外岡秀俊は終わりに、朝日新聞をどう変えていったらよいか、ということを話す。
しかしその前に、いま現にある朝日新聞を、こんなふうに見ている。
「鉄の三角形で、自民党と財界と官僚がトライアングルを作ってきたのが戦後の日本です。朝日みたいな組織はある意味でメッセンジャーDNAのように、各中枢に分かれていってそこで情報を取っているわけですから、同じような組織にならないわけがない。その忠実な型を局内に作ってきたという、それは簡単には崩れないと思いますね。」
そういうことも、あるかもしれない。
しかしその前提として、大学の新卒を取るときに、取材する方とされる方とが、同じ穴の狢ということも、あるのではないか。まあ、それを指摘したからといって、どうしようもないのだか。
以下の対話における具体的(?)提案は、僕には何のことだか分かりにくいが、外岡の朝日新聞革新論の核心だと思うので、挙げておく。
「――もう新聞社自体が縮小化しつつあって。
〔外岡〕だからもっと緩やかな集団で、ゲリラ的に取材する記者たちをゆるやかに束ねるような形に組織が変わっていかないと。例えば年次がどうだとか、自分の専門分野がどうだとか、もうそんなことを言っている時代ではない。そんな悠長なときではない。」
そこで2人は、たとえば疑似官僚組織の記者クラブから、記者を引き上げるというようなことを話す。
「考えてみると、イギリスの大手の新聞の政治部の記者なんて数人、いや十人くらいですよ。NYタイムズだって、あんなにすごい新聞作っているけれど、記者の数からいったら数百人くらいですよね。〔中略〕
つまり記者を二千人も抱えなくても、それをできるようになるわけですよ。そうすると官僚型組織をいかに打破するかということを考える必要もなく、組織全体を変えないかぎり生き残れない。」
言うは易く行うは難し、ですな。朝日新聞は全体としては、もうもたないと思う。それは誰でも考えることだ。
「この激変というのは誰もが分かっているはずだし、いま入社している新しい世代というのは、十年後にこの会社があるかどうか分からないという前提で入っているわけですよ。」
でもだから、細胞分裂するように、新しいジャーナリズムを作る人はいるだろう。それがどんな形態と内実を伴っているかは、僕の年齢では、垣間見られるかどうか、微妙なところだ。
このあと外岡は、「天声人語」を書くように言われるが、それは固辞し続けた。
外から見ている分には分からないが、「天声人語」は、花形記者が書く最高の舞台らしい。そこで命を縮めたり、身体を悪くする人がいっぱい出ている。
見解の違いといえばそれまでだが、僕にはそうは思えない。「天声人語」を筆写することで、文章の書き方を覚える、というような教材が、朝日から出ていたことがあるが(ひょっとして今も出ているかもしれない)、悪い冗談としか思えない。
朝日の中で、「天声人語」を書くのが名誉と祭り上げて、それでもって自縄自縛に陥っているとしか思えない。コラムはコラム、出来のいい時もあれば、つまらない時もある。ただそれだけである。
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