並みのキャメラマンじゃない――『誰かが行かねば、道はできない―木村大作と映画の映像―』(木村大作・金澤誠)(2)

『八甲田山』は、新田次郎の『八甲田山 死の彷徨』が原作である。その『八甲田山』で木村大作が、回想シーンについて、興味深いことを述べている。

「橋本〔忍〕さんは回想シーンが好きだよね。製作とシナリオを担当した『砂の器』(74年)でも、クライマックスのところで親子が旅をする長い回想シーンが入る。あれで観客は感動したわけだから。でも、俺は回想シーンが好きではない。」
 
話はこれだけ。あとは続かないので、木村大作がなぜ、回想シーンが好きではないのかは、分からない。
 
僕もどちらかと言えば、回想シーンは好きではない。特に『砂の器』は回想シーンが、これでもかと入ってくるため、再見するのは遠慮したい。感動の押し売りは逆効果だ。
 
もう一つ、回想シーンが好きではないのは、たいていは事情を語ったり、謎解きに当てられるからだ。
 
これが黒澤の『羅生門』のように、回想と見せて、作品をぐいぐい前に推していくものであれば、事情はまったく異なる。

『八甲田山』は、ともかく木村大作にとっては、エポック・メーキングな作品であった。

「今見直すと、技術的には目を覆いたくなるようなところがたくさんある。でも、もう一度ああいう撮影をしろと言われても絶対にやれない。」
 
エポック・メーキングな作品というのは、そう言うものだ。とはいっても、これだけでは何も分からない。続く会話はこうだ。

「あの現場では、人と人とが闘うことでしか成り立たないことが山ほどあったから。それを経験したことで、映画には技術を凝らしてやっていくという方法論もあるんだろうけど、俺は違う道を歩みながら映画を作っていきたいということになってしまった。そういう意味でも、俺のその後を決定付けた作品なんですよ。」
 
技術的には目を覆うような、けれどもそれだから、かえって真実が剝き出しになっている作品。そういうものを撮ってしまったら、もうそこからは引き返せない。『八甲田山』は、そういう作品だった。
 
角川映画『復活の日』では、深作欣二監督と組み、そして丁々発止やり合った。

「深作さんとは意地の張り合いだったことはあるな。深作さんは、キャメラを覗きたい監督。でも俺は絶対に覗かせないキャメラマン。身長は俺のほうが頭一つ高いから、何かの台に乗らないと監督は覗けない。俺は監督が乗れそうな台を、助手に指示して排除しておくんだから。深作さんはロングショットを嫌う人だから、サイズに関してはよく論争したよ。」
 
ここで思わず深作の、一連の『仁義なき戦い』を思い浮かべる。そういえばあの中で、ロングショットは広島の原爆ドーム以外にはなかった。
 
次の『駅 STATION』も高倉健・主演である。木村大作と高倉健の絆は、ますます濃くなる。

「健さんは、その場面に出ている俳優に感動するとか、そういうことが芝居に影響するね。『あの人には感じるよ』という言い方をするんだ。そう感じると若手でも応援するし、健さん自身もノッてくる。逆に『大ちゃん、あいつには何も感じないんだよな』と健さんが言った俳優がいると、本当は二人一緒に撮らなくてはいけない場面でも別々に撮るね。」
 
ふーん、そういうものなんだ。
 
『駅 STATION』は降旗康夫の監督だった。木村大作にとっては、初めて組む監督である。

「降旗さんはほとんどこだわらないよ。それで、『やったことの全責任は自分が取ります』というタイプの人で、『変わったからと言って何ほどのものだよ。たかが映画じゃないか』という境地にいる人だと、俺は思うんだ。だから、このときにも俺がキャメラをやることには何も言わなかった。」
 
紅谷愃一の『音が語る、日本映画の黄金時代』でも、降旗康夫にページを割いているが、ここまで大人然〔たいじんぜん〕としては、出てこなかったと思う。木村大作は降旗康夫を、無条件に敬服していると思う。

「『たかが映画じゃないか』という境地」というのが、素直な尊敬の感情が溢れるのを、よく表わしている。

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