かくも豊かな疑問――『飛ばないトカゲ―ようこそ! サイエンスの「森」へ―』(小林洋美)(6)

こんなことがあるんだ。2人の人間が10分間、相手の目を見つめ合っていれば、どうなるか。そういう実験である。
 
通常、人は見つめ合ってるといっても、たとえ恋人同士でも、数分間だろう。10分間、見つめ合っていればどうなるか。
 
Caputoは長時間見つめ合っていれば、「幻覚」が生じることを、発見してしまった。2010年代の一連の論文で、それを明らかにしている。

「実験はとても簡単なのだが、結果はすごい。二〇人の参加者全員が何かしらの幻覚を見てしまったのだ。たとえば、相手の顔が自分の顔や知り合いの顔になったり、知らない人の顔や幼児の顔になったり、イヌやネコといった動物の顔やモンスターになったりもしたそうだ。」
 
にわかには信じられない話だ。
 
人は長時間見つめ合っていれば、幻覚が生じる、というようなことが、21世紀になって、初めて明らかにされるとは。
 
そればかりではない。Caputoは、鏡に映った自分の顔の、目を見るだけでも、幻覚が生じることを発見している。
 
著者は驚くとともに、自分の顔を見るだけなら簡単と、試してみることにした。

「窓からの薄ら明かりの中で、鏡に映る自分の目をじっと見たのだ。すると一分もしないうちに顔が動き始めた。最初に鼻と口が消えた。びっくりしてまばたきをしたら、鼻と口は元に戻ったので安心したら、今度は眉毛がぐんぐん伸び出し、メキシコの画家であるフリーダ・カーロのような眉毛になったのだ。そのうち、鼻や口が動き始め、パブロ・ピカソの描く帽子をかぶった女性たちのようないびつな顔になったのである。」
 
著者はさすがにびっくりした。自分の顔は毎日見ているのに、じっと見ていると、こんなふうになるなんて。
 
著者の鼻や口が消えたのは、錯視現象やゲシュタルト崩壊などを使って、説明できそうだが、自分の顔が動物の顔になったり、別の人の顔になったり、モンスターになることは、錯視現象などでは説明できない。

「自己を投影したら顔がモンスターになるというのは、何とも不思議だ」、というのが著者の感想である。

しかし私は、ゾーッとしつつも、逆に納得した面もある。じっと見ていると、人は誰でもモンスターになるというのは、つまり、そういうことではないか。人間の本性はモンスターだ、ということではないか。

ちなみに私は、自分の顔を10分間、鏡で見たりはしない。だってそこに映ったのが、モンスターだなんて、怖すぎるじゃないか。
 
今回ブログで紹介したのは、60余篇のうち、10篇に満たないものだ。それは紙数が限られているというよりは、1テーマわずか3ページで、文章が凝縮されていて、説明するのが難しいからだ。
 
なぜそういう、律儀で端正な文章で書かれているかと言えば、この本は科研費から援助をうけた、と最初に書かれているから。つまりこの本は学術書なのだ。
 
私が編集をしていたのは、もう10年も前のことだ。そのころ、文科省の出す科研費を受けるためには、著者に印税を払ってはいけない、その本で儲けてはいけない、だから部数は絞り込んで、定価は学術書にふさわしく高定価しなくてはいけない、といろいろと注文がついた。
 
たぶんその辺りは、変わっていないだろう。だからこの本は、とり・みきの面白い装幀にもかかわらず、カッチリした文章で書かれており、並製・224ページにしては、びっくりするくらい高い定価(2750円)がついているのだ。

しかしもちろん、高定価の価値は十分にある。

(『飛ばないトカゲ―ようこそ! サイエンスの「森」へ―』
 小林洋美、東京大学出版会、2022年2月21日初刷)

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