モデル家族の最先端――『じい散歩―妻の反乱―』(藤野千夜)

前作の『じい散歩』は面白かった。

明石新平、89歳、妻の英子、88歳。3人の息子たちがいて、長男と3男は同居している。長男は10代からひきこもり。3男は借金を抱えつつも、なお一獲千金を夢見て、親からカネを引き出そうとしている。次男は自称、長女、つまり女性の格好をしたトランスジェンダーで、若い男と近くに暮らしている。
 
今回はその続編。新平も英子も、ともに90歳を超えている。
 
前作の終わりに、妻の英子が倒れ、車椅子での介護が必要になり、新平は前のように、気ままに散歩に行けなくなった。
 
とは言っても、ヘルパーたちの来ている時間に、こっそり散歩したりする。そうでないと、「じい散歩」にならない。
 
しかしそれでも、そのチャンスは少なくなる。その代りに浮上するのは、家族の問題である。
 
前作では僕も一緒になって、椎名町から池袋のあたりを散歩するのが、楽しみだった。

学生の頃、西武池袋線の中村橋や江古田には、日大芸術学部の友だちが何人かいて、その友だちのところへ何泊もして、映画を観たり、麻雀をしたり、喫茶店でただ無意味にだべったり、夜になっても、明け方になっても、日が変わっても遊び続けるのは、本当に面白かった。
 
だから、前作『じい散歩』に出てきた喫茶店やレストランは、懐かしさで涙がこぼれた、といっては言い過ぎになるが、それでもとにかく懐かしかった。
 
今回は明石新平の、終活に向かう諸々の事柄と、妻・英子との死と別れ、そして3人のどうしようもない息子たちとの葛藤が、主たるテーマである。
 
新平は、子どもであっても、最終的には好きに生きろ、と相手を認める父親である。揃いもそろって結婚もせず、長男はひきこもり、次男はトランスジェンダー、3男は山師タイプで、ずっと親から借金をしている。
 
さすがに新平も、俺は甘いから育て方を間違えた、と思わないではないけれど、しかしそんなことを後悔してもしょうがない。結局、自分の生きたいように生きるのが一番だし、それ以外に生きる道はない、と達観している。
 
主人公が達観しているから、面白いと思って読んでいるが、よく考えてみれば、3人の子どもとの関係は、こういう言葉を使ってよければ、かなり悲惨だ。もしこの一家を近くで見ていれば、何とかならんか、と思わないではいられないだろう。
 
しかし、読み進めて終わりまで来れば、案外いまの家庭の一つの典型ではないか、という気もしてくる。
 
自民党が金科玉条お守りにしている、夫婦2人と子ども2人の家庭。夫は外へ働きに出て、妻は専業主婦というのは、日本の歴史の中でも、第2次大戦後に現われた高度成長時代の、特異ケースに過ぎない。
 
今はそういう典型が成り立たない時代だ。そう思ってこの小説を読めば、主人公の達観は、かなり戯画化してはいるが、そういう意味ではこれもありなのだ、ということが深く納得される。
 
とはいっても読んでいるときは、あれこれ考えずにすいすい読めて、思わず笑いが洩れる。
 
妻の英子が臨終を迎える場面。

「〔次男の建二が〕顔を上げて、新平のほうを見た。
『ねえ、お父さんがキスしたら目が覚めるんじゃない?』
『ふん』
 と新平は笑った。くだらない。揃って九十代半ばの両親になにを言うのだろう。本当に自分はふざけた息子ばかり持ったものだと、新平はしみじみ感心する気持ちになった。」
 
この「しみじみ感心する気持ち」というのが、新平の度量の大きさを示している。
 
そして行きつくところは、どんなときでもこの一点。

「でも、まあ好きに生きればいいさ、本人が幸せならいい」。
 
そういうことである。
 
最後の奥付対向ページに、「初出」は「『小説推理』二〇二二年五月号~二〇二三年八月号」とあって、そのあとに「(二〇二三年五月号除く)」と出ている。
 
これが問題だ。単にその号は、藤野千夜が連載を落としたのか、それとも連載はしたけれども、単行本にするときに、さしさわりがあって落としたのか。
 
もし、さしさわりがあって落としたのなら、ぜひ読みたいものである。

(『じい散歩―妻の反乱―』藤野千夜、双葉社、2023年10月21日初刷)

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