文学は進歩している、か?――『出世と恋愛―近代文学で読む男と女―』(斎藤美奈子)(4)

細井和喜蔵『奴隷』に比べると、それ以後の徳富蘆花『不如帰』、尾崎紅葉『金色夜叉』、伊藤左千夫『野菊の墓』、有島武郎『或る女』、菊池寛『真珠夫人』は、斎藤美奈子の解説だけで十分である。

『金色夜叉』なんて本当に面白くない、というか嫌な感じのする小説だ。漱石がほかの小説を見比べて、百年後に残るのは自分だけだ、といった気持が、わかるような気がする。
 
その漱石に褒められたという、伊藤左千夫『野菊の墓』は、斎藤美奈子が「木綿のハンカチーフ」を引いて、鮮やかに解説している。

「この歌の主人公は、都会に出た青年と、故郷に残ったその恋人である。華やいだ街で浮かれる恋人が、都会の絵の具に染まっていくようすを、彼女は遠くから寂しく見ている。変わってゆく僕を許せと彼はいい、彼女は涙を拭くハンカチをくれといって二人は別れる。遠距離恋愛の破局。二十一世紀の今日まで、日本中でくり返されてきた光景だろう。」
 
ついでに言うと、『野菊の墓』は回想形式で書かれている。裏切った男を、純愛の主人公に変えるのが、「回想というマジック」である、と斎藤美奈子は言う。

『野菊の墓』は中学時代に読んだ。以来ずっと僕の中では、「珠玉の作品」として残っている。それは斎藤美奈子の、皮肉のきいた分析を読んだ後も、変わらない。

それがここに来て、変わるのが嫌さに、読み返すのをやめておこうと思う。つまり斎藤美奈子の分析が、当たっていると思うのだ。
 
最後の『伸子』は、この当時ではかなり進んだ結婚をする。

男は言う。「〈決して私は家政婦を求めているのではない〉」「インテリ同士とはいえ、この時代のカップルとしては驚異的な新しさだ。」
 
しかしこの夫婦は別れてしまう。

「物語の後半、テキストの半分以上は、上手くいかなくなった夫婦関係と夫に対する伸子の不満で埋め尽くされる。」
 
そうするとこれも、特に新しい小説とは言えないのではないか。一体どこが新しかったのか。

「『伸子』は近代文学ではじめて離婚を真正面から描いた小説といわれる。離婚自体は珍しくなかったが、そこに至るプロセス、ことに妻の側の心理を描いた点が新しかったのだ。」
 
なるほど。でもそんな小説、あらためて読みたくはないなあ。
 
で、結局、青春小説はどうなったのか。それは死、つまり戦争によって終息したのだ。

「思えば、立身出世という、戦前の青年たちを鼓舞した思想自体が、戦争と親和性が高かったのだ。立身出世とはそもそも、体制に順応し、競争原理を是とし、ホモソーシャルな世界で醸成された国家公認の思想である。『国の役に立つ人になる』と『国のために死ぬ』は紙一重である。国家の方針が変われば、若者たちに対する要求も変わるのだ。」
 
そういうわけで、青年たちを待っているものは、死しかなくなった。

「どれほど高い志や夢を持っていても、戦時の若者に期待されるのは兵士としての役割だけだ。青春も恋愛も、平和じゃなければ謳歌できない」。それはそうである。

(『出世と恋愛―近代文学で読む男と女―』斎藤美奈子、
 講談社現代新書、2023年6月20日初刷)

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