橋本忍が、松本清張原作でシナリオ化したものは、『砂の器』の他に、『張込み』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』『ゼロの焦点』『霧の旗』『影の車』と、6本ある。
しかし、この章で扱うのは『砂の器』、1本である。それほど橋本忍にとって、この映画の持つ意味、つまり当たらないだろうという周囲の見方を、徹底的に覆したことは大きい。
しかしその前に、ここには題名が挙がっているだけで、まったく触れられていない『影の車』に言及したい。
1970年に公開されたこの映画を、私は70年代半ば、大学生のころに見て、忘れられない1本となった。一言で言えば、ゾッとするほど怖い映画なのだ。
主演は加藤剛、岩下志麻。このコンビは他にも、松本清張原作の映画を何本か撮っている。
2人は不倫の関係にあり、加藤剛の女房は、そのことにまったく気付いていない。亭主は絵に描いたような平凡な男で、女房は、地域の奥さんたちとの付き合いで忙しい。小川真由美が神経の太い、鈍感な奥さんを演じていて、素晴らしかった。
岩下志麻は女手一つで、6つくらいの男の子を育てている。その家庭に、加藤剛が入り込んでくる。2人は女の家で逢引きを重ね、ずぶずぶと関係を深める。
そして破局がくる。女が出かけているとき、男は会社の仕事で疲れていて、うたた寝をする。ふと気がつくと、ガスが充満している。窓を開けようとするが、どの窓も外側から目張りがしてあり、男は徐々に気が遠くなっていく。
かすむ窓を通して見た庭には、あの男の子が、鉈をもって、殺意もあらわに立っていた。
そこで場面は変わって、警察に取り調べを受ける加藤剛。小学生にもならない子どもが、はっきりした殺意なんか抱くものか、バカなことを言うな、と刑事は言う。
そこで、奥底に秘めた男の、遠い殺意が蘇ってくる。
子どもの頃、母親と2人きりだった。そこにおじさんが入り込んできた。男と女の交わりを、次の間からこっそり見ていた。
ある日、おじさんは釣りに行こうと、少年を誘った。おじさんは断崖の途中から、腰に命綱を巻いて、魚を捕っている。少年は小刀で、おじさんの命綱を切ったのだ。そのときの殺意が、まざまざと蘇る。
書いてみると、どうということのない映画だが、この映画はバックの曲まで覚えている。そして今でも、口をついて出てくる。
記憶は変形して、きっと私の中で、より怖いことになっているだろう。だからこの映画は、テレビで見る機会があっても、見たことはない。ずっと私が温めてきた、怖い印象のままで、行くことにする。
さて『砂の器』だ。これはもう「親と子の旅路の果て」、ただそれだけの映画である。
この章は、全部オミットしてもいいのだけど、橋本忍の特徴がよく出ているという点では、この章をおいて他にないので、そういう訳にはいかない。
そもそも橋本忍は、この原作をどう思っていたか。
「いや、まことに出来が悪い。つまらん。もう生理的に読めないの。半分ぐらい読んだけど、あと読まないで、どうしようかと思ってたんだけどね……」
橋本は断るつもりだった。これに待ったをかけたのが、助監督の山田洋次だった。橋本は、山田洋次が「松竹の代表」のように映っていた、と語る。
そうして橋本は、あるアイデアを思いつく。
「そういえば、小説にはあの父子の旅について二十字くらいで書かれていたよな。《その旅がどのようなものだったか、彼ら二人しか知らない》って。〔中略〕
それじゃ洋ちゃん、この小説の他のところはいらん。父子の旅だけで映画一本作ろうや。〔中略〕
できたってできなくったって、それ以外に方法はないんだよ。」
こうして『砂の器』は、原作とは違う、別の話になったのである。
当たり前だ。橋本忍は、原作をまともに読んでいないのだから。しかし私は、2種類の結末があることを、全然知らなかった。
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