沢田研二の謎――『ジュリーがいた―沢田研二、56年の光芒―』(島﨑今日子)(3)

島﨑今日子は、1999年に公開された映画、『大阪物語』のプロモーションで、沢田研二を取材したことがある。この本の「連載を終えて―後書きのようなもの―」に、そう書いてある。
 
この映画は池脇千鶴が主役で、その両親を沢田研二と妻の田中裕子が、映画の中でも夫婦役で出てくる。
 
このとき島﨑は、ジュリーにインタビューできるというので、舞い上がってしまい、あまり覚えていない、という情けない結果に終わったが、それでもいくつかのことは憶えている。
 
大物といわれる芸能人の威圧感が、ジュリーにはまったくなかったこと、田中裕子に対する手放しの愛情表現、そして島﨑の書いた原稿に、直しがまったくなかったことが、強く印象に残った。
 
島﨑今日子が、本気でジュリーを書いてみたいと思ったのは、およそ20年前のこのときからであった。
 
ところがジュリーには、なかなか会うことができない。

「それまでも、ジュリーには何度か取材を申し込んでいたがすべて断られており、もう取材は受けないとご本人が公言していた。」
 
このブログの初回に、オビ裏を取り上げ、これにはからくりがあると言った。

「共に『沢田研二』を創り上げた69人の証言で織りなす、/圧巻のノンフィクション」
 
これはつまり、本人は不在ということなのだ。

「69人の証言」といえば、圧倒される感じがする。事実この後書きには、いろんな人から奇蹟的に、資料や証言を提供されたことが出てくる。しかしご本人へのインタビューは、ただの一度も実現していない。沢田研二の肉声は、その時々の雑誌や放送によるしかないのだ。
 
僕にはこの点が非常に興味深い。
 
ジュリーはなぜ、一切の取材を断ったのか。
 
たとえば小説家が映画のプロデューサーに、原作権を売り渡した場合、その作家は以後、その映画に関しては何も言わない、という場合がある。
 
一方、脚本の段階で、注文を付ける人もいる。映画を撮り始めてからも、細かい注文を出す人もいる。それは人それぞれだ。
 
ジュリーは、自らが主役の本であっても、作家が書きたいように書けばいい、それについては、全てを受け入れる、というのだ。
 
これは大変珍しい。沢田研二は、これまで「ジュリー」というスターを作ってきた。作家が本で、作家による「ジュリー」というスターを作りたいなら、それは自分の意思で、どうぞおやりなさい。ただし沢田研二は、そこには一切、関わりはありませんよ。そういうことだろうか。
 
突飛な話だが、僕は大岡昇平が『成城だより』に描いた、小林秀雄を思い出す。大岡は、小林は一切振り返ることをしない人だ、と書く。
 
大岡昇平は昔のことを書いていて、どうしても小林に訊かなくてはならないことが出てくる。小林はきっと、そのことは忘れたなあ、と言うに違いない、と思いながら電話をする。
 
意外にも、小林は訊いたことに、丁寧に答えてくれた。
 
この挿話で強烈なのは、大岡が言った、小林は過去を一切ふり返らない、という言葉だ。
 
ジュリーは懐メロの番組に出ない。紅白歌合戦にも出ない。すべて意思をもって出ないのだ。
 
2008年、東京ドーム。沢田研二は60歳、還暦だ。

「二十分の休憩をはさんだだけで六時間半、八十曲を全曲フルバージョンで歌う圧巻のパフォーマンスを見せた。〔中略〕特設ステージを所狭しと駆け回るスターの声は一曲ごとに艶を増し、大きなスクリーンが一曲ごとにオーラを増幅させていく姿を映し出した。」
 
70を超えたジュリーは、今も走り続けている。そのコンサートを見たい。

(『ジュリーがいた―沢田研二、56年の光芒―』島﨑今日子、
 文藝春秋、2023年6月10日初刷、6月30日第2刷)

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