長吉は、プロの作家にはなりたくない、と強く思う。
直木賞をもらって以来、今度は文藝春秋の編集者たちが、長吉に書け書けとうるさく言う。
「私はそうはしたくない。飽くまでアマチュアの書き手として書いて行きたい。プロの作家とは、編輯者の注文に応じて原稿を書いて行く人であり、アマチュアとは自分の内心の声にのみに従って書く人を言う。私は書きたい時に書きたいものだけを書く人でありたい。」(11月22日)
そうは言っても、というところだ。もう逃れようのない、どん詰まりに来ている。
「こういう具合に言われれば言われるほど、気力が萎えて行く。どうして自由に書かせてくれないのだろう。私は自己の魂の救済のために書いてきた。書くことは商売ではない。併し編輯者にとっては、書かせることは商売だ。この深い矛盾。」(12月3日)
書けなくなるまで、もう一歩のところまで来ている。
長吉は、やはり「この人のためなら」と思わせられなければ、書けないのだ。
長吉が都落ちしているとき、新潮社の編集者が神戸まで来てくれて、もう一度原稿を書けと言ってくれた。
しかし長吉は書けなくて、断りの電話をかけるつもりだった。そのとき、その編集者の子どもが、普通の子ではないことを知った。編集者は電話の向こうで、泣いている気配だった。
「私は自転車に乗って家を飛び出した。それから半日、どこでどうしていたのか、まったく記憶にない。ただ、夕暮れに家へ帰って来た時、私の手は十束のコクヨの原稿用紙を掴んでいた。その翌日から、私は息を詰めて『萬蔵の場合』を書き始めた。も一度、東京へ行って、前田氏を励ましてやらなければ、という気があった。前田氏の具合の悪い子を抱っこしてやらねば、という思いがあった。」(12月20日)
長吉は、自己の魂の救済のために書くというが、この場合は新潮社の編集者のためだし、「鹽壺の匙」の場合でも、高橋順子に寄せる思いが、書くきっかけになっている。
その意味では、編集者のつけ込む余地はあるのだ(と僕はすぐに、編集者の立場に立ってしまう)。
この日記もいよいよ大詰めである。すべての人間を縛るもの、それは「性」。人間の中で、正面切って、明るみの中でそのことを問題にできるのは、作家だけである。
しかし問題にする、その仕方が、作家によってまったく違う。
長吉の場合はどうか。
「性への嫌悪感がどうして醸成されたかを考えて見れば、独身時代の自涜癖が禍いしている。ある時から私は強い意志を以て、自涜を止めた。併し躯の中に精液は溜まって来る。それが時々、夢精という形で噴出して来た。夢精があったあとの、あの不快感は堪えがたいものだった。〔中略〕ために、私はまた夢精を未然に防ぐために、厭々ながら自涜をせざるを得ないこともあった。」(3月17日)
長吉は、「自涜」も「夢精」も嫌なのだった。
「性的妄想を抑圧できれば、それで問題はないが、併し性は抑圧しようとする力を内側から圧し破って、はみ出して来る。それに対する嫌悪感が、強迫神経症の原因であるらしい。このごろ、私はそう確信するようになった。」(同日)
これはもう、「人間の男」に生まれたことを、呪うよりほかにしょうがない。
高橋順子が、後書きとして「日の目を見るまで」を書いている。長吉への思いに溢れた文章だ。
「私が生きているうちに公刊を決意しなければ、車谷の作家の魂は闇の中で呻きつづけるだろう。私が死んで原稿が廃棄されてしまったら、それは私の罪だ。この原稿には問題が多すぎるが、業の深さの中に、それと同じ強さの一筋の光が宿っているのではないか。」
「一筋の光」どころではない。近年このように、真実の言葉のみで書かれた作品は、まったく稀であり、僕は読んでいる間、感動し続けていた。
(『癲狂院日乗』車谷長吉、新書館、2024年8月1日初刷)
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