そういうわけで、韓国の歴史に無知で、韓国文学の実情にも疎いのだが、そういうことを抜きにして、というか前提にして、この本には言っておきたいことがある。
例えば次の箇所をどう読むか。インソンの家で、埋葬してきた鳥と出会う場面である。
「ろうそくの火と影の間、鳥の肉体があるべき空中に向かって手を伸ばした。
チガウ。
無声音が重なって、一つの言葉のように聞こえた。
……チガウ、チガウ。
幻聴だろうか、と疑わしく思ったその刹那、言葉が砕け散った。布が擦れ合う音が残響を曳いて消えた。」
最後から2番目の文章、「言葉が砕け散った」は、朗読するときは格好よく見える。しかし意味を問うたとき、それに当てはまるものがあるだろうか。
ここは難しい構文ではないから、たぶん原文通りだろう。そうすると訳者ではなく、ハン・ガンに聞いてみたいところだ。
もっとも、この「砕け散る」の意味が分からない人には、私の文学はわからない、とハン・ガンは言うかもしれない。
あるいは次のところ。
「目を開けて、私はインソンの顔に向き合う。
〔ここで3行アキ、次に書体を変えて〕
落ちていく。
水面で屈折した光が届かないところへと。
重力が水の浮力に打ち勝つ臨界のその下へ。」
最後の文章の意味は不明である。「重力が水の浮力に打ち勝つ臨界」というのも分かりにくいが、さらに「臨界のその下へ」というのは、何のこと? これは日本語に訳すときの問題だろう。
もう一つ、標準的な韓国語と比較して、済州島の言葉は、韓国人にも分からないという。それでハン・ガンは、「済州語をそのまま用いたら本土の読者に理解できないと考え、済州島出身者の知人と相談し、可読性を損なわず『中間地点に収まるように』配慮した」という。
その思いを受けて、翻訳者の斎藤真理子は、今度は日本語をどうするかを考える。
「語尾が短く独特のリズムを持ち、朝鮮語の古層が残っているともいわれる済州語の響きを生かして訳すにはどうすればよいか。〔中略〕標準語との距離を提示しつつ、叡智ある響きを表現したい。そのために力を借りるとしたら、済州島との共通点も多く、自分もかつて四年暮らした沖縄の言葉以外には思いつかなかった。」
それで編集者を恃んで、済州島の母の台詞を、すべて沖縄語に変えてもらった。例えば次のように。
「お前の父さん〔あぱん〕が男〔そない〕らしかったらば、私はたぶん、好かざったね。初めて会ったとき、男〔そない〕の顔が何でこれほどきれいかと。十五年も日光に当たらぬせいだったかよ。肌がキノコんごと白かったざ。そんな人を、皆が避けていたのもおかしなことよな。死人が帰ってきたごとして。一度目が合っても、幽霊を連れてくる人んごとして。」
ゆっくり読めば、前後の文脈もあって、意味するところは分かる。しかしインソンの母親の台詞が、すべて方言、すなわち一読して意味が取り辛いというのは、いかにも興が削がれる。
ここは沖縄の言葉ではなくて、どことは言えない、いわゆる方言、お国訛りでよかったのではないか。あるいはいっそ、標準語にしてもよかったのでは、と思う。
とまあいろいろ注文は付けたが、訳者も編集者も、それこそぎりぎりの努力をしている。カバー裏の粗筋など、ここは編集者が書いたと思われるが、通常の倍くらい書き込んであって、原著者の癖を、日本の読者が嫌うことがないように、涙ぐましい工夫をしている。
ハン・ガンはそういうわけで、もう少し読んでみよう。
(『別れを告げない』ハン・ガン、斎藤真理子・訳、
白水社、2024年4月10日初刷、11月5日第7刷)
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