これは荒川洋治『霧中の読書』に、サブタイトルの失敗例として挙げてあった。
副題が失敗例であろうがなかろうが、寺山が「戦後詩」を総体としてどう見ていたか、というのであれば、これは是が非でも読まねばなるまい。
この本は、1965年に紀伊國屋書店から刊行され、1993年、ちくま文庫に収録され、2013年には講談社文芸文庫に収録された。
それを読む前に、荒川洋治がサブタイトルの失敗例として、挙げてある理由を見ておこう。
「首をかしげたいものもある。寺山修司『戦後詩――ユリシーズの不在』(一九六五・現在、講談社文芸文庫)は、現代詩論としてとても魅力のあるものだが、『ユリシーズの不在』とはいったい何だろう。」
これでは何のことか分からない、というわけだ。
「日本人の大多数はギリシア神話に暗い『風土』だから、これは無理。副題の失敗例かと思われる。『ユリシーズ』もわからないうえに『不在』が来ると、よりわからないという、ぼくのような人は他にもいるだろう。読む人がみんな寺山修司のような教養人ではないことを天才寺山修司はつい忘れたのだと思う。」
だからこのサブタイトルは失敗だと、荒川は言うのだ。
この問題は最後に考えてみよう。
この本は1965年に刊行されている。つまり1945年から20年間の、戦後詩を扱っている。そういう意味では、今から60年前に問題とされていた事柄が、今では問題にされない、ということがある。
例えばこんな話題。
「何かをいうためには、私たちは代理人を立てなければいけない。
多くの代理人たちは忙しそうに、私の為すべきことを『代行』する。政治家は、私の政治的活動の代理人であり、レストランのコックは私の台所仕事の代理人である。〔中略〕
活字にも頼らず、ことばの標準語化にもまきこまれず、いかなる代理人にも頼らず、私自身のことばで詩を直接的にコミュニケーションする『自分の場所』は、もうないのだろうか?」
今、こういうことで悩んでいる詩人は、いるのだろうか。人々の暮らしが、内面からも、外面つまり社会的にも整ってきて、戦後は徐々に一掃されていく。
「自身のことばで詩を直接的にコミュニケーションする『自分の場所』」が、いったい何のことかわかる人間は、あの時代にも少なくなり、今ではもう何のことやらわからない。そういうことではないか。
しかしもちろん、すぐれた詩が目の前に現れて、有無を言わせず、時間なんか飛び越えていく場合もある。
「記号的現実の世界を訪ねるために、読者に一つのパスポートを貸してあげよう。それは『恐山』と題された長谷川龍生の詩である。〔中略〕この詩の意味する世界とか、作者の意図とかとは全く無関係に、呪文か阿呆陀羅経でも唱えているような恍惚感にあふれてきて、やがて『記号経験』というものの不思議さを験すことができるだろう。」
そして「恐山」の詩が、13ページにわたって引用してある。これはあまりに長くなるので、最初のクライマックス(と私が思うところ)の一節を挙げておく。
「きみも、他人も、恐山!
人っ子ひとりいない
山の上にひろがる火山灰地。
真冬の夜の、おちくぼんだ空に
かすかに散るつめたいしだれ花火。
かよわい渡鳥類が
その山巓〔さんてん〕にまで
やっと、たどりつき
息たえだえに落下する灰ばんだ湖水。
きみが、英雄であろうとも
他人が、書記長であろうとも
きみも、他人も、恐山!
癩のように、朽ちはて
ただれ、ふやけた脚をさすり
風てんになった頭脳に光をとぼし
ああー ああー ああー ああー
ううー ううー ううー ううー
死人のうめき声が
こがらしに舞いむせび
ひからびた赤ン坊のあばら骨に
火山灰が、しんしんと
降りつもっている
どすぐろく変色し、しわのふかい
更年期おんなの、くちびるが
だらりと、ゆがみ、たるんで
意味不明の祭文が、きみと、他人の耳に
ひびいてくるだろう
〔中略〕
きみも、他人も、恐山!
悲しみも、こごえる、人の世の断崖。
霧のたちこめる怨霊の空のはて。
さまよう個人主義者の自殺する空井戸。
きみの、その、覆面の下の白い顔。
きみの、その、仮面の裏の汚れた顔。
きみの覆面、きみの仮面を
はぎとり、殺していく
他人の覆面、他人の仮面。
きみも、他人も、恐山!
きみも、他人ものぼっていく。」
これでも引用全体の6分の1。
寺山修司は、「この詩を声を出して読まれるといい、必ず声を出して」という。それで私はほんとに、声に出して読んだ。明らかに昂揚しているのに、気持ちの全体は沈み込んでいく、何とも言えない瞬間だった。
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