ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(8)

試みに映画史を書くとしよう。ローラーで均したところに、これはという映画のタイトルを嵌め込んで、これはいかにも優れたプロデューサーや監督、シナリオライター、役者などが、力を合わせたからできたのだ、というぐらい嘘くさい話はない。

1967年の『日本のいちばん長い日』(東宝・岡本喜八監督)などは、映画はできるにはできたが、だれも(橋本忍ですら)大ゴケするに違いないと思っていた。
 
これは玉音放送が流れ、終戦に至るまでの1945年8月14日と15日、内閣や軍部の動きを追った作品である。俳優陣は三船敏郎、山村聰、小林桂樹、加山雄三、志村喬、笠智衆など、東宝オールスターが集結した。
 
とくればシナリオは、橋本忍をおいて他にはいない。
 
ところが彼は一言のもとに、やらないと否定した。

「『日本のいちばん長い日』を僕のところに持ってきたのは東宝の田中友幸プロデューサー。『橋本君、やってくれよ』というから、最初は断ったの。『そんなもの、今さら入るわけないよ』と。
 というのもね、新東宝が『日本敗れず』(五四年)っていう八月十五日を舞台にした映画をやった時も、東映が『黎明八月十五日』(五二年)という企画を持ってきた時も、外れてるんだ。だから、今回もすぐ断ったわけ。」
 
橋本忍は他の例を挙げて、明快に断っている。
 
ところが橋本は競輪に狂っていて、このときもすぐ後に競輪をやり、スッテンテンになって、帰りの電車賃もなくなった。

それで後楽園から、日比谷の東宝まで歩いて行って、前言を翻して、シナリオは書くと言い、そのかわり1週間後に、脚本料を払い込んでくれ、と言った。
 
この映画は、その後もごたごたが続き、監督は小林正樹から岡本喜八に替わっている。
 
そういうこともあって、東宝の社内でも、ダメだろうとなっていた。

「でも、金だけどんどんかかっていく。これはもう、阪急に対してどういう申し訳するかということにまでなったんだよ。東宝は阪急資本だからね。
 普通の作品で外れたんならいいけれど、普通の作品より二倍とか三倍とかっていう製作費かけてよ、それがベタにこけたら大ごとだからね。だから、コケるという前提で、あらゆるセクションが撮影中から事後処理にうごいていたんだ」。
 
その果ては、8月15日に公開する予定を、9月15日に公開する、という画策までした。封切りが1カ月ずれたことが、いいわけになると考えたのだ。
 
これは橋本忍が烈火のごとく怒って、8月15日の封切りとさせた。

私が思うに、橋本は最後に、博奕打ちの血が騒いだのではないだろうか。絶体絶命だが、勝負は勝負、万に一つの勝ちもあろう、と。

「開けたらもう大入りになったわけだよね。〔中略〕当たりも当たり、とんでもない当たりになったんだ。
 ああいうことがあるんだよな。上から下まで、作った僕からみんなが外れると思ったものが――とんでもない。それが多少当たったというんならいいんだけれどね。とんでもない大当たりすることがある。」
 
振り返ってみれば、当たり前である。『日本敗れず』や『黎明八月十五日』では、意気が上がらない、というより真っ赤な嘘である。それに対し、まずタイトル、『日本のいちばん長い日』がいい。そしてシナリオは橋本忍、役者はオールスターキャスト、どこから見ても、当たる要素しかない。
 
そう考えるのは、歴史を見るとき、現場に自分を立たせる想像力が足りないのだ。

企画を考え、実現していくのは、いつも将来に向かって、五里霧中の闇を進む人間なのだ。関わった全員が、試行錯誤する群像が、見事に描かれている章だ。
 
もっともこの節の最後は、橋本忍のこんな言葉で締めくくられている。

「興行というのは全く水もの、これは。だから、やってみなきゃわからんよ。『日本沈没』なんかは『絶対に入る』と思っていて、やっぱり入ったんだけどね」。
 
揺るぎない、絶対の自信。橋本忍はこうでなくちゃ。

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