トルーマン・カポーティは、僕は高校のときに『冷血』を読んだ。力作とは思うが、どこに身を寄せればいいのかわからなくて、困った。カポーティはこの一作だけで、やめてしまった。
しかし『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』を読むと、『ティファニーで朝食を』はこんなふうに書いてある。
「この小説を翻訳するのは本当に楽しかった。とてもすんなりとその小説世界に入っていくことができた。至福、と言っていいかもしれない。」
至福というのだから、読まずにはいられない。
また、こんなことも述べている。
「文章も瑞々しく生きている。でもこの小説を最後に、カポーティはなぜかこういうスタイルの話(言うなれば都会のフェアリ・テイル)に距離を置くようになっていく。感受性の変容――おそらくそれ以外にその転換の理由を説明する言葉はないだろう。」
『ティファニーで朝食を』はカポーティにとって、そういう小説なのだ。
村上春樹の解説があると、どんな小説も割とすんなり入ってゆける。というか、読まずにはいられなくなる。
そういえば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』には、解説は全くなかった。代わりにこんな但し書きがあった。
「本書には訳者の解説が加えられる予定でしたが、原著者の要請により、また契約の条項に基づき、それが不可能になりました。残念ですが、ご理解いただければ幸甚です。 訳者」
これは本当に残念だ。サリンジャーは心が狭い。
もし村上さんの解説がついていれば、僕の凡庸な読みなど木っ端みじんで、清新な新しい読みが示されたに違いない。それを思うと、本当に残念だ。
『ティファニーで朝食を』は言うまでもなく、オードリー・ヘップバーン主演で映画になった。見た人は誰でも、「ムーンリバー」の歌を思い出す。僕も、英語で歌える数少ない歌の一つだ。
村上さんはこう述べている。
「小説とはずいぶん内容が異なっている。できれば、映画のイメージからは離れたところでこの小説を味わっていただきたいのだが、今となってはそれは難しいことかもしれない。」
まあ、お手上げですね。
あまりに有名な映画だが、ではどんな映画だったのかというと、僕はほとんど記憶にない。オードリー・ヘップバーンが高級娼婦だったという以外に、覚えていることはない。オードリーの映画は、『ローマの休日』など少数を例外として、後は本当に断片しか覚えていない。
それでは小説の方を、まずはカバー裏の惹句から。
「第二次大戦下のニューヨークで、居並ぶセレブの求愛をさらりとかわし、社交界を自在に泳ぐ新人女優ホリー・ゴライトリー。気まぐれで可憐、そして天真爛漫な階下の住人に近づきたい、駆け出し小説家の僕の部屋の呼び鈴を、夜更けに鳴らしたのは他ならぬホリーだった……。」
なんだかよくわからないですね。パパ活の話みたいだ。でも、じつはそういうことだ。
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