共感はできない、しかし名著だ――『透析を止めた日』(堀川惠子)(3)

第二部の焦点は、死を目前にして透析をどこまでするか、ということは透析をどこで止めるかと、それに続く緩和ケアの問題、そして後で詳しく述べる、腹膜透析という選択肢の問題がある。
 
また透析を止めた後、死亡した時点で、患者が認知症をわずらっていた例がある。これはあるデータによれば、全体の3分の1を超えている。

「的確な判断を下せない〔認知症の〕患者の透析をいつまで続けるのか、透析の現場が困難な環境に置かれていることがうかがえる。」
 
これは途方に暮れざるを得ない。私の乏しいデイ・サービスの経験でも、認知症は十人十色、その人に向かって、血液透析を止めますか、続けますか、とはとても聞けない。
 
しかし認知症のあるなしに関わらず、透析をどこまでやるか、という見極めは非情に難しい。「透析を止めて訴えられたら、殺人罪で訴追される恐れもある。」
 
透析を止めた後、そこから先はどうしたらいいか、誰もよく分からないのである。
 
もう一度、腎不全の患者が置かれている位置を、確かめておきたい。

「末期腎不全患者の緩和ケアは、医師がいくら対応しても相応の見返りがない。乱暴に書けば、保険適応がないからタダ働きになる。まして緩和ケア病棟に透析患者を受け入れ、症状を緩和するために透析をまわしでもすれば、保険適用外のため病院に多額の持ち出しが生じてしまう。病院経営は慈善事業ではない。だから多忙な医師が、業務の『合間』に看取りを行わざるをえなくなる。」
 
そしてここに「2040年問題」が加わり、さらに今後を悲観させる。

「2040までに、都市部で医療や介護の需要が爆発して通常の対応が困難になり、地方では病院や介護事業所の撤退が相次ぎ、国内全土で深刻な医療崩壊が起きることが懸念されている。医療の現場では当然、死よりも生、救命が優先される。このまま環境整備が追いつかなければ、がん以外の患者の死がおざなりにされる傾向はより強まっていくのではないか。」
 
昨日もニュ―スで、吉祥寺の病院が閉鎖されることを放送していた。人手不足か赤字経営か、あるいはその両方が絡み合った要因か。
 
これは、この本とは焦点がずれるが、すでに起こりつつある問題であり、堀川惠子にはさらにテレビと本の両方で、取り上げてほしいテーマだ。
 
本筋に戻って、今度の取材相手は広島市・安芸市民病院で緩和ケア病棟の部長を務める松浦将浩医師である。

「患者が緩和ケア病棟に紹介されてくるとき、主治医の外科医らはよく、『もうすることがない』と口にするという。その言葉を聞くたび松浦医師は、
『「もうすることがない」の主語はお前だろう、と怒鳴りたくなるんです』〔中略〕
『どんな病状の、どんな末期の患者にも、間違いなく緩和ケアの余地はあります。たとえ最後の数ヵ月でも最後の数日でも、その時間が、本人や家族にとってどれだけ大事か』。」
 
松浦医師の言葉を、胸を熱くして聞いた著者は、こう思う。

「できることなら私も、夫が苦しみ抜いた最後の6日間をやり直したい――。」
 
松浦医師の話を聞きながら、著者は考える。

「腎不全患者に適した医療用麻酔の種類や使い方、尿毒症による呼吸困難を悪化させない鎮静の手順について、教科書のようなものを作れないものか。」
 
そう考えて松浦医師に話してみると、言下に否定された。

「マニュアルは独り歩きします。緩和ケアは本当にケースバイケースで、ひとりひとりの患者さんに向き合って手探りでやるものです。痛みと眠気のさじ加減を慎重に観察しながら、薬の種類や量を変えていく。終末期の透析も一律に治療と捉えるのではなくて、呼吸苦などの症状を抑えるための〝緩和の手段〟と考えて、もっと柔軟に対応することもできると思うんです。緩和ケアでは患者と医師がゴールを目指して話し合い、適切な方法を見つけていく共有意思決定がことさら大事なんですよ」。
 
うーん、これは難しいし、これから先、医療従事者が足りないことを考えると、絶望的といえるのではないか。

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