共感はできない、しかし名著だ――『透析を止めた日』(堀川惠子)(4)

ここでもう一つの選択肢である「腹膜透析」を考えてみたい。「血液透析」とはどう違うか。

「血液透析は『治療効果』が高く、毒素や水分をしっかり引く〔抜く―中嶋註〕ことができる。腹膜透析は、治療効果はゆるやかだが身体への負担が小さく、患者のQOL(生活の質)を保つのに優れている。それぞれにメリットとデメリットがあり、患者の状態に応じて使い分けることが必要だ」。
 
そういうことなのだが、2022年にアメリカで出たデータが衝撃だった。
 
日本の透析患者全体のうち、腹膜透析患者は2.9%、日本と並んで「透析大国」といわれる香港は69%、欧州やカナダが20~30%、ニュージーランドが30%、先進国の中でも低いといわれるアメリカでも10%を超えている。日本だけが群を抜く低さだ。
 
日本では腹膜透析といえば、「腹膜炎になる」「水が引きにくい」「在宅での操作が難しい」といった評価が定着してきたが、そういうこととは別の問題がある。

バブル期前後から金融機関は、「〔血液〕透析でビルが建つ」と言い、「必ず成功する」という謳い文句で、医療関係者に積極的な融資を行ってきた。
 
その結果、国内の血液透析の設備は増え続け、最大収容能力は約48万人。それに対して慢性透析患者数は約35万人で、すべての患者が血液透析を選んだとしても、ベッドは約7割しか埋まらない。
 
これでは医者が、しゃかりきになって血液透析を勧めるわけだ。

しかしもちろん、外部の雑音に妨げられない医師もいる。次の取材相手は、東北医科薬科大学病院で腎臓内分泌内科を率いる森建文教授だ。

「これまで腹膜透析は高齢者にとって、透析液バッグの交換が負担になるので導入は難しいといわれてきた。ところが現実には、認知症のないほとんどの高齢者が問題なく自分で作業をこなすという。訪問看護の日数もしっかり確保することができるので、見守りの体制も盤石だ。むしろ週に3度の通院が必要な血液透析の患者のほうが負担が大きく、年に数例は介護者が患者より先に亡くなって患者が入院せざるを得なくなる困難なケースに出くわすのだと森教授は言う。」
 
森教授の話を聞いていると、すべてが通説と逆で、驚かざるを得ない。
 
これはタイムラグの問題もある。著者が夫を亡くしたのは、7年も前のことなのだ。医学の進歩は日進月歩、それでもいろいろな外部の要因で、それがストレートに生かせないこともある。
 
著者はしかし、これだというものを摑み取ったのだ。

「余生にどう生きがいを見つけるか、誰に介護してもらうか、最後はどこで死ぬか――。
 終末期の医療にかかわるということは、治療方針の設計だけではなく、『人生の設計』が必要だ。対象は『高齢者』、現場は『家(施設)』この条件に、腹膜透析がぴたりとはまった。」
 
このあと腹膜透析を選んだ患者の、看取りの実例が、堀川惠子の感動的な筆で描かれる。
 
そして最後の文章。

「終末期に腹膜透析を選んだ透析患者たちの、いくつもの看取りの現場を知った。穏やかだったのは、亡き人たちだけではない。彼らを囲む家族や医療者も、どこか『納得』して死を見送っていた気がする。
 日本の透析業界で、腹膜透析患者は2.9%。たとえ終末期になって腹膜透析の導入を希望したとしても、在宅医療を支える体制の整わぬ地域の方がまだまだ多い。〔中略〕
 それでも、医療とはいったい誰のためのものなのか、という冒頭の問いを改めてこの胸に置いたとき、きっと変化は起き始めている、そう思えた。」
 
堀川惠子はこの本で、少なくとも一つ、終末期における腹膜透析という道を見出したのだ。
 
夫君を看取って7年、できれば周辺の思い出したくないことも、多かったはずだ。それを乗り越えた陰には、編集者の支えがあった。そこは「あとがき」に詳しい。
 
なお夫婦の間では、生体腎移植にも話はおよび、積極的にそれを試そうともしていた。
 
しかしそれは叶わなかった。夫婦と、いくつかの病院との間のことは、別に論ずべきであるが、結局実現しなかったので、今回は略す。

(『透析を止めた日』堀川惠子、
 講談社、2024年11月20日初刷、2025年2月3日第5刷)

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