荒川洋治の『霧中の読書』に、『うらおもて人生録』(色川武大)の批評が書かれていて、素晴らしい文章だった。
たとえば、こんな感想。
「一章一章の濃度が高いので、次から次へと読むことはできない。そうかあ、と感心しながら、人間についての新しい発見をしながら読むので、ことばと文章にしっかりと向き合って読むと、実はとても時間がかかるのだ。軽やかに書かれているのに、知らず知らずに心地よい重みがかかるのである。」
平明で的確。しかし問題は、この次である。
「こういう文章は、日本の人生論ではこれまで現れたことのないものである。これは小説だが、アメリカの作家シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ、オハイオ』(一九一九)をぼくは思い出す。ちょうど百年前の短編連作だ(一つの長編でもある)。一つの町のなかで生きる人たちの孤独な、でもそれぞれに大切な人生を映し出したもので、二二編の短編は一つ一つがすばらしい重みをもつので、とてもひといきには読めない。」
一瞬、うっと息がつまり、眼が点になる。『ワインズバーグ、オハイオ』、ほんとかよ。
荒川洋治はこんな言葉で、2作品を結ぶ。
「〔『ワインズバーグ、オハイオ』は〕そらおそろしいほどの感動をおぼえる名作だ。色川武大のエッセイは、アンダーソンの短編を思わせる。そんなはるか遠い例しか思いつかないほど、色川武大の文章は特別なものだ。」
これは『ワインズバーグ、オハイオ』を読むしかない。幸い新訳が、新潮文庫で2018年に出ている。
と思って読んでみるが、これがけっこう大変なのだ。
色川武大の『うらおもて人生録』は、毎日新聞・日曜版のときから読んでいた。本になったのも読んだ。
人生においては、どこまでも九勝六敗をめざせ。負けになってはいけないが、大勝ちしてもいけない、長くは続かない。これは色川武大の、人生の知恵として知られている。ここらあたりは、色川武大というよりは、博奕打ち阿佐田哲也の心得である。
『うらおもて人生録』は、しみじみとして、面白く、心豊かになった。そういう記憶がある。
一方、『ワインズバーグ、オハイオ』は、寂れた田舎町を扱って、表面的には、味わい深い面白い小説ではない。
カバー裏表紙の惹句を引いておく。
「オハイオ州の架空の町ワインズバーグ。そこは発展から取り残された寂しき人々が暮らすうらぶれた町。地元紙の若き記者ジョージ・ウィラードのもとには、住人の奇妙な噂話が次々と寄せられる。僕はこのままこの町にいていいのだろうか……。」
アンダーソンは、人間が様々な衝動(性はその最も大きなもの)に、晒されていることを見抜き、合理的には説明のつかない人間の行動を、生々しく描き出した。
20世紀初めの作品なので、小説の典型的な文体でないものも混じる。ときどきはノンフイクション的な要約文体も混じっている。
もう一つ厄介なのは、これが新訳だということだ。最も新しい新潮文庫は上岡伸雄・訳だが、この文庫はもとは橋本福夫・訳で、1959年に上梓していて、長くこの版で親しまれてきた。ほかにも何種類か訳本がある。
『ワインズバーグ、オハイオ』と『うらおもて人生録』の共通点を言うなら、どの訳本かを言ってくれないとどうしようもない、ということにならないだろうか。
そういうこととは別に、『ワインズバーグ、オハイオ』は異常な物語で、独特の面白さがあった。読み進むうちに、私は自然に、山本周五郎の『青べか物語』を思い浮かべていた。物語の異常な位相が、よく似ていると思ったのだ。
(『ワインズバーグ、オハイオ』シャーウッド・アンダーソン、上岡伸雄・訳
新潮文庫、2018年7月1日初刷、2022年1月10日第2刷)
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