ここまで書いていいのか――『対馬の海に沈む』(窪田新之助)(1)

2024年の開高健ノンフィクション賞受賞作である。

けれども、オビにも表紙まわりにも、内容に触れたところが見事にない。かろうじてオビ裏に、「選考委員大絶賛!」とあるが、加藤陽子・姜尚中・藤沢周・堀川惠子・森達也の選考委員たちの評が、徹底して内容に触れていない。
 
たとえば姜尚中――「取材の執拗なほどの粘着さと緻密さ、読む者を引き込む力の点で抜きん出ていた。」この批評なら、来年も再来年も使える。
 
そう言えば新聞広告も、でかでかと打っていた割には、内容に亙るところは、徹底して秘匿していた。
 
これは何かある。
 
そう思って読んでいくと、農協の伝説的な職員が伝票を操作して、虚構の実績を積み上げ、捜査が身辺に及びそうになり、ついに対馬の海に車ごとダイブした、という話だった。
 
なんだ、使い込みの話か、そう思っていると、途中から事件は異様な相貌を帯びる。これでは収拾がつかない、いわゆる「共犯者」を挙げるにも、数が多すぎて、しかも実名で出てくるから、逆に著者は訴えられて、厖大な数の訴訟を抱えるのではないか。そういうふうにも考えて、とにかく呆然とした
 
事故は2019年2月25日に起きた。「私」(=窪田新之助)が取材で対馬を訪れたのは、2022年11月だった。

「車は四人乗りのダイハツ『アトレーワゴン』。フロントガラスの全面が蜘蛛の巣状にひび割れ、ボンネットが大きく凹むなど、事故の衝撃を物語っていた。
 引き揚げられる際に、車は逆さになった。そのせいで男がいる場所が運転席から助手席に移動したのだろう、助手席側の後部の扉の窓からは左足が、助手席の扉の窓からは左手が見えた。」
 
著者の文体は上記の通り。JAグループの日本農業新聞にいたから、文章はいかにもそれらしく安定している。

「亡くなったのは、対馬農業協同組合(JA対馬)の正職員西山義治〔よしはる〕。享年四四だった。」
 
ここで農協の説明がある(とはいっても、とても頭に入らないだろうから、ややこしいものとして捉えておけばいい)。
 
まずJA対馬のように、地域で活動をする農業協同組合があり、これが最下部の組織で、日本全国で506を数える(2024年10月時点)。
 
その上に「JA共済連」(共済事業を束ねている)、「農林中金」(信用事業を統括する)、「JA全農」(経済事業を統括する)といった組織があり、さらにその上に全体の指導的立場にある「JA全中」がある。
 
このほかに挙げれば切りがないほどの、関連する会社や団体がある。それぞれは別の組織であり、互いの交流は薄いが、それらを総称して「JAグループ」と呼んでおく。

西山義治が死んだという事実は、JA対馬だけではなく、JAグループ全体にも広がっていった。なぜなら西山は、JAの共済事業で長年にわたって、とても考えられない実績を残してきたからである。

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