1969年はヴェトナム戦争が泥沼化し、国内では左翼各派が先鋭化し、各地で暴力闘争を繰り返していた。
校條さんは、早稲田大学文学部に入学はしたものの、革マルの独裁で全学ストライキが決行され、大学はほぼ半年間のロックアウトになった。
「卒業までの四年間、ろくに授業も受けられず、ナチまがいの暴力組織(革マル)の支配下にあって、教職員たちは嵐が止むまで冬眠状態、穴のなかでだんまりを決め込んでいた時期である。大学は学費も返さず、卒業証書だけを代わりに寄越した。」
早稲田のそういう時代は、樋田毅の『彼は早稲田で死んだ―大学構内リンチ殺人事件の永遠―』を読んで知った。それは「思い返せば、違う光景が」という題で、このブログに書いた。
このノンフィクションは、高い評判にもかかわらずひどい本で、そのことをそのまま書いた。
しかしこの本は、養老先生のいう「臨床読書」としては、実(じつ)のある本で、この時代の早稲田が、とうてい入学するに値しなかったことだけは、よく分かる(今はそんなことはないだろう、たぶん)。
校條さんは『富士日記』を、逆にそういう観点から、改めて見直している。
「そんな時代であったということは、『富士日記』からは微塵も伝わってこない。そこが不満なのではない。むしろ、社会を覆う雲とは無縁の生活の細々を拾っているからこそ、この『富士日記』いつまでも古びないで読まれているような気がするのである。」
一般にはそう言えるだろう。
しかしもちろん別の本の場合には、その時代が生々しく蘇ってくるから、時代を超えて読み継がれる、ということもありうる。これはどちらとも言えない。
終わりのところに、国枝史郎の伝奇小説『神州纐纈城』の話が出てくる。
武田泰淳の『富士』の担当編集者になった村松友視は、ありきたりの「山荘日記」ではつまらないと思い、『神州纐纈城』を持参したという。
「『神州纐纈城』は未完の長編であるが、純文学の作家たちの注目書でもあり、三島由紀夫、安岡章太郎もこの作品を愛好していた。一九九五年にオウム真理教のサティアンと呼ばれるアジトが本栖湖にも近い上九一色村(現在は富士河口湖町に吸収されている)に存在し、警察官が突入して教祖の麻原彰晃を逮捕したときに、私はちょうど水上勉と一緒にいたが、この作家が『神州纐纈城やなあ』と呟いたのを聞いている。」
ところが校條さんは、恥ずかしながらこの小説を読んでいなかった。それで「すぐに探し求め、夢中になって読了した記憶がある。」
私もまた恥ずかしいことに、この小説を読んでいない。さっそく読まなければ。
全体の終わりは、「永遠」と「今」をめぐる考察である。
「『富士日記』のなにが読者を感動させるのかというと、紙の上に書かれた文章に『今』が留められていて、それは決して過去ではなく『今』そこにある時空であるという、そのことが感動を呼ぶのではないだろうか。その『今』に『永遠』が重なって見える。」
優れた文章表現というのは、すべからくそういう面を持っている。
最後の一文はこうだ。
「一瞬にして永遠、人類も地球の存在も、過ぎれば一瞬、宇宙の塵になれば永遠だ。」
「あとがき」に、河出書房の編集者、太田美穂さんにお世話になったとある。私にとっても限りなく懐かしい人だ。
(『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』
校條剛、河出書房新社、2023年5月30日初刷)
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