節子は単に、ハーンの理想の執筆場所を作ろうとしただけではない。「怪談の書物は私の宝です」というハーンに応えるべく、古本屋を探し回ったのである。
そして節子はいよいよ、怪談を朗読し演じる。「思い出の記」の中でも、一つのクライマックスである。
「淋しそうな夜、ランプの心を下げて怪談を致しました。ヘルンは私に物を聞くにも、その時には殊に声を低くして息を殺して恐ろしそうにして、私の話を聞いているのです。その聞いている風がまた如何にも恐ろしくてならぬ様子ですから、自然と私の話にも力がこもるのです。その頃は私の家は化物屋敷のようでした。」
節子は、本を見ながらではだめだ、とハーンに言われたという。
「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません」
節子は自分のものとして怪談を語りながら、ときどき恐ろしい夢を見て、うなされたという。
そして「耳無し芳一」に出会う。
「『怪談』の初めにある芳一の話は大層ヘルンの気に入った話でございます。なかなか苦心致しまして、もとは短い物であったのをあんなに致しました。『門を開け』と武士が呼ぶところでも『門を開け』では強味がないというので、いろいろ考えて『開門』と致しました。」
文章を一緒に考えているのだ。節子は十分、編集者の役割を果たしている。
ハーンは、量産する作家の資質のあった人だが、それでも節子が編集者としてついていなければ、今あるかたちでは、著作は残らなかっただろう。
それを思えば、明治初期の稀有な国際結婚という意味でも、ハーンと節子の出会いは、奇跡である。
「耳無し芳一」の話は続く。
「この時分私は外出したおみやげに、盲法師の琵琶を弾じている博多人形を買って帰りまして、そっと知らぬ顔で、机の上に置きますと、ヘルンはそれを見るとすぐ『やあ、芳一』と言って、待っている人にでも遇ったという風で大喜びでございました。それから書斎の竹藪で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと『あれ、平家が亡びていきます』とか、風の音を聞いて『壇の浦の波の音です』と真面目に耳をすましていました。」
いくつかの怪談は、たんに書きとめるのではなく、その話を再現して、生きてみたのだ。
いろんな日常の些事が書いてあるが、その中に俳句を嗜んだ、とある。
「発句を好みまして、これも沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと冗談言いながら私に聞かせました。どなたが送って下さいましたか『ホトトギス』を毎号いただいておりました。」
ラフカディオ・ハーンが没するのは1904年、夏目漱石が『ホトトギス』に『猫』を発表するのは1905年である。ハーンがもう少し生きていれば、2人の交わりが生まれたろう、と想像するのは楽しい。
2人とも、東京帝国大学を歯牙にも掛けないところは、よく似ている。懐ろ手して、小さくなって生きていたい、と述べるところも同じなのである。
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