並みのキャメラマンじゃない――『誰かが行かねば、道はできない―木村大作と映画の映像―』(木村大作・金澤誠)(1)

映画キャメラマン、木村大作の聞き書きである。聞き手は金澤誠。

そう、金澤誠は『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』で、録音技師・紅谷愃一を取材して原稿にし、さらに驚くべき詳細な脚注を付した人である。
 
その緻密な本作りに唸らされたので、木村大作のも読んでみることにした。

木村大作の映画は、僕が知っているのを挙げると、『日本沈没』『八甲田山』『復活の日』『駅 STATION』『海峡』『居酒屋兆治』『火宅の人』『あ・うん』『誘拐』『鉄道員』などがあって、監督作品に『劔岳 点の記』がある。
 
まず「はじめに」でこう言う。映画監督が芝居を担当する演出家だとすれば、木村大作は芝居をする場を作る「撮影〝現場〟監督」である。

「ロケ地の選定、キャメラアングルと撮影の狙いに即した美術セットの建て込み、俳優が画的に生える衣裳の見立て。さらには最も効率的な予算の使い方に至るまで、映画作りのすべてに自分のエネルギーを投入する。そういう事前の準備をすることで、撮影現場には最高のセッテイングが用意されることになる。」
 
なるほど、並みのキャメラマンとは違うということか。
 
木村大作は1958年4月に東宝に入社して、5月には黒澤明組の『隠し砦の三悪人』に就いている。といつても、研修期間に教わったのは、キャメラの担ぎ方くらいだった。
 
その他の黒澤映画で、助手で入ったものは、『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』『どですかでん』などである。助手と言っても、『隠し砦の三悪人』のときはいちばん下っ端で、『どですかでん』のときはチーフ助手だった。
 
うーん、それにしても入社した翌月から、すごいことになっている。
 
当時は森繁の「社長」ものや、加山雄三の「若大将」ものが全盛だったけど、木村大作はまったくやっていない。
 
ほかは、岡本喜八組は『独立愚連隊』から、成瀬巳喜男は遺作の『乱れ雲』1本だけ就いている。

「成瀬さんはカチンコの部分を外してそのまま繫げば、映画ができたというぐらい、余分なものを撮らないんだ。黒澤さんも成瀬さんを尊敬していたよね。」
 
こういうこぼれ話的なところに、面白さがひそんでいる。もっとも、黒澤が成瀬巳喜男を尊敬していたというのは、僕が知らないだけで、有名な話かもしれない。
 
木村大作がキャメラマンとして就いた映画の話も、個別に面白いが、それよりも、もう一段深い話が、より面白い。
 
たとえば『八甲田山』を撮って学んだこと。

「大体キャメラマンがいいと思って撮ったところよりも、失敗したと思ったシーンのほうが評価の高いことがよくある。そういう経験をしていくと、つくづく技術って何なんだろうと思うよ。」
 
あるいは高倉健が、「今日確かに、自分は雪の八甲田で(神田大尉に)会いました」といったきり、そのあと台本1ページ分くらいのセリフが、言えずにいたこと。

神田大尉(北大路欣也)は棺の中にあって、開けたとき初めて高倉健と再会したのだ。高倉健はあとが続かなくて、ただ涙を流していた。
 
そのままフイルムを廻し切ったところで、森谷司郎監督が「OK」と言い、続けて木村大作も「OK」と言った。
 
橋本忍の脚本は、高倉健の神田大尉に対する、自分の気持ちを語っていた。しかし高倉健は、「雪の八甲田で会いました」という1行のセリフと、あふれる涙だけでそれを表現してしまった。

「そういう現場を通り抜けて来て、いろんな俳優を見ていると、演じることの技術って何なんだろうと思うよ。俺は建さんのような人が、本当の意味での俳優だと思っている。」
 
ここまでくると、高倉健の評価は別にして、演技とは何か、は本当に難しいものだと思う。

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