思わず口ずさみたくなる――『ラストダンスは私にー岩谷時子物語ー』(3)

1964年の暮れ、岩谷時子は第6回日本レコード大賞で、「ウナ・セラ・デイ東京」と「夜明けのうた」の2作品で、女性として初めて作詞賞を受賞した。

「1965(昭和40)年と1966(昭和41)年は、歌謡曲だけでも年間50曲近く作詞している。その他にミュージカル、リサイタル、CM、テレビ番組……ほぼ毎日が締切りだった。」
 
こういう感覚は、当事者でなければわからない。出版の方では、昔は「流行作家」と呼ばれる人種がいて、座って書くと眠ってしまうので、立って書いたそうだが。
 
ちなみに岩谷は、どのくらい稼いでいたかというと、「今月も著作権協会からは印税215万円が振り込まれていたが、もう通帳に印字される金額にも驚かなくなっていた。」
 
僕の計算では、怪しいところで申し訳ないが、今ではざっと4倍強くらいだとして、毎月1千万円近い印税が、入ってくる計算になる。
 
これはもう日常を超え、リアルを超えた、通帳の上だけの数字ですね。
 
岩谷は第8回レコード大賞で、「君といつまでも」と「逢いたくて逢いたくて」で、2年ぶり2回目の作詞賞を受賞した。「逢いたくて逢いたくて」もいい曲だった。
 
1968年には、いずみたくとのコンビで、新人のピンキーとキラーズのために書いた「恋の季節」が大ヒットし、これは270万枚が売れた。
 
69年には、佐良直美が歌った「いいじゃないの幸せならば」(作曲・いずみたく)が、第11回レコード大賞を受賞した。
 
これは「スキャンダルを執拗に追い回す昨今のマスコミに対して、時子自身の口から思わずこぼれたひとことだった」、というのが可笑しい。
 
そういえば佐良直美のデビュー曲、「世界は二人のために」も、いずみたくと岩谷時子のコンビではなかったか。僕はこの歌が、あっけらかんとしていて、好きだった。
 
著者は、坂東玉三郎と岩谷時子との、仕事を通じた友情にも、よく筆が届いている。

玉三郎のアルバムのタイトルは「春の鏡」、これは楽曲ではない。1973年、玉三郎23歳の誕生日に発売された、岩谷時子との共作で、14篇の詩を収める。
 
この仕事で、34歳の年の差を越えて、稀有な友情が育まれ、そして長く続いた。どちらも、溢れるばかりの才能があり、その場合に年の差は、まったく問題ではなかった。
 
もちろん、越路吹雪との、曲折を経た友情物語が、この本の柱であり、それは実に読みごたえがあるものだ。

しかしそれを脇に置いといても、こんなに話題がある。そういうことを言いたかったのだ。
 
岩谷時子は90歳を超えるまで、現役の作詞家として活躍した。これも驚くべきことだ。そして2013年、97歳で亡くなった。
 
最後に編集部に文句を言いたい。これは編集者が、まったく仕事をしていない。例えば254ページから次のページにかけて。改行の1字下げが、1.5倍下げになっている。あるいは234ページ、改行が天ツキになっている。組み体裁は、最初に編集者が気をつけるべき、初歩の初歩ではないか。
 
また、トワ・エ・モアが歌って大ヒットした「誰もいない海」が、「現代詩人の山口洋子の作詞で」、というところ。山口洋子は銀座の「姫」のマダムで、直木賞の受賞者である。「現代詩人」とは、縁もゆかりもない。
 
また三島由紀夫が、越路吹雪の推薦文を書いていて、「そこに彼女のセックな持味があり」というところ。「セック」は「シック」かどうか、よくわからない。あるいは「セックスの持味が」、かもしれない。

だいたい三島のこの文章は、全体としてよくない、と見当はずれの文句まで付けたくなるほど、ひどい。
 
装幀もひどいものだ。女二人がなにものであるのかが、全く分からない。もちろん一人は越路吹雪だが、それはどこにも書いていない。
 
帯の表と裏も、そっくりそのまま入れ替えなければダメだ。表には岩谷時子がどういう人かが、まったく書いてないのだ。
 
こういう力作を村岡恵理が書いても、何にもならない、実に虚しい。光文社の校閲は、たぶん崩壊している。装幀部(あるいは制作部)も機能していない。
 
光文社のような大手が、単行本を作れなくなっているということが、今の出版界の惨状を、如実にあらわしている。

(『ラストダンスは私にー岩谷時子物語ー』村岡恵理、光文社、2019年7月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:13Comment(0)日記

思わず口ずさみたくなる――『ラストダンスは私にー岩谷時子物語ー』(2)

岩谷時子は越路吹雪のマネージャーを、越路が死去するときまで続けた、それも報酬抜きで。それは友情の証しだった。
 
あるとき岩谷は、森山加代子のデビュー曲、「月影のナポリ」の訳詞を依頼された。

歌手のデビュー曲は緊張するが、傑作なのは、この歌はレコード会社の方針として、森山加代子とザ・ピーナッツの競作が、決まっていたことである。
 
つまり岩谷は、同じ曲に別の言葉で歌詞を書き、森山加代子盤とザ・ピーナッツ盤の、二つを競わせたのだ。それは相乗効果を狙う試みだった。
 
今でもこんなことをするんだろうか。ちなみにザ・ピーナッツ盤の作詞は、千家春というペンネームを使った。
 
レコードの売り上げは、50万枚を売った森山加代子に軍配が上がったが、ザ・ピーナッツもよく健闘し、岩谷時子は大いに株を挙げたという。
 
岩谷時子はフリーになると同時に、「ニッセイ名作劇場」という、子ども向けミュージカルを、作詞の面から協力していくことになる。日生劇場の責任者は浅利慶太、岩谷は浅利と契約を交わした。

「ニッセイ名作劇場」の第1回公演は1964年5月、アンデルセンの『裸の王様』だった。脚本・寺山修司、作曲・いずみたく、そして作詞は岩谷時子である。
 
僕はこれを、学校から観に行っている。東京の小学校にいた4年間の、最後の6年生のとき、学年で観ている。
 
どうしてはっきり覚えているかというと、まずミュージカルというものを見たのがはじめてで、そして全く面白くなかったのである。そういうことを、学校に帰って、作文に書いた覚えがある。
 
何回かミュージカルを見ていなければ、劇場で自然に入っていくことは難しい。そう思いませんか。

僕がミュージカルに開眼するのは、リバイバル上映された『サウンド・オブ・ミュージック』まで、待たなければならなかった。
 
それはともかく、脚本・寺山修司、作曲・いずみたく、作詞・岩谷時子、うーん、すごい面子である。
 
以後は年配の人なら、歌を通して、自分のことも思い出さざるを得ないだろう。ザ・ピーナッツ「ふりむかないで」「恋のバカンス」「ウナ・セラ・デイ東京」、岸洋子「夜明けのうた」……。

そして弾厚作、すなわち加山雄三とのコンビ、「君といつまでも」「お嫁においで」等々。「君といつまでも」は、350万枚を突破した。

子どものころの記憶では、あるとき、テレビのベストテンのうち7曲が、作曲・弾厚作、作詞・岩谷時子だった記憶がある。
posted by 中嶋 廣 at 09:14Comment(0)日記

思わず口ずさみたくなる――『ラストダンスは私にー岩谷時子物語ー』(1)

岩谷時子は、初め宝塚歌劇団の出版部に入り、その後、越路吹雪のマネージャーを続け、一方、作詞家として一世を風靡した。
 
僕は、この人をよく知らなかった。一昨年、テレビ朝日の昼オビで、『越路吹雪物語』を放映し、そのとき越路吹雪のマネージャーとしての、彼女を知ったのだ。
 
ちなみにそのときは、木南晴夏が岩谷時子を演じたのだが、いま本書の口絵に載っている写真を見ると、二人はよく似ている、そっくりである。
 
僕は、岩谷時子に急速に惹かれていくと同時に、木南晴夏のファンにもなってしまった。
 
村岡恵理のこの本は、力作である。読んでいるときは、なぜこんなに、岩谷時子の内面に入って行けるのだろう、と不思議だったが、「あとがき」を読んで、克明に付けられた日記があることがわかった。
 
もちろん日記をどう踏み台にしたかは、難しいところがあるのだが、そういうことも含めて、とにかく読み物として抜群に面白かった。
 
岩谷時子は、遠縁に詩人の千家元麿がいる。もちろん、だから作詞家として大成した、とは言えないけれど。
 
また従兄には、「日本を代表する人文地理学の学者」、飯塚浩二がいて、岩谷は飯塚がフランスへ留学するとき、神戸港まで見送りに行っている。
 
岩谷時子は、そういう家系の人である。
 
越路吹雪が、宝塚から外に向かって、飛翔するのに従って、岩谷も、マネージャーとして、活躍の場を広げていった。
 
作詞はほんの偶然だった。最初はシャンソンの訳詞だった。プロに頼めば金がかかる。越路吹雪から、あなた、やってよ、と言われたのだ。

岩谷時子は、これにハマった。

黛敏郎のピアノを伴奏に、エディット・ピアフの『愛の讃歌』の訳詞を付けていくところは、とりわけいい。

「脳裡にはステージの中央、スポットライトの中の越路の姿が浮かんだ。マイクをゆったりと口元に運ぶ。
『あ…なた…の燃える手で……』
 前奏に身を委ねていると、ふっと、突然何かが降りて来たように、無意識のうちに時子の口元から言葉がこぼれ始めた。
『わたし…を抱きしめて……ただふ…たりだけで…生きていたいの』
『そのまま続けて』
 ピアノの音色に押し出されるように言葉が続いた。」
 
この歌は、カラオケで何度も歌った。もう店には行けないけれど、それでも思わず口ずさみたくなる。
posted by 中嶋 廣 at 12:25Comment(0)日記

ひたすら朗読――『身体巡礼ードイツ・オーストリア・チェコ編ー』

このところ脳出血のリハビリ用に、『夫・車谷長吉』(高橋順子)、『街と山のあいだ』(若菜晃子)、養老孟司の書いたものを、繰返し朗読している。それぞれ、人と、自然と、何だか解らぬものに対する感覚を、再建するためのものである。
 
養老さんの書いたものは、僕が昔、編集した、『カミとヒトの解剖学』や『日本人の身体観の歴史』、それに『脳が読む 本の解剖学Ⅰ』『本が虫 本の解剖学Ⅱ』を、繰返し読む。
 
ほかに新潮社の『考える人』に連載され、後に単行本にまとめられた、『身体巡礼ードイツ・オーストリア・チェコ編ー』『骸骨考ーイタリア・ポルトガル・フランスを歩くー』などを読む。
 
今回、『身体巡礼』の3回目か4回目を読み直していて、気づいたところがある。
 
養老さんは旅行をして大勢の人に会うが、そうやって出会った人が、家族の問題で悩んでいたりする。
 
特に子どものことは、深刻な悩みになっている。

「子どもには怖いところがあって、親自身の考え方に問題があると、それが子どもという形で現実化する。当たり前だが、親子は自他という関係の根源である。」
 
そういう親子関係に悩んでいる人が、大勢いるという。
 
これは本当に怖い。子どもが小さいうちは、無我夢中で、あるいは、ときにぼんやりしたまま育てているが、実際のところ、絵にかいたようなとは言わないまでも、一応良好な関係を保っている親子は、どのくらいいるのだろうか。
 
僕のところでも、僕は一応、関係は良好と思っているが、子どもたちの方にしてみれば、成人したのちは、そんなことをゆっくり話すこともないから、心の奥までは分からない。
 
つい先日、官僚のトップ、元次官が息子を殺して自首し、裁判の判決は、6年か7年の実刑であった。
 
こういう事例には、本当に言葉がない。
 
息子を殺す父親と、殺される息子は、そこに至る道筋で、第三者の介入を許さないものが、あったのだろう。
 
子どもが生まれたとき、あるいは子どもが小さかったときには、思い出せば、笑っていたこともあったはずだ。
 
でも結局は、この夫婦に子どもさえいなければ、普通の暮らしができただろうに。
 
考えてみると、子どもがいるために不幸な顚末をたどる夫婦は、どのくらいいるのだろう。
 
もちろん、夫婦だけではなく、子どもも一緒に、不幸の道連れになる、そういう家庭は、案外多いような気がする。本当は半ばの家庭がそうだったりして。
 
人の家庭はもちろんわからない。人の家庭ではなく、自分の家庭にしてからが、実はよく分からなかったりする。
 
今回ほかに、養老さんが挙げている本で、内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』は、ぜひ読んでみたいと思った。
 
内田樹は昔、何かの拍子で、素通りすることになったのだった。それはもう、脳出血以前の「前世」だから、なぜ嫌うことになったかは忘れた。

そういう意味では、江藤淳は脳梗塞以後の自分は、自分にあらずと言って自殺したが、僕の場合は、ときに脳溢血にも意味がある。

(『身体巡礼ードイツ・オーストリア・チェコ編ー』
 養老孟司、新潮社、2014年5月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 11:06Comment(0)日記

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(9)

平成10年、慶子夫人に末期癌が見つかる。亡くなったのは、11月7日だった。
 
江藤と慶子夫人には、学生時代以来、さまざまな深い物語があるが、そしてそれは、この評伝の柱の一つを織りなすものだが、ここでは全部省略する。
 
その少し前と推測されるが、江藤と親しく付き合っていた、「タマキ」という女性が、やはり乳がんで亡くなった。

「タマキ」は銀座のバーを何軒か経て、田町にスナックを出したが、その開業資金のかなりの部分を、江藤が出した。

しかし「タマキ」は、若い男を作って、江藤を裏切る。でも江藤は別れない。
 
そういう女が、女房が死ぬ年に、あわせて死んだのだ。江藤の気持ちは、正確にはわからないが、しかしとにかく、惨憺たるものだったろう。
 
本の大詰めに来て、著者はここまでさらけ出すのだ。私は、その潔さに敬服する。

「江藤は遺書を四通書いている。三通は『江頭淳夫』と署名され、一通は『江藤淳』であった。
『 心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去
 る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江
 藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断
 ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせ
 られよ。
  平成十一年七月二十一日
                江藤 淳 」
 
江藤淳の自殺を巡っては、慶子夫人の死と絡めて、いろんなことが言われたが、著者は、そこには言及しない。
 
ただ、こんなことを書いている。

「江藤が死を口走ったり、滂沱の涙を流すのは珍しくなくなっていた。それでも江藤はすぐに平静な姿を取り戻していた。」
 
ここでもう一度、題名の『江藤淳は甦える』に戻る。
 
私の結論を言えば、江藤淳は甦えらないと思う。
 
しかし、この評伝には感動した、ひどく感銘を受けた。

江藤淳は、時代にがんじがらめになっていたので、そういうところばかり文句を付けたが、しかしそれは、著者の平山周吉が、そこまで包み隠さずに書いたから、そういうことになったのだ。

その意味で、この評伝は白眉である。まごうかたなき傑作である。
 
編集者は一般的に、著者を自由に選べる。それは大原則である。しかし、いったん出版社に入れば、そこからは、出版社にもよるけれども、かなり制約がある場合もある。
 
編集者が著者と会うのは、まず最初は偶然に近い。そこを努力して、必然に変えていくのが、編集者の日々の営みの、敢えて言えば極意である。
 
著者の平山周吉は、その努力をする前に、著者によって、突然、綱を切られた。

江藤淳が生きていれば、編集者と著者の絆は、必然の太い撚糸に変わったかもしれない。しかしそれは、かなわぬことになった。
 
そこで、自死の当日に会った編集者は、1500枚を超える評伝を書いたのである。

(『江藤淳は甦える』平山周吉、新潮社、2019年4月25日初刷、9月10日第3刷)
posted by 中嶋 廣 at 15:16Comment(0)日記

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(8)

それは終戦の翌年の春に、昭和天皇が側近たちに語った、著者が言うところの、「肉声の昭和史」である。
 
江藤淳は、これにショックを受けたらしく、『昭和の宰相たち』は、中途で放擲された。

「江藤はそれまで御製、詔書、詔勅などから自らの確固とした昭和天皇像を作ってきていた。それを上回る量の肉声が『昭和天皇独白録』には溢れていた。読めば読むほど、その肉声と江藤の昭和天皇像は乖離していかざるを得ない。」
 
その結果の、『昭和の宰相たち』の中断であるという。
 
しかしそもそも、「御製、詔書、詔勅など」は、どう考えても肉声ではない。それを、肉声に準じるもの、と考える江藤の方こそ、どうかしている。
 
さらに付け加えるなら、「文藝春秋」の「自称スクープ」も、何をどこまで信用するかは難しい。どこを取るか、なにを落とすかという、編集の都合ということもある。

天皇の言葉や、一国の首相の言葉は、みな完全に合作なのである。
 
その意味では、天皇直筆の日録や、首相の日記なども、一次資料として扱う場合は、かなり慎重な校合が必要である。
 
政治の言葉と、文学の言葉は、その意味では正反対なのだ。
 
江藤淳が、その程度のことも知らなかったとは、考えにくい。しかしそれでも、江藤には、政治と文学の言葉を切り分けるときに、混乱が見られるのだ。
 
平成4年4月号の「海燕」では、古井由吉と「病気について」対談をしている。
 
江藤の病名は化膿性脊椎炎で、2ヶ月余り慶應病院に入院した。古井由吉は、椎間板ヘルニアから生還したばかりだった。
 
対談は、こんなふうに行われた。

「『病気だろうが、いやなことだろうが、それに直面することに、生き甲斐を見出すというのが、われわれの生業の基礎じゃないかと思い暮ら』すのが文学者だと江藤は語っている。」
 
ここまで語っておきながら、のちの自殺の瞬間に、このときのことを、思い起こさなかったろうか。
 
昭和59年には朝日新聞が、江藤の文章の一段を、前後して組み違えた。江藤は傷ついたろうが、これは起こらぬことではない。
 
しかし、平成元年12月号の「文藝春秋」では、そうはいかなかった。

「『代役時代の主役たち』で、原稿用紙二枚分(八百字)が丸々飛ばされてしまったのだ。これはさすがにお手軽な『訂正とお詫び』ではすまされずに、大ごとになった。朝日新聞十一月十五日の第十九面(ラジオ欄)の下に全五段の大きなお詫び広告が掲載された。」
 
すでに江藤淳といえば大家であり、大ごとになっている図は想像がつく。

「掲載原稿がおかしい、とすぐに気づいたのは慶子夫人だった。編集部員も校正者も、さらに文藝春秋社内にたくさんいる江藤の新旧の担当者たちも誰一人気づかなかったのだった。『第一読者』は慶子だけなのか。江藤はそのことにさらに『深く傷ついていた』と思える。自分の原稿はきちんと読まれているのか。」
 
晩年、このようなことが重なると、人生は暗い方へ、どうしようもなく傾いてゆくものだ。
 
ただ、この原稿が脱落した件については、大きな疑問がある。江藤淳は、組み上がった原稿を、一度も読まなかったのだろうか。
 
そういうふうにしか読めないが、しかし著者校を、一度もしないのはおかしい。「文藝春秋」は、そこまでお粗末な雑誌ではあるまい。

一度でも読んでいれば、江藤自身が、読み飛ばしていたことになり、これはこれでどうしようもない。
 
いずれにしても、ここには書かれていない、謎に似たものがあったようだ。
posted by 中嶋 廣 at 16:07Comment(0)日記

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(7)

それでは江藤淳は、大学で教授としてのし上がり、戦後の保守政治にも色気を見せるだけの、その程度のものだったのだろうか。
 
私はそうは思わない。それはやっぱり、文芸批評があるからだ。

「江藤の久々の現役文芸評論家復帰作といえる『自由と禁忌』は丸谷才一、小島信夫、大場みな子、吉行淳之介、安岡章太郎といった第一線の作家の話題作を厳しく断罪しながら、中上〔健次〕の『千年の愉楽』だけを激賞した本である。」
 
これは、出たときはずいぶん話題になった。吉行が糞みそにやっつけられている、というのを聞いて、私は絶対に読むものか、と思ったが、今になってみれば、批評家がノーガードで撃ち合う図は、懐かしいものがある。

「昭和五十八年度の谷崎潤一郎賞の選評を手がかりに、江藤は文壇の『人事担当常務』吉行の選考会での采配と、吉行の判断に『正しい』と大きな掛け声を掛けた丸谷をこき下ろした。この時は古井由吉の『槿』と中上の『地の果て 至上の時』が争い、古井が受賞した。選考過程での吉行の『政治的な貫禄』と丸谷の『政治的「正しさ」の論理』を江藤は告発した。」
 
いや、これは面白い。出版という世界、特に文壇という、極度に狭く、かつ神経質な世界を、外から見ている分には、実に面白いものだ。
 
それに文学賞というのは、ぶっちゃけて言えば、正解のない、どうとでも判断を下せるものではないか。
 
江藤淳はそれでも、それに嚙みついたのだ。

「文壇がかつての相互に自由な独立性をとうに失い、出版社や新聞社によって組織・編成された一個の管理社会と化しつつある。」
 
なかなか立派な意見である。しかし、出版社や新聞社によらない自由な文壇が、かつてあったであろうか、ということも考慮に入れた方がよい。
 
私はどちらかといえば、「選考過程での吉行の『政治的な貫禄』」を、面白がるタイプの人間だ。これはこれで、なかなか味があると思ってしまう。
 
ただ、『槿』と『地の果て 至上の時』とでは、断然、『地の果て 至上の時』が受賞すべきだとは思うけど(『槿』は途中で投げ出した。実際、どれほどの人が終わりまで、興味をもって読んだのだろう)。
 
平成2年12月号の「文藝春秋」に、「昭和天皇独白録」という、「スクープ」を自称する記事が載った。
 
これを巡って、信じられないことが、江藤淳に起こった。「信じられない」とは、私がそういうふうに思える、ということだ。
posted by 中嶋 廣 at 08:42Comment(0)日記

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(6)

江藤淳が博士号を取得した『漱石とアーサー王傳説』については、夥しい誤記や、引用文を意図的に改竄したことも述べられており、著者はここでも、容赦がない。
 
なぜ江藤は、博士論文の執筆、提出、出版を、急ぐ必要があったのか。

「江藤にとって、博士号は東工大での発言力を強めるための、いわばパスポートだったのではないか。二十年間の東工大時代に、江藤は文系教授がつけるポストとしては一番上の評議員となって、大学行政に励んだ。」
 
うーん、江藤淳というのは、実に詰まらぬ男ではないか。
 
もちろん人間は多面的であり、相矛盾する性質も、当然持っている。だから、詰まらぬところもあれば、そうではないところもある。

しかし、それにしては、江藤淳の性格、人格は、特に激しく矛盾することもなく、外見を気にするだけの、ガッカリするほど卑小な人間ではないか。
 
江藤は自民党政治の中枢にも、深く食い込んでいた。

「江藤は福田内閣時代、政府の仕事をずいぶん手伝っている。自筆年譜の昭和五十二年の項には、七月に東南アジア五ヶ国に出張し、『各国との文化交流促進の可能性を探るのを使命とす』とある。翌五十三年の項には、『日中平和友好条約批准書交換に先立ち、安倍晋太郎内閣官房長官の要請にて北京に出張、鄧小平副総理その他の要人と会談』とある。福田事務所には、この時の『報告書』のコピーが残っていた。」
 
その報告書では、鄧小平と江藤淳が、一対一のサシで話しており、これはこれで政治的に興味深い。ここでは江藤は、一国を背負うかのごときである。
 
江藤は『海は甦える』の、伊藤博文と李鴻章の、下関講和条約のやりとりを描いていたに違いない、と著者は言う。
 
それはいいが、そこに記された、著者の記述はどうなんだろう。

「『報告書』は『江藤淳全集』刊行の折りには是非とも別巻に収録されるべき『作品』である。」
 
私はむしろ、こういうことをしているから、『江藤淳全集』は、すでに古臭くなり、年を追うごとに、その可能性はなくなりつつあると思うのだ。

「この時の江藤と鄧小平が並んで歩く写真も残っている。……この時に限らず、一九七〇年代の江藤の写真を見ると、その前、その後とは違って、悪相に写っている。文士の顔というより、『政治的人間』の顔なのか。それとも中年太りで、顔面にお肉がつき過ぎたためだけなのか。」
 
著者も、非常によくわかっているではないか。

文士の顔、というよりも、著述をする顔がどういう顔なのか、私などよりもはるかに、よくお分かりのはずではないか。
posted by 中嶋 廣 at 10:42Comment(0)日記

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(5)

ほかに印象に残るところを引いておく。
 
1963年7月、江藤淳はアメリカ留学をいったん切り上げ、日本に戻ってきた。

プリンストン大学で、日本文学の客員助教授に就任していたので、慶子夫人は、アメリカに残したままである。このとき江藤は30歳。
 
3週間の滞在で、慶子夫人に5通の手紙を出している。これがなかなか面白い。

「とにかく、東京は働きさえすればアブク銭はとれるところだし、帰ったあとも慶応に先生の口がありそうで、朝日も講談社、新潮社もみな特別に親切だから、少々頭金が減っても心配はあるまい。那須の土地は現在一万からしていて、来年夏には一万四、五千円にはなるだろうとのこと。これは君のおかげで本当にいい買物をしておいたと思う。」(第四信)
 
ここでは、那須に土地を買ったら、と言った慶子夫人に、素直に感謝している。プリンストンの日本文学の少壮助教授としては、そんなところに手が回るわけがない。賢夫人の支えがよくわかる。
 
最後の5通目は、江藤の、妻を思う愛情にあふれている。

「『週刊新潮』のグラビアにとった写真の残り(といってもいっぱいあるが)のうちいいものを伸してもらい、そのトン〔慶子夫人のこと〕の顔を毎晩見ている。そうすると朝から晩まで人に逢いづめに逢い、その合間に本のリストを集めに出、雑用を片づけ、という暑い湿気の多い東京の疲れがすうっととけて来る。それからベッドにはいり、トンのことを思い、トンのオッパイやあそこを思い出しながら、毎晩(でもないけれど)自分でする。トンしかパウ〔江藤淳のこと〕には愛している女はいないよ。トンのいない東京なんか、やかましいばかりで何の未練もありはしない。」
 
なかなかストレートである。二人の秘め事が、よもや晒されるとは思ってもいない。毎晩ではないが自瀆をするというあたり、江藤も30歳と若いのだ。
 
そしてこういうところは、著者が編集者として書き起こしたものではない。とにかく全部をさらけ出そうとしている。
 
そういう書きぶりは、たとえば車谷長吉のところにも覗える。

「さらなる例外は、昭和三十九年に慶大文学部に入った車谷長吉だろう。入学直後に江藤の『西洋の影』を読んで感嘆し、次々と江藤を貪り読んだ。江藤が非常勤講師で教える講義で、車谷は自分の文学観をつくった。『私が慶応義塾に学んだのは、たまたまこの講義を聞くことが出来たことによってのみ、至福であったと言うても過言ではない』(「殉愛」「文學界」平11・9)。車谷にとっての江藤は、江藤にとっての井筒俊彦という存在だったのだ。車谷のケースは、慶応というローカル色を感じさせる。」
 
車谷が江藤淳に私淑したのは、何かの間違いだと思われる。「文藝賞」に田中康夫を強力に押す江藤淳を、車谷長吉はどんな思いで見ていたろうか。
 
しかし問題は、そんなところにあるのではない。最後の一文、「車谷のケースは、慶応というローカル色を感じさせる」である。
 
これは単に、事実の一環として書いたものだとしても、読みようによっては、江藤を、きつい言い方をすれば、貶めてはいないか。ここにも、編集者を飛び越えた、著者の自己主張が出ている。
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篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(4)

大学生で『夏目漱石』を書き上げた江藤淳に対して、出版記念会が開催された。このとき集まった面子が興味深い。

「『夏目漱石』のささやかな出版記念会が行なわれた時、『三田文学』に書いていた東大英文科出身の秀才たちも顔を出した。丸谷才一、篠田一士などである。丸谷は『三田の西洋かぶれも、ここまで来れば本物というほかありません』とスピーチしたが、江藤がこの時に攻撃を仕掛けていたのは、丸谷や篠田の御本尊である『世界文学』であった。江藤の『フォニー』批判はこの二十年後のことだ。」
 
ここだけ読むと、訳が分からないかもしれないが、ここでは丸谷才一や篠田一士と早くも交流があること、そして行く行くは、文学を巡って深刻な対立を生む土壌が、こんなにも早く醸成されていた、ということが分かればよい。
 
また、これも学生のとき、「三田文学」に「現代小説の問題」を載せている。これは江藤の、散文に対する興味という点で、見逃せない。

「明治以降の作家で、『真に散文的な文体を持っていた作家』は漱石であり、志賀直哉は散文詩に近く、三島や芥川は美術工芸品に堕落している。小林秀雄の批評は『一種の詩語』であって、『通常の生活人には理解しがたい』。翌年に書かれた『近代散文の形成と挫折』での、福沢諭吉の『本質的に口語的な散文』への最大限の評価を合わせると、江藤の散文観が集約される。」
 
大学を出るか出ないかの頃だから、江藤の「散文観」がどういうふうに変化するかは、わからないけれど、しかしここだけ見れば、実に健康的である。

健康的で、あまりに通俗的でもあるが、しかし漱石の散文をもって、比べるものが無いとしたのは、それはその通りで、江藤淳の出発点は的を射ていた、実に堂々としていた。
 
江藤淳は大学院一年生のとき、同じ慶応で仏文科の、三浦慶子と結婚し、またこのとき、「文學界」に『生きている廃墟の影』を書き、文芸誌デビューを果たしている。
 
デビュー作に、いきなり60枚を書かせるのも、期待の大きさが分かるが、このとき、同じ誌面を飾っている作家たちを見れば、年代が上の読者には、込み上げてくるものがあると思う。

「六月号の目次には遠藤周作『海と毒薬』、菊村到『硫黄島』(芥川賞を受賞する)、曽野綾子『婚約式』といった小説、有吉佐和子、石原慎太郎、小田実、小林勝、富島健夫という五人の昭和生れ作家の座談会『「新人」の抵抗』と並んで、江藤淳も大きく出ている。」
 
こういう時代と今とでは、同じ文芸誌であっても、まったく別物の感じがする。
 
江藤淳はその後、西脇順三郎との確執もあって、慶応の教授になることは諦めて、ジャーナリズムの世界に打って出る。
 
それは華々しい活躍で、20代で、ほとんど大家として迎えられている。

その後、埴谷雄高から小林秀雄、あるいは三島由紀夫らと付き合い、その舞台は大きなものになっていくが、それをもって『江藤淳は甦える』か、と問われたら、それはその時代のこと、今となっては歴史の一場面に過ぎない、というだけである。
posted by 中嶋 廣 at 14:34Comment(0)日記