このサブタイトルは必要か?――『戦後詩―ユリシーズの不在―』(寺山修司)(3)

「戦後詩」は、夜を主題にしたものが多い。つまり、比喩的に言えば、「おやすみの思想」が詩の主潮になる。これではまったく意気上がらない、と寺山は言う。

「おやすみは、コミュニケーションの終りの挨拶である。ここからは何もはじまらない。少なくとも対話としての詩の可能性は望むべくもないのである。」
 
だから「おやすみ」ではなく、「おはよう」ということを考える。

「『おはよう』はこっちから話しかけるための出だしのファンファーレである。それは話しかけられるのではなくて話しかけるためにある。私の考えでは『弱者の文学』でしかなかった戦後の詩に、最初の『おはよう』を持ちこんだのは谷川俊太郎である。」
 
ここで初めて「戦後詩」の転換点が、誰にもわかるかたちで現われる。

「彼の処女詩集『二十億光年の孤独』は、私にとって、ひどく親しい友人からの手紙を思わせたものだ。」
 
その時代を考えれば、この詩集の衝撃力は、想像をはるかに超えたものだったろう。

「私は『いかに生くべきか』の詩が、はじめて『いかに死ぬべきか』にとって変るべき時がきたことを感じた。谷川俊太郎は、戦後詩史の上では人であるよりも前に事件だったといえるだろう。」
 
この寺山の評価に、付け加えることは何もない。
 
ただ最後の2行を読むと、谷川俊太郎もまた、いい意味で、時間と環境に制約された人と思われる。

「私は彼〔=谷川俊太郎〕のなかに強い詩人を見出す。それはあらゆる権力によらず、経済的な背景も集団の後押しも必要としない、きわめて不安定な『個人』の強さなのであった。」
 
谷川俊太郎の後ろには、父である谷川徹三、戦後の一時期、自由な日本を引っ張っていった、哲学者の顔が見える。
 
第三章は「詩壇における帰巣集団の構造」、といえば何やら厳めしいが、要するに詩の雑誌のことである。

「詩歌壇における結社誌とか同人誌とかの発行の意義は、もはや一つのメディアでむすばれた作者と読者の関係などではなくて『相互慰藉』ということに絞られてしまっているようである。それは新興宗教の団体よりも、もっと味気ない感傷の福祉団体なのだ。」
 
客観的に言って、詩の雑誌はこういうものだと突き放し、さらにたたみかける。

「彼等は『みすぼらしい人生』を報告しあう。そして報告を芸術であるかのように誤解することによって、辛うじて生甲斐という免罪符を受け取っている。彼等には『救済』へのはげしい願望もなければ、『変革』のための身をよじるような苦悩もないのである。」
 
匕首を突きつけて迫り、相手の胸倉を、心臓の中まで抉り取る。そういう文章である。
 
その結果、この章の題名に帰ってくる。

「彼等にとって、打ちあけあう心は出発点ではなくて『巣』である。なぐさめの藁と、あきらめの泥によってかためられた心の巣にはいつでもお互同志を迎え入れる準備ができている。それはいかなる世界へ向っても、決してひらくことのない、ほとんど絶望的なディスコミュニケーションの牢獄である。」
 
そういう結社の代表として、ここでは短歌の「アララギ」が取り上げられ、歌が二首、引かれる。

 「ダンスもし麻雀将棋囲碁するにやはりわれには短歌が似合う

  禿頭に苦しみ事務に苦しむに今月もまた「アララギ」に落つ」

一首目は字面通りで、ただそのまま。

二首目は「禿頭」や「事務能力」によって自信のなくなった自己を、仲間同士の場で何とか回復したい、しかし今月も「選」に漏れたなあ、という短歌命の詠嘆である。
 
よくこんな短歌が、寺山修司の前に、おあつらえむきに出てきたものだ。ほんとに笑ってしまう。
 
しかし寺山は、ただ一方的に、これらの短歌の読み手たちを、突き放しはしない。

「会費を払って毎月、こうした生甲斐を交換しあう歌人たちのことを思うと、なぜか心にしみるものがある。たぶん、どんな時世にあっても『つまらない人生』などというものは存在しないであろう。」
 
寺山はちゃんと分かっているのだろう。そして「つまらない人生」は存在しなくても、「つまらない詩歌誌」は高名であっても存在する、ということを。

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