斎藤美奈子の本の基本となるのは、対象の作家や作品を「からかうこと」である。そのからかいが、対象と微妙な距離を保って、馴れ合う寸前まで行くが馴れ合わず、しかし温かみのある筆で、からかうことを含めて、読者の胸をくすぐり、温かくする。
だから『三四郎』の主人公にしても、『青年』の小泉純一にしても、あるいは『田舎教師』の林清三、『友情』の野島にしても、おおむねつまらない奴だが、どこか滑稽で可愛げがある。
次の島崎藤村『桜の実の熟する時』は、これは本当につまらない。自然主義の代表みたいに言われる島崎藤村だけど、この作品に限っては、主人公の肝心なことが書いてない。
斎藤美奈子に言わせると、藤村は「暗い、まどろっこしい、サービスが悪い」と、三拍子そろっているので、今では読む人がいない。
この小説では、「岸本捨吉」は教師をしているが、教え子の「勝子」を好きになってしまい、そして結果、なんと「勝子」には一言の挨拶もせずに、学校を去る。しかしその理由は書いてない。
「〈若くて貧しい捨吉は何一つ自分の思慕のしるしとして勝子に残して行くような物を有たなかった。僅かに、その年齢まで護りつづけて来た幼い「童貞」を除いては〉」
この数行、まったく意味不明である。だいたい教師が逃げてどうするんだ。
「何もかも曖昧模糊。肝心なことを書かないため、『桜の実』はわけもわからず捨吉が大げさに苦悩する、奇怪なテキストになってしまっている。」
だからこれは、『出世と恋愛』には相応しくないのだが、あまりの奇怪さ、馬鹿々々しさに、つい取り上げたというところか。
細井和喜蔵『奴隷』はプロレタリア文学である。プロレタリア文学といえば、それだけでもう敬遠するだろうが、読んでみるとそうでもない。斎藤美奈子はここでは、小林多喜二『蟹工船』を挙げている。
「『蟹工船』(一九二九=昭和四年)はオホーツク海で操業する工場を兼ねた大型漁船が舞台で、意外にもポップな文体で読ませるモダニズム色の濃い作品である。」
ここには挙げていないが、僕はもう一つ、徳永直『太陽のない街』を推奨したい。工場労働者と官憲の、追いつ追われつのところは、ポップというかドタバタというか、文句なしに面白い。
考えてみれば、プロレタリア文学の全盛期であるということは、たぶんプロレタリアではなく(彼らには時間的、金銭的余裕はなかっただろう)、どちらかといえばブルジョアが読んだに違いない。
『奴隷』は、工場労働者を主人公にした小説。「三好江治〔こうじ〕」は、小学校を終えるのを待たず、11歳でちりめん織屋、つまり繊維工場に奉公に出る。
そしてそこで同世代の女工、「林菊枝」に出会って恋をする。彼は「菊枝」に、世界的な織機の発明をするから、そうしたら必ず結婚しようという。
「〈貴女に恋しています。貴女を真心から愛しています〉〈僕はうんと勉強していつぞや貴女が言った工務係よりもっともっと成功してみせるから、貴女は僕を愛しておくれることはできませんか?〉」
こういうふうにストレートに出れば、どんな女性でもグラっとくるのは、昔も今も同じ。
ここでは、「三四郎」以下の、ブルジョア知識階級の恋の悩みとは違って、プロレタリア労働者は、直球で押して押して押しまくる。
しかし「江治」と「菊枝」は言い交わした仲なのに、結局振られる。「菊枝」は、飽くことなく夢を語った「江治」を、じっと待つことができずに、工場長の愛人になってしまうのだ。
細井和喜蔵は、『女工哀史』の著者である。紡績工場の非人間的な労働現場を綴ったルポルタージュは、反響を呼んでベストセラーになった。
ところが出版のわずか1カ月後に、細井は28歳という若さで病死してしまう。
『女工哀史』で大ヒットを飛ばした改造社は、細井和喜蔵の残した原稿を、『奴隷』と続編の『工場』として、死後に出版する。
それにしても斎藤美奈子も言うとおり、『奴隷』と『工場』の2作品のタイトル、何とかならなかったのか。せめてその前に「女工」とつけるような。いやそれでは、いささか内容が違ってくるか。いずれにしてもこの2編は、岩波文庫に収録されているというから、ぜひ読んでみよう。
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