ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(1)

橋本忍は1918年(大正7年)、兵庫県に生まれ、2018年(平成30年)に死んだ。ちょうど100歳だった。
 
脚本家として、『羅生門』『生きる』『七人の侍』『張込み』『私は貝になりたい』『ゼロの焦点』『切腹』『白い巨塔』『日本のいちばん長い日』『人斬り』『日本沈没』『砂の器』『八甲田山』などのシナリオを描いた。
 
ざっと目につくものを挙げただけでも、戦後映画の本流を歩んだ、最大の脚本家である。
 
この本は春日太一が、橋本忍を取材し、12年かけて書いた。
 
私はこの本と前後して、島﨑今日子『ジュリーがいた―沢田研二、56年の光芒―』を読んでいた。
 
これは、あまりにも対照的な本だった。『ジュリーがいた』の方は、ついに沢田研二は一度も、取材を受けることはなかった。
 
それに対して、『鬼の筆』の橋本忍は、徹底的に取材を受けた。ただ、その橋本忍像が、世間一般に出回っている脚本家像とは、かなり違っている。

つまり橋本忍像は、取材をした春日太一の筆によるものなのかどうか、が分からない。
 
春日太一についても、奥付の著者紹介を引いておく。

「1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了(芸術学博士)。著書に『天才 勝新太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『忠臣蔵入門 映像で読み解く物語の魅力』(角川新書)など多数。」
 
ただし私は、春日太一の本を手に取ったことはあるが、読んだことはない。
 
さて橋本忍は幼少のころ、祖母から農民一揆の話を、何度も聞かされた。

「明治初期に播磨・但馬地方で政府に対して農民たちが蜂起、『播但一揆』という大規模な一揆に発展した。〔中略〕『お婆ちゃん』もその一揆に参加しており、その顚末を幼い孫に聞かせていたのだ。」
 
つまり単なる昔話ではない。祖母が実際に体験した話なのだ。

「『あっちの村でもこっちの村でも、ゴーンゴーンと早鐘が鳴ってのう――』
『お婆ちゃん』の昔話は、いつも同じ出だしで始まった。穏やかな顔から語られたとは想像できないような、陰惨で血なまぐさい暴動の顚末には、橋本はいつもワクワクさせられた。
 橋本によると、この時の『お婆ちゃんの話』が、後に脚本家として陰惨で理不尽な話ばかり書くことになる原点となったという。」
 
祖母が語った昔話の内容も、ここに挙げてあるが、百姓一揆の顚末は、陰惨を極めたものだ。橋本忍は、祖母にねだって、それを何度も何度も聞いたという。
 
もう一つ決定的なことは、父親の徳治が、橋本の小さいころから、芝居の興行を打っていたことだ。

「芝居小屋といっても、大袈裟な作りの建物ではない。畑をならして筵を敷き、その上にテントを張っただけの、わずか二日で出来る簡素なものだ。橋本が後に脚本家になり東京に出てからも、徳治はこの地で芝居小屋を続けて」いた。
 
徳治は興行の才覚があり、芝居はいつも盛況だった。毎年、芝居の時期になると、さまざまな座長やプロデューサーたちが、徳治のところへ売り込みにやってくる。

「企画の魅力を必死に語る座長たちと、博打打ち特有の直感でその成否を分析し、断を下す徳治。橋本は、その様子をいつも間近で見ていたという。芝居の関係者たちと丁々発止の交渉を繰り広げ、自身に優位な契約へと持っていく父の姿に、橋本は憧れた。」
 
理不尽に死んでいく農民の怨念と、芝居興業へのたぎるような熱い思い、――橋本忍の、人としての成り立ちを語って、見事なものである。
 
しかしそれだけに、書かれていることには概ね納得するが、最後の最後に、ほんとかなあ、という疑いの気持ちが紛れ込むのを、何ともしがたいのである。

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