フェミニズム小説なんかじゃない――『別の人』(6)

第二部13章は「ガンヒョン」。あの口の臭う教師だ。この章を読むと、作者のカン・ファギルは、大学教師をしているエセ知識人を、露骨に憎んでいるとしか思えない。
 
イ・ガンヒョンは、すり寄ってくるドンヒを信用しない。彼女は、男も女も信じない。自分以外の誰にも関心がないのだ。

「女はどの瞬間もそんな目に遭ってるんだよ。生まれたその日から顔がきれいかどうか品定めされる。足を広げていると行儀が悪いと背中をぶたれ、成績がよくても医者か判事か検事になれないなら公務員試験あたりを受けろと言われ」る。
 
カン・ファギルがフェミニストと呼ばれるのは、この辺りの憤懣、憤りを指しているのか。しかしイ・ガンヒョンは、フェミニストの皮を被った、たんなる利己主義者に過ぎない。

「イ・ガンヒョンは教授たちが真に望むものをそっと探り当ててやり、自分の望みのものを手に入れる。どんな地位にも欲のないフリ、仕事を頼めば文句も言わずにやるフリ、フリフリフリ。やさしくて従順な女のフリ、競争心のないフリ、フリフリフリ。ところが、ある時から人々はイ・ガンヒョンをフェミニストと呼ぶようになった。」
 
こう見てくると、韓国でフェミニストと呼ばれるのも、一筋縄ではいかないことがわかる。

「男たちにとって都合の良い自立した女。未婚だがいつでも結婚するつもりがあり、男たちのやることにしゃしゃり出てはこないが金は公平に出し、下ネタやセクハラに近い冗談にも目くじらを立てず、男たちが二次会に行くときは気を遣って退散し、最近の女性運動はいきすぎだと指摘でき、より重要な問題に目を向けなければと口にするフェミニスト。あいつらが許容するフェミニズムを実践するフェミニスト!」
 
イ・ガンヒョンにとっては、フェミニズムくそくらえだ。

その彼女を、嫌味たっぷりに描くカン・ファギルは、作家にレッテルを貼るのは止めなさい、と言いたいのだ。彼女は、「現代フェミニズム文学の先端を走る作家」と、判で押したように呼ばれるのが、我慢ならないほど嫌なのだ。そうとしか思えない。
 
準教授イ・ガンヒョンは、鼻持ちならないほど醜くて(容貌については書いてないけれど、きっとそうだと私は思う)、嫌な女だ。私だけではなくて、だれでもそう思うだろう。そしてその分、どす黒い魅力がある。

「たまに彼女は、自分が何に突き動かされてここまで来たのか知りたくなることがある。出世欲だろうか、欲望だろうか、承認欲求だろうか。すべての言葉が正しくて、だが不正確だ。何か別の感覚にずっと背を押されて、ここまで来たらしい。なんだったのだろう?」
 
口臭のするイ・ガンヒョン、なかなか魅力的でしょう。
 
本書『別の人』は、ある時期アンジン大学に集った女子学生たちが、上手くいかない人生を、どうしたものかと考え、もがく話だが、私はイ・ガンヒョンが主役で、大学の知識人たちが醜く争う話を読んでみたい。
 
イ・ガンヒョンは母親のお腹にいるとき、堕されそうになった。

「しかしすぐに彼女は感傷から抜け出す。幼い頃のトラウマで人生が決まったとごねるような真似は真っ平だ。したこともない。彼女は今まで、自分で自分を突き動かしてきた。その瞬間、理由に気づく。生き残るためだ。ひたすら、生き残るため。男であれ女であれ、生存の妨げになるものは容赦なく排除し、飛び越えてきた。これからだっていくらでもそうするはずだ。」
 
こういう教師が、「ユーラシア文化コンテンツ学科」を牛耳っているのだ。キム・ジナも、スジンも、ハ・ユリも、そして年代は違うけどもキム・イヨンも、だれも救われることはないわけだ。

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック