「『荒地』の功罪」という章がある。『荒地』はもちろん、T.S.エリオットの「荒地」ではなく、それにちなんで田村隆一や鮎川信夫、北村太郎らが同人となった雑誌『荒地』である。
ねじめ正一『荒地の恋』で有名な、この同人誌の刊行時期を確かめてみると、1947年9月から1948年6月までの、1年に満たない期間である。
寺山修司はこの章を、こんな言葉で始めている。
「私がはじめて戦後詩と出会ったとき、戦後詩は大分くたびれた顔をしていた。
それは一つの時代の漂流物に纏いつかれて身動きできないでいる『弱者』の苦悩を思わせた。『荒地』運動の中に私が見たものは、『いかに生くべきか』という思想ではなくて、『いかに死ぬべきか』というシニシズムの影であった。」
戦後が始まったばかりなのに、「戦後詩」はもう、「大分くたびれた顔をしていた」というのである。
「特攻」に象徴されるように、第2次大戦末期の日本は、死の影に覆われていた。もちろん上層部と皇室は、いち早く逃げ延びることを目的としたが、それ以外の日本人は、ずっと死と隣り合わせだった。
その余韻が、『荒地』の中にも漂っていたのか。
「戦後詩の出発点は、鮎川信夫の『詩を書くことだけが誠実であり……それを特に悲劇的なものと見做さねばならぬところに、現代意識の特徴がある』という意見に代表されるような一種の悲壮感に支えられていたのである。」
時代が違う、環境が違う、としか言いようがない。
引き続き鮎川信夫の言を引く。
「『もし誠実を失うならば、悲劇性をも同時に失うのであり、現代文明の破滅的な危機に直面して知識人に課せられた厳粛な使命を擲つことになる』というほどの重い責任感が支配していた。」
個人は何ぴとであろうと、時間と空間を限られて生きなければならない、ということが、いやになるほどよくわかる話である。
ここでは黒田三郎の「死のなかに」、山本太郎の「祈りの唄」、そして福島和昭の「みみよりも愉快な自殺の唄」が引かれている(引用はしない)。
『荒地』の時代の総括として、寺山は痛烈な言葉を投げつける。
「これらの疑似悲劇の系列の作品には、社会との関わりあいの感覚、べつの言葉でいえば『愛』がすっぽりと欠落しているのである。」
寺山はさらに、愛が欠落するとはどういうことかを、的確に描く。
「ここには『自己の存在を盲目的に束縛するというよりももっとおそろしい危険――深く愛し愛されることによって他人の存在を左右する立場に立つ』という自分の運命がいささかも感じられないではないか。」
終戦直後の個人は、そこまで追いつめられていた、ということだろう。他者を愛し、その結果を引き受ける、という余裕は全くなかった。
「『いかに死ぬべきか』という思想は、結局『荒地』運動の出発時以来不毛だったのであり、この『幻滅的な現代の風景を愛撫する』という姿勢が、現代詩を弱者の文学に追いやってしまったのだと私は考えるのである。」
『荒地』に出発する戦後初期の「現代詩」が、どんなものであるかを、私はごくわずかに知っているだけだ。それに『荒地』といっても、さまざまな詩人がいて、その個性を無視することはできない。
しかしそれでも、寺山修司によって「戦後詩」が、初めから負の烙印を押されていた、ということは重くのしかかってくる。
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