失われた「山荘」を求めて――『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』(校條剛)(2)

『富士日記』は、武田泰淳の半強制的な勧めで、武田百合子が書き始めたものである。始めたのは1964年7月18日、終わりは、武田夫妻が別荘暮らしに別れを告げる、1976年9月のことで、9日の日付が最終である。
 
そのひと月後に武田泰淳は、癌のため急逝する。
 
校條さんは、『富士日記』が再読、三読に値する作品であることを強調する。

「たとえば一九六六(昭和四十一)年六月九日――

 朝 ごはん、味噌汁(キャベツ、卵)、牛肉、でんぶ、うに。
 ひる お好み焼、スープ。
 夕 ごはん、塩鮭、キャベツバター炒め、茄子とかき玉のおつゆ。
 お汁粉を作って食べた。

 一見、情緒とは無縁の『もの』の記述に過ぎないが、いや、そのように見えるのだが、嚙みしめて読むと、これらの言葉には、百合子さんの『食べることへの強い興味』が裏打ちされていることに気がつくのだ。」
 
ここら辺りはちょっと苦しい。私は右の例を写したから、思わずどんな味だったろうと、それぞれの料理を舌に転がし想像したが、ただ読んだだけなら、やはり「情緒とは無縁の『もの』の記述」に、過ぎないのではないだろうか。
 
そこで焦点は、実は校條さんの探求そのものに移っていくのである。

「山の別荘は夏場に利用するところだと思っている人が多いだろうが、空気の澄んだ秋の高原の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。そういうとき、『何ていいところなんだろう』という百合子さんの声が再び聞こえてくるのだ。」
 
ここでも「百合子さんの声」をバックに、メインは校條さんの、秋の高原の筆舌に尽くしがたい素晴らしさが、歌われている点だ。
 
ところで武田泰淳は、どういう作家であったのか。この時代、編集者として名を成した人が、次から次に出てくる。その名前は省略するが、「その他、毎日新聞、岩波書店、筑摩書房、新潮社などの編集者が山荘を訪れてきたり、電報や管理所を通して連絡を寄越したりと、当時の泰淳の売れっ子振りに驚いてしまう。」
 
そういう作家だったのだ。
 
編集者の付き合い方も、現代とはだいぶ違う。

「東京の出版社が電子メールどころか、ファックスもないような状況で電車を使い河口湖駅まで来て、そこからタクシーを使って、あるいは東京からタクシーあるいはハイヤーを雇って、直に山荘に到着して来ている。〔中略〕編集者のほとんどは日帰りで、また東京まで折り返すのである。自動車代もさることながら、作家も編集者もそれだけの時間的に余裕があったわけだ。」
 
これは作家と編集者が、かつての幸福な日々を送った時代であった。即物的な話をすれば、1人の作家が、まず雑誌、そして単行本、現代文学の選集(全集)、作家の個人全集と、1つの作品で4度も稼いでいた時代があったのだ。
 
さらに作家の地位が違う。

「作家は一度作家になると、一生作家でいられた時代でもあった。現代では毎日のように新人がデビューして、古手の作家は定期的にある程度売れる作品を刊行していないと切り捨てられてしまうが、泰淳の時代は一旦、文壇が作家として認めると、その看板が褪せることはまず考えられなかったのである。」
 
作家は尊敬されていた。今では、作家を無条件に尊敬する人は、誰もいない。

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