共感はできない、しかし名著だ――『透析を止めた日』(堀川惠子)(2)

透析とは腎臓の機能が低下したり、廃絶した患者の体から、過剰な水分や毒素など、老廃物を取り除いて、血液を浄化する治療である。
 
慢性の経過で壊れた腎臓は、二度と再生することはない。血液透析は一生続き、透析を止めてしまえば、数日から数週間で死ぬ。
 
この透析を止めてから死までの、数日から数週間までが問題なのだ。

「透析の中止によって引き起こされる症状は、尿毒症をはじめ多岐にわたる。体内の水分を除去できないことによってもたらされる苦痛は、『溺れるような苦しみ』とも言われ、筆舌に尽くしがたい。突然死でない限り、透析患者の死は酷い苦しみを伴う。」
 
だから当然、緩和ケアが必要になる。
 
ところが日本の場合、緩和ケアの対象は、保険診療上は、癌患者に限定されているのだ。

「死が目前に差し迫る透析患者であっても、ホスピスに入ることもできない。患者も、家族も、緩和ケアの現場から見放されている。WHO(世界保健機関)は、病の種類を問わず、終末期のあらゆる患者に緩和ケアを受ける権利を説いているが、日本ではそうなっていない。世界的に見ても、異例の状態が続いている。」
 
私はうかつにも緩和ケアの対象が、保険診療上は、癌患者に限られることを知らなかった。

「透析大国と呼ばれるこの国で、声なき透析患者たちが苦しみに満ちた最期を迎え、家族が悲嘆にくれている。多くの関係者がその現実を知りながら、透析患者の死をタブー視し、長く沈黙に堕してきた。
 なぜ、厖大に存在するはずの透析患者の終末期のデータが、死の臨床に生かされていないのか。なぜ、矛盾だらけの医療制度を誰も変えようとしないのか。」
 
そこで著者の探索と追究が始まる。
 
第一部は先にも述べたように、夫婦の物語である。夫が厭な奴だ(あくまでも私にとって)ということを除けば、堀川惠子の筆は、病気の進行具合から夫婦の機微に至るまで、過不足なく見事である。内容が内容なので、手放しで褒めるのもどうかと思うが、透析患者が透析を止めて、どんなふうに死んでいくかが、迫真のタッチで描かれる。

この夫婦の個別の物語が、真に迫って来なければ、第二部の医療をめぐる諸問題を、読者が真剣に考えることはないだろう。
 
第一部はそういうことであり、ここでは第二部を考えてみたい。
 
ただ第一部のうち、読者が気になると思う、透析にかかる医療費の問題だけを取り上げておく。

「日本は透析患者の人口比で世界3位という透析大国である。1ヵ月の透析には約40万円の費用がかかるといわれるが、手厚い医療費の助成制度があり、患者の自己負担は最大でも月2万円に抑えられている。」
 
透析患者ひとり当たり、年に約500万円の公費が支出されている。
 
このことをもって、透析患者への誹謗中傷があふれているが、これはもう人種差別だったり、少数者の差別だったりという、SNSが絡んだ、この時代特有の病というほかはない。
 
これについても、堀川惠子は腎臓病患者の実態を掘り下げ、及ぶ限りの意を尽くしている。こういうところで余計な気を使わなければいけないのは、たまらない気がする。

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