あのころ、アンナ・カリーナが――『ゴダール/映画誌』(山田宏一)(2)

ゴダールとトリュフォーの友情と破局の話は、有名である。

「ヌーヴェル・ヴァーグの金字塔的作品になった『勝手にしやがれ』は、トリュフォーの企画原案がゴダールによって映画化されて、二人の友情の最も美しい結晶として記憶されることになった。」
 
しかしそれが続くのも、1968年の5月革命までだった。
 
トリュフォーは「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」(1970年3月2日号)のインタヴューで、こう語っている。

「もうわたしたちは二度と会うことも話し合うこともないだろうと感じました。わたしは従来の古めかしい映画をつくりつづけ、ゴダールは別の新しい映画をつくる。一九六八年五月以後、彼はもう誰も従来の古めかしい映画をつくるなんてことはできないし、つくってはならないと感じ、相変わらず従来の古めかしい映画をつくりつづけているわたしのような人間を呪い、憎悪していた。」
 
そういうことだ。だから附録の「ゴダールvsトリュフォー喧嘩状」が、大変興味深い。

『勝手にしやがれ』以外の映画で、僕が憶えているのは、実はほとんどない。他には『女と男のいる舗道』のアンナ・カリーナ、『軽蔑』のブリジッド・バルドーが出たシーンを、断片的に憶えているだけだ。
 
以下は、この本の印象に残ったところを書いていく。
 
アンナ・カリーナはゴダール映画のヒロインで、そしてそれに尽きていた。

「ロジェ・ヴァディム監督の『輪舞』(一九六四)もヴァレリオ・ズルリーニ監督の『国境は燃えている』(一九六五)もマルチェロ・マストロヤンニと共演したアルベール・カミュ原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『異邦人』(一九六七)もジャック・リヴェット監督の『修道女』(一九六六)も彼女の代表作にはなり得なかった。」
 
僕はこの中で、高校生のときに『異邦人』を見ている。大して面白くない映画だった。この映画を先に見たせいで、新潮文庫で『異邦人』を読むのが、3年ばかり遅くなった。こちらは、こんなに面白い小説があるのかと思った。大学でフランス語を習った年に、原書でも読んだ。
 
そういえばロジェ・ヴァディムの『輪舞』も見たが、これは完全に忘れている。
 
とにかくそれらの作品においては、アンナ・カリーナが出ていることすら気づかなかった。

「アンナ・カリーナはただジャン=リュック・ゴダールの映画のヒロインとしてのみ記憶されることになるのである。アンナ・カリーナの肉体も魂もただゴダール映画にのみ宿るのである。」
 
コペンハーゲンからパリに出てきたばかりのアンナ・カリーナは、ゴダールと結婚し、1960年代のゴダール映画の、ただ一人の忘れがたいヒロインになる。

『カラビニエ』(1963)は、僕は見ていない。しかしこの映画の、山田宏一の評価が面白い。

「アンナ・カリーナの出ないゴダール映画はごつごつして、唐突で、ぶっきらぼうで、うるおいがない。こんなものが映画と呼べるか――混沌、支離滅裂、退屈きわまりない、とパリ公開のときには批評で罵倒されたが〔中略〕、それもやむを得ないと言いたいくらい、故意に(と言いたいくらい)粗雑で、乱暴で、攻撃的で、強烈だ。これがめちゃくちゃおもしろいのだ。」
 
この映画評、強烈である。

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック