「日本人の微笑」は、昔はよく言われた。外国人に向かって、どう言っていいのか分からないから、日本人はただ曖昧に笑っているだけ、というものだ。
ハーンのこの文章が書かれたのが1890年。おそらく20世紀後半までは、この風習は残っていたと思う。
20世紀後半になって、東京オリンピックや大阪万博が開催され、徐々に外国人が増えて、21世紀に入ってからは、「日本人の微笑」ということは、言われなくなったのではないか。
今年、2026年の「成人の日」に、新宿区で祝う新成人の内訳は、日本人対外国人がほぼ1:1であった。こういうことを、20世紀のうちに誰が予想しただろう。もはや、言葉がないから微笑を浮かべているだけ、というのでは、まったく済まないところに来てしまった。
しかしこの文章が書かれたころは、「日本人の微笑」は大問題であったのだ。
「日本人は、深刻さに欠けている分だけ、より幸せなのであり、多分現在でも、文明化された世界では最も幸せな国民であると思う。」
うーむ、そうかあ。そういう時代もあったのだなあ、と思う以外にどうしようもない。
「日本人が言うところの『怖い顔』をした外国人たちは、強い侮蔑の口調をもって『日本人の微笑』語る。彼らは『日本人の微笑』が、噓をついている証拠ではないかと怪しんでいるのである。〔中略〕そうして、ほんの少数の鋭い洞察力をもつ人だけが、これは研究に価する謎だと気づくのである。」
とは言っても、これを研究するのは難しい。
「実際のところ、外国人の雇い主と日本人の使用人との間に生ずる軋轢の多くは、この微笑に原因がある。使用人はすべからく厳粛たるべし、を旨とする、英国の伝統を重んじる者ならば誰しも、日本人のボーイが微笑するのを我慢できないであろう。」
ここを読めば、日本人なら誰しも苦笑するだろう。日本人のボーイは、微笑して用事を言いつかる以外に、どんな表情をすればいいのか。
そうしてハーンは個別の事例を研究し、結論らしきものを得る。
「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。」
しかしこれは両刃の刃なのだ。
「こうした倫理体系は、昔ながらの、儒教の保守主義によって、厳格なものになっており、極端に堅苦しいものの考え方と、個性を犠牲にすることによって、保たれてきたことは事実である。」
その結果、個人の独創性を伸ばしたりはせず、個人の意見や想像力を抑え、当たり障りのない「中庸」にとどまる、という傾向が強い。
「〔しかし〕そうした知的な損失というのも、実際には、日本の社会的な魅力によって、十分に埋め合わせされているからだ。日本人をすこしでも理解した人であれば、それでもやはり、日本人は世界で一番、一緒に暮しやすい国民だという思いが、胸に長く残っているのである。」
ラフカディオ・ハーンは、日本人の最良の友だちだった、という以外に言葉はない。
最後の「さようなら」は、松江を去るときのことを書いたものだ。このときの、生徒とハーン先生との交流は、涙なしには読めない。
その中に「親愛なる生徒諸君へ」という文章があり、こういうところが注目される。
「……天皇や国のために、自らの血を犠牲にすることが求められるかもしれません。しかし、大多数の諸君は、それとは別の道へと進む運命を荷わされており、よほどの国家的危機にでも瀕しない限り、自らの命を犠牲にするようなことはないでしょう。日本では、そんなときはまず来ないだろう、と信じています。」
ハーンの期待を、その後の日本は、裏切ったのである。
ここまで全体を読んだ感想を言えば、ラフカディオ・ハーンは人生をかけて格闘するにふさわしい思想家、文人であり、そのころの日本の情実、思想状況が、どうであったかは、ハーンを通じて見ると、実に興味深いものがある。
(『新編 日本の面影』ラフカディオ・ハーン、池田雅之・訳、
角川文庫、2000年9月25日初刷、2025年11月25日第55刷)
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