A級順位戦の最終日に――『挑戦―常識のブレーキをはずせ―』(1)

2日前の3月2日は、第81期A級順位戦の最終日、俗にいう「将棋界の一番長い日」で、全員一斉対局がある。藤井聡太と広瀬章人八段が、これまで6勝2敗でトップを走り、勝った方が名人戦挑戦者になる。どちらも勝ったら、改めてプレイオフで勝敗を決める。
 
そういう日にちなんで、藤井聡太と山中伸弥の『挑戦―常識のブレーキをはずせ―』を読んでみる。
 
ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥と、このころ(2021年12月)、史上最年少四冠を達成した、将棋の藤井聡太の対談本である(藤井は現在、五冠王)。
 
山中伸弥が1942年生まれ、藤井が2002年生まれ。40歳違いの2人が「対談本」を出すという。果たして成り立つのか。
 
全体を読み終えてみると、微妙ですね。藤井聡太は、大半はいつも言っていることだし、山中伸弥の方は、IPS細胞のことを話すけれども、これは藤井聡太では難しい。というか自然科学者でなければ、相手をするのは難しい。
 
それでもなお、藤井は新しいことも言っている。それらを拾ってみる。
 
まず藤井の「はじめに」のところ。山中伸弥の豊かな知識と経験から、話は「勝負のあり方から若返りの可能性、人工知能の未来、人間の可能性まで、さまざまな方面に」及んだ。

「なかでも印象に残ったのは、異分野の知識に触れることがIPS細胞発見への弾みになったという体験談、それから成功確率が低くても人間が信念や直感に基づいて進んだ道が別の新しい発見につながることがある、というお話でした。」
 
特に前段、異分野の知識に触れることが、ブレイクスルーの要になることがある、という話。だから藤井は、山中伸弥と対談しているのか。
 
さらに対談中のセリフをいくつか。

「藤井 けっこう時間をかけて指した手の後に、まったく予想していなかった有力な手を指されると、そのたびに読み直すことになって大変なんですけど、それはそれで対局の面白さの一つです。そういう経験が将棋に対する自分の見方を変えてくれたりして、すごくいい経験になると思っています。」
 
ここでは、タイトルを防衛するとか獲りに行くとかは、問題にされていない。自分にとって見方を変えてくれるもの、それが将棋なのだ。
 
これでは他の棋士たちは大変だ。他の棋士たちはみな、タイトルを獲りに行くことを目標としている。

対して藤井はそうではない。彼にとって将棋は、「すごくいい経験になる」もので、タイトルはその過程で落ちているもの、という表現がきついとすれば、途中で摘み取っていく果実のようなものである。ここは他の棋士たちと、まったく違うところだ。
 
一局を終えた後、感想戦についても、面白いことを言っている。

「藤井 とくに負けた将棋だと、改善すべき点をフィードバックして、次につなげていくことが大事だと思います。『感想戦は敗者のためにある』という好きな言葉があって、感想戦の意義をよく表した言葉だと思います。」
 
感想戦は敗者のためにあるというけど、藤井聡太は年度別でも全期間通算でも、勝ち数は8割を超えている(これは驚異だ!)。めったに負けないから、「感想戦は敗者のためにある」という言葉が、深く納得できるのだろうか。
 
それに続けて、「やはり負けた将棋のほうが、印象に残っていることが多いと思います」と述べている。
 
負けた将棋は、負けになったところが分かれば、納得して貯めこまない、ああでもないこうでもないと、いつまでも考えているのは、あとの勝負に悪影響をもたらす、と言った名人大山康晴とはだいぶ趣が違う。

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