失われた「山荘」を求めて――『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』(校條剛)(4)

アトランダムに続きを。

『富士日記』の中で、酔っ払った百合子さんが、別荘地を車で飛ばすシーンがある。校條さんによれば、『富士日記』の中でも「最高にはハイなシーンである。」

「〈酔って夜遅くスピードをあげて山の中を運転する素晴らしさ。お巡りさんも白バイもいない。両手を放して運転してみる。〉
 世の良識派にザマーミロと言いたくなるような、まことに素直な背徳表現である。チェーホフの短篇を『不倫の小説』としか読めなかった、私のかつての教え子たちにも言いたい。文芸は基本反道徳、反良識のものなのだと。」
 
百合子さんの酔っ払い手放し運転から、突然飛躍して、文学の悪の話にまで行ってしまう。
 
これは乱暴な言い方で、「世の良識派」からは、徹底的に突っ込まれるところだが、しかしこういう無防備なところに、校條さんの編集者として本音が出ている。
 
と同時に、原稿取りの実際のサジ加減が、分かるような気がして面白い。
 
文芸は「基本反道徳、反良識のもの」とは、必ずしも言えない。というよりも、道徳とか良識を超えるものであって、そんなことはどうでもいい。そこを基準に持ってくると、文学が文学ではなくなってしまう。
 
車谷長吉が『漂流物』で、衝動的に殺人を犯す料理人を、迫真の筆で描いたとき、芥川賞の審査委員は過半数が、物情騒然たる社会を煽るようなことはすべきでない、という理由で賞を与えなかった。
 
私は啞然とした。よそ行きの文学に将来はない。
 
長吉は怒りがこみ上げてくるようだった、と妻の高橋順子は書いている。

『インザ・ミソスープ』を書いた村上龍も、批判にさらされただろう。新宿を中心に大量殺人を繰り返す、気味の悪いペニスをもつ外国人は、そのころ連続殺人を犯した現実の犯人と、重ね合わせに読まれた。
 
読売新聞に連載されたから、反響も大きかったろう。単行本になったとき、村上龍があとがきに、そのことを淡々と書いていた。しかし一皮めくれば、本人は自分の力量に自信を持ち、ひょっとすると得意になっていたかもしれない。それが当然である、と私は思う。
 
一方、斎藤美奈子が東京新聞に書いていた、『海辺のカフカ』で、四国へ向かうバスの中で、主人公の少年は、年上の女性からペニスをしごかれ、女性の持つティッシュに射精する。それは重たい気持ちを和らげ、身体全体が軽くなるようなことだった。
 
しかしこの少年は未成年である。ジャニーズの問題が前面に出て、こういう性行為は微妙になった。人によっては、書くべきではない、という人もいるだろう。
 
斎藤美奈子のコラムは、『海辺のカフカ』の名前を出していない。なぜだろう。
 
もしジャニーズ問題が前面に出た後であれば、その性行為の場面は、違った文体で書かれたろう。しかし少年が、年上の女性の手で射精するところは、必ずあったと思うし、意味のある場面だったと思う。
 
文学と悪、または反社会という点では、いくらでも書くことがあるような気がするが、それではとりとめがなくなってしまう。
 
校條さんの言いたいことは、編集者は全力で著者を支えるから、作家は変なところでシュリンクせずに、ビビらずに、書きたいことを十全に書くように、というものではないか。
 
それが「文芸は基本反道徳、反良識のものなのだ」という、強い言葉になったのではないか。私はそう思う。

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