う。つまり、ハーンの『日本の面影』のスタイルのひとつの特色は、かすかに震えるような、朦朧とした美文体の息づかいにあるのではないかと考えている。」
 
これをどうやって、ごてごてした美文体ではなく、今の読者に通じるように訳していくか、というのが池田雅之に与えられた使命だった。
 
また池田は、ハーンの全体像を、こんなふうに要約している。

「『日本の面影』という作品集は、ハーンの印象派風の言語芸術家[ワードペインター]としての美意識と、足で稼ぐルポライター的な活力[エネルギー」と、さらには民俗学者的な特異な嗅覚とが、混然一体となった仕事[ワーク]と評価することができるのではなかろうか。]

「ラフカディオ・ハーンにおける日本語訳の問題―池田雅之・早稲田大学名誉教授の場合―」という研究テーマが、成り立ちそうである。

(『『新編 日本の面影 Ⅱ』ラフカディオ・ハーン、池田雅之・訳、
 角川文庫、2015年6月25日初刷、2023年11月25日第28刷)

下向きの視線――『新編 日本の面影 Ⅱ』(ラフカディオ・ハーン、池田雅之・訳)(3)

節子は単に、ハーンの理想の執筆場所を作ろうとしただけではない。「怪談の書物は私の宝です」というハーンに応えるべく、古本屋を探し回ったのである。
 
そして節子はいよいよ、怪談を朗読し演じる。「思い出の記」の中でも、一つのクライマックスである。

「淋しそうな夜、ランプの心を下げて怪談を致しました。ヘルンは私に物を聞くにも、その時には殊に声を低くして息を殺して恐ろしそうにして、私の話を聞いているのです。その聞いている風がまた如何にも恐ろしくてならぬ様子ですから、自然と私の話にも力がこもるのです。その頃は私の家は化物屋敷のようでした。」
 
節子は、本を見ながらではだめだ、とハーンに言われたという。

「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません」

節子は自分のものとして怪談を語りながら、ときどき恐ろしい夢を見て、うなされたという。
 
そして「耳無し芳一」に出会う。

「『怪談』の初めにある芳一の話は大層ヘルンの気に入った話でございます。なかなか苦心致しまして、もとは短い物であったのをあんなに致しました。『門を開け』と武士が呼ぶところでも『門を開け』では強味がないというので、いろいろ考えて『開門』と致しました。」
 
文章を一緒に考えているのだ。節子は十分、編集者の役割を果たしている。

ハーンは、量産する作家の資質のあった人だが、それでも節子が編集者としてついていなければ、今あるかたちでは、著作は残らなかっただろう。
 
それを思えば、明治初期の稀有な国際結婚という意味でも、ハーンと節子の出会いは、奇跡である。

「耳無し芳一」の話は続く。

「この時分私は外出したおみやげに、盲法師の琵琶を弾じている博多人形を買って帰りまして、そっと知らぬ顔で、机の上に置きますと、ヘルンはそれを見るとすぐ『やあ、芳一』と言って、待っている人にでも遇ったという風で大喜びでございました。それから書斎の竹藪で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと『あれ、平家が亡びていきます』とか、風の音を聞いて『壇の浦の波の音です』と真面目に耳をすましていました。」
 
いくつかの怪談は、たんに書きとめるのではなく、その話を再現して、生きてみたのだ。
 
いろんな日常の些事が書いてあるが、その中に俳句を嗜んだ、とある。

「発句を好みまして、これも沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと冗談言いながら私に聞かせました。どなたが送って下さいましたか『ホトトギス』を毎号いただいておりました。」
 
ラフカディオ・ハーンが没するのは1904年、夏目漱石が『ホトトギス』に『猫』を発表するのは1905年である。ハーンがもう少し生きていれば、2人の交わりが生まれたろう、と想像するのは楽しい。
 
2人とも、東京帝国大学を歯牙にも掛けないところは、よく似ている。懐ろ手して、小さくなって生きていたい、と述べるところも同じなのである。

下向きの視線――『新編 日本の面影 Ⅱ』(ラフカディオ・ハーン、池田雅之・訳)(2)

全体の目次のうち、「弘法大師の書」「鎌倉・江ノ島詣で」「盆市」の3編は、横浜、鎌倉、江ノ島が舞台である。

「美保関にて」「日御碕にて」「八重垣神社」「狐」「二つの珍しい祭日」「伯耆から隠岐へ」「幽霊とお化け」の7編は、松江、出雲、隠岐を舞台にしている。
 
これらは通常の紀行文とは違う。そこにはハーンの哲学的瞑想や、伝説の掘り起こしがあり、異文化としての日本および日本人との出会いと交流が、濃密に描かれている。
 
しかしとりあえずは、小泉節子の「思い出の記」である。
 
まず「ヘルン[ハーン]」が、どのように松江に迎えられたか。

「ヘルンは見る物聞く物すべて新しい事ばかりですから、一々深く興に入りまして、何でも書き留めて置くのが、楽しみでした。中学でも師範でも、生徒さんや職員方から、好かれますし、土地の新聞もヘルンの話などを掲げて賞讃しますし、土地の人々は良い教師を得たというので喜びました。『ヘルンさんはこんな辺鄙なところに来るような人でないそうな』などとなかなか評判がよかったのです。」
 
まずはハーン先生、絶賛である。
 
ハーンはこんなところに来る人ではない、と言われながら、じつは辺鄙なところほど好きだった、東京よりも、松江がよかったのである。
 
節子にとって、ハーンはどんな人だったか。

「ヘルンは極正直者でした。微塵も悪い心のない人でした。女よりも優しい親切なところがありました。ただ幼少の時から世の悪者どもにいじめられて泣いて参りましたから、一国者[=頑固]で感情の鋭敏な事は驚く程でした。」
 
節子は、そういうハーンを好きになったのだ。
 
この「思い出の記」には、ハーンとあちこち旅したことも書いてある。その大方は、『ばけばけ』で描いてある通りだ。
 
ハーンと節子はしかし、東京に来る。東京帝国大学で教えるためである。

しかしハーンは、面倒な付き合いを一切避けて、勉学・研究と執筆に勤しんでいたい。

「交際を致しませんのも、偏人のようであったのも、皆美しいとか面白いとかいう事を余り大切に致し過ぎる程に好みますからでした。このために、独りで泣いたり怒ったり喜んだりして全く気ちがいのようにも時々見えたのです。ただこんな想像の世界に住んで書くのが何よりの楽しみでした。」
 
本当に理想の著者である。
 
しかし日常を共にする夫婦にとっては、絶えず緊張が漲る。次は、夫婦がどんな会話をしていたか、という点でも興味深い資料だ。

「あなた、自分の部屋の中で、ただ読むと書くばかりです。少し外に自分の好きな遊びして下さい」
「私の好きの遊び、あなたよく知る。ただ思う、と書くとです。書く仕事あれば、私疲れない、と喜ぶです。書く時、皆心配忘れるですから、私に話し下され」
「私、皆話しました。もう話持ちません」
「ですから外に参り、よき物見る、と聞く、と帰るの時、少し私に話し下され。ただ家に本読むばかり、いけません」
 
よくこれで意思の疎通ができたものだ。あるいはこれでなければ、通じなかったのか。
 
日常茶飯はこんな具合だ。

「その書くものは、非常な熱心で進みまして、少しでも、その苦心を乱すような事がありますと、当人は大層な苦痛を感じますので、常々戸の明けたてから、廊下の足音や、子供の騒ぎなど、一切ヘルンの耳に入れぬようにと心配致しました。」
 
素晴らしい。節子は著者にとって、まずは理想の女房である。

下向きの視線――『新編 日本の面影 Ⅱ』(ラフカディオ・ハーン、池田雅之・訳)(1)

ラフカディオ・ハーンの『新編 日本の面影』が面白かったので、『Ⅱ』も読むことにした。
 
初めに「訳者あとがき 古き良き日本への旅」から、『Ⅱ』の翻訳成立の事情を書いておく。
 
『新編 日本の面影』は、訳者の予想をはるかに超える注文があった。現在までのところ、2000年に初刷が出て、2025年には第55刷が出ている。この25年間に毎年平均2刷である。信じられない。
 
出版社からは、すぐに続編を依頼されたのだが、『Ⅱ』の刊行は2015年、なんと15年もかかってしまった。
 
その間に担当編集者は3人も変わってしまい、大変申し訳ないことをした、と訳者は述べるが、本当のところは、そうでもないような気がする。
 
私の見るところ、最初の『新編 日本の面影』は、ラフカディオ・ハーンのエッセンスを凝縮し尽くしたので、『Ⅱ』を考えるとき、構想のしようがなかったのだと思う。
 
気を取り直して、別の角度から光を当ててよいと思われるまでに、15年もかかってしまったのだ。
 
まず最初に目次を挙げておく。

  弘法大師の書
  鎌倉・江ノ島詣で
  盆市
  美保関にて
  日御碕[ひのみさき]にて
  八重垣神社
  狐
  二つの珍しい祭日
  伯耆から隠岐へ
  幽霊とお化け
    思い出の記  小泉節子
    ラフカディオ・ハーン略年譜
    訳者あとがき

ここでは何といっても、小泉節子の「思い出の記」が注目されよう。
 
訳者も「この作品は、ハーンの案内書として最も感動的なものである。今日でも、ハーン入門はこの著作からはじまるといってよい」と述べる。
 
ところがオビ表には、そんなことは書いてない。これはあくまでもラフカディオ・ハーンの著書であり、小泉節子の「思い出の記」はその参考資料である、という構えを崩していない。

編集者はオビ表に、「思い出の記」を入れたかったに違いない。ずいぶん説得したはずである。しかしかなわなかった。

訳者の池田雅之、ただものではない。

味が悪い――『ガープの世界』(上・下)(ジョン・アーヴィング、筒井正明・訳)

またまた『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』を読んでいたら、ジョン・アーヴィングを一つも読んでいないことに気づいた。
 
そんな作家はもちろんワンサといるが、ジョン・アーヴィングをまったく読まないのは、まずいと思ってしまったのだ。どうしてそういうふうに思ったかは、自分でも分からない。
 
ジョン・アーヴィングは、『ガープの世界』でブレイクする前に、『熊を放つ』を書いていて、村上さんはこれを訳している。
 
僕はベストセラーになった『ガープの世界』から読み始めた。新潮文庫で上下2巻、それぞれ版を重ねている。
 
わくわくしながら読み始めたのだが、なんとこれが面白くない。面白いところも、特に下巻にはあるけれど、それを上回るほど、全体の味が悪い。
 
ガープの母親の話から始まるが、そしてそれは戯画化してあるが、その戯画がまったく笑えない。というか、読んでいるときの味が悪すぎる。
 
ガープの母、ジェニー・フィールズは、性欲というのが分からない。しかし子供は欲しい。
 
そこで、戦争で負傷したガープ三等軍曹が、正気を失って限りなくマスターベーションをするのに乗じて、一度だけ性交する。
 
ガープ三等軍曹は戦闘の負傷がもとで死ぬが、ジェニーはT.S.ガープを産み、2人は一緒に暮す。
 
2人はウィーンで、性の欲望について話す。ジェニーには分からないが、男にはそういう欲望があり、ガープは頻繁に娼婦を買う。そしてそれを、ジェニーは当然のこととして受け入れる。
 
ここはよほどうまく描けてないと、読者を納得させるのは難しいだろう。
 
ガープはヘレンと結婚し、2人の男の子を得る。しかし下の子を、自動車事故で喪う。
 
そのときはヘレンが浮気をし、男の車でフェラチオの真っ最中。男の陰茎が最大になり、そこへガープと、2人の子供を乗せた自家用車が、突っ込んでくる。
 
そこで突然、章が変わり、下の子は亡くなり、ガープとヘレンは元の鞘に納まっている。まあ、シュールと言えばシュールですけどね。
 
ジェニー・フィールズも、ガープも、最後は暗殺される。ジェニー・フィールズは、女性の権利を主張するのを面白く思わない男に、ガープは、姉のことでガープを恨んでいた若い女に、射殺される。
 
これをどういうふうに受け止めればよいのか。戯画化してある方向が、よく分からないのだ。
 
小説の後半に、性転換をして男から女になった人物が、複数出てくる。これもたんに事実としてあったのか、架空の人物を意図して登場させたのか、よくわからない。
 
ジェニー・フィールズもガープも、著述で名を成す。

ジェニーは自伝を書き、それは空前のベストセラーになる。女性も主体性をもって、毅然として生きるべきだ、と主張するものだった。
 
ガープは4つの作品を書き、そのうちの2作は作品中に、部分掲載されている。これは面白いんだけど、作品全体の調和を壊している。

とくに下巻の『ベンセンヘイバーの世界』は、女が強姦されるところと、その男を殺すところがあまりに強烈すぎて、ガープとその世界を忘れてしまう。
 
最後の章、「ガープ亡きあと」の、妻、子供、友人のその後は面白いけれど、ここが面白くてもなあ。ガープは死んでるし、面白さの核心がぼやけている。
 
そういうわけで、全体としての読み味は悪いが、これは文体の問題かもしれない。かりに村上春樹のような、エピソードを連ねるタイプの作家の場合、これを村上春樹の文体ではない文体で書いたら、と考えれば、ようく分かるだろう。
 
通常ではありえない筋道が、文体のアクロバットにより、面白かったりするのかも。断片でいいから、『ガープの世界』を英語で読んでみたいと思う。

(『ガープの世界』(上・下)ジョン・アーヴィング、筒井正明・訳、
 新潮文庫、上・1988年10月5日初刷、2020年5月15日第26刷、
 下・1988年10月5日初刷、2007年7月15日第22刷)

「シット・ジョブ」だろうか――『私労働小説―負債の重力にあらがって―』(ブレイディみかこ)(4)

「第五話 店長はサクセスお化け」は、何があっても謝ろうとしない店長の話。

ブレイディみかこは20代のころ、英国の激安量販店で働いていた。衣類と雑貨のスーパーマーケットのような店だ。
 
その店長は、「申し訳ありません(sorry about that)」という言葉を、絶対に使わなかった。ネガティブな言葉は、店を暗くする。店が暗くなって、いいことは一つもない。

「『申し訳ありません、マダム。残念ながら、在庫切れです』
などと言ってしまったらゲーム・オーバーだ。そうではなく、水玉のパンツはただいま入手不可であることを述べ、客の関心をほかに向けるのだ。
『水玉のパンツに関しては、現在、ほんの短い間だけ入手不可になっておりますが、花柄のパンツの美しい色合いはご覧になりましたか?』」
 
こういう店長は、日本人には少ないかもしれないが、皆無というわけでもない気がする。
 
でもとにかく、ほかの店員も常にポジティブでなければならず、ブレイディみかこに限らず、一日の終わりはくたくたである。

「第六話 督促ガールの手記」は、「あたし」がダブリンから日本に戻ったときの話。
 
求人誌で面接を受け、ファイナンス会社の事務職を得た。ファイナンス会社とは信販会社、つまり貸金業者だ。
 
初めについた上司は、課長補佐の「奥山さん」で、30代後半のエリート銀行員みたいな人だった。少なくとも、借金の取り立てをする人には見えなかった。

「あたし」も初めはおっかなびっくりだが、徐々に貸金業に慣れてくる。

「奥山さん」は督促電話をかけているとき、人間はこうも豹変するのか、というくらい変わった。
 
初めは、「早急にお約束のご入金をしていただきたいと思いまして本日はお電話させていただいております」という調子だが、ある瞬間、声が低くなり、言葉遣いも変わる。

「……ああ、ああ。もういいよ。もうわかった。わかったから、裁判所で会おう。はあ? 何? 声が小さくて聞こえないんだが。は? ああ、……うん、じゃあなんで最初からそう言わないんだよ。で、今度こそ全額払ってもらえるの?」

「あたし」は隣の席で固まっていた。
 
しかし「奥山さん」は、取り立てにあの手この手を使うだけで、ヤクザではなかった。仕事は慣れたかと聞いてくる、紳士的な優しい上司だった。
 
最初の給料が出たとき、家族にそのことを言った。すると、

「『都合して』と頼み込まれたのは、ほとんどお給料がなくなるぐらいの金額だった。でも、あたしもランチとか食べなきゃいけないから、と言って少しだけ減額して貰ったが、実家に帰るとこういうことになるのを、あたしはすっかり忘れていた。」
 
そうか、ブレイディみかこが、日本を振り切って英国に行ったのは、こういうことだったのか。

「お金ができたらすぐに返すからと言われた。でも、回収は諦めるべきだとあたしは知っていた。この場合は任意で貸すわけでもないし、正義の返済もない。嫌と言えない理由があるから貸すのであり、返さなくてもいいという暗黙の了解もあるのだ。こういう特殊な取り決めが成り立つ関係を、家族と呼ぶのだろう。」
 
これははっきり言って、ロクな家族じゃない。よっぽどの急場を除いては、家族の間で金銭の貸し借りは止めるべきだし、まして親が子供に、返済不要の借金を申し込むなどということは、あってはならない。
 
ブレイディみかこが、日本を捨てた理由がわかるというものだ。

「電話をかける度に同じことを言って謝る債務者たちはあたしの親だった。『もう二度とこんなことはありませんので』と悪いことをした犯罪人みたいに誓うくせに、いつも返済の期限を守れないのは、十数年前も今も変わらないあたしの親だ。
 それが嫌で、借金や噓や平謝りや居留守やその全てが嫌で海外に逃げたはずだったのに、」
 
そういうことなんだ。
 
全体の6話のうち、「第一話 ママの呪縛」と「第六話 督促ガールの手記」は、日本の話である。そしてそれは、英国やアイルランドとは、はっきり違っている。
 
つまり、どこか暖かいのだ。日本では、底辺の仕事でも、どんなにつらくても、そこには気持ちの通じ合う人がいるのだ。
 
これが言葉の違いによるものなのか、それとも風土と人間によるものなのかは、僕には分からない。

(『私労働小説―負債の重力にあらがって―』
 ブレイディみかこ、KADOKAWA、2025年10月23日初刷)

「シット・ジョブ」だろうか――『私労働小説―負債の重力にあらがって―』(ブレイディみかこ)(3)

「ある見習い掃除人の手引書」は、アイルランドのダブリンで、「あたし」が掃除人として働いたときの話だ。
 
この短篇の題は、ルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』から取られている。そう思うと、思わずニヤリとする。
 
そのころ「あたし」は、自称「詩人」と付き合っていた。とは言っても風来坊の詩人なので、どこで暮らしているかわからない。ときどき無一文になって、至急小切手を送れ、という手紙が届くばかりだった。
 
そのころ、80年代のアイルランドは、驚くほど貧乏くさかった。

「日本から来たあたしには、『いつの時代なんだよ』と思えるような光景をたくさん見た。そもそも、ここに住むようになってまずびっくりしたのは、ストリートがゴミだらけで、うっかり何かを踏んだり、知らぬ間にぐじょっと濡れていたりして、歩いているだけで靴が汚れることだ。」
 
ダブリンでは、仕事をしている若者でも、トイレ・シャワー付きの部屋に住んでいる人は、「ブルジョワ」ということだった。

「六〇年代とか七〇年代とかのフォークソングの時代みたいだと思った。恋人が出てくるのを銭湯の前で待っている『神田川』みたいな歌が流行した時代の話ならわかるが、日本の若者に比べてずいぶんとアイルランドの若者は生活水準が低い気がした。」
 
シャワーも共同だからあまり使わないし、コインランドリー代を節約するために、あまり洗濯もしない。
 
夕食のサンドウィッチは、薄い食パンにマーガリンを塗って、ポテトチップスを挟んで食べたりしていた。こうすると腹持ちがいい、とのことだった。
 
まあ、ちょっとビックリですね。かの小説家がダブリンの街を彷徨したのは、腹にたまるものを探し求めていたのか、と思わず見当はずれのことを思いつく。
 
なにしろ八〇年代の最後の年になっても、アイルランドの若者たちは、電話を持たないのが普通だった。

「あたし」は、英国でも、日本に比べて遅れているな、と思ったことはあったが、アイルランドについては、「プリミティヴ(原始的)」という言葉が、ぴったりだと思った。
 
そんな中で、「掃除人」の仕事にありつけたのだ。
 
やっぱり階級差はひどくて、そこは豪壮な邸宅が建ち並ぶ地区だった。

「幅の広い石の階段を上って玄関に辿り着くと、真っ黒な大きなドアの両側に丸くカットされた小さな木の鉢が置かれていて、ドアの上にはアーチ形のガラス窓が埋め込まれていた。ガラスからホールのシャンデリアが透けて見える。」
 
そういうところだった。

「あたし」の雇い主は、この三階立て邸宅を持っているミセス・マクギネスで、この人も詩人だった。最初にこの人から、掃除をするにあたっての手引書をもらった。それは掃除の仕方が、ものすごく細かく書かれたものだった。
 
この辺は「注文の多い料理店」を、ちょっと思い起こさせて、シュールな感じがする。
 
実際に掃除を始めてみると、同居している姪の部屋で、使用済みのコンドームやコカインを見つけたりして、それでも「掃除人の手引書」には、それは元通りにしておけ、とあった。

「あたし」はそのうちに、こういうものはミセス・マクギネスが、わざと見つけるように置いたのだ、と気が付く。

「詩人は、人を言葉で弄び、弄ばれた人間の反応を観察している。そして、相手が思ったような反応を示さないと、深く、恨みがましく傷ついて、痛みに満ちた言葉なんかを紡いでまた詩を書きやがるのだ。」
 
で、ここも馘になる。
 
これは、主従関係でいえばシット・ジョブだが、不思議な経験をした掃除人の話、と言えば言えるもので、大変に面白い。
 
僕はそれよりも、ブレイディみかこが、日本よりも遅れていると、はっきり自覚される英国やアイルランドに、なぜ修猷館高校を出てすぐに留学、というよりも流れてきたのか、そこを知りたいと思った。
 
この本のタイトルは『私労働小説』というが、自伝ではないという。自伝であるためには、家族を振り切って英国に逃れた、その経緯を書かなくてはいけないのだろう。