「英語教師の日記から」は、松江の尋常中学校と師範学校で教えた話。
ハーンはそこで英語教師「西田千太郎」と会い、さらにはハーンが採用契約を結んだ県知事、「籠手田安定[こてだやすさだ]」と面会する。
このあたりは「ばけばけ」にも詳しく描かれる。特に「西田千太郎」は、ハーンと生徒の英語の橋渡しをするだけでなく、「時間割や教科書について必要なことをすべて教えてくれ、私の机に必要なものを全部取り揃えてくれた」。
また知事とは、日本の古い宗教と習俗、特に神道と出雲の伝統に、関心を持っていることを話すと、知事は「それでは杵築の出雲大社や八重垣神社、熊野大社などの有名な神社に参詣されてはどうか」と申し出た。知事は英語を話さないので、通訳は西田が担った。
ハーンが出雲大社や八重垣神社などを巡るのは、このときの知事との対話が遠因だった。このときも西田が通訳を務めた。
実際に英語を教えるについてはどうか。
「私は今、中学校で三時間の授業をしてきたところだ。日本の男の子に教えるのは、予想していたよりもずっと面白い仕事であることがわかった。どのクラスも、西田が前もって十分に準備しておいてくれたので、私が日本語をまったく知らないにもかかわらず、教える上では何も不都合は生じない。」
ちょっと信じられない話だが、ハーンがそう言っている以上、そうなのだろう。
「少年たちは私が話した場合には、言葉を必ずしも理解できないけれども、私が黒板の上にチョークで書いたものは、何でも理解できる。」
ハーンに、教師としての適性があったということだろう。もちろん、19世紀末の松江の少年たちが、優秀だったこともあるだろうが(でも本当かなあ)。
「中学の生徒たちは、私のことを、〝Sir″とはいわずに〝Teacher″と呼ぶようになり、私を兄貴か何かのように扱いはじめている(私は〝Master″という言葉は嫌いだ。ここ日本では、教師は主人面をする必要は少しもないのだから。」
どうも日本ではないみたいだ。この時代、義務教育は小学校までで、尋常中学校は、すでに選ばれた者であったのは知っているけれど。
ハーンが日本に来た1890年は、教育勅語が発布されたときで、その式典についても記している。
戦後になって教育勅語は、戦前の否定すべきものの象徴として扱われてきたが、この時代には、もちろんそんなことはない。記念の式を記すハーンの記述は、淡々としたものだ。
それよりも、この時代の教育の実相について、やはり信じられないことが書いてある。
「近代日本の教育制度においては、教育はすべて最大限の親切と優しさをもって行われている。教師は文字通り教師(teacher)であって、英語の〝mastety″の意味におけるような支配者ではない。教師は、彼の教え子たちに対し、年上の兄のような立場にある。」
うーん、これは少数の教師ではないだろうか、という疑いを抱かざるを得ない。
もちろん、『路傍の石』の主人公を思いやる先生や、山田太一の『月日の残像』における、西田幾多郎は読むなといった、国語の先生のような例はあるが。
しかしハーン描くところの教師の像は、さらに徹底している。
「教師は、自分の考えを生徒に押しつけようとしたりはしない。教師は、決して頭から叱りつけるようなことはせず、生徒を非難することもめったになく、懲罰を与えるようなことは決してない。日本の教師で生徒を殴る者はいない。もしそのような行為をしたら、その教師はすぐに職を追われるだろう。〔中略〕
実際の話、日本の学校には懲罰というものが存在しない。」
さらに、教師の資質に欠ける者に対しては、生徒から革命的な運動が起きて、その者は学校から放逐される。これに関しては、生徒がしばしばその勢力を濫用してきた、と言われる。
にわかには信じられない。戦前の教育は、ひたすら教育勅語を押し戴く、一言でいえば封建的なものではなかったのか。
近代における教育史は、一度、色眼鏡を取っ払って、つぶさに点検する必要がありそうだ。
この記事へのトラックバック
この記事へのコメント