山田太一が死んだ――『飛ぶ夢をしばらく見ない』(山田太一)(1)

山田太一のエッセイ集『その時あの時の今―私記テレビドラマ50年―』を読みながら、山田太一の全集ができないものか、できたら面白い、とブログに書いた。
 
それから少し経って、山田太一が死んだ。11月29日のことだ。
 
山田太一の全集といえば、『飛ぶ夢をしばらく見ない』が、諸作品の中心に来ることになる。私はそう思っている。
 
とはいえ37年前に読んだ本で、よく覚えているつもりだが、念のためにもう一度読んでおこう、と思って読みだしたのが、11月29日だった。
 
こんなことってあるんだ。もちろん、しょっちゅうではないにせよ、あることはある。それは当然だ。
 
山田太一が、この世におさらばするときに、ふと見れば夜中に、『飛ぶ夢をしばらく見ない』を開いているのが見える。一声掛けとこうか、となるんじゃないか? ならないか。
 
とにかく私は、そういうふうに感じた。
 
これは1人称の「私」が、1人の女、それも徐々に若返っていく女と、付き合う話だ。
 
そういうと、ファンタジーだと思う人が出て来そうだが、厳密にはそうではない。67歳から徐々に若返っていく女、以外のところは、徹底してリアリズムなのだ。
 
37年前に読んだときは、ただ圧倒されて、強烈なファンタジーとしてしか覚えていなかった。
 
今度読んだときは、女が妖精のようである以外は、徹底したリアリズムで、これはこれで圧倒された。
 
そのリアリズムは、そぎ落とした、彫刻のような文章で、しかしレーモン・ラディゲのように、静止した文体ではない。彫刻刀で言葉を彫って、それが動き始めるのだ。
 
一つ、例を引く。

冒頭、「私」が入院している病院で、女がひょんなことから同室になる。2人の間はカーテンで仕切られていて、顔を見ることはできない。

「しかし、女の声は明るかった。私もつられておしゃべりになる。
『今日の私は、何処〔どこ〕か気取ったところがあって、こともあろうに詩を誦んだり』
『いけません?』
『きっと、あとで声が出るでしょう』
『どうして?』
『羞ずかしくて』
『何故いけないかしら?』
『似合わない』
『そうかしら? お声だけ聞いていると、ちっともそうな風には思えないわ』」
 
カーテンで仕切られたまま、2人はとめどなく話し、とうとう言葉だけで性交してしまう。「私」は、ティシューの中に射精した。
 
翌日、看護婦が、間にあるカーテンを乱暴に剝ぎ、女は白髪の老婆であることが分かる。

「私」にはどうしようもない、行き場のないやりきれなさだけが残る。
 
しばらくして、女は会社に電話を架けてくる。「私」は、会うつもりはない。なにしろ70歳くらいの老婆だから。
 
けれども女は突然、現れる。すでに老婆ではなく、ふくよかな中年女として。「私」はそこで初めて、生身の女を愛〔いつく〕しみ、性行為に没頭する。
 
その後、何度か、女は「私」の前に現われるが、そのたびに若返り、その度に心行くまで性行為を愉しむ。
 
最後に「私」の前に現われたときは、4,5歳の幼女だった。しかしもちろん、中身は67歳の老婆なのだ。
 
女が童女であれば、直接の性交はできない。「私」はひたすら性器を舐め、女はどこまでも、そういうことをさせて満足する。
 
そして最後、幼女は人ごみに紛れて消えていく。
 
やはり中心は、一編のファンタジーなのだが、今回読み終わったときには、なぜこういう作品を書いたのか、ということが疑問として強烈に残った。
 
それがいつまでも頭を去らず、そして4,5日たつうちに、正解の尻尾らしきものを捉まえた。

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