曲がり角で逝ってしまった――『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』(坪内祐三)

これは、『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない。』と対になるものだ。『右であれ左であれ……』の出たのが、2017年12月22日。坪内祐三が亡くなったのが、2020年1月13日。
 
するとこんどのは、2020年7月15日の発行だから、最初から姉妹編として対になるものではなく、死んだ後に雑誌の記事を集めて、1冊にした可能性が強い。
 
というような経緯を、編集者が書いておくべきではないか。
 
これは文句を言っているのではない。むしろ坪内さん亡きあと、編集者が選んだにしては、あの難しい坪内祐三の体臭まで、微細に汲み取っていて素晴らしい。それにこのタイトル、坪内さんが付けたとしか思えない。
 
あるいは夫人の佐久間文子さんも、かなり深いところまで編集に携わったのだろうか。
 
そういうことが、あったのかなかったのか、やはり書いておくべきだと思う。
 
本の全体は、一時代を築いた文人と、その周辺の人々を、追悼するものだ。

人だけではなく、書店が消えていき、坪内さんの主戦場だった、雑誌が消えていくさまも、痛恨の筆でもって書き留められている。

「第1章 文壇おくりびと」は、福田恆存、山口昌男、常盤新平、大西巨人、野坂昭如などを点描する。どれも坪内流というか、しみじみしていて、ちょっと悲しく、温かい気持ちにさせる。

「第2章 追悼の文学史」は、小林秀雄、正宗白鳥、長谷川四郎、十返肇など。身近に接した人たちではないから、ちょっとかしこまって追悼の「文学史」なのである。
 
第3章の「福田章二と庄司薫」は、長さも結構ある異色の文芸批評。しかし庄司薫は全部読んだはずなのに、僕はもうあらかた忘れていて、申し訳ない。
 
あとは出版をめぐる環境というか、それを取り巻く空気を考察する。「第4章 雑誌好き」、「第5章 記憶の書店、記憶の本棚」、「第6章 『東京』という空間」、「第7章 『平成』の終り」と続く。読書をめぐる空間と時間が、目まぐるしく変わりつつあるのを書き留めている。
 
たとえばこんなふうだ。

「今、本の世界は二極化してしまった。
 三千部(以下)の世界と三万部(以上)の世界に。〔中略〕
 三千部と三万部の間、すなわち八千部から二万部売れる新刊が存在する余地は今の書店状況にはない(それらの本を支えてくれたのが、昔は目にした町の書店だったのだ)。」
 
そこで坪内さんは、地域の本屋として、下高井戸にあった近藤書店や、経堂駅のキリン堂書店などを思い出す。
 
僕は烏山の駅近くにあった、烏山書房を思い出す。女房と2人で書棚を見ていて、「みすずのハンナ・アーレントがないね」と小声で言うと、いつの間にか店の人が寄ってきて、耳元で「ハンナ・アーレントの××と○○は、1週間以内に入ります」と言って、なんでもないように離れていった。そんなことは初めてで、あとにも先にもないことで、ドキドキした。
 
坪内さんの近藤書店やキリン堂書店、僕の行きつけだった烏山書房などは、とっくにない。
 
でもね、僕はもう要介護の身で、八幡山の啓文堂を見てまわるのが精いっぱい。都心の三省堂やジュンク堂には、行くことができない。そういう身としては、アマゾンや「日本の古本屋」を筆頭とするネット書店は、最後の命綱なのだ。

(『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』坪内祐三、
 幻戯書房、2020年7月15日初刷)

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