田中晶子が「手話」の教室に通い出して、もうすぐ2年目が終了する。
そこで動脈乖離を起こして、緊急手術となったわけだ。
手術に成功したのち、退院したら何をやりたいか、というメールのやり取りをしていて、手話は続けたいと言ってきた。
今年の4月からは3年目に入るのだが、その前に進級試験がある。それは1月の末だから、病気のために間に合わない。
外部からの受験者も入れて、3月にもう一度試験があって、そこを受けたいという。
立派なものだ。60歳を過ぎて、勉学に燃えるとは。
私は右半身が麻痺で、手話はできないから、せめて手話を使ったミステリーとして名高い、この本を読むことにする。
荒井尚人は昔、警察にいたが、警察官全員で出金をごまかし、裏金を作るやり方に我慢ができず、内部告発をして警察を追われる。
食い詰めた尚人は、ただ一つの技能、手話を生かして、手話通訳士になった。
尚人はなぜ、手話ができたのか。
彼は、耳が聞こえない「ろう者」同士の間に生まれた、耳の聞こえる子どもだったから、家族で喋るのに、手話は必須だった。
こういう子供を、英語ではChildren of Deaf Adults(「ろう者の親の子ども」)、頭文字を取り、略してCoda(コーダ)と呼ぶ。
荒井尚人は、自分が「コーダ」であることが、やりきれない。著者は主人公を、そういうふうに造形している。荒井尚人は、ろう者と聴者の中間にあって、どちらにも属さないものだ、と。
ここは非常に難しいところで、なぜ彼がやりきれなさを負っているか、私は最終的には納得がいかなかった。
事件は、過去と現在が交錯して、ろう施設の責任者の、わいせつな罪が明るみに出る。そして、それに復讐する姉妹の悲劇的な犯罪が、浮き彫りになる。
その核心に入っていくところで、いろいろな「ろう者」と、何種類かある手話、また聴覚口話法などが説明される。
聴覚口話法とは、障害のある聴覚を、補聴器や人工内耳で補い、聴覚を利用する口話法である。と言っても、もう一つよくわからない。この辺は後で妻に聞こう。
登場人物の一人が言う。
「自分たちはdeaf(単に耳が聴こえない者)ではなく、Deaf(ろう者)なのだ」。
つまりその主張は、「障害者」という病理的視点からしか語られなかった「ろう者」を、「独自の言語と文化を持つ集団」と捉え直したところにある。
「ろう者にとっての言語とはあくまで『日本手話』のことであり、『日本語』は『第二言語』に過ぎない。文化もまたしかり。従って、日本手話と同時に日本語も解し、日本文化も受容するろう者は、二つの言語を持ち二つの文化を知る『バイリンガル・バイカルチュラル』な存在として定義される。」
付け加えておくと、「日本手話」と「日本語手話」は別物である。「日本語手話」は日本語がベースで、あらかじめ日本語を習得した中途失聴者や難聴者が、使っていることが多い。
それに対して「日本手話」は、独自の文法体系を持っていて、語順も日本語とは違う。これは生まれつきのろう者が、使っていることが多い。
うーん、外から見ている分には、正直分かりにくい。
けれどもその主張は、「これまで障害者として健常者より劣った存在とされてきたろう者に、誇りと自信を取り戻させ」たのだ。
差別されている人の気持ちは、結局その人でなければ分からない。
しかしこの「急進的な」主張は、ろう者と聴者の両方から、激しい批判を巻き起こしたのだ。
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