逢坂冬馬の書下ろし小説、第3弾!『同志少女よ、敵を撃て』『歌われなかった海賊へ』は読み終わってなお、面白いけれど苦さが余韻となって残り、複雑な味わいの作品だった。
今度の小説は577ページと厚い。「早川書房 創立80周年記念作品」、「8つの物語の「軌跡」が、/世界と繋がる「奇跡」/『同志少女よ、敵を撃て』/を超える/最高傑作」と帯にある。
確かにページを繰るのもまどろっこしいほど、面白くて、よく出来ている。
でもそれだけ。面白い、本当に、ただそれだけなのである。
『同志少女よ、敵を撃て』は、少女狙撃兵たちの中に、ロシアとウクライナの差別意識が持ち込まれ、それがまるで、半年先のロシアとウクライナの戦争を予言しているようで、戦慄を覚えた。
『歌われなかった海賊へ』は、ナチスに抵抗する青年少女の話で、最後に戦争が終わり、めでたしめでたしで終わるかと思っていた。
ところが町じゅうの人が、ガス室におけるユダヤ人の虐殺を、知らない振りをしていただけで、しかも戦争が終わっても、みんなそういう振りをし続けるのだった。そういう話である。
まるでカンヌ映画祭でグランプリを獲った、『関心領域』のような話だ。
『ブレイクショットの軌跡』には、そういう余韻がない。ただ面白くて、それで完結してしまっている。
「ブレイクショット」とは、ビリヤードを開始するとき、球を散らすために行われる最初のショットのこと。ここでは高級車につけられた名前で、コロナとかフェアレディZの類だ。その車が転々と持ち主を変えることで、不幸を呼ぶ。
むかしジュリアン・デュヴィヴィエが、アメリカに渡って撮った『運命の饗宴』という映画があった。燕尾服が転々と持ち主を変え、最後は黒人たちの畑の案山子を飾る、という話で、それと同じ手法である。
『運命の饗宴』は実にいい映画だった。それなら『ブレイクショットの軌跡』も、いい小説になるのではないか、と思うと、どうもそうではない。
一例をあげると、後半にヤクザが出てくる。ヤクザは作家にとっては、特に本物の文学を目指す作家にとっては、鬼門であり要注意である。
ヤクザは普通の人が持つ心理を、持っておらず、しかも大抵のマイナスのことは、不可能に見えても顔色一つ変えずやってみせる。ヤクザは、一般の人がどういうふうに考えたらいいのかわからないために、作品中に登場すればオールマイティである。
この小説の場合も、そういうふうになっている。活躍するだけしといて、捕まるときは、作者の都合のいいときである。ヤクザは、生きている人ではないから、作者にとっては、実に自由自在の駒である。
こんなものを登場させては、全体がぶち壊しになる。
もちろん、いくつかの話は素晴らしい。特に、世界的に有名になるサッカー選手と、年上のコーチの話は、深く胸にしみとおってくる。
最初は男同士の友情だったのが、やがてそれが愛情になり、お互いにカミングアウトして、周りの人からも祝福されて結婚する。
さてこの先、どうなるか。これは単独の話として読んでみたかった。
(『ブレイクショットの軌跡』逢坂冬馬、早川書房、2025年3月15日初刷)
この記事へのトラックバック
この記事へのコメント