橋本忍は初めての脚本、『山の兵隊』を伊丹万作のところに送り、はからずも返事をもらう。
とはいうものの伊丹の返事は、構成上直した方がよいところを指摘した上で、最後にこんなことが書いてあった。
「あなたにはものを書く素養が欠け、才能や感受性のほうが先行し過ぎているのではないかと思われる。」
これはかなり厳しい批評だが、橋本は、伊丹から返事が来たことの方を、喜んでいた。
別のときに、橋本に『山の兵隊』を読んでもらったことがある、と春日太一は言う。
「倉庫の中から伊丹さんに送った最初の『山の兵隊』が出てきたの。で、読んだの。
つまらない。粗雑というか稚拙でね。いいかげんなホンなんだ。でも、びっくりしたのは、僕が読んでも『この人は見込みがある』と思えたんだ。何か非常に大きな興味を持たせるものがあるの。稚拙な出来損ないでもね、きらっと光るものがあるんだよ」。
実はここに、橋本忍のもっとも強い個性が出ている。
春日太一はこう書いている。
「これから後で出てくる証言においてもそうなのだが、橋本の言葉には自身の才や作品への自信が強固に表れている。謙遜は一切ない。」
ふつうはそれを奥底に隠して、人に読んでもらうときにはやや下手から、となるはずだが、橋本忍に関しては、そういうところは一切ない。
その稚拙な『山の兵隊』は、療養所に入院した「廃兵」の群像劇である。
「『廃兵』として扱われる彼らを覆う絶望感が伝わってくる。その後の橋本脚本には、共通する特徴がある。それは、理不尽な状況に追いやられた人間を表現する際に筆致が強くなり、特に卓越した描写力を発揮するというものだ。初の脚本で既に、その萌芽が見られるのである。」
その後、どういうやり取りがあったのかは、よくわからないが、橋本は伊丹万作の、ただ1人の弟子になるのである。
日本が戦争で負けそうなとき、橋本はふだんは軍需工場で仕事をし、通勤の行き帰りと休みの日には、シナリオを書き、それができたならば、伊丹万作のところへ持って行き、見てもらう。
伊丹も「熱心に」指導したらしい。習作シナリオの表紙に、伊丹によるものと思われる、次のような指摘が記されている。
「〇全体としての登場人物に生活がない。所謂、類型的登場人物ばかり出ている。
〇周囲の登場人物が克明に描かれていないから主人公の営みがういている。
〇社会性が欠如している故か、何故こうなり、こうひどくあらねばならぬか、それがな
いからそれに耐えて生きてゆこうとする結末が空々しく浮いてみえる。
〇肉づけ自体にするにしては話が急すぎるし、余分のものがからまりすぎている。
〇唯暗いだけである。」
「熱心に」、と春日太一が書いているから、そのままを踏襲したが、批評を見ると、ボロクソとしか言いようがない。とくに最後の、「唯暗いだけである」というのは、まるで現代詩のようだねえ。
ひとつ分からないことがある。
一切謙遜しない橋本忍は、どうやって伊丹万作の、批評というか、全否定に近い罵倒に、耐えていたのだろう。ふつう謙遜しない性格なら、たちまち席を蹴って二度と会わない、となるはずではないか。違うかな。
しかしそうはなっていなくて、戦況がいよいよ不穏になっても、休みの日になれば、伊丹のところへ通ってくる。まったく不思議だ。
1945年8月15日、日本の無条件降伏により、戦争が終わる。
橋本忍にとっては、この時期、戦争が終わるのは、願ってもないことだった。アメリカから、結核に効くストレプトマイシンが、入ってきたのである。もって2年といわれていたのが、ここから70年以上、寿命は続くことになる。
しかし橋本とは逆に、療養していた伊丹万作は、1946年9月に亡くなる。
師を失ったまま、橋本は「心の穴を埋めるため」、シナリオ執筆を続ける。この段階では、「商業デビューすることも、専業ライターになることも、全く考えていない」と、春日太一は言う。
この時期に橋本忍は、芥川龍之介の『藪の中』を、シナリオ化することを考えつく。
「夏目漱石は何度も映画化されているが、芥川龍之介はまだ映画化されていない。それなら自分の手で書こうじゃないか」。
しかしこのときも、あくまで暇つぶしであり、映画化など夢にも思っていない。そのシナリオは、『藪の中』というタイトルでは地味だと考え、新たに『雌雄』と付けていた。
それがいろんな経緯を経て、黒澤明の手に渡り、映画化されることになる。しかし、そのシナリオの直しの経緯も、関係者の発言は「藪の中」なのである。
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