同じ年齢だ――『成城だより』(大岡昇平)(1)

というわけで、大岡昇平『成城だより』を読む。
 
校條剛さんの『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』を読んだとき、大岡昇平が、武田百合子・花の親子にからかわれるのを見て、はてさて大岡は『成城だより』を読む限り、そんな人ではなかったが、と思ったのが、読み返すきっかけになった。
 
読むきっかけは、自分の心の針の揺れ具合である。
 
これは日記というか、備忘録を膨らましたもので、大岡昇平がそう書いている。
 
1979年(昭和54年)11月から、80年10月までをまとめたもので、このとき大岡昇平は、私と同じ70歳である。
 
これを最初に読んだとき、私は30代で、著者は遥かにおじいさんだった。しかし気づいてみればなんと同年齢、読み手の方が激変しているのだ。
 
読み始めれば、たちまち端正な文体のとりこになる。

「家並切れ、陽を浴びたる畠、空地の向うに夕日輝く。その方角の遠くに見える、這いつくばったる如き平屋が、わが家なり。窓小さく、屋根黒く、倉庫の如き外観。〔中略〕
 土埃は室内に侵入し、窓枠にたまったが、とにかく静かだった。屋内座業にはこの上なくよき環境だった。十一年使えれば満足だ。その家の外貌を遠望しつつ、空地中の道を戻る。」(11月12日)
 
言葉がしみ込むようなこういう読書は、久しくしていないことに気付く。
 
とにかく同年齢で、住んでいるところも、成城と上高井戸と近くである。何となく親しみが湧くではないか。
 
大岡昇平は戦争に行っている。そのぶん身体にガタが来ている。

「白内障手術してより空間感覚かわり、その上、椎骨血管不全、つまり立ちくらみあり、よろよろ歩きにて、コンサートに行けず、音楽のよろこぶべき来訪なり。」(11月13日)
 
これは大江健三郎が、武満徹の新作のレコードを持ってきてくれたとき。大岡は、武満徹と対談したことがあったのだ。
 
身体のことは、これからも何度も出てくる。

「順天堂病院北村教授の定期健診日(月一回)。年末と五の日重なり、道路混み、お茶の水まで一時間半かかる。心臓少し大きくなっている。利尿剤を増やさねばならないが、これを増やすと体だるく、仕事にならないのだ。」(12月5日)
 
考えてみると、私は半身不随で、血圧と便秘の薬を飲んでいる。9年前に脳出血を発症して以来、かかりつけの医師がいる。そう考えれば、戦争に行ってようが、行ってまいが、同じことだともいえる。
 
もっとも似ているのは、あっちこっち不備が来ている身体だけで、内面の緊張感はまったく違う。

「『同時代ゲーム』読了。面白かった。『万延元年のフットボール』より始まった、谷間の村落共同体の一揆的反乱ものの集大成というべし。幕藩体制、天皇制への反乱譚の、ファルス的構成、話法に特徴あり。谷間空間の創造神への信仰保持家族の、死と近親相姦的再生、奇想なりうべし。」(12月13日)
 
わずか数行で、『同時代ゲーム』の批評と感想を言い尽くしている。
 
一方、小説家らしく好奇心旺盛なところも。

「中島みゆき悪くなし。『時代』『店の名はライフ』など、唱いぶり多彩、ひと味違った面白さあり。詞の誇張したところは抑えて唱い、平凡なところは声をはる。歌謡曲とは逆になっているところがみそか。もっともニュー・ミュージックは七八年がピークにて、いまは歌謡曲とあまりかわらなくなりつつありとの説あり。」
 
新しい知識を文士仲間に披露して、得意になりたき面あり(あっ、移ってる)。

「客にドーナツ盤をきかせて、暮れから得意になっていたが、新しがり屋の埴谷雄高だけは、中島みゆきのヒット曲『わかれうた』の題名まで知っていた。しかし高石友也、岡林信康など、フォーク以来の系譜を扱った富沢一誠『ニューミュージックの衝撃』(共同通信社)は知らず、抑えてやった。」
 
ここまで来ると、まるで子どもなり。

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