ああ、勘違い――『東京島』

桐野夏生は、僕には徹底的に合わない。『柔らかな頬』も『グロテスク』も、途中までは面白いのだが、あるところからヨレていく。作家は、虚空に花を摑んだつもりなのかもしれない。しかし花束ではなくて、何か得体のしれないもの、せいぜいが造花に過ぎない。

「真実」を辿って書いていけば、考えてもいなかったところに出るというのが、長編作家の最も大事な資質だろう。
 
桐野夏生も、そういうところを狙っていると思う。しかし「真実」を探求して書いてはいないと思う。

『東京島』は、設定がはっきりしている分、著者が書きながら、とんでもないところに出たとは、ならないのではないか。そう思ったのだ。
 
で、読んでみると、これはひどいと言うしかない。
 
カバー裏の惹句で、粗筋を辿っておく。

「清子は、暴風雨により、孤島に流れついた。夫との酔狂な世界一周クルーズの最中のこと。その後、日本の若者、謎めいた中国人が漂着する。三十一人、その全てが男だ。〔中略〕求められ争われ、清子は女王の悦びに震える――。東京島と名づけられた小宇宙に産み落とされた、新たな創世記。谷崎潤一郎賞受賞作。」
 
この小説は雑誌「新潮」に2004年1月号から2007年11月号まで、15回にわたって断続的に掲載された。執筆に賭ける、驚くほど粘り強い意志だが、その割には一篇を通して、ダイナミックな流れというものがなく、はっきりしたクライマックスもない。
 
文庫の「解説」を、佐々木敦という批評家が書いている。
 
そもそも『東京島』は、第一章をもって読み切り短篇の予定だったという。

「だが、書き終えた時、まだ『続き』が有るということに気付いた作家は、それから連作短篇のような形式で、物語を継いでいくことになった。今こうしてあるように完成した長篇として読むと、とてもそんな経緯があったとは思えないのだが、しかし桐野小説の近作の多くが、実はほぼ似たような形で書かれているのである。」
 
さもありなん。完成したものを見ると、そういうふうにして書かれているな、という気が強くする。つまり途中からヨレている。

「雑誌や新聞に連載された長篇でさえ、事前に綿密な取材や準備を行いながらも、いざ執筆が開始されてみると、言葉と物語とそこに生きる登場人物たちは、作者である桐野夏生自身さえも予めは想定していなかったほどの思いがけぬ方角へと、勢いをつけて転がってゆくことがあるのだという。」
 
その結果、作者の手には負えない、ぐしゃぐしゃのものが出来上がる。その一篇に、題して『グロテスク』とは、付けも付けたりという気がする。

「小説の姿をした『虚構』が暴走を始めた時、それを押し止めたり制御しようとするのではなく、それを思うさま何処ともなく走ってゆかせる底知れぬ度量が、桐野夏生にはある。」
 
それは作家の度量云々ではなく、要するに締まりがないだけ。そこでは、書くことだけが「真実」に迫っていけるというのを、才能のない作家が、上辺だけ真似をしているに過ぎない。

「『東京島』の物語を通しての「清子」の変化――それはほとんど人格が変わってしまったかにさえ思えるほどの甚大なものだが――は、老衰とか枯淡などと呼ばれるような経年による自然なそれとはまったく別の異様な変化と言えるが、しかしそれは彼女が特別な存在であるからではなく、いわば条件さへ揃えば誰にでも起こりうることなのだ。」
 
それはすべての女性が潜在させているものだ、と桐野夏生は言いたいのだろう。佐々木敦はそう言う。
 
駄法螺もいいかげんにしろと言いたい。長い時間、かってに書き溜めていった結果、作者における統一した人格が、失われただけのことだ。

これはしかも、すべての人物においてそうなのだ。桐野夏生、大丈夫か、と言いたくなる。

その結果、惹句にあるような「新たな創世記」では、全然ないし、谷崎賞は、ああ勘違い、としか言いようがない。

(『東京島』桐野夏生、新潮文庫、2010年5月1日初刷、6月10日第3刷)

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