3部作の、その先へ――『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』(1)

著者は菊地史彦氏、トランスビューで、『「幸せ」の戦後史』、『「若者」の時代』を出していただいて、3部作の掉尾を飾る『「象徴」のいる国で』を出そうと考えているときに、私が脳出血になってしまった。
 
菊地さんには本当にご迷惑をおかけした。3作目は作品社で出された。
 
そして『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』も、同じところから出された。
 
菊地さんのテーマは日本戦後史、もっといえば日本の戦後社会史である。それはフレデリック・ルイス・アレンの『オンリー・イエスタディ』を、自身を巻き込みながら、さらにきめ細かく探求していくものだ。
 
3部作が完成して、次は各論に入っていく。それが今度の本なのだ。
 
そうはいっても、テーマは「沖縄」、簡単ではない。書き手がどの位置から書くか、そこが問題であり、書き手だけではなく、読者の方も緊張して読むことになる。

しかし私は、特に個人的に、沖縄に興味があるというわけではない。第2次世界大戦の末期、沖縄は地獄を見た。そして戦後の基地問題。そういうことと、沖縄が好きだというのとは、違うことだ。

そういう意味では私と、菊地さんがこの本を書く姿勢には、ずれがある。だからここでは、興味に応じて、自分が惹かれたところを挙げていこう。
 
NHK朝ドラの『ちゅらさん』は、2001年の上半期、朝ドラとしては初めて沖縄を舞台にした。視聴率は22・2%で、この時期では並の数字だった。ただし人気は根強く、続編がパート4まで作られ、このドラマが「『沖縄ブーム』の駆動力の一つになったのも確かなことである」、と著者は言う。
 
そしてそこから踏み込んで、こうも言う。

「『ちゅらさん』は、一貫して沖縄の悲劇的な歴史に言及しなかった。少なくともおばぁは沖縄戦を体験した世代だが、彼女の科白に『戦争』はついに現れなかった。〔中略〕結局、『ちゅらさん』には、米軍基地も暴行事件も登場しない。それは沖縄の現代劇である以上、却って不自然な印象を与えた。」
 
まったくもってその通り。しかし「朝ドラ」で、沖縄の真実を直視することは、かなり難しいだろう、という気がする。
 
そして本土復帰50年目の2022年、朝ドラで『ちむどんどん』が放映された。これについても、著者は厳しいことを言う。

「ヒロインの比嘉暢子〔ひがのぶこ〕は他者への配慮なしに、自分のやりたいことに夢中になってしまい、たびたび悶着を起こす。自らの決心を人前で宣言する癖があり、彼女に共感できない人間の反発を招いてしまう。要するにかなりの自己中心主義。」
 
ほとんどバカと紙一重であり、これを素直に演じた黒島結菜は気の毒であった。
 
さらに、ヒロインのパートナーを務める本土の男性が、沖縄ものでは、このドラマを含めて、必ずヒロインよりも上層の階層に属している。
 
もちろん男女の婚姻譚では、今もシンデレラストーリーが、通俗的には幅を利かせている。しかし著者は、その先を推測する。

「それだけではない。本土の視聴者には(たぶん沖縄の視聴者にも)、こうした階層差のある男女の関係はごく自然に受け入れられている。だから脚本家たちは、あまり悩むことなく、この関係を踏襲している。」
 
ここでいったん結論を出しておいて、最後にもう一度、NHK朝ドラの沖縄ものについて、きっぱりと断言する。

「きっとつくり手たちは、ふと沖縄に向き合ったとき、それが見慣れたリゾートアイランドではなく、さまざまな理不尽や不可解が散乱する複雑な現実であることに気付くのだ。沖縄っていったい何なんだ? そんな戸惑いにしばらく足を取られると、ドラマをつくる人々は(その手練れと忙しさゆえに)、極端な人物造形やステレオタイプへ、一挙に舵を切るのだろう。もちろん、それもプロの仕事振りの一つだが、そこでは、沖縄を描くことの本当の難しさは言い出されないままなのだ。」
 
そうもいえるだろう。
 
しかし沖縄が、「さまざまな理不尽や不可解が散乱する複雑な現実であることに気付」けば、そういう衝突、特にNHKの枠を超えて政治問題化するのを徹底的に避けようとすれば、「極端な人物造形やステレオタイプへ、一挙に舵を切るの」は、当然ではないか。

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