著者の島﨑今日子は、「沢田研二は『売れる』ために懸命に努力することを存在理由〔レゾンデートル〕に、走り続けてきたスターだった」と書く。
その彼が、ついに売れなくなった。
「きめてやる今夜」は、それでも13万枚のヒットとなり、1983年の日本歌謡大賞でプロデューサ―連盟賞を、また日本レコード大賞の特別金賞を受賞した。
しかしこれは、10万枚を超えた最後のシングルレコードだった。
1987年、国鉄が民営化されてJRとなり、地価は高騰し、東京全体の土地代でアメリカ全土が買える、と言われたバブルの時代、沢田研二は苦闘していた。
ファンの会誌『不協和音』に、この頃を語ったインタビューが載っている。
「たとえばツアー中、一階席は埋まっても二階席が空いていることに触れて、それを太ったなどと容姿のせいにされることへの苛立ちを隠さない。
〈要するに僕はずっと変わってないっていうの。僕はそんなに大したもんじゃなかったのに、周りですごいよ、すごいよって言ってすごいもんになっちゃったわけよ。それが今度はすごいもんじゃないってことになれば、周りは僕を責めてりゃ間違いない、絶対、安全パイなわけや〉」。
それでもジュリーは、来た仕事を誠実にこなす。1988年5月放送の「疾風のアラビア~天地創造の大地をゆく~」(テレビ朝日)は、ジュリーがレポーター役で、中近東を長期に取材して回り、見ごたえのあるドキュメンタリーになっていた。
しかしジュリー自身は、どこへ行くのか分からず、彷徨する。
〈一番つらかったのは、レコードは売れなくなるのだなあと、分かったことかもしれない。ちょうどそのころ『お芝居せえへんか』と誘ってくれる人がいて、その後10年間、新宿のグローブ座で歌を歌うお芝居に出演し続けました。1日ですべてが終わるテレビより、1カ月の間に少しづつ進んでいくお芝居のペースがいいなあと思うようになったんです〉。
これはジュリーが55歳のとき、毎日新聞(2003年7月3日夕刊)のインタビューで、あのころを振り返ったものだ。
この「ACTシリーズ」は東京グローブ座で、1989年春から、10年間にわたって上演された。
「『三文オペラ』の作曲家クルト・ワイル、映画にもなった無頼の作家ボリス・ヴィアン、作曲家ニノ・ロータ、シュルレアリスムの芸術家サルバドール・ダリ、シェイクスピア、エディット・ピアフ、バスター・キートン、エルヴィス・プレスリー、宮澤賢治、近代漫才を発明した漫才師。国も年齢も職業も、性別さえ違う時代のアヴァンギャルドを、時代を背負ったジュリーが演じて鈍色〔にびいろ〕の輝きを見せた。」
10年間、「ACTシリーズ」をやったことは、違う輝きを見せることに繫がったはずだ、と島﨑今日子は言う。
「ボリス・ヴィアンやキートンを歌い、演じるのだ。作詞の面での貢献もあるACTシリーズは、沢田研二に大きな影響を与えて、四十代からの背骨を作っていったのではないか。演じることで他者の価値観や生き方に触れ、共感や反発を覚えながらも発見し、刺激を受けていく。同一化の連鎖は〔中略〕、スターの血肉になって行ったに違いない。ジュリーが演じる時代の傑物たちは、ジュリー色に染まって蘇り、ジュリー自身をその色に染めていったのである。」
ひと口に10年というが、その期間、とことんやれば、たいてい何ものかにはなる。ましてある時代を象徴した人物を演じたのだ。何ものかにならない方がおかしい。
しかしその後も、ジュリーの苦闘は続く。そして60歳になったとき、朝日新聞の「ひと」欄に登場する。
〈60歳になったら、言いたいことをコソッと言うのもいいかな、と〉
〈言葉には出さないが9条を守りたいと願っている人たちに、私も同じ願いですよというサインを送りたい〉(2008年9月13日付朝刊)
アルバムの中に「我が窮状」という、日本国の現状と、憲法9条を歌った歌がある。
「『我が窮状』を歌う沢田を見た心理学者の小倉千加子は、書いている。
〈人は生まれた土地と育った時代によってその価値観を形づくる。メジャーな音楽界にいながら、それでもやはりジュリーは団塊の世代であり、京都の人だったのである〉(「週刊朝日」2009年1月30日号)
こうして、紆余曲折を経たジュリーの彷徨は、おさまるところにおさまる。
しかし僕は、途中から気づいていた、この労作の異様な成り立ちを。
この本では、ついに終わりまで、ジュリーは一度も取材に応じていないのだ。「週刊文春」の目玉の連載で、本人の一代記で、こんなことがあるんだろうか。
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