オビ裏の惹句はこうだ。
「現在恋愛中の方も/これから恋愛を始めたい方も/本書で「男と女」の本音を読み解き/胸をときめかせましょう。」
もちろんこんなことは書いてない。斎藤美奈子が、現代フェミニストの眼をもって、戦前の恋愛小説をぶった切る、というものである。
そのまな板の上の小説は、
夏目漱石『三四郎』
森鷗外『青年』
田山花袋『田舎教師』
武者小路実篤『友情』
島崎藤村『桜の実の熟する時』
細井和喜蔵『奴隷』
徳富蘆花『不如帰』
尾崎紅葉『金色夜叉』
伊藤左千夫『野菊の墓』
有島武郎『或る女』
菊池寛『真珠夫人』
宮本百合子『伸子』
細井和喜蔵の『奴隷』以外は、みんなよく知られたものだ。
最初は『三四郎』から。しかしこの章は面白くない。斎藤美奈子は、そうは書いていないが、この小説はつまらない、と僕は思う。
帝国大学が大枠の舞台としてあるが、そこに棲息する人物が、何とも中途半端で、それを観察する「三四郎」にも、「猫」のような鋭い批判力はない。
「明治の立身出世主義は、日露戦争後のこの時代、じつは崩壊しはじめていた。三四郎は古典的な立身出世を漠然と思い描いて上京したが、彼が東京で見たのは、広田先生ら知識人が出世コースから切り離された姿だった。」
漱石は1907年、大学を辞して朝日新聞に入り、翌年『三四郎』を書く。このころに書かれたものは、『虞美人草』といい『三四郎』といい、まだ作家として腰が定まっていないものだ、と僕は思う。
かくて「三四郎と美禰子の関係は『恋愛未満』終わるのである。」
なお戦前の「青春小説」はみな同じである、と斎藤美奈子は言う。いずれも「黄金パターン」があり、それは次のとおり。
「① 主人公は地方から上京してきた青年である。
➁彼は都会的な女性に魅了される。
③しかし彼は何もできずに、結局ふられる。」
これが王道だが、いつも何もできないのでは、あまりに詰まらない。
片思いから、まれに成就する恋愛もある。ところがこっちはこっちで、物語の「黄金パターン」が存在する。
「① 主人公には相思相愛の人がいる。
➁しかし二人の仲は何らかの理由でこじれる。
③そして、彼女は若くして死ぬ。」
斎藤美奈子はここでは、「死に急ぐ女たち」の物語と呼んでいる。
こういうふうに分類してしまえば、あとは該当の小説を読まずとも、この本を読むだけでいいのだ(というのは言いすぎか?)。
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